札幌民主文学通信

二〇二四年〇三月〇一日 304号

 

三月例会誌上合評

 

合評作品(『奔流』30号

 

 

北野あかりいっぽ前へ!」

 

意見1           泉   脩

 

今年(二〇二三)八月末に、札幌で行われた「日本のうたごえ祭典in北海道」の出場体験記である。

一九五三年から絶えることなく全国各地で開かれ、歌声の力で平和を―を掲げてきた。会場になった真駒内芸術の森は、正面のステージに向かって、なだらかな傾斜の芝生が拡がっている、全国でもめずらしい野外コンサート会場である。今年も全国から一万二千人も参加したという。すごいことだ。

この祭典のために二冊の合唱曲集が作られ、北野さんはその二十曲以上をすべて暗譜して歌い抜いたという。残暑のきびしい三日間、八十三歳の北野さんが今生の思いで歌いあげ、またとない高揚感につつまれたことが、見事に表現されている。

 北野さんはナースの仕事を退職後、ボランティアで北大病院の組合事務所の灯を守り抜いてきた。かたわら大好きな合唱活動に取り組み、新たに札幌民主文学会にも加入した。主としてエッセーを書いていて、とても上達し、今回も素直で率直な文章がとても好ましい。

かつて合宿研究会で、亡くなった夫から習ったという民謡を拝聴したことがある。「南部牛追いうた」という岩手の民謡で、びっくりするほど迫力があり、上手だった。

 北野さんは、仕事と活動、芸能に文筆活動に生涯打ち込み、今や八十代の晩年を迎えているのである。

 北野さんとは文学会で十年余りいっしょに活動してきたが、北野さんの成長に感心してきた。私もエッセーが大好きなので、北野さんのエッセーをいつも楽しく読んできた。特にニセコスキー場での夫との出会いを書いた最初のエッセーは、ロマンチックで、とても気に入っている。今後も書き続け、いずれ一冊の本にまとめてほしいと思う。

 

意見2           松木 新            

 

舟木一夫の「歌こそ、わが人生の友」を地で行ったような歌声人生に、感動しました。

印象深かったのは、次の三箇所でした。

➀125ページ下段

〈やっぱり暗譜で歌おう! と決意を新たにして、名刺大に折りたたんだ歌詞カードを作り、歩きながらでも、バスの中でも常に確認できるようにしました〉

②126ページ上段

〈光子さんの、96才とは思えぬ、凛と響く声と、共に舞台に立った、全国のうたごえ合唱団員250名の力強い大合唱、私の背中にズシン! と響き、体中が熱くなりました〉

③127ページ下段

〈「♪ ピースinハーモニー~」と

歌っていると、不思議に元気が湧いてきます。このメッセージ性のある曲が、うたごえの魅力で体力の続く限り歌い続けようと思っています〉

  

 意見3            泉 恵子

 

昨年夏に開催された「日本のうたごえ祭典in北海道」のステージは、二日目の午後の一ステージ̪ を鑑賞しただけの私も、とても感動しました。

その参加できるステージのすべてに立ち、歌える曲の全てを、暗譜で歌おうと決意した筆者の「奮戦記」ともいえるエッセイです。

「こんな機会は二度とない」「冥途の土産に」と、意気込んで練習に励んだ努力の日々(二九曲全てを暗譜するのは驚異的!)と、その発表ステージの様子が描かれています。

「いのち輝く大地から平和な未来(あした)を」のテーマに沿った、北海道を代表する歌の題名を聞くだけでも、その大自然と、人々の生き様や闘いが彷彿としてきます。

「大地のうた」の歌詞の一部がソロの男性の声や、合唱団のこだまのような歌声が具体的に書かれ、聞こえてくるようで、他の「矢臼別・わが故郷~北からのメッセージ」などの歌詞も、一部でも知りたかったなーと思いました。

筆者が最も感動したという「芦別の雪の中を」については、客席からの歌の主人公井尻光子さんの凛とした挨拶と、その歌詞の一部が示され、読者にもその雰囲気が伝わって感慨深い描写です。 

私もそれを聞いていましたので、「思わず涙がこみ上げてきました」という感動を共有しました。

九六歳という井尻さんの闘いの中で磨かれた凛然とした姿勢に、「冥途の土産」などと言っていた自身が「お尻をバン!と叩かれたよう」といい、「どんな苦しいことがあっても前を向いて歩き続けよう」「今できることを一生懸命やろう!」と決意し、最後に「ピースinハーモニー~」と歌いながら、体力のある限り歌い続けよう」と前を向いてゆく姿にすがすがしいものを感じました。

歌の力の素晴らしさを感じさせてくれるエッセイですが、もう少し具体的な歌詞の描写があったら、より感動的だったのではと思いました。

 

 意見4          豊村 一矢

 

私は生まれたときから、歌うこと、歌を聴くことのない家庭で育ったのですが、ドキュメンタリー「いっぽ前へ!」を読んで、感動を覚えました。

 「うたごえは平和の力」という方向性を自覚し、自らの体力・記憶力の壁を乗り越え、一歩前へ進もうとする姿が印象的な作品でした。

 

 意見5          石川 節子

 

うたごえは、私に取って「青春のときめき」です。しかし、今では全く縁がなくなり、こうして北野さんのドキュメントで、であえることは、最高の喜びです。

 まるで、歌っている人々と、行動を共にしているような、錯覚に陥り、久し振りに心が湧き立ちました。

ありがとう、北野さん。

 

  意見6           室崎和佳子

 

北野さんの前向きな生き方が満載の文章で、とっても気持ちが良かったです。いながらにして私までうたごえ祭典に参加させてもらっている気分でした。

 冥土の土産という言葉遣いから、北野さんのうたごえ祭典にかける意気込みと決心がひたひたと伝わって来ました。

 ステージに立つからには暗譜で歌おう、という決意のもと、名刺大に折りたたんだ歌詞カードを作り、歩きながらでもバスの中でも常に確認して、ついに目標達成したことに感動しました。覚える量の莫大さと北野さんの並々ならぬ努力にたいしてです。

 井尻光子さんと会えて良かったですね。

 

意見7           村松祝子

 

二〇二三年八月二十五、二十六、二十七日の三日間札幌市で行われた「日本うたごえ祭典」に参加した作者のレポートである。

最初に野外で謳われた「大地のうた」の感動がいかに素晴らしかったか、ビシビシ伝わってくる文章だと思った。

どの合唱曲も素晴らしく人間の苦しみや喜びを歌い上げている様子がよく描かれていると思う。

北の大地で育った作者らしく「芦別の雪の中を」を歌うときは夫を励ます妻、井尻光子さんになって歌う作者の気持ちは瞼をしょぼつかせる。

これからも合唱で培ってきた元気を背に人生をあゆんでいこうと結んでいる。

「北海道うたごえ祭典」がいかに素晴らしかったか、作者の感動がよく伝わってきた。

 

意見8          柏原 竜

 

うたごえ祭典が昨年北海道で開催されたことは知っていたが、具体的な中身は知らなかった。八十三才の北野さんが冥土の土産として参加した祭典だった。祭典に向けての過酷な練習の日々。全二十二曲暗譜するエネルギー、毎夜十九時から二十一時までの練習、体操、発声練習 、などなど。歌に関わる人たちの強いエネルギーを感じた。その中で、北野さんは冥土の土産なんて、吹っ飛ばしていった。

北野さんの頑張りと周りの人々の助けもあって、またうたごえ自体の魅力もあって、体力の続く限り歌い続けようと変化していった。

うれしい。年を取っても頑張っている人を見ると自分の励みになる。

 

 

 合評を受けて

           北野  あかり

 

今回の「いっぽ前へ!」は、2023年8月に札幌で開催された「2023日本のうたごえ祭典in北海道」に、合唱で参加した体験を通して、生きる源になったことと、うたごえの魅力を伝えたいと思い、ドキュメントとして提出しました。

合評会では「エッセイとドキュメントの違いについて意見をお願いしたい」と問題提起しました。

合評が始まると、メンバーの方々が、青春時代に体験したことなど若々しく語られ、「情熱が伝わ

ってきた」「胸がときめいた」「実況中継しているような感じ」「うたごえ祭典が1万人以上も集めて開かれていること、うたごえ運動が脈々と繋いでいることを知ることができた」などの言葉をいただき、嬉しくて舞い上がってしまいました。

エッセイとドキュメントについては、どちらもに事実にもとづいて書くが、どちらかというと、自分の思いに重きをおいて書くのがエッセイ、事実に重きを置くのがドキュメントと理解することができました。

今回レポートを書くために、自分の作品を読み直して重大なことに気が付きました。それはタイ

トルの「いっぽ前へ!」でした。それは自ら新たなことに向かおうという意志を込めてつけたのでした。

ところが祭典が終わったあと、健康を自負していた自分にまさかの「大腸癌」の診断。入院、手

術、そして今は抗癌剤治療を受ける身になってしまいました。更に私の手術と前後して3カ月の間

に、夫の子供が肺炎で急逝。それに加えて一才違いの兄がこれも肺炎で急逝。喪主の立場や親族の

一員の立場で対応に追われる日々となってしまいました。

例会には出来るだけ休まないことにしたのですが、足が重く会場にやっとたどり着く状態でした。

ところが終わった後には、身体がホカホカとなり、力が漲っているのです。水を得た魚のようで

した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 泉 脩「私の文学作法

 

 意見1           松木 新

 

「あらすじ」について議論になりました。〈私の評論はまず、内容(あらすじ)から書いていく〉という泉さんの方法の重要性が解ったのは、この二、三年のことです。それまで、あらすじ紹介は評論ではない、と考えてきましたから、〝コペルニクス的転回〟です。

あらすじ紹介は、「言うは易く行うは難し」です。泉さんの日頃の努力に、頭が上がりません。

あらすじ紹介を尊重しながらも、文芸評論を書くときは、次の戸坂潤の言葉を、いつも念頭に置いています。

〈文芸評論は一種の時代(・・)()評論(・・)とも呼ばれて然るべきものなのである。処が時代を最もよく描いて呉れ、時代のコピーを最もよく御膳立てして呉れるものが、他でもない文芸作品だ。そこで文芸評論というものは第一に文芸作品を取り上げる。文芸作品が最も整理された媒介物だからである。文芸作品の背景には、奥には、時代があり社会がある。この作品をつき抜けて時代と社会とに迫るのが、文芸評論の本格的な使命だ。つまり所謂作品も評論も、同じく併行してこの時代と社会を取り上げる。批評も亦作品と並ぶ作品の一ジャンルと考え得る所以だ〉(「思想としての文学」)

 

 

 

 

 

 

意見2          石川 節子

 

とても、教えられることが、詰めこまれており、本当に有り難い、作品でありました。

ちょうど、合評をしているときに、泉恵子さん

が、泉脩さんの若かりし頃の新聞記事の切り抜きを持参してくださり、驚いたことに、私も、同じものを切り抜いていて鮮明な記憶が蘇って参りました。

未だ私が釧路に居た頃のことです。当時、私はあの記事に、ひと言,異論があったものですから、特に記憶が残っていたのです。

 

 意見3          北野 あかり 

 

1、評論 2、エッセイ 3、ドキュメント 4、おわりに に分けて書かれており、解かりやすくとても参考になり、合評する際や作品を書く時の指標にしたいと思いました。

〇評論を書く場合について

1 理解:作者が何を表現しようとしているのか正確につかむこと。

2 共感できることを手掛かりにして感想や評価する。

3 リスペクト:作者が自分をかけて作った作品であると思うので、尊敬・尊重すべき。

4  批判は見過ごすことができない場合は必要。

〇エッセイについては、自由に気ままに書けばよい。 常々考えていることを素直に書けばよい。旅行記、昔の思い出、音楽、野球、エッセイ日記、人との出会いなど…(人との出会いは間違えたら

大変なので、本人に確認してもらう)。

〇ドキュメントについては、実践記録で、自分がどう行動し、どんな結果になったのかを記録した

もの。

〇おわりについては、「マグロは泳いでいないと死んでしまう」、私は「読書と執筆をしなければ死んでしまう」、凄い言葉だと思いました。

 

 意見4           泉 恵子

 

高校生のころから文学に親しみ、文章に取り組んできた筆者の、自身の「文学作法」を見つめた集大成ともいえる作品である。

評論、エッセイ、ドキュメントの分野で大いに書いて、本にまとめてきた。それも十五冊目になるというからまさに、驚異的である。

どの分野でも誠実で真摯なお人柄が伺える内容で、共感を呼ぶとともに敬意を表します。

学生時代に取り組んだ「ロマン・ロラン研究会」では哲学も学び、現在の基礎ともいえる思想を身に着けたとのこと。

以来、職場における読書会、退職してからも「リラの会」そして「民主主義文学会」の中で、精力的に読み書いてきた。

視力が弱くなって活字が読めなくても、ボランティアさんに読んでもらい、拡大鏡を駆使して書いてゆく。そうした環境でも、蓄積され、鍛えられた力で次々に生み出す文章は、高い思想性と豊かな人間性が滲み出て味わい深い。その努力には頭が下がるとともに、後輩の私たちに勇気を与えてくれる。

評論を書く心構えの、「理解、共感、リスペクト」は筆者独特のもので、フランスの哲学者アランに導かれたもののようである。

この尊い心構えによる批評によって勇気づけられた人も多いだろう。時には作者の見えない点や、不足を指摘されることも書き手を鼓舞することもあるだろうと思うが。

ドキュメントの最高傑作はやはり『青春の飛翔』でしょう。荒れたクラスを見事に団結させていった実践記録は当時大変な反響を呼び、私も大いに感動した。

その時の新聞記事を偶然見つけて、拡大コピーして皆さんにお配りしたが、帰りのタクシーの中で「あれはあまり良い記事ではなかった」とポツンとおっしゃった。どうして?と思いながら、その理由を聞くことができなかったが、あまりにも真実に迫った内容が、当時の学校側の批判を呼んだらしいという噂があったことを思い出した。そんな批判とも闘ってきた筆者に、ちょっと嫌なことを思い出させてしまったかもしれない。

もしそうなら申し訳なかったと思う。

 

 意見5           豊村一矢

 

 高校生のころから現在に至るまで、様々な方法や動機に基づいて文学に関わってきて、その結果が「私の文学作法」と言葉に集約されている。

 文学で読む対象は実に多彩、文学で書くことも(小説・シナリオを除いて)これも多彩だ。

これらの背景に、学校教師として生徒たちのために、あるいは学校経営者の横暴な振る舞いに抵抗する闘いがある。

「文学作法」は文学に関わる際に文学作品への作者へ配慮、読み方への心構えなどが、理路整然とまとめられている。参考にしたい。

「あらすじ」のことについていえば、他者の作品の「あらすじ」を書けば、その「あらすじ」自体が、もはや評論であり、書いた人の作品であると私は考える。

 

 

 

 

 意見6          室崎和佳子           

 

評論を書くときの三つの視点を改めて見て、泉さんの優しさの源泉がわかりました。いつもこの三つを大切にして書いてくださったことをありがたく思います。

 隠れた恩人という言葉で、かつて対立したり闘った相手のことを表現している文章がありましたが、妙に納得しました。なあるほど、そうか、と。自分を鍛えてくれた相手なのだ、と思うのと、あの馬鹿野郎め、と思うのとでは、月とすっぽんほどの違いがあると思うからです。

 泉さんが、マグロと私は同じだ、と認識するくだりが楽しかったです。十五冊もの本を作り、読書と執筆をしなければ死んでしまう、と感じる泉さんに大きな拍手をさせてください。 

 

 意見7                村松祝子

 

まず感服するのは九十一才になってもなお文学と交わり評論とエッセイをこれからも書き続けるだろうと達観している姿である。

評論を書きエッセイを綴ることはもう泉氏の身体の一部となっているのに違いない。

『青春の飛翔』は泉氏のドキメント作品としての出発点であった思う。

生徒との葛藤の中で泉氏も生徒も共に成長する姿が生き生きと描かれ読む人に感動を与えてくれた。

今回の「私の文学作法」には紹介されていないが、泉氏は歴史を大学時代にに専攻していたと伺っている。そのせいか歴史についての評論も私は好印象を持って読んだ記憶がある。その他に経済についての短い文章も面白かった記憶がある。

その方面の評論でまたこれからお目にかかれた

嬉しいと思っています。

 意見8            柏原 竜

 

泉さんは、「マグロは泳いでいないと死んでしまう」という話を聞いて、「私も同じだ!」と気が付いたそうだ。九十才になろうとする泉さんが人生を振り返って感じた事だろうが、凄い事だと思う。膨大な量の読書と執筆を続けてきた。それを続けさせてきたエネルギーの源は何なのだろうと思ったら、泉さんは次のように書いてあった。

 文学は「人間とは何だろう」、「自分はどう生きたらよいのだろう」という疑問から始まり、いわゆる「自分さがし」だ。私自身にその答えがみつかったのかどうか、はっきりは解らない。ただ人生を生き抜いていく力になり、「人生とは、いいものだ」という答えを,得たような気がする。

文学者とはこのような人を言うのだろう。全身全霊を打ち込む人を言うのだろう。自分は、評論もエッセイもドキュメンタリーも解るようでよく解らない。読書量が違う。読んでも深く考えない。難しいのは飛ばす。忘れる。気持ちを引きずられた時はもう少し深く考えてみる。四六時中、文学を考えている人が世の中にはいるのです。

 

 

合評を受けて

泉  脩

 

「私の文学作法」は、近く発行する最後の本に載せるために書きました。七〇年に及ぶ文学活動のまとめです。皆さんから好意的な意見が多く、ホッとしました。

「評論」について、多くの意見を頂きました。「あらすじを書くのはいかがなものか」、「作品への批判も必要ではないか」という意見は、もっともでした。作品を読んでいない人のためには、あらすじは必要だが、書き過ぎると興ざめしてしまうことがあるため、むずかしいところです。

 私も時には批判をしますが、その前に作者の主張を充分に理解しなければなりません。批判が先走りすることは、避けたいと考えています。創作と評論は、お互いに支え合うものだと思うからです。共感という媒介が必要だと思います。

「創作をしたらどうか」という励ましがありましたが、とても心が動きます。実は三年前に骨折で入院した時、暇なので空想で創作をしました。それはかつて、どうしても出来ずに断念したことです。「もしも初恋が実っていたら」、「もしも父の跡を継いで医師になっていたら」、「もしも教師としての力が、もっとあれば」など、多くの仮説を立てて自分勝手な夢物語を作るのです。今でも時々、暇に任せ気ままに夢想し、自分勝手な創作をします。

 こんな創作で良ければ、すぐに書けます。しかしあまりにも自分勝手で、ひんしゅくを買うでしょう。やはり自分が永い間、努力してきた道を守るしかないでしょう。

 

 

 室崎和佳子「ラヴ・レター Ⅱ」

 

 意見1           松木  新

 

60年代の初め、学生自治会から、ヘルシンキで開催された「世界青年学生平和友好祭」へ代表を派遣した経験もあって、前半部分をとても愉しく読むことができました。〈男嫌いの女闘士〉といわれた和美像がとても魅力的です。

〈「彼は皆と共に闘った。しかし、いかなる組織にも属さなかった」〉ことに、〈僕自身のもっとも僕らしい姿を見ます〉という〈孤独なゲリラにすぎない〉真志について、和美がどのように考え、対応していたのか、そのあたりをもう少し描いてほしかった。「組織と個人の問題」は、永遠の課題の一つだと思いますので。

 

 

意見2           泉  恵子

 

この作品が「ラヴ・レター1」からの続きであり、そういう視点から論じなければならないことを知りつつ、大事な点を失念していた。

これは「小説」であって、このレターの筆者「谷山真志」は既に亡き人であるという設定であること完全に忘れて読んでいた。(例会での発言を訂正します)

「ラヴ・レターII」も「創作」のジャンルになっているが、私はドキュメンタリーの感覚で、つまり事実として読んでいた。それは、多分作者の夫(このレターの筆者と思われる)が現在闘病中であることを知らされていたからだと思う。そうした現実を背景に、活字として残しておきたいという作者の思いが、ひしひしと伝わってくる感動的なレター群である。

1」は、大学生としての真志と和美の交歓で、学生運動を背景に、真志のロマンにあふれた真摯な情熱が伝わるラヴ・レターが展開されていた。

II」は、主に和美が小学校教員として就職し、遠距離恋愛となった中での、真志の学内での闘いや、体育教師を目指して体育の理論と実践を統一しようとする情熱が熱く語られている。

柔らかい感性で、まっすぐ前を向いて、どこまでも理想を追い求めるロマンチストであり、また体育教師として生徒の力を引き出してゆく実践と統一してゆこうという頼もしい実践家でもある。

こうした青春の情熱的な精神はいつの時代にも輝く普遍的なものであろう。Mさんが「一九七〇年代『十二年の手紙』」と言ったのも頷ける。だか ら、今の若者にも大いに読んでもらいたい美しい手紙と思う。

「小説」としてというと、フィクションがあるのか?と思ってしまうが、時々に入る和美の解説が如何にも本当らしい。これは事実としてそのまま発表した方がよいのではと思うのだが。

 

 意見3           北野あかり

 

学生時代に出合った若い二人、リーダー的な和美と、甘えん坊的な真志が、初恋から愛に変わり、愛を育み成長しあっていく過程が描かれており、青春物語と思って読みました。 

はじめ真志さんからのラヴ・レターが「愛する和美へ」が必ず出て来るので、そこにばかり気になり、内容まで深く読まないで往復書簡だったらいいのに…と思いました。しかし、これでは作者に申し訳ないと思って、ラヴ・レターの内容を要点を書き出してみました。

特に「一人の子のとり残すようなことはしない」という教育実践、政治問題、労働問題など、論理的に考えていることや、行動にも積極的に参加していく様子、和美に対して長距離恋愛についても、自分の意見を正面から主張するところなどが素晴らしいと思いました。体育論などはもっと具体的に紹介されていると、真司の目指していることが素人の私にも解かると思いました。

また、作品のかなりの部分を占めているラヴ・レターの内容がそのままのように思われ、これは小説ではないような気がしましたがどうでしょうか。

 

 意見4           豊村 一矢

 

二度読んだが、気合いの入った作品だと思う。だけど、どうもスッキリしない。なぜか。

一つ一つの文は理解できる。かつて聞いた言葉がたくさん登場するし懐かしく思った。

また、この作品の時代の学生運動は、豊村もやってきたことだからリアルに理解できる。

なのに、なぜスッキリしないのか? 

2024年の現在に、創作にあたり、半世紀以上も前のラヴレター交換を主要な題材にしたのか。どのような創作意図で書かれたのか。等々が読み切れなかった。

 例会で、直接、作品合評が出来ていれば、論議の中で、これらのことが理解できたかも知れない。

理解でなく、感覚では、「青春時代へのノスタルジャー」のようなものが伝わってきた。

 

 意見5          村松祝子

 

冒頭に描かれれたプラハ在住の一外交官の日本への打電の文章の美しさに感心した。

プラハの街に流れるブルタバ川の流れのみが変わらないと打電する外交官の優しさと嘆きが伝わってきた。こいう外交官が今の日本の政治家の一員として活躍してくれていることを期待したい。

このプラハの街の政変の一ヶ月ほど前に「世界青年学生平和友好祭第九回大会」が行われ真山和美はそこに参加していた。

その後の世界の政変は彼女の青春の心に深い影響を与えたであろうと想像する。しかしそのことはあまり深く描かれていない。

恋人の谷山真志からのラブレターの綴りが小説の大部分を占めている。

真志から受け取ったラヴ・レターに対しての真山和美の心情も知りたいと思ったが、真山真志のラヴ・レターの文面からのみ真山和美の気持ちを想像した。

真志のラヴ・レターに対して和美からの返信があると、真志のイメージがもっと具体的に浮かんできたのではと思った。

最後の文章で次の人生の奔流へ乗り出していく二人の生き方を期待したいと思った。

真志の思いより和美(作者かな?)の芯の強さを感じさせらる小説だった。

 

 

本間たかこ「ジージョ!」

 

 意見1           泉  脩

 

今回の同人誌の最後を飾るエッセー。最近加入した本間さんの作品を初めて読んだが、実に見事な胸を打つ文章である。

 本間さんが羊蹄山に近い田舎に住む娘の家を訪ね、かわいい子猫のジージョに対面する。最初から本間さんになつき、いっしょに遊び、寄り添って過ごす。なんとも活発で、家の外と中を駆け回り、夜は布団にもぐり込んでくる。最後はキツネとも友だちになったらしい。本間さんはすっかりジージョが気に入り、娘夫婦が旅行する時など喜んで留守番を引き受け、ジージョと過ごすのである。この子猫の描写が生き生きとしていて、読んでいてとても楽しくなる。

ところがジージョが、近くの国道で車に跳ねられて死んでしまう。駆け付けた本間さんは娘の家族と共に悲しみ、娘は一夜ジージョと添い寝をしたという。

ジージョが亡くなった時、大声をあげて知らせてくれたキツネが、翌朝玄関の前で、しょんぼり座っていたという。信じられない話である。

犬や猫のペットは家族の一員になり、人間より短命なので飼い主を悲しませることになる。私も猫が好きで、猫を飼っていた。猫も私になついていた。あぐらの中に入ってきたり、布団に潜り込んできたり。そして決まって亡くなる前に、こつ然と姿を隠すのである。最後まで飼い主に看病される犬と違って、猫はどこかクールなのだろうか、死に様を見られたくないのか、近くの茂みの中などでこっそりと逝くのである。私はこうして何匹かの猫と別れた。

ジージョは友だちになったキツネと遊んでいて、車に跳ねられたらしい。このエッセーは子猫をめぐる生き生きとした喜びと、突然の死別の悲しみを、見事に書いている。

本間さんの次の作品が楽しみである。

 

意見2          松木 新

 

すぐれたエッセイだと思いました。

その理由は、次の二点にあるのではないか、と思いました

➀ジージョと筆者との知的距離が、絶妙であることです。これは、娘が飼っている猫なので、日常的には会っていないことが原因だと思いますが、その距離感が文体に、知的な雰囲気を醸し出しています。

②〈猫の面白さ〉を、具体的な行動でリアルに描いていることです。ややもすると、〈面白さ〉を説明文で解説してしまいがちですが、そこに陥らなかったのは立派です。多分、猫の行動が、一つの情景として、脳裡に焼きついているからだと思いました。

『民主文学』4月号に、井上さんが掌編小説「旅路」を発表しています。合評での意見を参考に、「ジージョ!」に手を入れて、「掌編小説」として、投稿することをお薦めします。

 

 意見3          泉 恵子

子猫の可愛らしさが活き活きと伝わってきます。具体的な描写によって、そのすばしっこい目まぐるしい動作があますところなく描かれ、筆力を感じさせます。

座布団の上での遊び、階段でのかくれんぼ、ネズミを咥えた姿、木登りして降りられなかったり等々、読んでいて楽しく、平和な、長閑な気分にさせられ、筆者の若々しい息遣いも伝わってきます。説明ではなく具体的描写こそ小説やエッセイの醍醐味であることを再認識しました。

「猫はこたつで丸くなる」のは、年取った猫で、子猫はこのようによく動くということを知りました。

余談ですが、この作品で猫の鳴き声は、「ニャーニャー」「ニャオン」「ニャア!」と表現されていますが、『源氏物語』では「ねうねう」と描かれています。

「若菜」の巻上・下に柏木が、女三の宮を思慕して忘れられない姿が綴られる。柏木の恋は実らず、またしても源氏に嫁してゆく女三の宮だが、宮が猫を飼っていて、せめてその猫を手に入れたいと、柏木は姑息な手段でその猫を「暫らく預かりましょう」と手に入れる。朝夕大事に育てていると次第になついてきて真実可愛いと思う。柏木が物思いに沈んでいると、傍に寄ってきて「ねうねう、といとらうたげになけば、かき撫でて、うたてもすすむかな、とほほえまる」とある。

小学館『日本古典文学全集』訳は、

「ねうねうといかにもかわいげに鳴くものだたら、かき撫でて、いやに心のはやるやつよ、とおのずから苦笑されてくる」とあるが、瀬戸内寂聴は「寝よう、寝よう、なんてずいぶん気の早いものだね、と思わずほほえみがこぼれてきます」と訳している。鳴き声を「寝う、寝う」ととる説が多いらしいが、リンボウ(林望)先生は「ニョウ、ニョウ」「匂(にお)う、匂う」ととって、女三の宮の匂いと訳している。平安の当時は日常的に香を焚きしめていて、それぞれの匂いが衣服に移っていたというから、それが猫にも漂っていたと云えるのかもしれない。

 

 意見4           豊村 一矢

 素晴らしい作品だ。

『奔流』に載る作品としては、かなり短い方だが、ジージョを我が子のように可愛いと思う心情が伝わってくる。

始めから「子猫」でなく「仔猫」だし、ジージョとは子どもになって遊べるし、手をガブリとかじって逃げられても「え~もっと遊びたかったな…」と未練たらしい。ジージョが事故でなくなったときのこと、その他……。一八枚に作品で、過不足なく書かれている。

 

 意見5           石川 節子

窓辺の白いレースのカーテンが、風に揺れるような、涼やかさ感じる美しい文章表現に、心をひかれました。

それなのに私は「犬猫が、とても怖い病」で、今日も久し振りに降った新雪の上を、白いちいさな子犬が、喜んで、飛び跳ね、飼い主を走らせている姿が、三階の窓の下の通りに見えます。

窓の外だから、安心して見ています。

ふと、「猫のジージョみたいだな」と思いました。

 意見6          北野あかり            

 

猫の年齢はよく解っていないので、子猫のジージョは、子供なら2才前後くらいなのかな…と思って読みました。何にでも興味を示し突進してい く行動や自己主張する様子が、見えるように表現されており、その表現が見事で、はらはらしたり、ドキドキしながら読みました。

私は小学3年生の時、子猫を貰って来たのですが一緒に遊んだり寝たりしたことがなかった、また、同じころ犬に追いかけられ死に物狂いで逃げたこともあり、遠くで眺めていることはいいが、触ることができない。

作者が猫と戯れる様子や鼠を咥えてきたりする様子や、猫の性格を読み取って接していく様子は、子供を育てているようなのだと思いました。

しかし、ジージョは車にはねられて死んだ。防ぐ方法はないのだろうかと考えてしまいました。

 

 意見7           村松祝子       

 日常生活の中で作者と仔猫の関係を描いていのだが仔猫の観察が愛情を持った目でよく描かれている。しかも子猫と対等に付き合っている筆者の気持ちが読む者によく伝わってくる。布団の左右から交互に左手を出し、右手を出す遊びに仔猫が飛びついてくる遊びの描写はその場が想像されて笑ってしまいました。

猫の爪は木登りには適しているが木から降りるのは適していないとは初めて知りました。そり遊びにもついてくるし、ボートにも怖がらずに乘る仔猫なんてほんとに特異な仔猫ちゃんですね。生きていたら私も会いたっかたです。

軽いタッチでユーモアーも感じさせてくれて最後に狐が出てきて童話的でもありました。

素敵なエッセイだと思いました。

 意見8         柏原 竜

 

作品を読み進んで行くと、猫が映写機で映し出されスクリイーンの中で飛び、跳ね、動き回っているように見えてきた。猫の表情、鳴き声、動きなどの描写がきめ細やかで丁寧だからなのでしょう。どんなにか愛おしく可愛かったのでしょう。猫といっても家族の大事な一員なのですから。 

 我が家でも飼っていた猫が交通事故で亡くなった。ジージョと同じように体に傷はなく寝ているようだった。今でも猫の感触が体に残っている。抱いていた腕や胸に猫の大きさが、腰にもたれて眠っていた温かさ、足にまとわりついて転んだことなど思い出される。今、庭の木の下で眠っている。

 子猫はひと時もじっとしないで動き回るが、もう少し経って、大人になると落ち着いてすり寄ってくる。それもまた愛おしい。

 

 

合評を受けて

            本間たかこ

         

初めて『奔流』に原稿を出しましたので、ドキドキしながら合評会に出席しました。「猫好きな方」「猫が嫌いな方」「どちらでもない方」がいらっしゃる中、たくさんご意見をいただき嬉しかったです。

 自分の書いたものに、大勢の方から感想を言っていただくのは初めてでしたので緊張しましたが、とてもありがたかったです。

 全部本当にあった事を淡々と記しただけでしたが、ジージョの事は書いておきたいと思っていましたので、ホッとしています。

「人に読んでもらう」事を前提に書くことで、客観的な目で自分の文章を見る経験も出来たのは、貴重な事でした。

 

「札幌民主文学通信」303号に追加

            通信担当 豊村一矢

 説明とお詫び

 「

通信」303号に柏原竜さんから送信された「紙上合評」と「合評を受けて」の言葉を見落とし、紙上に載せることができませんでした。

お詫びし、追加記載させていただきます。

 

 

森本紀子「四姉妹から三姉妹へ」     

意見             柏原 竜

 

四姉妹が揃って札幌に住み、仲良く交流してきた。羨ましい。

人間は年を取る。年をとると何が起こるか解らない。覚悟しなくてはならないと、つくづく感じた。札幌に住んでいないので地理がよく解らないが、長く住んでいた大切な所を離れ高齢者マンションに入るということは、相当な決心が必要だったのだろうと思う。 

四姉妹が一人一人個性的に描かれていて解りやすい。特に亡くなった二番目の姉優子さんは、魅力的だ。更に一番上の姉康子さん、夫を若くして亡くした四番目の妹潤子さん。もっと知りたいと思った。どうかお元気でいつまでも長生きしてください。

 

豊村一矢「ある認知症患者の妄想1」    

意見             柏原 竜

「認知症」この言葉が怖い、恐ろしい、ビクビクだ。 

自分の母親は七十代で認知症になり、だんだんひどくなって、パトカーにも世話になり娘の私も解らなくなって、九十二才で亡くなった。

母の兄や姉も認知症になっていた。自分も気がついていたのか認知症関係の本が、部屋に数冊置いてあった。そして、「あんたもなるから」と言われたのを思い出す。

作者はユーモアがあって強い。自分も見習おう。

医療も進んでいるので、きっと道が開かれると信じたい。

  合評を受けて    

柏原 竜          

自分はなぜ創作活動を続けているのかよくわからないが、書くことが好きなのかもしれない。いろんな事を考えて、整理して、次への一歩なのかもしれない。

小学生の夏休みの宿題と同じで、夏休みが終了するギリギリにならないと書きはじめられない。 

とにかく、あわてて、焦って書き、やっと終わったと安堵感に浸る。 

それと同じで、もう日にちがないと解ってから、焦って焦っていつも書いている。今年は、九月締切だが、八月締切だと思って六月から取り組んだらいいと言われた。頭を切り替えたら、作品を書き終えた後、何度も読み返して、今回指摘された事を治せそうだ。 

視点が混乱。笑美と子供達との葛藤がほしい。会話の部分が説明調になっている。構成が不足。 

あらすじだけになっている。自分で読み返してみて、そうだと思った。

 

投稿欄

 

室崎和佳子『チェルノブイリ・レポート』

心をえぐるルポルタージュ

泉  脩

 

チェルノブイリ(一九八六)と福島(二〇一一)の二つの原子力発電所の爆発。そして著者の父違いの被爆二世の妹の、ガンによる死。この中で筆者は、ウクライナとベラルーシへの旅を決意した。二〇一三年のことだった。

 この本は帰国後に書かれた四つの作品と、昨年書き下ろした論文である。札幌民主文学会の同人誌と、日本民主主義文学会の月刊誌「民主文学」に載った作品を読んで、私は心をえぐられる思いになった。事実としては知っていたが、著者の文学的表現力によって、事故の重大さを思い知らされたのである。

 これらの文章は一冊の本にまとめられ、日本中、世界中の人々に読まれなければならないと、心から思った。

 第一話「チェルノブイリよ」は、成田・モスクワ・キエフ・ミンスクの旅の報告で、キエフからチェルノブイリに車で向かい、無惨な原発の姿を間近に見た。持参の計器がピーピーと鳴り、今でも放射能が出ていることが実感された。

ベラルーシの首都ミンスクからは、南部の村々を小型バスでまわったが、多くの村が廃村になり、残った村も人口が減り、荒涼とした風景が続いた。著者が加わった一行(男四名・女三名)は、故郷を離れない人々、特に子どもたちにセシウム137排出促進剤を配った。どこへ行っても学校の教師たちから感謝された。

それにしても、ベラルーシ政府の無策はひどいもので、永く続く独裁政権が、「ベラルーシには放射能被害者はいない」と決め込み、国民を見殺しにしているのである。

 第二話「広島・チェルノブイリ」は、さらに内容に踏み込み、ベラルーシの人々から聞いたひどい話を紹介している。最初はガンで亡くなった被爆二世の妹との、悲しい別れの様子から始まる。続いてベラルーシの人々の話に移り、事故の後始末に動員された男たちが、帰宅後に白血病を発症し、闘病で苦しみ抜いた末、無惨な姿で亡くなっていく様子である。病院の医師も成す術がなく、家族の苦しみも限りない。一人の妻は、夫の死後に出産したが、子どもは障がいを持って生まれ、三日後に亡くなった。彼女は夫と子どもを偲び、五十代なのに老いた姿になって、もだえ続けている。

 ある学校の女性教師の話では、小さな生徒たちが病気で次々と亡くなり、中には三回目の心臓手術の直前に自死した少女もいる。年寄りが故郷での死を選ぶことは理解できるが、なぜ将来のある子どもたちが死ななければならないのか。

日本のある医師が、ベラルーシの子どもたちを日本で静養させたり、セシウム137排出促進剤を配ったりしてきたのである。

 第三話と第四話は、ベラルーシとウクライナと福島の被害者の話である。特に子どもたちの被害が悲惨で、体が小さいだけに大人よりも放射能の影響を受けやすく、中には五人のすべての子どもが病気で苦しむ母親もいる。

福島での二つの話、脱サラをしてやっと酪農家になった人の、飼育している十五頭の乳牛の、すべてが殺処分になった。子ども四人が巣立ち、夫婦二人の農家が退却させられる。やむにやまれず一泊二日で家に戻ったが、翌日妻が自死していた。

 著者は福島にも調査に入ったが、被害者たちは苦しみを口にできないらしい。風評被害を恐れる県民の、反発が強いらしい。

 どの話も胸が痛み、読んでいて苦しくなる。しかし被害者の苦しみは計り知れないのである。

 第五話「信念の人間(ひと)ユーリ・I・バンダジェフスキー」では、最大の被害を受けたベラルーシの、一人の医師の話である。バンダジェフスキー博士は若くして医大の学長になった秀れた医師だった。彼は放射能の被害が、特に子どもに多いことを突きとめた。この結果を国会で報告すると、彼は逮捕されて八年の禁固刑を受けた。独裁者ルカシェンコ大統領が、「自国には放射能の被害はない」としていたからである。そして二〇二〇年に、ベラルーシ初の原子力発電所を作ったのである。

 バンダジェフスキー博士は、五年の禁固でようやく釈放されると、子どもたちの治療に打ち込み、やがてウクライナに移って活躍をする。

 日本の調査団とも二回会って、苦しい体験を語り、信念を貫く姿を見せている。この本の著者の室崎和佳子さんは、博士との二回の会見で、心から感銘を受けた。そして「この世には、強欲な人間と強欲でない人間の二種類がいる。」と書いている。その代表が、ルカシェンコとバンダジェフスキーである。著者の怒りが爆発した様だ。

 著者とは札幌民主文学会で十五年近く、共に活動してきたが、彼女の筆力には感心してきた。特に、このチェルノブイリルポルタージュや創作では、テーマを掴んで全身全霊で打ち込み、目覚ましい筆力が発揮されている。私は評論に「国家的犯罪を告発」という見出しを付けた。

 室崎さんは二〇一六年と二〇一七年に再び三たびウクライナを訪ねて、バンダジェフスキー博士と二回目の会見をした。さらに周辺の国々への影響を調べるため、リトアニア・ポーランド・ルーマニアなどにも旅をしている。国内ではチェルノブイリ体験記を次々と発表し、写真展や講演をくり返し、正に大車輪の活躍である。さらに敗戦時のソ連軍の無惨な「娘狩り」の告発、そして最近では自分の青春物語と、留まるところを知らない。

 私も必死に著作を続けたが、室崎さんのスケールの大きな活動にはただただ脱帽である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『怒りの葡萄』再読

                松木 新

 

先日、何気なく映画「エデンの東」を観ていたら、結構、面白く、あわてて原作を読んで見ました。これが映画以上の出来具合で、驚いてしまいました。スタインベックを見直したい気持ちで、『怒りの葡萄』を再読しました。

この小説は、1939年の作品です。国際的「赤い十年(1925年―1935年)」からは少しずれていますが、まぎれもなく、アメリカのプロレタリア文学の一翼を担っている作品だと思いました。

元伝道師のケイシーが語る次のセリフなどは、そのことをしめしています。

〈本来ならひとびとが持たなければならないものを抱え込んでいるおまえたちも、この理屈がわかれば、身を守れるかもしれない。原因と結果を分けて考えられれば、ペイン、マルクス、ジェファーソン、レーニンは原因ではなく結果だというのがわかれば、生き延びられるかもしれない〉

〈どんな歴史でも甲高く鳴り響いている小さな事実がある。それは、抑圧は、抑圧されるものの力と結束を強めるという事実だ〉

この作品では、トムの母親の造形がとくに優れていると思いました。ゴーリキーの『母』を彷彿とさせます。民衆にたいする信頼は見事です。

〈あたしたちみたいな民は、ああいうやつらがみんな滅びても、生きていくんだよ。だって、トム、ほんとうに生きている民は、あたしたちなんだ。あいつらが、あたしたちを根絶やしにすることなんかできない。だって、あたしたちが民なんだから――生きつづけるのは、あたしたちなんだから〉

〈男の一生は、切れ切れの短い線路みたいなものなんだ――赤ちゃんが生まれる、ひとが死ぬ、それが一本の線路――畑を持つ、畑をなくす、それがべつの線路。でも、女にとっては、ぜんぶがひとつの流れなんだ。逆巻く渦や小さな滝があっても、水は流れ、川は流れつづける。女は一生をそういうふうに見る。あたしたちは滅びない。民は生きつづける――すこしは変わるかもしれないけど、ずっと生きつづけるんだよ〉

家族から離れて、闇のなかを去るトムの最後の言葉は、山宣の墓碑に刻まれた言葉「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」と重なります。

〈おれは闇のどこにでもいる。おれはどこにでもいる――お母が見るどこにでも。飢えたひとびとが食べられるように、みんなが戦うとき、おれはそこにいる。おまわりがだれかを叩きのめすとき、おれはそこにいる。ケイシーが見抜いたとおりだとすれば、怒れるひとびとが叫ぶなら、それがおれのゆく(みち)になる。食事の支度ができたときに腹ペコの子供たちが笑うなら、それがおれのゆく途になる。おれたちの仲間が、育てた作物を食べ、自分たちが建てた家に住んでいるとき――もちろん、おれはそこにいる〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野球小説の楽しみ

後藤守彦

 

プロ野球の公式戦がまもなく始まる。昨年地元にファイターズのフランチャイズとして新球場エスコンフィールドが誕生した。杮落しの試合のチケットを抽選の末入手し、観ることができた。試合は応援したファイターズが負けたものの、歴史的瞬間に立ち会えたことに感謝している。ファンクラブにも入り、昨年は二〇回以上球場に足を運んだ。そのうちの、九月二六日にあったロッテ戦は、特別なものだった。京都から弟の妻と娘が来道し、八月に逝った弟の遺影を掲げて私たち家族とともに観戦した。チケットは弟の生前に入手していたもので、中学校から大学まで野球部で活躍した弟は楽しみにしていたと思う。幸いなことにファイターズが七対ゼロで勝った。

現在新球場の前に新駅を設置する問題をめぐって、市民の運動が続いている。八五~九〇億円を費やす新駅建設計画が発表された。請願駅という理由で一般会計予算の総額が約三〇〇億円の北広島市が、その費用の多くを負担することになる。市民への情報開示がなされていないため、市民への説明会の開催などを求めて、「ボールパーク新駅を考える会」が昨年一〇月一四日に発足した。私はその運営委員の一人になった。二度にわたる市民説明会、市長との対話集会が開かれたが、市民の懸念や不安は払拭されていない。「ボールパーク新駅を考える会」は、今後新駅建設費用の圧縮と受益者である日本ハムの費用負担を求める方向で活動していくことになると思う。

インターネットで「野球小説」と検索したら、野球小説のベストテンの記事が幾つか載っていた。野球小説についてはかつて論じたことがあるが(「たかが野球とはいうものの」『札幌民主文学通信』一六七号)、そこで対象としたあさのあつこの『バッテリー』(角川文庫、二〇〇三~二〇〇七年)は全てトップだった。この作品は映画化もされた。主人公はキャッチャーの永倉豪とバッテリーを組む原田巧である。作者は、文庫版第一巻の「あとがきにかえて」で、「自分を信じ、結果のすべてを引き受ける。そういう生き方しかできない少年をこの手で、書ききってみたかった」と執筆の意図を披瀝している。また、第二巻のあとがきで「書くことと投げることに、共通点があるとすれば独りだということ」とも述べている。この年齢ではこれほどの高次はありえないのでは、と疑問を呈したくなるほど、豊かで複雑な内面の心理描写が目立つ。    

前掲エッセイで対象にしていた池井戸潤の『ルーズヴェルトゲーム』(講談社、二〇一二年)も、ベストテンに必ず入っていた。タイトルは、野球好きの第三二代フランクリン・ルーズヴェルト大統領が、「一番面白い試合は八対七のゲームだ」といったことに由来する。青島製作所の創業者である青島会長は「この工場が作っているのは、カネ儲けのための製品だけ」でなく「働く者たちの人生であり、夢もだ」として野球部を創設する。いつも口にする言葉が、選手と応援する社員が「グラウンドでひとつになろう」だった。青島製作所とその吸収合併を画策する、儲け至上主義のミツワ電器との、野球の試合が絡んだ対決を描きながら、作者は、企業は働く者にとって人間にとってどうあるべきなのかを問うている。

今年上半期の直木賞を受賞した、万城目学の『八月の御所グラウンド』(文藝春秋、二〇二三年)も野球小説に入る。文系学部で学ぶ朽木は、彼女から「あなたには火がない」と言われ、ふられてしまう。彼女の実家のある高知県に行き、四万十川で涼しげにカヌーを漕ぐ計画も消滅し、「丸ごと地獄の釜となって、大地を茹で上がらせていた」京都で八月を過ごすことになる。朽木は同じ大学の理系学部に通う多聞に、御所グラウンドでの草野球の試合に強引に参加させられる。小さな大会の優勝をめざすのだが、選手が揃わない事態が生じる。その時どこからともなく助っ人がやってくる。東京の明治神宮外苑とは別に京都でも出陣学徒壮行会が行われており、助っ人は戦没学生などだった。生者のもとに死者が現れたのである。最後の試合に負け優勝を逃すが、朽木と多聞は振り返って語り合う。「みんな――、生きたかっただろうな」「な、朽木、俺たち、ちゃんと生きてるか?」と。作者は、京大生の名簿を調べて戦没学生の様々な死を知り、「全然知らんかったけど、これはあかんやろ、どこかでちゃんと書かなければと」思ったと語っている(『しんぶん赤旗日曜版』二〇二四年二月一日号)

次に、新刊ではないが三つの野球小説を見てみたい。阿久悠の『瀬戸内少年野球団』(文芸春秋、一九七九年)は映画化され、夭折した夏目雅子の遺作となった。この作品には戦争の犠牲者が登場する。主人公の足柄竜太少年が野球と出会ったのは、戦死したと思われた、駒子先生の夫正夫が「生きていた英霊」として帰還した時。正夫は片足を失い松葉杖をつきながら故郷にもどるが、かつて中等学校野球の選手として甲子園の土を踏んでいる。川上哲治の熊本工業が決勝に進出した大会であった。一九四一(昭和一六)年に全国中等学校野球大会が中止され、甲子園のグランドは畑になった。「正夫にとって、野球のある時代が平和の時代であり、野球のない時代が戦争の時代であった。とすれば、今は、平和の時代の始まりといえた」。正夫は「今のままでは竜太たちは駄目になる、いいかげんに世の中を渡って行く知恵だけをつけて、駄目な子になるぞ。何かに夢中にさせてやらなければ」と駒子を説得し、彼女を監督とする本格的な野球チームづくりに力を注いだ。江坂タイガースが結成され、隣町にある、少年野球の名門チーム大宮ジャイアンツと戦う。

井上ひさしの『下駄の上の卵』(岩波書店、一九八〇年)もいい。小森陽一と川本三郎の対談「野球少年たちの戦後民主主義」(『世界』二〇一四年一二月号)のサブタイトルが、「井上ひさし『下駄の上の卵』をめぐって」であった。この作品は、戦後間もない時期に、新品の軟式野球ボールを手に入れるため、山形県の町からヤミ米を抱えて上京を企てる野球少年たちの冒険旅行を描いた長編小説である。対談は次のような川本の言葉で結ばれている。「戦後の野球を語るということは、歴史を語ることであり、いろいろなものが詰まっている。ただ野球を語っているだけでないと、改めて強く感じます」。

三つめは、重松清の『熱球』(徳間書店、二〇〇二年)。本州西端の城下町にある、旧制中学からの伝統を誇る進学校の野球部は、地元や0Bに期待されるものの弱かった。それが主人公の洋司が高校三年の夏に、エースとしてマウンドに立った時、県大会で決勝まで進む。そこで悲劇が。部員の不祥事で決勝戦の出場を辞退することになったのである。洋司は故郷を捨て上京するが、二〇年後三八歳で、小学五年の娘を連れ帰郷し、一人で暮らしていた父との同居生活を始める。地元に残っていた野球部の仲間との交流を通して、生きることの意味を問い直す。負ける時は負けてもいい、大切なのは誰かを大切にする気持ちだと気づき、文庫版の解説で作家の堂場瞬一が言うように「家族や仕事とは関係のないところで自分を証明するものが何かがあるはずだ」と探し続ける。

当然のことだが、野球発祥国のアメリカには野球小説が沢山あるが、一九八九年に公開された映画『フィールド・オブ・ドリームス』の原作、W・P・キンセラ『シューレス・ジョー』(文春文庫、一九八九年)が最高だろう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二四年月〇一日 303

二月例会誌上合評

合評作品(『本流』30号)

森本のりこ「四姉妹から三姉妹へ」

意見1            石川節子               

八十を過ぎた人を語るとき、生死に関わる話に触れることは避けられないでしょう。私も三人姉妹の

中で特別よわく、みんなに心配をかけさせています。

しかし、今のところ全員、元気。七十二ページ、上段、(四)の紀子の二番目に当たる八十八歳の優子は―ここは、難解で読んで居てイライラしました。ここは紀子の二番目の姉で、八十八になる優子は、 としたほうが良かったのではないでしょうか。

優子お姉様の事故は、とてもショッキングでした。

制御できなくなった人の体重は加速され、思いもよらない大きな事故に成ることがあるようです。

私の場合も、四十三キロ足らずでも、気絶して壁にたおれくずれ落ちただけで、脊椎骨折、四十日余りの入院となりました。それがサイドボードに倒れかかっとあれば、ただごとでは済まないことでしょう。

ご冥福をお祈りします。

 

意見2            松木 新

この小説を、戦後を生き抜いた優子への讃歌として読みました。優子を主人公とした長編に、ぜひ挑戦してほしいと思いました。タイトルも効果的だと思いました。

姉妹の物語は、谷崎潤一郎の長編『細雪』などを読んでも、優雅な魅力に溢れていますが、そこに兄弟がからんでくると、室生犀星の短編「あにいもうと」のように、野蛮なエネルギーが前面に出てきます。「四姉妹から三姉妹へ」で、札幌に在住する弟がお茶会に呼ばれないのは、作者の意図的な作為なのだとしたら、よく考え抜かれたと思いました。

討議のなかで校正についての意見がだされていましたので、参考文献を紹介します。著者は「朝日新聞」で論説委員をしていました。

辰濃和男『文章のみがき方』(岩波新書)

 

意見3             泉 脩

 六人きょうだいの、上四人が四姉妹で、下二人が弟である。四姉妹は仲が良く、よく会ってお茶の会をし、永く協力してきた。

その中で次女の優子が八十八歳で急死し、長女の康子八十九歳と四女の潤子七十六歳が体の不調から、老人ホームに一緒に入ることになった。著者の紀子八十三歳は、この連絡を受けてびっくりし、三人で会うことにする。この作品は実話と思われ、親の思い出や夫のことがリアルに書かれ、姉妹の苦しみ、悩みがよく書けている。

この作品の四姉妹は同じ北海道に住み、対立をせず助け合う姿が、とても気持ちがいい。二人の弟のことは書かれていない。

私自身は五人きょうだいで、上に姉二人、私と弟が続き、末が妹だった。妹が二十六歳で病死し、次女の姉が八十代初めに病死した。今では九十五歳の姉と八十九歳の私、そして弟が残っている。きょうだいは必ずしも仲良しではなく、時に骨肉の争いをする。きょうだいは他人の始まりという言葉がある。

私は父が四十代で亡くなり、母を四人の子供で支え、母は九十七歳まで生きた。相続争いなど起こりようがなかった。妻の家族のほうは、私が中に入ってやっと解決した。入院中の妻と、二人の甥が権利放棄し、なんとか円満に相続を終えることができた。私は少しも利益を求めず、相談した不動産業者にお礼をしたぐらいである。肩の荷が下りた思いだった。

亡くなった優子は活発で、きょうだいをリードしていたが、一人暮らしで家の中で転倒し、手首からの出血が原因で急死してしまった。親から継いだ家を優子の二人の娘が相続する。誰も異議を言わず、親の財産の相続争いが無いことが気持ちいい。

 

意見4            泉 恵子

四姉妹のそれぞれが高齢となり、一番上の康子(八九歳)と、一番下の潤子(七六歳)の二人が、高齢者マンションに移り住むというところから始まる四姉妹

の主に晩年の様子が、三女の紀子(八三歳)の視点で描かれている。

太平洋戦争を生き抜いてきた四姉妹とあるが、四女の潤子は戦後生まれ(昭和二二、三年生まれ)だから、そこは丁寧な配慮が必要と思う。

紀子以外の三人は連れ合いを亡くしていて、それぞれのその様子が語られている。特に次女の優子(八八歳)の夫の余命が宣告された時の、紀子の職場に駆け込んで泣き崩れた様子や、その後亡くなった時の、サイドボードのガラスに手を突っ込み、血にまみれて倒れていた姿など壮絶な状況はリアルである。戦時中母を助けて家族のために逞しく働いた様子なども活写されているが、全体的に、説明調になってしまったところが惜しい気がする。

作者は全体きれいごとで書かれていると言っていたが、全部書くと長編の構想になってしまうだろう。短編としては優子さんをもう少し具体的に膨らませたらよかったのかと思う。

それにしても、四姉妹で「お茶会」を持ち、政治談議をするなど羨ましい情景で、兄弟姉妹の多い人はいいなあと思った次第。

 

意見5             豊村一矢

この物語は、平成二十一年(2009年)正月から始まる。

私の誤読でなければ、物語の語り部は四姉妹の三女紀子であり、歳は83で、終戦時は19歳。四姉妹は上から長女優子・次女康子・三女紀子、四女潤子ということになる。

四姉妹は戦中戦後を生き抜いてきた。この作品の根底に戦争批判があることははっきりしているが、私は男性に対する不信も内包しているように感じられた。戦争批判同様、声高でないだけに、却って、迫ってくるものがある。

 

意見6            室崎和佳子

七六歳から八九歳までの四姉妹が戦中、戦後を仲良く生き抜いてきた物語である。最終的に四人は札幌で生活することになった。

 しかしある日、上から二番目の優子は髄膜腫という病気で言葉が出なくなったうえ、室内で転倒し出血多量で死に至る。母親がわりで面倒見の良い優子であった。

 一番上の康子と一番下の潤子は一緒に暮らし始める。

 三姉妹になってもお茶会を続けよう、と紀子(下から二番目)が呟くところで話が終わる。

 私はたった一人の妹を十年前になくしたので、とても羨ましい。集まることができる限り、お茶会を続けて欲しいと読者としては切に望む。

 

 

 

 意見7            小崎勢津子

冒頭の「姉と高齢者マンションに入ることに決めたの!」という妹からの電話ではじまることで、終末をどのように迎えるかを描いていることが解り、同世代を迎えた私にとって、自分の生き方を振り変えると同時に、一人暮らしをしている自分の終末について考えさせられ、とても身近な作品でした。

 また、第2次世界大戦を生き抜いてきた4姉妹の、お茶会と称する集まりでの政治談議は、情景が見えるようで面白く、そのような集まりがとても大事なことだと思いました。

 

 意見8            柏原竜

四姉妹が揃って札幌に住み、仲良く交流してきた。羨ましい。

人間は年を取る。年をとると何が起こるか解らない。覚悟しなくてはならないと、つくづく感じた。  

札幌に住んでいないので地理がよく解らないが、長く住んでいた大切な所を離れ高齢者マンションに入るということは、相当な決心が必要だったのだろうと思う。 

四姉妹が1人1人個性的に描かれていて解りやすい。特に亡くなった二番目の姉優子さんは、魅力的だ。更に一番上の姉康子さん、夫を若くして亡くした四番目の妹潤子さん。もっと知りたいと思った。

どうかお元気でいつまでも長生きしてください。

 

合評を受けて    村松祝子

書かねばならぬ期日に追われて、句読点の点検も誤字脱字も数多くあることを覚悟して提出しました。

案の定、誤字や表現の間違い脱字や抜け字など多々あり申し訳ありません。

そんな感じで出した作品に励まし?(本人はそう受け取っております)の評価を頂きました。まだ書ける自信を頂いた感じです。批評頂いた仲間に感謝です。

一月の初め今年は期日に追われぬようにと思い姉たちの老人用マンション入居の話を聞いて書き出したのですが最初「四婆蓮」という題にして勇ましい?四人の婆さん連中の集まりを書くつもりでした。

そこに突然姉の事故死に遭い、これを書き残したいと思い始めました。

しかし自分としては前半の文章も捨てがたく結果的に三姉妹の過去の人生を書き連ねた結果になりました。人生後半になりますと、どの人々にも過去において困難や喜びを抱えた一つや二つのドラマを送ってきたことでしょう。

持に昭和を過ごしてきた者にとって第二次世界大戦は両肩に掛かる大きな岩盤のような大岩でした。

姉妹のことを書くとどうしてもそこにいくのです。

三姉妹からは「何を書きたいのかはっきりしない」と嬉しい批判も、貰いました。

 

豊村一矢「ある認知症患者の妄想(1)」

 

意見1           石川節子

ほのぼのとした温もりに満たされ、安らかな気持ちで読み進められる、朗らかな作品でした。

「認知症なんか、怖くない。年寄りの身分証名証をもらったと思えばそれで良い。不名誉に思ったり、不安がったりすることは、全くないし、年齢というお布団が、カバーしてくれるのだから、」と、私は学習しました。

普段から「ものしずか」で、温厚な人は全然問題ないことを、私は確信しました。やっぱり、合評は優れた学習の場だなあと再認識しました。

 

 

 

 意見2           松木 新                        

 アルツハイマー型認知症と診断された作者が、〈ずる賢く、強かに毎日を過ごしています〉と言い切っているように、この作品は、ユーモアにあふれ、読む者を前向きにさせてくれます。

最後の三行は、優れた落後の「落ち」を聴いているようで、感心しました。

新たな「認知症文学」の誕生に乾杯!

 

 意見3           泉  脩

 痛ましい話である。私より十歳も若い著者が、脳神経外科の診断を受けるところから始まる。アルツハイマー型認知症で、進行を遅らせることしかできない―という診断である。

 こんな深刻な話を淡々と書き、読者はびっくりしてしまう。しかし高齢になれば、誰しも不安に駆られることであり、著者の勇気には頭がさがる思いである。

要介護支援が認定され、デイサービスに通い、これまでの仕事も続けることを著者は決心する。努力がどこまでも続き、永く、いつまでも志が報われることを願うばかりである。

 私は三年前、階段を踏み外して足を骨折し、二ヶ月入院した。その時にNHKのテレビの再放送で、認知症の特効薬を作った日本人の話を放送していた。母親の認知症を見て、製薬会社に勤め、失敗を繰り返した末にようやく特効薬を作り上げたのである。この作品に書かれている薬は、それと同じかどうかはわからないが。

このNHKの連続番組(プロジェクトXシリーズ)は、多くの日本人のすばらしい業績を紹介し、日本人の優秀さを改めて教えてくれた。中島みゆきの美しいテーマソングと共に心に残り、私は多くのことを学んだ。入院してよかった、とさえ思ったものである。

 私自身は今年五月で九〇歳になる。目はかすみ、耳はよく聴こえない。物忘れも多い。それでも多くの人の助けで一人暮らしを十八年続け、文学活動に打ち込んでいる。息子に老人ホームに入ることを勧められているが、階段を昇り降りできる限り、がんばるつもりである。

 札幌民主文学会に入って十年余り、豊村さんには通信・同人誌でお世話になりっぱなしである。お互いにがんばろう。

 

意見4            泉 恵子

診察室での医者とのやり取りから、アルツハイマー型認知症と、宣告されるところから始まっている。

医者との軽妙なやりとり、深刻なはずが何故かおかしみを誘う。認知症とは思われない主人公のデスマス調の語りは、以前の「認知症」の概念を覆していて、高齢の読者に安心感を与えるように思う。最先端の患者らしくない患者の語りとして面白く、続きが期待される。

先日もラジオで、団塊の世代が七五歳以上という時代に入り、五人に一人は認知症になると言っていた。

医学の進歩で、進行を遅らせる薬が開発されているという。そういう人たちを受け入れていこうという社会の構築が始まっている。デイ・サービスも悪くないようだ。

有吉佐和子の『恍惚の人』の時代から格段に進んでいる。かつて私の祖母も出掛けて行っては帰りがわからなくなり、垂れ流しをするようになり、同居の母が悲鳴を上げていた。そんな時代は過去のものになりつつあると言っていいのかも。

この主人公が、なぜ医者の所へ行ったのかということが知りたかった。

 

 

 意見5           室崎和佳子

豊村さん特有のユーモアのセンスで、自身に訪れている難局を切り開いていこうという決意を文章から感じとりました。

 すごいなあ、と素直に思いました。 

「ある認知症患者の妄想()」が楽しみです。

 

意見6           小崎勢津子

1.診察室 2、青笹(あおささ)文学研究会 3、要介護1 と分けていて、とても解りやすく一気に読みました。

診察室の場面では、診察の様子や、医師と患者(作者)と奥さんの会話も伝わってきますし、何よりも

本人が病名を告げられても動揺することなく、ありのままを受け止め、前向きに対応しようとしているところや、奥さんへの心遣いがとても素敵で羨ましい思いで読みました。

私も最近、検診で「大腸癌」の診断を受け、手術そして術後補助化学療法(抗がん剤投与)を受けることになりました。便秘しない食生活を続け、他人にも奨めていたくらいでした。「便秘や腹痛も全くなかったのに、何で大腸癌になるの!」と、癌の発症に腹を立てましたが、腫瘍は手術で採って貰いましたので、これで終わりと思っていたのです。

しかし、再発の可能性が2030%あるので、そのリスクを下げるために(ゼロにはならないが)ということで、抗癌剤治療を宣告されました。またしても「何で!早期発見だったじゃない!」と腹立たしいのですが、現実は受け止めるしかありません。

このような時にタイミング良く、前向きに対応している作者の、明るい人柄が伝わってくるこの作品にであって、勇気と元気を貰い感謝しています。

 

 

 

意見7            村松祝子

 診察室の光景は、一つ、一つを正確に書き連ねた。

そこには感情を入れず、他人事のように描く心が凄いと思った。

仲間の心の中を想像して断定する正確さは彼自身のこれまで生きてきた経験からの正確さなのであろう。

自身がこの病を背負って生きていかなければならない心情がよく書かれている。

「ずる賢く、強かに毎日を過ごして」いると言えるのでしょうか。わたくし、認知症なのでわかりません。

最後の文章に彼の決意を感じさせられました。

私の主人も同じ病ですので、よく理解できます。誌面上では!

しかし実生活では私も病に似た症状ですので「知らない、覚えていない」とふたりで言い合っているのですが、作者のようにしたたかに生きて姿に教えられました。

 

合評を受けて        豊村一矢

 作品の中にも出てきますが、アルツハイマー型認知症で要介護1の私は、常に、介護福祉士やデイケア管理者、介護者によって見守られ、また、アドバイスも受けます。『奔流』に作品を出したことも、この人たちは知っています。そんな中で、今回の作品をデイケア管理者に見せる機会がありました。

 その時、管理者が「『奔流』30号が欲しい」といい、私の今回の作品をコピーしてデイケアの休憩室に置かせてくれ、となりました。

 以来、デイケアでニコニコと話しかけてくる利用者が増えた気がします。

 バタバタと急いで書いた作品ですが、要介護者が多いデイケアでは、何とか受け入れられたようです。

                

柏原竜「飛び立つ」

 

意見1           石川節子

 時代は替わったと思う。結婚しても、子どもを連れたり、ひとりに成ったりして、実家に帰って来ることが珍しくない世の中になった。

昔は、「女、三界に家なし」で、女性が我慢することで折り合いをつけることが、多かった。今はそれが無くなり、喜ばしい事だと思う。しかし、嫁に出した親にしては、「れやれ、ひと安心」もしていられない。男の子だって同様だ。

それでも、その後のパートナーを探すなりして、自立の道を開ける人は、あっぱれである。

この作品では、残した子ども達にあまり未練を語られていなかった。

独身でいられるのも、戻ってこられるのも、親の心配には変わりが無い。もう、親が心配することでは、ないようだ。

 

意見2          松木 新

〈子供を取るか自分をとるかの選択しかないと判断した〉笑美が、〈子供たちが大きくなった私の事を解ってくれる日があることを信じたい〉と決意して、  〈「飛び立つ」〉姿が清々しい佳編です。

合評のなかで視点について論議されましたので、整理しておきます。

作者の都合で、勝手に視点を変えてはならないという法や規則があるわけではないのですが、一般的には、長編小説では、神のような高みから物事を描写する、いわゆる全知の語りの手法=登場人物それぞれの視点で物語を展開する多視点が有効の場合があります。『戦争と平和』が有名ですが、最近の話題作では『立春大吉』が、この手法を採っています。

短編小説では、読者を混乱させないという理由から、視点を主人公にすえるのが良いといわれています。この場合でも、その主人公を一人称で描くのか、三人称で描くのか、あるいは、まれにみられますが二人称で描くのか、の問題があります。

要は、作家が、自分が書きたいことを読者に届けるためには、どのような手法が良いのかを、じっくりと検討することだと思います。

なお、参考文献として、日本民主主義文学会編『小説作法』(頒価500円)をお薦めします。この冊子のなかで、青木陽子さんが、「小説における視点の問題」を書いています。希望者は松木まで。

 

意見3          泉  脩

 勇と麻子夫婦の家に夜、娘の笑美が帰ってくる。「離婚する」と言い、次の日も家に帰ろうとしない。夫の重夫が妻を威圧的にマインドコントロールして、我慢できなくなったのである。重夫は笑美が帰ろうとしないので、二人の子供と会わせず、離婚に向かう。妻を自分の所有物とし、どこまでも支配しようとする男の身勝手を書いている。

 その後、笑美は高校時代の写真部の仲間の光夫と再会し、自分を取り戻し、やはり離婚したばかりの光夫と再婚し、沖縄に向かう。

 笑美の母親麻子も自分の母親が同じように父親に支配され続けた家庭で育ち、母の苦しみを知っているので、笑美の決意を両親とも理解し、後押しするところがとてもいい。

 私は結婚以来、妻とよくケンカをした。私が古い家族観から抜け出せないので、きびしく批判されたのである。私が納得して考えを改めると、ぴたりとケンカは無くなり、妻は全面的に私に協力してくれた。そのため、私は教育・組合活動・文学と、思いきり活動することができた。男女(夫婦)の平等と自由は、家族の根本だと思う。これが無ければ、いつまでも不一致・対立が続き、仕事も子育てもうまくいかないのだと思う。

 この作品は、このことをクッキリと書いていて、気持ちがいい。重夫と母親(姑)が、子供(孫)を押さえて笑美を呼び戻そうとするが、どうなることだろう。

 笑美は子供が成長して母親を理解してくれることを願っているが、私もそうなることを願うのみである。

 男の中に根強く残る、男女不平等の家父長的意識は、克服されなければならない。

 

 意見4             泉 恵子

宮本百合子の「伸子」になぞらえて、「紀子の場合」(稲沢潤子作)という作品があったが、さながら「笑美の場合」と言える女性の自立を描いていて、作者

の新境地を開いた作品かと。

作中、ばあちゃんが言うように、まもなく戦後八〇年にもなろうという「民主主義」と言われる時代になってなお、夫の家父長的な横暴や、いわゆるDVという状態は無くならない。

日本社会の封建性の尾を引く男尊女卑的な思想の根深さを思い知らされる。

「心がだんだん小さくなって干からびていきそう」と目覚めた笑美が、「子供を取るか、自分を取るか」悩んだ末、自分を選び、離婚し、再婚するまでを急ぎ足で描いている。

昔は、子供のために我慢してきた女性が多かった。それでも、笑美の父()は、そんな母親(ばあちゃん)を見て、「可愛そうだが嫌で無視したり、馬鹿にしたりした」と語る。

子供のために自分を殺して「干からびてゆく」生き方は、子供にとっても必ずしもいいとばかりは言えない。それでも、この後、子どもたちは笑美のことをどう思って育つのだろう?という不安は消えない。ここは難しい問題だ。

作中、笑美が実家に戻り、光夫と再会して、やがて光夫とともに沖縄へ「飛び立つ」までにどのくらいの時が経っているのだろうかということが気になった。

冬の場面から話しが始まり、「2月初め」(p119)光夫が笑美の家を訪れているのは翌年の2月と考えて良いのか。飛び立ってゆく” 雪解けのころ” は離婚してから約一年余り後のことと読んだが......

その間の笑美の葛藤が、一言の長い会話で済まされているが、会話にひと工夫という声もあり、飛び立つまでにもう少し時間をかけてほしい気がした。

余談になるが、例会で札幌市にある女性の駆け込み寺「女のスペースおん」のことを話したが、この四月から「女性支援新法」が施行されるとのこと。

DV、性被害など困難な問題を抱える女性を支援するための法律が新たに作られる。日本の人権意識の低さを痛感させられる。

 

 意見5             豊村一矢

 近年の日本の離婚率は30%を超えているという。この数字が大きいのか小さいのか分からないが、離婚が特別な時代でなくなったとは言える。そして、その原因も様々だ。

 タイトルが「飛び立つ」となっているように、主人公が、結婚によって束縛や人権無視の生活を強いられ、離婚しかないと、新しい世界に「飛び立つ」話だ。

 しかし、離婚には様々なしがらみがついて回る場合が多い。慰謝料、子供がいれば親権問題、将来の相続争い等々。だが、自立することを応援したり支えてくれる人達の存在も書かれている。

 この作品は、「離婚することにより、多い困難や苦しみの多い理不尽な人生から脱出しようとする主人公への応援歌」だと読んだ。

 主人公に応援のエールを送る!

 意見6           室崎和佳子

勇と麻子夫妻の娘 笑美の自立の物語である。

 笑美が離婚しようと決意したことは、DVにまでいかなかった時期だったという意味で的確だったと思う。笑美にとっても子供たちにとっても、家庭内で暴力問題が起きなかったことは本当に幸いだった。

 文中 笑美のセリフで「子供たちが大きくなって私の事を解ってくれる日があることを信じたい」とあったが、これが一番難しい事だと思う。自分たちを捨てた母の気持ちは多分わからないであろう。しかし、そういうことは十分わかった上での笑美の決断なのである。

 

 意見7          小崎勢津子

2児の母となっている娘が突然「離婚する。ここに置いて」と言って、実家に戻ってきた、という衝撃的な出来事ではじまるこの作品は、タイトルが「飛び立つ」となっているので彼女の再出発の作品だと思いながら読みました。

 結婚するとお互いこれまでと違った環境に戸惑うことが少なからずあります。特に女性は夫が育った家のしきたりや考えに左右されることが多いのではないかと思います。

 この作品の夫は、自分に相談しないと嫌がり、自分で決めたがる。そのことに逆らえない。という主従関係。

更に、外に出て知人と交流するのを嫌がり、掃除や料理が苦手なことを罵り、その落ちこぼれを笑美の母に見せつける。壁の前に立たされ、理詰めで説教する…等々に縛られながら長年堪えてきていた。

 夫の実家から「子供を連れてきて」との連絡に、夫に連絡しないで連れて行ったことが、夫の逆鱗に触れ、暴力の気配を感じ、家を飛び出して実家に駆け込んだのだった。

 長年の状況から、もう修復が効かない状況であると判断し、どんなことがあっても戻らないと決めたことは理解できました。そして、新しいパートナーに巡り合って再出発することも良かったと思います。

だた、子供をどうしたらよいかが大きな問題であると思ったのですが、子供のことは陰からそっと観察

しただけで手放すことにしたことだけでなく、様々な葛藤があったと思われるが、その事には触れられていないのが少し物足りないと思いました。

 

 意見8           村松祝子

明るい現代の女性を感じた。

自分の人生を自分で切り開いていく逞しさと勇気はこれからの日本を生きていく女性の姿を想像された。

読後間も清々しく久しぶりに青春の一端を覗いた思いです。 

登場する個性豊かな婆ちゃんの告白がこの小説の山場をつくているように感じた。ばあちゃんの告白を聞いた笑美の思いをもっと知りたかった。

光夫の個性がいまいち薄いような感じがした。彼の職業とか笑美に惹かれた理由とかがあったら具体的に彼のイメージが浮かんでくると思った。

母親の麻子の告白部分はなくても良いような感じがしたが‥

息子に当たる勇が自分の母親婆ちゃんの卑屈さに子供の頃から嫌だと感じていたとは、女性に対して真のジェンダー感覚を持っている人だなと思った。

作品全体は澱みなく読め、まとまった良い作品だと思った。

四姉妹が揃って札幌に住み、仲良く交流してきた。羨ましい。

人間は年を取る。年をとると何が起こるか解らない。覚悟しなくてはならないと、つくづく感じた。札幌に住んでいないので地理がよく解らないが、長く住んでいた大切な所を離れ高齢者マンションに入るということは、相当な決心が必要だったのだろうと思う。 

四姉妹が11人個性的に描かれていて解りやすい。特に亡くなった二番目の姉優子さんは、魅力的だ。更に一番上の姉康子さん、夫を

若くして亡くした四番目の妹潤子さん。もっと知りたいと思った。どうかお元気でいつまでも長生きしてください。

 

 

追加

 

「通信」302号(先月号)例会誌上紙上合評の「後患い」に、私の「意見」を追加させてください。

                  豊村一矢

 

 意見7              

 

文学作品として、大変優れていると思った。

 主題を露骨に言葉で説明する作品に出会ってきたが、ここでは登場人物の行動と絡み合いで読む者にしみ込ませている。だから、感動する。

 特に、p68ページの、うなだれて出て行くワルに、「金はあるのか?霧多布まで歩いたらバスに乗れ」と、お札を握らせる場面が圧巻でした。やはり戦争の後患いに病む散布村の人たちの「ワルへの労り」のようなもの滲みきて、ジーンとした。

 

 

 

                                  投稿欄

 

書評          

直木賞受賞作 

川﨑秋子『ともぐい』(新潮社)

松木 新

明治三十年代、白糠の町の手つかずの山中で、二頭の熊が戦っている。

「穴持たずが渾身の力で組み合った赤毛の頭を打った。太一が目を失ったという攻撃を再現したかのように、熊の顔面上部を爪が抉って血飛沫が飛ぶ」。

「穴持たず」は、冬眠を逃がして阿寒から流れて来た熊、外部からの闖入者を排除するために戦いに挑んだ「赤毛」は、この山の若き王者の熊だ。

「ギアア、と穴持たずの口から悲鳴に似た情けない声が漏れる。鼻先のあたりが軟骨ごと食いちぎられ、慌てて組み付いている体を離して両前脚で懸命に鼻のあたりを掻きむしり始めた」。

この小説の魅力を余すところなく伝えている、衝撃的な場面だ。

物語の主人公である猟師の熊爪は、「少なくも、俺は熊に近い」と自覚した生活ぶりだ。それだけに、熊爪・赤毛・穴持たずが、白糠の原生林の中で繰り広げる死闘は、迫力ある描写と相まって、読む者を作品世界へ引きずり込む。

穴持たずの襲撃で足を骨折した熊爪は、瀬戸際に追い詰められるが、横から飛び込んできた赤毛が穴持たずを殴り殺したことで、九死に一生を得る。

それ以来、杖なしでは歩けない熊爪だが、「―できることだら。俺は。最後にあの赤毛に挑みたい」と、赤毛を捜し続ける。その姿は、巨大な鯨を追い続ける『白鯨』の片足の船長エイハブのようだ。

ついに熊爪は赤毛を見つけ出し、村田銃の引き金を引いた。「痙攣(けいれん)さえすっ飛ばして、赤毛は死に至っていた」。

「―なんでこんなことしたんだ。俺は」、「熱い涙がだらだらと流れては赤毛に沁みていく」。

道東の苛酷な大自然の中で、地を這うように生きているものどうしに通ずる畏敬の念が、ここにはある。

熊爪に、猟師として暮らしていくために必要なあらゆることを教えたのが、アイヌの里で暮らし、彼らから大自然の中で生きるすべを学んだ和人の養父だ。熊爪の生命力の土台に、アイヌの知恵がすえられている。

アイヌに向けられた作者の眼差しの暖かさに、共感を覚えた。

(「ほっかい新報」2024年2月11日)

 

高橋篤子「星につなげて…遥かなる旅路…」

「アイヌとはなにか」と問い続けて

                  泉 脩

 

 何回かの改稿をして、昨年夏に完成した中編小説。永年アイヌ問題に取り組み、アイヌ語を学び、すぐれた作品を書いてきた著者の集大成の作品である。

 主人公の未来(みく)は、白老(しらおい)の木彫り工場で働く、アイヌ夫婦の娘。両親は未来にアイヌ語を教えず、和人(アイヌ以外の日本人)として育てようとする。しかし、高校卒業にあたって、未来はすべての就職試験で落とされる。二次の面接で不合格になるのである。

 母親は泣きながら未来を励まし、未来を東京のH女子大学栄養科に入学させ、通信教育を受けさせる。未来は下宿屋で調理を引き受け、四年間がんばり続ける。アイヌであることを隠し、東京で生きるためである。

 下宿屋の経営者夫婦は未来を可愛がり、ある夜のコンサートのチケットをくれた。南米ボリビアの音楽コンサートで、ケーナ(縦笛)やギターなど様々な楽器で、ボリビアの美しい音楽が演奏された。未来はすっかり心をうばわれ、特に高校時代に吹奏楽部が演奏した「コンドルが飛んでいく」に感銘を受ける。この曲は、スペインの植民地にされたボリビアで、自由を求める気持ちを表現した世界的に大ヒットした名曲である。

 未来は家の近くの楽器店でケーナを見かけ、店のCDでこの曲を繰り返し聴くようになる。店の主人がコンサートの演奏者の一員で、妻のみどりが未来をやさしく迎えてくれた。

やがて未来は、下宿屋で暮らす一人の青年、ボリビア人のアネモス・レラと親しくなる。彼はボリビアでセールスマンをしていて、祖母が日本人であることから、日本に短期留学をしていた。夕食後、二人は近くの公園で語り合い、恋仲になっていく。彼が帰国後、未来は男の子を産み、ボリビアにいる彼に知らせた。彼は、息子に「(けん)」と命名するが、日本に戻ってくることはなかった。

未来は母のケガもあって、健を連れて白老に帰り、けんめいに働く。やがて健は成長し、東京の大学に入って文化人類学を学ぶ。卒業後は旅行会社に就職し、北欧諸国との交流を目指す。

未来はいつも「アイヌとはなにか」と問い続けていた。それは健も同じだった。二人はアイヌ墓地で話し合い、健に父親に会うことを勧める。健は一年後の大学卒業の間際になって、ついに母にボリビアに行くことを伝え、物語が終る。

二十世紀終わり頃、国連が先住民の権利を守る決議をし、二十一世紀に入って日本は、ようやくアイヌの先住権を認めた。しかし、日本人全体がアイヌを正しく理解し、不平等な対応が解消されていくには、まだまだ不充分であり、今後もたたかいは続くだろう。

私はアイヌ問題について全く疎いのだが、それでも身近に何人かのアイヌの血筋を持つ人と親しく接してきた。私はいかなる差別感も無いが、認識や理解がまだまだ浅く、いわゆるジェンダー問題の理解と共に、勉強不足であると感じている。

作者の高橋篤子さんは、民主主義文学のすぐれた先輩であり、心から尊敬している。早くから胆振地区に住み、アイヌ語を学び、アイヌ問題に取り組む作品を書いてきた。この作品は多くの差別に苦しむ主人公の心情が、深く掘り下げられている。アイヌの現実と葛藤に、心を強く揺すぶられる見事な作品だと思う。

ケーナの笛の音が印象的な「コンドルが飛んでいく」は、私も大好きである。

 

後藤守彦『北の国から来た猫2』

                 

多彩なエッセー集

  泉 脩

 始めの第一部は、愛猫家の著者の力のこもった猫談議である。多くの作家・知識人らの猫論を紹介し、ただただ感心する。犬は人間に役立つが、猫は存在するだけである―といった指摘は、その通りである。かつてネズミ捕りが猫の役目だったが、今ではネズミがいなくなっている。猫はそのかわいらしさや、しなやかさで人の心を慰め、癒すのである。最後に著者が愛し抜いてきたミーコの死が語られる。十八歳六ケ月、人間にして九十歳の老猫であり、家族に看取られての大往生だった。荼毘(だび)にふす時、著者は「ありがとう」と叫ぶ。胸を打たれるシーンである。

 私も猫が大好きで、飼っていた猫はどの猫も、私に懐いていた。だが、すべてある時忽然と姿を消した。猫は死に際を見せないということなのだろうか。

 第二部は「音楽」である。著者はクラシックが好きで、札幌交響楽団の会員である。毎月の例会に通い、私が会員の時にお会いしたことがある。彼はシベリウスの交響曲が好きで、北海道と同じ北国のフィンランドの音楽だからだろう。私も同じで、特に三番が好きである。

 映画音楽について書いているが、実に詳しいのでびっくりした。私はミュージカルが好きで、教師時代に生徒たちといっしょに上演したくらいである。私の教師生活の頂点だった。

 「鎮魂のチェロ」という話は、感動的である。札響の首席チェリストが退団後に、東北大震災の義援金を集めるため、全国各地で五百回もチャリティーコンサートをする話である。それも、大震災の犠牲者の残したチェロを使って演奏した。私も聴いたことがある。札響の女性コンサートマスターの大平まゆみさんの引退の話があった。ALSのためであり、私もショックを受けた。彼女は今も元気でがんばっているとのことで、ほっとする思いである。

 第三部は「歴史」である。「父と戦争」の話で著者は、まず戦後に六十代で亡くなった父の、戦時中の歩みを書いている。通信兵として満州に送られて、ソ連や中国の無線の傍受と暗号の解読をしたらしい。しかし、すぐ病気になり、日本に帰されて除隊になった。父は家族に何も語ろうとせず、著者は苦心して調べて書いた。戦闘に参加していなくて、ほっとしたようだ。

この後は、歴史修正主義への批判と怒りが、きびしく書かれている。ユダヤ人虐殺、日本の侵略戦争が無かった、とする途方もない嘘を指摘した。歴史家として、著者の怒りは凄まじい。ウクライナの苦難の歴史や、関東大震災時の在日朝鮮人の大虐殺など、いずれも火の出るような文章が続くのである。

私は著者と同じに大学で歴史を学び、高校で歴史を教えてきた。歴史の本も多く読んできた。しかし著者の学識の広さと深さには、到底及ばない。研究者としての情熱と、インターネットなどからの広くて新しい情報の、収集の差があると思う。私はインターネットを触れたことも無い。まったくの機械オンチでなのである。

ひとつだけ疑問なのは、台湾問題である。日本による五十年の植民地支配の歴史を持つ台湾だが、私が十数年前に台湾ツアーに参加した時、台湾の人々の親日ぶりはただ事でないと感じた。

現地ガイド兼通訳の若い女性と話した時、「台湾の人々が一番行きたい外国は日本です―」と断言したのである。都市では東京と札幌だと言った。彼女の日本語は日本人よりも上品で、日本で学び、働いたという。東北大震災の時も、今年正月に発生した石川県大地震でも、台湾の人々が真っ先に義援金を寄せてきたのである。

第四部は「文学」である。私の知らない日本の作家が何人も紹介されて、とても勉強になった。在日朝鮮人作家については、李恢(りかい)(せい)以外知らなかった。

敗戦間際に獄死した若い詩人は痛ましい。

作家ではないが山本宜治の死は、何とも悔しい。私は長野県の山中の温泉街で、彼の碑を見つけてびっくりした。死の直前に講演して、その後作られた碑が隠されていたという。小林多喜二と共に真に偉大な先覚者だった。

どの文章も筆者が渾身の力を込めて書いていて、読むほうも胸を打たれ、身が震える思いである。筆者の深い学識と情熱がひとつになった見事な文章ばかりである。

この本は、私も大好きな猫・音楽・歴史・文学について書かれ、考え方もほとんど同じである。退職後はそれぞれ地域活動に取り組んできた。次々と著作を続けていることも、私たちはよく似ている。著者と私は同じ時代に、同じような経歴を積み重ね生きてきたのである。

 

死の受容ということ

後藤守彦

 昨年、二月に愛猫を、八月に弟を喪った。愛猫は添い寝しながら看取ることができたが、ステージ4の肺癌のため京都市北部にある病院で闘病していた弟は、私が三度目の見舞いを終え帰道してすぐに逝き、義妹から電話で知らせを受けた。夜の便で伊丹空港を発とうとしていた午後、ベッドの傍らにいた私を暫くじっと見ていた、もう口がきけなくなった弟の目、まどろんだ鈍色の目ではなく、その時急に瞳が黒々と輝いた目、深い思いがこもったような目、これが生前の弟との最後の対面だった。弟は何を伝えたかったのだろうか。こんなに早く旅立つことを弟は予想していなかったに違いない。その二つの死を依然として受容できずにいる。そして、ずっと死と生について考え続けている。

だから、死を描いた作品に出合うと、時には涙ぐみながら読むことになってしまう。近刊の町田そのこの、全五編からなる連作短編集『夜明けの狭間』(ポプラ社、二〇二三年)もそうだった。主人公の佐久間真奈は、古民家をリフォームした斎場をもつ、家族葬専門の葬儀社芥子実庵で二二歳から九年間葬祭ディレクターとして働き、真摯に死者と向き合っている。最初の死は、親友なつめの自死。映画化までされた小説で作家デビューしたものの、その後さっぱり書けず「一発屋」と酷評されデリヘル嬢となっていたなつめは、会社を解雇されひきこもりとなっていた常連客と心中したのだった。なつめの遺書には「佐久間真奈さんの担当で、佐久間さんの手で簡素な式をお願いしたい」とあった。デリバリーヘルスのマネージャーの男性と真奈は、なつめのあれこれをしみじみと語り合いながら通夜をする。マネージャーは「死んだ人間のことを話して、褒めて、労る」、それが通夜の晩でしょう、と言う。真奈は「これが、ひとを見送るということなのだ。ひとを見送る時間なのだ。わたしは表面しか見えていなかったかもしれない。大事なひととの時間の本質を理解していなかった」と、内省する。

第二章では元夫の恋人の葬儀を手伝うことになった、芥子実庵に出入りする花屋の女性、第三章では過去の痛みから抜け出せない、一番会いたくなった男に再会した、真奈の同僚の新入社員の視点から生と死が描かれていく。第四章「あなたのための椅子」は、学生時代の仲間の一人である森原壱が無免許運転の暴走車に撥ねられて死んだ、との連絡を、かつて壱を愛したが今は他の男性と結婚している良子が受ける場面から始まる。仲間の一人の星は、「良子さんは壱のための椅子をまだ持っているでしょう?」「椅子さえあれば、きっといつか壱が座る。あなたが壱の椅子を置き続けていたら、きっと話ができる」と、悲しむ良子を慰める。そして、壱との関係をこれ以上深めることはできないけれど、「これまでの関わりや繋がり、思い出、そういうものは決してなくならない。ぼくたちの中に、壱のたくさんの部分は残っている」と語る。生者の中で死者は生きていく。

良子の弟純也は真奈の恋人で、真奈にプロポーズするのだが、その結末が最終の第五章で明らかになる。純也は真奈に懇願する。専業主婦になってもいい、だけど今の仕事だけは辞めてほしい、と。真奈は何しろ、純也の嫌う死、遺体にふれる葬儀社の働き手なのだから。「彼の意思が第一優先で、第二がわたし。彼はそれを、『結婚』や『出産』『育児』という言葉をもちいて『当然』だという」、だから、真奈はためらってしまう。純也のことは愛しているし、結婚もしたい。だけど、女性は男性に仕事を続けることを許してもらわなければならない立場なのか。仕事のやりがいと結婚の間で真奈の心は揺れ葛藤が続く。決断後の真奈の思いを受けとめたい。

 

  必死に何かを掴もうと頑張ってあがいたら、絶対に残るものがあるんですよ。手の中が空っぽで、何にもなくって、自分じゃダメだったと悔やむことがあるけど、でもほんとうはちゃんと手にいれてるものがあって、それって自分でも繋げられし、誰かが繋げてくれもするんです。

 

葬儀社と連携して働く納棺師も死者と向き合う日々を過ごす。三八歳で保険会社の営業職から納棺師に転職した大森あきこは、『最後に「ありがとう」と言えたなら』(新潮社、二〇二一年)で思いを綴る。死者と遺族の別れの場面に立ち会うたびに、「死によって亡くなった方とのつながりが切れるわけではないと信じることができます。そして、今、自分の側にいる人との限りある時間がとても大切に思えるのです」と述懐する。四〇〇〇人以上の納棺式を務めた経験からの言葉は重い。

 

 『源氏物語』における「物語」論

                 泉 恵子

NHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まって、今年は「源氏物語」への関心が高まっているようだ。

「宮本百合子を読む集い」の会員の中には、以前から「源氏」の読書会にも参加している方々もいるが、今年こそ「源氏」に挑戦と言っている人もちらほらいる。

そのうちの一人は最新版角田光代訳の『源氏物語』(池澤夏樹私選『日本文学全集』の一環)を買い求めたとか。

また一人は、日本の女流文学者のなかでは、一〇〇〇年の時を経て、紫式部と宮本百合子が双璧ではないかと、大胆な私論を展開し、今年は読破したいと言っている。

先日も時折メールで話す卒業生が、瀬戸内寂聴訳の文庫本を全巻揃えて、二〇年近く書棚に飾っているのを眺めながら、「いつか、いつか」(読もう)と思っていたが、「今ですね」と云ってきた。

そんな人達に刺激されて、かくいう私も、今年こそ「源氏」をしっかり読んでみたいものだと密かに思っているのだが、過去に谷崎源氏で、挫折し、一四、五年前に出た林望(通称リンボウ先生)の『謹訳源氏物語』も二巻までで挫折しているから、余り自信はないのだが……。

国語教師の端くれとして、教科書に出てくるさわりの部分「桐壺」「帚木(雨夜の品さだめ)」「夕顔」「明石」や、時に「末摘花」「若紫」「浮舟」などの巻は何度か読んだり、その周辺をちらちらめくったりしたが、五四帖のうちの何分の一かである。その頃は源氏の面白味を生徒たちにうまく伝えることはできなかった。どうしても色好み光源氏の恋の遍歴といった捕え方になっていたと思う。

リンボウ先生は、はっきりと「源氏」は女性たちの物語で、光源氏は狂言回しの役わりと言いきっている。この頃はそうした観点での読みが定説になっているようだ。

現在NHKラジオ第二(木曜朝一〇時から三〇分間)で、「女性たちの群像」というタイトルのリンボウ先生解説「源氏物語」が放送されている。

二月二二日は「玉鬘」の巻だった。

かつて光源氏の愛した女性「夕顔」の忘れ形見の「玉鬘」という設定である。「夕顔」の巻では、ほんの一夜源氏と契りを交わしただけの夕顔が、何者か 

(六条の御息所か?)呪い殺されてしまう。か弱くはかなげな存在の夕顔だが、リンボウ先生いうには、「娼婦」的な存在だったと。

その彼女には、頭中将との間に子供がいてそれが「玉鬘」だった。一時は筑紫の国に連れていかれてそこで成長するが、美しく成熟した玉鬘に懸想するむくつけき男もいて、そこから逃れるように再び都に戻り、彼女を気にかけていた光源氏と再会し、源氏は恋心という本心を隠して、我が娘として傍に置くことになる。

と、大雑把なあらすじだが、その先の「蛍」の巻で、源氏と玉鬘の「物語」に対する会話がある。

玉鬘が熱心に物語を読み、それを書き写しているのを見て、源氏が言う。

「女こそものうるさがらず、人に欺かれむと生れたるものなれ。ここらの中にまことはいと少なからむを、かつ知る知る、かかるすずろごとに心を移し、はかられたまひて………()

(女というものは面倒くさがりもしないで、人に騙されるように生まれついているものですね。たくさんある物語の中に本当のことはごく少ないであろうのに、一方ではそれをよくわかっていながら、このような出まかせの話しにうつつを抜かし、真に受けたりなさって…… ())

「さてもこのいつはりどもの中に、げにさもあらむとあはれを見せ、つきづきしうつづけたる、

はたはかなしごとと知りながら、いたづらに心動き、らうたげなる姫君のもの思へる見るに、かた心つくかし。……()

(それにしてもこうした数々の作り事のなかに、なるほどそんなこともあろうかとしみじみした人情味をみせて、もっともらしく書き続けてあるのは、一方ではどうせたわいもない事と承知しながらむやみに興味をそそられ、いかにもいたわ

しそうにしている姫君が物思いに沈んでいる有様を見ると、幾分か心ひかれるものですよ。……())

などどいうのを聞いた玉鬘は、返して言う。

「げにいつはり馴れたる人や、さまざまにさも酌みはべらむ。ただ、いとまことの事とこそ思うたまへられけれ」

(仰せの通りいつも作り事ばかりしている人が、さまざまにそうやって忖度するのでございましょうか。私にはどう見ても全く本当の出来事のように存ぜられるのでございます。)

物語を「嘘つき」という源氏に対して、作者は玉鬘に皮肉を込めて反論させている。そんな彼女を見て、源氏も真剣になって、続けて言う。

「神代より世にあることを記しおきけるなり。日本紀などはただかたそばぞかし。これらにこそ道々しく詳しきことはあらめ」

(物語というものは神代以来この世にあることを書きのこしたものと言います。日本紀などはほんの片はしにすぎないのです。これら物語にこそ、かえって公の道理にもかない、委細を尽くした事柄が書かれてあるのでしょう)

といい、更に、

「その人の上とて、ありのままに言ひ出づることこそなけれ、よきもあしきも、世に経る人のありさまの、見るにも飽かず、聞くにもあまることを、後の世にもいい伝へさせまほしき節ぶしを、心に籠めがたくて、言いおきはじめたるなり。…… ()

(その人の身の上と言って、ありのままに書きしるすことはないにしても、良いことであれ悪いことであれ、この世に生きている人の有様の、見るにも見飽きることなく、聞くにも聞き流しに出来ないことを、後世にも云い伝えさせたい、そんな事柄の一つ一つを心に包みきれないで言い置いたのが始まりなのです)ここまで「日本古典文学全集」(小学館)よりー(続き原文略)

(人を良いように言う場合には、その優れたところを選び出し、人の関心に応じようとする場合には、また悪しき有様でめったにあり得ないことも書き連ねる、いずれの方面に関したこともみなこの世のほかのことではないのですよ。

外国の物語を考えてみても、書き方は違っているし、同じ日本のことでも昔と今とでは違ってくるでしょう。内容に、深い浅いの違いはあるでしょうが、一概に嘘、偽りと行ってしまうのは実情に合うとは言えないでしょう)

と、光源氏の言葉で、最初は物語をけなしながら、そのあとで、その効用を説いている。

話はまだ続き、光源氏は、

「ところで、あなたの読んでいる古物語の中で私のように律儀な愚か者の物語はありますか」と、からかう。つまり、自分は恋心を秘めて父親としてあなたに寄り添っているのだが、そんな風に我慢している愚かな男の話はないだろうというのだ。そして「他に例のない物語に仕立てて世間に伝えさせましょう」というと、玉鬘は「そうしなくても、これ程めったにない事が、世間の噂にならない筈がありましょうか」と言い返す。

二人のような奇妙な関係を描いた物語はないと言いながら、「その実、読者は今まさに、この二人の物語を『源氏物語』として読んでいる。

読者が物語として読んでいることを、更にメタレベルで、物語論として読んでいるという高度に入くんだ構成になってるのも「蛍」巻の斬新なところである」と、木村朗子氏は『紫式部と男たち』(文春新書)で述べている。

 

『源氏物語』の面白さにこの年でやっと目覚めた気がしている。v

札幌民主文学通信 

二〇二四年〇一月〇一日 302号

 月例会誌上合評

 

合評作品 (奔流『30号』)

 

松木新 『街とその不確かな壁』が

問いかけるもの

 

意見1              泉 脩

 

私はかつて村上春樹の『ノルウェイの森』を読んだことがある。三組の恋人たちの、奇妙な交友と愛と死の物語である。複雑化する現代社会で、若者たちが人間形成を成し遂げることができるかどうか、切実で惹きこまれる作品だった。村上春樹は、この続きのように現代社会のゆがみとたたかう人々を書いてきたようである。

松木さんは村上作品を次々と紹介し、最新作『街とその不確かな壁』を取り上げている。入り組んだフィクションと難しい比喩に満ちた村上作品なだけに、この評論もむずかしい。

コロナ流行とウクライナ侵略の中で、高い壁に囲まれた平穏な街がある。この街に入るには、自分の影(自我)を捨てなければならない。つまり、自分の過去を忘れ、未来を考えないことである。平穏無事な時間が過ぎていくが、なんの発展もない。ここまでが第一部である。

この物語(全三部)の中心である第二部は、福島県の山間の街が舞台である。東日本大震災から免れた小さな街で、図書館の館長、実は幽霊が中心人物である。壁は無いけれど、なんとか人々は生きていくのである。

意味深い村上作品を紹介しながら、この評論は軍事同盟を作らず、多国間で話し合い、未来を作っていくことを求めて、まとめとしている。私も大賛成である。

村上作品は世界中で読まれ、ノーベル文学賞の候補に何度もなっているが、普遍性のある秀れた文学作品であるに違いない。私は『ノルウェイの森』しか読んでいないが、彼の並々ならぬ才能はよく解かるつもりである。今後どのように発展するのだろうか。

 

付記 「ノルウェイの森」はビートルズの歌のタイトルである。

 

意見2             泉恵子

 

例会の中で、評論の合評をする場合、作品に照らしてどうかということを話さなければという発言があり、十二月例会の折、後藤さんも読んだということに触発されて、この作品()の分厚さにちょっと躊躇したが、今年に入ってから随分時間をかけて読んだ。

改訂を繰り返して、コロナ禍の中で書かれた(三作目)とのことで、「壁」は、中国作家方方の書いた『武漢日記』などが想定されるというのは頷ける。

壁の内側の世界には「影」がない。影を捨てることは「自我」を捨てることを暗喩している。

そこで人々はひっそりと現在を生きてー時間のない世界というが、何故か季節の巡りや朝晩はあるーやがてひっそりと死んでゆく。主人公「私」は恋人がいるその世界に入りたいと、影を捨てて入ってゆき、彼女の勤めるそこの図書館で「夢読み」という過去の世界を読む仕事(これは本ではないのだが、何故か「読む」と表現)につくが、やはり現実の世界に戻りたいと、大変な思いで脱出する。

こちらの世界での福島県会津若松の更に田舎にある図書館長の仕事の世界は、前の子易館長や、不思議な少年との出会い、札幌出身の女性との出会いなど、東日本大震災にあった人びとに捧げる美しい話というのは同感だ。

だが、「信じる心をなくしてはならん」という子易館長は実は既に死んでいた人だったり、いつの間にか姿を消した少年は、探している私を連れてまた壁の向こう側に行ってしまう。

あまりにも都合の良い不思議な展開には、暗喩というより、寓話?ファンタジー?としか思えなくて、なかなかその世界で楽しむことはできなかった。

ハルキストと呼ばれる若い人々は、こんな寓話めいた世界が楽しめるのだろう。それはもしかしたら失われた三〇年という、未来に希望が持てない社会の反映なのかも?楽しめない私は「古い人間」になってしまうのかもしれない。

作品の最後はやはり、「信じる心」をもって現実世界の戻ろうとする。初めはためらいながらも最後は迷いを振り切って、一息でろうそくの炎を吹き消し(ここも、最初は大変な思いで脱出するのと違って、そう決心すれば戻れるというフシギ)現実に還ろうとする。やはり、現実の世界こそ「信じる」に足る還ってゆくべき世界なのだ。

と、この世界を受け入れてゆこうとするところで終わるのは、展望を失ってはいけないというメッセージなのかもしれない。しかし、最後の一節、

「暗闇が降りた。それは何より深く、どこまでも柔らかな暗闇だった」には、この混沌とした現実世界を喩えているようだ。僅かに「柔らかな暗闇」というところに微かな望みが感じられはするが。

この最後に、松木評論の言う、孤立から連帯の道へという展望が作者にあるのだろうかと、疑いたくなる。もしあるのなら、「信じる心」をもって、更にどのように生きていくか、どういう世界を引き受けるのかというそこまで踏み込んで描いてほしいと思った。

 

 意見3          石川節子

 

村上春樹さんの作品は、読了したものは、ほとんどなく、今回の作品も全く読みかじってもいない為もあって、さっぱり理解できませんでした。「不確かな壁」などという、不確かな言葉にも不愉快な思いを感じました。要するに、「理解出来ない自分」に腹がたち、「自分が悪い訳ではない」などと、自分を慰めたり、なんともすっきりした気持ちになれませんでした。

 

 意見4          豊村一矢

 

記憶違いでなければ、村上作品は、一冊だけ、ずいぶん前に読んだ。まったく自分と合わない作品だと、途中で放り投げた。だから、いまでは題名も忘れている。

私は文学少年でも文学青年でもなかった。強いて言えば、児童文学が趣味のお兄さんだった。そんなときに、村上作品にはじめて読んだものだから村上作品を嫌悪したのかもしれない。したがって、「『街とその不確かな壁』が問いかけるもの」から始まり、その後の展開も、をきちんと理解する基礎知識がない。残念だ。

 ただ、壁とか影とか自我とかは、「戦争」や「自らの社会的位置の危機」や、はたまた、「骨肉の争い」といった場面でも、造られ壊され、現れ消えたりする……、と思えた瞬間もあったのも事実だ。

 

 意見5           柏原 竜

 

評論の対象の本を読んでないのでよく解らないが、「不確かな壁に囲まれた街に入るためには人は影を捨てなければならない」というのは、どういうことか。「影を捨てる」「自我を捨てる」とはどういうことなのか。人は自我を捨てることはできないのではないか。自我は幼い子供からお年寄りまで誰でも持っていて、大事にすべき事のように思う。信じる心は中々持てないが、持つためにいろいろ考えたり努力しているのではないかと思う。 

いろいろ考えていくなかで信じる心は生まれてくる気がするが。

 

合評を受けて

              松木 新

 

「壁」を安保条約、核の傘と考えると、「不確かな壁」に囲まれた「街」は、日本の現実を象徴しているのではないかというユニークな意見にビックリすると同時に、集団で作品を読むことの大切さを改めて実感しました。

「この小説の最後に、〈一息でロウソクを吹き消した〉とあるので、モラトリアムという捉え方はちがうのではないか」という意見が出されました。

この小説は全70章で構成されています。6ページという非常に短い最終70章の登場人物は、〈私〉と〈少女〉と〈少年〉です。この〈少女〉は、第一部で、高校一年生として登場しますが、第二部、第三部の69章までは姿を見せていません。

このことから、この小説は、サンドイッチ構造になっていること、第一部と第三部の70章がパンの役割を果たしており、第二部から第三部の69章までが、サンドイッチの中身です。

したがって、この小説の主要な物語の最終は69章だと読み解き、〈ロウソクの炎はふらりと揺らいで消え〉に着目してモラトリアム論を展開したのですが、どうでしょうか。

 

また、「村上春樹の小説は非科学的だ」という意見も出されました。

「非科学的」な文学作品は枚挙に暇がありません。

たとえば、父親の亡霊と対話する「ハムレット」、森の中で魔女たちに翻弄される「マクベス」、現代では、マジック・リアリズムで描かれたガルシア・マルケスの「百年の孤独」や、村上春樹が小説の中で引用している「コレラの時代」、ブルガーコフの「巨匠とマルガリータ」、日本では、原爆死した父親の幽霊と暮らす井上ひさしの「父と暮らせば」、古いところでは、姫路城の天守閣に棲む妖怪・富姫を主人公にした泉鏡花の「天守物語」など。

「天守物語」は傑作です。主人公の富姫は非常に美しいのですが、福井の夜叉が池に空を飛んで行ったり、妹分の亀姫が手土産に持ってきた猪苗代城主の生首を、美味しそうに食べるなど、妖怪ぶりは群の抜いています。歌舞伎では、人間国宝の坂東玉三郎が豊姫を演じ、ライフワークの一つといえる演目になっています。

文学のジャンルは多様です。それらを、「科学性」や「倫理性」で評価する愚は避けたいと思います。文学の豊かな蓄積から、明日へ繋がる何かを見つけ、すぐれた遺産として継承していく、度量の大きさが求められていると思います。

 

後藤守彦翻訳  韓雪野『泥濘』

 

意見1             泉  脩

 

 一九三五年に書かれた朝鮮の短編小説の翻訳。作者は一九〇〇年生まれなので、すでに亡くなっている。

 朝鮮のプロレタリア文学とのことだが、なんとも重苦しい内容である。主人公は思想犯で投獄され、出獄して家族の元に戻ったばかりである。

 二間の狭い家に妻と子供五人と暮らし、皆イライラしながら過ごしている。妻は近くの友人と、夫の悪口や愚痴を話し合う。子供たちはきょうだい喧嘩が絶えず、外ではいじめられて、泣いて帰ってくる。主人公は子供を叱りつけて、「強くなれ」と言う。妻とはろくに口を利かず、軽蔑している。それでも就職活動をしている。

 この作品を読んで、私は日本の植民地になった苦しさを痛感した。作者も出獄したばかりで、日本への批判を書くことができない。治安維持法で、朝鮮人六十五人が死刑になった。投獄された人は数限りないだろう。

 文学を志し、作品を発表するのは、同じ時期の日本以上に難しかったに違いない。このことが、ひしひしと感じられて、読んでいてなんとも重苦しく感じられた。

 私は十年位前、韓国ツアーに参加し、ガイド兼通訳の青年に、「かつて日本はひどいことをしました」と謝った。すると彼は「昔の人は戦争が好きでした」と言い、そして「自分の妹が日本人と結婚しました」と言った。今は大阪に住み、子供が生まれると母親が世話をしに日本に行って、帰ってこないそうである。「息子の私は忘れられた。私は日本製のバイクに乗って楽しんでいる」と笑った。

 私はほっとする思いだった。日本語を学び、日本のツアー客の世話をしているのだから、きっと本心なのだろうと思った。

しかし日本人は日本の犯した罪を忘れてはならないのだ。

追記、治安維持法の死刑条項は勅令によって追加されたので、日本人には一人も宣告されなかった。

                                                              

意見2            泉 恵子

 

「翻訳」ということで、本来は、作品に照らしてこの翻訳がどうかという合評をすべきなのかもしれないが、それは無理ということで、この作品世界がどうかという合評になった。

まずは後藤さんの翻訳の力に感服する。

発表されたのは一九三九年、日本の植民地朝鮮において、思想犯で捕えられた作者の、いわゆる転向小説ということである。

妻たちのおしゃべりで語り始めるという、いわば間接話法の巧妙な仕掛けを持って、この息苦しい植民地下での治安維持法の理不尽な悲劇を描いている。全体重苦しい内容で暗いのだが、この妻たちの活き活きした会話が魅了的というか、その逞しさ、エネルギーに圧倒されてしまう。

そのあけすけな語りには、日本の女性たちとは違うものを感じてしまったのだが。

独特の比喩にもー例えば「糞をいじった串みたいな」とか「涙を小便のように流す」「ふぐりが地面に垂れてくっつきそうな」などというー日本の小説では出会ったことのない表現だが、大らかといおうか、まさにタイトル「泥濘」の世界を彷彿とする表現と思った。

主人公ミンウは自身の「弱さ」のために、こんな境遇になってしまったことを嘆き、子どもたちには強く育って欲しいと願う。最後の鶏を狙うイタチを追いかける場面には、夫婦が協同で困難に立ち向かってゆく姿が見えて少し救われた。

合評では、日本の朝鮮人思想犯(ばかりではないが)への不当な苛酷な扱いのことも話され、未だ解決されていない、深い傷跡についても考えさせられた。

 

意見3           石川 節子

 

面白い。兎に角面白い。作者はこのエネルギッシュな、おもしろさを産み出すエネルギーともなる、とてつもなく凝縮された得体の知れない焦げ茶色のものを腹に抱え込み、その制御に、日夜、思いあぐねている人なのではないかと想像しました。最後のイタチ事件などは、自分が未だ子どもの頃、親たちがイタチ対策に奔走した、あの日の場面が再現されていて、久し振りに大声を出して笑い転げました。ただ、野生のイタチを 「あれは向かいの家のイタチなのよ」と決めつけ、 「向かい家」のその家までしゃくにさわったり、日本人の表現とは少し違うレベルの大袈裟表現があり、それがまた、おもしろい。と、思っている間に突然終わってしまった。

仕方がないので、そのつづきを自分で連想して楽しんでいる。この効果は、物語を、より大きく膨らませる効果があることを知りました。

ミンウと妻との内面の丁々発止が、これでもかと言われるほど描かれている。加えて、近所のおかみさんたちとのやりとりもあるものだから、どんどん深みにはまっていき、広がる一方だ。

夫の収入や現在の立ち位置のみにしか関心がない女性たちの見栄の張り合いが展開され、面白い。

ミンウの我が子の見つめ方に人間としての未熟さを感じる。少なくとも国家権力に楯突いて臭い飯を食ったのだろうに、我が子に対しての人間的な暖かさを感じさせないのが不思議である。

 

意見4            室崎 和佳子

 

ミンウと妻との内面の丁々発止が、これでもかと言われるほど描かれている。加えて、近所のおかみさんたちとのやりとりもあるものだから、どんどん深みにはまっていき、広がる一方だ。

夫の収入や現在の立ち位置のみにしか関心がない女性たちの見栄の張り合いが展開され、面白い。

ミンウの我が子の見つめ方に人間としての未熟さを感じる。少なくとも国家権力に楯突いて臭い飯を食ったのだろうに、我が子に対しての人間的な暖かさを感じさせないのが不思議である。

 

意見5            豊村 一矢

 

小説『泥濘』は面白い。しかし、解説によれば、韓雪野という人の作品だということなので、紙上合評の対象作品とはならないと思うので意見は差し控えたい。

 この作品を読んで、日本の植民地であった頃の朝鮮のプロレタリア文学に興味を持ち、調べてみたいと思えたことが収穫だった。

 

 

 

 

 

意見6            松木 新

 

➀翻訳について

地の文に硬さがありますが、会話部分、とくに妻の会話がスムーズで、読み易い仕上がりになっています。

 

②小説について

朝鮮の転向小説として、興味深く読みました。

1933年の佐野・鍋山の転向、34年の作家同盟解体、転向小説のはしりといわれた村山知義の「白夜」、藤森成吉の「雨のあした」が発表されたのも、この年でした。34年に逮捕された韓雪野が、転向小説「泥濘」を発表したのが39年―日本と植民地朝鮮を巻きこんだ転向の嵐の凄まじさに、愕然としました。

〈むしろ棺の上には何も書いてくれないようにと願う〉(34ページ上段)には、転向者の寂寥感が滲み出ています。

最後のページ。イタチに傷つけられ、頭が血だらけになった鶏を前に、〈「そうだ、あの薬を持ってきてくれ」〉と、ミンウが妻に頼む場面には、転向してもなおかつ、良心を守り通そうとする男の矜恃を、見て取ることができました。

よく理解できなかったのは、〈生まれつき弱い性格〉、〈その性格のために、どれほど哀れな目にあったことか〉(29ページ)と描写されているミンウが、治安維持法違反で四年間も投獄されたような容疑は何だったのか、が判然としなかったことです。新聞記者としての筆禍事件だったのか、その辺りをもう少し描いてほしかった。

 

 

 

 

 意見7          柏原 竜

 

韓国と日本の夫婦、親子関係は微妙に違い、韓国は熱くてドロドロした感じで日本はサラッとしている感じがした。隣の国、韓国に対しては植民地として大変痛めつけ虐めて迷惑をかけてしまったと思っていたが、隣の国なのに歴史とか風俗とかよく解らない。また、韓流ドラマにはまっている人が自分の周りにはたくさんいるが、この熱くドロドロした感性が引きつけるのだろうか。 

 ミンウの妻は強くてたくましい。子供達もきっと母親に見習って強くたくましくなるだろう。ミンウは何を考え生きて行こうとしているのか、よく解らなかった。

 アメリカやヨーロッパの知識はあっても韓国についてはよく解らない。もっと知らなくてはいけない。

 

 意見8          村松祝子

 

一番近い国でありながらあまり理解していない国、韓国の小説である。主人公はあそこと呼ばれる(刑務所)帰りの思想犯、ミンウである。彼の奥さん達の猥談凄が凄まじい。それが作品の中で延々と語られると彼自身の世間に対する反発と人間対しての希望を失った思いの丈を吐き出しているのではと感じた。

韓国は儒教思想が強いと聞く。

父親の子供に対する暴力も容赦がない。しかしこれは戦前の韓国の姿であって今では通じない話であろう。

最後に鶏とイタチの一騒動を通してミンウは現実の世界に目を向け始めていく。ニワトリが目を開けて体を起こそうとする姿に、ミンウは新しい元気を感じて行くだろう暗示を読者の与えてくれたと思って読了した。

いかにも韓国らしいエネルギッシュな小説で元気なおばちゃん達の庶民の生活が垣間見られた感じがした。韓国を空中から散歩して覗いたような感覚でこの小説を楽しみました。

翻訳されて読むチャンスを与えてくれた後藤さんに感謝します。

 

合評を受けて

               後藤守彦

 

例会後、浅野さんから『朝鮮文学選(1)解放前篇』(三友社、一九九〇年)をお借りしました。私が入手した、韓国語で書かれた『韓雪野短編選』にはない「過渡期」が載っていました。あとがきで、例会で話題になった朝鮮プロレタリア文学の評価について、李恢成が次のように述べています。

 彼らの作品は日帝による筆禍を誰よりも蒙り、彼らこそ誰よりも苛酷な文学者としての生涯を送らなければならなかった受難史からも、その民族的気概は刻印されなければいけないだろう。だが、そのことと、カップ(朝鮮プロレタリア芸術同盟)の作品がその文学的形式と方法においてどれほど芸術的成功をおさめたかはおのずと別個の問題であり、これから民族的文学史を再吟味していく過程で、検討されねばならないものと思われる。

 松木さんの評論の対象となった村上春樹は、実は優れた翻訳家でもあります。分野はアメリカ文学ですが、かなりの数になります。午前中小説を書き、午後は翻訳をするといった日々を過ごしたこともあるようです。これは蛇足ですが、翻訳は認知症予防に有効だと言われています。

 

 

 

泉恵子 宮本百合子―関東大震災と婦人運動

 

意見1           泉  脩

 

一九二三年九月一日関東大震災が起きた時、百合子は福井県の夫の実家にいた。急いで東京に戻って日暮里の親の家に行き、父親と弟の無事を確かめた。母親と妹は福島にいた。

すでに作家の道を歩み始めていた百合子は、夫との不和に苦しみ、離婚を考え始めていた。女性として自由な生き方を求めていた百合子は、古い考え方の夫に耐えられなくなっていたのである。平塚雷鳥らの女性解放運動が始まっていたが、百合子は全面的には一致しなかった。しかし少しずつ婦人運動に参加するようになり、新しい道に進み始めたのである。

 百合子は長篇『伸子』の執筆を始め、雑誌「改造」に断続的に連載し、一九二六年に完成する。この中で夫との不和の原因を解明し、封建的な家族観と決別するのである。

この頃、ロシア文学者湯浅芳子と出会って親交を結び、同居生活に入る。一九二七年湯浅とともにソ連に行き、西ヨーロッパを経て一九三〇年に帰国するまで、充実した見聞をした。帰国してからは階級的婦人運動を開始したのである。

永年宮本百合子の研究を続けてきた著者は、百合子の苦難の生涯をくわしく書き、特に敗戦後の力強い呼びかけを強調している。戦時中に耐え忍んできた百合子が、真っ先に立ち上がったのである。これは婦人運動だけでなく、自由と民主主義、人間解放の運動の口火を切ったのである。

私も高校生の時に百合子の作品を読み、日本のどの作家よりも心を打たれ、いわば灯台の灯のように励まされてきた。そして海外ではフランスのロマン・ロランの作品に感銘を受けた。二人は人間解放の旗頭だった。

 

 意見2           石川 節子

 

百合子」の名前は昔から知っているのに、その、ひととなりは、余り、よく知りませんでした。

泉さんの今回の作品で少し、「百合子」の影に近づけたような、気になりました。忍び足だったのでしょうかね。

民文の会場になっている建物の、1階入り口の喫茶店の窓辺の下の小さなお庭に、いつも、風知草が美しい風情を醸しだしていてくれて、行く度に心癒やされるのでしたが、ちかごろは、水を遣らないようで株数がへっています。

「顕治に感謝している」ことが出てくる百合子の小説があり、その小説のタイトルは思い出せないのに、小説に風知草が出てきたことを覚えています。  

でもやっぱり、まだ私には、「百合子は、ブルジョアのお嬢様、近づき難いイメージ」が消えず、親近感がもてません。好きになるには、どうしたらいいのでしょうね。

どなたか教えていたがけませんか。

 

意見3           豊村 一矢

 

泉恵子さんの「読書ノート」は実に緻密で具体的で、勉強になった。

私が宮本百合子という名前を意識したのは高校一年の時だった。家族で長屋造りの職員住宅に住んでいた。隣の奥さん(父の同僚の妻)が、暇があれば私を呼び、宮本百合子のことを熱く語って聴かせてくれたのだ。それだけでなく、百合子の著作を貸してくれたりもした。

高一は1958年のことだから、百合子が亡くなって17年も経っている。この奥さんが相当の百合子フアンであったことは間違いない。

この奥さん、「百合子が亡くなって、二年そこそこで宮本顕治は若い人と結婚したんだよ。十二年の手紙はなんなのさ」と憎々しげに言ったのも覚えている。

私はと言えば、百合子について無知であったから、奥さんの思い入れの強い話に辟易する面もあったが、私自身が後に革新的な思想に傾斜するきっかけになっていたことは否定できない。

そして、周囲を見ると、大学出の女性などに百合子ファンが多い一方、批判的な、特に党派的な視点からの批判が少なくないことを知った。かの戦争が終って十余年過ぎた頃の時代の空気があってのことかもしれないと、今は思う。

 

 意見4          室崎和佳子

 

宮本百合子を知らない人でも泉さんの文章を読むとわかる、という書き方がすごいなとつくづく思いました。わかりやすい言葉を使って文章を綴るということはとても難しいことだからです。おかげで、とても快適に読み終えることができました。宮本百合子に精通している泉さんのなせる技かなと感服しました。

 

意見5           松木 新

 

百合子の成長過程が、完結にまとめられており、教えられることの多い「読書ノート」です。

注文を二つほど。

➀同時代の女性活動家たちが、百合子をどのように評価していたのか、に触れて欲しかった。

たとえば、『貧しき人々の群』、『日は輝けり』、『禰宜様宮田』を読んだ伊藤野枝は、「彼女の真実―中条百合子氏を論ずー」のなかで、次のように百合子を評価しています。

〈一昨年、中条百合子氏の『貧しき人々の群』が初めて発表されて今日まで、文壇知名の諸家によってなされたその作品についての批評はかなり多く私の眼に止まった。しかも大体において、私をうなずかしめるようなものは一つもなかったといっていい。その真の正直な、美しい情緒と、何物にも妨げられぬ事実に対する鋭い観察力、そういうものに対して、本当に敬意を払った人はまるでなかったように私は記憶している〉

〈中条氏は、たいていの人がその外部だけを見て観念的に形づけてしまっているありふれた事実を、ありふれた「形」を、本当に純な心から、一つ一つ些細な点まで観察し、些細な点まで「感じる」事が出来たのである〉

②百合子が訪ソした1927年から30年は、スターリンが個人専制独裁体制を造り上げたその出発点にあたります。

1927年11月、トロツキー、ジノヴィエフを除名

     12月、第十五回党大会

1929年    第一次五カ年計画

紹介されている百合子の日記には、こうした政治情勢についてのコメントhありませんが、百合子は、政治が激変する兆しを、認識することができなかったのか、あるいは、認識しつつもソ連への配慮から書かなかったのか。そのあたりを明らかにして欲しかったです。

あのサルトルでさえ、一時期、ソ連への配慮から、批判的見解を封印していたというのですから。

 

 

 

 

意見6           柏原 竜

 

合評会で発言された事で次の事が印象に残った。 

 戦前、百合子が転向しなかった一因は経済力があったからだ。それもあるだろうと思った。人間霞食って生きていけないから。お金は大事だ。 

 また、戦前の厳しい時代に百合子が成長できたのは顕治の力が大きい。それを支えたのは強い愛だ、と言っていたがなるほどと思った。

前夫の荒木との苦しい葛藤から生まれたのだろう。百合子はやはり強い人だ。

泉さんの「百合子研究会」は長年にわたり百合子の本を読み続けてきたすばらしい団体だとあらためて思った。

 

 意見7          村松祝子

 

文章の行間から作者泉恵子さんの宮本百合子に対する愛情と尊敬の念がひしひしと伝わってくる。特に後半の婦人運動に対する宮本百合子の呼びかけ文はどの呼びかけ文も当時の革新的な女性たちの背中を押してくれる力になったと泉さんは指摘し、今なおその呼びかけ文は現在に生きる私達の心にも色褪せる事なく響くと書いているがその通りと同感した。

関東大震災当時まだ二十四歳であった百合子がどんな感慨であったか日記にでも記していないか知りたかったが当時東京にいなかったので仔細な事はわからなかったらしい。

しかし後日の日記に周りから不穏な空気を煽られてると自らそれに乗っかりその空気を増長させて行くという箇所は恐ろしいことだ。

正しい情報が得られない時代に自分の頭で考え判断することは不可能に近かったに違いない。

今は亡き義母が実家が神田にあり古着商をやっていて関東大震災に遭遇した。

家の前を五、六人の朝鮮人が数珠繋ぎになって家の前を通って行った光景を物陰に隠れて見ていて凄く恐ろしかったと話ししていた。もっと詳しく聞きたかったと今思う。

戦後百合子は牢獄で過ごした後遺症を抱えながらも婦人運動の呼びかけ文をたくさん書き、かつそれを小説の形にもしたエネギーと情熱に改めて教えられ感動しました。

彼女をそれほどまでにつき動かすエネルギーはなんだったのか?と。

それには呼びかけ文を何度も読み返せねばと、このボケ頭に問うています

 

合評を受けて

泉 恵子

 

昨年中読書会「宮本百合子を読む集い」の中で、百合子の代表作「伸子」を読んできた。(一年かかってもまだ三分の二位までしか読んでいないが)

その中で感じた疑問の一つに、戦後いち早く婦人たちの団結を呼びかけた百合子なのに、「伸子」の世界には、そういう動きは全くなく、婦人作家として小説を書く仕事をしながらも、実家と自宅という狭い空間の世界であることだった。(だからこそ生まれた「伸子」だった)この時代、百合子は「婦人運動」に対してどう思っていたのだろう、というのが執筆の動機である。

折から「関東大震災」から百年ということで、当時の様子ー特に朝鮮人や社会主義者の虐殺という悲劇がやっとメディアで大きく取り上げられていた。百合子はこの時どうしていたのかという興味で日記を読むと、「私の覚え書」という体験エッセイがあることを知った。

「関東大震災」の体験談は、このエッセイをなぞっただけである。(ジャンルを「読書ノート」とした所以)この時期の「婦人運動」についての百合子の立ち位置ー敬意を表しながらも、自身は積極的には行動しないーも見えてきたが、ではどうして、戦後いち早く呼びかけるようになったのか?

その後の中での目覚ましい成長があるということだが、そこは急ぎ足で活写した形になった。

ソビエトでの三年間と、その後の革命運動に身を投じていったこと。特に夫顕治と引き裂かれた十二年間の中での成長は著しいものがある。

合評の中で「何が彼女をそうさせたか?」という疑問が出されたが、百合子の持って生まれた資質や感受性と、彼女の努力の賜物なのだろう。特に十二年間の、夫婦の愛と知性の結の中にその内実が示されていると思われる。「愛」の力という声もあった。

また、課題も示された。「伸子」と同時代の人びとや作家たちにどのように読まれていたのか?「貧しき人々の群」で、新進気鋭の女流作家ということで有名な存在だったが、評価する人もあり批判者もいた。

「道標」はソビエトの革命後十年目の世界を描いたもので成果と矛盾が示されている。レーニン亡き後の不穏な動きも百合子(作中は「伸子」)の体験の範囲で活写されているが、どちらかというと社会主義建設にいそしむ人々を肯定的に描いていると思われる。

書いた時期は戦後の四八年から五〇年にかけてであり、スターリンの専制主義の矛盾が吹き荒れていた頃だった。日本社会の中ではまだあまり知らされていないが、五〇年には共産党の分裂も起こる。戦後もいち早く反動勢力の動きを察知し、警鐘を鳴らしていた百合子だったが、そのあたり(ソビエトの動き)をどう考えていたのか?今後「道標」を読む場合の課題と思われる。

 

石川節子 後患(あとわずら)

 

意見1           泉  脩

 

 昭和二十七年四月北海道東部の散布(ちりっぷ)小学校に、四人の新任教師が赴任した時の話。小柄な男の教師が、受け持ちの教室に行くやいなや、いきなり生徒たちに暴力を振るった。軍隊で散々やられ、それを生徒にぶつけたのである。暴力教師に校長も、PTA会長も手をこまねいていた。生徒の兄が怒鳴り込んで、その教師を追い出した。

 作者の実体験だが、敗戦後七年も経ってからの出来事とは信じがたい。それほど日本の軍隊は苛酷であり、兵士の人権など無いに等しく、異常な人格にしたのだろう。

 私は小学校四年の時に、東京から道南の森町に疎開し、四年の三学期から小学校に通った。そして五年の八月に日本は降伏し、二学期から担任が変わった。

その教師は特攻帰りで、暴力は振るわなかったが、暗く投げやりな教師だった。級長だった私は、以前からクラスの集金をやらされていたが、なんとテストの採点までやらされたのである。びっくりしたがやるしかなかった。学校に残って、けんめいに採点した。自分の答案まで。六年に札幌へ移るまでの半年あまりだが、この様な有り得ない経験をした。

 高校でも特攻の生き残りのW先生に英語を習った。東大出とのことで、授業はよかったし、特攻体験談がすごかった。柔道が強く、柔道部の生徒との試合は凄まじかった。W先生は後に釧路市長になった。

 この作品の教師は極端だが、どれだけ多くの男たちが戦争で命を落とし、人格を歪められたことだろう。日本の近代化は無理があり、周辺の民族を苦しめ、自国民をも苦しめて、なんとか達成したのである。この作品は、短い中に印象的にこのことを表現していると思う。

            

 意見2          泉  恵子

 

合評の最初に、作者からほとんど事実です、との言葉があった。

一九二七年、軍隊帰りの教師「輪塁善助」(この名前は如何か?の意見もあった)の、問答無用の生徒への体罰が生々しく活写される。

具体的描写が活き活きしていて、ひどい教師ぶりが浮き彫りになるところは、作者の筆力を感じさせる。

母の言葉「戦争の後患()を病んでいる人が、…… ()可哀想にね。これだから戦争は恐ろしいんだよね」の言葉が印象的だ。

日本の軍隊がどんなに野蛮で、粗暴なところだったか、この「ワル」の骨の髄まで沁みとおってしまった「暴力」が物語っている。おそらくそのようにされ、またそのようにしてきたのだろう。

犠牲になった生徒達も可哀想だが、最後には追放されてしまう「ワル」の心境はどんなだったのだろうか。子供の視点からの描写なので、そこまで踏み込むことは難しいかもしれない。が、大人の視点も入れて、戦争体験者の人物像をもっと掘り下げてほしいという感想もあり、同感である。

 

 

 

 

意見3            室崎和佳子

 

常日頃から思っていたことですが、節子さんは作中人物の名前付けが非常にうまい。

輪塁善助(わるいぜんすけ)などという名前と字合わせをよくぞ思いついたな、と感心します。ユーモアとゆとりを感じさせます。

小さい子供達の中では威張っていても、大人同士の力関係の中では威張ってはいられません。立ち去るしかありませんでした。

しかし村の人は優しい。バス賃を心配して何枚かのお札を握らせたのですから。

 

意見4            松木 新

 

よく出来た短編小説だと思います。一つひとつの場面を、映像としてくっきりととらえることができました。

〈「あれえ、戦争の後患(あとわずらい)を病んでいる人が、今でも、こんな身近にも居るんだねえ。可哀想にね。これだから、戦争は恐ろしいんだよね」〉のセリフに、この作品の主題が凝縮されていると思いました。

小学五年生としてはどうか、と思われる用語―「燃え上がるような烈しい覚悟」、「伝播」などが気になりました。

最後の場面、〈誰も校庭に出ようとしない〉〈全員。うつろな目で。席に着いている〉状況については、もう少し、丁寧な描写が必要だと思いました。抗議のための行動だが、やってしまった自分たちの行動に不安を感じていると理解しましたが、抗議行動のきっかけみたいなことを挿入すると、よかったのではないか思いました。 

 

 意見5          柏原 竜

 

教師による生徒へのひどい体罰があった事を知って驚いた。校長やPTA会長が子供達を守ろうとしない。ひどい。この教師は戦争の後患いと言って軍隊生活の後遺症だそうだ。軍隊の中では、日常的に激しい体罰がなされていることは知っていたが、戦後七年たってもその後遺症を引きずっていた。作者の石川さんはこれは全く事実だと言っていた。

 このような戦争の後患いの人を教師に採用したのは、当時の教師不足のせいだそうだ。校長たちの不甲斐なさの中で、下宿屋の親父さんと鉄男君の兄さんが学校に来てこの教師を追い出してホッとした。

この二人がいなかったら体罰はまだずっと続いていたかもしれない。

いじめは止めに入らないとどんどんエスカレートして続いてしまうそうだ。

現在も人目につかない陰湿ないじめがあるそうだが、気が付いたら声を上げていかなくては。

 

 意見6           村松祝子

 

「後患い」という題名を読んで私は病を想像して主人公の病後の人生かなと‥‥単純に想像した。

しかし作品はそんな単純な世界ではなかった。戦後七、八年経った北海道の東の果て散布(ちりっぷ)小学校で起きた軍隊帰りの教師の物語である。

小学校五年生の桃子の目を通して軍隊帰りの教師は凄まじい軍隊内で経験したであろうシゴキを生徒たちにする。

桃子が主人公かと思ったが、この小説の主人公は教室に乗り込んできた「与太」だと思った。理路整然と輪塁善助に向かって啖呵を切るところはまさに現代に通じる教育の基本かと思う。「学校は先生だけのものでない。村の人達みんなのものだ」と。

七、八年経ってもなお軍隊での経験が昨日の事として甦る病も哀れであった。一言も言わず海霧に中に消えて行く姿は詩的表現だと思った。

暗い題材であるが明かるく纏められているのは主人公、桃子の目を通して描かれているせいと思った。時々五年生の児童にしたら大人びた思いや考えが描かれているがこれはつい作者の本音が現れたのであろう。名前を輪塁善助と付けていたがこれは作者の遊び心かなと思った。

解りやすく最後の子供達の喜びの涙にホッとして読み終えた。

 

合評を受けて

               石川節子

 

始め、題名を「暴力先生」か、「泣き笑い」にするつもりでした。書き進むうちにこの先生の暴力は戦時中の軍隊での暴力被害による、トラウマでもあるらしいことに気が付き、母がよく口にする「あとわずらい」になりました。

今回、紙にプリントしないで、全て、パソコン上だけで仕上げたら、ダメですね。句読点始め色々、誤りが多い。一行すっぽり抜けているところさえあ在る。

例えば、六三ページ下段、左側最後の部分。スカートにソックスだけの人もいます。

「どれだけ、痛かったことか」

ワルは今日も張り切っています。と、なるはずでした

六十五ページ下段、左から七行目、グランドの外では、は、〈外では〉でなく、〈端では〉 です。校長はグランドの周りを畑にして生徒のボールなどが転がり入ると、烈火のごとく怒りつけるのです。

この作品は、実際に在った事を思い出し、ルンルン気分で書き出したのですが、思いだすごとに腹が立ってきました。

おまけがあります。私が四十歳にも成った頃、釧路の私の住む地区に、消防地区団長としてワルが現れたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

池戸豊次『水のまち』

心にしみる夫婦愛    

泉  脩

 

 二〇一九年に発行された長篇小説。岐阜県郡上市を舞台にした、三十代の夫婦の、心に沁みる夫婦愛の物語で、さわやかな読後感に包まれる。

 一九九五年の阪神淡路大震災の十数年後、郡上八幡の隣りの山村で、水道屋を営む三十代の夫婦、本田(なお)()と妻のキシが主人公である。

 直次は祖父の代から三代続く水道屋で、三十九才。村中の家の水道修理をして人々から親しまれている。

妻のキシは、郡上八幡の食事処長崎屋の孫娘で、両親と共に神戸で勤めていたが大震災で被災し、同じ職場で働いていた婚約者の大阪の実家に移り住んだ。しかし婚約者の不実を知り、妊娠していたキシは郡上八幡の祖母を頼った。幼いころから、しばしば郡上に来ていて、祖母にかわいがられていた。キシは祖母の家で流産してしまう。

やがて幼なじみの直次と再会し、結婚を申し込まれ承諾する。それから七年が過ぎる。二人は協力して働き、才覚のあるキシは次々と揉め事を解決し、人々に愛され、直次の大切な片腕になる。その経過が詳しく書かれ、直次とキシの人柄が見事に書かれている。

第四章「憂いの王」がこの作品の山場になる。

直次とキシは、村で行われた芝居に出る。二百五十年前の江戸時代に起きた郡上一揆が、取り上げられている。郡上藩の重職たちが年貢を引き上げ、百姓たちが一揆を起こして四年も続くのである。

若い藩主の金森頼(かなもりより)(かね)は、お忍びの中で十五歳の娘に恋をする。しかし一揆が起こり、会うことができなくなった。やがて村人の直訴で一揆は終るが、幕命により改易処分となり、藩主は南部藩に預けられ生涯を終える。

この村芝居では直次が藩主になり、キシが相手役をして、最後は藩主の亡霊と年老いた村娘が再会して幕が下りる。歴史上の事実である郡上一揆だけに、村芝居は盛り上がり、村人は熱狂した。小説の読者も共に深い感銘を受けるのである。

最後の第五章「寒晒(かんざら)し」では、直次が仕事中に転倒し、頭を強く打ち、一時記憶が無くなった。キシは慌てて車で郡上八幡の病院に連れて行く。CТ検査で異常はなかった。次の日退院し、帰る途中に鯉のぼりの寒晒しを見る。二人はしみじみとなって帰宅し、キシはかつての流産の告白をする。直次は気にせず、自分に異常が無ければ不妊治療をしよう―と提案する。二人の夫婦愛が身に沁みる結末である。

この作品は、郡上八幡と隣の山村の川の風景が繰り返し描かれている。子供たちが、十三メートルもの高さがある橋の上から、次々と飛び込む風景。山村の川での「火振り漁」という鮎捕り。そして布作りの職人たちの「寒晒し」。村芝居の中で、浪人と偽った領主が村娘に櫛を渡そうとした時、一揆の知らせで櫛を水の中に落とし、後に亡霊が現れ、櫛を水の中から拾い上げて老女に渡すシーン。飛騨山脈から流れ出る急流が、この小説を味わい深いものにしている。

郡上に生れ育ち、現在も郡上に住む作者の、並々ならぬ故郷(ふるさと)への愛がうかがえる立派な作品だと思う。そして朴とつな直次と、(じつ)のある美しいキシの心根が、なんとも清々しい読後感を与えてくれる。

私は五十年以上も連れ添った妻を失い、妻の長い入院もあって、独り暮らしが十九年目に入っている。私は直次ほど立派ではないが、亡くなった妻はキシにそっくりである。この小説の夫婦が、やがて子どもに恵まれ、幸せに生きていくことを願って止まない。

作者の池戸豊次さんは、『民主文学』二〇二三年十月号に「白い道」を載せ、札幌民主文学会の例会で合評をした。そして会員の感想を通信に載せ、池戸さんに送った。すると丁寧な礼状と共に、この本を寄贈してくれた。拝読し、私は大きな感銘を受けたのである。

『民主文学』に毎号載る作品は、どれもとてもよい作品である。私は文学に目覚め七十年も本を読んできたが、日本の現実に根差した日本民主主義文学の作品が、とても好きだ。心を打つ作品が多くある。池戸さんのこの本のように、立派な本が更に増え、日本民主主義文学が続いていくことを願って止まない。

旭爪あかねさん、山形暁子さんが亡くなり、北海道でも西浦妙子さんなど、七〇代から八〇代の民主文学の会員が次々と亡くなっている。池戸さんはまだ六〇代初め。今後も高い峰を目指してがんばってほしい。近く九〇歳になる私も、まだまだ読み、書き続けたいと思っている。

 

 

今になって初めて知った言葉

後藤守彦

【国際霊柩送還】

北広島九条の会が発行している「九条だより」を毎月お届けしている町内の方が、最近貸してくれたのが、開高健ノンフィクション賞を受賞した佐々涼子の『エンジェルフライト 国際霊柩搬送士』(集英社、二〇一二年)。「国際霊柩送還とは、海外で亡くなった日本人の遺体や遺骨を日本に搬送し、日本で亡くなった外国人の遺体や遺骨を祖国に送り届けること」である。どんなに傷んだ遺体であっても丁寧に処置しきれいにして遺族に引き渡す、遺族に最後まで寄り添う、「国際霊柩送還の仕事とは、遺族がきちんと亡くなった人に向き合って存分に泣くことができるように、最後にたった一度の「さよなら」を言うための機会を用意する仕事なのだ」。佐々は語る。

 

   我々は亡くなった人の体に「魂」とも呼ぶべき、命の残響を聴いてしまうものなのである。ほとんどの人は、いざ親しい人の死に直面すると、「魂」がまだどこかにあると感じてしまうものではないだろうか。だからこそ手を合わせ、懇ろに弔うことによって、その人の「魂」を慰めるのだ。その「魂」というものは、遺された人間が亡き人を愛するがあまり作りだした幻にすぎないのか、それらしきものが本当にあるのかは、私にもわからない。

 

佐々の、本屋大賞ノンフィクション賞を受賞した『エンド・オブ・ライフ』(集英社インターナショナル、二〇二〇年)もお借りしたが、引き込まれるようにして読んだ。

 

【プラットホーム】

これは既に存在した言葉だが、新しい意味をもつ言葉となった。毎月開かれている、北広島九条の会の学習組織まなび座では、テキストを読み合わせ、自由に議論している。今使用しているテキストが堤未果の『デジタル・ファシズム 日本の資産と主権が消える』(NHK出版新書、二〇二一年)で、最新刊ではないが、依然として売れている。書名からわかるように、「ブロックチェーン」(正しいデータを守るシステム)から始まって、IT用語が次々と出てくのだが、この「プラットホーム」を選ぶことにした。新しく加わった意味は、「コンピューターの本体などを動かす際の基本的な設定や環境」だが、本書での最初の用例が「政府共通プラットホーム」で、各省庁や地方自治体のデジタル情報を一つにまとめるものとされている。

堤は「「今だけ金だけ」の強欲資本主義が、デジタル化によって、いよいよ最終ステージに入るのが見える」「デジタルは「ファシズム」と組み合わさった時、最もその獰猛さを発揮する」「わかりやすい暴力を使われるより、便利な暮らしと引きかえにいつの間にか選択肢を狭められてゆく方が、ずっとずっと恐ろしい」と警鐘を鳴らす。

 

【弄便】

『北海道新聞』二〇二三年一二月四日号の特集記事「言葉の現在地2023 老いる家族を見つめる」の中で、森鷗外の孫の小堀鷗一郎医師が、介護はきれいごとではない、「介護する側にとって、徘徊や暴言はある程度我慢できても弄便されると手に負えない」と語っていた。「老人文学の嚆矢」(鈴木斌『老人文学論』菁香堂、二〇一一年)と評価されている、半世紀前に出版された有吉佐和子の『恍惚の人』(新潮社、一九七二年)にも出てくる。その頃は認知症ではなく、老人性痴呆と言われており、その最悪の事態が、「自分の排泄物を食べたり、躰になすりつけたり、あるいは幼児が泥遊びするように、丸めたり投げたり壁に塗ったりする現象」であり、これが「弄便」である。『恍惚の人』では、舅の茂造を在宅で献身的に介護してきた、長男の妻の昭子が、茂造がオムツからもれでた大便を畳に塗り付けているのを見て呆然とする場面が、終結部に用意されている。それでも昭子はめげない。父と同じになるのでは危惧する、昭子の夫信利は思う

 

  実を結んだ後は、枯れて朽ちる。枯れるのはいい。枯淡の境地とは望むところだ。そして朽ちるのが死を意味するなら、これも自然だ、甘受したい。しかし病葉が裸木の枝先にからみついてただ一枚残っているような、あるいは赤く熟れた柿の実が人の手の届かない高い木の枝にひっかかって、そこで醜い姿をさらしながら饐え腐っていくような、そういう彼はぐれ、朽ちそこないにはなりたくない。枯れたら潔く地に落ちて死にたいものだ。

 

しかし、現実はままならないのではないか。前掲の特集記事には、作者不詳の世界中に広まった、『手紙ー親愛なる子供たちへ』と題する詩が紹介されていた。「あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように 私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい」、このフレーズが胸に響いた。

 

【クロニクル】

『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋、二〇二〇年)を読んでから、敬遠していた村上春樹に目を向け始めた。中国戦線で戦った父から聞いた捕虜処刑の事実を受けとめて、村上はいう。

 

  いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈にやきつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを−−−現代の用語を借りればトラウマを−−−息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?

 

村上の真摯さを感じた。そして松木さんの評論

「『街とその不確かな壁』が問いかけるもの」(『奔流』三〇号)が背を押してくれた。未読の長編や短編、さらに村上が翻訳した小説に挑戦し続けている。

村上作品は、現実と非現実との行き来があったり、幽霊が登場するなど内容は複雑・難解だが、文章は平易である。だから、今のところ本文で未知の言葉に出合ってはいない。「クロニクル」はタイトルで使われているものである。その作品名は、ノモンハン事件が織り込まれている『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社、一九九四・九五年)で、三巻からなる長編小説である。「クロニクル」は、『広辞苑』には「年代記。編年史」とある。

 

【ポグロム】

昨年一二月二三日、北広島革新懇主催の、二〇一一年から二〇二二年まで一四回の支援活動を行ってきたパレスチナ医療奉仕団の団長である猫塚義夫医師の講演会があった。演題は「ガザの、パレスチナの命を救え」であった。言及されなかったが、レジュメにこの言葉があった。高校の世界史の教科書で使われている歴史用語を網羅している『世界史用語集』(山川出版社)には載っていないが、和田春樹の『ロシア史』(山川出版社、二〇〇二年)には、三か所で叙述されていた。この歴史書は以前に読んでいるので、今初めて知った言葉ではなく、正しくは、私が忘れていた言葉と言えよう。手元にある『角川世界史辞典』の解説の前段は次の通り。なお、ポグロムはロシア語である。

 

   ロシアのユダヤ系住民に対する集団的略奪・暴行・虐殺、社会不安と反ユダヤ主義がその背景にある。一八八一年、皇帝アレクサンドル二世暗殺を機に、キエフを中心に一カ月間にわたり出稼ぎ農民・労働者が引き起こし、八二年政府のユダヤ人権利制限をもたらした。

 

 以下、一九〇三年、〇五ー〇六年、一七―ー二一年の虐殺が叙述されている。だが、ホロコーストがあったからといって、イスラエルの蛮行は決して許されない。講演の中で、猫塚医師が強調していたのは、ハマスがイスラエルを越境攻撃した一〇月七日からの状況を見るのではなく、イスラエルが一六年間ガザを占領し、「天井のない監獄」の状態に追い込んでいること、さらにさかのぼって、一九四八年の建国以来、イスラエルがパレスチナの人びとを攻撃し続けていること、こうした歴史を考えてほしいということだった。翌日、北広島駅前でイスラエルへの緊急抗議行動があり、手作りのボードを持って参加した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『新カラマーゾフの兄弟』が面白い

                 松木 新

 

昨年末、「赤旗日曜版」から、大江健三郎「親密な手紙」(岩波新書)の書評を頼まれたので(1月28日付に掲載)、大江健三郎について、少し調べて見ました。沼野充義との対談で、彼は何年かごとにドストエフスキーの全集すべてを読み直していること、もし『カラマーゾフの兄弟』の第二部が書かれたら、アレクセイ(愛称アリョーシャ、カラマーゾフ家の三男―引用者)は、〈二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろう〉と発言していることを知りました。

 

〈私はドストエフスキーもまた、あの困難な時代において、「意志的な楽観主義」をもって死んでいったのだろう、と思う。もし第二部が引き続き書かれていたとしたら、アレクセイは二十一世紀の私たちが希望を託しうるような人物として書かれただろうと考えます〉(「ドストエフスキーが二十一世紀に残したもの」―『21世紀ドストエフスキーがやってくる』)

 

『カラマーゾフの兄弟』(以下『旧』)については、亀山郁夫訳(光文社古典新訳文庫)に心酔していますが、彼が大胆にも第二部の小説化に挑戦し、2015年に、『新カラマーゾフの兄弟』(河出書房新社―以下『新』)として出版したことが、気になっていました。如何せん、上、下二冊で1400ページを越える大作なので、なかなか読む時間を取ることができませんでした。書評を書き終えたところで、この機会を逃してはならないと、十日間ほどで、一気に読み終えることができました。

阪神淡路大震災と地下鉄サリン事件が起きた1995年の日本を舞台に、十三年前に起きた父殺しの犯人を探すミステリーとして、「黒木家の兄弟」の物語が展開していきます。小説の構造は、『旧』そのままですが、自然災害、オウム真理教に翻弄される人々の思想にまで踏み込んでいるところに、この小説の特徴があります。

父親殺害の実行犯は、父親の私生児ではないかと思われている須磨幸司(『旧』のスメルジャコフ)ですが、作者は黒木家の三兄弟全員、長男ミツル(ドミートリー)、次男イサム(イワン)、三男リョウ(アレクセイ)にも罪があるとしているところに、この小説の面白さがあります。作者は、このことを〈『オリエント急行殺人事件』を思わせる構造〉だといっています。

その場合、キーワードになっているのが、〈使嗾(しそう)〉と〈黙過〉です。

〈使嗾〉とは、〈指図してそそのかすこと。けしかけること〉(広辞苑)です。この作品では、『旧』と同じように、次男のイサムが私生児の幸司を〈使嗾〉したとされていますが、『旧』と異なるのは、ミツルとリョウが幸司の犯行を〈黙過〉したとされていることです。その理由として、彼らの潜在意識のなかに、父殺しの願望があったことが挙げられています。

『旧』でも、『新』でも、「父殺し」が主題になっていますが、難しいのは、「父殺し」をどのように理解したら良いのか、です。『新』では、『旧』のゾシマ長老を模したと思われる嶋省三の言葉が紹介されています。

 

〈「父殺しは、人間が、生きるために、そして、人間が、人間であるために、必要な、条件なのです。父殺しが、禁じられたとき、いや、殺されるべき、父が、消滅し、見失われたとき、人間は、悪魔に、人間社会は、悪魔たちの、支配に、委ねられる」〉

 

この文章をどのように解釈したら良いのか、課題として残されていると思いました。

 

『新』には作者の分身として、大学助教授のKが登場します。Kの恩師であるロシア文学者Xとの交歓が、もう一つの読み物になっているところにも、この作品の魅力があります。Kを亀山郁夫、Xを原卓也と想像すると(Xについて書かれていることは、すべて、原卓也の史実と合致しています)、原卓也の生き様がよく分かり、とても参考になりました。

2004年10月26日、Xが他界し、Kが弔辞を読みます。その中に次の一節があります。

 

〈トルストイの小説『戦争と平和』の原稿四千二百枚をきっかり三百六十五日で訳した逸話、ペレストロイカ前夜に話題になったベストセラー小説『赤の広場』を翻訳した際、屑籠に散った原稿用紙がわずか一枚だったというエピソード〉

 

『赤の広場』は初耳だったので、ネットで調べたところ1円でしたので、早速購入し、読んで見ました。作者によると、この作品は〈一九八二年一月十九日から二月三日までの間にあやうく起きるところだったクレムリンのクーデターについての推理小説〉とのことです。

この時期のソ連の状況は次の通りです。

 

1982年1月19日、ブレジネフの義弟にあたるKGB(ソ連の情報・防諜機関―引用者)第一次官ツヴィグーンが急死

1月25日、共産党中央委員会書

記スースロフが死去

11月10日、 ソ連国家元首ブレジネフが急逝

1991年9月、ソ連共産党が解体、日本共産党常任幹部会声明は、

               「もろ手をあげて歓迎すべき歴史的出来事」と表明

1991年12月、15の民族共和国からなるソ連邦が解体

 

この小説は、主人公であるソ連検察庁特別重要事件捜査検事シャムラーエフによる、ツヴィグーン急死の真相解明を中心的なストーリーとして、ブレジネフ政権末期の緊迫した時期を扱っています。

物語の展開は省略しますが、当時のソ連の実態について、興味深い記述がありますので紹介します。

治安状況

〈モスクワでは毎日三、四件の計画的殺人、数十、数百の暴行や強盗、統計によれば大小の不良行為が四千件も起こっているのだ〉

 

②若者たち

〈薄暗いホールの上にたちこめる煙草のもうもうたる煙の中で、狭苦しく立ちならべたテーブルの前にびっしり坐っているのは、十六歳から十八歳くらいの娘や若者たちだった。彼らの前のテーブルにのっているのは、ソ連のジグリュフスコエ印のビールかアイスクリーム、せいぜいよくても安物のワイン「アリゴテ」だった。だれもが立てつづけに煙草をふかし、話し合い、ステージではジャズバンドがけたたましい音を立てていた。ロシアの農夫とも、アメリカのカウボーイともつかぬ異様な風体の五人のジャズマンが、それぞれの楽器から絞りだしていたのは、ジャズ編曲でほとんど見分けもつかなくなった愛国的な青年(コム)共産()同盟(モール)の歌『グレナダ』だった。こうして当事者すべての利害は守られているのだ。市の文化管理部にだされる毎日のバンドのレパートリーはイデオロギー的に正しいものに見えるし、きき手にとっては歌の内容など意味を持たなかった。このジャズマンのお兄さんの手にかかれば、グレナダでさえ完全に「外国的に」ひびくからだった〉

 

③監視体制

〈ロシアから出た千七百万人の人間が外国で暮らしているのだから、たとえその反数だけが年に一通ずつ、懐かしいロシアに手紙を書くだけでさえ、監査部(ソ連通信省郵便同封物検査部―引用者)には八百万通以上の手紙が殺到するわけだし、その一通一通を、開封の痕跡を残さぬように開いて、目を通し、名宛人に届かせてやるべきか、やるべきでないかを判断し、しかもどんな場合でもコピーをとって、KGBの特別部に送らねばならないのである〉

 

④政治的頽廃

〈ここ一八年の間に、党機関は実際、収賄者の派閥と化してしまったからね。連中にとって、ブレジネフ時代は正に黄金時代だよ。スターリンに関しては何がどう言われようと、スターリン時代には党の役職が売り買いされることはなかったよ〉

 

スターリンについては、少し以前に読んだノーマン・ディヴィス『ワルシャワ蜂起1944』のなかで、大戦末期のアメリカでは、スターリンが「アンクル・ジョー」として善玉扱いされていたことを知り、愕然としました。

 

〈1943年1月のカサブランカ会談以降、ヨーロッパにおける大連合の政治目標はナチス・ドイツを無条件降伏に追い込むことだった。ドイツに無条件降伏を迫る方針は、不幸なことに、ソ連のイデオロギーである反ファシズムとアメリカ人のマニ教的な善悪二元論の両方に合致していた。その結果、驚くべきことに、スターリンは「アンクル・ジョー」として善玉扱いされ、スターリンに反対する者はトラベルメーカーとして退けられるという風潮が生まれた〉

 

こうした風潮を厳しく批判したのがジョージ・オーウェルです。彼はそうした状態は、〈スターリンに対する心理的な麻痺状態〉と指摘していたということです。スペイン市民戦争、とくにカタロニアでのたたかいで、彼がスターリン主義の弊害を実体験したことから、こうした見方が可能だったのだと思いました。

 

Xの死から一年後の2005年11月、Kは『旧』の翻訳に着手します。これが2006年9月、亀山郁夫訳の光文社古典新訳文庫『カラマーゾフの兄弟』として日の目を見るわけです。

X(原卓也)訳の『旧』はすでに出版されていましたから、Kの行動は、恩師の翻訳を乗り越える、ある意味、〈父殺し〉にあたるのではないか、と思いました。

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年十二月〇一日 301

 

 

 

十二月例会誌上合評

 

 

合評作品

明石淑子 「母と高岸先生」

       『民主文学』十二月号

 

 

 

意見1            泉  脩

 

とてもよい作品である。

 一九五四年、小学校四年の君子は新任の高岸佳枝先生に受け持たれ、二年近く楽しく過ごす。五年の終り頃、高岸先生が結婚し転任になり学校を離れた。六年の七月、高岸先生は入院・出産したと聞き、君子はクラスの男の子と見舞いに行く。涙の別れと対面が胸を打つ。君子は将来大学に入り、高岸先生のような教師になる―と決心する。

筑豊炭鉱の町をバックにした、教師と生徒の心の結びつきがとてもよく書けていて、なんともうれしい。炭鉱の落盤事故というきびしい現実と対比され、親を失う子供たちもいて、とても考えさせられる。

四人の子供を育てる母親が君子を励まし支え、この中で君子は成長していく。子供にとって、親と教師は大切であり、友人もできて将来の夢が育まれる。若い高岸先生は、とても優しく行き届いている。子供たちに慕われ、学生時代からの恋人と結婚し、子供も産まれる。そして自分の母親に子供を頼んで、教職を続けることを決心する。教え子が遠くから見舞いに来て、彼女の決心はますます強くなったことだろう。

私も永く教職に努めながら様々な苦労をし、生徒から学び、成長してきた。だから私にとって、この作品は実に身に迫るうれしい作品である。

なお一九五〇年代は炭鉱の最盛期であり、九州の筑豊地域は北海道と共に炭鉱の町が栄えた。危険と隣り合わせの毎日だが、生活は安定していたのである。私の両親は二人とも夕張で生まれ育ち、父親が四十五歳定年を迎えた時に札幌に移ったのである。戦前のことだったが、戦後の夕張の悲惨な事故は、他人事ではなかった。筑豊も同じであり、廃坑に追い込まれるのである。

君子の母は近所の奥さんに、「君子が勉強ばかりして生意気な口答えをする」とこぼした。すると「私は夫を落盤事故で失い、自分は何もできないので困ったが、再婚して助かった。これからの女は勉強して自立し、一人でも生きられるようにならなくては」といさめられ、君子への態度を改める。

高岸先生はできちゃった婚がわかって他校に移された。子供が生まれ、教え子が遠くから見舞いにきて教職への気持ちを立て直すことができた。

人は誤った考えを持ったり、あるいは失敗をするが、そこから反省し学びながら立ち直ることができるのである。

 

 

意見2           山田 孝子

 

読む度に新しい気づきがある作品だった。

 私とほぼ同時代を生きてきた女の子が主人公なので、懐かしい思いで読んだ。又、私にも、小学五、六年を担任してくれた先生に深く影響を受けた経験があったので、気持ちが伝わってきた。

 そして私も、やはり母親に「女は本を読んでいるより、家の手伝いをしなさい」と度々言われて育ったので、共鳴する部分も多かった。

 しかし、君子の母親は、柔軟な人らしく、君子を良く理解していく部分もあってホッとした。母親が変わっていく様子も良く書かれているので、(いいお母さんだなあ)と、共感できた。

 最後の部分「全身に陽を浴びた君子は、目の前の世界が拓かれていく喜びに溢れていた」に、これからの希望が見えるようで、明るい気持ちになった。

 あくまでも「高岸先生」が主人公だとしても、母の成長も目覚ましく、二人の名前を題名にしたのではないだろうか?

 

 

 

 意見3            泉 恵子

 

一九五四年(昭和二九年)主人公の田中君子は小学校四年とあり、読者の私と大体同世代のこの頃の少女の心境を上手に掬い取っている。

少女の視点があまりぶれることなく寄り添って書かれていて、破綻がない良い作品と思った。

が、合評の中で、p9「母にはない女の匂い」の表現を指摘されて、少し議論になった。「女の」に、思わず大人の作者が顔を出してしまっていると指摘されて、子供の視点で書く時の表現には、細心な注意が求められることを思った。

しかし、全体として七〇年程前の石炭が「黒ダイヤ」と呼ばれた頃の筑豊の炭住街の様子が、子供の眼でよく活写されていると思う。長屋、共同便所や、子供の遊び、お正月の風習など平和な面と落盤事故のような悲劇もあった。 

母の生き方と比べて、高岸先生の子供を産んでも先生を続けていきたいという生き方に憧れに似た共感を覚える主人公の素直な気持ちが、丁寧に描かれている。

先生の入院している病院に見舞いに行く場面は、壷井栄の「二十四の瞳」を連想した。

戦後の教育を受けた私たち世代の女性は、多くが自立して生きることを模索し始めたのではないだろうか。そんな戦後間もない頃の一人の少女の自立への目覚めを追った好短編だと思う。

 

 

 

 意見4           松木 新

 

支部誌第一号掲載作品が優秀作になったことの意義は大きいと思いました。誰にも、長い間大切にしている記憶があり、いつかは文字にしてみたいという希望を持っていることを、作者は明らかにしたのだと思います。

半世紀以前の筑豊で、小学生の少女が体験した出来事に、今日的な意味、たとえば、ジェンダーなどを後付けする必要はないと思います。少女の体験をそのまま楽しめば良いのだと思います。

この作品では、少女の世界が、当時の現実とどれほど溶け合っているのかが問われていると思います。炭住での生活の実際、たとえば、共同風呂、井戸端会議、炭鉱事故などを、もう少していねいに書き込んでいれば、当時の日本の現実の一端を切り取った作品に仕上がったと思いました。

 

 

 

意見5           後藤 守彦

 

例会では、筑豊の炭住を舞台に少女の成長が丁寧に描かれており、作者の思いが伝わるいい作品だった、と好意的に評価されました。

話し合われた点について追加発言します。選者の仙洞田さんが指摘した「小学生にはそぐわないと思われる言葉」として、私も「母にもない女の匂いが」

から始まって三つあげました。一方、特に違和感がなかったとの声も複数あり、大人の視点が出ているかどうかについては、意見がわかれました。例会

後、思い出したのはあさのあつこのベストセラー小説『バッテリー』のことです。中学生の主人公が、特に心の内があまりにも大人なので驚きました。私

の少年時代があまりにも幼なすぎたのかもしれませんが。

五年前、訳書『常磐の木 金子文子と朴烈の愛』を上梓しました。原作のタイトルは熱愛を意味する『ヨレ』、ハングルで表記され、サブタイトルとし

て日本語で小さく「烈の愛」と付されていました。ヨレを直訳した『熱愛』では露わすぎると判断し、主人公の金子文子が手紙の中で、いずれ萎んでしま

う花ではなく、常磐の木が好きだと書いていることもあり、『常磐の木』としました。勿論出版社の同時代社の編集者とも協議しています。刊行後、道外

の知人が書店の棚に並べられた写真を送ってくれましたが、その時、客の目を引くうえで『熱愛』のほうがインパクトがある、『常磐の木』ではおとなし

すぎたと悔いました。タイトルは職業作家でも随分悩むようです。タイトルは本当に難しいですね。

 

 

意見6          石川 節子

 

とても安定感があり、こころ和む思いで読み終えました。そして少し不思議に思いました。これと言った抑揚もなく、ストリー自体も、面白くもおかしくもないのに、これほどの重厚さをだせるのは、何故だろうと、思い巡らしました。

 それは、炭鉱と言うだけで、私の心根にこびりついている「悲惨な事故のイメージ」が、作者の言葉に、増幅作用を与えていることに気がつきました。作者は、事故について言葉多く語っていないのに、読み取る自分自身が敏感に受け取っていることに気がついたのです。それを、させるのも作者の力量であると思います。

 8ページの最初の行、「君子、お前。今日はおっとけ」とありますが、この、意味が全く解らず、地方差をおおいに感じて、おもしろい。

ジャジャ馬という意味の〔きびだんご〕も初めて聞く言葉でとても興味深いものでした。

 

 

 

 意見7          村松 祝子

 

新学期学を迎えた小学四年生の君子は、大卒出で新人の若い女性教師高岸佳枝が担任するクラスの生徒になった。背が高く優しそうな先生に魅せられて、今までと違って「勉強しよう!」という気持ちに掻き立てられる。落盤事故にあった子供が弁当を持ってこれなくなって弁当の時間に居なくなるのを不思議に思って後をつけると、高岸先生が笑顔でおにぎりを渡している姿を見て君子は嬉しくなるのであった。

先生の自宅で希望する友達と習字を習ったりこの頃昭和二二、二三、二四年頃の世相が読み取れる。 

戦後の開放感と民主主義の思想が人々の間に浸透してきて新卒の高岸先生も結婚しても先生を辞めないという生き方に燃えていたのだろう。そんな先生の生き方に君子も自分も先生になろうと決意するのだった。

素直で明るい小説だと思う。

落盤事故やその時の炭住長屋の雰囲気が知りたかった。

落盤事故が起きた時の父の心境もどんなんだったのだろうかとも。戦後一気に解放させられて世の中が明るくなり活気ある世相を作り出した時がありました。君子も高岸先生もその世相を受けて未来に羽ばたいていく姿が想像されました。

小説の題名が「母と高岸先生」となっていますが母より「君子と高岸先生」か「未来」か「飛翔」かなと色々案が浮かんできます。「母と高岸先生」とあるのですが母と高岸先生の接点が文中に現れて来ないので違和感を感じました。

君子を中心に理路整然と描かれて新人賞に相応しくこれからの作品が楽しみです。

 

 

 

 意見8           豊村 一矢

 

小学校四年生の君子が、「母」と「高岸先生」の生き方・考え方の違いに触れながら、成長していく数年間が描かれている。

 君子が健気過ぎて、読み進めながら私は、孫の成長を喜ぶ祖父に似た気分になった。

文章には、ぎこちなさを感じる部分もあり、いわゆる「少女小説」の赴きも感じたが、それでも、さすがに「優秀作」と、納得できた。

 作品の舞台は、七十年前の三井田川炭鉱の炭鉱住宅街であり、炭鉱夫家族が住む住居の造りなどは、ネットで検索すれば、具体的に知ることができる。 

狭いのである。家族の人数や構成にもよるが、基本、個人や夫婦のプライバシーはないに等しく、風呂、便所はない。高岸先生が暮らす職員住宅と雲泥の差である。このことがタイトルを『母と高岸先生』とした根拠の一つになっているのかな、と思った。 

さらに、君子は十歳なの大人の感覚を身に付けてしまった住環境なのだと思った。

また、この住環境を思い浮かべることで、十二章からなる作品の「第一章」(たぶん一学期、始業の日)、君子の朝の目覚めから、朝食時の会話、先に友人たちと学校に向かう武兄ちゃん、母に促されて兄たちを追う君子、そしてそれを追う妹昌子……こんな光景が身近なものして浮かんでくるのである。

 

もう一つ。作者がなりすましている君子の視点は冷静で、出来過ぎ。

というか、なりすましでなく、作者が直接、顔を出しっ放し、に近い。

初心者の作品にはありがちだと思うが、読者としては興醒めしてしまう。

 

 

 

 意見9           北野 あかり

 

この作品は主人公の公子が小学校の頃を回想している内容で、昭和29年ころの筑豊炭坑の人々の暮らしや考え方と、公子の人生の転機となった高岸先生を描いた作品と思って読みました。

 その頃の炭坑では落盤事故が相次ぎ、身内の者や身近な近所の人が犠牲になっている様子が、子供の目線から、救護に行った父や、父親が入院し弁当を持って来られなくなった子、夫が落盤で死亡の場合そこに住めなくなるため再婚している女性が描かれている。

 高岸先生についても、若くて美人、誰にでも優しく、個性を重視し応援してくれる素晴らしい先生。自宅で習字塾を始めたり、結婚しても出産しても親に子供をあずけて働き続けようとするなど、女性が働き続けるための道を切り開いていく女性として描いている。しかし、その経緯を見ると何の障害にも出くわすことがない。

炭坑の様子や高岸先生のことなど、どちらも淡々と述べているようで胸に迫ってくるものがない。

又、タイトルが「母と高岸先生」となっているので、何を描こうとしたのだろうと思って読みました。

しかし、母と高岸先生との接点はなく、公子から伝えられることと公子の変化から、母が女性にも学問が必要との認識に変わっていった、というように読みました。作者として、なぜタイトルを「母と高岸先生」としたのか、お聞きしたいと思いました。

 

 

 

 意見10           柏原 竜

 

戦後、九州の三井田川炭鉱で暮らす小学生田中君子が、母親や担任の高岸先生の姿を見ながら成長していく姿が描かれている。活気づいていた炭住街での町並みの姿、人々の生活の様子、落盤事故、人との触れ合いが生き生きと描かれている。

その中で、兄弟姉妹の中に親達の男女差別を感じ、担任の大好きな高岸先生が結婚しても子育てをしながら教師を続けて行く姿に驚き、自分も教師を目指していくことを決意する。しっかりしていた子供だと思った。現状に流されないで、おかしい事はおかしいと思ったり、これが好きだ自覚した事は突き進

む気持ちがいい。 

 自分は小学生の頃両親、妹、祖父母、叔父伯母、従妹、隣近所、学校、いろんな人々と過ごしてきたが、何を考えどう生きていたのか思い出せない。主人公はしっかりしていると、あらためて思った。

 

 

 

意見11           室崎 和佳子

 

九州の炭住街に住む君子の目線で、子供達の生活や思いを活写していて好感をもった。

 「ジャジャ馬」のことを「きびだんご」と言うのが面白かった。

 母に「男は台所のことはせんでよかと。君子は女の子やろう。あんたが行ってきんさい」と言われたことに対して悔しい思いをしながら、君子は六年生になる。

 転勤し、出産した高岸先生を見舞いに行った君子は、赤ちゃんがいても学校をやめないで教師を続けると言う高岸先生の決意を聞く。そのことが君子の未来への希望となる。

 憧れの存在だった高岸先生が、未来を指し示す存在になった。

 君子の喜びの深さが伝わってくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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室崎和佳子『ラヴ・レターⅡ』

遠距離恋愛が実る

   

泉  脩

 

『凍てつく朝』(いてつくあさ)、『ラヴ・レターⅠ』に続く、自伝的作品の第三作。

冒頭、一九六八年のソ連・東欧五ヶ国軍のチェコスロヴァキア侵入について書かれている。自由化を求める「プラハの春」を無惨にも踏みにじった事件である。日本共産党は、この暴挙を徹底して批判し、旧ソ連との対立は決定的になった。中国の毛沢東主導による「文化大革命」(文革)にも反対し、日本共産党の自主独立路線が深まっていく。

 こういった中、前作で結ばれた若い恋人同士が、一九七〇年四月離れて暮らすことになる。教育大釧路分校を先に卒業した真山和美は、尾岱沼(おだいとう)の野付(のつけ)小学校に赴任することになり、同い年ながら体育科の二年になる谷山真志と、遠距離恋愛になったのである。同じ北海道東部とはいえ、オホーツク沿岸と太平洋沿岸である。

 真志はたくさんのラヴレターを和美に送った。

この作品の大部分は、実際のラヴレターと合間の和美の言葉で成り立っている。実際のラヴレターで迫力があり、熱く胸に迫ってくる。

 真志は三年間、民主的体育を目指してけんめいに学び、四年の教育実習で高い評価を得る。併行して政治的活動にも努め、政府の教育反動化と戦う。

一方和美は、小学校教育に打ち込み、組合運動にも力を尽くす。真志から絶え間なく送られてくるラヴレターと、時々の釧路行で和美は支えられる。

 一九七三年十月、二人は婚姻届けを出して結婚のための形を整えた。一九七四年三月に真志は卒業し、実家のある苫小牧の中学校に就職が内定した。ところが身体検査の異常を理由に内定が取り消された。真の理由は謎だが何か裏があるのだろう。真志はやむなく十勝の山間部にある町の、教育委員会の社会教育主事になった。和美はこの町の小学校に転任し、ようやく二人の遠距離恋愛は終ったのである。

 この後のことは、次の作品で書かれるのだろうが、もうラヴレターによる身に迫る訴えはないだろう。残念ではあるがまずは一段落であり、めでたいことである。

 二人は十勝で永い年月を過ごし、やがて退職し、子育ても終る。それから二人は札幌に近い江別に移り住む。

著者は、三年前に亡くなった西浦妙子さんらと共に日本民主主義文学会十勝支部を作った。江別移転後は札幌民主文学会で活動している。

 最近のエッセーによると、十勝の陸別にまだ自分たちの家が残っていて、夏の間には時々行って掃除をしているそうである。庭の雑草を抜いたり、畑の手入れもしていて、とても楽しい息抜きになっているとのことである。

おそらくこの家にあるタンスの中から、夫からのたくさんのラヴレターがしまってあるのを見つけ、びっくりしたらしい。捨てることもできず、子供に渡すこともできず、結局自分の棺(ひつぎ)に入れて焼いてもらうことにしたという。ところが、このラヴレターを使って作品を書くことになり、とても楽しいそうである。なお、この作品の中では和美からのラヴレターは書かれていない。真志からのラヴレターはすべて保管されていたのだが。

私も「姉さん女房」という文章を書き、本まで作ってしまった。やはり人生の配偶者は一番大切なのである。子供も大切だが、やがて巣立ってしまうのだ。著者の室崎さんも夫との時間を大切に、さらに努力して、また立派な作品を書いてほしいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

有島武郎『星座』再読

                 松木 新

 

韓国南西部・羅州(ナジュ)市で10月30日、日清戦争(1894~95年)のさなか、日本軍に対して蜂起した朝鮮の東学農民軍の犠牲者を悼む「東学農民軍犠牲者を悼む謝罪の碑」の除幕式が行われました。来年は東学農民軍が蜂起して130年になります。

この機会に、「碑」建立発起人であり、日朝関係史の第一人者で、除幕式の直前に亡くなった中塚明氏と井上勝生、朴孟洙の共著『東学農民戦争と日本』(高文研 2013年6月)と井上勝生『明治日本の植民地支配 北海道から朝鮮へ』(岩波書店 2013年8月)を読んでみました。

両書とも、1995年7月、北大旧古河講堂で見つかった頭骨六体、その一つには、「韓国東学党首魁の首級ナリト云フ 佐藤政次郎氏ヨリ」と、墨で書かれていた事件が、出発点になっています。

この事件は北大文学部が調査し、1996年5月、韓国からの関係者が来日して文学部会議室で「東学農民軍指導者遺骨奉還式」が行われました。文学部調査委員会の「報告書」の印刷をアイワードが担当したので、営業担当として「報告書」に目を通すことができました。頭骨を放置した研究者とは、営業を通して懇意にしていましたので複雑な心境でしたが、この事件の全貌を正確に知ることができたのは収穫でした。ただ、東学農民軍にたいする知識は、日清戦争のきっかけになった事件、程度でしたので、多数の朝鮮人が東学農民軍として抗日闘争に立ち上がったことを、今回初めて知ったのは大きな収穫でした。

日清戦争での戦死者は、戦病死を含めて、日本人約二万人、清国人約三万人ですが、日本軍や日本軍に指揮された朝鮮政府軍や民兵による攻撃によって、東学農民軍の犠牲者は五万人に迫るといわれています。日清戦争はいうまでもなく日本と清国(中国)との戦争ですが、日清戦争の最大の犠牲者は朝鮮人でした。

有島武郎『星座』とこの事件との関連を、井上勝生が前掲書の第三章「北海道と朝鮮とアイヌ民族――植民学の新天地を求めて」で詳述しています。それによって次の諸点を初めて知りました。

 

➀頭骨に記されている佐藤政次郎は、札幌農学校・第一九期生で有島と同期です。佐藤は札幌農学校校長・佐藤昌介と昵懇でした。

 

②佐藤政次郎と同期に蠣崎知二郎がおり、彼は有島の親友でした。『星座』では、「柿江」として登場しています。彼は、1899年3月に公布された「北海道旧土人保護法」について次のように批判していました。

〈説者あり、「旧土人保護法案は、却つて夷人の独立心を束縛して其技能才略を委蘼するものたるに止まる」と。然り、それ或は然らん〉

 

③有島が敬愛した星野純逸は、『星座』では「星野清逸」として登場しています。彼が病気療養のために実家に帰るのが、「北海道旧土人保護法」公布から7ヵ月後の1899年10月という設定になっています。実在の星野は、その一年前に亡くなっています。彼の実家は市来知村(現・三笠市)ですが、『星座』では千歳になっています。

 

④『星座』には、千歳の老アイヌ「シムキ」を登場していますが、彼のモデルは千歳のサケマス孵化場の近くに住んでいた「シムシカトク」です。

 

⑤「北海道旧土人保護法」が公布された翌年、1990年3月5日~7日、有島たち四年生は千歳孵化場へ修学旅行に行きます(この時の写真が井上本に掲載されており、有島、佐藤政次郎が写っています)。その時の感想を有島は両親への手紙に書いています。

 

〈去る五日より七日まで千歳と申候處に修学旅行有之、早朝橇に乗じて同行者三人と先発し(略)目的地なる孵化場は当村を横流せる千歳川の上流二里の處に有之候。此道中甚だ幽邃にして殆ど太古の如く林樹を穿ちて川辺に出て川辺を去りて林樹に入り委蛇たる一道の小径は小子等を屡々名状すべからざる閑寂古雅の清境に誘申候。折々人家ありと見れば是皆アイヌの住む者に有之、勇桿なるアイヌ犬は異装の小子等に吠ゆる事頻りに御座候。正直にして朴敬、勇敢にして多情なるアイヌの遺民が長髭を振ふて山中の「自然」と勇ましき戦闘を為し、酷薄なるシャモ(彼等が日本人を指して云ふ語)の蛇の如き毒手を避け居る有様は轉た愁痛にして清新なる一篇の詩に御座候。少子は例の自然癖に不堪独り後れて呻吟しつゝ心中無限の慰藉を得て孵化場に着仕候〉(3月14日 有島両親宛書簡)

 

井上は、この旅行の時に、〈有島はシムシカトクに出会った可能性があると思う〉と書いています。

以前、「文学のなかのアイヌ」(『民主文学』1998年4月号)のなかで、『星座』のシムキが登場する場面を引用し、次のように書きました。

 

〈この一節は、有島が文学の視座に初めてアイヌをすえようとしたという意味では、注目に値する。しかし鮭の漁業権を和人に奪われ、和人の使用人としてしか鮭を捕ることができないでいるアイヌと有島との間には、『星座』の舞台である札幌から千歳を眺めるほどの隔たりがある。アイヌにとっても、有島にとってもそれは「寂び切った眺め」であった〉

 

『明治日本の植民地支配』を読んで、このような評価は少し違うと考え、改めて、『星座』を読み直そうと思いました。

『星座』の主要な登場人物のひとり星野清逸の造形に、作者の思惑を見て取ることができました。

1989年10月、クロポトキンの『相互扶助論』を親友の園に貸した清逸は、千歳の実家に帰宅します。その地は、〈アイヌと、熊と、樺戸監獄の脱獄囚との隠れ家だとされる千歳の山の中〉です。家から500メートルほどのところに、水車のある鮭の孵化場があります。

 

〈五町ほどの所に火影が木叢の間を見え隠れしていた。瀬切をして水車がかけてあった。川を登って来る鮭がそれにすくい上げられるのだ。孵化場の所員に指揮されてアイヌたちが今夜も夜通し作業をやっているのに違いない〉

 

清逸の弟・純次は尋常小学校を卒業後、孵化場で働いています。清逸は純次を粗野で野蛮な〈低脳〉、〈狂弟〉と見なしています。清逸には、孵化場で働いている純次は、同じ孵化場で働いているアイヌと同類だという思い込みがあるようです。

両親への書簡で、〈正直にして朴敬、勇敢にして多情なるアイヌの遺民が長髭を振ふて山中の「自然」と勇ましき戦闘を為し、酷薄なるシャモ(彼等が日本人を指して云ふ語)の蛇の如き毒手を避け居る有様は轉た愁痛にして清新なる一篇の詩に御座候〉と書いた作者は、アイヌへの共感を強調するためには、純次にたいする清逸の見方を根本的に変える必要に迫られます。

清逸の考えを逆転させる場面が、夕暮れ時、川岸で血痰を吐いて苦しんでいる清逸を、孵化場から帰宅途中の純次が見つけ、清逸の背中をさすってやる箇所です。

 

〈「兄さん、お前は又札幌に帰るのか」

とある所で純次は兄を待ちながら突然にいった。清逸はそうだと答えた。

「死んでしまうぞ。帰らねえがいい」

それがいつか、母に向かって、「肺病はうつるもんだよ」といった弟の言葉だった。純次はどうせ辻褄の合わないことをいう低脳者ではあった。しかし今の言葉に清逸は、低脳でない何人からも求められない純粋な親切を感ぜずにはいられなかった〉

 

〈清逸は不思議にも黙って考えこみたいような気分になった。そしてすべての人から軽蔑されているだらし(・・・)ない純次の姿が、何となくなつかしいものに眺めやられた。その上彼の偶然な言葉には一つ一つ逆説的な誠があると思った。純次はどことなく締まりのない風をして、無性に長い足をよじるように運ばせながら、両手を外套の衣囊に突っ込んだまま、おぼつかなく清逸の眼の前を歩いていった。人生というものが暗く清逸の眼に映った〉

 

清逸には、純次の他に、小樽へ女中奉公に行っている妹のおせいがいます。清逸、純次、おせいの人生について、作者は次のように描いています。

〈窓のすぐ前には何年ごろにか純次やおせいと一本ずつ山から採ってきて植えた落葉松が驚くほど育ち上がって立っていた。鉄鎖のように黄葉したその葉が月の光でよく見えた。二本は無事に育っていたが、一本は雪にでも折れたのか梢の所が天狗巣のように丸まっていた。そんなことまで清逸の眼についた〉

純次、おせいの人生を、〈二本は無事に育っていた〉落葉松に、清逸の人生を、〈雪にでも折れたのか梢の所が天狗巣のように丸まっていた〉落葉松に象徴して、純次、おせいの人生を肯定し、そのことによって、作者はアイヌへの共感を強く打ち出しているといえそうです。

未完の長編『星座』が内包している可能性を想像するだけでも、『星座』再読の意味はあったと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本から本へ旅する

後藤守彦

    

後    

一一月下旬、本を話題にした新刊を次々と読んだ。青山文平の『本売る日々』(文藝春秋、二〇二三年)は、三つの連作短篇からなる時代小説である。城下町で書肆松月堂を営む三〇半ばの平助は、月一回注文された本を届けに在の名主たちを訪ねる。本といっても小説の類ではなく医書などの専門書である。彼の夢は自らの手で書物を出版することだが、それをついに実現する喜びを描いた、最後の「初めての開板」が特によかった。本書から儒者・本草学者として知られる貝原益軒の『楽訓』の存在を教えられ、国会図書館のデジタルコレクションで見つけた。早速目を通した。「読書」と題する章では、読書の楽しみが次のように述べられている。

 

  およその事、友を得ざれば成しうべからず。只、読書の一事は、友なくしてひとり楽しむべし。一室に居て、天下四海の内を見、天地万物のことわりを知る。数千年の後にありて、数千年の前を見る。今の世にありて、古の人に対す。我が身おろかにして、聖賢とまじはる。是れみな読書の楽なり。 

 

読書は孤独な行為だが、読み手は本を通して時空を超越したコミュニティーに参加でき、

多様な人々と対話することができるのである。

時代小説『生きる』(文藝春秋、二〇〇二年)で直木賞を受賞した乙川優三郎は、私の愛する作家の一人である。長く書き続けてきた時代小説から、最近は現代小説に重心をおいている。『クニオ・バンプルーセン』(新潮社、二〇二三年)は、「馴れようのない死別の痛み、文学愛、編集者魂、執筆の夢と残懐、その至情を言葉の淵に浮かべて、とにかく美しい」と帯封にあるように、静謐で美しい小説だった。米軍人の父ジョン・バンプルーセンと日本人の母真知子ののもとに生れたクニオは、小さな出版社で編集者として生きるが、バイリンガルであったものの日本文学を深く愛した。将来的には作家か評論家になりたいと思っていたのだが。

本書に散りばめられた、言葉に関わる文章は会話文が多いが、心に沁みてくる。

 

   なにかを書いてみたいではなく、なにを書きたいかが重要です、それが小説の結末に結びつきます。

 

   その人の才能とか本領とかいったものは一文に出るものだろう、そこが冴えると前後のありふれた場景まで美しく見えるのが文章なんだよ。

 

   文章は思考と同時に書きながら練るというべきだった。当たり前のように聞こえるだろうが、それのできていない人が結構いる、文学は芸術だから、文の芸なくして佳いものが生まれるとは思えない、ところが思考のまま書き出すだけの文章はお喋りと一緒で洗練されない。

 

   平凡な文章の流れに偶発的に玉章が生まれることがある、作家だから常に良い文章を心がけているわけだが、ちっとも考えていない領域から突然やってくる文章が優れていたりする。

 

   佳い小説は字面も美しい、日本語は自然にそうなるようにできている、作家が魂をそそいだ表現で埋まったページは本当に美しい。

 

   言葉は吐き出す人の人格や信条で味わいが変わり、優しくも厳しくもなる。

   

四〇〇ページを超える大部の『パピルスの中の永遠 書物の歴史の物語』(作品社、二〇二三年)を書いたのは、スペインの文献学者で作家のイレネ・バシェホである。「未来に思いを馳せるギリシア」「ローマの街道」の二部構成となっていることからわかるように、文字の誕生から始まって古代ギリシア・ローマ時代を核に、書物の歴史を深く掘り下げている。研究論文ではなくエッセイ風の叙述になっており、著者の思いも吐露されている。古代のエピソードを切り口としての現代社会の考察は鋭く、小説を含む現代の書物が取り上げられている。J・R・R・トールキンの『指輪物語』、ベルンハルト・シュリンクの『朗読者』、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』、ジェームス・ジョイスの『ユリシーズ』などが続々と登場する。中にはルース・レンデルの『ロウフィールド館の惨劇』のような推理小説も。

著者は、書物は救世主になるのだろうか?「より本質的には、暴力、飢餓、死に瀕している者にとって、文化は救命ボートになりえるのだろうか?」と問う。ナチスが設けた強制収容所であるアウシュヴィッツにおける体験を、『夜と霧』で綴ったヴィクトール・フランクルなどについて次のように語っている。

 

  彼らすべてが、シェヘラザードのごとく想像の力と言葉への信仰のおかげで命をとりとめたのだ。フランクル自身がのちに、アウシュヴィッツでは多くの知識人が、肉体的には条件が劣っていたにもかかわらず、パラドックス的に、多くのたくましい囚人たちよりも生き延びられたと書いている。最終的にはーーユダヤの出自を持つ精神科医は書くーー恐ろしい環境から絶縁し、自身の内部に避難することができる者たちは苦しみを軽減することができるのだ。歴史的大惨事のなかでも、小さな悲劇のなかでも、書物は生き延びる手助けをしてくれる。

 

 また少年時代にいじめを受けた体験を明らかにしたうえで、著者は、多くの作家のおかげで「居心地の良い幻想をため込み、外界のつぶてが激しくなったときに隠れ場所とするために、私の内面世界に保存できることを知った。この発見が私の人生を変えた」と述懐する。読み、書き、考える、そして自分を、自分の内面世界を創りあげること、それが生きる上での力、糧となる。その象徴が書物なのである。

 本書の「エピローグ」で、ある史実を初めて知り感動した。電気もない貧しい村々を目指してアパラチア山脈の渓谷を馬に乗って辿っていく一行、その大半は本が詰まった鞍カバンを持った女性の図書館司書だった。一九三〇年代にローズヴェルト大統領のもと実施されたニューディール政策を担う雇用促進局の事業の一つが、文化を広めることによって、失業、恐慌、非識字と戦うことであった。騎馬の集団は、危険を冒して一日三〇キロに及ぶ道を移動し、本を届けて歩いた。本は人々を結ぶ。著書は、本書を「私たちのために、未来の、顔をまだ見ぬ人々のために戦った人間たち」と結んでいる。

 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年一〇月〇一日  299

 

 追悼 石川弘明さん

        松木  新

              

石川弘明さんの業績を紹介します。

 

『北海道民主文学』

 

創 作  新しい出会い  2004年15号

シナリオ 地の繋り    2006年16号

     幼  化    2008年17号

     母の遺言    2010年18号

     散  骨    2012年19号

     二分の一の人生 2014年20号

     〇番線の恐怖  2016年21号

創 作  木古内の女垣内ツネさん  

2018年22号

 

『奔流』

 

創 作  蛇と墓     2005年20号

シナリオ 四離五結    2007年21号

自 伝  少年の戦争   2009年22号

 

 

シナリオ 平成疎開    2011年23号

     再 会     2013年24号

     幻想の中の不安 2015年25号

     逆 転     2017年26号

     生まれる、育てる、生きる 

2019年27号  

 

石川さんの思い出で一番印象に残っているのは、全道研究集会で東京から来た講師が、シナリオと戯曲の違いが分からずに発言したことへの抗議でした。この異議申し立ては、その後、何度も蒸し返されました。

石川さんが、これほどまでに概念にこだわっているのは、ことば一つひとつに細心の注意をはらっている石川さんの真骨頂だと思いました。

身 内に中国残留孤児をかかえた辛い体験を内に秘めて、表現で勝負しようとする石川さんの気持ちの表れだと思いました。

それにしても、例会でのあの容赦ない痛烈な批判ぶりは、今はやりの「リスペクト」などという甘さを、木っ端微塵に粉砕するものでした。それでいて、批判されても後に残らない爽快さがあったのは、石川さんの人柄によるのでしょう。

惜しい人を亡くしました。

 

 

 

 

 

 

 石川弘明さんを偲ぶ      泉   脩

 

石川さんは札幌民主文学会では、私の先輩だった。夫婦で参加し、ユニークな発言をしていた。

 同人誌にはシナリオを載せ、もう八十本も書いたという。私も高校生向きのシナリオを数本書き、いずれも上演したのだが、石川さんのシナリオは一度も上演されたことがないというのでびっくりした。いわゆる「読むシナリオ」である。

 エッセーの「少年と戦争」は胸を打つ作品だった。敗戦時旧満州(現東北)でソ連軍に追われ、両親が亡くなった。十歳ぐらいだった石川さんは、やむなく幼い弟と妹を中国人に渡し、一人でやっと帰国したという。残留孤児になった弟と妹とは二度と会っていないという。このエッセーを読んで、石川さんの反ソ反共の気持ちが解るようになった。同時に戦争反対の気持ちも。

 石川さんは日本に帰ってからは、親せきの世話になって成長し、北大文学部に入った。私より数年遅く、私は史学科で石川さんは国文科だった。在学中にはお会いしたことはなかったが、やっと五十年位後に会ったのである。私が中央区の幌西・伏見地域の九条の会の代表をしていること知って、それから石川さんは親しみを見せるようになった。新聞の片隅に私の名前が出ているのを読んで知ったという。

 昨年から石川さんは入院し、節子夫人だけが例会に出席するようになった。節子さんの「初恋」という作品を読んで、二人が四十二年振りに再会し、初恋が実ったことを知った。それから私は石川夫妻への敬意が増したような気がする。いずれ二人はあの世で再会するのだろう。私も八年前に亡くなった妻と、近いうちに再会するだろう。単なる希望的観測に過ぎないが。

石川弘明さん、さようなら。御苦労様でした。ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

友よ 安らかに眠れ

                 浅野勝圀

療養中だった石川弘明君が、待ちのぞんでいたぼくらとの再会を果たせぬまま、帰らぬ人となってしまった。頑固な一言居士だった石川君のことを誰れもが懐しく思い出しているに違いない。彼の生涯の友だった村瀬喜史さんも既に亡く、ぼくはただただ痛恨の思いに翻弄されている。彼との三度の出会いのことを記して追悼のことばに代えようと思う。

最初の出会いは富良野高校普通科への入学である。昭和26年(1951年)、石川、村瀬の両君は同じ上富良野の中学校から、ぼくは南富良野村の中学校からの進学であった。二人とは言葉を交わすこともないまま、ぼくは釧路の高校に転校した。富良野高校への列車通学はわずか二週間にすぎない。

3年後の昭和29年(1954年)北大に入り文学部国文学科を志望したひとりとして、思いがけず石川君と再会したのである。彼は富良野高校きっての秀才だったらしく、「北大はオレ一人だけ」と話していた。恵迪尞に入っていた彼は生活のためのアルバイトに明け暮れているようだった。いずれにしろ富良野つながりの巡り合いはうれしかった。学部の講義にもあまり出席することがなかったから、ぼく以外に彼の名前と顔が一致するクラスメートはいなかったと思う。大学卒業後彼は釧路商業高校の、ぼくは北見北斗高校の共に国語教師として採用された。釧路での彼は創作活動に力を入れ、原田康子を世に出した「北海文学」の鳥居省三氏の知遇を得て作品を評価されたと語っていたことがある。釧路で彼はどんな作品を書いていたのか。すべては遠く消えてしまった。

2004年10月3日4日の両日帯広市で開催された民主文学の第15回研究集会が、ぼくらの46年ぶりの再会を用意してくれた。石川君と村瀬さんは札幌支部から、ぼくは釧路支部からの互いに初めての参加だった。交流会の席上ぼくらはよく飲み、それぞれの来し方を時間を惜しむようにして語り合った。この記念すべき帯広集会の講師は旭爪あかねさん、現地支部の事務局を仕切っていたのが室崎和佳子さんだった。作品合評で取り上げられた「北海道民主文学」の15号に、石川君は見事な短篇『新しい出会い』(32枚)、村瀬さんも同じく短篇『俺たちの時代』(31枚)、ぼくは評論『「雨の降る品川駅」二つのこと』(22枚)をそれぞれ発表し、三人は「北海道民主文学」へのデビューを果たした。

富良野高校普通科――北大文学部国文学科――「北海道民主文学」は、そのまま石川弘明君との出会いの節目でもあった。石川君の訃報が伝えられたときぼくが思い浮かべた彼の作品は『新しい出会い』と『少年の戦争』であった。前者はかれが生前こだわり抜いたテーマ(家族・肉親)の原型であり、後者は同世代の苛酷な戦争体験の彼にしか書けない証言であったと思う。

石川弘明君、もっともっと聞きたいこと話したいことがあったけれど、かなわぬことになってしまったね。創作の道は節子さんが引き継ぐだろうから、いまは心おきなく安らかに眠りたまえ。全力で生き抜いた君をぼくは忘れないよ。

            (2023・10・22)

 石川弘明さんのこと

               豊村 一矢

 

 訃報に接し、「石川弘明さんとの思い出」というものが、あまり残っていないことに気づきました。いつもお話を伺うだけで、会話が少なかったからでしょうね。

 石川さんは、例会でも、きちっとした姿勢で、多弁ではありませんが、発言の際は、自説をよどみなくキッチリと主張していました。実は、そんな石川弘明さんに、どこか近づきがたいものを感じておりました。今、それを後悔しています。

私は唯物論者なので、あの世で会えるとは思っていません。

私の余命も僅かと思いますので、一人での晩酌のときなど、酔いに任せて貴方を呼び、お喋りできればと思います。ご迷惑かもしれませんが。

 

 

 

 

 

 

 

 

一〇月例会誌上合評

 

合評作品  

「白い道」  池戸豊次

(『民主文学』10月号)

 

 

 意見1           松木 新

この作品のポイントは、次の三点だと思いました。

   〈ルオーか。・・・月光が白々と照らす郊外の路地に、男の人と二人の子供が立っている。・・・あの人がキリストだと母は知らない〉

   〈降り続く雪は早々と沿道の木々を覆い、音と色を奪っていく。そうして、白い沈黙の道を一列に歩くうち、遠く離れたところから双眼鏡で行進する自分自身の姿を見ているような、倒錯した物狂おしい感覚に落ち入っていった〉

   〈ひとつの死がもうひとつの死のうえに落ちて集積していく。その上を私は歩いている〉

予想される母の死を、〈私〉はどのように受容できるのか。かつての〈私〉のように、〈リノリウムの床を〉素手で打つレベルにとどまるのか、あるいは、奥飛騨の山歩きから得た何物かによって、新たなレベルを獲得できるのかその時に、神は存在するのか。

様々な思考を読者に強いるという意味では、この作品は鋭い問題的をはらんでいると思いました。赤と白の鮮やかなイメージが作品世界を覆っていて、読む者を幸せな気分にさせてくれます。

 

 

意見2           後藤 守彦

多くの市民が疑問と不安を抱いているボールパーク新駅の建設を考える会の発足集会と重なり、残念ながら一〇月例会を欠席しました。

しみじみとした思いで作品を読みました。主人公が、遭遇した自死を含めた様々な死に誠実に向き合い、死について、そして死を通して生について真摯に考える姿が伝わってきました。「ひとつの死がもうひとつの死のうえに落ちて集積していく。その上を私は歩いている」、これは巧みな表現ですが、『民主文学』同月号に載る荒川昤子「骨」で出合った一文、「生きている人の記憶の中にある限り死者は生き続け、生者にその意味を考えることを促すだろう」につながりました。

例会の一週間前、自由学校「遊」の講座「老いに向き合う」の第一回に参加しました。「リビングウィルについて知ろう!やすらかな最期を迎えるため

に、今、わたしたちにできること」が演題で、講師は日本尊厳死協会北海道支部長で江別すずらん病院認知症疾患医療センター長の宮本礼子医師でした。

老いることは自然で命には限りがある、高齢者の死は穏やかであるべきである、と強調されていました。彼女は、ラテン語の言葉メメント・モリ「死を覚

えよ」(人間はいつか必ず死ぬことを忘れるなという意味)を紹介しながら、「死と生は表裏一体、だから一日一日を大切に生きたい」と結びました。

意見3            泉 恵子

町役場の林務課に勤め始めたばかりの私は、十二月初め、上司に誘われ調査のために山に入る。ひと月前に母の余命がいくばくもないことを知らされている。

山の命に触れながら、常に母が「死の尾根を歩いている」ことを感じながら登ってゆく。死の予感とともに描かれる奥飛騨の白山信仰も含めた情景が鮮やかだ。

ひと休みした山小家のストーブの炎の前で、三年前都会で受けた大鉄槌、仲の良かった女性の自死を思い出す。その後暫く下宿にこもっていた。その時慰めに来た友は、腎臓病の悪化でやがて亡くなった。

下山の時に降り出した雪が「音と色を奪っていく」「白い沈黙の道」を歩きながら、有害鳥獣駆除のために鹿と誤って人を撃ってしまった男を思う。

男の語る自分も死のうと思った時に聞こえてきた声

「死ぬことはおまんの勝手」で「気持ちのやり場を

探しているだけ」「おまんのこころの中に育ってきて、おまんを苦しめる」俺のためにも生きてほしいと

の話しに、私は「両手のこぶしを指がもう二度と開

かないぐらい強く握りしめていた」

女性の死の時には「リノリウムの床を打つ素手の拳は、あまりに弱く、握りこぶしの指の骨が折れ、薄い皮膚が破れて血がにじんだ」私だったが、強く握りしめた拳は生への意思を感じさせる。

「ひとつの死がもうひとつの死の上に落ちて集積している。その上を私は歩いている」の言葉がこの作品のテーマなのかなと。

冬の山に吹き付ける赤色のスプレーや赤い頬をした尾の長い鳥など、生命を思わせる色彩と、生き物のようなエンジンの音。そんな音と色を奪ってゆく白い道との対比。生と死を巧みに織り込んだ静謐な文体は味わい深く、巧みな比喩(主に直喩)が生きている。読むほどにしみじみとした思いにさせられる良い作品と思う。

 

 

意見4           泉  脩

画家の作品とのことで、全体として色彩に富んだ作品である。特に山の雪道の白さが印象的である。

 作者が他に何を書きたかったのか、私にはわからなかった。かつての恋人の自死、現在の母親の危篤。どちらも山道での測量の作業の中で、時々書かれている。しかしそれぞれ詳しいことはわからない。作者の青春時代の出来事を、回想して書いたのだろう。なにか不思議な作品であり、私の読みの浅さを反省させられる。

 岐阜県の郡上という地名は、江戸時代の郡上一揆を思い出させるし、私も一度訪ねたことがある懐かしい地である。退職後、文学仲間との国内旅行の時に通ったのである。

千歳空港で私が時間を間違え、急いで中部空港廻りで追いかけ、やっと追いつき合流した時である。仲間のSさんが私の足に触って「足がある」と言った。ふざけて私を幽霊扱いしたのである。このSさんが亡くなった知らせを今日受け、会員の石川さんの死もあってショックを受けた。二人とも私より若いのに死去したのである。作品を読んだタイミングとはいえ、この作品も「死」の影がちらついている。私は二重の衝撃を受けた。自分はいつだろう―と考えてしまうのである。

 

 

意見5           村松 祝子

平成十年二十五歳の私はアルバイト生活を続けていた東京から郷里の岐阜に帰り山奥の奥美濃の町役場に勤めた。

そこで林務科勤務を拝命し八ヶ月を過ぎた十二月のある寒い朝、係長と二人で測量目的で山に入った。

彼の母は現在癌を患っており来年の夏まで持つかどうかの宣告を受けた。それは測量で山を登る中で常に彼の心占めている暗雲だった。

小説としてみると一つの筋があるわけでもないのだが作者の死にまつわる思いを二十五歳の青年の目を通して詩情豊かに描いた。地方独自に育った行事も垣間見られ最後まで飽きずに読み終えた。

静かさと寂しさと冬独特の重苦しい山の天候までも感じさせられる文章だった。

最初の冒頭「木にふれる。 暖かい。 それは確かに木が生きている‥‥」の導入部も其の世界にすぐ引き込んでくれる。そしてすぐ現実の生活環境が描かれるが文章の流れにスムーズに乗っていけた。こういう描き方は上手だなと思った。

母の余命宣告を医者から聞いた父の「わかりました」と答える言葉を私は憎んだ、の文章に主人公の母に対する深い愛情を感じさせた。

壁にトマトを投げつけるように父に投げつけた母の言葉はどんな言葉だったのだろうか。この表現は母の感情がよく描かれていると思った。

二十五歳になるまで彼の経験した死は今まさに死の頂上を彷徨っている母の死、恋人の死、友人の死。そして同僚を鹿と間違えて死なせた死。同僚の死に対して死んで其の過ちを償いたいという死に対して  「おまんの苦しみの中で殺された俺は生きてゆく。其のためにおまんに生きて欲しい」と水の中で呼びかけられる。この箇所がこの小説の大切なポイントのように思え心に残った。簡単に死を選ぶ安易さを咎め死の重さを教えられた。沖縄戦で自殺した牛島中将は自分が死んでも残された兵士達へ命ある限り戦えと伝える身勝手さとの違いに時代の影響だけなのかとふと思ったりした。

「白い道」に描かれている死はどれも美しい死である。白い雪の上に新たな白い雪が積もり新たな人々の死が積み重なっていく。その上を歩く私。麓に辿り着いて滑りやすい道だという係長の忠告を胸にゆっくりとアクセルを踏んで生活の場に戻っていくのであった。

詩情豊かな小説だった。特に冬山の情景は大昔スキーをした時、林の中に入ると本当に木から暖かさをもらったものだった。其の時の光景を思い出させてくれた。

余談ですが最近マンションのバルコニーで普段見なれないカメムシを二、三匹発見しました。今年は雪が多いのかな? とふと思った。

 

 

意見6          北野 あかり

町役場の林務課に勤務する直次は、勤務歴8か月の青年。係長は42才で経験豊富な上司。寒い12月に二人で測量のため町有林の仕事に入る。慣れない山の仕事で転びながらも上司の指示と目印を頼りに仕事をやり終えた。その一日が描かれています。

冒頭の「木にふれる。温かい。それは、確かに木が生きている証…」の書き出しと、岐阜の奥美濃の町有林に、雷に打たれてその先を失ってもなお生き続けている樹齢1800余年といわれる大杉や、枯れて死んでしまった巨木にも人が入れるような洞があるなどが描かれており、「死」そして「生きる」ということについて書こうとした作品だと思いました。

直次はまだ25才という若さなのに、母親の余命を告げられ、癌との闘いに苦しむ母と向き合っている。また、過去には付き合っていた女性が自死したことで、引き籠りや妄想に苦しみ、その窮地を救ってくれた親友も病死してしまったという傷心を抱えている。そんな思いを抱きながらの山仕事であった。

直次が人生で一番衝撃的だったのは、交際していた女性の死だった。何が原因なのかさえ掴めず、ひ弱な自分を責め「握りこぶしの指の骨が折れ、皮膚が破れるほど床を打つ」しかなかったのである。

窮地から救い出してくれた親友も、大病院に入院し治療を受けている彼に、近つくことすらできないまま亡くなってしまった。

しかし、まだ若くして死を迎えなければならない母親に対して、直次は、どのように関わればいいのか苦悶したであろう。

母が喜ぶことは何だろうと思いを馳せ「何をしたい?」と聞いてあげたり、「ルオーの絵の切り抜き」を額に入れてあげたりしている。家族や、周りの人への心配りを忘れない母、そして、平凡な日々を大切に生きてきた母の姿を思いながら、母との想い出の数々を心に刻もうとしている。このことは、病魔と闘っているお母さんにとって、生きる支えになっていたと思いました。

42歳の主任は、直次とは17才の開きがある。経験豊富で面倒見の良い先輩であり、先に行く時には、枝にピンクの蛍光テープを吊るしたり、木の上から直次が大杉の空洞に入っていく様子も把握しているなど細やかなことにも気配りしている頼りがいのある先輩。弁当は持ってこなくていいと言って、自ら食材を担いで来て、山小屋ですき焼きをして食べさせてくれ、花や苗を売っていたころの母の話をしてくれた。

そのことが一時でもはしゃいだ気持ちになれた直次。それは、傷心を抱えている自分を山に誘い出してくれた、主任の優しさだったことに気付く直次の成長した姿に、嬉しくなりました。

生きていく上で、一人で抱え込んでしまう困難や、挫折にぶつかる事があるが、回りに助けられる事も多いと思います。

作品の最後のところで雪の積もった道を車で帰路につく時、絶え間ない降雪がフロントガラスを覆う。

「こういう時はゆっくり行けよ。滑るでな」係長の声に私はおもむろにアクセルを踏んだ。

この場面が、いろんな困難があっても生きて行こうとする旅立ちのように感じ、とても元気が出る作品でした。

 

 

 意見7            山田孝子

「生」と「死」が繰り返し語られて、だんだん話が深くなっていく。又、暖かいものと冷たいものの対比、白い雪の中の赤い目印など印象的な語り口だった。

主人公の淋しい心情と「白い道を歩く風景」が重なっていく印象を受けた。信仰を持っている主人公のようだが、淋しい気持ちは続いているようだ。

その中で、係長が静かにゆったりと構えて主人公を受け止めている姿が、とても魅力的だった。

この係長の下で、このような自然を感じつつ働いて行けば、少しずつでも主人公の気持ちが落ち着いていくのではないかと期待を持った。

 それにしても、不可解だったのは、拳を怪我するほどの辛い彼女の自死について、自死したわけが何も書かれていないので、「え?」という思いが拭えなかった。

 

 

 意見8            柏原竜

人間の生と死を考えさせられた。

 自ら死を選んだ彼女、彼女の自殺で引き籠りの生活をしていた時訪ねてきてくれた郡上出身の親友の病死、生きたいと思いつつ病で死んで行かざるえない母親、町の有害鳥獣駆除の鹿撃ちで誤って仲間を殺してしまった人。その人々の中で生きている直次。二五歳の若い直次には辛かろう。しかし、周りの人々が優しくて暖かい。そっと見守っている。都会では考えられないかもしれない。奥美濃の郡上八幡の大自然の中で住んでいるからだろうか。 

 直次は、山のベテランの町役場の林務課の係長と山に入った。さわると温かい木の温もり。転びながら斜面を登ると、岩石がゴロゴロしている細長い尾根に出る。更に、笹原の中に樹齢千八百余年と言われる白い巨木「石徹白」の大杉が立つている。江戸中期、雷でその先を失ったが仁王立ちしている。昼食の山小屋でのすき焼き。そして、雪にまみれて下山して行く。雪が音と色を奪い白い沈黙の中二人は歩いて行った。読み終えると、直次たちと共に山歩きをしているような気分になった。 

 人間は生きていかねばならない。辛い思い、苦しい思いは大なり小なり誰でも持っている。それを携えて生きて行かねばならない。

 「アラモノ屋」のもと子さん。こんな人は、けっこういる。気にしない、気にしない。

 意見9            室崎和佳子

巧みな文章表現に圧倒される。

 それ故、説得力がある。

 二十五歳の私は、三年前の大学生の頃 恋人に自死される。自死の原因は書かれていないが〝不意に受けた大鉄槌〝 〝脆弱な存在〟〝握りこぶしの指の骨が折れ、薄い皮膚が破れて血が滲んだ〟等の表現から、自分自身は恋人の死に納得していないようで、現在に至るまでそれを引きづって生きている。

 恋人に死なれて下宿にこもる日々、友が訪ねて来て、一緒に出前のカツ丼を食べる。

「直次、今少し笑ったな、俺、嬉しいぞ」

 と言って帰っていくのだが、その友も腎臓病で死んでしまう。自分にとっても最後のカツ丼になるとわかっていてもなお、友を励まそうとする友情に涙した。

 「係長」の存在がこの小説の中で大きく生きている。地をしっかり踏みしめて歩いている人のすごさ(私たち世代にとっては当たり前のことだが)を、未熟な私(直次)に気づかせ、そのことが〝生きる〟という行為の全てであろうことを自然に(直次に)分からせる。

 P17下段五行目「雪が痴呆のように林道に降り積もっていく。」とは、どういう状態の雪の降り方なのか。ここだけがよく分からなかった。

 無駄を省いた流麗な筆致が素晴らしい。

 肩が凝っていたのだが、読み終わるとスッキリしていた。

 美文の効能、確かなりし、か。

 

 

 

 意見10          豊村一矢

 この作品は、主題、構想、人物像、筋立て、場面設定がしっかりと緻密に作られている。だから読む者を惹き付けて放さない。

 だが…である。だが、読後感には、なぜか白けたものが残った。なぜか。

私の認知症が進行したからか……、それもあるだろうが、決定的な要因と思いたくない。

白けた要因の一つに、私自身の生死に関する経験と現在の実情が関係していると思われる。

 まずは、経験としては、まず、実の両親も、義理の両親も天命を全うして朗らかに死んでいった。   そして、私も、あと10年そこそこの命だろうが、残った妻が、少しの間、寂しがるだろうと気になるくらいで、恐怖心はまったくない。

 さらに、私も、高校時代、親友が自死した経験を持つ。そいつは、私とは正反対で恋多き男だった。それでいて陰湿、思いつめるタイプだった。自死を「美」とする言動もあり、一応、自死に至らないように監視はしていたが……。

そんなものだから、自死しても周囲に悲壮感はなかった。

 

もう一つ、読後、白けたものが残った理由は、「白い道」の文章に中にある。

比喩の使い方で直喩、暗喩、両方とも、ヘンだ、間違いだ、適切でない、という表現が散見されて、興醒めし、白けるのである。

たくさんあるが、二点、例を挙げてみる。

 

    小屋が山側に移ったのをはじめて見たときは、「突然足が生えて歩いていく姿」を子供のように想像した。

  (私)詰まらない陳腐な比喩表現だ。文脈からも不必要な文章。

 

   (木々の底から垣間見える空は)

    例えて言うなら、乳白色の容器の底を光りで照らしているような感じ。

  (私)まったく、ちんぷんかんぷんな例えだ。

 

    微睡が来た。

  (私)微睡だ(まどろんだ)あるいは「眠気が

来た」なら解るが、「微睡が来た」は無理

だと思う。創意的な表現として提案しているのかどうか、訊いてみたい。

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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大逆事件と鴎外、漱石

                松木 新

 

例会で鴎外と漱石が大逆事件とどのように向き合ったかを発言しましたが、舌足らずだったので、少し整理してみました。

大逆事件とは次の内容の事件です。

〈一九一〇年五月、爆裂弾を製造・所持していたとして、警察は長野県の機械工宮下()(きち)を検挙しました。これにつづいて全国で社会主義者・無政府主義者の一斉検挙をおこない、幸徳秋水らを逮捕しました。検察当局は、爆裂弾で明治天皇の暗殺を計画したものとして、刑法の大逆罪を適用し、26人を起訴しました。実際に計画を相談したことを認めたのは宮下ら4人だけでしたが、翌年1月、わずか1ヶ月の審理で裁判所は幸徳ら24人に死刑を宣告しました。そして、幸徳・菅野(かんの)スガら12人を絞首刑にしました(12人は天皇の特赦として無期懲役に減刑)。この事件は、社会主義を抹殺するためのフレームアップ(でっち上げ)でした〉(『日本近現代史を読む』)。

12人の処刑から7ヵ月後の1911年8月、警視庁に「特別高等課」(特高課)が設置されました。

大逆事件全体を描いた小説が立野信之『赤と黒』、絞首刑になった医師大石誠之助を主人公にした小説が、柳広司『太平洋食堂』です。どちらも一読に値します。

大逆事件の「判決理由総論」が明らかにしているように、当局は「爆弾による天皇殺害」だけを問題にしていたのではなく、具体的な罪状とされていたのが「無政府共産主義」です。大逆事件で国家権力が摘発したのは、思想信条だったのです。

社会主義、無政府主義の思想は、幸徳秋水や堺利彦、大杉栄らによって、翻訳され普及しました。たとえば、「共産党宣言」は、日露戦争に突入した一九〇四年、幸徳秋水・堺利彦の共訳で、「平民新聞」に発表されました。これ以降、敗戦まで、日本での出版は許されませんでした(堺利彦は共産党初代委員長です)。

幸徳秋水が一九〇三年に執筆した『社会主義真髄』(岩波文庫)を読むと、彼の思想はテロリズムとは無縁であることがわかります。

〈彼等(社会主義者―引用者)は虚無党に非ず。一時の叛乱が何事をも成すべきに非ざるを知る、其方法や必ず平和的ならざる可らず。然り彼等の武器や、唯だ言論の自由あるのみ、団結の努力あるのみ、参政の勝利あるのみ〉

鴎外が大逆事件をひとつの歴史的前提として、外来思想撲滅、「判決理由総論」がいう「無政府共産主義」摘発をテーマにした小説「沈黙の塔」を発表したのは、一九一〇年十一月の『三田文学』第一巻第七号です。

小説は次の文章で閉じています。

〈芸術も学問も、パアシイ族の因習の目からは、危険に見える筈である。なぜというに、どこの国、いつの世でも、新しい道を歩いて行く人の背後には、必ず反動者の群がいて(すき)(うかが)っている。そして或る機会に()って迫害を加える。只口実(だけ)が国により時代によって変る。危険なる洋書も其口実に過ぎないのであった。

    *  *

 アラバア・ヒルの沈黙の塔の上で、鴉のうたげが(たけなわ)である〉

 

当時の鴎外は陸軍省医務局長、修身教科書主査委員として、いわば陸軍の代表として、国民の思想統制の任務に就いていました。この立ち位置と、「沈黙の塔」執筆の立ち位置との矛盾をどのように考えたら良いのでしょうか。

ヒントになるのが、エンゲルスのリアリズム論です。

政治上は正統王朝派のバルザックは、自分自身の階級的同情と政治的偏見に反して、〈自分の好きな貴族たちの没落の必然性を見て(・・)、彼らをよりよき運命に値しない人々として描〉きました。エンゲルスは、〈これを私はリアリズムの最大の勝利の一つで、バルザック老のもっともすばらしい特徴の一つだと考えます〉(「マーガレット・ハークネスへの手紙」)と記しています。

鴎外の矛盾も、〈リアリズムの最大の勝利の一つ〉とは、考えられないでしょうか。

漱石が幸徳秋水や社会主義に関心を持っていたことは、一九〇九年に「朝日新聞」に連載した「それから」のなかで、幸徳たちを尾行し追い回している警視庁のスパイ政治を描き、漱石らしい一流の筆法で、〈「現代的滑稽(こっけい)の標本」〉と冷評していることからも分かります。

大逆事件をモチーフにした作品を漱石は書いていませんが、事件後の二つの講演、「現代日本の開化」、「私の個人主義」は、大逆事件がなぜ起きたのか、国家権力の乱用の問題など、示唆に富んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猫ミステリの数々

後藤守彦

 

二月に旅立った飼い猫ミーコのお骨を、雪が溶けたらミーコが走り回っていた庭に埋葬しようと思っていたものの、離れがたくまだ室内に安置したままである。「北の国から来た猫」と題して、飼い猫の誕生月の八月に小文を書き続けてきたが、今年でストップした。けれども、猫本の話題がストックされているので、性懲りもなくまた書くことにした。

江戸の片隅で生きる市井の人びとの深い哀しみと細やかな喜びを描いた『心淋し川』(集英社、二〇二〇年)で直木賞を受賞した、十勝管内池田町出身の西條奈加の最新作『とりどりみどり』(祥伝社、二〇二三年)は、江戸の廻船問屋の末弟、一一歳の少年を主人公にした謎解き物語といえようが、「文学の基本はしみじみだ」(『しみじみ読むアメリカ文学』松柏社、二〇〇七年)を実感させてくれる。

五月末、道立文学館で「ネコ!ねこ!猫‼展を見たが、小説のコーナーの最初に掲示されていたのが、西條奈加の文章だった。『よろずを引くもの お蔦さんの神楽坂日記』(東京創元社、二〇二二年)から「孤高の猫」の一節が取り上げられていた。

 

  僕らが懸命に探しているのは、野良猫のハイドンだった。むくむくした長毛種の猫で、灰色の毛が作曲家の鬘に似ていることから名がついた。外見はもっさり、動作はのっそり、いたって不愛想な上、声が壊滅的に可愛くない。それでいて、猫の多い町、神楽坂の中では、断トツのいちばん人気だ。たやすく媚びない態度が、品や威厳を感じさせるためだろうか。人間も周囲の猫も一目置いているが、ボス猫というよりも一匹狼といった存在だ。そのハイドンが、一週間ほどまえから姿を見せなくなった。正確には、目撃情報が途絶えてから七日目になる。

 

地域猫であったハイドンは見つかるが、交通事故で足を怪我したハイドンを世話してくれたのが小学生の男の子だった。少年の兄は殺人犯だった。だから、加害者家族へのバッシングのため、少年は両親とともにまた引っ越しすることになり、ハイドンとも別れざるをえない。短編「孤高の猫」は哀しい話だった。

 西條奈加は猫ミステリを書いている。それが『猫の傀儡』(光文社、二〇一七年)である。

猫が人間を傀儡として操る、つまり猫が人形遣いになる。猫町といわれる一帯の、新しい傀儡師となったのが、野良のオス猫ミスジ。暇である、勘がいい、好奇心に富む、大の猫好き、といった四条件に合う傀儡として選ばれたのが、売れない狂言作者の阿次郎。このコンビが幾つかの事件を解決するのだが、ミスジは先代の傀儡師順松が失踪した理由を探り続け、大店の一家が強盗により惨殺される悲劇と深く関わっていることを知る。順松は傀儡を守って命を落とす。「てめえの傀儡も守れないようじゃ、傀儡師は名乗れねえ」と肝に銘じていた通りに。全七章の『猫の傀儡』は、感動的な最終章「猫町大捕物」で閉じられる。

『猫の傀儡』は、猫が探偵役となっているミステリといえるが、そうした作品は他にもあり、日本では赤川次郎の三毛猫ホームズシリーズが良く知られている。このシリーズは『三毛猫ホームズの推理』(光文社、一九七八年)に始まり、年一作ないし二作のペースで刊行されているロングセラーで、最新作は第五五作となる『三毛猫ホームズと炎の天使』(光文社、二〇二三年)である。メスの三毛猫ホームズの動作や行動をヒントに事件の解決にあたるのが、もとの飼い主が殺されため、ホームズを飼うことになった警視庁捜査一課の片山刑事である。片山は血を見るのが嫌いで極端な女性恐怖症というキャラクター。その兄を支えるのが、明るくて行動的な妹晴美である。単なるユーモアミステリではなく、作者の社会や政治への批判精神をうかがうことができる、例えば、第三九作の『三毛猫ホームズの戦争と平和』では迷い込んだ山村での村人たちの対立が描かれる。機関銃やロケット砲まで使われるのだから、まるで戦争である。それが作者の意図であり、戦争する国になってはならないとの作者の思いが込められている。「戦いなんて、こんなものよ。でっち上げられた理由でも、一人が死ねばその仇討ち。またその仇討ち」「戦争しよう、なんていう人間を信じちゃいけないのね」、こんな言葉が織り込まれている。

江戸の三毛猫ホームズともいえる謎解き物語が、田牧大和の『鯖猫長屋ふしぎ草紙』全一〇巻(PHP文芸文庫、二〇一六~二〇二二年)である。鯖縞柄のオスの三毛猫サバが飼い主を操るようにピンチを救い、事件の解決にあたる。サバは幽霊のような人には見えない何かが見えているらしい。飼い主は猫ばかり描いている売れない絵描きだが、義賊として盗みを働いていたという過去を持つ。近々新刊が出ると言われているので、楽しみにしている。

次に、海外ミステリのシリーズ物を見てみよう。先ず、リリアン・ジャクソン・ブラウンによるシャム猫ココ・シリーズを上げなければならないだろう。この作品の主人公は、飼い主の元新聞記者クィラランを真犯人に導く、オスのシャム猫ココである。タイトルは第一作『猫は殺しをかぎつける』(早川文庫、一九八八年)のように、すべて『猫は・・・・・・』となっている。「猫っていうのは、へそ曲がりで、予測不能の生き物なんだ、女房みたいなもんさ」、こんな一節にふれ、にやっとしてしまうこともしばしばある。第二九作『猫はひげを自慢する』(早川文庫、二〇〇七年)まである。

R・ブラウン&S・ブラウンの、トラ猫ミセス・マーフィのシリーズも人気がある。『町でいちばん賢い猫』(早川文庫、一九九七年)から始まって九作を数える。このシリーズでは、相棒のコーギー犬タッカーも含めて動物が人間並みに喋るのである。飼い主ハリーなど人間の台詞は、「とてもきれいになっているわ、ネコちゃん」と鉤括弧で、動物の台詞は、〈人間には、もっと猫のようになってもらわないと〉と山括弧で、区別して表記している(『病院が嫌いな猫』同、二〇一一年)

さらに、アリ・ブランドンによる書店猫レット・シリーズがある。第一作が『書店猫ハムレットの跳躍』(創元推理文庫、二〇一五年)、第二作が『書店猫ハムレットのお散歩』(同、二〇一六年)。さらに『書店猫ハムレットのお散歩』(同、二〇一六年)、『書店猫ハムレットの休日』(同、二〇一七年)、『書店猫ハムレットのうたた寝』(同、二〇一七年)と続き、『書店猫ハムレットの挨拶』(同、二〇一八年)で完結する。ハムレットは、デブ猫といってもいいくらい太目で気むずかし屋の黒猫。ハムレットの飼い主はニューヨークのブルックリンで書店を経営するダーラ。脇を固めるのが、元大学教授の店長、元警官の女探偵、現職の刑事など。ハムレットは、飼い主が遭遇した事件の犯人を、書棚から本を落とすというユニークな方法で示唆するのである。第五作の『書店猫ハムレットの挨拶』の背景の一つにマッカーシズムがあったが、アリ・ブランドンは「一九五〇年代のマッカーシー

上院議員主導の赤狩りのばからしさと残酷さ」と指弾していた。

アンソロジーもある。『ネコ好きに捧げるミステリー』(光文社文庫、一九九〇年)には一二編が収まっている。面白いものが無いなと思いながら読み続けていたが、最後に心洗われる作品に出会った。それが、クラーク・ハワードの「老友モリー」で、野良猫として捕獲され動物実験施設に送られた、亡き妻が可愛がった老猫モリーを救うため、不良少年の助力を得て年金暮らしの主人公が闘うのである。

同じくアンソロジー、「ネコ派のためのミステリ短篇集」と銘打った『猫の事件簿』(二見文庫、一九九四年)。一七作載っているが、印象に残ったのは三作である。最初の作品であるエド・ゴーマン「ジンジャーの終着駅」のラストの大転回には驚いた。バーバラ・ポール「スキャット」にはしみじみとした味わいがあった。化粧品会社の実験動物にされたため、人間不信で狂暴になった猫ヒューゴーが、飼い主になった、場末の女性歌手テスの命を救う。それでもまだ飼い主になつかない猫に語りかける。「いいの、ヒューゴー、ゆっくり時間をかけましょ。私は待っているから」。レス・ロバーツ「ハリウッドの黄昏」では、十匹以上のネコを飼っている老婦人が、「犬なんて、卑屈だし、落ち着きがないし、人のご機嫌とりばかりで、依存心が強くて、餌をくれる人間の手はかまわずペロペロと舐めるし・・・・・・。猫はそう単純でなくてよ。つきあうのも一筋縄ではいかない」と述懐するのには共感した。

 

 

鈴木忠平『アンビシャス 北海道ボールパークを創った男たち』

壮大な人間ドラマ

泉   脩

 

今年(二〇二三)から北海道日本ハムファイターズの本拠地になった、エスコンフィールド北海道の創立について書いた、壮大な人間ドラマである。ノンフィクションで、すべて実名の登場人物が生々しく、生き生きと書かれていて、手に汗握る物語になっている。

二〇〇三年にファイターズが北海道に移転し、ついに二〇〇六年パ・リーグで優勝し、日本シリーズでも勝利し、日本一になった。それでも当時、モヤモヤとしたものが残っていた。札幌市が経営する札幌ドームは、球場として使い勝手が悪く、球団にも選手たちにも不満が残った。観客席の傾斜が急で、観客にとっても不都合だった。

球団からの改善要求に対し、札幌市側は少しも受け入れず、営業赤字などの理由で、改善しなかったという。

そんな中、球団の事業統括本部の前沢賢と三谷仁志は、ファイターズの新球場を作り上げるという案を密かに相談し合うようになった。それは、球場と周辺地域が一体になったドームパークを作るという壮大な案である。球場内は、選手たちの体を守るために天然芝を敷き、その養生のために天井を開閉式にする。周辺には多くの施設を作り、託児所まで設けるなどというものだった。この大規模な計画案をまとめ、球団役員会に提出した。しかし、「将来、必要な計画だ」といって、棚上げされてしまった。

失望した前沢は球団を去った。しかし一部の役員が彼と接触をし、あきらめずに計画をなんとか実現させようと働きかけたのである。そして事業統括本部長として彼を呼び戻したのである。

二〇一六年計画案は動き出し、建設候補地を探すことになった。

北広島市の上野市長が二三ヘクタールの広大な森林を、総合体育施設にする考えをもらした。七〇年もの眠れる森を生かそうというのである。北広島市の企画財政部長の川村裕樹は市長の命を受け、野球場を作りファイターズの二軍、を呼ぼうと考える。年に一回でも市民にゲームを観戦させるためである。彼はファイターズに相談をし、前沢との話合いが始まった。そして二軍球場ではなく、球団移転の候補地として準備を始めた。

一方、札幌市の秋元市長はなんとか球団の引き留めを考え、いくつかの候補地を挙げ、最終的に真駒内が残った。かつての冬季五輪の施設の活用である。しかし住民の反対も多く、意見がまとまらなかった。

二〇一八年、建設候補地として北広島市と札幌の真駒内が残った。前沢は熟慮を重ね、球団に北広島市を提案した。日本ハム取締役会は承認し、ついに人口約五万八千の北広島市への移転が決定したのである。総工費六百億円の大工事を着工することになる。

最後のエピローグは、二〇二二年十二月のエスコンフィールド北海道の完成にあたり、前沢・三谷らの事業統括本部が、四階の事務所に入るところで終る。世界一のボールパークが完成したのである。

私は、すでに結末が分かっているのに、その結末までに至る情熱に、胸を躍らせ手に汗を握る思いで読んだ。理想の実現のために、全身全霊を挙げて奮闘する男たちが作り出すドラマに、心から感動したのだ。この本の各登場人物の生い立ちも詳しく書かれ、誰もが自分の人生をかけた志しのために全力を尽くすのである。

さらに興味深いのは、なぜ食肉メーカーの企業が球団を経営し、北海道に移転し、そして社運を賭けてまでボールパークを作るのか―という謎がわかることである。

札幌は私が七十年以上も住んだ街であり、その隣りの北広島市は私が好きな二つの温泉旅館とホテルに、数多く通ったところでもある。

野球が大好きで、そして六十年も阪神タイガースを応援してきた。反骨・反体制・反ジャイアンツの「へそ曲がり」なのである。そして十二年前からファイターズファンになった。

私はこの本を読んで、生きていてよかったと心から思った。目が悪くて球場での観戦ができず、そのために新球場にも関心がなかった。しかしこの本を読み、実際の姿を見ながら観戦ができない私でも、このボールパークで活躍するファイターズの選手たちの姿に思いを寄せ、関心を持って今まで以上に応援する気持ちになったのである。

五月九日で八十九歳になる私は、なんとか九〇歳を超えて生き抜き、ファイターズの優勝をもう一度見たい―という気持ちになってきた。本作りは今回で終わっても、まだ生きる意味があるのだ。よい本を読むことができたと、心から感謝している。

人間にとって、もっとも大切なのは、命と愛と、そして志し(こころざし)であることを、私はあらためて思い起こし、認識したのである。

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年月〇一日 296

 

七月例会誌上合評

 

合評作品

源河朝良「灼熱の島」(『民主文学』7月号)

 

意見1             泉  脩

一九六八年に沖縄新報社に入社した富山孝平が、その年に起きた三つの大事件にぶつかった。沖縄代表の甲子園での奮闘、初の主席公選に革新候補が当選、そしてB52爆撃機の離陸失敗と爆発である。

B52はヴェトナム爆撃を続けた凶暴な爆撃機で、早朝すぐ現場に駆け付けた二人の支局員が、迫力のある現場写真を撮り、大きな特種になる。新聞記者特有のムダのない直さいな文章で書かれ、ぐいぐいと引き込まれる。そして今更ながら、沖縄がアメリカのアジア支配の中心基地であり、戦後八十年近く経っても固執していることが理解できる。朝鮮、ヴェトナムそして中近東で、どれだけ多くの人命を奪ったことか。

私はB29による東京爆撃を身をもって体験し、生まれ育った家を焼かれただけに、この作品は他人事ではない。

現在ロシアがウクライナを侵略して、かつてのロシア帝国をめざしている。アメリカは、「開かれた自由な太平洋をめざす」と称し、インド・オーストラリア・アメリカ・日本の大軍事同盟を作ろうと努めている。核兵器の使用の危機が迫っている。

この作品の中で、核貯蔵所を爆破する寸前の危機が書かれている。まさに現在を予告する作品になっていると思う。

「歴史はくり返す」のである。

 

意見2             松木 新

主人公の人物像がいまひとつスッキリを浮かんでこないきらいがありますが、新米記者の奮闘記として、面白く読みました。

この作品では、B52墜落事故をきっかけにした琉球タイムス記者との会話が、重要だと思いました。宮城記者の〈「恐ろしい想像」〉が、沖縄の現実を鋭く衝いていると思いました。

主席選挙を勝つために、本土政府が総掛かりの権力で攻撃をかけてきたにもかかわらず、それを見事に反撃した沖縄の統一した力の存在、墜落事故をきっかけに、沖縄全土に急速に広がった基地反対のたたかい――1968年の沖縄は、平和と民主主義の原点でした。それだけに、この二つの「事件」から、當山がどのようなことを記者として学んだのか、そのことを掘り下げて欲しいと思いました。

その意味で、柳広司『南風(まぜ)に乗る』が、たいへん参考になりました。直木賞受賞作である真藤順次『宝島』も逢わせて読むと、復帰直前の沖縄の実態がよくわかります。

 

 意見3          豊村 一矢

 この作品を読んだ後、6月25日に、「島守の塔」という映画を観た。第二次世界大戦末期大戦末期、大半の住民を巻き込んだ壮絶な沖縄戦の映画だった。「灼熱の島」と重なった。

 主人公當山孝平が沖縄新報社の記者になったのは1968年で、敗戦からは四半世紀ほどあと、現在からは、ほぼ半世紀ほどまえだ。

沖縄のことは何度書かれてもいい。沖縄の地図を開けば、治外法権の米軍基地が占める面積の広さに驚く。更に手下(てした)の自衛隊の基地の広さにも。そこから先制攻撃の機会を狙っているという。

 この作品の難を言えば、用語が的確でなかったり、ぎこちなかったり、表現の問題が散見されることだ。

「灼熱の島」は『民主文学』誌のジャンル分けでは「創作」に属しているが一般誌では「小説」だ。 

表現に難があると今一つ心に響かない。レポートを読んだような気分になった。

 

 意見4            泉 恵子

沖縄の辿った歴史は知るほどに壮絶で、日本の矛盾の集中した場所という印象だ。特に第二次大戦で、日本の捨て石にされ、あの狭い島の中での悲惨な闘いは、想像を絶するものがある。

そんな過去を背負いながら、いや現在もアメリカの基地と隣り合わせに、複雑な思いを抱きながらも、沖縄の人々は逞しく大らかに生きているように見える。

私が「札幌自由が丘学園」に非常勤で通っていた頃、修学旅行はいつも沖縄で、生徒たちと沖縄戦について学び、「ひめゆり記念館」では、語り部の宮城喜久

子さんの話を聞き、その後も宮城さんとは交流があった。そしてあのコバルトブルーの海と、白い砂浜で遊んだ。「灼熱の島」を読みながら、そんな沖縄を旅した色々のことを思い出していた。

この作品は、新人新聞記者の奮戦記といったおもむきで読んだ。一九六八年という、沖縄にとって大きな事件のあった節目の年に、「沖縄新報社」を受験し、見事合格したところから書き出され、主人公當山孝平の記者として取り組んだ事件などが時系列的に語られている。

前半は米兵の窃盗事件や、少年院から抜け出した少年たちの兇悪な事件の取材のこと。その夏は、まだ復帰前の沖縄興南高校野球部が甲子園で準優勝という快進撃にわき、十一月には、祖国復帰を訴えてきた革新共闘会議の屋良朝苗氏が沖縄主席に当選という画期的な選挙があった。

後半は歴史的大事件、ベトナムへ向けて飛び立ったB52戦闘機が、嘉手納空港滑走路の端で炎上。あわや、地下弾薬倉庫に燃え移るかと思われる大惨事となった。この倉庫には核が貯蔵されていることを後で知るのだが、もし核爆発が起こっていたらと、改めて沖縄が大変な島であることを、読者もまた認識させられる。

知らなかったが故の大胆なスクープを取りに走った記者魂を描いた部分は圧巻で、まさしく「灼熱の島」沖縄の現実に肉薄して迫力がある。

題名に合わせると、この部分にもっと焦点をあてて描き、前半の入社試験等はいらないのではないかとも思った。主人公は作者とも重なり、ドキュメンタリー風な語りのようであり、一九六八年という怒涛の年を、新人記者として駆け抜けたそこを書きたかったのかと。

「灼熱の島」は興南高校の甲子園快進撃や、屋良朝苗の当選を含めての「熱く燃える島」の意味もあるのかも知れない。

 

意見5           後藤守彦

七月は例会に出席できました。やはり対面による合評はいいですね。作品への基本的理解がずれていないことがわかりほっとしました。沖縄の厳しい現

実を鋭く描いているものの、ルポルタージュのような作品になっていると言いましたが、出来事に比べて人物が浮かび上がってこない、内面描写も足りな

いと思ったからです。そして、柳広司『南風に乗る』(小学館、二〇二三年)の描写を取り上げながら、B52の墜落事故をめぐる動きをふくらませるべき

だと発言しました。この点については、核爆発の危険を察知し現場から逃げた琉球タイムス支局長をめぐって深めるべきだとの具体的な指摘があり、納得

しました。例会の後半に、読み手を意識して書くのかどうか話し合いましたが、興味深いものでした。補足として、北村薫の言葉を紹介します。「他者の

作品によって自己を語るのが評論家だ」「読みの創造性が作品を深める」(『雪月花』集英社、二〇〇三年)。

例会の前日、キタラの小ホールで、ボッケリーニの「スターバト・マーテル」を聴きました。この楽曲はイエスの死を嘆き悲しむ母マリアを歌った宗教

曲ですが、歌詞にあるフレーズ「嘆きを共にする」「苦しみを共にする」が私に迫ってきました。他者の苦しみを、沖縄の人びとの苦しみを誠実に受け止

めているのか、と。

 

意見6            山田孝子

沖縄の現在の状況は、戦争前夜とも言われている。まだ戦後が終わっていない、遺骨も残っているというのに、又もや犠牲を強いるのかと、口惜しい思いでいっぱいだ。

 本作を読んで、B52の大事故を思い出した。知花弾薬庫に核兵器が格納されているのではないか・・と言う話を新聞でも読んだ覚えがある。

 八年前に、高教組の人たちと一緒に「沖縄支援ツアー」に参加したので、高江基地や、辺野古基地を回り、嘉手納基地を遠くからだが眺める事も出来た。「不屈感」にも行き、沖縄の歴史を少しだけ学ぶ事も出来たので、沖縄への強い関心もあって、本作を読んだ。

 その為か凄く感情移入して読んでいたようだ。というのは、七月の例会では、表現について結構厳しい意見が相次ぎ、目を開かれる思いがしたからだ。

 「書く」という作業の厳しさに改めて気づかされた。

 本作の最後に「琉球タイムス」の記者が、「俺は逃げた」という生々しい証言が出てくるのが、とてもリアルな感じがした。

 

意見7            室崎和佳子

當山孝平が新聞記者になった一九六八年、私は大学三年生だった。

「アメリカ帝国主義のベトナム侵略反対」

 シユプレヒコールを響かせて街中をデモしたことを思い出す。

 ベトナム人民を大量虐殺している米軍機が沖縄から出撃しているのは知っていた。私が最初に知った時ですら、かなりのショックだったので、沖縄の心ある人々にとってはどんなに悲しいことだったか、想像するにあまりある。

 孝平はその最前線にいて記者として、出撃する米軍機を見ていたのだ。

 そして、あの大事故に遭遇する。

 二人の記者が必死で事故の実相を知るために動き回るところ(事故現場に向けて夜明け前の暗い中、必死で走る二人。立ち入りを制止する米兵が来ない間に現場にたどり着く二人。MPにつかまってカメラのフィルムを抜き取られたらおしまいだ、俺たちはすぐに引き上げよう。米兵だ、見つかるとまずい、二人は急いで草むらに身を潜めた。

嘉手納消防署の消防士たちは真っ先に駆けつけながら、米軍に阻まれて消火活動ができなかった。ホースを握って懸命に消火するのは基地内の消防隊に勤務する沖縄人の消防士たちだったが、リアリティを感じさせた。

 

 意見8             柏原 竜

當山孝平は、1968年3月に琉球大学を卒業して沖縄新報社の新聞記者になった。

 米軍が統治している沖縄のようすが記者の眼をとおして生々しく書かれている。カデナ米軍基地からベトナムに絨毯爆撃に行くB52が基地内で墜落炎上して積み込まれていた弾薬が次々に爆発して、基地周辺の民家が爆風にさらされ、さらに知花弾薬庫内まで燃え広がろうとしていた。そこには核兵器が貯蔵されているといわれていた。沖縄の激しい現実だ。

1972年に沖縄は祖国復帰したが、私はその前年1971年の大学の夏休みに名護のパイナップル農場で2週間程働き、その後、沖縄のあちらこちら旅した。沖縄出身の大学の先輩の紹介らしいが、女子2人と男子10人くらいで、パスポートをとり、円をドルに変えて東京湾の竹芝桟橋から船に乗っていった。

農場では男子はパイナップル収穫、女子は食事つくりを担当した。日中は熱かったが夕方から夜にかけて涼しい海風が吹き、月明かりのもと三味線をならし、泡盛を飲みの宴会が、毎夜、続いた。歌い踊り熱い討論会もあった。沖縄は燃えていた。その後アルバイトが終わり、皆ばらばらになって、私達女子2人は一緒に、那覇の教会に行った。たくさんの若者が寝泊まりしていると聞いて、そこを拠点にしてあちこち歩き廻った。何処までも続く基地の金網、水不足のための巨大な水のタンク。夕陽をあびて穏やかで暖かい海辺で遊んだ。

人々は親切で素朴な感じがした。町並みは自分が過ごした十年前のような気がしてなつかしかった。  

その頃、大学では「沖縄」、「ベトナム」、「安保」と熱く議論されていたが、一般社会では政治の話をする事はあまりなかったように思うが、沖縄ではそこかしこで話され話しかけられて、沖縄中が熱いルツボのように感じられた。

この作品を読んで、若い頃のそんなことを思い出すことができた。

                                

 

投稿欄

 

 

子供食堂を開く

                    泉脩

 『民主文学』新人賞佳作

竹内たけし『天空米食べにおいで』について

 

主人公高田健三は、山梨県の山村の、農家の三男だった。持ち物や洋服は兄のお古で、何事も後回しにされた。母が畑仕事で忙しいので、家事までやらされた。

中学を卒業すると宮大工に弟子入りし、みっちりと技術を仕込まれた。二八歳で幼なじみと結婚したが、やがて妻は子宮ガンを患い、亡くなった。

宮大工を辞め東京に出て、調理師になった。そして大田区大森東で食堂を開いた。

ある日、店の近くで交通事故があり、見に行くと通学途中の小さな女の子が倒れていた。小一で小五の兄と道路を横切った時に、車にはねられたらしい。健三は心臓マッサージをし、何とか呼吸を回復させた。学校に電話をして事故を知らせた。

しばらくして兄妹は食堂に来て、二人は健三にお礼を言った。母親がフィリピン人で離婚後に勤め先を解雇され、毎日家で寝ているという。健三は兄妹に夕食を食べさせ、母親の分も持たせた。やがて母親が容器を返しに来て、いろいろと事情を話した。

別れた日本人の夫から毎月二万円の仕送りがあり、やっと暮らしている。自分は体を壊し、息子が家事をしているとのことだった。ヤングケアラーである。

健三は共産党議員の力を借りて、生活保護の申請をしてもらった。このことがきっかけで、健三は子供向け定食を出すことを思い立ち、毎週土曜日の夕食を百円で子供たちに出した。実家が海抜千米の水田で作っている米を取り寄せ、「天空米食べにおいで」と書いた旗を店の前に立てたのである。

この作品は新人賞の佳作だが、やはり胸を打つ感動的な作品である。

私も早くに父を失い、八年前には妻に先立たれた。貧しさや淋しさを、たっぷり味わってきた。だからこの作品の内容が、すべて身に染みるのである。人情・助け合いということが、今でも生きているのである。

主人公の健三は、子供の時にパンを万引きして見

つかり、共産党の弁護士の計らいで警察沙汰にならないで済んだことがあった。この経験からフィリピン人母子を助けるために、共産党議員の力を借りたのである。

なお、健三が食堂を開店した大森は、私が生まれ育った品川区大井町の隣りである。

山の手はお屋敷地域で、海側は下町である。中小企業が多く、庶民が住む地域である。海岸は「海苔」が採れるので有名だった。しかし横浜と東京を結ぶ高速道路ができて、海苔漁師は漁業権を手放してしまった。

戦争末期、私は小三まで大井町で暮らし、それまで大森にもよく遊びに行った。蝉が捕れる木々が多かったのである。友人の家もあった。その上、父の兄(伯父)の外科病院と家が大井町と大森の境にあり、親や姉に連れられてよく訪ねたのである。庭の池には鯉がいたし、子供部屋には珍しいオモチャや童話の本がたくさんあった。伯母は有名な童話作家の巖谷小波(いわやさざなみ)の娘だった。

この作品は私の子供時代の風景と、その時代に暮らす人々の人情と助け合いを思い出す作品でもあるのだ。

今年の「民主文学」の新人賞作品の二つの佳作は、新人賞受賞作品にも劣らない、胸を打つ立派な作品である。

 

 

父親の死をきっかけに

                 泉 脩

『民主文学』新人賞佳作

黒田健司『忘れ物はありませんか』について

 

 主人公の衛藤信一は海外旅行の添乗員。コロナ禍で海外ツアーが激減し、会社は大手と合併するために人員削減を始めた。信一は合併後の札幌転勤を勧められているが、体(てい)のいい窓際のポストである。

ある日、信一に北九州で一人暮らしをしている父親の携帯から、電話が掛かってきた。ほとんど絶縁状態の父だった。電話を取ると、北九州の警察からだった。父親が散歩中に倒れて亡くなったという。びっくりした信一は休暇を取って実家に帰り、遅

れて駆け付けた妻久美子と共に父の葬式を行い、自分だけ残って後始末をした。晩年の父が作った俳句や書が出てきた。そして懐かしい自分の青春時代の品物もたくさん出てきて、片付けが進まなかった。

父親は少年の時に大阪の街工場に勤め、旋盤などの技術を学び、北九州に戻って小さな工場(こうば)を作った。近くの自動車工場の下請け仕事をしてきたのである。

しかし、自動車工場がなくなり、それに伴なって父親の仕事もなくなり、細々と親子三人で暮らしてきた。

息子の信一は、酒を飲んで暴れる父親を嫌った。東京の大学を出て、そのまま東京の旅行会社に勤め、ほとんど家には帰らなかった。二年半前に母が亡くなった時に帰省したが、父親とはろくに口をきかなかった。

短冊に書かれた父の俳句は、先立った妻を偲ぶ内容が多かった。俳句仲間の話しによると、息子の信一のことを、いつも案じていたという。そして毎日散歩をして、健康維持に努めていたという。父親の思いがけない話を聞き、信一は胸を打たれた。

ほとんど使われなくなっていた工場は、きれいに掃除され、わずかの機械もきちんと手入れされていた。

暴れて母に暴力を振るい、息子の進学に耳を貸さなかった父親は、思いがけず繊細な心を持っていたのである。晩年に習った書道で書いた、「人事を尽くして天命を待つ」という掛け軸を見ながら、一人で暮らしていた父親に思いを巡らせた。

実家を始末することを中断し、いったん東京に帰ろうと空港に来た信一は、一人の老年の女性に声を掛けられた。かつてパリでツアー客だった老夫婦の、大切な忘れ物を必死で探し当てた時の老婦人だった。すでに夫は亡くなり、女友達と五島列島のツアーに行く途中だった。老婦人はパリでの信一の努力に改めて感謝し、「また連れて行ってください」と頼まれた。信一は励まされ、自分を取り戻した。

会社にもどってたたかおう、「人事を尽くして天命を待とう」と決心したのである。

もう五十歳を超し、体も痛んできたけれども、自分の選んだ道を探求しようと決心したのである。

この作品も「民主文学」新人賞の佳作だが、入賞した「Jの子」に劣らず、秀れた作品だと思う。

私は自分も高校教師として何度も自信を失い、必死に再起したことを思い出した。併行して取り組んだ組合運動でも、何回も挫折を繰り返した。絶体絶命のピンチも何回もあった。定年まで勤めることができたのは、奇跡のようだった。

家族や友人の支えが大きかった。父親には早くに死なれたが、第二・第三の父親に恵まれ、そして現在は息子夫婦に支えられている。そして一年後には、九〇歳という信じられない高齢になる。この作品の「人事を尽くして天命を待つ」は、私にもぴったりの言葉なのである。

海外ツアーの添乗員は、外目には華やかな職業だが、きびしい仕事である。私が七四歳で初めて海外ツアーに参加した時、中年の添乗員の苦労話を聞いた。バブル崩壊後、交通公社(後のJTB)の添乗員は全員解雇された。そして添乗員派遣会社に雇用され、あらゆるツアーに派遣されて、休む間もなく世界中を飛び回っている。一度でも断れば、二度と仕事は来なくなると―。しかもその後、世界各国で日本語の教育が拡がり、現地ガイド(兼通訳)が増し、日本人添乗員の仕事は減ってきたのである。

そしてコロナ禍が襲ってくるのである。さらにウクライナ侵略の影響と円安が進んだ。

この作品にあるように、海外旅行そのものが激減したのである。今後どうなるのだろうか。

 

 

 

『静かな大地』から『また会う日まで』へ

後藤守彦

 

一九二二(大正一一)年に、一九歳で夭折した知里幸恵の『アイヌ神謡集』が出版されてから、今年で一〇〇年となる。哀しく美しい序文は、「其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました」で始まる。「私たちの先祖の自由な天地」と重なる「静かな大地」をタイトルとして、池澤夏樹が母方の曾祖父とその兄を描いたのは、二〇年前のことである。同名のタイトルの刊行物は既にあった。それが哲学者である花崎皋平の手になる『静かな大地』(岩波書店、一九八七年)である。花崎は、北海道の命名者といわれる松浦武四郎が残した膨大な日誌などの記録に基づいて彼の旅の足跡を辿りながら、自身のアイヌへの共感の思いと彼のそれとを重ねあわせ綴った。花崎の『静かな大地』はジャンルとしては評論になるが、彼からタイトルの借用を許されて、池澤が書いた『静かな大地』(朝日新聞社、二〇〇三年)は小説である。

淡路を治める徳島藩筆頭家老の稲田氏の家臣は、徳島藩の陪臣になるのだが、そうした家に生まれた、宗形三郎と志郎の兄弟は、一八七一(明治四)年、両親とともに日高地方の静内に移住する。アイヌと牧場を開き馬を育てたが、アイヌを認めない和人の妨害によって牧場は滅びてしまう。「静内の奥地でアイヌ牧場を経営した男の数奇な生涯を描いた作品」(松木新『アイヌを描いた文学』文友社出版、二〇〇六年)と評価されるが、確かに、主人公である三郎の境遇は変化し、不幸せな結末を迎えるのだから、「数奇」ということになろう。三郎はアイヌの娘エカリアンと深く愛しあう。後にその娘はアイヌに育てられた和人だとわかるのだが。二人は結婚したが、エカリアンは難産で赤子ともに亡くなってしまう。三郎は後を追うように自殺する。まさに心中だった。

アイヌの側に立った道を貫いた三郎の生きかたは尊い。「友情と同情」のレベルであった三郎は、『日本奥地紀行』を著したイザベラ・バードに会い、「アイヌは気高い人種だ」との言葉を聞いて、「アイヌと共に生きようと決め」る。

 

  アイヌの生きかた、山に獣を追い、野草を摘み、川に魚を求める生きかたは、欲を抑えさせ、人を慎ましくする。いくら欲を張っても鹿が来なければしかたがない。祈って待つしかない。だから、大きな山の力によって生かしめられる己を知って、人は謙虚になる。

 

今年刊行された『また会う日まで』(朝日新聞出版、二〇二三年)で、池澤は父方の系譜を追う。『すばる』の二〇二三年七月号に載った、「世界を描く、ということ」をテーマにした黒川創との対談で、この小説について池澤は、「明治から第二次世界大戦の終わりまでを彼の人生を追いながら書いた、日本の近代史となっている作品」と語っている。「彼」とは小説の主人公で、池澤の父方の祖父の兄、大伯父にあたる秋吉利雄。秋吉は海軍兵学校・海軍大学校を卒業後、東大に入りなおして天文学を専攻し、博士号を取得している。軍艦には乗らず、水路部で航海暦や海図作成にあたった。聖公会信徒の両親のもとに生れ洗礼を受けている。つまり、秋吉は、海軍軍人、天文学者、クリスチャンという三つの顔を持っていたのである。

 タイトルは、讃美歌四〇五番「神とともにいまして」の一節からとられている。作品は、敗戦直後、病床にあった秋吉が来し方を振り返る場面から始まる。一九三四(昭和九)年に、南太平洋の島での日食観測を無事終え、島を離れる時に、島民がこの讃美歌を歌って見送ってくれた。秋吉は「信仰は普遍であり、恩寵は行き渡る」と強く感じたのだった。終結部の秋吉の葬儀でも歌われ、それぞれの場面で歌詞が引用されている。秋吉は「信仰なしには生きること」ができなかったのである。

 秋吉には実戦経験がなかったが、「わたしの手が紡ぎ出した計算結果が飛行機を飛ばし、軍艦を導き、敵とされた人々の頭上に爆弾や砲弾を降らせた。わたしには罪がある」と自らを責める。しかし、近代日本の戦争史を批判的に捉えるために、秋吉の視点だけでは限界があると池澤は考え、唯一の架空の人物としてMを設定した。Mは秋吉と海軍兵学校の同期で、戦場に行くことなく海軍の戦史作成を担う。日独伊三国同盟締結などの節目で主人公と会い、Mは見解を披歴する。政府が隠した、ミッドウェー海戦の大敗北も、そこで兵学校の同期生の加来止男が沈められた航空母艦飛龍と運命をともしたことも、Mから知らされる。秋吉は敗戦の二年後五三歳で病死するが、Mは敗戦後そう日が経たないうちに悲劇的な死を遂げた。

 

   大日本帝国が、日本というわたしたちの国が、どう歩んできたのか、どこで足を踏み違えて谷底に転がり落ちたのか、その時の指導者・責任者は誰だったのか。この先、百年あるいは五百年・千年を思って、列島で暮らす人々、この国土で育つ子どもたちのために、未来の礎を用意する。だがそれを喜ばない者がいた。終戦の後の今もその勢力が残存している。

 

 こう秋吉が思いを深めてから長い時が経った今も、「喜ばない者」たちが跋扈している。

「喜ばない者」は歴史修正主義者といえよう。池澤は「いまもそうでしょう。軍事費を増やして、トマホークを大量に買ったりして。そういう現代のことも思いながら読んでほしい」(『しんぶん赤旗日曜版』二〇二三年六月一一日号)と願っている。

 六月一一日に開かれた北広島九条の会の例会で、講師の本庄十喜北海道教育大准教授は「「新たな大戦」を回避するためにーアジア・太平洋戦争を再考する」という刺激的な演題をたて、アジア・太平洋戦争史をコンパクトにまとめた。彼女は結びで「「新たな大戦」を回避するために私たちがすべきこと」として数点あげた。その第一は「マスメディアを鵜呑みにせず、自分たちの頭で考える」で、そうした批判的知性を育むために歴史から学ぶことが必要だと強調していた。

 

 

 

『かっかどるどるどぅ』が面白い

                 松木 新

 

若竹千佐子『かっかどるどるどぅ』(河出書房新社 2023年5月)は、2018年に『おらおらでひとりいぐも』で芥川賞を受賞した著者の第二作です。ちなみに同書は、世界10ヵ国で翻訳されているそうです。

先の大会の「幹事会報告」が、本書は「貧窮化し、孤独に追い込まれた女性たちの強さ、プライド、そして世代を超えて互いを尊重する、新たな相互扶助の人間関係をリアルに模索した」と評価しています。

物語の舞台は、ちゃぶ台。古いアパートに住む片倉吉野は、一室を開放して食事を振る舞っています。ちゃぶ台の周りに集まってくるのは、六十代の二人の女性、三十代の男女です。いずれも訳ありの人物たちです。それぞれの登場人物たちの来し方には、この国の現実が投影されています。

注目したのは、前作とは違って、政治的発言がストレートに開陳されていることです。

ひとつは、ウクライナ侵略です。

〈戦争がちゃぶ台の上にも押し寄せてきた〉とき、ウクライナの犠牲者に同情しつつも、かつての戦争で、この国が加害者であったことを直視します。これは鋭い視点だと思いました。

〈「立派な建物も橋も病院も爆弾でぶっ壊されるのを見だ。あれもひでども、おらが一番心に突き刺さるのはあのおどごわらしの涙だ」〉

〈「あの子どもはいづがのおらだぢの姿だ。親の代かもしらね爺さん婆さんの代がもしらねそのずっと前だがもしらね。でぇじなのはあのこどもをつぐったほうにもつぐられたほうにもいだったずごどだ」〉

ふたつは、非正規労働者の現実に思いを馳せるなかで、あるべき社会のあり方を模索していることです。その内容が、クロポトキンの「相互扶助論」に接近しているところが、今日的だと思いました。

〈ウクライナで人が流す血は眼に見える。だから立ち上がるし、抵抗もするんだ。だけど、非正規労働者が心に流す血は眼に見えない。見えないから見ない振りもできる。ひょっとしたら流した本人さえ気付かないし立ち上がらない。自分を責めるだけ。だって自己責任だもの。巧妙だし、むごい。どっちが悪いと言ったら、やっぱりどっちも悪い。こんな世の中にして。だけど。

「だけど、ならどんな社会がいいのか、競争のない社会って具体的にどんなしゃかいなのか、私には検討がつかないんです。競争に、私も飼い慣らされてしまったのかな」〉

〈「人を、大切にする仕事、こんな仕事ほかにもあるじゃないですか。保育、教育、医療だってそうかもしれない。それを真ん中にどんと置いて。そうすればみんな安心して暮らしていけます」〉

吉野が語る、〈腹をくぐって楽観すればいいんだ〉〉が、強烈な印象を残す幕切れでした。

〈「んだども、人どいうのはぎりぎりのどぎに思ってもみね力が湧いでくるもんだ」〉

〈「振りがえって見れば、おらそんなごどが何回もある。おらはときたま思ったもんだ。この力を引き出すために困難のほうが寄って来るんでねがってさ。なぁに、こういうどぎは何回もあって、そのたんびになんどがしてきたのも人間でねが。人の力を信じでいいんだど思う。腹をくぐって楽観すればいいんだ」〉 

札幌民主文学通信

 

二〇二三年月〇一日 295

 

 六月例会誌上合評

 

 合評作品  「Jの子」  清水春衣

      「民主文学」6月号

   第二十回 民主文学新人賞受賞作

 

意見1          室崎和佳子

北信州の高原にあるトマト畑を舞台に、「私」「Jと三人の子供たちと夫のラファエル」「畑の親方のロレンゾ」のやりとりを通して、今の日本の農業や外国人が置かれた現状を考えさせられる作品でした。

 それにしても、ロレンゾの懐の大きさが素晴らしい。毎日のようにJと三人の子供たちに夕食を振る舞い、シャワーまで使わせて、子供達は寝巻きに着替えて家に帰る。無国籍の子供たちと母親のJにとっては神様のような存在だ。ロレンゾなくしてはJと子供達の明るい笑顔はないであろう。

 末っ子が義務教育を終了するまではJの今の状態が継続されるようであるが、その後のことが非常に心配だ。家族が離れ離れにならないようにと願うばかりである。

 今国会で不備だらけの入管法がまたしても通ってしまった。腹立たしい限りである。

 

意見2             松木 新

「Jの子」と同じ号に、木村友祐が「ぼくの入管問題(文学をふくむ)」を寄稿しています。彼は、入管問題についての〈無風。無反応。何事も起きていないという通常運転(震災後のように)〉という状況に怒りをぶつけています。

中島京子が『やさしい猫』(中央公論新社2021年)のなかで、裁判闘争に踏み切ったスリランカ人の自動車整備士クマさんの法廷での発言、〈「日本人は、入管のこと、在留資格のこと、なにも知らない」〉を紹介していました。木村友祐の発言と同じ趣旨です。『やさしい猫』を読んだときのショックは今でも覚えています。

「Jの子」でとても良いと思ったのは、八十四歳の〈オトーサン〉ロレンゾの存在です。このコミュニティの核としての存在感が際立っています。

学校での子どもたちの世界が、大人たちの思惑や国籍とは無関係に、友情あふれるものとして描かれていることにも、共感を持つことができました。

もう少し深めて欲しかったことは、Jの子どもたちもまた「仮放免」だということ、その制約について触れて欲しいと思いました。

『やさしい猫』では、川口に住む仮放免のクルド人の少年が、無断で東京ディズニーランドへ行ったことが発覚し、大問題になる場面がありました。

「Jの子」の最後の場面で、〈ワールドカップ優勝というきっかけでトニイは「国や故郷」という概念を持ち始めた〉という文章に続いて、オトーサンがトニイに、〈キミはいいね。普通の子は日本という一つの国しかないけど、キミは三つあるんだ〉と語りかけます。〈Jの子はこれから故郷を選べる〉とあるので、国籍については、この場合、意図的に排除されています。これは作者の配慮だと思いました。

『やさしい猫』のなかで言及されていますが、日本は血統主義の国なので、両親のどちらかが日本国籍でないと日本人にはなれません。同じ血統主義の国であるフランスでは、フランスで生まれ五年間フランスで育っていればフランス国籍がとれます。アメリカは血統主義の国ではないので、アメリカで生まれた子どもはすべてアメリカ人になれます。

トニイは「故郷」としては、三つの国を選択できますが、日本の国籍をとることはできない、というのがこの国の現実なのです。そのことにも、若干でも触れて欲しかったと思いました。

 

意見3             後藤守彦

 六月は例会に出席できず残念でした。他力本願ですが、選考委員の選評から共感できる部分を列記して、作品評にかえさせていただきます。

「この作品の特徴は、日本農業の危機をそこで無権利状態で酷使される非正規外国人労働者たちに密着して描き出したことである」「理不尽な状況下でも,

したたかに連帯して生きる姿を温かく描いている」「八十四歳のブラジル人日系二世オトーサンの形象が特に素晴らしい」「無駄のない洗練された文章」。

胸に深く沁みてくる作品でした。

 私が住む人口六万の北広島市でも、市のホームページによると三九五人の外国人が暮らしています。国籍別では、九一人の中国が最多で、次がベトナム

の五七人となっています。ベトナム人の技能実習生と同じ福祉施設で働いている日本人女性から先日話を聞きました。彼女は非正規で時給で見ると技能実

習生の方が少し高いようですが、ともに低賃金労働といえます。六月九日付の『北海道新聞』の「各自核論」のコーナーで、中満泉国連事務次長が、現代

日本にとって最大の脅威は「多様性の欠如」である、「同質性の高い組織よりも多様な構成員を持つ組織の方がパフォーマンスが良いことは各種の研究か

ら明らかで、これは日本社会全体の活性化にも直結する」と指摘しています。当事者の声を無視して入管法改正、LGBT法を強行した勢力は、「同質性

の高い」ことに執着し、日本を駄目にしているのです。

 

 意見4          浅野勝圀

 とても後味の良い作品だった。読み終えて、人々が汗と土埃にまみれて一服の番茶にのどをうるおしている、そんな情景が浮かんだ。

また、文章の密度が濃いことも作品の魅力だった。ぼくらがつい平仮名で書いてしまいそうな言葉が、きちんと漢字で表記されているのが新鮮だった。たとえば次のような表記である。

 安堵 迂闊 叶わない 慇懃無礼 

訊ねた シートを被せる 

啖呵を切る 愁眉を開く 齟齬をきたす

 これらの表記が少しもうるさくないのは、ぼくらが楽に読める漢字であり、意味もよくわかっている言葉だからではないか、そしてそのことが文章の密度に結びついているのではないか。

作品を支え動かしているのは、夫の急逝に不意を打たれ帰農した語り手の「私」(オカーサン)推定70歳と、ブラジル日系二世84歳の「高橋ロレンゾ武」(オトーサン)、そして40代半ばで三人の子持ちのフィリピン人「J」の三人である。三人の形象はそれぞれに説得力があって見事だが、とりわけロレンゾのそれが魅力的で作品世界に豊かな存在感を与えている。

最終ページ下段、「私はこの先どこで生き、どこで死ぬのかを考える。」以下の結びの七行が心にのこった。「私」の見果てぬ夢のようでもあるし、美しい祈りのようでもある。「受賞の言葉」にあった「年を経て、人生の、渦巻く潮から光る一滴を掬えたら(略)本望です」と響き合っているのを感じた。七十歳の新人賞作家に乾杯!である。

 

 意見5            豊村一矢

 例会での合評で、この作品では「入管問題」が主題に関わる視点の当てどころだとする見方について、私は同意出来ず、発言がそのことに終始したように思うが……認知症の所為か、はっきりしない。

 改めて、この作品についての意見を書きたい。

 新人賞受賞作品『Jの子』を一読して、凄い書き手が現れたと思い、少なからず興奮した。

 日本の農家…といっても正確には、「トマト畑の日本人オーナー」は、もともと、農業なんかやっていられない状況に至った人だが、「役場から畑を放置するな」と言われ、農協から「野菜を作ってくれ、安い手間賃で、ガイジンさんにやってもらえばいい。機械でも何でも貸すから」といわれては始めたものだ。

 安い手間賃で働くガイジンさんも、一纏めにした外人さんではなく、それぞれが、それぞれに生き生きと描かれ、読ませる。

 一つでだけ不満を上げれば、今の日本の農業の現実は、この作品の背景としても重要だと思うし、もう少し前面に出して描くべきだったのではないか、ということだ。

 日本の農業は最悪の状況のなっているのではないか。耕作面積も農業人口も激減している。結果、日本の農業生産物での自給自足が破綻している。このことも小説の表現で書いてほしかった。

 

意見6            泉  脩

 長野県の農場で、著者自身と思われる代理経営者が外国人労働者を使って、収穫作業をする話である。農場主は株相場に打ち込んで、農業に興味を示さない。

 世界各国から来た労働者は協力して働き、わずかな手間賃をもらって生活している。Jとは、フィリピンから芸能ビザで来日し、アルゼンチンの日系二世と結婚し、三人の子どもがいる。ビザが切れて不法滞在になり、子どもがいるので仮釈放になっている。労働者不足の日本で働く外国人労働者は、あらゆる産業で技能実習生の名目で五年間働き、低賃金に甘んじている。

 地域の日本人とトラブルがなく、特に学校では教師の努力で対立もなく、とても気持ちがいい。これはお父さんと呼ばれる八十代のブラジル日系二世と、お母さんと呼ばれる日本人代理経営者の努力が大きい。警察の監視下にあるJも、人々の好意に包まれて、なんとか子どもを育てている。とてもよい話だ。

 しかし、日本は入管法を改悪して難民の入国を阻止しようとし、入国中の外国人の医療・介護を保障せず、低賃金も野放しにしている。さらに日本人の非正規労働者を増加させ、結婚難と新生児減少を生み出している。無職者による犯罪も増加している。結婚した夫婦も、共稼ぎと教育費の増大で出産を抑え、少子化をもたらしている。

いわゆる先進国の常として、外国人労働力がどうしても必要であり、今後もさらに拡大していくだろう。民族トラブル、犯罪、そして排外的勢力の増大が欧米並みになっていくかもしれない。

この作品はこういった現実を巧みに描き、読む者に違和感を与えない。また、それらの問題を再認識する作品である。

 

意見7           泉 恵子

外国人労働者が大勢働く信州にある高原のプランテーションとそこに集う人々が、「私」の軽妙な語りで繰り広げられている。作者の受賞の言葉に「ノンフィクション」に近いものとあり、日本の農業がこうした外国人によって成り立っていることを知らされる。

面倒見の良い「オトーサン」と呼ばれるブラジル日系二世の高橋ロレンゾ武の存在が、頼もしく好感が持たれる。八十四歳で現役バリバリ、「日本人は年寄り働かない()日本の若い人はジョギングや筋トレするけど畑はやらない」の言葉は、確かに3Kと呼ばれる職場を敬遠する最近の日本人を言い当てている。

そんな彼のもとに集う「J(ジェイ)」とよばれる「仮放免」中のフィリピン女性と、その子供たちは愛くるしい。が、Jは仕事をしてはダメ、子どもたちの義務教育終了までの養育中のみ入管収容免除、配偶者以外に経済的支援は受けてはいけないなどという理不尽な状態に置かれている。子供の一人トニイの巻き込まれたボヤ騒ぎで、この「仮放免」状態が、よりあぶりだされる。

作品は、こうした背景を掘り下げるというより、そんな中でも健気に生活するJや子どもたちの日常を闊達な語りで、活き活きと描いている。 

最後はJの夫で、トニイの父の故国アルゼンチンのサッカーワールドカップ優勝で盛り上がり、トニイの未来に希望をもたせて胸が熱くなるが、無国籍という状態の中では前途は厳しいだろうことも予想させる。タイムリーな題材を扱っているというのも新人賞受賞の理由になっている。

しかし、現実はそんなに生易しくないことを、中島京子著「やさしい猫」で知らされた。

こちらの作品は、今国会での焦眉の課題であり、悪法が通ってしまった外国人の入管難民問題を真正面から描いている。(この度TVドラマ化される)

以前から外国人「技能実習生」の、実習とは名ばかりの苛酷で理不尽な働き方(働かせ方)や、そこから逃げ出す若者たちのことが問題にはなっていた。

最近NHKEテレが二夜にわたってこの問題を取り上げ、共生社会を作ってゆかないとこれからの日本は成り立たないと話していた。

諸外国に比べて、難民認定が極端に少ない日本。(一番多いカナダは67%、日本は0・3%とのこと)入管制度についても、メディアがあまり取り上げないこともあって、私を含め大方の日本人にはよく知らされてこなかった。

今国会で成立した改正入管難民法は、難民申請二回迄で、認定されなかったら、また申請中でもたとえその国での迫害が予想されても強制退去という非人情、人権無視の法だ。そして刑務所にも等しい入管制度。いや、期限が定められていないという事で、刑務所より悪い。仮放免中は、他県にまたがってはいけない。仕事をしてはいけない等々。あまりの非人間的な取扱いに驚かされ、知らなかったことを恥じた。

戦前の植民地支配、戦後の在日朝鮮人排斥の歴史がいまだ尾を引いている。グローバル化した世界の中で、「安穏な生活を脅かされないために」等という旧態依然とした日本支配層の発想(支配層ばかりではないが)ではもう成り立ってゆかないことを知らなければならない。

この悪法を撤廃しようという動きを後押ししていかなければ、と痛切に考えさせられた二つの作品だった。

 

意見8           山田孝子

 某紙に、清水春衣さんのインタビューが載っていたが、「私は小説を書いたのは初めてです」と語ってていて驚いた。こんなにしっかりした物語を書いている人が! と。

きっと、しっかり生きている人は、中味も自然としっかり書けるんだなあ~と。

 多分、実体験がベースになっているからなのか、描写も登場人物もリアルな印象を受けた。

 日本に働く外国人が、数百万人もいるのに、最近札幌では、あまり出会わなくなった気がして関心

が薄れがちだった。しかし、入管法の理不尽さも含めて、もっと知らなければと思っていたので、この作品のような色々な国籍の人たちが助け合っている暮らしの様子に、とてもホッとする。

 描かれ方がとてもリアル(例えば、トニーのクラスの様子や先生、母親たちの様子も)だし、実話のような自然さを感じた。

 オトーサンの影響で変わってきた、この主人公オカーサンの描写も、正直で魅かれる人物像だった。

 

  意見9           北野あかり

日本には多くの外国人が滞在しています。この作品は、ビザを取得できないため、入管法に縛られ、理不尽な生活を強いられている家族の実態や、無権利状態で酷使されている、非正規外国人労働者の状況と彼らに依存しなければ成り立たない日本の農業の実態を浮き彫りにしていると思いました。

Jは、フィリピン人の女性で年齢は40代半ば、10代後半に芸能ビザで入国したが現在ビザは切れたままビザもなく、パスポートもないため、住民票を申請することは出来ない。そのため夫の戸籍に入ることができない。

入管法では強制退去か施設に収容されるのだが、10歳の娘、9歳の双子の男児の子供がおり、子供が義務教育終了までは特例扱いとなって日本で暮らしている。しかし、滞在条件として、仕事が出来ない、身元引受人の夫以外からの支援や報酬を受けてはいけない。周りの人も支援を一切行ってはならない。許可を受けた居住地に住まなければならないなどの理不尽な扱いを受けている。

Jの子(3人の子供)には国籍がない。義務教育は受けることができるが、無国籍児童となっているため将来日本で活躍することは全く期待できない。学校でのボヤ騒ぎで犯人扱いされるなど理不尽な扱いを受けている。

無権利状態で酷使されている非正規外国人労働者の実態については、

・Jの夫は、アルゼンチン国籍の日系人、外国籍であるが就労ビザがあるので働ける。しかし、ブローカーを通しての就労なので、賃金は日雇い扱い、医療費、食費、家賃、光熱費は立て替えでブローカーが賃金から差し引くため手取りが少ない。就労先も不安定。

・ブラジル日系二世の高橋ロレンゾ武はオトーサンと呼ばれ、身元保証人不要の借家(古民家)に住んで、外国籍の人に憩いの場を提供している。

・日本の農作業に従事するためにさまざまな国から来日した労働者については、早朝軽トラックの荷台に乗せられて加工用トマト収穫に従事する労働者や、キノコ工場で働く中国人の農業研修生など、農作業で働く外国籍の労働者。ビザが切れている不法滞在者(タイ人は殆どの人)。などが紹介されています。

外国人労働者の就労先は、農業をはじめ自動車産業や飲食業、医療現場にも拡大してきており、あらゆる職場に共通する問題であるが、日本の非正規労働者も半数を超えており、共通している問題だと思いました。

タイトルが「Jの子」だったので、Jと子供のことについて書かれているのだと思って読み始めたので、書き出しの、早朝に軽トラックの荷台に人を満載にして、加工用トマトの収穫に向かう場面がこの作品のテーマだったことに気づかず、あとからでJと子供が出てきたので混乱しました。

また、この作品は「私」の視点で書かれているのですが、「私」の人物描写が、作品の中の登場人物と思って読んでしまい混乱してしまいました。

 

意見10          村松祝子

文体がしっかりと構成されて読むものに的確に響いてきた。海外から研修生として入ってくる人たちが低賃金で働かされオーバーステイの身になって隠れる様にアルバイトをしながら生活している実態がよく描かれている。

地面を這いつくばって最盛期のトマトの収穫に従事する。そんな現実があることを教えられた。   

外国人労働者からオカーサンと呼ばれて賃金配付や世話を引き受けている主人公の私は肝っ玉の座った正義感の強い性格がよく表現されている。義務教育が終わった時点で子供たちはどうなるのだろうかと不安に思った。

仮放免という外国人労働者の生殺与奪権利を弄ぶ様な日本の現政権の入管制度の問題を小説として取り上げたことは貴重な作品になったと思う。学校で疎外されていたトニーがワールドカップのサッカーの試合を通して子供たちとの交流が生まれるのを読むと、この現実を切り開く芽は日常の生活の中から生まれてくるのかもしれないと思わせてくれた。

 

 意見11           柏原竜

今日本で、外国人労働者が酷い扱いをされている事がよくわかった。通常国会で改悪が強行された入管法が、外国人労働者だけでなくその家族の人権も踏みにじっているのがよくわかった。酷いことだ。

 自分の周りでも、工場や会社で働く外国人労働者を見かけるが、人懐こくって挨拶をかわしあう。車を持ってないので、自転車で勢いよく走っている。

 日本は年々人口が減少して、農業が典型的だが、外国人労働者がいなくては社会が成りたたなくなってきている。彼らも私たち日本人と同じ人間として人を愛し結婚し子供を産み育てそこで生活していきたいだろう。肌や髪の色は違っても体の中を流れる赤い血は同じでドクドクと流れて行っているだろう。

 自分を含めて日本人は外国人との交流の経験が少ないから時間がかかるかもしれないがきっと上手くいくと思う。

 彼らを見ていると、昔日本からハワイ、アメリカ、南米に移住した人たちはたいへな苦労をしただろうと偲ばれる。

 

 作者の怒り腹立ちが伝わってくる。顔を歪める姿が目に浮かぶ。そうなるのもよくわかる。しかし、子供たちの明るい姿、親をはじめ周りの人達の大らかな様子に心が和む。希望を感じる。彼らを応援して行きたい。

 

                                 

 

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『南風に乗る』が面白い

               松木 新

柳広司『南風(まぜ)に乗る』(小学館 2023年3月)は、1972年の沖縄復帰までを描いた小説です。

柳広司については、ミステリー小説『ジョーカー・ゲーム』でファンではあったのですが、多喜二を描いた『アンブレイカブル』(角川書店2021年)、大逆事件の大石誠之助を描いた『太平洋食堂』(小学館2020年)、3・11を描いた『像は忘れない』(文藝春秋2016年)で注目していました。

本書の「帯」に次の文章があります。

〈戦後、日本は二つの国に分断されていた。

本土から切り離され、米軍支配下に取り残された沖縄は「独立」に向けた闘いを開始した。

故郷沖縄に東京から思いを馳せる詩人・山之口貘

〝アメリカが最も恐れた男〟瀬長亀次郎

「沖縄資料センター」を立ち上げ沖縄との連帯を模索する中野好夫

実在の人物たちの視点を通し、本土復帰までの「時代」と「闘い」を描く長編小説!

この物語の主人公は沖縄である〉

山之口貘・瀬長亀次郎・中野好夫の活動が、本書では詳細に語られていますが、〈この物語の主人公は沖縄〉です。

1972年5月15日、日本政府主催の記念式典が行われた後、予儀公園では、復帰協主催で、「沖縄処分抗議 5・15県民総決起大会」が開催されました。雨の中、大勢の県民が参加しました。

作者は、沖縄復帰について、次のように言い切っています。

〈自分たちは、こんな形での本土復帰を望んだわけではない。

待ち望んだはずの復帰は、日米の政治家たちにいいように使われ、政治の道具にされただけだった。沖縄に来て「沖縄の復帰なくして日本の戦後は終わらない」と発言した佐藤首相は、その後、沖縄返還をあたかも自分一人の手柄のように掲げることで、国会での圧倒的多数と空前の長期政権を実現した。アメリカは施政権を日本に売り渡すことで、沖縄の軍事基地をより安価に、より自由に使えるようになった〉

沖縄の伝承文化に触れていることも、本書の魅力の一つになっています。

(ちむ)(ぐり)サン

という言葉がある。「相手の痛みを自分のものとして感じて辛くなる」といった意味で、共同体の底流をなす重要な感情だ〉

〈庭の(ぶっ)(そう)()

アオイ科に属する灌木で、沖縄ではアカバナと呼ばれている。真っ赤な花弁五つがラッパ状にひらき、芯が長くとびでている。本土の人なら、ハワイに咲くハイビスカスとまちがえるかもしれない〉

〈沖縄には〝ゆく(ユク)()物言い(ムニー)()(ヨー)までぃ(マディ)通らん(トゥーラン)〟という諺がある。

「嘘は門までもたない」

演説を聴いた出迎えのひとびとは、佐藤(首相)の言葉の(マコト)のなさを見抜いていた〉

〈〝他人(チュンカイ)痛めつけられて(クルサッテー)眠れる(ニンダリーシガ)が、他人(チュク)痛めつけたら(ルチェー)眠れない(ニンダラン)〟〉

この小説では、沖縄の海の上を蝶が渡って行くのを見たことがある、と語る山之口貘の話が印象に残りました。

蝶は人の魂が乗り移ったものだという考えがあり、沖縄では、海の彼方にニライ・カナイという別の世界があって、人間はそこから生まれてきて、死んだらそこに帰るという伝説があるとのことです。

〈沖縄の浜辺にすわって海を眺めていると、このむこうに別の世界があって、生まれてくる前の人や、死んだ人たちがそこで暮らしているということが、確かなものとして信じられる・・・・・・〉

 

 

 

 

 

澤田章子「宮本百合子―反戦・平和のたたかい」

歴史を繰り返さないために

泉  脩

 宮本百合子没後七十一年をむかえて、この優れた作家の反戦・平和のたたかいを振り返っている。

一九一八年、父親に連れられてアメリカに渡った中条百合子は、ニューヨークのホテルで第一次世界大戦の終結を知る。後に『伸子』で書いたように、熱狂した民衆が道路を埋め尽くす。ドイツが降伏したのである。

 アメリカで日本人留学生と結婚し、やがて日本に帰った百合子は、家父長的家族観を持つ夫と別れ、『伸子』にこのことを書いて、作家の道を本格的に歩み始める。

 社会主義の道を目指すソ連(ロシア)に滞在し、ヨーロッパを巡って一九三〇年、日本に帰国する。この三年のソ連滞在の中で、百合子は科学的社会主義に目覚め、帰国後プロレタリア作家同盟に加入し、一年後には日本共産党に入党する。豊かな中流家庭に生まれながら、正しく生きる道を求めて、自己改革をしてきたのである。そして日本共産党の指導者宮本顕治と結婚し、宮本百合子になった。

 しかし一九三〇年代、世界恐慌下の日本で軍部が力を強め、一九三一年の満州事変で中国侵略の十五年戦争を開始した。

国内では言論統制が強まり、日本共産党は弾圧された。反戦平和の作品を発表してきた宮本百合子は捕らえられ、敗戦まで五回の逮捕と長期拘束で、すっかり健康を損なった。それでも執筆を続けたが、執筆禁止となって生活が困窮した。

この間、夫の宮本顕治も捕らえられ、治安維持法で裁かれて無期懲役を宣告された。獄中の夫に百合子は十二年間に九百通を超す手紙を送り、顕治は五百通近く返事を書いた。

一九四五年八月の敗戦後、二人は再び共に暮らし、政治と文学で大活躍する。しかしアメリカが対日政策を変更して、日本を反ソ反共の砦にした。十九人のA級戦犯容疑者が、裁判を行われずに無罪釈放された。岸信介はやがて首相になり、児玉誉士夫

は政治の黒幕になる。

朝鮮戦争が起こり、日本共産党は非合法化される。百合子は反戦平和の論陣を張り、日本を再び戦争への道を歩ませないよう全力を尽くした。

作家としては、『播州平野』で敗戦前後の日本の姿を書き、『二つの庭』、『道標』で『伸子』の続きを書いた。しかし戦時中の長期の非人間的拘束で健康を損ない、一九五一年に亡くなった。

このような女性の地位向上と反戦平和のために生涯を賭けた宮本百合子を、この論文の作者澤田章子さんは、その要点を詳しく書いている。人道主義から出発し、社会主義に目覚めた。三年間のソ連滞在から日本に帰り、命を懸けて二十年もの激しいた

たかいの半生を送ったのである。そして五十代の初めに亡くなってしまった。

澤田章子さんは、私立高校の国語の教師を中途で退職し、日本民主文学会の有力な評論家になった。近代女流作家の祖、樋口一葉の研究から出発し、宮本百合子、そして最近亡くなった旭爪あかねに至るまで研究を進めてきた。

私のもっとも好きな評論家であり、お互いの本を交換し文通を続けてきた。この論文はロシアのウクライナ侵略から戦争の危機が強まる中、二つの世界戦争を、身をもって体験した宮本百合子のたたかいを、取り上げた立派な評論である。

私は高校時代の中頃に文学に目覚め、まず日本文学を読み始めた。そしてもっとも共感し、支持したのが宮本百合子の作品だった。私は宮本百合子を灯台の灯りのように感じてきた。だから澤田さんの宮本百合子論は、私にはぴったりの評論である。

二〇〇九年に私が札幌民主文学会に加入する以前、澤田章子さんは北海道の研究会に講師として参加された。そして大きな感銘を参加者に与えたらしい。  

私は一度もお会いしたことがないが、その何冊かの本や論文を通じて、行き届いた手紙を通じて深

い感銘を受けたのである。最近では惜しまれて亡くなった旭爪あかねについて、多くの教えを受けている。

樋口一葉、宮本百合子、旭爪あかねの三人の女流作家は、女性の地位向上のため、社会の改革のため、自分の生涯を賭けた優れた作家であり、私の大好きな作家である。

日本の女流作家はとても優れている。

私は昨年、大浦ふみ子(長崎)、秋元いずみ(岐阜)の作品の評論を書き、今年になって山形暁子(千葉)の作品に再び取り掛かっている。いずれも民主主義文学の立派な作家であり、女流文学の伝統を受け継ぐ人々である。(「民主文学」二〇二二年十二月号)

 

 

ある週末にあったこと、そして思ったこと

後藤守彦

五月二七日土曜日の午前一〇時から、まなび座があった。まなび座は北広島九条の会のもとにある学習組織で、毎月一回集まりをもち、一冊の本をテキストとして交代で音読しながら、自由に議論している。現在使用しているテキストは、斎藤幸平の『ゼロからの資本論』(NHK出版新書、二〇二三年)。斎藤幸平の本に挑戦するのは、『人新世の「資本論」』(集英社新書、二〇二〇年)に次いで二度目である。今回は、第二章「なぜ過労死はなくならないのか」を読み合せた。テキストでは、資本家が金儲けをやめられないのは、資本家が「金の亡者だからというより」「資本の価値増殖運動の歯車」になるからだと叙述されているが、これにかかわって、人間の欲望、人間の本性についても話し合われた。

帰宅後、妻が録画していたNHKEテレ「こころの時代」の再放送を見た。福島第一原発事故で全町避難を強いられた楢葉町の宝鏡寺の住職で、昨年一二月二九日に八三歳で亡くなった早川篤雄の歩みと語りが放映された。早川は、福島第二原発の建設反対運動から始まって、東日本大震災後、東京電力・国の責任を問う損害賠償請求訴訟の先頭にたって闘いぬいた。核廃絶も訴え続けた。早川は、自らの利益を求める利己と同義の、自利と、自分を犠牲にして他者のため尽くす利他、この二つの言葉を対比してあげた。早川は正真正銘の利他の人だと思うが、当の本人は、自分にはいいところもあるが悪いところも沢山ある、いいところが少し多いのかな、と実に謙虚に吐露していた。

利他は相互扶助と言い換えることができるが、『相互扶助論』を著したのは、アナキストのクロポトキンである。拙稿「クロポトキンと日本人」(札幌民主文学会『奔流』第二八号)では、クロポトキンが戦前の日本で、幸徳秋水など多くの革命家に影響を与えた史実を追った。九条の会の呼びかけ人の一人であった鶴見俊輔はアナキストを自認し、アナキズムの核が相互扶助であり、「アナキズムは、権力による強制なしに人間が互いに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」(『展望』一九七〇年一一月号)と明言している。

この『相互扶助論』を日本で初めて翻訳したのは大杉栄である。大杉は一九二三年の関東大震災の際、妻の伊藤野枝、甥の橘宗一少年とともに虐殺された。だから今年は没後一〇〇年となる。クロポトキンは、生物を科学的に調査・研究し、相互扶助は「進化の要素としては恐らくはより大なる価値を有し、種の存続と発展を保障すべき習慣と特質との発達を促し、同時にまたその各個体に最小の努力をもって最大の幸福と享楽を得しむるものである」と断言している。また、人類学者の小田亮は、「利他性というものが人間の重要な本性のひとつであり、人間をたらしめているもの」(『利他学』新潮社、二〇一一年)と述べている。

翌二八日日曜日の午前、妻とともに道立文学館で「ネコ!ねこ!猫‼展を見た。今年二月に一九年間ともに生きてきた猫を喪い、ペットロス状態から私は完全に抜け切れていない。だから、見るかどうか迷ったのだが。展示室の入り口に、飼い猫を黒ペンで描いた色紙絵が飾ってあった。妻が、作者は妻の所属する俳句結社の二代目代表であることを教えてくれた。続けて壁に本からの引用文が詩・小説・短歌・児童文学などのジャンル別に掲示され、壁の前には関連する本が並べられている。小説のコーナーの最初には、池田町出身の直木賞作家西條奈加の『よろずを引くもの お蔦さんの神楽坂日記』(東京創元社、二〇二二年)から「孤高の猫」の一節が取り上げられていた。

 

  僕らが懸命に探しているのは、野良猫のハイドンだった。むくむくした長毛種の猫で、灰色の毛が作曲家の鬘に似ていることから名がついた。外見はもっさり、動作はのっそり、いたって不愛想な上、声が壊滅的に可愛くない。それでいて、猫の多い町、神楽坂の中では、断トツのいちばん人気だ。たやすく媚びない態度が、品や威厳を感じさせるためだろうか。人間も周囲の猫も一目置いているが、ボス猫というよりも一匹狼といった存在だ。そのハイドンが、一週間ほどまえから姿を見せなくなった。正確には、目撃情報が途絶えてから七日目になる。

 

地域猫であったハイドンは見つかるが、交通事故で足を怪我したハイドンを世話してくれたのが小学生の男の子だった。少年の兄は殺人犯だった。だから、加害者家族へのバッシングのため、少年は両親とともにまた引っ越しすることになり、ハイドンとも別れざるをえない。短編「孤高の猫」は哀しい話だった。俳句のコーナーには、「雪崩音聞き耳立てる膝の音」という句があり、屋根からの落雪に興奮していた我が飼い猫を思い出した。

昼食をとった後、札幌交響楽団の第六五三回の定期演奏会を聴きにキタラに向かう。指揮は首席指揮者のマティアス・バーメルト。一九四二年生まれのバーメルトは、高齢なので札響が私の最後のオケと語っている。メインの楽曲は、今年生誕一一〇年となるブラームスの「ドイツレクイエム」だった。四〇代に入った頃の私は、「どんなに喜びに満ちたものであっても、つねに秋の翳りを帯びている」(三宅幸夫『ブラームス』新潮文庫、一九八六年)ブラームスの楽曲ばかり聴いていた。特に、ピアノ協奏曲を何度も。「ドイツレクイエム」は、二〇二一年に公演が組まれていたが、コロナ禍で中止となり、三年越しに実現した。死者のためのミサ曲であるレクイエムは、基本的にはカトリック教会の典礼音楽である。私が好んで聴く、モーツアルトのレクイエムもそうである。だが、「ドイツレクイエム」は、演奏会用といえる作品で、会場で配られたプログラムでは、キリスト教の信条を打ち出そうとする意図はなく、「死者をおくり、生の側に残って悲しんでいる者、世のはかなさを嘆いている人間、そうした者の得るなぐさめといった、どんな文化圏の人にも共感しやすい主題」が浮かび上がってくる、と音楽評論家の舩木篤也が解説していた。二人の団員が曲の聴きどころを解説するプレトークが、最近公演前にネット配信されるようになった。今回はトロンボーン奏者とバイオリニストが担当していたが、トロンボーン奏者は背後から降ってくる合唱の熱い歌声に刺激され演奏に力が入ると語っていた。ソプラノとバリトンのソリスト二名いたが、終始リードしていた合唱が心に響いた。合唱のメンバーの中に、かつてまなび座に顔を出していた男性を発見した。彼は札響合唱団に所属するテノールの歌い手である。

 

 

宮本百合子「午市」

ー「デリヘル嬢になれますか?」によせてー

木村玲

宮本百合子の『伸子』時代の短編小説の一つに「午市」という作品がある。

最初の結婚生活中の一九二二年一月の作品で、夫の荒木茂との確執に悩みながらも、出版社からの要請に応えて、この時期多くの短編を生み出している。

「午市」は、ある日主人公のおせいが夫の健介に関わる親戚に行ったときに、そこの主人が、近くで「午市」が催されているので、「行ってみましょう」と誘う。どうしようかと迷いながらも誘われるままに出かけていく。

そこは吉原の入り口辺りで行われている夜市で、露店が並んで大勢の人でにぎわっていた。

「ついでにずうっと一廻りして来るとようござんす」と妻に送り出されて来て、戸惑いながらも主人についてゆくと、露店の絶えたあたりから薄暗くなり、大きい家々が並んだところへ出る。この内部に詳しいらしい主人が、「ひと頃よりはさびれている」といいながらずんずん進んでゆく。とある格子の内側に踏み込んだとき「一目見た時はまるで生花の展覧会のように思われる。手摺りをつけ、幕をしぼり上げ、正面に、幾つも幾つも大きな写真を並べて懸けた下には、立派な木札に、黒々と値段を書いたものが出してあるー」

と、当時の吉原の外観が様々に描き出される。白黒写真だから「木炭か鉛筆かでこすって描いたように艶のない、どれもこれも同じ様な女の顔は、むやみに明るい燈火の下で、まるで幽霊のように見える」

おせいは不気味になり、何か本能的な痛苦を感じ、黙りこくっていくつもの同じ様なところを行くうちに、客引きの男たちに腹立たしくなる。

大正の末ころの話だから、明治の中期ころから始まったキリスト教矯風会(矢島楫子ら)や、婦人団体の廃娼運動の影響もあり、ひと頃よりは規模は小さくなっていたようだ。が、この光景を見たら、そうした運動が実を結ぶのはまだまだ先のことのようにおせいには思われてしまう。

彼女は「無言の裡に、暗い悲しい、憤おろしい迄の激情が迫ってき」て、「巨人のように力のある手を延ばして、一揉みに、この煌ついた、しらけ切った建物を揉み潰してしまいたい心地がした」そうしたら、「中から、始めて、人らしい、涙を流す、自分達の仲間が出てくるだろう」と、囲われている女性たちに思いを寄せ、こうした場所に対しての憤りを感じている。そして、「このまま眺めていたのでは、いつになっても正体の見極められない欺瞞に面しているような不快を覚えた」と短く終わっている。

それからさらに四〇年近く、戦後になってやっと売春防止法(一九五八年)ができ、公娼制度は廃止された。が、法の眼をかいくぐって「トルコ風呂」などの営業が続けられ、更に四〇年後の一九九九年「改正風適法」の施行で、今度は店舗のない出張型のデリバリーヘルス(デリヘル)が横行することになった。

この和製英語を発案した風俗情報誌は商標登録もしていて、公に認められている。

高いお金を払ってもという男性の需要はなくならず、おそらく困窮からそうした仕事?を受ける女性がいる限り、続くのだろうか?

店舗があるとダメで、店舗がないデリヘルは認められているって、どういうこと?

売春(今は売買春)防止法との関連は?

風俗業者が女性や男性従業員を募集すること自体は違法ではないのだそうだ。「性」を売り買いすることを法的に認めているってことにはならないのか?大いなる疑問である。

 

飛躍しすぎかもしれないが、腐敗した資本主義の行きついたところのような気もしてくるのだが。万葉の昔には「歌垣」(うたがき)(地方によっては「かがい」)という、祭りの夜などに、大らかな性の解放日があったというということなどを、ふっと思った。

札幌民主文学通信

二〇二三年〇五月〇一日 294

 

 

会長      再 能島龍三

副会長     再 青木陽子

副会長     再 宮本阿伎

事務局長    新 久野通広

『民主文学』編集長 新 乙部宗徳(二度目)

 

 

【大会での発言】

 

『街とその不確かな壁』の魅力

                松木 新

 

札幌支部の松木です。いま話題の村上春樹の新作『街とその不確かな壁』について発言します。

この作品には、村上ワールドの特徴である孤独・逃避・悲壮感が、精製度の高い細密な文章で描かれています。従来の作品よりも完成度が増していると思いました。

社会的な批判を読み取ることができるのが、不確かな壁に囲まれた街の寓話です。

この街の住人になるためには、自分の影を棄てなければなりません。影は〈暗い思い〉を体現している、といわれていますので、影を棄てるという行為は、自分の過去を封印することです。

この街に住むある老人は、外の世界で戦争を体験 、戦場で彼は〈人が決して目にしてはならぬ世界の光景〉を目にしたために、〈影を棄てて〉この街に入って来たのでした。

過去を封印して、今ここに静寂のなかで生きている人々、それがこの街の住人なのです。この街の人々は、〈歴史についての垂直的な好奇心もとくに持ち合わせていない〉のです。

こうした状況は、加藤周一が、〈現在主義というか、昔のことは考えない。殊にいやなことはすぐに忘れる。不愉快な過去は「水に流す」・・・過去も未来もあまり気にしないで、現在を楽しく暮らそう〉、〈少なくとも万葉集の頃からの非常に強い傾向は、「今・ここ」の強調だ〉(「戦後四十年」)と批判した思想と通底しています。村上春樹の意識のなかに、日本の哲学の基本的な条件にたいする、鋭い批判精神があるのではないか、と思いました。

この街では、疫病を防ぐために、高さは八メートルの煉瓦の壁を作って住民を閉じ込め、外の世界への自由な出入りを禁止しています。住民の平常心を維持するために、恐怖心を手段として用いています。

「あとがき」によると、〈二〇二〇年は「コロナ・ウイルス」の年だった。僕はコロナ・ウイルスが日本で本格的に猛威を振るい始めた三月の初めに、ちょうどこの作品を書き始め、三年近くかけて完成させた〉とのことです。

この街の状況から推測できるのは、コロナ禍で六十日の封鎖下にあった武漢です。方方が封鎖六十日間の魂の記録を、『武漢日記』で世に問いました。当然のことながら、武漢の悲劇が村上春樹を直撃したことは否めません。方方が『武漢日記』で記録した武漢の人々の生活と、不確かな壁に囲まれたこの街の人々の生活とが、重なり合ってきます。

この物語では、これまでの村上作品に見られた過剰な性描写が影を潜めています。代わりに、〈恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ〉とあるように、福島県の田舎町でコーヒーショップを営んでいる札幌出身の女性と〈私〉との、愛のエピソードが語られています。この他にも、十七歳の時の〈私〉と少女、福島県の図書館に現れる〈幽霊〉と妻との、〈混じりけのない純粋な愛〉の物語も展開されています。

純愛物語をサブストーリーとしているところも、本書の特徴となっています。

本書には、G・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』(1985年)の一節が引用されています。村上春樹の前作『騎士団長殺し』でも、サムエル・ヴィレンベルク『トレブリンカ叛乱』からの引用があり、しかも、その引用文は村上春樹自身の訳でした。そして、この「叛乱」が物語のなかでも、重要な意味を持っていました。

今回の引用が、村上春樹自身の訳ならば、そこにはきっと何かの意味が込められているはずだと、かすかに期待して、木村栄一訳と照らし合わせてみましたが、まったく同じでした。多分、マジック・リアリズムの例として、マルケスを引用しただけのようです。

 

 

 

 

 

 

通信担当よりお詫び

 

「通信293号」で、五月例会誌上合評を記載しましたが、室崎和佳子さんの「意見」が欠落していました。通信担当のミスです。遅ればせながら、改めて、室崎さんの「意見」を追加し載せます。

                  豊村

 

意見      室崎和佳子 

 

主人公の琴葉は、目立たないようにそっと生きることをいつも念頭に置き、発言力の強い子らには逆らわないで生きようとしてきた。

 その対極にいるのが転校生の水崎光である。天真爛漫、自由奔放ともいうべき光と接しているうちに、琴葉も変わっていく。

 だが、その水崎光にも深い悲しみがあった。両親が離婚することになり、しかも、すでに、それぞれの相手と一緒に暮らしているので、光が好きな方を選べという。選びようのない光は、母の姉の由紀子を選んだ。(その由紀子が琴葉の家の隣に住んでいる)

 両親が離婚するだけで、子供はどんなに悲しいか。どんなに辛いか。水崎光の両親はわかっていない。だから、それぞれの相手と暮らしている父か母かを選べというのである。全くもってこの二人は大バカ者と言わざるを得ない。私はこういう出来損ないの大人に腹が立って仕方がない。

 せめて、離婚することに至った経緯を話し、子供である光に詫びることが真っ先にすることであろう。

 精神的苦痛を経験したぶん、水崎光は中学生ながら天真爛漫、自由奔放さを感じさせる大人になったのである。

 そうして、次のように琴葉を変えたのである。

「ちょっとみんなと違う髪型をしていることや、間違っても発言し続けることや、歌を堂々と歌うことなんて、そんなに、おかしなことなのだろうか。みんなと同じでいなければ。目立ってはいけない。浮いてはいけない。常にそう振舞っている琴葉たちのほうがおかしいんじゃないだろうか。」

 そして、瑞穂と愛菜にはっきり言うのである。「光は、いい子だよ」「すっごく、いい子だよ」と。

 琴葉はさらに行動する。懸案だった花音へ、詫びを言う。二人の間に垣根はなくなった。

こうして、人間は成長していくのだ。

 未来に生きる子供たちがこんなふうに成長してほしい、私たち大人からの切なる願いがこの小説にこめられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

五月例会誌上合評

 

合評作品  

杉山成子「デリヘル嬢になれますか?」

           『民主文学』5月号

 

意見1 北野あかり

 

「デリヘル」? 聞きなれない言葉だったので、ネットで検索したところ「デリバリーヘルスとは、派遣型のフアッションヘルスのこと。略してデリヘル、出張ヘルスと呼ばれる。店舗がなく客の居る自宅やホテルなどに、風俗嬢を派遣し性的サービスを行う業態である。 

1999年改正風俗法が施行されて以降、首都圏や近畿圏を中心に急速に増加しており、2000年代になると他都市でも増加しつつある」と出ていた。

作品の内容は弁護士を目指して猛勉強している主人公の「のどかは、コロナ禍でバイト先を首になり、チキンラーメン5個とキャベツで1週間を食いつなぐ生活を余儀なくされる。実家の食堂「へるしーらいふ」は自転車操業に近い状況で援助は望めない。妹は薬剤師希望で猛勉強中だが初年度納入金300万が必要。

しかし、その金銭的工面がつかず、看護学校に行くことを選択した。このような経済状況を知ったのどかは、悩んだ末300万円貯まる迄の間だけデリヘル嬢になることを決意した。バイト先でであったリュウさんが利用しているデリヘルの店を紹介され、面接し誓約する。 

予約が入り相手の自宅に行き性的サービスを行なうことになるが、サービスの途中で耐えられなくなり、相手を押しのけ、土下座して謝る。客には替わりのデリヘル嬢が店から来て、のどかの契約は破棄された。 

300万円のことも自分の暮らしもどうなるか不安だらけだが、「人間やめないで済んだ…今日のところは、それを喜ぼう」……。そして目に飛び込んできた青い空。大きく伸びあがって空を見上げた。

作品について

はじめ読んだときは、主人公が弁護士を目指しているのに、「ちッ」とか、その言動が粗野なことや、バイトも他の業種もあると思うのに、サービス業に固執し、デリヘル嬢を選択する軽薄さ、弁護士は、弱者を救うための職業で、生活困窮者を救うための相談窓口があること学んでいるはずだが一言も触れていない。

デリヘルサービスの途中、性行為を行う直前で回避したからといって、「人間やめないで済んだ今日のところはそれを喜ぼう!」と空を見上げて安堵してする。安堵する場合か! 腹ただしく、主人公の考えに失望してしまいました。

しかし、合評する中で、コロナ禍で、生活困難者が急増しており、当面の現金を必要とする人を対象にデリヘル店が急増、性風俗が急速に増加している。ネットの情報で20人に一人、東京で10人に一人と出ていたことも紹介されました。

私は、このような現状を知らなかっただけに、胸が押しつぶされる思いです。

作者は、「のどか」の事例を作品とすることで、生活のために仕方ないということではなく、“さあこれからどうする”と、問題提起されたのだと思いました。

今回は問題提起に終わっていますが、どうしたらこの現状をなくすことができるのかを真剣に考えなければならないと思いました。

 

 

意見2           木村玲子

 

五月例会に参加できなかったので、話がダブるかも知れませんが、まずこうした問題を取り上げた作者の積極性を評価したいと思います。『民主文学』としては画期的ではないかと。

私自身も?世間知らずと云おうか、「デリヘル」という言葉も初めて知り、ネット検索で「デリバリーヘルス」の略語で、一九九九年の「改正風適法」以降、都市部を中心に増加傾向ということを知りました。

そういえば、と思い当たる映画が二、三あります。その中で印象深かった「子供たちをよろしく」(2020年)は、元文部官僚の前川喜平と、寺脇研が企画した作品で、子供たちが置かれた壮絶な環境が描かれていた。主人公の中学生少年の姉(十代後半位)がまさしくそうした仕事についており、この姉は再婚同士の両親の義父から性的虐待を受けていた。少年と同級の父子家庭のいじめられっ子の父は、この姉たち「デリヘル」嬢を車で送る仕事についていて、パチンコにはまり、子供はほったらかし……。

横道にそれましたが、この杉山作品もデリヘル嬢になろうとする背景に、コロナでの失業と、生活困窮があります。実際コロナ下では、女性の自殺者が増えたそうで、デリヘル嬢になれなかった、いや考えられなかった女性が少なからずいたということでしょう。

こうした産業が横行するのは需要があること(あるお笑いタレントが、コロナ下でそうした可愛い娘が増えるのではといってバッシングされていた)と同時に、生活苦がある。多喜二の小説も思い出される。

この作品でも、人の役に立つ仕事がしたいのに、お金持ちしか付きたい職業につけないなんて、こんなのっておかしい、という場面がある。国民はみんな平等という憲法が生きていない。作品はこの国の貧困の一面をえぐってもいる。

ただ、「その間、人間をやめる」ってことで、人間やめないで済んだ主人公のこころの勝利ともいうべき凱歌で爽やかに終わっているが、その後どうするのか、いささか気になる。

映画「子どもたち……」の中の姉は、ひどい環境の中でも懸命に生き、弟思いの優しい姉だし、この杉山作中の「リュウさん」も、そうして母国に送金する健気な女性だ。

そうしたギャップをどう考えたらよいか?

こんな産業をはびこらせている社会の矛盾。

文章も軽快で、活き活きしていて、現代の若者の揺れる心を上手く描写していると思う。五月例会に参加できなかったので、話がダブるかも知れませんが、まずこうした問題を取り上げた作者の積極性を評価したいと思います。『民主文学』として。

 

 

 

 

 

 

 

意見3         松木  新

 

コロナ禍に苦しむ若者像を描いていて好感を持つことができました。

主人公のどかがバイトをしていたスナック「ぐぅ」や、実家の食堂「へるしーらいふ」にたいする政府の対応が適切であれば、この物語は違った展開になったでしょう。そのことを考えただけでもコロナ禍での政府による〝棄民政策〟に憤りをおぼえました。

この物語の最後、理恵子が、〈「そうか、ダメだったか・・・・・・。まあ、デリヘルやるってことは、その間、人間やめるってことだからねえ。人間やめないで済んだってことなのかしらねえ・・・・・・」〉とのどかに語りかけ、〈(そうか、私、人間やめないで済んだのか・・・・・・)〉と、のどかが納得します。土壇場に追い詰められていたのどかの理性の勝利であり、きわめて印象深い幕切れです。

ただ、理恵子の言葉が、諸刃の剣であることは否めません。

のどかが立ち直るためにはきわめて有効ですが、反面、デリヘル嬢はみな人間をやめた人たちだという誤解を生む可能性もあるからです。

デリヘル嬢にも人間としての尊厳があり、個人として尊重されなければならないだけでなく、特定の職業にたいして、社会的な負の烙印を押してはならないことはいうまでもないからです。

 

 

意見4             後藤守彦

 

二カ月ぶりに例会に出席しました。あらためて対面での合評はいいな、と思いました。対象作品については、人物の設定が適切で、各人が生き生きと描写されており、文体もいい、なにより読み手の心に響く終結部に向かってのストーリー展開が優れている、と評しました。

「デリヘルをやることは人間をやめること」に拘って、インターネットから得た、女性の二〇人に一人が「風俗」に従事しているなどの情報を提供しましたが、それでは不十分だと思い、いそぎ文献にあたってみました。売春問題にとりくむ会を、売買春問題にとりくむ会と改称し、事務局長として売買春をなくすため取り組んできた高橋喜久江の主張を、少し長くなりますが、紹介します。

 

  かつて知りあったソープランド嬢が「売春すると心がぼろぼろになる」と洩らした言葉が、いまも私の胸を打つ。性とは愛の最後の表現、人間同士の最高のコミュニケーションであるのに、見知らぬ男との金銭を介在した短い時間の行為では、大切な心が傷つくのもあたりまえだろう。あの言葉は当事者の実感として私に迫った。それでも人は「セックスはいいお仕事」というのか。自分はしないですむ立場にいて自由売春容認論を振りかざす態度は、売春をせざるをえない人たちの真の味方といえるだろうか。また、売春容認論者、権利派の人々の論をすすめていけば、買春の存在を許すことになる。買春男性を容認して何のフェミニズムか。まさに本末転倒ではないか。(『売買春問題にとりくむー性搾取と日本社会』明石書店、二〇〇四年)

 

 「心がぼろぼろになる」は、「人間をやめる」ことと重なります。また、コンパクトに売春の歴史をまとめた『日本売春史ー遊行女婦からソープランドまで』(新潮社、二〇〇七年)の著者小谷野敦は、自分の家族や友人が売春を行なうとしたら平気でいられないが、売春は「必要悪」だと吐露しています。売春を強制売春と自由売春に分け、後者の立場から、デリヘル嬢やソープ嬢は職業であるとして、売春をセックスワークと表現する人たちもいるようですが、果たして売春は労働なのでしょうか。そして、買春があるからこそ売春があるのであり、その意味で買春に走る男性の責任が大きいのではないでしょうか。しっかり準備して例会に臨めばよかった、と悔いています。

 

 

意見5            村松祝子

 

民主文学を読み始めて五、六年経つがこう言う小説が月刊誌「民主文学」に載るとは、ど肝を抜かれた感じでした。将来弁護士を目指してアルバイトをしながら生活していたあさひがコロナ禍によりアルバイト先を失職した。月五万円で生活していたあさひはたちまち生活困窮者となる。何よりも司法試験に五年以内で合格するためには勉強する時間が必要であった。親からの援助を相談するつもりで実家に行くと実家の惣菜店もコロナ禍により客足も減り薬剤師を目指している妹の理緒奈への大学資金にも手をつけている状態であった。困ったあさひはついに性産業界のデリヘル嬢をする決意をしてその一歩手前で踏みとどまった。人間としての尊厳を保ったのであった。正常な当たり前な人間として見上げた空に自然界の真っ青な大空が目に飛び込んできた。改めて自然の大きさに感嘆するのだった。

読み終えていろいろ考えさせられた。特に同じ女性としてあさひの気持ちがよく理解できる。小林多喜二の恋人「タキ」は十四才で売られたのであった。「「タキ」の女性として人間としてズタズタに壊されていたであろう気持にふと身を馳せた。小説の中とはいえ「やめろ!、やめろ!」とあさひに呼びかけていた。あさひが踏みとどまってくれて「やれ、やれ」と胸を撫で下ろした。臨場感の表れている文章だと思った。デリヘル嬢という言葉を初めて知った。金が無ければ人間としての尊厳も保たれないのかと思うと資本主義社会の真っ只中で私たちは生きているのだと教えられる。

貨幣が流通し出した有史以来常に女性の性は男性の性の下にあった。それが最近ジェンダー平等が叫ばれ初めて性の問題も明るい日の下で論じられる様になってきたのはありがたいことだと思う。

現代デリヘル嬢として働く性産業は右肩上がりの成長産業だとインターネット上で読んだ。それに従事しているのが女性である。それ自体が現代人の苦しみを表していると思う。

隣国が攻めてくるからと地下壕を作らせる政府は街頭デモで呼びかけているフラワーデモを知っているのであろうか?改めてフラワーデモは男性の性に女性の性が踏み躙られたてきたのだと大胆に社会へ訴えているのだ。性産業は私たちの隣にあって見えなくさせられている。

女性の性が金銭的に扱われることは相手の男性の性も哀れである。今を生きる私たちに貧困と性を絡めて忍び寄ってくる問題を取り上げてくれた作者に拍手喝采を送りたい。あさひのこれからの人生は何一つ解決の糸口が見えないが大空を見上げて手を挙げる姿にエールを送りたい。

意見6            泉  脩

 

リストラで退職後、食堂を始めた両親のもと、二人の娘が学業に励む。姉は弁護士、妹は薬剤師を目指している。

司法試験のために勉強する姉のどかは、コロナ禍でアルバイト先のスナックが潰れ、短時間で高収入が得られる風俗業のデリヘルを選ぶ。ところが土壇場で逃げ出してしまう。恐ろしさの中で我に返り、思い留まったのだ。

のどかは、むずかしい司法試験をクリアするため猛勉強が必要であり、そのため充分な勉強時間が必要なのだ。両親の食堂もうまくいかず、妹は志願を変えようとしている。絶体絶命なのである。

なんとも切ない、きわどい話である。私も学生時代あらゆるアルバイトをして学業を終え、やっと教師になった。一人息子は私の話を聞いて、学業も半ばで家を出て、アルバイトをして自立を目指した。  

しかしこの作品の娘たちの苦しみは、実に切実で

ある。

女性が性的描写を書くことが、かなり増してきた。男性作家より身に迫ってくるようだ。この作品でも思わず引き込まれてしまう。すごい筆力である。危うく思い留まるので、読む側もほっとする。

昨年、夫のDVや息子の自立を書いた杉山さんの二作品に感銘を受けたが、今回も苦しみの中での、ぎりぎりの選択を書いている。そしてあらためて、リストラや不況、そしてコロナ禍という危機を、まざまざと書いている。若い世代の苦境を推察することができるような気がする。

 

 

意見7            豊村一矢

 

 通読し、最初に思ったことは、「この作品の主題は何だろう。何を書きたかったのだろう」ということだった。

 若い人たち、中でも、とくに若い女性の生き辛いさ、貧困、等々を暴くこと。あるいは、風俗業の非人間性? はたまたと思いを巡らしたが……今でも、判然としない。

 一方、性行為に用いる体の部品については、臆面も無く使用方法などの説明が丁寧に繰りかえされる。前評判通りでウンザリするものの、やはり主題は見えてこない。

 一般論として、およそ共通語として存在する言葉なら、文字言語であろうが音声言語であろうが、隠語であろうが、幼児語であろうが、自由自在につかっていいのは自明だ。それでもなお、私には、主題は「……かな?」程度でしか浮かばなかった。

 話が横にそれるけれど、四月十五日に、「札幌映画サークル」の上映会に妻と参加した。そこで観た映画のタイトルは「CODA(コーダあいのうた)」。映画会場は札幌市民交流プラザ3F「クリエイティブスタジオ」。チラシの文書には『家族中でたった独り健聴者である少女は、歌うことを夢みた。聞こえない耳に届く最高にイカした歌声が、今日、世界の色を塗り替える』とある。

映画の場面で、歌声を背景に、着衣の立位でではあるが、性交場面の全体像がでてくる。それは美しく、私も含め、恐らくその会場の鑑賞者は皆、感動したと思う。多くの人が目に涙をにじませていた。

 人間は個体保存本能より種族保存本能を優先するように創られている。性行為は、本来、人間の本質、美しいもの、感動的なものなのだ。愛し合う男女、求め合う男女の気持ちの高まりよって成立する。

 この「デルヘリ嬢になれますか?」は、筋の組み立てや若者用語のちりばめ方などが巧みでで、筆力を感じる。ただ、性風俗関連の用語が多用されているが、結果的には、主題を前面に出すというより、なにか、読者の気を引くのに役立たせてしまった気がする。

しつこいけれど、性行為は人間の本質であり美しいものだと思っている。だけど「デルヘリ嬢になれますか?」には、その美しさはなかった。

 最後の「空がこんなに青いなんて! のどかは、もう一度大きく伸び上がって空を見上げた」には共感できた。でも感動とまでにはいかなかったのは、やはり、作品の主題をつかみきれずにいる、私の読解力不足に起因するのかもしれない。

 

 

 意見8          山田孝子

 

ぐいぐい引き込まれるテンポの良い文章で、読み進んできたのだが、「デリヘル嬢をしよう」と決心したあたりで、「う~ん」と我に返った。そして、(なになに、何でそこまでしないとダメなほど困窮してるの)という疑問が湧いてきて、再読。そして、何だか不自然な設定だなあと感じ始めた。

1 そんなに困っているなら、なぜ実家で我慢しないのか? 弁護士試験に受かるまでの期間なの に?

2 妹が薬学部に進学した場合、奨学金を貰う事にして、勿論返済は大変だが、薬剤師になっているのなら、何とかなるはず(身近に薬剤師がいるので、

収入の良さを知っているし、就職できないという心配も無いと思う) 

3 中央大学の法学部を出た人が、普通のバイトしか無いというのが腑に落ちない。例えば、家庭教師などを出来れば、何とか時間を確保できると思うが。

などなど、疑問が沸々と湧いてきて、作品にのめり込めなくなってしまった。何だか無理矢理「デリヘル嬢をするしかない」と決心する設定にしたような?

 しかし、最後の「人間やめなくて済んだってこと」と言われて、吹っ切れた描写にホッとした。真っ青な空を見上げるのどかは、これからはきっと、良い選択をしてくれるだろう……と希望を感じながら読み終えた。

 この作品を二十代の若者が読んだら、どんな感想を持つのだろう?きっと、私とは全く違う感想を持つのかもしれない……。

となると、私には飛躍し過ぎると思った選択も、あながち極端な展開では無かったりなんかして?

 

 

意見9           室崎和佳子

 

新型コロナ感染症に対する国の施策が十分でないために多くの国民が苦しんだ。そして今も苦しんでいる。

 主人公「のどか」しかり、のどかの雇い主の「ママ」しかり、のどかの両親しかり。

 のどかは妹里緒奈のためにデリヘル嬢のアルバイトをしようとするが、初回で挫折する。

 挫折して本当によかった、と心から思う。

 後日、そんなことをしてまで金を用立てたことを里緒奈が知ったら、どんなに悲しむか知れやしない。何よりも当ののどかが傷ついたことだろう。そのために人生を棒に降ったかも知れない。

 本当に挫折してよかった。

 薬学部や薬科大へ入るのは今年でなく来年でも再来年でも良いのだから、普通の仕事をして姉妹二人で何年かかってもお金をためることができる。 

 

それにしても、びっくりしたのは、性産業における法律というのは、ずいぶん細かいところまで踏み込んで決めているのだな、ということ。

 (作品P22下段16行目から21行目までの会話文)

 

 この世から性産業と軍需産業がなくなることを願って生きてきたが、人間の生きている世界がこんな有様ではまだまだ死ねない、と真面目に思ったことである。

 

 

 意見10           柏原 竜

 

最初に「デルヘル嬢」とは何か解らなかった。

 作品を読んで一番感じたことは、今日本でこのような仕事が合法化されている事だ。昔の赤線地帯の売春婦ではないか。デルヘルについての詳細な内容については生々しく表現されていて驚き動揺して一歩引いてしまったが、作者がよくここまで書いたと思う。作者の怒りとともに、女だから、第三者だから書けたのかもしれない。昔も今も生きるためには、女は身体を売らざるを得ないのか。

 学びたい人が学べない国に、日本はなってしまったのか。何とか主人公「のどか」を勉強させたい。周りに相談したり助けてくれる人はいないのだろうか。

 50年ほど前、自分が学生のころ、親から仕送りなしでも奨学金とアルバイト、大学の学生寮で卒業した人たちが結構いた。大学の授業料は月千円で奨学金も返済に苦労することなどなかった。無料もあった。時代は段々良くなっていくはずなのに住み辛くなってきているのだろうか。なぜだろう。たくさんの人で「おかしいよ。変だよ」と、声を出していかないとだめかもしれない。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

『さよなら妖精』が面白い

                松木 新

 

米澤穂信『さよなら妖精』(創元推理文庫 2006年6月)は、ユーゴスラビアから来日した少女マーヤと、地元の高校生たちとが織りなすミステリーです。

『たかが殺人じゃないか』で、2020年の「このミス」、「週刊文春」、「ミステリが読みたい!」の3冠に輝いた88歳の辻真先が、「しんぶん赤旗日曜版」に、本格ミステリーの名作紹介を、月一回、連載していました。山田風太郎『魔界転生』、笹沢佐保『招かれざる客』、天藤真『大誘拐』、綾辻行人『十角館の殺人』は、期待に応える作品でした。連載の最終回に紹介されていたのが本書です。

米澤穂信は愛読する作家のひとりで、2014年の『満願』、2015年の『王とサーカス』、2021年の『黒牢城』が3冠に輝いた、ミステリー界の注目作家です。直木賞も受賞した『黒牢城』は、いわゆる「安楽椅子」探偵ものです(『羊たちの沈黙』が有名)。牢に幽閉された黒田官兵衛が城内で起きた事件を解決するストリーですが、2022年の「このミス」1位に輝いた呉勝浩『爆弾』も、同じ「安楽椅子」探偵もので、野方警察署で取り調べを受けているスズキタゴサクが、爆弾事件の展開を霊感で予言するという仕組みです。

『さよなら妖精』の時代は1991年、ユーゴスラビア社会主義共和国連邦崩壊直前の時期です。旭爪あかね『世界の色をつかまえに』の主人公・井上あかりが悩んだ時期と重なります。ワールドカップですっかりお馴染みになったクロアチアもユーゴスラビアの共和国でした。

本書では、ユーゴスラビアについて、随分と教えられました。

ユーゴとは南の意味で、ユーゴスラビアとは南スラブの意味であるとか、ユーゴスラビアは6つの共和国で構成されており、北のスロベニア、クロアチアが裕福で、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニアと、南に行くにしたがって貧しくなる。ボスニア・ヘルツェゴヴィナだけが地名で、他の共和国は民族名であるとか、クロアチアは現地ではフルヴァツカと呼ばれていた。第一次大戦でハプスブルク帝国(オーストリア・ハンガリー帝国)が崩壊して北の重しが取れた結果、各共和国が独立します。第二次大戦では、クロアチアが日・独・伊の枢軸国側に、他の共和国は連合国側につき、戦後、どの共和国にも属していなかったチトーのパルチザンが各共和国を社会主義共和国連邦としてまとめあげた際に、各共和国の民族自決権を尊重しながらも、対立の根源である宗教については規制をかけたなど、興味深いものでした。

ミステリーには殺人事件がつきものですが、本書は、日々の暮らしに転がる小さな謎に挑む、いわゆる「日常の謎」派に属する作品です。

雨が降っているのになぜ男は傘を差さないのか。郵便ポストに印された〒という記号の意味は何か。神社の裏山にある墓に紅白の饅頭が供えられているのはなぜか。帰国するマーヤのための送別会で、友人の白河いずるが提出した「いずる」の名前の由来は?

本書は、米澤穂信の出発点を確認できる佳作だと思いました。

 

 

 

チャットGTPの実験 

                 松木 新

 

いま話題のチャットGTPを使ってみました。

前提として、チャットGTPの限界について質問しました。

 

質問 チャットGTPの限界を教えてください。

答  私(チャットGTP)の限界は、私が訓練されたデータの範囲内であり、新しい情報や知識を独自に獲得することはできません。また、私は情報を与えられた形で処理するため、直接的な人間の経験や洞察力を持ちません。さらに、私は完璧ではなく、時には不正確な回答や誤った情報を提供することがあります。私の限界を理解し、私が提供する情報を補完するために、常に人間の専門家の助けを求めることが重要です。

 

質問 チャットGTPはいつまでのデータに基づいているのか。その期限から先の問題への解答は不可能か。

答  チャットGTPは2021年9月までのデータでトレーニングされています。期限後の回答も可能ですが、それ以降のイベントや情報については反映されていない可能性があります。また、より新しい情報に基づいた回答が必要な場合は、最新の情報を取得し、それに基づいて回答を提供する必要があります。

 

一般的な問題についての質問をしてみました。

 

質問 村上春樹『街とその不確かな壁』の感想は?

答  申し訳ありませんが、私は機械学習モデルであり、感情や個人的な意見を持っていません。ただし、村上春樹の『街とその不確かな壁』は、現代日本文学の中でも非常に人気の高い作品の一つであり、文学批評家からも高く評価されています。作品中には、主人公の孤独や現代社会の不安定さなど、深いテーマが探求されています。また、村上春樹独自のシュールな表現や妙な幻想的な描写が、読者の心に強い印象を与えるでしょう。

 

もう一つ質問をしてみました。

 

質問 札幌民主文学会とは?

答  「札幌民主文学会」は、北海道札幌市を中心に活動する作家や文学愛好家が集まって、民主主義的な文学活動を行う団体です。1947年に結成され、その活動は戦後復興期の混乱した時代において、文学の自由な表現や社会的な批評を行うことによって、民主主義の理念を広めることにありました。

   札幌民主文学会は、北海道文学や北海道にまつわる問題についての作品を発表することで、北海道文学の発展に貢献しています。また、文学を通じて、社会問題や政治問題に対する批評や提言を行うことで、地域社会の発展にも貢献しています。

   札幌民主文学会は、現在も活動を継続しており、北海道文学や民主主義の理念を後世に伝えるために、様々なイベントや講演会をおこなっています。

 

最後に創作の依頼です。

 

質問 季節の春を讃える文章を100字以内に作成してください。

答  春の訪れは、自然が目覚める喜びに満ちています。雪解けの水が流れ、草木が芽吹き、空気中には花粉の香りが漂います。暖かくなる日差しを浴びて、心身ともにリフレッシュしましょう。季節の変わり目には新たな気持ちを抱き、新しいことにチャレンジする勇気をもらえます。春は、新たな始まりの季節です。

 

これらの質問と回答から、次のことが分かりました。

   文章を読んで、どのように感じたか、どのように評価するか、など「感情や個人的な意見」は、回答できないということです。

   事実の認識には、正しいものがある反面、誤りも含んでいるということです。そこのところをわきまえて、利用するべきだと思いました。

   創作については、それらしい文章をすぐに作成してくれます。人の手によるものか、機械によるものかは、一見しただけではわかりません。しかし、使用されている言葉は、すべてどこかで一度は耳にしたことのある、いわゆる「手垢にまみれた」表現なので、そのあたりを判断基準にできそうです。

チャットGTPの文章を超える文章を作るためには、作家独自の表現方法の探求が求められます。言葉にたいするこれまで以上のこだわりが大切になってくると思いました。

 

ちなみに悪戯心で、「民主文学の松木新は何者か?」と質問したところ、回答の最後が、「松木新は、2014年に肺がんのため逝去しました」とあり、笑ってしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

北海道農民管弦楽団第二九回定期演奏会

後藤守彦

 

一月二九日、北広島市芸術文化ホールの花ホールで、北海道農民管弦楽団の第二九回定期演奏会があり、妻とともに出かけた。北海道農民管弦楽団の存在は承知していたが、生の演奏を聴くのは初めてである。会場で配られた『季刊アイワード』第一六号の特集「鍬で大地を耕し、音楽で心を耕す北海道農民管弦楽団」では、「農業に関わりのあるアマチュアの演奏者が冬の農閑期に集まって年一回、道内各地で定期演奏会を開催するという、全国あるいは世界的にも珍しいオーケストラ」と紹介されていた。練習開始は昨年一一月一二日というのだから、本番まで三カ月もない。週一回、道外からの団員も参加して、札幌で練習を重ねてきた。

農民オーケストラの創設を夢見ていた宮沢賢治作曲「星めぐりの歌」の主題による「農民の為のファンファーレ」から、演奏会は始まった。作曲したのは楽団の代表で指揮者でもある牧野時夫である。宮沢賢治の故郷は岩手県花巻だが、二〇一三年に没後八〇年を記念してそこで演奏会を開いている。道内以外では、二〇一一年は、デンマークでも公演が行われている。

ドヴォルジャークの『序曲動物の謝肉祭』に続いての三曲目は、ヴァンハルの『コントラバス協奏曲』。ヴァンハルはまったく知らなかった。手元にある大部の音楽辞典にも載っていない。ウィキペディアには載っており、一七三九年にチェコで生れた、「作曲だけで生計を立てることができた、おそらく最初の作曲家だった」と記されている。モーツァルトの同時期の作曲家といえよう。それに、コントラバスについては、オーケストラで専ら伴奏で最低音を担っているとのイメージが強かったので、メロディを奏でる姿は新鮮であった。繊細とはいえないが、音色も悪くはなかった。この曲が選ばれたのには理由があった。地元の演奏家との共演もこのオーケストラの方針で、今回は北広島市在住のコントラバス奏者鈴木初が独奏者として招かれたというわけである。最後はブラームスの『交響曲第四番』。プログラムに「アマチュアのオーケストラにとっては難曲」と牧野時夫が書いていた。私が会員となっている札幌交響楽団とは技術的に差はあるだろうが、心がこもった演奏になっていたと思う。

アンコール曲の演奏前に指揮者の牧野時夫が挨拶した。「農民管弦楽団といいますが、農民だけではなく、農協の職員や農業試験場の研究者などが多いんです。農業に関わって人、農業に興味を持っている人でもいいんです」と述べた後、団員である、北広島市の農家の夫婦を紹介した。夫がファゴット、妻がホルンを吹く、若い二人は輝いていた。

アンコール曲はホールにちなんで、「花のワルツ」だった。チャイコフスキー作曲のバレエ音楽『くるみ割り人形』で最も有名な曲である。緩やかな序奏の後、ハープの独奏が続く、そしてホルンがワルツの主題を奏でる。聴きながら、約四〇年前の冬のことを想い出していた。一九八一年の一二月二九日から翌年の一月五日まで、冬の芸術祭というツアーに参加し、モスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を訪れた。大晦日の夜に、モスクワのボリショイ劇場で夜に観劇したのが、『くるみ割り人形』だった。大晦日の演目は毎年同じで、期待のホープのバレリーナが主役を務めることになっていると女性ガイドが解説していた。カーテンコールの際、花束が桟敷席からもステージに投げ込まれていた。フロアー席にいた私の目に入りこむ、次々と舞い降りてくる赤いバラ。強烈な印象だった。

二時間足らずの演奏会はあっという間に終わった。主催者が用意したアンケート用紙に、妻は「宮沢賢治も喜んでいるでしょう」と書いたそうである。

 

稲沢潤子「コスモス」

国鉄民営化への怒り

泉  脩

 

最近、中曽根元首相の死が報じられた。百一歳である。各誌とも取り立てて彼の業績について書かなかった。

望月文子は、彼が行なった国鉄民営化の苦い思い出を、怒りを込めて回想した。

四十年以上前、行政改革の名による国営事業の民営化が、世界中で進行した。イギリスのサッチャー首相、アメリカのレーガン大統領、そして日本の中曽根らによってである。不能率な国営事業を民営化して赤字を解消し、小さい政府、市場万能、グローバル化などが推し進められた。かつての世界恐慌(一九二九)以来の、ケインズ主義による国家独占資本主義を是正しようというのである。第二次世界大戦後の新自由主義経済である。

中曽根元首相は、赤字累積の国有鉄道の分割民営化を強行したのである。

望月文子は銀行員だったが、医療を目指し視能検査士の勉強をし、むずかしい国家試験に合格した。 

そして五百床もある鉄道病院に勤めた。視能検査士は眼科医の元で、視力の異常を検査する仕事である。鉄道員は視力が大切で、絶えず検査を受けなければならない。文子は充実した日々を過ごしていた。

鉄道病院の勤務員も国鉄労働組合員で、日本の労働運動の中核である国労の一員として誇りを持っていた。

中曽根内閣が強行した国鉄民営化は、まず全員を解雇して全国五社に分割再雇用するのである。その際、国労脱退が条件とされ、国労はみるみる切り崩されていった。

鉄道病院も同じであり、国労分会員は少数派となり、激しい差別を受けた。文子は分会長になって毎月一回の昼食会を開き、誰でも参加させておしゃべりを楽しんだ。「コスモス」という分会ニュースを発行し、多くの人に読まれた。そのため病院側は彼女を、文書係に移した。毎日膨大に書かれるカルテ(診断書)を集め、綴じ合わせて保管する仕事である。単純な肉体労働であり心身を苦しめた。

彼女は不当労働行為として都労委に訴え、地労委・中労委と勝訴したが、ようやく五年ぶりに元職場に戻った時には、定年まで一年余りしか残っていなかった。

当局による猛烈な首切り合理化と差別分断の攻撃は、非人道的な行為だった。良心を持ち続けた者の苦しみは、計り知れないものがある。

この短篇の作者は綿密に取材し、ほとんど同じ気持ちになって書いていると思う。

私も同じ頃、私立高校で組合を作ってリーダーを務め、七年後には上部組織の役員を十四年務めた。職場では一貫して平教員として三十五年勤務した。

学園の岩沢理事長は、異常な程の反組合、反共意識の持ち主で、苛酷な組合攻撃と学園の私物化を強行した。その中で私は九年間の担任外しのほか、数々の攻撃を受けた。しかし私は耐えぬいた。道経営者協会会長にまで登り詰めた岩沢理事長は、株投機の失敗で自滅した。このような経験があるので、私はこの作品の内容がよく理解でき、共感することができたのである。

作者の稲沢潤子さんは、日本民主主義文学会の二代前の会長である。私が二〇〇九年に札幌民主文学会に加入し、翌年北海道創作専科に参加した時、初めてお会いした。

道内の会員が自分の作品を持って参加し、中央からの講師の講評を受けるのである。一泊二日で行われ、出席者同士の討論もあり、楽しく充実した研究会だった。

私は渡辺淳一「阿寒に果つ」の評論を持って参加し、稲沢さんから「文章が上手だ」と評価された。 

ただ、自分がどのように読んだか―という意味で、内容的なことも書いたほうがいい、とも言われた。 

その頃、私は自分の感想を中心に書き、内容にあまり触れて来なかったのである。それから以後、作品の評論を書くときは、まずあらすじを書くことにし、その後に自分の感想や評価を書くことにした。 

この方が原作を読んでいない読者に対して親切であり、理解されやすいのである。この時から私は時々稲沢さんに私の本を送り、稲沢さんの本の評論を書いた。十三年あまりの付き合いであり、今回久しぶりに稲沢さんの力強い作品を読むことができて、とても嬉しかった。稲沢さんは健在なのである。

稲沢さんの前の会長の吉開さんのことは、私はほとんど知らない。稲沢さん・田島さん・能島さんの三人の会長には、大変お世話になった。ありがたいことであり、改めてお礼を申し上げたい。

 

付記『民主文学』2023年2月号所収。

 

札幌民主文学通信

二〇二三年月〇一日 293

 

 

四月例会誌上合評

 

合評作品

秋元いずみ

「歌声にのせて」

     『民主文学』4月号

 

意見Ⅰ            村松祝子

コロナ禍の中で中学二年生の琴葉は皆と足並みを揃えて目立たない様に学校生活を送っている。それは自分の個性を殺していじめの対象にならないため身を守る手段だった。人の心を気遣い繊細で優しい琴葉は決して自ら自分の意見を言わない。しかし転校してきた水崎光と交じわることで自分の意見を少しずつ言える琴葉に変わっていくのであった。

小説は読みやすく登場人物はどの人も明るく物語全体が軽快に終わっている。瑞穂や愛菜にもそれぞれの悩みを抱えているらしいことも感じられ彼女らの心にも言及してくれてホッとさせられる。

日本の女性の生きづらさがG7の国の中で最低の地位だと言われる。

水崎光や自分の意見を持つ様に変わって行く琴葉の様な女性がたくさん生まれてくることを願わずにはいられない。

 

 意見2           泉  脩

十代初め頃の少女たちの気持ちを、見事に書いている。

主人公の村上琴葉は、小六の時にピアノが上手な歌音と親しくなり、昼休みに彼女の伴奏で歌を唄った。楽しい時間だった。ところが意地悪な二人に邪魔されてしまう。その後、歌音は私立中学に入り、琴葉と疎遠になる。

公立中学に入学した琴葉は、ここでも同じ二人組に意地悪をされた。その中で転校生の女の子、水崎光が琴葉の隣の家に越してきたこともあって、すっかり二人は仲良しになる。物怖じしない光はクラスでも校外でも大胆にふるまい、琴葉も勇気をもらって元気になり、二人組の意地悪に負けないようになった。コロナ禍で誰もが元気を失う中、友人の力で立ち直る姿がうれしい。

十代の女の子は、とてもむずかしい。気持ちが微妙に揺れ動く年頃である。その中で友人の存在は大切であり、その友人がいることで苦しみから立ち直っていくのだ。友人次第で人生が変化するのである。

作者の秋元いずみさんとは、本を通じての文通があり、まだ四十代の若手のホープの一人である。岐阜で生まれ育ち、結婚して一時札幌民主主義文学で活動したが、現在は岐阜に戻っている。子育ての中で作品を書き、この作品も我が子をモデルにしているのかもしれない。

私は民主主義文学のすぐれた女流作家の一人として、注目している。宮本百合子の伝統と、旭爪あかねの業績をそれぞれ受け継ぎ、今後の活躍を期待してやまない。

なお、私の前著『八十七歳の詩(うた)』に、秋元さんの本『鏡の中の彼女』の評論を載せた。派遣社員の苦しみの中で、過食症になった女性を書いた、身につまされる長篇小説である。就職氷河期の若者の苦しみが、よく書けている。今回の作品は、コロナ禍における子供たちの苦しみが、鮮明に書かれている。

 

 意見3            豊村一矢

 この作品を読みながら、自分の中学校時代とそれ程かわらないな、と思った。でも、それから、私も大人の年齢に近づいていくと、皆と同じでないと「うく」とか「外される」というのは大人社会と同じだと分った。

 作品は、コロナ禍で生徒たちの繋がり希薄になり主人公琴葉は孤立していくが、「あっけらかん」とした水崎光の登場で救われる。

爽やか感が残る良い作品だ。

 

 意見4            泉 恵子

『民主文学』五月号の【次世代トーク】「いま多喜二を読む」によると、秋元いずみさんは一九七九年生まれとあるから、現在四三、四歳。札幌支部にいた頃の赤旗日刊紙連載の「鏡の中の彼女」は、〇七年とあるから、当時二七、八歳で、文字通り若手のホープとして、次々作品を発表している。

子育てをしながら、子供の成長に合わせた背景を持つ女主人公の、社会や人間に向ける真っ当な眼差しを、繊細な柔らかい筆致で描いてきたと思う。

今回の作品の主人公村上琴葉は中学二年生。小学校の卒業式の頃からの約二年間は、コロナ禍という異常な状況の中にあった。その中での女子中学生の揺れ動く心を丁寧に掬い取り、滑らかに描いていて、爽やかな読後感があった。

コロナ禍の学校は、突然の全校一斉休校という理不尽な措置から始まって、簡素化された卒業式、トイレも四人まで、休み時間は動くこと禁止、無言掃除に黙食という、会話は一切「不要」の状況に置かれる。音楽の授業もマスク越しに小さな声で全員窓に向かって歌うという、いわば教育の基本から外れた環境だった。

歌うことが好きで、「声がきれいね」と言われた琴葉も、皆に併せて小さい声で歌う中、もともと自身「地味キャラ」と思っている性格がますます委縮してしまっている。

ピアノの上手な花音との交流にも、ギクシャクし、おそらく嫉妬と羨望で意地悪をする瑞穂と愛菜には、自分をうまく表現できない。

そんな時に登場する転校生の光は、複雑な家庭ながら明るく自分を堂々と主張する子で、「コロナは隠すことではない」と言う。隠したいと思っていた琴葉は、自分は人を信じていないのかもしれないと思う。

型破りであけっぴろげな自由人の光との交流の中で、委縮していた琴葉の心が次第にほぐれて、マスク越しの歌声の声量を上げてゆく。作品展開に無理がなく、表現も巧みで「上手いな」と思った。

例会では、コロナ禍という特殊な集団の環境にからめとられてゆく子供たちの姿は、戦前(ばかりではないが)の集団主義の中で、自由を束縛されながらも皆と同調する中に安心感を覚えてゆく姿と重なってゆく。光は、そんな窮屈な空気を破ってゆく存在として描かれている。

コロナという未経験の体験で、子供たちにしわ寄せがいく日本の教育の構造に迫っているのではという発言に頷かされた。

 

意見5            松木 新

コロナから生命を守るためとはいえ、ここには一種の集団主義に組み込まれた子どもたちの姿があります。

集団主義は子どもたち一人ひとりにとって、何を意味するか。作者は二つの特徴を指摘しています。

第一の特徴は、安心感です。

第二の特徴は、個人の自由が限られていることです。

このような状況下でも、作者は個人の自由を守って譲らない子どもとして、〈一風変わった女の子〉光を登場させています。光との交流によって、琴葉は少しずつ自信を回復していきます。

光のような子どもはそんなに多くなく、コロナ禍を考えると、光の行動を全面的に是認できるわけでもありません。それにもかかわらず、マスク生活の閉塞状況に風穴を開ける存在として光を造形したところに、この作品の積極的な意義があると思います。

                                  

 

投稿欄

 

能島龍三 「慟哭」

登校拒否の孫娘と

泉  脩

まもなく七十五歳になる敬三は、子犬のジョンを連れて散歩に出た。そして近くに住む娘夫婦の家を訪ねた。娘婿はイタリア料理のシェフで、自分の店を持ち夫婦で忙しく働いていた。 

ところが都立高校一年の、孫の茉莉(まり)が登校拒否になり、娘の多恵子に頼まれて、敬三が時々訪ねて話し合ってきたのである。茉莉はジョンを可愛がり、敬三のことをジィジと呼び、二人はよく話しをした。敬三は娘から言われていたように、登校を促すようなことは言わなかった。茉莉は繊細な心を持ち、特に地球上の自然破壊に心を痛めていた。

この日も観たばかりの自然破壊のドキュメント映画について熱心に語り、ジィジにも観るよう勧めた。ところが敬三が、話の中で「青年老いやすく・・」といった説教じみた話しをしたため、茉莉は黙ってしまった。そして、もうジィジに会おうとしなくなった。娘からも、もう来ないように言われ、敬三はすっかり参ってしまった。

ある日、娘からメールが来て、家に行って様子を見てほしい―と頼まれる。茉莉にメールをしても反応がないという。敬三は急いで自転車で家を訪ね合鍵で娘の家に入ったが、茉莉は居なかった。茉莉の部屋に入ると、キャンバスに女神像の絵が描かれていた。両眼から鮮血が流れ落ちていた。机の上には「ママへ」と表書きされた手紙が置いてあった。手紙には、自然破壊やロシアのウクライナ侵略への不安が書かれ、キャンバスの絵は「慟哭」と題され、続けて母への別れが告げられていた。これらを知らせ、すぐに帰る様に言った。

敬三も外に出ようとしたとき、茉莉が戻ってきた。そして茉莉は、かつて敬三がプレゼントした小魚、アカヒレが泳ぐ水槽を見つめた。数が増えて五代にもなっていた。

茉莉は、「これを見ていると、私も生きられる」と言った。茉莉は家出をやめたのである。

 この短篇は、ここで終わっている。何かほっとする終り方である。

 茉莉がなぜ登校拒否になったかはハッキリしていない。担任教師と合わなかったとか、クラスメートからいじめられたとか、敬三は推測するが深くは立ち入らない。娘から、そっとしておいてくれ―と言われているからである。

茉莉のような繊細で不安を抱えているような少しは、いつしか仲間外れにされることがある。特に、この年頃の少女たちは群を作り、流行や芸能界などに関心を持つ。

茉莉のように、あまりに真面目に世の中の不安などを考える少女は少ない。茉莉に一人でも親友がいたなら救われていたと思うのだが。

この作品は、心に残る作品である。

なお能島さんは、日本民主主義文学会の現会長である。

 

「かくすればかくなることを知りながら」

後藤守彦

 

 三月一八日、京都府の宇治市を京都市在住の弟夫婦と私たち夫婦四人で巡った。宇治市といえば平等院があまりにも有名で、駐車場には観光バスが何台も停まっていたが、今回の見学先ではなかった。二人の人物に会うための一日だった。

一人目は尹東柱〈ユンドンジュ〉。詩が盛んな隣国で最も愛されている詩人の名として、誰しもがあげるのは尹東柱である。植民地朝鮮の時代、日本に留学し立教大学・同志社大学で学んだが、同志社大学在学中の一九四三年七月一四日、独立運動に加わったとして逮捕され、一九四五年二月一六日に福岡刑務所で獄死した。二七歳の若さで、大日本帝国が崩壊する半年前に強いられた死であった。

前日の午後に京都入りしたのだが、先ず同志社大学今出川キャンパスに向かった。そこの中庭には、尹東柱の詩碑がある。一九九五年、尹東柱没後五〇年・植民地支配解放五〇年・同志社大学創立一二〇年という節目の年に建てられた。「同志社の非戦の誓いであるとともに、分断された南北の融和、統一への祈りを込めた事業」(『同志社の思想家たち』晃洋書房、二〇一九年)であった。詩碑には、「序詩」がハングルと日本語で刻まれている。

 

死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱〈はじ〉なきことを、

葉あいにそよぐ風にも

わたしはこころ痛んだ。

星をうたう心で

生きとし生けるものをいとおしまねば

そしてわたしに与えられた道を

歩みゆかねば。

今宵も星が風にふきさらされる。

 

ソウルにある、尹東柱の母校延世大学の構内に立つ、弟の尹一柱〈ユンイルジュ〉が設計した詩碑には、尹東柱の筆跡を拡大した「序詩」が縦書きで刻まれている。二〇〇七年春、現在もキリスト教系の名門私大として評価の高い延世大学の正門を通り、五分ほど歩いて詩碑と対面した時の感動は今も忘れられない。現在私は、「序詩」を毎日一度諳んじているのだが、この詩は高潔さと清澄さで、いつも懶惰な私を激しく打つ。

尹東柱は逮捕される直前の六月、同志社大学の同級生たちと宇治川に、帰郷する尹東柱の送別会もかねたハイキングに出かけた。生前最後の写真を撮った天ヶ瀬吊橋の近くの河畔に、二〇一七年、生誕一〇〇年の年に、「詩人尹東柱 記憶と和解の碑」が建てられた。レンタカーに搭載のナビでは位置がわからず、迷いながらようやくたどりつくことができた。碑の右側は日本語で、左側はハングルで、詩「新しい道」がどちらも縦書きで刻まれている。「わたしの道は つねに新しい道」、このフレーズが印象的な詩である。碑の前で、「序詞」を朗唱して追悼しようとしたが、胸が一杯になったせいか、「わたしはこころ傷んだ」の先が出て来ない。残念でもあり恥ずかしくもあった。

会いたかったもう一人は山本宣治である。山本宣治も同志社大学に縁がある。時期は違うが、尹東柱は同志社で学び、山本宣治は同志社で教えた。学生時代に、西口克己の小説『山宣』(中央公論社、一九五九年)を読み、誠実な生き方に感動した記憶がある。山本宣治について、手もとにある『岩波日本史辞典』には次のように記述されている。

 

   一八八九・五・二八ー一九二九・三・五 生物学者、社会運動家。京都府生れ。キリスト教の影響下に育ち、カナダで苦学後、三高・東大を卒業。同志社・京大で〈人生生物学〉を講じ、性教育を試みる。一九二二年サンガー夫人来日を機に、産児制限運動を起こし、二五年「産児調節評論」を創刊。二四年京都労働学校校長など労働者教育運動にも取組むとともに、政治研究会を経て二六年労農党に入党、二八年第一回普選に同党公認で当選。三・一五事件後、官憲の弾圧や山東出兵反対の論陣を張り、政治的自由獲得労農同盟の唯一の議員として治安維持法改悪を痛烈に批判したため、右翼青年に暗殺された。

 

最初に、山本宣治の墓を訪れた。ガイドしてくれたのは、元小学校の教員で、共産党の宇治市議を二〇年間務めた八〇代の女性である。宇治山宣会の会員でもあり、同会編の『民衆とともに歩んだ山本宣治』(かもがわ出版、二〇〇九年)を用意してくれていた。墓碑は、死後三カ月でできあがったが、数年間建てるのが許されなかった。表側を「山本宣治の墓」から「花屋敷山本家の墓」へと書き直し、裏側に大山郁夫の筆跡で刻まれた「同志山本宣治の最後の演説から 山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから 大山郁夫書」をセメントで塗りつぶすことによってようやく建てることができた。その後もセメントを削る、塗るが繰り返された。命日の三月五日には毎年墓前祭が行われて、今年も二〇〇名が参加している。

続いて実家であるホテル「花やしき浮舟館」の敷地内にある資料館を見学した。日記、手紙、ノート、デスマスクなどが展示されており、東京での葬列を描いた大月源二の絵画「告別」もガラスケースのなかに収められていた。揮毫「唯生唯戦」(ひたすら生きひたすら戦う)を見た際には、身が引き締まる思いがした。嬉しかったのは、東京での学び直しで知り合った本庄十喜北海道教育大学准教授の名前を入館者名簿で発見したことである。日本史研究室の学生とともに宇治市をフィールドワークしたらしい。六月に北広島九条の会で講演したもらう予定になっており、帰宅後、早速メールを送ったところ、「奇遇ですね」との返信があった。

 宣治の母についてもふれておきたい。

 

かくすればかくなることを知りながら遂に逝きにし君をしぞ思う

 

これは、歌人でもあった母多年(たね)の詠んだ歌である。多年は、息子の宣治が「かくすればかくなることを」認識していたことを承知しており、宣治の妻千代とともに、宣治が非業の死を遂げるかもしれないと覚悟していた。息子なのに「汝(なれ)」とせず「君」とした理由について、最も新しい評伝である大林道子『山本宣治と母多年 民衆と家族を愛した反骨の政治家』(ドメス出版、二〇一二年)は、「宣治は自分と対等であり、又それ以上に崇高な面影を見たからだろう」と解している。何しろ、多年は、宣治は「キリストと同じ」と語っていたのだから。宣治の死後、多年は活動家やその家族を援助し、戦後、日本共産党に入党している。

旅に出る前に読んだ泉恵子さんのエッセイ「宮本百合子 未完の三部作『雑沓』『海流』『道づれ』読書ノート」(『奔流』第二九号)の冒頭に引用された宮本百合子の決意が思い浮かぶ。ソ連に残らないかとの誘いを受けたが、百合子は帰国を選ぶ。『道標』には、「もしかしたら自分の挫折があるかもしれないところ。もしかしたら自分がほろぼされてしまうかもしれないところ」とあるが、暗黒の日本に戻り、百合子も迫害によって「逝きにし君」となるところだったのである。山本宣治が凶刃に倒れた時、百合子は猛烈な胆嚢炎でモスクワ大学付属第一病院に入院中であった。

 

『街とその不確かな壁』の魅力

                松木  新

 

村上春樹の新作『街とその不確かな壁』(新潮社)は、マジック・リアリズムの手法を駆使した社会派ミステリーともいえる魅力に溢れた作品です。

四十代の〈私〉を主人公にした物語が、二つの世界で同時進行していきます。物語の一つの舞台は福島県の遠く海から離れた田舎町の図書館、もう一つの舞台は、不確かな壁に囲まれた街の図書館です。この街は、〈私〉が十七歳の頃、一つ年下の少女との会話から生まれた空想の街です。

福島の図書館で館長を務める〈私〉は、霊魂を見ることができるという特殊な能力を持っています。そのために、自動車事故で一人息子を亡くし、そのために妻が自死したという男の霊魂(小説では〈幽霊〉、〈仮初めの身体を伴った意識〉)と、日々の会話を楽しんでいます。この会話の内容が、魂と意識、記憶の問題など示唆に富んだものであり、いろいろと考えさせられました。

霊魂を見ることのできる男の物語は、最近見たテレビドラマ「心霊内科医稲生知性」の世界と重なります。このドラマでは、心霊を見ることができる内科医が、大学時代に死亡した友人の霊魂と協力しながら、患者の怨霊を解放してやるというものです。

社会的な批判を読み取ることができるのが、不確かな壁に囲まれた街の寓話です。

街は高い壁に周囲を囲まれていて、名前を持たず、壁には門がひとつしかなく、頑丈な門衛に守られています。本書のタイトルが示しているように、このパートは作品全体の核になっています。

この街の状況です。

 

〈そこでは冬の厳しい寒さのために、獣たちが次々と飢えて命を落としていく。そこに住む人びとは、寡黙に貧しい生活を送っている。与えられた食事は簡素で少量で、衣服は擦り切れるまで着古されている。書物もなく、音楽もない。運河は干上がり、多くの工場は閉鎖されている。人々が暮らす共同住宅はうす暗く、傾き欠けている。犬も猫も存在しない。目にする生き物といえば、壁を越えて行き交うことができる鳥たちくらいだ。理想郷からはほど遠い世界だ〉

 

付け加えると、この街には電気もガスもなく、なたね油の灯りだけが頼りです。この街に住む獣は単角獣だけです。時計台の時計には針がありません。この街には、現在という時しか存在していないのです。

この街の住人になるためには、自分の影を棄てなければなりません。影は〈暗い思い〉を体現している、といわれていますので、影を棄てるという行為は、自分の過去を封印することです。

この街に住むある老人は、外の世界で戦争を体験、戦場で彼は〈人が決して目にしてはならぬ世界の光景〉を目にしたために、〈影を棄てて〉この街に入って来たのでした。

過去を封印して、今ここに静寂のなかで生きている人々、それがこの街の住人なのです。この街の人々は、〈歴史についての垂直的な好奇心もとくに持ち合わせていない〉のです。

こうした状況は、加藤周一が、〈現在主義というか、昔のことは考えない。殊にいやなことはすぐに忘れる。不愉快な過去は「水に流す」・・・過去も未来もあまり気にしないで、現在を楽しく暮らそう〉、〈少なくとも万葉集の頃からの非常に強い傾向は、「今・ここ」の強調だ〉(「戦後四十年」)と批判した思想と通底しています。村上春樹の意識のなかに、日本の哲学の基本的な条件にたいする、鋭い批判精神があるのではないか、と思いました。

一方、この街の住人が影で、壁の外の世界にいるのが本体だという仮説も、物語のなかで提出されています。この仮説は、コロナ禍の現実にたいする鋭い批判を表しています。

この街では、疫病を防ぐために、高さは八メートルの煉瓦の壁を作って住民を閉じ込め、外の世界への自由な出入りを禁止しています。住民の平常心を維持するために、恐怖心を手段として用いています。

「あとがき」によると、〈二〇二〇年は「コロナ・ウイルス」の年だった。僕はコロナ・ウイルスが日本で本格的に猛威を振るい始めた三月の初めに、ちょうどこの作品を書き始め、三年近くかけて完成させた〉とのことです。

前述したこの街の状況から推測できるのは、コロナ禍で六十日の封鎖下にあった武漢です。方方が封鎖六十日間の魂の記録を、『武漢日記』で世に問いました。当然のことながら、武漢の悲劇が村上春樹を直撃したことは否めません。方方が『武漢日記』で記録した武漢の人々の生活と、不確かな壁に囲まれたこの街の人々の生活とが、重なり合ってきます。

不確かな壁に囲まれた街の図書館で、〈私〉は〈夢読み〉人として、かつてこの街に住んでいた人びとの〈古い夢〉を読む仕事に従事しています。〈古い夢は卵のような形をしており、サイズも色合いもひとつひとつ違う。様々な種類の動物たちが産み落としていった卵〉のようなものです。

〈古い夢とは、この街をこの街として成立させるために壁の外に追放された本体が残していった、心の残響みたいなもの〉であり、〈本体を追放するといっても、根こそぎ完璧に放り出せるわけではなくて、どうしてもあとにいくらかのものが残ります。それらの残滓を集めて古い夢という特別の容器に堅く閉じ込めた〉のです。

〈私〉は〈夢読み〉の作業によって、〈それらの魂を――あるいは心の残響を――鎮めて解消〉しているのです。

福島の図書館で館長を務めている〈私〉と、不確かな壁に囲まれた図書館で〈夢読み〉をしている〈私〉との関係性は、物語の最後まで伏せられています。この物語が、第一級のミステリーである所以です。

この物語では、これまでの村上作品に見られた過剰な性描写が影を潜めています。代わりに、〈恋愛というのは医療保険のきかない精神の病のことだ〉とあるように、福島県の田舎町でコーヒーショップを営んでいる札幌出身の女性と〈私〉との、愛のエピソードが語られています。この他にも、十七歳の時の〈私〉と少女、福島県の図書館に現れる〈幽霊〉と妻との、〈混じりけのない純粋な愛〉の物語も展開されています。

 

〈いったん混じりけのない純粋な愛を味わったものは、言うなれば、心の一部が熱く照射されてしまうのです。ある意味焼け切れてしまうのです。とりわけその愛が何らかの理由によって、途中できっぱり断ち切られてしまったような場合には。そのような愛は当人にとって無上の至福であると同時に、ある意味厄介な呪いでもあります〉

 

純愛物語をサブストーリーとしているところも、本書の特徴となっています。

なお、大江健三郎の初期短篇「他人の足」の冒頭にも、〈厚い壁〉に閉じ込められた男が登場しています。

 

〈僕らは、粘液質の厚い壁の中に、おとなしく暮らしていた。僕らの生活は、外部から完全に遮断されており、不思議な監禁状態にいたのに、決して僕らは、脱走を企てたり、外部の情報を聞きこむことに熱中したりしなかった。僕らには外部がなかったのだといっていい。壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた〉

 

〈壁の中で、充実して、陽気に暮らしていた〉という箇所は真逆ですが、不確かな壁に囲まれた街に暮らす人々と、なんと類似していることか。不思議な気持ちになりました。

 

蛇足ながら、本書には、G・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』(1985年)の一節が引用されています。村上春樹の前作『騎士団長殺し』でも、サムエル・ヴィレンベルク『トレブリンカ叛乱』からの引用があり、しかも、その引用文は村上春樹自身の訳でした。そして、この「叛乱」が物語のなかでも、重要な意味を持っていました。

今回の引用が、村上春樹自身の訳ならば、そこにはきっと何かの意味が込められているはずだと、かすかに期待して、木村榮一訳(新潮社 2006年10月)と照らし合わせてみましたが、まったく同じでした。多分、マジック・リアリズムの例として、マルケスを引用しただけのようです。

 

 

 

 

 

 ふくろう            

                豊 村 一 矢

     (児童文学をやっていたころの作品です)

     1

 森の夜。

 空は青みどり。オオワシの口のような三日月がういている。

 ふくろうは、むねの羽に頭をうずめてかんがえた。

   もうすぐ生まれてくる子のために、

あの三日月をとってやろう。

   子は首かざりにしてあそぶだろう。

   あの星をとってやろう。

   子は足かざりにしてあそぶだろう。

 

  むしあつい夏の夜。ふくろうは父になりました。

    ありがとう。

    ありがとう。

  子は、ふくろうがあたえた野ねずみなどをはらいっぱいのみこんで、ぐんぐん大きくなりました。

 ふくろうは、それがうれしかった。

 子は、みるみる大きくなって、いたずらのはてに、つめでふくろうをきずつけることもありました。

 ふくろうは、それがうれしかった。

 

 めぐって、また夏の夜。

 子がいいました。

「父さん。ぼく、ひるの森が見たいんだ」

 ふくろうは、こまりました。

「ひるの森なんて、つまらない」

「父さん。ひるの森を見たことあるの?」

「あるともさ」

 ふくろうは、うそをいいました。

ふくろうの目に、ひるの森はうつりません。

 ふくろうは、子の羽づくろいを手つだいながらかんがえました。

 子のいうことも、もっとだ。

 

「いいともさ。ひるの森をとってこよう」

 子は、よろこびました。

  父さんにもってこられないものはない。

  三日月だってもってきた。

  父さんにとってこられないものはない。

  星だってとってきた。

  首には月の首かざり。

  足には星の足かざり。

    

       2

 ふくろうは、ひるの森をめざしてとびたちました。

 太陽にむかってとびたちました。

   

ひるの森はどこだ。

   ひるの森はまだか。

   

ひるの森はどこだ。

   ひるの森はまだか。

 

ほんとうは、ひるの森の上をさまよっただけ。

 羽が、だんだん重くなる。

「おお。あれか!」

 

ふくろうは、白い森にまいおりました。

 だが、そのとき、ふくろうにまつわりついたもの、それはヒメジョオン。

「あぶない! 土の上だ」

 ふくろうは、とびたとうとしました。だが、ヒメジョオン林のふかいこと、ふkしこと。

とべません。

 

ふくろうは、ひるのまほうにかかったのか。

 

        3

 ふくろうの耳にあくまの声。

「や。エゾフクロウだぜ!」

「まぬけなフクロウだ。こんなひるまに、のこのこ出てきて…」

 

        4

 きょうも、動物園には子どもたち。

「あ! フクロウだ」

「このフクロウ、ちっともうごかないや」

 ふくろうは、うすよごれたむねの羽に頭をうずめ、かんがえました。

   

子よ。父をゆるせ。

ひるの森を見せられなかった。

   

子よ。おりの中で父はかんがえた。

お前はまちがっていなかった。

   

ひるをしって夜がほんとうにわかる。

   

子よ。お前の子に太陽をとってやり、

   手まりにしてあそんでやるがいい。

   

お前の子にみどりの森をあたえ、

   行水をさせるがいい。

   

子よ。お前ならできる。

 

 きょうも、ふくろうは羽に頭をうずめています。

 

動物園は子どもたちでいっぱいです。 

                   

おわり 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年月〇一日 292

 

 

三月例会誌上合評

 

 

合評作品

札幌民主文学会支部誌

     『奔流』29号

 

 

「人との出会い特別編その6」 

泉  脩

 

 

 

 

 

意見1       松木 新

事実は小説より奇なり、とはよく言われますが、このエッセイを読んでいて、全くそうだと納得しました。

「チャゲ&飛鳥」の飛鳥が教え子だったこと、勤務校の加清理事長の妹が阿寒のほとりで自殺した加清純子であること、教え子が大学に入学すると泉さんのひとり息子とルームシェアを始めたことなど、驚かされることばかりです。

泉さんの『青春の飛翔』を読んだB君が立ち直る件では、あらためて文学の力を実感しました。

いずれにしても、このエッセイには、生徒と向き合う泉さんの真摯な姿勢が、基調低音として流れていると思いました。

 

 

 意見2            北野あかり

担任ではなかった生徒を対象に、印象に残る生徒について書かれています。どの生徒にもそれぞれの青春時代があり、そのエピソートを恩師が忘れずに優しい眼差しで見ていてくれたという証として、この作品は人生の宝ものになると思いました。

泉さんは教職を離れて数十年にもなるのに、このように生き生きと書けるということは素晴らしいと思いました。教師としての実践に加え、出来事を記事にして「札一高インフォメーション」を発行し続けてきた積み重ねの賜物と思いました。

私も現在、職場の機関紙の作成を担当していますが、その時々取り組んだことや相談など、一つの出来事として書き残していこうと思いました。

 

 

 意見3            村松祝子

泉氏のエッセイはいつ読んでも穏やかな川の流れの中に身を委ねているように心地よい。今回は教師として担任ではなかったが心に残った印象深い生徒たちを書いている。本人は、エリートを目指さずアウトロー的な道を歩いてきたと思っているらしいが、その事が帰って落ちこぼれの生徒たちと心を共有できたのかもしれない。心に残る生徒たちはどの子も個性的である。個々の個性が世に出て行ってどの様に翻弄され育てられて行ったのかも知りたいがそれは不可能であろう。しかし現在の彼らの生活を通して安堵感が湧いてくる。私の孫も今年から高校に行く年齢である。ひょろひょろの痩せっぽちの彼が、苫工の野球部に行くと言う。体育系の家系でもないのに青天の霹靂であり、親族の中での珍事である。  

泉氏のエッセイに描かれている個性的な生徒達に共感した私は、孫には普通に世間並みの高校生になってほしい矛盾をエッセイ「心に残る生徒たち」から指摘されている。

二四一ページの下段の「おわりに」の項は前半の文章のやさしさからガラリと変わりこれまでの氏の教員生活と生き方を語り、組合活動の中で理事長に対する怒りと社会に対しての不誠実な生き方を厳しく糾弾する文章に氏の生き方の心根が覗かれる思いがした。

 

 意見4            豊村一矢

 泉さんの教育実践を題材にしたエッセイに、私はいつも羨望の念を抱かされる。

なぜか。教育実践が、高校生を相手にして対等の立場で行われているからだ。小学校の私の教育実践では、教える側の私の立場と教えられる子どもの立場が対等になることはなかった。それに矛盾も感じなかった。今のところ、そのことの良し悪しの結論も出せていない。

泉さんは、教師の鏡です。

 

 

 

意見5            泉 恵子

 教職を離れて四半世紀以上も経つのに、こうした心に残る生徒たちについて書けるということにいつも感心する。

「札一高インフォメーション」の編集に携わっていたということで、そうした経験値が大きいのだろう。残されたものがあるのかもしれないが、生徒たちを見る目の確かさ、温かさを感じる。

私も同じ私立学校の教員だったので、官尊民卑と言われた北海道の私立高校生や教員の立場に共感するところもあるが、最近は少し違って来ているようだ。特色ある学校は私学に多いのではないかとさえ思う。そんな中で活躍した、又は卒業してから活躍した生徒達。それぞれに活き活き伝わってくる。

が、気になる表現があった。カンニングした(と思った)生徒への対応で「男子ならゲンコツ一発で済ましたこともあったが、女の子なのでそうはいかない」とか、「自分の志を内に秘めた内剛外柔の男の本質」といった表現は、男女差別につながり今ではなじまないと思う。

しかし、全体として私学の教員として奮闘努力してきた自負の感じられる好感の持てる文と思う。

 

 

 

 意見6          室崎和佳子

泉脩さんは天性の楽天家、人生を楽しむ天才である、といつも思う。

 今回は担任でなかった生徒のことを書いたというが、よく覚えているなぁと感心した。自分のミスを率直に書いてある場面などは、泉さんの誠実さの表れであり、誰もができることではない。すごい人である。

 

 

 

 意見7              柏原 竜

教師が生徒を一生懸命見守っている様子がよくわかりました。学生時代から卒業して社会人となってからも見守っていることに感心した。

自分の高校時代を振り返って見ると、教師に対する思い出はあまりなく、沢山の同級生との思い出が数多くある。 

自分は生意気で自己主張が強くエネルギーの塊だったようだが、何か不安で不安定で走り続けていたように思う。今あの当時に戻りたいかいと問われたら「否」である。たいへんだった。

そんな不安定な時期の生徒たちと葛藤していたのですね。大変だったと思います。街の中で中高生を見ると頑張れとエールを送り優しく声をかけたくなる。

 

 

 

 

「長寿の心得」  北野あかり

 

 

意見1             泉  脩

 昨年夏にコロナに感染した時のことを、たんたんと書いている。私も昨年六月にコロナに感染したので、つらさが実によく解かる。

 道北に住む兄嫁の和ちゃんから、電話が入る。八十四歳の兄がコロナで入院したという。兄の年子の妹である作者は、ショックを受けるがどうしようもない。見舞いに行っても会えないのである。

 かつて樺太から引き揚げて以来、一貫して家族の中心となって努力してきた兄である。作者は二人の妹に連絡し、姉妹三人で出来る範囲で兄夫婦を励ました。

ところが作者自身も体調を崩し、それがコロナ陽性であるとわかると、家庭内養生にけんめいに努めた。さいわい重症化は免れ、次第に回復する。兄も回復し退院したと書かれている。読む側の私もいっしょに、やれやれと安心した。きょうだい愛の強さに、胸を打たれる作品である。

 

 

 

 意見2             村松祝子

コロナにかかった兄の知らせを兄嫁から聞いた作者は兄にまつわる過去の思い出が頭に浮かぶ。戦後樺太から一家七人で引き上げてきた苦労を共に味あいながら母の実家に身を寄せたありがたみを諭してくれた兄の暖かさ。その兄が八〇代に入りコロナに罹った。テーブルの隅に置かれた「長寿の心得」の文章に目をやると八〇代の卒寿の項目に「なんの なんの まだ 役に立つ」と書かれてある。心の中でこの言葉を兄に呼び掛けていたが三日後に退院と決まりひとだんらく。しかし翌日作者がコロナに罹患。そのハプニングに驚き自分と接職した関係者に即電話連絡。幸い自宅待機の処遇で克服したが政府のコロナ対策の不備とこれからの見通しの甘さを身をもって体験した事実を克明に描かれ読むものにその事実を明らかにしてくれた。作者も兄も無事回復して読む者をほっとさせてくれ最後に皆が集まって笑い合いたいねとおえている。

前半に兄の話が出てくが兄のこれまでの人生をもっと知りたいと思った。テーブルの隅に置かれた「長寿の心得」のお題目が面白い。題名が「長寿の心得」から推して口まわしの良い言葉に乗せらて読んでいくと最後は“気は長く こころはまるくはらたてず くちつつしめば いのちながらえる”と。

これは為政者の心理じゃあないかと感じるのは、作者は口を窄めることなく今の時代は声を大にして国の支援を要求して行こうとコロナを体験した作者ならではの訴えだと感じた。

 

 

 

 意見3            松木 新

このエッセイは、兄がコロナに罹って親族が右往左往する場面、北野さんがコロナに罹った場面、そして、この国の政府の筋の通らないコロナ行政にたいする批判の場面があります。

小説にする題材としては、最初の場面が題材としては使えると思います。

コロナ対策で面会もままならない実情で、病室に閉じ込められている兄は、毎日をどのような心情で過ごしているのか、日常生活から切り離された人間の心理を想像してみてください。そして、兄との交流を断たれた弟妹として、なにか連絡手段を考えることができないか、そのために苦心する様を想像してみてください。連絡が取れたときの喜びを想像してみてください。

これらを具体的に想像することで、小説を創造できると思います。

 

 

 

 意見4            豊村一矢

自分も含めコロナで振り回されたこの一年がリアルに書かれている。政府の無策も。多分、日本でコロナと無縁だった人はいないと思う。

私の場合、義理の従兄弟(いとこ)の夫がコロナで急逝した、というのがある。

私(豊村)の生存する伯父伯母はたった一人だ。そのたった一人の伯母は田舎暮らしで、札幌に結婚して五年ほど経つ娘がいる。まだ子どもはいない。

母親のことを心配する娘を気遣って、娘の夫が「お母さんを呼んで一緒に暮らそうよ」と提案する。田舎暮らしの伯母は、こうして札幌の娘夫婦のところで暮らすことになった。ところが、娘夫婦一緒に暮らすようになって一ヶ月も経たずに、「お母さんを呼ぼう」と提案した夫がコロナで急逝してしまった。

コロナ禍を題材にした作品はこれからも書かれなければいけないと思う。

 別件。

「長寿の心得」というタイトルには違和感をもった。

タイトルと作品内容と咬み合っていない。

 

 意見5           泉 恵子

前回の「ゴクラクゴクラク」でも感じたが、今度も兄弟姉妹の緊密な情愛が溢れている。

兄のコロナ入院から始まって、自身のコロナ感染の経験、そして最後に兄の回復が見込まれる。

筆者の兄に対する思いには特別なものがある。なんとか元気になってほしいと、自宅の仏壇の前で「ガンバレ!」とエールを送っているところが微笑ましい。姉妹たちのそんな声が届いたかのようだ。

「長寿の心得」の文言も面白い。最後の「気は長くこころはまるくはらたてず」までは良いとして「くちつつしめばいのちながらえる」には異議を申し立てているところは全く同感だ。

自身のコロナ感染から、この度の政府のコロナ対応の貧弱さが浮き彫りになる。

保健所の対応が行き届かず、本人が接触者に連絡を取らなければならない状態。にもかかわらず、改善する対策が見えない。再びパンデミックになった時のことを考えると恐ろしい。

余談だが、今百合子の読書会では「伸子」を読んでいる。最初の方にアメリカ滞在時通称スペイン風邪(と書いてはいないが)が流行し、父も主人公もかかった話が出てくる。約百年前のパンデミックだが、世界中で感染者も死者も、今回のコロナ以上だ。日本では「流行性感冒予防要項」など、今日の予防法の出発点とも思われる内容で、今でいう「三蜜」を避けることや、飛沫感染を防ぐためのマスクとうがいを奨励するポスターもあった。が、なぜか手洗いは出てこないとのこと。(結核予防会理事長工藤翔

二『呼吸臨床』二〇二一年より)

 

 

 意見6             室崎和佳子

北野あかりさんも泉脩さんに負けず劣らずの天性の楽天家、人生を楽しむ天才である、といつも思う。

 今回の文章を読んでつくづく思ったのだが、彼女の周りを取り巻く家族関係がとても良いのである。  

樺太から引き上げてきた北野さんたち七人家族を快く引き受けてくれたお母さんの実家の方々に始まり、お兄さんの連れ合いの和ちゃんに至るまで温かい人間関係が北野さんの明るさであり強さである。

 

 

 

 意見7           柏原 竜

元気に過ごしているのにコロナに掛かって、生活のあらゆるところに困難が生じていることがよくわかりました。北野さんが当事者なので、国のコロナ対策の不備がくわしく書かれよくわかりました。「長寿の心得」いいですね。

 

 

 

「宮本百合子 未完の三部作」

泉 恵子

 

 

意見Ⅰ           泉  脩

 宮本顕治の長い入獄中、妻百合子はけん命に執筆を続けた。その中に未完の長篇三部作があることを、私はこの論文で初めて知った。

 内容は百合子の若き日の、実家における両親ときょうだいをめぐる物語である。恵まれた中流家庭にも、様々な葛藤があった。百合子は親に背き、末の弟が自死してしまう。

 未完作品の第一部と第二部の最初の部分は中央公論と改造に発表されたが、当局による執筆禁止で、続きは発表されなかった。その上、百合子の逮捕と長い拘禁による発病により、まったくの未完に終わってしまった。

 作者によると、獄中の宮本顕治との文通の中で、かえって執筆中断中に思考を深め、「伸子」の続きこそ、書かねばならぬと百合子は気付いたという。こうして敗戦後、「二つの庭」と「道標」が書かれることになるのである。

 作者は「宮本百合子を読む会」に加入していて、宮本百合子のほとんどの作品を読み合わせている。 

これはすごい努力であり、その結果として、すぐれた宮本百合子論を発表してきた。

 私も宮本百合子が大好きであり、青春時代に主要作品を読んで啓発され、励まされた。人間として、女性として、正しい生き方を探求し、命を懸けて実践してきた、稀に見る秀れた作家だと思う。

作者も同じ道を歩み、同じ努力をしてきた女性である。私と同じ私立高校の教師を勤め、同じ道私教組で活動し、現在は札幌民主文学会に加わっている。

私の最初の本「青春の飛翔」に感銘して、私に手紙をくれた時から、実に三十七年もの交友である。おそらく私の命が尽きるまで続くだろう。

 

 

 

 

 

意見2             松木 新

新鮮な問題提起です。たしかに、未完の三部作についての論評は不破さん以外、ほとんどありません。

今回の「読書ノート」で、素材がそろったと思いますので、ぜひ評論に挑戦してください。

その場合、過去のさまざまな論者の意見については、現在の時点から、批判的に考察することが不可欠です。どのようなことに対しても、忖度は無用です。   

百合子についても、筆者との距離感を正確に確保することが、大切だと思います。

 

 

 

 意見3            北野あかり

「序」の部分で、長篇構想の三部作「雑踏」「海流」「道づれ」は、38年執筆禁止という不当な弾圧で未完に終わってしまった。第三部まであった構想の第一部の3分の2のところに来たばかりであった、と書かれていたので、未完の三部作は「雑踏」「海流」「道づれ」のことだ、と思って読んでしまいました。 

作者に確認すると「百合子が書こうとしていたのは長篇構想三部作のことで「雑踏」「海流」「道づれ

」の事ではない、長篇構想の後半3分の1が未完ということで「未完の三部作」と言われているそうです。

 また、作者は「この作品には百合子の並々ならぬ決意と情熱が注がれていて、生き生きとした息吹や情熱が感じられ惹きつけられる」と書かれており、私も読んでみたくなりました。

「一」では作品の「道標」執筆の背景や、多くの短編にまつわる背景が紹介され、長篇構想を書く土台となったことが紹介されています。

「二」「雑踏」については「主人公の両親と弟と、寄宿舎生活では「戦旗」を読む学生に焦点が当てられ

ており、「新たな世界を切り開いてゆく萌芽を感じさせる」と作者が感想を述べています。

「三」「海流」については、寄宿舎で敬愛する先生が辞めさせられるという噂が流れ、学生たちが反発し

て留任運動が起きたこと。母を通して女性の無権利状態や、弟の苦悩にも焦点が当てられている。

「四」「道連れ」については、文学を語る場面や、病気で長期休んでいる同僚の貧しい家庭、学歴問題、

宏子が重吉と出会い革命運動に近づいていくことなどが紹介されています。

「五」では、百合子の様々な作品のタイトルが紹介されており、三部作構想について百合子の思いや、獄中の顕治から指摘されたことが紹介されています。  

最後に「次代を受け継いだ世代は、この先を描く作品を生み出してきたのだろうか。創立100周年を迎えた日本共産党の歴史を踏まえた長篇小説の出現が期待される」で終わっています。

 とにかく膨大な百合子作品を読み、時代との関りについても関連づけてまとめられたこと。すごいと思いました。ただ、最後の「次代を受け継いだ世代は…」4行は、他人ごとのように感じました。作者自ら何かに挑戦しようという一言が欲しかったのですが、書けなかったのか…とも思いました。

 

 

 

 

 

 

意見4            村松祝子

一九三六年から三七年にかけて宮本百合子は長編小説を書く意気込みでその為の構想を練っていた。それは3部作の構想で「雑踏」「海流」「道づれ」の構想であった。しかし検挙に続く検挙で体を壊し遂に完成させることはできなかった。その構想の一部の三分の二までは書き上げたのだが未完に終わった。このエッセイを読んでなぜ未完に終わったかよく理解できた。長編小説の構想が未完で終わったがその構想過程で顕治のアドバイスを受けて社会主義の勉強をしたり百合子自身の民主的作家として自分を見つめ直す時間を持った。その成長過程を経て戦後の作品「道標」に身を実を結ぶのであるが百合子の作品は三六年以降どれも「命を賭して書かれたものであることがよく理解できた。

以前「道標」を通読して長い小説を読みおえた安堵感と重厚な小説だなとの感じだけだったがこのエッセイを読んで改めてこの道標に至るまでの百合子の人生の時間と民主的な作家としてまた胸と頭をつかって発表した成果を幾分なりとも掬い取りたいものだと思う。

そんな思いを持ってもう一度読みたい。

 

 

 意見5           豊村一矢

 宮本百合子の作品は、ほとんど読んでいなくて、この泉さんのエッセイにまともに意見を述べられないのが残念だ。

 耳学問では、高校生のころから、百合子や百合子の作品について熱く語ってくれる年上の女性(先日亡くなった伯母もそのひとり)の影響でそれなりのイメージは持った。

 だから、いろいろな場面で百合子、宮本顕治のことなど語られると耳を欹てるようになった。

 宮本百合子の作品については様々な意見があると感じている。それに自分の意見を対比できなのを恥じる。

 

 意見6           室崎和佳子

「評論」にしないで「エッセイ」としたんですね。泉恵子さんの気概を感じました。

 宮本百合子の文学を読む会の活動をしていることは知っていましたが、頑張ってこられた成果が現れていて読み応えがありました。  

宮本百合子の死因が獄中での熱射病の後遺症のためとは知らなかったので、びっくりしました。

 

意見7              柏原 竜 

自分が宮本百合子に出会ったのは大学に入ってから、周りの人に勧められて始めて読んだことからです。

真面目に一生懸命生きてきた人だと思った。その後全集を買って読み続けた。特に「道標」と「風知草」が記憶に残っている。宮本百合子は凄い人だと思ったが近づきがたかった。 

現代に生きていたらどんな作品を作っていただろうか。凄い作品を発表するのではないかと思ってしまう。

 百合子の作品に対する苦闘が書かれているが作家とは大変だと思った。書くために構想を練り上げる様子がよく解った。

自分はあまり考えないで気ままに書いているので。

 

 

「大雪山よ」

            柏原 竜

 

意見1            泉   脩

 前回発表した「大雪山よ」のリメーク(改訂)である。内容はほとんど同じだが、より鮮明に書かれていておもしろい。

 旭川郊外の大雪山が見える地に、開拓二代目の老夫婦が農業をしている。息子健一と結婚した奈津江が、姑と二人で農業に打ち込む。土地が市街化区域になり、一部の土地を売って大金が入ると、健一は浮気をするようになった。

それでも女二人は男たちに家計を渡さず、けん命に働き、最後は一人になった奈津江が、これからどう生きるかを思案するのである。

 土地に生き、農業に生きる女性の靭さがよく解かる。人にもよるが、手にしたことの無いほどの大金が入ると、男は気が大きくなって散財し、幾多の誘惑に弱いものである。

 作者の筆力が一段と向上したことが、実感できてうれしい。内容的には、同じ男として、つらいものがあるが。

 

 

意見2            松木 新

前作に手を入れた分だけ、よりスッキリしました。

ばあちゃん、奈津江に生きるための底力の強さがあります。その力は、農業を慈しむ心によって、培われたものであることが、読み取れます。

大雪山は、ばあちゃんや奈津江など、土に生きる人々をまるごと育んでいる象徴として存在しています。タイトルの意味はここにあると思いました。

なお、健一の死について、奈津江は、〈だんだんと弱っていって亡くなった〉を、淡々と描写していますが、健一についての奈津江の心情を知りたいというのが、読者としての要望です。

 

 

 意見3            北野あかり           

奈津江が、大雪山の麓の農家に嫁いで、慣れない土地や仕来り、夫の浮気などにめげそうになりながらも、そこから逃げることなく生きてきた半生を振り返っている。

どんなことがあっても、家計を男に渡さず懸命に働く頼もしい義母、義母を頼りに生きて来た美津江にとって、辛くても悠然とかまえている大雪山を仰ぎ見ることで勇気を貰っていたのだと思いました。

先祖が切り開いてきた農地も、農機具の機械化により馬がいなくなり人の力を要しなくなり、農業から工業化へ、市街化区域に指定により大金手に入ると、土地を手放し家を新築・アパートを建て生活環境が激変し、堕落する人も生み出されていく。高齢化が進むと土地を手放さなくてはならない所に追い込まれていく。そんな時代の流れの変化と人間模様が描かれていると思いました。

時代に翻弄され一人暮らしとなっても、家族で切り開いた地に根をはり、農地を区分けして他人に貸

しながら生きている逞しい奈津江。大雪山の雄大さに支えられているように感じました。

できれば、夫や子供との楽しかった想い出も加えて欲しかったです。

 

 意見4           村松祝子

『民主文学』の小説は面白くないという話を聞く。私も心の内で密かに「うん、うん」と納得すると処もあった。しかしこの「大雪山よ」を読んで面白い小説だと思った。

途中でこのばぁちゃんの行動がどう展開されるのかハラハラドキドキして読み進んだ。浮気している息子の現場に乗り込んで行ったばあちゃんは戻ってきて待っていた嫁の車に乗った第一声が「車の中は涼しい」の一言だけだった。

もっと言葉が続くのかと期待していたがその後淡々とばぁちゃんの人生が続きそして終えるのだった。推理小説の様にどんでん返しを期待していたが人生にはそういうものは無かった。私はその後のばぁちゃんの気持ちの中を色々推測ってこのばぁちゃんの肝っ玉のおおらかさに圧倒された。

降りかかる人生の試練を堅実に受け止めて生きていくこの家族の姿は十勝平野に連綿と繋がる大雪連山の勇姿と重なっているのか‥‥と題名から想像した。ばぁちゃんとじいちゃんとのお互いの愛情の深さもよく表現されていると思った。ただ時間の配列が少しわかりづらいと思った。奈津江の夫健一の考えも少し知りたいと思ったし、突然金が入ると「人間碌なことはない」と言うじいちゃんの言葉は含蓄のある言葉だと思った。

主人公は奈津江なのかばぁちゃんなのかと思ったが二人を大きく包んで俯瞰している大雪山なのであろう。最後に岸さんが登場するがこの部分は不要だったと思う。

 

 

 

意見5             豊村一矢

 面白い短編だ。浮気をする者も含め、登場人物の人間臭さがよく書かれている。情景描写もリアルで臨場感がある。

 真面目に地道に生きる者の強さ中心に、あぶく銭に有頂天になって浮気をする人物には交通事故と早死という顛末を用意する。気持ちよく読めた。

 

 

 

意見6             泉 恵子

 前回発表の作品に加筆して、更に膨らませ発表するということは、作者のこの作品に対する愛着と熱意を感じさせる。

大雪山の麓の開拓農家に嫁いだ奈津江の一生を活写していて、大地に生きる女性の逞しさを感じる。年齢的には我々と同じくらいの開拓三世だが、農家という土地柄か、結婚は親が決めるなど古い道徳観も残っている。夫が浮気をしてもじっと我慢を重ねるのは、大地に根差すという強みがあるからだろうか。

具体的な描写のいくつかー「風呂上がりに......

(P146) や「ドアをバッタンと......(P147) とか、ばあちゃんと夫健一のアパートを尋ねる場面など印象的で、全体的に説明口調な中で光っている。そうしたリアルな描写がもっと欲しいと思った。「大雪山」の姿も、前回より増えて、タイトルの意味合いにより近づいたとも感じられるが、それを見つめる心境などがもっとあると、その荘厳さに包まれて強く生きる女性の雰囲気が出るのでは?(描写不足は私自身の課題でもあるが)そんな女性の姿に挑んだ作者の意気込みを思う。

最後にいつもの「岸さん」が登場する。これは「遊び心」という声もあったが、なくてもよいと思いながら、ついニンマリしてしまった。

 

 

 

 意見7           室崎和佳子

 親や親戚のいいなりに結婚し(させられ)、その相手が不倫しても何も言えず(言わず)、ひたすら耐え忍んできた女たちは日本中にたくさんいたのであろう。

 この小説の主人公の奈津江のような生き方をした女性たちである。

 結果的には、不倫をした亭主はその報いを受けたかのように交通事故で死に、奈津江は誰に遠慮することもない悠々自適の一人暮らしであるが。

 不実な息子の健一を見限り、奈津江を信頼する度量を持っているばあちゃんの存在感が大きい。

 

 小説の終わりの方で岸さんが出てくるが、出てくるだけで終わっているのが惜しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「二月例会誌上合評」追加

 

ラヴ・レター Ⅰ」 室崎和佳子

 

追加意見          泉 脩

二百枚を超す大作で、しかも第一部である。前年の「凍てつく朝」に続く、母と娘の自伝的作品で、フィクションと実体験が入り交じった、生々しい迫力のある作品である。

「凍てつく朝」の主人公愛子は、父の命令で根室の質屋の息子と結婚するが、とんでもない道楽息子で、生まれて間もない娘の和美(かずみ)を連れて実家に帰る。

「ラヴ・レターⅠ」では、この和美が成長して高校生になっている。母親は再婚するが失敗し、和美の弟と妹を連れて戻っている。和美は母親の姿を見て、男を信用できなくなり、自分は結婚しないと決意し、一家の柱として教師を目指す。教育大学釧路分校に入学し勉学に励み、そして学生自治会の役員にもなって、政治的活動にも積極的に参加する。どんな求愛も拒否していた。

ところが四年になり、同年齢ながら一年の、体育科の谷山真志(しんじ)に出会い、たくましくイケメンの彼に恋をしてしまう。真志も同じで、二人は相思相愛となった。夏休みに小旅行に出かけ、二人は結ばれ、思想的にも同じ道を進む。

 和美は卒業後、実家のある別海町の小学校に勤め、真志は二年になり、二人は励まし合いながら自分の道を進む。

 現代版「ロメオとジュリエット」ともいうべきこの物語の始まりは、七十四歳になった和美が、先立って亡くなった夫真志の、若き日の五年間のラヴ・レターを、自分が亡くなったらどうするのかと、思い悩むところから始まる。そして子供に頼んで自分の棺に入れてもらう、と結論が出る。

 この後は真志のラヴ・レターと和美の日記の引用で、若い二人の熱愛がくっきりと書かれている。特にラヴ・レターは、二十代前半の青年の若書きの文章で、実物としか思えない。生々しく、惹き込まれ、胸が熱くなる。いくら筆の立つ作者の室崎さんといえども、創作は難しいと思う。

 このラヴ・レターは一九六九年の春から、二十一歳の真志が五年間に渡って、絶え間なく書いた手紙である。今後の大学三年と四年、そして二人が結婚するまで続くのだろう。この間和美は、小学校の教師として仕事に打ち込み、同時に組合運動と政治

活動にも力を入れるのだろう。

 ただ恋愛に酔いしれるだけでなく、愛を糧にしながらも、二人が仕事・活動・生活の中で成長していくのだろう。続編が楽しみである。

 私は同じ頃、私立高校の教師として、そして組合のリーダーとして苦闘していた。この経験は今まで繰り返し書いてきたが、特に注目したいことは、一九七〇年のいわゆる「七十年安保」をめぐる激動である。この作品の中でも、革マル・中核という言葉が出て来るが、いわゆる全共闘・極左派が猛威を振るう時期である。全国の大学がバリケード封鎖され、ゲバ棒が振るわれ、機動隊と激突する。それは労働組合にも波及した。私が十四年間役員をした北海道私立学校教職員組合も、まさに同じだった。

今後、教育大学釧路分校がどうなるのか―も注目されることである。

もう一つ、私が気付いたことは、和美が卒業論文の中でマカレンコを取り上げていることである。ソ連の教育理論家・実践家のマカレンコは、私も大好きだった。特に代表作の『教育詩』は、偉大な教育実践記録であり、文学作品である。スターリン個人崇拝に毒されていないこともいい。

 私のつたない教育実践も、マカレンコが大きな指針だった。和美の日記と真志のラヴ・レターの中に、マカレンコの集団主義教育がくり返し書かれていて、とてもうれしい。

 この作品は単純なラヴロマンだけでなく、当時の政治・教育が関わった、とても考えさせる作品である。

 

「初恋」     石川節子

 

 追加意見          泉  脩

四十二年ぶりに実った恋主人公偉井(えらい)節子は、釧路の普通高校定時制の生徒。霧多布から来て、昼は働きながら夜に学んでいる。節子は、全日制と定時制の合同の文芸部に入り、顧問の石川肇(はじめ)先生の元で楽しく過している。

 石川先生は全日制の新米教師で、国語を教えている。堅苦しいが新鮮な授業で、四年で授業を受けた節子はその授業が好きだった。

石川は時々節子を誘って食事をしたり、映画に連れて行った。節子は、石川と話していると楽しいし、次第に二人の身の上が似ていることに気が付いた。

 石川は敗戦時に満州(中国北東部)で両親に死なれ、幼い弟と妹を捨て、一人で日本に帰ってきたのだ。節子は樺太からの引き揚げ者で、漁村で働く両親から離れて、釧路で一人暮しをしているのだ。

 二人はぐんぐんと近づき、節子は石川から求愛されるが、決して体を許さなかった。そして卒業の後、石川が小樽に転勤したことを知った。

 時が経ち四十二年後、石川は札幌で暮し、妻を失っていた。札幌で節子と石川は再会し、二人は結婚した。ほとんど奇蹟的ともいえる再会と結婚だった。

 この物語は実話の様である。著者は現在、石川節子と名乗り、夫と二人で札幌民主文学会で活動している。夫の石川さんは主としてシナリオを発表し、節子さんは樺太と道東を舞台にした小説を書いてきた。二人とも八十代になり、現在夫の石川さんは

入院中で、節子さんだけ例会に出席している。

 石川節子さんの作品は実にテンポが良く、叙事的ともいえるほどの痛快な内容である。私は石川節子さんの作品のファンになり、毎回楽しみにして読んできた。この作品は初恋が時を隔てて実るという、現実には在り得ない内容であり、とても楽しい。

 夫の石川さんは、北大文学部の私の数年後輩で、私は史学科、石川さんは国文科だった。名高い風巻教授に学び、当時からシナリオを専攻していたらしい。早くに高校教師を辞めて商社マンになり、大阪で働いた。退職後は札幌に戻り、札幌民主文学会

に加入し、私より早く夫婦で活動していた。

私は例会に出るようになり、石川さんの毒舌にびっくりした。学生時代以来、仲間同士できびしく批判し合ってきたらしい。「少年と戦争」という彼のエッセーを読んで、敗戦時の満州での混乱の中で、孤児になり、帰国後に親せきの世話でやっと学業を終えた彼の心の深い傷を知った。敗戦時のソ連の無法な振る舞いを決して忘れず、社会主義・共産主義には終始懐疑的だった。しかし、反戦平和の願いは一貫して持ち続けている。

 石川節子さんは、このような夫を支え励ましながらも、自分の考え方、作風を守り続け、ただ一組の夫婦会員としてユニークな存在になっている。

 初恋の復活は大きな喜びだったに違いない。節子さんは私に、「私は押しかけ女房でした」と言ったが、まったくすごい作品だと思う。

 

      

合評を受けて

 合評作品   「長寿の心得」 

北野あかり

新型コロナウイルス感染に関して、2021年9月末にすべての地域の緊急事態宣言が解除された後、2022年9月に兄と私がコロナに感染した。

罹患した者が体験して感じたことや、国の感染対策はどうだったのかについて書き残しておきたいと思ってこの作品を書きました。

2023年3月13日からマスクの着用が個人の選択となりました。どのような根拠かあいまいなまま感染者が減ったことだけが報道されています。この作品を基に、ミニ対話が出来ればと思っています。

 例会では、このエッセイを小説にするには、どこを変えたらいいのかアドバイスを頂きたいとお願いしたところ、松木さんから「体験1割、9割想像」、例えば、コロナになった兄はどう考えたのだろう…とか、右往左往したのだろうか…想像してみることだ、とアドバイスを頂きました。

次回は挑戦してみようと思っています。

 

 合評作品  宮本百合子 未完の三部作」

「雑沓」「海流」「道づれ」読書ノート」について

泉 恵子

四、五年前、所属する読書会「宮本百合子を読む集い」の中で、この未完の三部作を読んで、面白いと思った。

「序文」にも書いたが、『獄中への手紙』等では、この作品に対する並々ならぬ意気込みが伺われ、交響曲のプロローグを思わせる内容で、これからの展開が期待されるといったところで、執筆禁止という不当な弾圧で未完に終わってしまった。

だが、百合子は続きを書きたいとずっと思っていたのに、結局書かれず、試行錯誤の後に『伸子』の続きを書こうと思うようになった。そのあたりの経緯を私なりに検証したいと思った。

膨大な『獄中への手紙』を読む機会にもなったが、やはり不破氏の『宮本百合子の十二年』に助けられ、その域を出ていないし、自身まだ未消化の感もある。

合評では好意的な意見もあり、その逆もあった。

最後の「次代を受け継いだ世代は、この先を描く作品を生み出してきたのだろうか」について、戦後の民主主義文学の中に、優れた作品が生み出されてきたことは否定しない。

言葉足らずだったが、百合子は『道標』の後の世界『春のある冬』『十二年』を書こうとしたが、果たされなかった。特に『十二年』では非合法化の日本共産党の闘い(獄中での闘いも含めて)が描かれたはずである。そこはまだ描かれていないのではという思いもあって、あのような表現になった。書けない自分を棚に上げていることはその通りである。

 

 

                              

 

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大江健三郎追想

              松木 新

大江健三郎が、3日、老衰のため亡くなりました。

十五年ぶりに書かれた最後の小説『晩年(イン・レイト)様式集(スタイル)』を『民主文学』で論じることができたこと、講談社創業一一〇年記念として刊行された『大江健三郎全小説』全十五巻から、大江の判断によって収録を除外された『青年の汚名』を、『北海道民主文学』で取り上げることができたことなどは懐かしい思い出です。

大江との出会いは、学生時代に講演を聴いて、口下手だなあという感想を持ったのが最初でした。あまり熱心な読者ではなかったのですが、『民主文学』の「文芸時評」で、七年ぶりに書かれた長編『燃えあがる緑の木』三部作を、偶然にもすべて論じることができたことをきっかけに、注目して読むようになりました。この小説は、インターセクシュアルのサッチャンによる語りで、物語が展開されています。第一部が書かれたのが九三年ですから、三〇年前に、すでに大江は、ジェンダーフリーを意識していたことになります。

作家の直感力の鋭さという点では、「新しい戦前」についての言及もあります。

昨今、「徹子の部屋」に出演したタモリが、この先の日本を予測して、「新しい戦前」と発言し、話題になりました。ところが大江は半世紀前に、次のように言っています。

〈新しい「戦前」が、重く、制禦しがたく、苦しく、時代によって懐胎されていると告げる声がおこっている。しかし、よく「戦前」を記憶し、それをみずからの存在のなかに生かしつづけている者のみが、もっともよく新しい「戦前」を感知するであろう。そして、戦争を、また「軍国」を〉(『同時代としての戦後』73年3月)

タモリが大江の作品を読んでいたのかどうかは不明ですが、ここにも鋭い洞察力を見て取ることができます。

「九条の会」の集会で、中野重治の「春さきの風」から、母親の言葉「わたしらは侮辱のなかに生きています」を紹介して、反戦・平和を訴えた姿、李恢成の文壇デビューを後押しし、その後も親交をつづけたこと、野上彌生子の葬儀を中心になって仕切ったことなどを、懐かしく思い出しました。

『民主文学』や『文化評論』の「文芸時評」で、折に触れて大江を取り上げできました。そのなかで、印象に残っている大江の発言を紹介します。

➀「本当に国際的な危機の中での日本人というものを内面からはっきり自分として描く作家が出てくれば、僕は世界文学としての日本文学というのがあらわれてくると思うのです。そうでなければ、今のままでは世界文学としての日本文学はないと思います」(『群像』87年10月号)

②井伏鱒二の『黒い雨』について。「ここに記されている惨禍の、強い訴求力に馴れることができない自分を見出すのだ。しかも小説全体を読み終え、日がたつにつれて、そこからあたえられた文学的浄化、癒やしの印象はあらためて色濃くなってゆく」(『新潮』93年9月号)

③三島由紀夫の自死について。「この国にいままで無かった扇動家が現われて、やはりかつてなかったタイプの若者が集結するということになれば、(略)この東京で連日、自爆テロが起る、という時が来るのじゃないか? 鬱屈したフリーターが大都市に集中しているこの国で、なぜそれがこれまで起らなかったか? むしろそれこそが、不思議な国ニッポンで起るべきじゃないかと、ぼくにくっついたおかしなところのある若いやつは、無邪気なような目つきでいうんだ」(「むしろ老人の愚行が聞きたい――『さようなら、私の本よ!』」、『群像』05年1月号)

④柳美里「石に泳ぐ魚」事件について。「発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまでも尊重されなければなりません。それなしでは、言論の自由、出版の自由の人間的な基盤がゆらぐことになりかねません」(「朝日新聞」08年2月)

⑤『沖縄ノート』裁判で。「集団自殺が、軍の命令で強制されたものではなく、自発的に行われる、みずから望んだ『死の清らかさ』のものであった、と歴史に書き込み、これからの日本人をあらためてその方向へ教育しようとする者らの、退屈なほど単純な企てで、この訴訟があったこと、ありつづけること・・・・・・」(「『人間をおとしめる』とはどういうことか――沖縄『集団自殺』裁判に証言して」、『すばる』08年2月号)

⑥中村文則「掏摸(スリ)」について。「これが外国語に訳されればいいと考えた理由は、この『掏摸(スリ)』のような書き方、言葉の選び方、人物の選び方、そしてそれにしっかり合った文体で書かれる小説の形式が、むしろ外国にあるからです。いろいろな作家がその出発点において自分の個性をはっきり示すために書く、『私はこういう作家だ』ということのみを示すために書く小説の形式があります。(略)在る作家が自分の一番話したいことを確実に直接語りかけるように書く。作家にとって、その物語を、あるいは人物をそのように表現すればいい。それで彼の表現は達成されたのであって、彼は作家としての道を確実に歩んでいくことが約束される。われわれ読者は、一人の明確な作家を発見する・・・」(『群像』10年7月号)

⑦3・11について。「これまで書き続けてきたような、相も変わらずの小説は無意味だという気持ちがして来た」(『新潮』12年1月号)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

他支部の「奔流」掲載作品についての感想

            泉   脩

 

松本ひろ「語り部 骨のない骨箱」

 

礼文島でともに漁師の親を持つ息子と娘が、二十歳と十八歳で結ばれた。二人は幼なじみだった。戦争末期で結婚し、夫は一カ月後に召集された。夫の消息がわからないまま、妻は女の子を産み、その後小学校の代用教師になる。戦争が終わっても夫は帰って来なかった。

六十五歳になった妻は、娘と孫に助けられながら、「戦争反対」の語り部となり、小・中学生に自分の体験を語るのである。切ない、胸を打つ作品である。 

第二の人生が始まったばかりの二人の若者を引き裂き、永遠の別れに追い込む戦争の忌まわしさを、しっかりと書いている。

国家権力を握り、政治を間違い、庶民のささやかな幸せを奪い取ったのである。

 

増田竹雄「スケープゴート」

 

釧路市議会の共産党市議団の話。老朽化した市立病院の解体工事をめぐって、与党議員の口利きで、東京の大企業が請け負う。その請負価格の半分近くを札幌の企業が請負い、その一部を地元三社が孫請けする。地元の中小企業は殆ど除外され、冬期に失業状態の労働者たちの不満が高まる。共産党の議員団長が議会で取り上げ、不正があると追求する。特別委員会が開かれたが、市側は言い逃れ、共産党も証言を約束していた業者が圧力で潰される。

結局議員団長がスケープゴート(犠牲)になり、議員辞職勧告を与党多数で決議される。この結果が主人公の幹事長の視点で書かれている。

ピンハネをする大企業、口利きで利益を得る与党議員、地元企業の仲間割れなどが、リアルに書かれている。言い逃れする市当局の姿も醜い。共産党は改選を控えて、一本取られてしまうのである。

作者は国労組合員として奮闘し、議員になった人で、巧みに書いている。

 

 

熊澤 博「鰊(にしん)」

 

トラック運転手の過酷な労働を書いてきた作者が、前回の「ししゃも」以来、漁業について書いている。  

この作品は敗戦直後の鰊が大量に捕れた時代の思い出から始まり、長い不漁期間を経て、最近の復活までを書いている。私にとっては忘れ難い味覚が、懐かしく思い出され、それだけに最近の鰊の豊漁はとても嬉しい。

鰊漁は、かつての日本海沿岸からオホーツク海沿岸に移り、道東でも始まっている。

また昨年は養殖の成功により、石狩湾に群来(くき)が現れた。なんとも嬉しいことである。

作者は生き生きと鰊について書き、北海道の作家としての面目躍如である。読んでいて、思わず口の中に唾が出てくる。また湖沼鰊という話が出てくるが、海と繋がった湖で捕れるということだろうか。 

小型で柔らかい身の鰊というが、味のほうはどうだろうか。あまり美味しくなさそうである。

 

熊澤 博「わかさぎ釣り」

 

孫の中学卒業式に出て、友人と会って雑談をし、式が始まると日の丸・君が代について批判をする。 

批判の内容は賛成だが、この調子が最後まで続く。

作品名にある「わかさぎ釣り」については、「孫が小さい時に連れて行って、自分より多く釣った―」という話だけだった。

氷上でのわかさぎ釣りの経験のない私は、わかさぎ釣りの楽しさが味わえる、と期待した作品だったので肩透かしをされた感じである。

 

 

秋月礼子「ディストレーション」

大学時代のバンド仲間が、中年になってもバンドを続ける話である。おそらくロックであろう演奏の描写が、よく書けている。しかし私にはストーリーがよく解からなかった。ベースの主人公が信奉するギタリストが、突然死んでしまうのが不可解であった。また主人公と海人(かいと)との関係も解らなかった。

作者が不調で、提出期限を過ぎてから一気に書き終えた作品というが、こんなことではいけない。師であり後見人でもあった故西浦妙子さんの期待に応えるためにも、次作で挽回を期待したい。作者には才能があるのだから。

 

 

 

 

まなび座の風景(二)

後藤守彦

   

一昨年の『札幌民主文学通信』で「まなび座の風景」と題して、まなび座は北広島九条の会のもとにある学習組織で、二カ月に一回集まりを持ち、一冊の本をテキストとして交代で声を出して読みながら、自由に議論していると紹介した。そして、近々、若手マルクス経済学者斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書、二〇二〇年)に挑戦し、新しい社会主義像について論じ合いたいと結んだ。

『人新世の「資本論」』については、論旨は明確で共感できるが、カタカナ用語が多くて読みづらかったとの声があがった。気候変動を軸に鋭く現状に切り込んではいるが、社会変革の方途・展望が抜けているとの指摘もあった。斎藤は、二〇二一年一月、NHKのEテレの番組「一〇〇分で名著 カール・マルクス『資本論』」で四回にわたって語り手として登場している。『人新世の「資本論」』の一章を一回で消化したが、二カ月に一回集まるのでは間が空きすぎるとの意見が出て、途中で毎月開催に変更した。その後テキストが変わっても、このペースを継続している。

『人新世の「資本論」』の次にテキストとしたのは、『「日本」ってどんな国?国際比較データで社会が見えてくる』(ちくまプリマー新書、二〇二一年)。著者は、『しんぶん赤旗』の二〇二二年の元旦号で、志位委員長と対談した本田由紀東大教授である。家族、ジェンダー、学校、友だち、経済・仕事、政治・社会運動をテーマに、現在の日本の負の側面をあぶり出している。日本社会には問題点が多すぎ、どうして話し合いの基調は暗いものになった。しかし、嘆いているだけでは駄目だろう。本田の結びの言葉を皆でかみしめた。

 

   自分だけが自由を勝ち取って幸福になることが目的ではない。あらゆる存在が同様の自由を手にするまで、運動は続く。ハマーの言葉(「すべての人が自由にならない限り、だれも自由にはなれない」ー引用者注)はそういう意味です。はい、果てしないですね。果てしないからこそ、難しいからこそ、それに向かって取り組むことに意味があるのです。果てしないから、難しいから、あきらめてしまうことはとても簡単です。だからこそ、あきらめてはならないのです。あきらめたらすべては終わりです。日本も、世界も、そして個々の人間ーあなたも、私も。

 

昨年一二月一七日には、平賀緑『食べものから学ぶ世界史』(岩波ジュニア新書、二〇二一年)の第二章まで、約七〇ページを読み合せた。私は、井上ひさしの言葉「むずかしいことをやさしく、やさしいことを深く」にぴったりあてはまる本だとして同書を推薦した。第一章「農耕の始まりから近代世界システムの形成まで」には、「奪った側の欧州が「先進国」となる一方、富や資源や人材=奴隷を奪われて地元経済社会を破壊された植民地が「後進化」「低開発化」された」との記述がある。私は次のような史実を紹介した。アフリカから強制的に連行された黒人奴隷の中には、大西洋を移送中身投げしたり、食事を拒否して餓死しようとした気高い人たちがいた。これに対して奴隷商人たちが手足を押さえつけ口をこじあけ、イーターeaterと言われるラッパ状の道具を使ってぶどう酒などを流しいれたのであった。日頃衒学的であってはならないと戒めているが、歴史を学んできた者として、知識の共有をはかることは大切なことと思い話したつもりである。市の広報紙にまなび座の案内を載せてもらっているが、書名や著者名の掲載は駄目なので、「テキストを読み合わせ、食べものを通して資本主義を考える」といったぼんやりした内容になっている。それでも、広報紙を見て新たに参加者が増えることを期待している。

『食べものから学ぶ世界史』を三月で終え、四月からは、斎藤幸平の新著を読み合わせすることにしている。その新著とは、今年になって上梓された『ゼロからの「資本論」』(NHK出版新書)で、表紙にはサブタイトルのように「コミュニズムが不可能だなんて誰が言った」と大書されている。

 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年月〇一日 291

 

 

二月例会誌上合評

 

合評作品

札幌民主文学会支部誌

     『奔流』29号

 

「ラヴ・レター Ⅰ」 室崎和佳子

 

意見1       松木 新

青春の熱量にあふれた優れた作品です。

和美と真志の人物像がていねいに描かれていて、魅力ある物語に仕上がっています。この小説の背景である60年代末から70年代初めにかけての揺れ動く学生運動も的確に描かれています。

真志の複雑な人物像にはとくに魅力を感じました。

【恋愛について】

真志は、〈正しいと信じたために、著しく辛い人生を送らなければならないなら、二人でそれに向かってゆこう〉と、和美との愛情を〈二人で〉築き上げていこうといいます。一方、〈海のように優しい、どんな時でも和美を優しく抱いてやれるような、そんな大きなやさしい男になりたいと思うよ〉と、語っています。女性を保護する男性という古い意識から脱却できていない真志が顔を出しています。

【組織的な生き方について】

真志は、〈自分を動かそうとする外的な力に対して、自分の力を集団として組織する過程の中で民主主義は体験されるべきです〉といい、〈今必要なのは、思想と行動の統一ということです〉と自覚しながらも、和美が民青であることを知っていながら、民青に加入する気配はないのです。〈今のところ、彼は組織に入らず自由に活動したいという立場だし、一定の困難はあるのです〉という和美が危惧した状態が二年になっても変化していません。

真志の二重性が、巧みに描かれているところに、この小説の一番の魅力を感じました。

続編で、真志がどのように自己変革を遂げていくのか、今から楽しみです。

蛇足ながら、「ウエスト・サイド・ストーリー」は2021年の映画で、61年の映画は「ウエスト・サイド物語」です。

 

 

意見2         村松祝子

七十四歳になった谷山和美は終活という言葉を頭の隅に置きながら二十一歳から二十五歳までの夫からのラヴ・レターを年代順に括られて寝室の作り付け戸棚の奥にしまってある。若くして逝った真志のあと、和美の人生はこのラヴ・レターを心の芯に抱きしめて生きてきた。と最初の行から八行目の文に真志に対する和美の純真で激しい情熱が感じられる。

ラヴ・レターは主に真志から和美への手紙が前編の大部分を占めている。

後編があるらしく後編ではなぜ真志が若くして死んだのかの疑問が明かされるのだろう。青春の吐露を余すところなく被瀝してその思いに圧倒された。理論交流の手紙にも恋人に対する熱い思いがこれでもかこれでもかと書かれ多少読み手としては疲れを感じた。エネルギシュな和美に刺激され目覚めていく真志の理論についてのラヴ・レターは和美の愛情に答えようとする真志の誠実さがよく現れていると思う。

読み終えて真志の生活費は?仕送りは?どうなっているのだろう?どゆう家庭環境なのだろうか?と思った。学生運動の悩みがあって、それが世の中の人間と繋がっている悩みだと思うのだがその動きが見えてこないので机上論的に感じられた。

ラヴ・レターだから恋の手紙で二人だけの世界が綴られていても当然なのだろう。

だが小説として読んでみて二人の悩みに読者も共感し得る部分もあればと思った。

 

 

 意見3          豊村一矢

 この作品に「意見」を書くにあたって、少々混乱した。なぜか? 

 この小説の構成は、始めに、序文ともいえる文が一〇ページほど、ラブレターの交換ともいえる文が六〇ページほど、最後に、今回の〆のような感じの文8行あり、(続)で終っている。

つまり、小説「ラヴ・レター Ⅰ」の全体が見えないのだ。

 

最初の序文のようなところで、「命の次に大切な宝物。これを心の芯に抱きしめながら生きてきた」、「真志の情熱を感じながら生を全うしたい」とある。

 その宝物は、半世紀近く作り付け戸棚の奥にしまっておいたラヴ・レターの束だ。

今回の作品の中でも命の次に大切なものの片鱗にふれることができた。

 

 

意見4           小崎勢津子

ラヴ・レターを貰ったことのないので、これほどまでに愛されていた作者を羨ましく思いました。

いつもリーダー的存在の和美と、甘えん坊的存在の真志のコンビの初恋から愛に変わっていく様子や、

愛を育み成長しあっていく過程も興味深く描かれており、私にはない世界を知り、いろんな人生を知ることができました。

 全文ページ4211775ページ)に及ぶ長編小説です。

作品の構成は、前半15ページ(4257ページ)は出会いからお互いに愛を成長させ結ばれる迄。

後半の60ページ(57117)は、真志さんから和美さん宛のレター31通と、和美さんの18編の日記となっています。読者にその時の二人の思いが解るように構成したのだと思いますが、和美さんの思いは日記ですので、真志さんには和美さんの思いは伝わらないと思いました。

また、5年間の膨大な資料をほぼ全て載せているように思われ、要点に絞った方がよかったと思いました。

「ラヴ・レター1」となっているので、次回はその後半が小説とするのでしたら、真志さんのレターと、

和美さんから真志さんへのレターとして往復書簡の形にした方が良いと思っています。

膨大な資料から要所に絞ぼるのは大変だと思いますが、読者に伝えたいことを室崎さん流に描写して欲しいと思っています。

 

 

 意見5           泉恵子

この「ラヴ・レター」は、小説という形を取ってはいるが、作中の「和美」は作者自身とどうしても重なってしまい、これを公表することは、息子さんたちならずとも「やるなあ」という感想を持ってしまったのだが、公開する意義を感じてのことと思う。 

率直に作品としてなかなか面白く読ませる内容だった。

詩人でもありスポーツマンでもあり、ロマンチストの「真ちゃん」の魅力たっぷりの手紙で、そのうえ俳優のリチャード・ベイマーそっくりで知性と優しさを兼ね添えた男性だから、男嫌いで通してきた和美もすっかり虜にさせられてしまったのも頷ける。  

真志もまた、ノー原稿で大管法反対の演説をする頭の良い和美の、生きることに真剣な逞しさに惹かれていった。

そんな二人の出会いから、恋人になっての一年間が、真志の手紙を主に濃密に語られる。そこには学問と、恋愛と、大学闘争が絡んで、二人の成長が、というよりどちらかといえば真志の成長とその葛藤がよく表れている。充実した青春の一ページが活写されて、優れた作品と思う。活字にして残しておきたいと判断したのも分かる気がする。

時折のさざ波はあっても、大きな嵐の感じられない幸せいっぱいのところが、難点といえば、難点かも。あまりに幸福な物語は、得てして羨望の的となり、読者の嫉妬心を買うかもしれない。

 

 

 意見6            柏原竜

男女の大学生の恋物語だと思って読み始めたが、熱い青春の鼓動が鳴り続ける話だった。

 大学生として専門の学問の追求と社会や政治に対する学習、そして二人の愛について葛藤しながら前に前に突き進んでいった二人だった。

 1969年新入生歓迎ピクニックにミケランジェロのダビデ像のような姿をした体育科1年谷山真志と「男嫌いの女闘士」として学内中に知られている4年生の真山和美が出会った。寮祭のマラソン大会で再び出会い、話がはずむようになった。和美はマカレンコ全集を愛読し、とてもハンサムで知性と優しさを併せ持っているマカレンコが理想の人間だった。真志は誠実で純粋な青年であり、神経が繊細で心の揺れも大きいいい男なので、女性にももてていた。

 二人の交際がつづいていく中で、学問と活動、そして恋愛をどう発展させるか、悩みながら進んでいった。

 和美は、彼を高める立場ながら彼に惚れすぎて妥協的にならないように、心がけた。

 真志は「体育に非科学的な根性主義はナンセンスだよ。新しい根性の意味は生きがいさ」と言いながらも、「集団主義教育と生活指導はわかったが、どう行動してよいかわからない。自分の内に生来存在している力というものを集団の力に組織するとはどういうことか」など葛藤しながら活動し、学びつづけた。真志は、婚約、結婚とすすむ中で、生き方の問題で不安を感じていた。「一生教師をつづけていきたい。民主教育を。しかし、組織には入らず自由に活動したい」と。

 和美は活動家であったので、教員採用がなかなか決まらず、やっとのことで別海村野付小学校に3月31日着任し、4月1日の入学式で3年生34人の担任になる。

 それから、真志のあついあついレターがつづく。

「正しいと信じたことをしたために、苦しく辛い人生を送らなければならないなら、二人でそれ向かって行こうよ」

 そして真志は体育科をまとめて核になり学生自治会役員に立候補して最高票で当選する。

 

 

 

「初恋」       石川節子

 

意見1         松木 新

この小説を読んでいて気付いたのですが、主人公・節子の資質が、個人の尊厳という感覚に裏打ちされていることです。

〈「愛していると言いそびれてしまった」〉恋を楽しみ、青春を謳歌する節子ですが、教師の石川にたいしては、大庭主事がいうように、〈「あの子は、子どもなんかじゃない。職員をじっくり観察している、『偉井という苗字』のとても、怖いやつだよ」〉であり、人間の尊厳を守る、という一点でいささかも譲歩しません。そのことが、二人の言動を通して素直に語られています。

同時に、若き青年教師・石川についての描写も、ユーモアを交えて、節度を持って批判的に描いていることにも、好感を持つことができました。

この小説の中では、高峰かおる先輩の形象が抜きん出ています。とくに、〈「挽き臼のお墓」の横にしゃがみ込み、髪振り乱して掘り返す姿は、まるで「やまんば」のようでした〉という箇所を読むと、これはもうホラーの世界だと思ってしまいました。

最後の7行は、読者に意外性を与えるという点では効果的ですが、物語の世界からは飛躍があり不要だと思います。

 

    

 意見2          村松祝子

読後感を書くため改めて読み直しました。読み終えて恋にふさわしい美しい文章が随所にみられて少女小説の恋愛物を読んでいるような感じでした。サビタの花の白さが節子の純真な「好きだ」という心を素直に表している場面やそのサビタの花を借金を踏み倒すような男は嫌いだと公言した石川啄木の「一握の砂」の歌集に押し花として挟むなど少女のいじらしさを感じた。

しかしそのいじらしさが四十二年後に身を結び六十三年後のいま、あの純白のサビタの花はセピア色に年月を重ね形崩れせず今も歌集に治まっている。   ‥‥で終わっている。二人の愛情が揺るぎのない本物であったことが読み終えて現実に引き戻されて深く心に残った。

男女の愛について最後に結ばれた感動や経過がサラリとしか描かれていないが、もっと詳しく描かれてあれば初恋の紆余曲折が印象深く心に残ったかと思う。

節子は女性と言う性に対してしつかりとした考えを持っている。ページ一三〇ページの下段の一二行目から「女には心と体の間に『その結果』と言うものが発生するものよ。男と違うわ。‥‥‥どうして解って呉れないの」と主張する。先生と生徒の師弟関係であっても彼女はしっかりと人間として、男と女としての対等な恋愛関係を持って接していることに教えられる。

現代の女性たちが悲しい思いを繰り返される事件が新聞紙上に伝えられると男性の性に対して女性は無知だし弱い立場にあると痛感する。社会はあくまでも男性中心に物事を進めようとする中で偉井節子さんのように自分を大切に扱いたいものである。

「私は羽化するのだ。妙齢な蝶になるのだ」と覚悟を決めて先生の部屋を訪れた時、先生は愛の終わりの手紙を差し出すのだが、ここにこの先生の男性としての誠実さと優しさが表れているなと思った。 

個々人にそれぞれの愛の姿があるもので、ふと己の愛はどうなのかと振り返させられた。

 

 

 意見3           小崎勢津子

人を好きになることは理屈ではないと思いますが、節子さんの初恋は、文学部顧問の石川さん。はじめ憧れの存在、そして一緒にいる事の喜びにそして、スキンシップの喜びと恐怖を感じながらも会いたくなる切なさが良く描かれていると思いました。

愛することについて、石川さんは「愛は捧げる物でしょう。無条件で与える物でしょう」という考えに対して、節子さんは「女には心と体の間に、『その結果』というものが発生するものよ。男とは違うわ。好きだから一緒に居たいだけなのよ。それ以上のことは何もしてくれるな。この気持ちをどうして解ってくれないの」頁130と、自分の考えを貫いたことが素敵でした。女の立場を守ろうとする節子さんの考えに私は共感しました。

 

 

 意見4           室崎和佳子

びっくりしたことが二つ。

一つ目はP121からP 122にかけて描写されている堕胎した胎児を他人に見せて割り箸で突いたり、かき混ぜる場面です。医師はそんなに簡単に掻き出した胎児の遺体を渡すものだろうか? ましてや、このような行為をするかもしれないと思われる年若き不安定な女性に渡すだろうか、と思いながら、なんとも言えない気持ちになりました。

 二つ目は先生と生徒との距離が近いこと。ほとんど距離がない。理想的な教育環境というべきでしょうか。だからこそ、「初恋」が生まれたのでしょう。 

自分の高校時代とは雲泥の差にびっくりし、羨みました。

 

 

意見5           泉 恵子

初恋の人は石川先生だった。釧路は漂白の歌人石川啄木の一時住んだ土地として有名。その妻の名は「節子」という。そんなところから運命的なものを感じている。

主人公、定時制高校生の偉井節子は「エラくん」と、先生方から呼ばれる、ちょっと変わった子だ。職員室の先生方の姿を眺めて、人物評価をする?ませた女の子。新進気鋭の石川先生の虜になるが、石川先生がどこまで真剣に節子を愛していたのか、本気のようでもあり、本当にその人格を尊重していたのかちょっと分からない。「愛は奪うもの」とか「与えるもの」というばかりで、「共に成長する」という観点はなかったようだ。

肉体関係を持てなかった節子を退けてしまう先生は、節子を同等の人格者と見ていたのか、疑問である。

作品としては、最後の四十二年後のことはなかったほうがよかったのでは?

しかしまた、そんな運命的な出会いの後日談にも、興味がそそられる気がした。

 

 

 意見6             柏原竜

読んで、ただ男と女の激しい恋で、驚きびっくりした。

しかし、偉井節子は18歳の女子高生である。対する石川には教師としての自覚があったのだろうか。ただ女を探している男のようにしか見えない。方や偉井は恋に恋するような年頃の娘なのだから、夢中になるのはよくわかる。

 若者がこれからどう生きるのか、何をしたいのか模索するような年頃でもあると思う。だから、恋だけでいっぱいいっぱいになるのはどうなのか。石川が釧路を離れ小樽に転勤したのは賢明な選択かもしれない。

 42年後、60歳になって札幌で再開して結婚するとはドラマチックですね。二人とも本当に愛し合っていたのですね。

 

 

 

ひとり語り 冬子の生涯」豊村一矢

 

意見Ⅰ           松木 新

スタインベックが『エデンの東』のなかで、登場人物のひとりに、次のように語らせています。

〈人は弱く、病み、争う。それは真実だが、それだけではあるまい。もしそれだけなら、人類など、もう何千年も前にこの地上から姿を消していよう。この世に人が存在した証など、顎の化石のかけらと数本の歯として石灰岩の層に残るだけだろう。だが、人は選択できた。勝つことを選択できた〉

この小説でも、〈人は選択できた。勝つことを選択できた〉ことの大切さ加減が描かれていると思いました。

阿波徳島を脱出した父母の「選択」、家業を継がず教師への道に進んだ長男の「選択」、それに倣った次男、四男の「選択」、朝鮮に渡った三男の「選択」、〈「一人でも生きていく意志と教養を持て」〉という父の説教に従って、遠軽高等女学校で学んだ冬子の「選択」。

この小説は、〈勝つことを選択できた〉神野家の人々の、戦前戦後の足跡を、手際よくまとめ上げた作品に仕上がっています。とくに興味があるのは、〈家父長制の家族観・人生観が、根底にあった〉父親が、冬子の婿養子縁組の可能性がなくなり、神野家の家業は父一代で終わることになるにもかかわらず、〈将来結婚するにしろしないにしろ、「一人でも生きていく意志と教養を持て」〉といって、冬子を高等女学校へ進学させたことです。

冬子の婿と目論んでいた青年が召集されたという〈衝撃〉が影響しているとも思いますが、冬子の資質を見抜き、冬子にたいする信頼感が、こうした指示として現れたのだと思いました。冬子が研究者としての道を進んだことが、このことを物語っています。

教師の肩書きを外れると急に孤独感に襲われた冬子ですが、病室をおとずれた五ヶ月くらいの女の子 の笑顔に救われる最後の場面が印象深いです。

〈わたしの人生を見透かしている

 わたしの人生を洗っている

 私の人生を称賛している〉

この三行を読んでいると、『エデンの東』ではないですが、幼子の眼が、神のそれとダブっているような気がしました。

 

 

意見2           村松祝子

読みやすく短い作品の中で冬子の九十四歳で生を終える過程が読むものに心地よく理解された。心地よくと言う言葉の響きがこの作品の根底に流れているようで最後の行の わたくし とっても幸せです。と頭の中で描きながら永遠の眠りにつく姿は読むものにもその幸せが伝わってきた。

戦争という戦禍を受けて独身者として過ごしてきた冬子さんはサバサバとした女性を思わせる。父親の神野兵太郎氏は家長として絶大な権力を振るったかもしれないが父親として六人もの子供たちにそれぞれに学業を身につけさせ、冬子さんに対しても男女の差別なく学業を学ばせた。そこに新進気鋭な神野平太郎氏の匂いを感じてしまう。

将来を見越して教師の道を歩ませ九十四歳まで生きて‥‥わたくし とっても幸せです。‥‥という思いを抱いて逝く姿は亡き親にとっても嬉しいことであろうと思う。

息子娘に頼らず入植したその地で、自分の人生を全うした彼の強い信念にも感動する。

そしてサチコの手に触れながら逝く冬子さんもあっぱれな生き方であった。

 

 

 意見3           小崎勢津子

 私も一人暮らしをしており、予想しない状態で死を迎えなければならないこともあることを考えさせ

られました。幸い、冬子さんは面倒見のいい甥のお陰で、サービス付き高齢者むけ住宅に入居していたことで、病院に運ばれたことは幸いでした。

「わたし、まもなく死にます」という書き出しの言葉が強烈で、最後まで一気に読んでしまいました。

「反応が無くても、意識はあり、聞こえている」ということは、その通りです。

医師が死を予知する言動などはもってのほかです。家族によっては通夜や葬儀の話をする方もいますが、別室に誘導する配慮が必要です。

私の夫は、人工呼吸器装着のまま亡くなりましたが、声掛けや、スキンシップには最後まで反応していました。耳元で声掛けしたり、さすったりすると、装着しているモニターの波形で反応するので、面会の方にはそのことを話して対応してもらいました。最後の時のことは今も鮮明に覚えています。心電図波形が線状となった時、思わず首元に手を当てたところ、大きな呼吸の波型が現れました。それがややしばらく続いたあと波がひくように静かに消えていきました。

冬子さんの生涯の最後、甥の家族に見まもられ、特に赤ちゃんのサチコちゃんの指に触れあえて「わたくしとっても幸せです」の言葉は、本当にそのように思って亡くなられたと思いました。

自分に置き換えて考えると、孤独死して数日後に発見されたとか、それもトイレとか浴室であったらと考えると最悪。また、最近の自宅で殺害されていた事件には震撼とさせられています。

出来る事なら冬子さんのように、傍に誰か手を握って見守ってくれる状態で生涯を終えることができたら…と思いました。

 

 

 意見4            泉  脩

九十代の老婦人が高齢者住宅の自室で倒れ、あと三日の命と宣告された。うつつの中で自分の生涯をふり返る。作者の豊村さんが介護し、見送った叔母さんのことと思われる。フィクションを設定しているが、事実も多く交えているのだろう。叔母さんを介護する「おせっかいな甥」とは、おそらく豊村さんのことだろう。

 明治時代に香川県の農家の三男として生れた祖父が、香川県の農家の婿養子になり、その後、夫婦で逃げ出して北海道の開拓農になる。五男二女が生れた。

戦争で若い男たちが戦死したため、次女は結婚できずに教師になる。そして最後は大学の助教授で終わるのである。この間、長女は農家の嫁になるが、兄たちも教師になり、オホーツク沿岸の開拓地は、気弱な五男が継がざるを得なくなる。

 きょうだいの中で、もっとも長生きをした次女の冬子は、死の床で昔のことを思い出すのである。病床を見舞った甥の娘が、生まれて間もない赤ん坊を冬子に見せる。

無邪気な赤子の手に触れ、冬子が幸せを感じるシーンは胸を打つ。

 この世を去る者と、この世に生れて間もない者との、この上もない対面である。

 私は八十八歳。男は女より平均寿命が十年短いので、もういつ亡くなっても不思議ではない。今の私にできることは、もう一年、もう一年と生きながら、本を作り続けることである。

作者の豊村さんは、私よりかなり若い。このような高齢の叔母を見送る立場の作品が書けることが、とてもうらやましいことである。

 

 

 意見5           室崎和佳子

冬子さんの語りを通して「神野家のファミリー・ヒストリー」をうかがうことができました。

 冬子さんの父である兵太郎さんは長男第一主義ではありますが、冬子さんには「一人でも生きていく意志と教養を持て」と言い聞かせ、自立することの大切さを説きます。長女の夏子さんにはそう言わなかったであろう兵太郎さんが、なぜ冬子には言ったのか。敗戦によって日本の国に民主主義という思想が芽生え始めたことと無関係ではないと思いました。

 また、天兄さんからの「ワレイキテアリ(我、生きて在り)」の電報の文面が、なんとも胸にぐさりときました。これ以上の表現はなかったものと思われます。

 

 

 

 

意見6           泉恵子

はじめの「一わたくし、まもなく死にます」の言葉に既視感があった。漱石の「夢十夜」の第一話に「こんな夢を見た。」のあと「仰向けに寝た女が...... もう死にますといふ。」というくだりを思い出した。

意識不明と言われる状態でも耳は聞こえているという。そんな「わたくし」を語り部として描かれたわたくしの生涯はなかなか興味深く、面白く読んだ。開拓一世の父母の歴史ー土佐の高知から北海道に入植したというーは、(小説とはいえ)地名や、学校名など事実に即しているので、よく調べられていると思った。小説「お登勢」や「石狩平野」を思い起こさせる。

そんな開拓二世の「わたくし」の兄弟達のことなど、それを生涯未婚で、教師として勤め上げた女性の「わたくし」の眼で見つめ、時代の推移のなか家父長制の崩れてゆくさまが如実に示される。

作者は三世の甥と思われ、完全に二世の「わたくし」に乗り移っているが、わたくしの人生の大半を過ごした教師としての日々について、あまり描写がないのはさみしい。だが、最後の病床で新しい命にバトンタッチしてゆく様はとても良い。

甥から見た叔母の歴史は、自身のルーツとしても興味深いものだろう。

翻ってやはり開拓三世の私は、果たしてどこまで、自身のルーツを描くことができるか考えさせられた。

 

 

 

 

 

 

 意見7            柏原竜

「わたくし、まもなく死にます 神野冬子94歳」

 最初の一行で驚かされた。人間は誰でも死ぬ。死ぬ時って、どんな気持ちなのだろう。94歳まで生きてこられたのだから満足かなとも思う。

しかし今は「人生100歳」時代だから、もう少し頑張れたらとも言いたいが。あと3日の命と限定されたら困るよね。

 冬子さんは、一生懸命に人生を送ってきた方なのでしょうね。その中で恋をしたのでしょうか。仕事に喜びや行き詰まりなどあったのでしょうか。何かすごく楽しいことや、人生が嫌になって、欝になりそうなことなどはなかったのかなあなど、勝手に想像してしまいました。

 私も今73歳になり、いままでとは違って、老いとか死とか考えるようになりました。とりわけ、年末に鎖骨を折って、あらためて年を感じ老いを感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      

合評を受けて

    

室崎和佳子

    合評作品  ラヴ・レター Ⅰ

 

私は2月例会に参加できなかったので、どんな合評がされたかわかりません。それで、合評を受けてということでは書けませんので、自作について述べることでご了承ください。

 

 ラヴ・レターを主人公にした小説を書きたい、と思ったのです。

 時は一九六九年。

 大学に入学したばかりの一年生()と四年生()が出会い、愛が芽生える。

 ひとを愛することで人間は変わることができるのか。

 ラヴ・レターは生きる糧となりうるか。

 主人公であるラヴ・レターを通して追求してみようと思いました。

 

 

  豊村一矢

   合評作品  (ひとり語り) 冬子の生涯 

 

 実は、内心、「今回の作品、なかなか出来がいい」と思っていました。

概ね、書きたいことを、書きたいように書けました。ジャンルが小説となっているように実話ではないけれど、人物にしろ、出来事にしろ、モデルやデータが豊富でしたから、作品の展開させるのに、それほど苦労はありませんでした。

 苦心したのは表現方法です。

 例えば、作品では冬子の臨終に甥夫婦と孫娘が立ち会っているようになっていますが、虚構です。病院からの連絡で、朝方、急行しましたが、既になくなっていました。甥夫婦は後見人ですから高齢者住宅に冬子を何度も見舞っています。でも、孫娘を連れていったのは、一度だけです。そのとき、冬子が「わたしが洗われていると…」と感極まったのは事実です。

こんなふうにして表現法を捻ろうとするのは児童文学をやっていた前歴が影響しているのかもしれません。児童文学では、文章自体に子どもが喰いついてくる力がなければ失敗作です。子どもは、お愛想で作品を読んではくれません。

合評でも表現方法に関わる意見を頂き、感謝です。

 これからも精進します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     投稿欄

 

 

 

『世界は五反田から始まった』が面白い

                 松木 新

 

90年前の2月20日、29歳の多喜二が警視庁特高中川、山口、須田に虐殺されました。

多喜二といえば「党生活者」、「党生活者」の舞台が五反田の藤倉工業――というわけで、昨年の大佛次郎賞を受賞した星野博美『世界は五反田から始まった』(ゲンロン 2022年7月)を読んで見ました。とても面白く、参考になりました。

「党生活者」は藤倉工業の五反田工場が舞台ですが、百合子の「乳房」も五反田にあった荏原(えばら)無産者託児所が舞台で、子どもたちの親の職場は藤倉工業だというのです。「藤倉」の「倉」と「藤」を多喜二と百合子が分けあい、「党生活者」では「倉田工業」、「乳房」では「藤田工業」という仮名になったとう指摘は新たな発見でした。

著者は、多喜二が一時期、五反田に住んでいたのではないかと推察します。「党生活者」の中に、多喜二が移り住んだ住居の描写があります。

〈たゞ困ったことは、この辺りの家は『巴里の屋根の下』のように立て込んでいるので、窓を少しでも開くと、周囲の五六軒の家の人たちやその二階などを間借りしている人たちに顔を見られる危険性があった)

著者は、文中の「巴里の屋根の下」を手がかりに、その場所が〈NTT東日本関東病院の正面に位置する、現在は東五反田四丁目、旧名「下大崎」の集落である〉と特定しています。

多喜二が藤倉工業で働いていたという記述もありますが、具体的な根拠が明らかにされていないので、何とも言えません。

「乳房」について、著者が次のように述べていることに、ある種の感動を覚えました。

〈二年足らずしか活動できず、地元住民の記憶にもまったく残っていない荏原無産者託児所に、永遠の命を吹きこんだのが宮本百合子の『乳房』である〉

荏原無産者託児所は、共産党員が中心となって設立した大崎無産者診療所内に開設された託児所です。大崎無産者診療所は寄付金で運営されていました。当時、維持会員として募金に応じた各界人士には、長谷川如是閑、大宅壮一、丸岡秀子、平林たい子、三好十郎、秋田雨雀、柳田国男、川崎なつ、柳瀬正夢、山本有三、河上肇、神近市子、宮本百合子などがいました。

ちなみに、虐殺された多喜二の遺体を検査した安田徳太郎医師は、この診療所を設立するための準備委員の一人でした。

多喜二「党生活者」、百合子「乳房」、安田徳太郎医師が一本の赤い糸で結ばれていると考えると、著者が次のように言明していることには、無条件に賛成できます。

〈もし日本に革命が起きていたら、五反田は聖地の一つとなっていただろう。五反田に、革命記念博物館の一つや二つは建っていたはずだ〉

なお、「女性たちの葛藤」をテーマにした論考で、著者が「党生活者」と「乳房」を比較して、次のように述べていることには、検討の余地があると思いました。

〈二つの小説は創作であるが、タミノが笠原のような立場に置かれたとしてもおかしくはない。『党生活者』と『乳房』は、コインの面と裏のような存在なのである。プロレタリアートの解放という崇高な理念の陰で、犠牲とされた女性たちがいたことは覚えておきたいものだ〉

該当する「党生活者」は次の箇所です。

〈私は最後の手段をとることにきめた。その日帰ってきて、私は勇気を出し、笠原にカフェーの女給になったらどうかと云った。(略)

「あなたは偉い人だから、私のような馬鹿が犠牲になるのは当たり前だ!」〉

「乳房」は次の箇所です。

〈タミノは、おそらく臼井に何か云われて、彼女には職場での活動よりもっと積極的なねうちを持っているように考えられる或る役割を引き受ける気になっているのではないだろうか。ひろ子としては、若い女の活動家が多くの場合便宜的に引き込まれる家政婦や秘書という役職については久しい前からいろいろと疑問を抱いているのであった。(略)

「あっちじゃ、女の同志をハウスキーパーだの秘書だのという名目で同棲させて、性的交渉まで持ったりするようなのはよくないとされているらしいわね。――何かで読んだんだけれど」

ひろ子たちの仲間で「あっち」というときは、いつもソヴェト同盟という意味なのであった

著者が、この対比から、〈コインの面と裏のような存在なのである〉と理解するのは、ある意味、やむを得ない面があります。「党生活者」の〈私〉が多喜二であり、女性にたいする〈私〉の態度を、多喜二は肯定していたという「私小説的」読みが、長い間あったからです。著者の「党生活者」理解も、この影響を受けているようです。

今日では、このような「私小説的」読みが誤りであり、「党生活者」で多喜二が問いかけたのは、〈人間の尊厳を回復しようとするとき、闘う方の人間性はどうなるか〉(ノーマ・フィールド)であったといわれています。

前編だけで終わった「党生活者」の後編が書かれたならば、多喜二は、〈私〉の女性観を手厳しく批判し、個人の尊厳を中核にすえた革命運動のあるべき女性観を提出した可能性があるのです。

「党生活者」で描かれている〈私〉の女性観は、「乳房」で描かれているひろ子の女性観と同質であり、〈コインの表と裏〉の関係ではないのです。

参考までに、「党生活者」を論じたノーマさんの意見を紹介します。

〈否定すべからざる悪――侵略戦争と労働搾取――に立ち向かい、人間の尊厳を回復しようとするとき、闘う方の人間性はどうなるか、という問いを投げかけたかったのではないだろうか。(略)

宮本百合子が小説の空間でハウスキーパーについて疑問を表現できたように、多喜二も組織向けの報告や方針書、書評でさえも書けなかった、小説空間のみが可能とした試みは、生命をかけた運動についての根本的な問いかけだったろう。そこには当面の闘いだけでなく、党の未来、平和(・・)が勝ち取られたときの党のあり方も延長線上にあったのではないだろうか。(略)

「乳房」や(略)「党生活者」の例だけからもわかるはずだが、政治的任務を極めて意識していた書き手の場合でも、フィクションの空間はさまざまな模索を可能にする独自性がある〉(ノーマ・フィールド「女性、軍需産業、そして《私》――「党生活者」はなにを訴えてきたのだろう」(『日本近代文学と戦争 「十五年戦争」期の文学を通じて』)

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学会支部誌『奔流』29号

畠山益枝「十五歳からの駆け足」を読んで

               泉   脩

       

養護教師としての奮闘

 

自伝とあるので、すべて実話なのだろう。

中学三年の時、母親に「将来なにになる?」と聞かれ、作者は答えに詰まった。すると母親に、「女も職業を持たなくては。ナースがいいよ」と言われた。 

そこで作者は中学卒業後に看護学校を受けたが不合格になり、資格のないまま病院に勤めた。昼は忙しい雑用をやり、夜は二年制の看護学校に通った。 

やがてナースの資格を取ったが、次は病院に勤めながら定時制高校通い、さらに教育大学函館分校の一年制の養護教員コースに通った。

こうして遂に養護教員になった。まず中学校に勤め、小学校・高校と職場が移り、小・中・高校のすべてを体験した。普通ではあり得ないことで、しかも全校十数人の小学校から千人以上の中・高校と規模は様々だった。大荒れの中学や新人いじめの教頭など、ひどく苦しめられた。

この間、同僚の教員と結婚し、子供も生まれた。しかし双方の親の介護やアル中で苦労をし、遂には夫に先立たれてしまった。教職の最後はぐったりとしてしまった。

このような苛酷な養護教師生活を、まさに駆け足で書いている。更に著者は、主婦としての苦労も加わり、大変な苦闘をしたのである。私も定時制二年間と私立高校三十五年を体験したが、どちらも大変だった。私は労働組合のリーダーとして、長く苦闘した。

そして私たち二人は、退職後に文学活動で再出発し、共に民主主義文学会に加入している。作者は私よりずっと若いのだから、まだまだがんばって、よい作品を書いて欲しい。

なお、思いがけないことがあった。四年位前、私は畠山さんから手紙をもらい、その中に「泉さんの本に書かれている山本國光さんを知っている―」とあった。私は視力が低いので、山本さんにあらゆる本を音読してもらってきた。ボランティア・アルバイトである。山本さんはかつて函館で小学校の教師をしていたので、どこかで畠山さんと会っていたらしい。畠山さんによると、おそらく教育関係の集まりの時のことで、山本さんはとても元気な先生だったという。山本さんに聞いてみると、記憶がなく不思議がっていた。こうして私も含めて三人の元教師が繋がったのである。三人とも、生徒第一の考え方で、熱心な教師だった。いつか畠山さんが来札した時に、三人で会おうと思う。きっとよい話し合いになるだろう。

私の本が結んだ新しい人間関係であり、本の力はすごいものである。それにしても、小・中・高校すべてにおいて教育をした教師など、畠山さんの他にいるだろうか。

まったくすごい話である。

 

 

 

 耳聡い少年が聴いた「日本の植民地」の話

                 豊村一矢

 

 私は1942年生まれだから、第二次世界大戦が終結したときは、まだ3歳。日本の植民地とその成り行きに関心を抱くようになるには、まだ、5年くらい必要だった。それは大人同士のお喋りを耳を欹てる悪癖があってのことだが、それにしても、小学校に入学するかしないかの子どもが、戦前の植民地に関心を持つのは珍しいことに違いない。

それには理由があった。

 私には、同年齢または一歳違いのいとこ(従兄弟)が4人いた。私の父は赤紙がきて関東軍に配属されたが、もう一人、同年齢のいとこで父親が関東軍に配属された子がいた。

私の父は終戦間近に南方への転属を命じられ、異動中、台湾の高雄で終戦を迎える。一方、もう一人の同年齢の従兄弟の父親(私の義理の伯父)は関東州に残り、結果、ソ連軍の捕虜となってシベリアに送られ、還ってこなかった。

 戦後、親戚が母方の実家に集まってワイワイガヤガヤやっていて、私たち従兄弟も無邪気に遊んでいる……。そんなとき、私は子どもながら、ふと背中に強い視線を感じて、思わず振り返った。

視線の主は、シベリアから還らなかった義理の伯父の妻だった。視線は悲しさ、怒り、嫉妬……の入り交じった異様なものだった。伯母はすぐに視線を翻したが、私はこの経験が、戦争とか植民地とかに敏感になった原点だと思っている。

 

第二次世界大戦時の日本の植民地について、植民地となった順に基本的なことを整理してみる。

台湾・(下関条約)1895年(明治二八年)から

日本帝国の外地~領土

樺太・(ポーツマス条約)北緯50度以南)

1905年(明治三八年) 

日本帝国の内地、領土

関東州・(ポーツマス条約および日本の軍事侵略)、(南)満州鉄道付属地、その他。

1905年(明治三八年)

朝鮮・(日韓併合条約)1910年(明治四三年)

    日本帝国の外地~領土

  ・第二次世界大戦無条件降伏により北緯38度線以北・ソ連。以南・アメリカが占領。

在朝日本人、日本へ苦難の引き揚げ。

・1948年、北緯38度線以北、金日成首相(朝鮮民主主義人民共和国)、以南、李承晩大統領(大韓民国)

・朝鮮戦争1950年、休戦1953年    約300万人が犠牲

南洋諸島・(ヴェルサイユ条約)1919年(大正八年) 国際連盟の「ドイツの全植民地没収政策」により日本帝国の統治・留置に。

 

このように順番に並べてみると、帝国主義の最終段階となった二〇世紀初頭の世界の様子がわかる。

下関条約は日清戦争の講和条約だし、ポーツマス条約は日露戦争の講和条約だ。つまり、どれも帝国主義による戦利品の分け前を決める相談をしているのだ。

詳しく見ると、中国、ロシア、日本、アメリカなどの間での取引や駆け引き、腹の探り合い、打算や思惑が渦巻いている。その中に日本の取り分として「日本の朝鮮における権益を承認する」というのがある。韓国の意思など一顧だにされていない。

この段階で「日韓併合」が約束されていたということである。

 

 さて、本題の「、耳聡い少年が聴いた『植民地と日本』の話」だが…。

「台湾」については父と母の会話から、「樺太」については祖父が近所の者に聞かせている自慢話から、「関東州」については、義理の伯父の妻の嘆き話から、「南洋諸島」については一〇歳の頃に鴻之舞(こうのまい)の映画館で視た米軍撮影の白黒映画から、子どもなりに、それぞれの植民地のイメージをもった。

 ➀台湾 父は台湾の高雄で終戦、無事、我が家に戻ってきた。父が母に、「台湾は良いところだ。台湾で住めるようになったら移住したい」と話しているのを何度も聞いた。私が定年退職して数年後、妻と台湾旅行をした。台湾市民と直に触れられる旅行プランを選択した。高雄を一望できる丘にも立った。台湾には日本の植民地だったころの名残があちこちに残っていた。台湾市民の視線に敵意や反感はなく、友好的に見えた。「ここに移住したい」とまでは思わなかったが、父の話や思いが納得できる旅になった。

 ➁樺太 樺太は、祖父の話に耳を立てて聴いてイメージを得た。祖父は田舎暮らしだったが、後に村会議員になるくらいの地域の名士だった。祖父の自慢話に、『石狩川』などを書いた本庄陸男という有名人と縁があるというのがある。縁といっても本庄陸男の妹が村の教習場での教え子だったというだけのことだが…。その自慢話に、陸男が東京に出る前、ひと稼ぎするため樺太に渡った、というのがある。 

それで、「樺太は簡単に行けるし稼げるところ」というイメージを持ったわけだ。

 ➂広東州 広東州については、先に書いた義理に伯父の妻の話に尽きるが、その後、満蒙開拓農民の悲劇やら、シベリア抑留やら、イメージは最悪である。

 ➃朝鮮 朝鮮については、伯父の思い出話を聞いてイメージを持った。この伯父は朝鮮語ができ、朝鮮で学校の教師を務めたということだ。「朝鮮の子どもはよく勉強するぞ。お前も頑張れ」と何度か言われたのを覚えている。伯父に、朝鮮が日本の植民地という認識があったかは分らない。

 ⑤南洋諸島 南洋諸島とは、サイパン島やテニアン島、硫黄島などのことだ。

 これも一〇歳ころの話だが、私は鴻之舞(北海道紋別市にあった金鉱山で栄えた町。現在は人口、なんと、0人)の映画館で、母と一緒に米軍撮影の無声白黒映画を観た。その中味は…。

遠くにサイパン島の垂直に切り立った崖が映し出される。その崖の上の方の隙間から、もんぺ姿の日本人の女性が現れ、まったく躊躇うこともなく、そのまま足から飛び降り、落下していった。一人ではない。次々と、もんぺ姿の女性が現れ、急かされるように落ちていく。米軍に追われてのことだろう。それを無情にもこちらの米軍の撮影カメラは回り続ける。カメラと飛び込んでいる崖との距離は数百メール程度に見えたが……如何ほどか、無声映画なので解説はない。私は震えながら横の母にしがみついていた気がする。

 もう一つ。テニアン島。太平洋戦争敗戦日、8月15日の一ヶ月程前に、激しい戦闘の末、米軍が支配する島になった。米軍は突貫工事で飛行場をつくる。その飛行場から飛び立ったB29が広島、長崎に原子爆弾を投下したのを最近知った。

 

 

 

北の国から来た猫 最終章

後藤守彦

       

 ついにその日が来てしまった。二月八日午前八時、我が飼い猫ミーコが逝った。ミーコは一八年と六カ月生きた。人間に換算すれば、九〇歳で死を迎えたことになる。昨年一二月の定期健診で腎臓の数値が大幅に悪化し、体重もかなり減っていることを知らされた。腎機能が低下し亡くなるのは猫の宿命であることは承知していたものの、家族の不安は高まった。年が明けてから、特に二月になってからは加速度的に弱まっていった。それでも、最後までトイレに自分で行こうとし、オムツを使うこともなかった。添い寝していたら、断続的に大きく息を吐き、最後は口を大きく開け「あー」と二度叫んで息を引き取った。飼い主に負担をかけない、見事な最後。あまり苦しまなかったのが救いである。同居している娘も出勤前で看取ることができよかったと思う。その日は一日中、ショパンに倣って私も亡くなった時は流してほしいと願っている、モーツァルトの『レクエム』を繰り返し聴きながら、冥福を祈った。

翌九日午前、雪が激しく降る中、郊外にある民間のペットの葬祭場に向かって、凍結路面をゆっくり車で三〇分ほど走った。助手席では、毛布にくるまれたミーコを妻がやさしく抱いている。荼毘に付す直前に係員から「最後に声をかけてください」と促され、嗚咽をこらえながら咄嗟に口にした言葉は「ありがとう」だった。ミーコから何と沢山の幸せをもらったことか。

 

 掌の愛しき骨箱雪しまく

 

妻の句である。「愛し」の読みは「はし」、意味は「いとしい」で、「しまく」の意味は「激しく吹きまくる」である。

 昨年一一月二六日の『北海道新聞』の夕刊に「最高齢の英ネコ、ギネスに」との見出しが付いた三段記事が載った。

 

英ギネスワールドレコーズ社は、南部ケント州オーピントンで暮らし、来月二七歳になる猫を、「存命する世界最高齢の猫」として認定したと発表した。人間の一二〇歳に匹敵し、視力が弱く耳が聞こえないものの、健康状態は良いという。

 

 こう書き始めている記事では、猫の名はフロッシー、初めは野良猫だった、史上最高齢の猫は三八歳と三日、などの事実が紹介されている。ミーコも野良猫だったが、フロッシーには及ばなかったものの大往生だろう。

 次はご近所の話題。元の持ち主の家を解体し、若夫婦が家を新築し、わが家の向かいに住むようになった。一昨年、男の子が生まれた後、そう日が経たないうちに猫を飼い始めたようである。ミーコと同じキジトラと思ったが、アメショーであった。メスで名はマリ。わが家の台所から、居間の窓辺にいるマリの姿を時々見ることがある。殆ど寝ているのだが。

 いつもののごとく、猫にまつわる本の話に移ろう。『北海道新聞』二〇二三年一月二四日号に、八三歳のイラストレーター黒田征太郎が反戦、反核の思いを込めた絵本『旅のネコと神社のクスノキ』(スイッチ・パブリッシング、二〇二二年)を上梓したことを紹介する記事が載った。帯封には「広島にある被爆建物の記憶を伝える忘れてはいけない物語」とある。建物とはこのほど保存が決まった陸軍被服支廠のことである。原爆投下の前後に、一匹の猫と、神社のクスノキが対話する姿を絵本は描く。アメリカの爆撃機二機が爆弾を投下している絵に添えられた短文、「この国のヘータイさんがうったたまやおとしたばくだんがぜんぶ一つになって返ってきた」に重なる言葉を、池澤夏樹が解説で書いている。「アメリカがしたことは極悪非道だった。相対化するつもりはないが、日本の陸軍も極悪非道だった。無辜の市民を大量に虐殺した」。

猫好きの、日本の作家については、すでに取り上げている。当然ながら、世界各地にも同様の作家がいる。それを紹介したのが、アリソン・ナスタシの『文豪の猫』(株式会社エクスナレッジ、二〇一八年)である。著者は序文で、「猫に惹かれる傾向は、クリエイティブな人たち、たとえば、思慮深く、孤独とされる作家たちにもっとも色濃く現れるようだ」と述べ、「猫好きは本好きである」というのは定説だ、と断言している。この本では、四五人の作家が登場する。本を開くと、右側のページには愛猫と一緒に撮った写真が、左側のページには、愛猫とのエピソードやネコついてのコメントが載っている。例えば、無類の猫好きであったアーネスト・ヘミングウェイは、「猫はいつだって自分の感情に正直だ。人間はなにかと気持ちを隠そうとするが、猫はそんなことはしない」との言葉を、そしてマーク・トウェインは「猫を愛する人となら、わたしは友人として、同士として付き合える。堅苦しい紹介などいらない」との言葉を遺している。

 作家の後藤明生について、昨年評論「後藤明生と朝鮮」(『奔流』二九号)で論じたが、彼の作品を研究する過程で発見したのが、『めぐり逢い』(集英社、一九七六年)である。猫嫌いの主人公が作家だから本人だろう、ペット禁止となっている団地の集合住宅で、家族の懇請に応じて猫を飼い始める。「わたしにはふしぎだったのである。妻や子供たちが、何故、自分の猫をそれ程までに飼いたがるのか。単に猫一般を愛するのではなく、自分の飼猫として可愛がらずにはいられない気持が、不思議だった」。そうした主人公の猫に対する気持ちも少しずつ変化していく。漱石の『吾輩は猫である』が伏線となっており、猫をめぐって団地に住む住民が描かれている。後藤には他にも猫について書いた作品がある。

西川清史『にゃんこ四字熟語辞典』(飛鳥新社、二〇二二年)は、九八の四字熟語を取り上げた写真集ともいえる。私が選ぶベストスリーは、結局ミーコと同じキジトラが登場する写真となる。「機略縦横」、意味は「策略を自在にめぐらせること」、金魚鉢に右前足を突っ込んで金魚を捕まえようとしている猫。「相思相愛」、意味は「お互いに慕い、愛し合うこと」、口づけしているように、目をつぶり抱き合っている二匹の子猫。「創意工夫」、意味は「思案して良い方法を見出すこと」、蛇口から流れ落ちている水を飲んでいる猫。ミーコは、水の出ていない蛇口に口をつけ、吸い込んでいた。

孫に読ませたいと考えて、妻が斉藤洋『ルドルフとノラねこブッチー』(講談社、二〇二〇年)を買った。小学中級からと推奨されている児童書である。猫が登場する児童文学作品にまで手を伸ばしたら収拾がつかなくなるが、読んでしまったので一言。講談社児童文学新人賞を受賞した第一作『ルドルフとイッパイアッテ』から始まるシリーズの五作目である。飼い猫であった黒猫ルドルフは、今半分野良のような毎日を送っているのだが、何と読み書きができ、この作品はルドルフが書いたことになっている。ルドルフが、読み書きを教えてくれたトラ猫イッパイアッテから学んだことの一つ。

 

思いついたことや、見たり聞いたりしたことを、よく考えずにしゃべりまくるのは、あまり教養のある者のすることではない。すぐに話さなくちゃならないことならともかく、そうでないなら、よく考えて、話すときを見はらかって話すのが、教養のあるねこのすることだ。

 

 シリーズ「北の国から来た猫」はこれで終わるが、在庫もまだまだあるのでこれからも猫関連の話を綴っていきたいと思う。

 

 

札幌民主文学通信

二〇二三年〇一月〇一日 290

一月例会誌上合評

合評作品

札幌民主文学会支部誌

『奔流』第29号

 

 

1 松木 新 評論「『新潟平野』を読む」  

 

 意見1           北野あかり

冒頭に、「新潟平野」は2021年7月4日、84才で逝去された、なかむらみのる氏の遺作で、新潟県阿賀野市を舞台に、憲法擁護を基軸にした「市民と野党の共闘」が、輝かしい明日を準備するための保証であると、確信をもって闘っている人々の姿を描いていると紹介されています。

私は、閣議決定で法を決定し、戦争準備に邁進していく現政権を許すことは出来ないと怒り心頭で、法的に罰する術は無いのか悶々としています。それに対しては「市民と野党の共闘を大きくするしかないと思う」との考えも伺いました。そんな時にこの

作品を読み「新潟平野」を読んでみたくなりました。

しかし、入手できないので文中で紹介されている「地芝の米つき」(民主文学2019年2月号)を読んでみました。この作品の中に勤労者医療協会設立に取り組んだ場面が印象的で、今できることは何かを教えてくれました。その中に「社員をふやそう」という中山あきら氏の詩が紹介されており紹介します。

社員をふやそう(1961年正月に書かれた詩)“わたしは どこへゆくの?”“降ってきたね”“雪になるろかね”

“あんたは 山先方面だ”“おれと一しょに 草水へゆく人は?”

夕方 6時になると 社員事務局は ほっかほかになる 暮れの大運動月間だ3つの目標 社員拡大5百人 出資を増やす1千万円 社員債は 2億4千万円看護婦の私が なぜ金集めにいくの 銀行につとめたわけじゃないのにさ 検査技師の俺が なぜ夜農家を廻るのさ 農業技術者じゃあんまいし ぶつくた ぶつくた よういうたもんだ。社員幹事はどうなんのさ 病院から一文ももらわないのにさ 一日中汽車ぽっぽうごかして くたびれた足で 下越病院だ。おらあ 病気みてもらいにゆくんじゃねんだぞ 病院建てる金集めにゆくんだ。 

なんしろ おらあたちの病院だからな おやじの癌のときも 死ぬまでめんどうみてもらったしさ。 

せがれの喘息のときも みそかだっていうのに ちゃんとみてくれたしよ。 

おらあの病院は おらたちで作らねばなあ。 

おいそこの看護婦さん おれと一しょに北上まわるかね。 

終わったあとで 七面鳥でもくうか。

 

 意見2          泉  脩

一昨年に亡くなった、なかむらみのる(ペンネーム)の遺作『新潟平野』の評論。

私は前作『信濃川』を読んで大きな感銘を受け、評論を書いてなかむらさんに喜んでもらったことがある。

長い議員生活の中で、一万回に近い生活相談を受けて大きな支持を得た、共産党員を主人公にした長篇小説である。作者自身も郵便局員として登場しているが、この『新潟平野』では、この郵便局員が主人公とのこと。日本の伝統的な私小説の形を取っているのだ。かつて宮本百合子がそうだった。しかし社会に目を向けず、個人の日常生活だけ書いた私小説と違って、宮本百合子となかむらさんは、正面から政治・社会を掘り下げ続けているのである。

 なかむらさんは私への手紙の中で、健康の衰えを苦にしていたが、ともかく作品を完成していたことを知ることができて、とてもうれしい。長篇三部作の完成であり、生涯たたかい抜き、最後は阿賀野市の「九条を守る会」の事務局長として大きな成果を上げていただけに、とてもうれしい。

私はなかむらさんと長い間、著書を交換し、文通を続け、北海道と新潟のたたかいを報告し、喜び合ってきた。「新潟平野」もぜひ読みたいと思う。

 

 意見3           豊村一矢

 私が、初めて支部誌編集の担当になり、『奔流』が出来上がったとき、例会で、「作品の並びで、評論を最初にもってきたのは、なぜですか? 『民主文学』誌でも評論は最後の方になっている」と訊かれた。

 また、『北海道民主文学』の編集で「私の作品がなぜ、こんなに後の方なのですか?」と訊かれたこともある。

 最初の質問については、きちんと応えなかったと記憶している。

 二つ目の質問には、すぐ「あなたの作品を〆(しめ)にさせてもらいました」と応えた。

実のところ、「評論」を最初に持ってきたことについては、堂々と述べるほどの考えはなかったのだが、「評論」は、それ自体作品だが、支部が目指す文学方向性や方法論を提案したり問いかけたりするものが内包されている、あるいは、内包されているべきという思いがあった。それが評論を最初に持ってきた理由だった。

 しかし、「そんなの、順番と何の関係がある!」と一蹴されるのがはっきりしているので、最初の質問には聞こえなかったふりをしたのだったと思う。

 「『新潟平野』を読む」は、私が期待した文芸評論だった。流石です。

 

 意見4          室崎和佳子

生前、完成稿を編集部に渡していたため、「新潟平野」はなかむらみのるさんの没後も連載誌に掲載され続けたということを知り、彼の誠実さに心を打たれました。

何年か前の『民主文学』に載っていた連載エッセイを毎回楽しみに読ませてもらっていたので、彼の来し方や人間性について少々知ってはいましたが、改めて真の優しさに触れた気がします。

彼が生きていたら松木さんの指摘に何と答えただろうと思いながら評論を読みすすめました。

 

 

意見5         村松祝子

二〇二一年七月四日に八四歳で逝去したなかむらみのるの、遺作「新潟平野」について彼の共産党員としてまた作家としてどう生きてきたかを論評している。

郵便局員として出発したかなかむらみのるは凄まじいアカ攻撃を受けて立つ信念の中に「自分は憲法によって守られている」と言う筋を通して生きてきた。

俳人石田からの木下正己の手紙は読む者の心を動かされる。大の共産党嫌いの義弟が年金問題で修造に相談するようになりながら遺影の写真は「海軍兵学校」の写真を飾るように頼む姿は、人間としての強欲の一面が感じられたが作者なかむらみのるならどう言う人間に描くのかまたは作り上げていくだろうかと彼の生の時間がもっと与えられていたならばと考えてしまった。

修造が尊敬する従兄弟の昭次と自分は似た者同士であり、その気質を育て上げたのは村上五万石の三百年に及ぶ歴史の中であり、その中で育て上げられた職人衆の団結心と誇りであり、「真面目さ」なのだと結論付けている。

大江健三郎は古井由吉対との対談の中で、漱石の「こころ」でいわれている《真面目さ》について「人間が社会に対してどう対するか、社会をどう作り変えようと思うか、そこで何が一番大切なことかと考えて、漱石は『真面目力』だとしたのではないか。…‥‥と語っている。その言葉通りに修造と昭次は生を終えた。   

改めて今のこの時代に生きる個々人にとっての「真面目さ」とは何かを考える足がかりを突き付けられた評論でもあった。

合評を受けて        松木 新

 私小説的技法と私小説について議論しましたので、整理しておきます。

私小説的技法は、作者と主人公の距離がきわめて近い関係にある小説の技法をいいます。その場合、小説の中で、「私」という言葉が使われているか、そうでないかは無関係です。

いわゆる私小説といわれているものは、私小説的技法にもとづいて、作者の身辺雑記を詳細に描いた小説のことをいいます。

私小説的技法と私小説とは区別して考えることが大切です。

私小説に、日本文学独自の美を感じ、心酔している人たちが多いことも事実です。しかし、私小説の特徴は、作品世界に社会的な広がりが見受けられないことです。人間はどう生きるのかを社会との関係で問いかけることが希薄なのです。

これに対して、たとえば宮本百合子の『道標』のように、主人公の伸子は作者ときわめて近い関係にあり、私小説的技法のもとづいて執筆されていますが、作品世界は、私小説とは異なっています。雄大な世界がそこにはあり、歴史と人間との関係、人間の条件とは何かを問いかけています。

私小説的技法のもとづいて創作することは大賛成ですが、くれぐれも身辺雑記に陥らないように、お互いに注意したいものです。

今度の評論の最初のところで、ひとつの疑問を提出しました。

〈今読んでいる「新潟平野」の末尾に、〈「新潟平野」――憲法を守る活動を続けてきた人びとの姿を描こうとする――に挑もう〉と書かれている文章を目にすると、これまで読んできた物語は何だったのかと、奇妙な感覚に陥ってしまう。しかも書かれている小説の内容は、まちがいなく〈憲法を守る活動を続けてきた人びとの姿〉であり、作者がこれから書こうとしている「新潟平野」そのものである。これをどう考えたらよいのか〉

この疑問について、青木陽子さんが次の感想を寄せてくれたので納得しました。

〈私の考えでは(何か、なかむらさんの気持ちがとてもよく分かる気がするのですが)、ずっと自分のような人間の来し方を書いてきて、最後に(一区切りついた時、という意味です)、現実のその時の自分は、これを小説に書こうと思う訳です。そこのところまで、つまり小説にしようと思うところまでが「自分、あるいは自分をモデルにした主人公」なのだと思います〉

作家の在り様が分かったような気がしました。

 

 

 

2 後藤守彦 評論「後藤明生と朝鮮」  

 

意見1             松木 新

後藤明生についての評価については納得のいくものでした。

〈後藤にも加害者意識がある。が、それを強調してはいないし、加害性の意味について掘り下げようとはしない〉

②〈後藤は、「小説を書くことは読むことからはじまる」・・・との小説観に立ち、小説の中で批評を展開する。つまり、批評を重視する作家であり、優れた評論も書いている〉

③〈作品の中での現在と過去との交錯に加えて、読むことと書くことの交錯が後藤の特長といえる〉

④〈底深く沈んでいた過去が浮かび上がってくる。後藤はそれをあえて整理したり真偽を確認したりせず書き込んでいく。前述した孤島の「小説を書くことは読むことからはじまる」との小説観に立てば、植民地朝鮮の歴史に関わる文献に依拠して深めていくことは可能だと思うが、そうはしていない〉

⑤〈現在の位置から抜け出そうとしないスタンスに物足りなさを感じてしまう。自身の植民地朝鮮時代の過去については記憶の掘りおこしの過程に力点をおき、自身の外にある事柄については史実の掘り下げに傾注する姿勢と思われる。それはどうしてなのだろうか。小説の方法の問題なのだろうか〉

この⑤が結論のようですが、後藤の一番の問題点は、で述べられている〈加害性の意味について掘り下げようとはしない〉ことにあるのではないでしょうか。〈植民地朝鮮時代の過去〉が、後藤にとっては、〈自身の外にある事柄〉になってはいなかったか、後藤にとっての朝鮮時代が母親の記憶の中に存在するという特殊性が、内向の世代の特徴である〈「自我と個人的状況のなかにだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしている」〉ことに繋がっているような気がします。

 

意見2             北野あかり

私にとって朝鮮は、近くて遠い存在で、朝鮮侵略や「悪魔の飽食」の731部隊の人体実験など、断片的に認識している程度です。紹介されている作品を読んだことはないのですが、この評論を書くのに膨大な作品や資料を読み込んで執筆されたことが解り、そのエネルギーに只々脱帽するしかありませんでした。

私は、紹介されている作品は読んだことがないので、どのような内容なのかを把握することにし、小見出しごとに内容を整理してみました。

1 はじめに

作者は、これまで「小林多喜二と朝鮮」「幸徳秋水と朝鮮」「小林勝と朝鮮」「中野重治と朝鮮問題」など、作家・思想家の朝鮮認識を追ってきたとが述べられており、今回、植民地朝鮮で生まれた後藤明生にとって朝鮮は何であったのかを考えたいとして「後藤明生と朝鮮」作品を書くことにしたという意図が解りました。

できれば、作者が何故これほどまでに朝鮮に拘り、関心を持っているのかも知りたかったです。

2 小林勝との距離

後藤明生は、小林勝の朝鮮認識について、「自己批判している」「朝鮮コンプレックス」と批判しています。

3 歩兵中尉と母の子

後藤明生は、朝鮮生まれで敗戦まで植民地朝鮮で暮らし戦後引揚げてくる。引揚げの途中で父は朝鮮で死亡し、固く凍った土を掘って父を埋葬。母は7人の子供を連れて福岡に引揚げてきた。

朝鮮についての作品として「無名中尉の息子」「一通の長い母親の手紙、引揚げ小説3部作がある。内容は、植民地体験と引揚げ体験を描いており、作品の作り方が、現在と過去が往還する構造となっていると述べています。

4 内向の世代

文学史上の位置について、小田切英雄から「自我と個人的状況の中にだけ自己の作品の真実の手ごたえを求めようとしている脱イデオロギーの内向的な文学的世代」と云われている。 

作者は、後藤の小説観について「小説を書くことは読む事からはじまる」と考えており、小説の中で作品批評を展開している。批評を重視する作家であると述べています。

5 引揚げ小説三部作

1,「夢かたり」((12の短編から、虹、高崎行、鼻、)について紹介されている。

作者は、この作品について「現在の位置から抜け出そうとしないスタンスに物足りなさを感じる。

自身の植民地朝鮮時代の過去については、史実の掘り起しの過程に力点をおき、自身の外にある事柄

については史実の掘り下げに傾注する姿勢とおもわれる」と述べています。

2,「行き帰り」

3,「嘘のような日常」

作者は「引揚げ時の若い母と年老いた母が、過去と現在が混在して書かれている」と述べています。

引揚げだけでなく植民地朝鮮時代も書かれているとして「スケーブゴート」(私の散文論、小説原理の総括と語る作品集:短編が7点収録)があると紹介。

これらを通して作者は、「後藤明生は、植民地朝鮮は核心ではないと云っているが、私は「植民地人である」との表現もあり、植民地朝鮮の記憶を描いた作品が多い。終生こだわっていたといえようと述べて

います。

 

 意見3             泉 脩

この評論はとてもむずかしい。私は後藤明生の名前を初めて聞いたので、もちろん作品を読んだことがない。自分の不勉強を思い知らされる。

 この評論によると、後藤明生は日本の敗戦時に家族と共に朝鮮にいたが、まだ子供だったので、当時の思い出も反省も取り立ててないとのことである。  

しかし日本に帰り、成長するにつれて朝鮮について考え、作品を書くようになったらしい。だから内容は深刻なものではないようだ。ただ帰国の途中で、元兵士の父が亡くなったことがショックだった。

この評論をきっかけに、いわば帰国作家の作品も、今後読んでみたいと思う。朝鮮問題は、今も未解決であり、特に南北分断の根本的原因は日本が作ったのだ。

 朝鮮戦争・北朝鮮の無軌道・日本政府の無反省・日本国民の民族差別意識。どれもこれも未解決の大問題ばかりである。

 

 意見4          豊村一矢

 筆者は、「作家・思想家の朝鮮認識」のテーマを追い続けている。その執念に感服した。そして、変わらぬ「朝鮮愛」も感じた。

 本作品は、「作家・後藤明生の朝鮮認識」という主題での評論である。後藤明生の作品や引き揚げ体験は勿論、関連する作家や思想家の作品、発言、行動を綿密に検討し、論を進めて行く姿勢に脱帽する。

不満を書けば、評論には、文芸評論、政治評論、音楽評論、美術評論、教育評論、スポーツ評論などいろいろあるが、この「後藤明生と朝鮮」は、文学会の文芸誌での作品なので文芸評論と思っているが、作品の中で後藤明生に向けられる視線、判断基準は政治評論のもののように読めた。

 高崎宗司の「植民者の植民地時代の振り返りでの、三つのタイプ」の中の、「自らの行動を立派」とするタイプ、「懐かしい」とするタイプ、についても知りたいと思った。加害認識の大小だけで評価するのは乱暴でないだろうか。

 

 意見5           室崎和佳子

いつものことながら、後藤さんの守備範囲の広さ、見識の深さ、朝鮮への愛に圧倒されながら読ませていただきました。

 正直言って後藤明生と言う方を知りませんでしたが、この評論を読んだことでおぼろげながら彼のアウトラインはつかめたような気がしています。

 日本人の多くは〝踏み込んだ”生活をしていないように思います。

 〝踏み込む”という行為は、これからの人生を左右する大変なことで、我が心身の強い決意が求められるからです。

 そのことは作家であればなおさらで、踏み込めない、踏み込みたくない、しかし書かずにはおられない、そんな精神状況にあるならば、P16上段後ろから5行目の「相変わらず踏み込んではいない。」という後藤さんの指摘がよくわかるのです。

 

 意見6           村松祝子

朝鮮で生まれ十一歳まで日本の植民地朝鮮で生活してきた後藤明生。その生い立ちから作家としての彼の作品を通して朝鮮に対する思いを読み取ろうと論評している。

しかし彼の作品はどれも曖昧で深く突っ込んで日本の植民地政策を描くわけでもなく、その代わり「植民地の日常を繊細かつ生き生きと描いている点ではほかの追従を許さない」と朴祐河は評価しているという。

この文面から後藤明生は終生、朝鮮を愛していたのではないかと想像された。‥‥植民地政治の当然の報いとしての、罪と罰だったのであると彼は言っている。戦後の朝鮮からの辛い逃避行も、当然受け入れられる罰だったのだろうか。行きつ戻りつつ綴る作品の中に、補聴器をつけていない現実の母の顔の中に、行き先の定まらない貨物列車に坐っている母の顔とダブル描写は、彼の思想の中に原罪のように常に朝鮮の思いを意識していると思えた。

私自身ヨーロッパやアメリカには観光旅行で一時的に通り過ぎてその国の空気を吸ってくるが、お隣の韓国には一度も行ってないのはなぜなのだろうか。この評論を読み終えて改めて韓国と北朝鮮を見つめ直している。

 

合評を受けて          後藤 守彦                                            

出席者が少なかったのですが、対面で論じて頂きました。ありがとうございます。「難しかった」「よく分からなかった」との声が何人かからあがりました。これは私の掘り下げの不足を反映していると思います。朝鮮問題への作者の曖昧な姿勢に影響されたのか、私の追究も曖昧でした。作家で評論も手がけている北村薫が「評論とは、他者の作品によって自己を語ることだ」といっています。

その意味では、私の今回の評論は、自分を十分に語りえていないということになるでしょう。理解し表現することの難しさも改めて感じました。もう少し、このテーマで考えていきたいと思います。

 

 

 

                                                             

3 松村祝子  小説「ある雨の日」

 意見1            泉 脩 

札幌のはずれに住む老夫婦の日々を書いた、しみじみとした作品。子供たちが巣立ったあと、夫婦はいたわり合って生きている。

憲法を守るたたかいとして、妻のヨシエが駅前でビラを配っていた時、右手の親指に痛みを感じた。夫、明の勧めで大きな病院に行く。

帰りに雨が降り出し、傘を忘れたのでタクシーをつかまえようとするが、うまくいかない。バスに乗ろうと、停留所で雨に濡れながら待っていると、自転車の男子高校生が傘をくれた。  

ヨシエは励まされ、その傘を差して家まで歩いて帰る。

ビラ配りの時に笑顔でビラをもらいに来た女子高校生。そして傘をくれた男子高校生。こういった若者の心温まる振る舞いが、日本の行く末を案じて行動する老人に、強い力を与えるのである。同時にこの作品を読む者にも、力を与えるのだ。

 

 意見2         北野あかり

主人公が同年に近く共感して読みました。

高齢になるといつ怪我や病気になるか解らない、更に医療費はいくらなのかという不安を抱えながら日々暮らしています。

そんな時期に迎えた第26回参議院選挙、その選挙行動に参加する思いが、自らの保険料や医療費など切実な要求と結びついていることが、自然態で無理がない。

選挙活動中起きた突然のアクシデント、指の障害、突然の雨の様子の描き方が、映像として見えてきます。また、若者に焦点を当て、落としたビラを拾っていく女子高生、雨の中さりげなく傘を差しだす男子高生がさわやかに描かれており、若者を見る作者の目が優しい。そんな若者が社会変革の一員になって欲しいという思いも伝わってきました。

身近に起きた出来事を題材に、社会変革と結び付けた小説としたことが素晴らしいと思いました。

私も10月から医療費が2割に引き上げられました。幸い2割になる寸前の、9月26日一泊入院で白内障手術を受けることができたので、ホット胸を撫でおろしたこともあり猶更身近に感じました。…と、そこで終わっている私…。これではいけないことだと気付かされた作品でした。            

 

意見3            豊村一矢

面白く印象に残る作品です。

病院から雨に濡れながら帰る場面が延々とつづき、しつこいくらいで、結果、臨場感があります。

だから、端正な若者から「使って下さい」と傘をつきだされ、ヨシエが驚く場面が生きています。

ヨシエは、今の政治を変えたいと願っているし、そのために活動もしていて、やがて、傘をくれた若者がヨシエの考えや行動を理解し支持する人だと確信するようになっていく展開は小気味いいくらい楽天的で楽しく読めました。読後感がいいです。

問題点 

 主人公「ヨシエ」は、後で「義江」になっています。これは、あまりにも不注意だと思います。

 

 

 

 

意見4            松木 新

若者に期待する心情がよく描かれています。

〈「ビラ一枚ください!」と言った小太りの女子高生〉、〈あのう~この傘使ってください!〉と言った〈十五、六歳くらいの端正な顔立ちの若者〉。

二つのエピソードが、親指の付け根の痛みによる病院通いというヨシエの行動で、無理なくつなげている手法には感心しました。

最後の場面。傘を駄目にした〈強風〉は、「新しい戦

前」を準備している勢力の象徴、ヨシエが〈その傘を捨てきれ〉ないと言うのは、若者たちへの期待を捨てきれないという決意として、読むことができました。

 

意見5            泉 恵子

読後感の爽やかないい小説だと思いました。

傘を持たずに出てきてしまった病院の帰り道、雨に降りこめられているところを、高校生風の若者が使ってくださいと、傘を差しだしてくれた感動を、未来の若者の姿と重ねて描いている。

日常の一見些細な、と思われる出来事だが、高齢の主人公ヨシエにとってはとても大きな感動だった。そこを掬い取っているのがいい。

政治が庶民にとって少しでも良くなるように運動をしているヨシエは、こんないい加減な政治の社会の中でも、こうした若者が育っていることに歓喜し、希望に満たされる。

前半で夫の明が「これからの若者は大変だなぁ」と言っている言葉に呼応して、後半で、「日本の若者の将来はあの明るさで乗り越えてほしい」と願望する。

「ビラください」といって受け取ってくれた小太りの女子高校生もいい。その姿がもっと描かれていればという声もあった。(「小太り」ではなく「ふくよかな」等の表現の方がと思ったが)

だが、最後の場面で強風に煽られて傘の受け棒があっさり反り返ってしまうのは、現実はそう甘くはないことを暗示しているかのよう。

高校生風の若者は選挙に「絶対行く!」とヨシエは希望的願望を抱くが、そして壊れた傘の前で「選挙に行ったかどうか」と問いかけているが、黙っていたら行かないかも知れない。しかし、きちんと働きかけさえすれば、きっと行く若者だろう。そんな働きかけが求められていることをも示唆している、と読むのは深読みか?

 

意見6            室崎和佳子

「ヨシエ」と「義江」が文中で混在しているが、どちらなのかなと思いながら読みました。

 傘を忘れて濡れているヨシエ (とりあえずこちらにします)に、どうぞ使ってくださいと傘を差し出す青年。

 若者のその行為がたまらなく嬉しかったヨシエだが、果たしてあの青年は選挙に行くだろうか。いや、きっと行く、あの青年ならば、と期待するヨシエ。

 壊れてしまった傘を捨てきれないヨシエの姿を通して、他人から優しい心をもらうことが、どんなに人間を人間らしく蘇らせるものなのか。

 宇野千代さんが言っていました。

 私は一生涯死ぬまで恋をするでしょう。私の胸にじっと秘めたる炎が燃え続ける限り。

 若かった私はその言葉を聞いて、(なぁるほど。じっと秘めてりゃ誰をも傷つけることはないものね)などとわかった風を装っていたように思います。お恥ずかしい限り。

 

意見7            柏原竜

読んですぐに、こういう若者はいるよねと思った。やさしくて礼儀正しく明るい。今の子供たちってこんな感じがする。

 義江は、駅で「憲法改悪反対」「参議院選挙投票呼びかけ」のチラシまきをしていて親指の付け根を痛めてしまったが、数日我慢していた。しかし痛みが取れず病院に行った、その帰り道に雨に降られてしまった。バス停でずぶ濡れになって佇んでいたら、15、6歳の端正な顔立ちの若者が義江の目に飛び込んできた。

「あのう この傘使ってください」と自転車を止めてさしている傘を差しだした。申し訳ないと思う義江と押し問答があったが、「家が近いから」と、いって一本の傘を渡して走り去って行った。もしかしたら、若者の家はすぐそこではなく、ちょっと遠いかもしれないなあ。いい子だなあ。こんな子は世の中にたくさんいるのだろう。

 マスコミなどで取り上げられている若者たちの暗いニュスとどう結びつくのだろう。若者たちは、心の中では、いろいろと葛藤して周りに見せないのかもしれない。心配で不安である。社会の荒波にもまれて磨り減り疲弊して心がいびつにならないように祈ってしまう。

もしかしたら、この若者には優しいおばあちゃんがいるのではないかなどと、想像してしまった。

 義江さんの指が心配です。ちょっとしたことで怪我をして長引くのですから。私も暮れに1人でテレビを見ながらビールを飲み居眠りして椅子から落ちて鎖骨を折りました。今装具をして不自由な生活をしています。これから、注意して生きていくようにとの自分への戒めだと思っています。

 

合評を受けて      村松祝子

この作品について色々と皆さんからご意見を頂きありがとうございます。誤字の間違いや文脈構成などよく点検や熟考もせず提出した結果、即、見破られて当たり前のことだと反省し恐縮しております。

最近は小説を作る、書くと言うことがどう言うことなのかと疑問に思っています。そんな中で日常生活の中で出っくわした小さな出来事を、なんとか書く、紙面の枚数を多くしたいとの下心を持って書いてしまいました。

男子高校生との出会いは現実のことですが女子高校生は架空の人物です。この男子高校生と女子高校生との対比をもっと生かして書いたら違った世界になったかもしれないと指摘され、すごく衝撃を受けました。

小説を作るというか書くと言うことはこう言うことなのかとちょこっと感じるものがありました。この作品の世界が小さいと指摘もされ、私自身が感じていた部分でもあり、不満足にも感じていました。そこをズバリ指摘されて真摯に読んでくださっていることに感謝です。そしてまたおろそかには書けないなと胆に銘じています。そのほか多々意見をいただき感謝です。

 

 

   投稿欄

 

訂正とお詫び     豊村一矢

前号(289号)「投稿欄」で、後藤守彦さんの「時代・歴史小説あれこれ」を掲載しまたが、後半の半分近くが欠落しておりました。これは後藤さんからのデータ原稿を正しく「通信」誌上に転記できなかった「通信」担当(豊村)のミスです。

以下、全文を再掲載します。

                

 

時代・歴史小説あれこれ

後藤守彦

 

先ず昨年一一月中旬の三日間にあったことから。一一日金曜日夜、BSプレミアムのドラマ『赤ひげ四』全八回の二回目を見た。小石川養生所の所長新出去定を船越英一郎、青年医師の保本登を中村蒼が演じている。人気があるのか、パート二からは、山本周五郎の原作の『赤ひげ診療譚』にない話が展開されているのに、また放送がスタートしたのである。十二月末に、最終回を迎えたが、赤ひげの妻が登場したのには驚いた。

翌一二日土曜日午後、「三浦綾子生誕一〇〇年記念読書講演会」が開かれる北広島団地内の福音キリスト教会に出かけた。講師は、森下辰衛で、福岡の大学で教えていたが、退職して家族とともに旭川に移住し、二〇〇六年に三浦綾子記念文学館の特別研究員となった。一九二六年の十勝岳大噴火を背景とする『続 泥流地帯』を中心に語り、三浦文学のテーマは罪と苦難だと強調していた。会場で配られた三浦綾子記念文学館館報『みほんりん』第四九号では、『細川ガラシャ夫人』を再読した田中綾館長が、ロシアのウクライナ侵略に思いを寄せて、一節を引用している。

 

玉子は深いおどろきを感じた。(ここでは、人が人を殺すことがない)ここには戦さがなかった。人々は人を殺すことを学ぶ必要がなかった。戦どころか、物盗りもなかった。彼らは畠を耕し、機を織り、物を煮、木を切ることを知っていればよかった。

 

私も再読したが、結びの言葉「顧みて自分の信仰の貧しさを思いつつペンを擱く」に現れた、三浦綾子の自分を低くする姿勢に胸が熱くなった。三浦綾子は歴史小説をもう一作書いている。それが、江戸時代後期の、知多半島の熱田港を出帆した千石船の遭難事故を描いた『海嶺』である。

翌々日の一三日日曜日の朝、『北海道新聞』の朝刊を覗いたら、山本周五郎がいた。「風 論説委員室から」というコラムで、作家の山口瞳が年二回、サントリーの新聞広告に、三〇〇字のエッセーを寄せていたことが紹介されていた。一九八一年の四月一日、入社式を迎えるこの日には、スェーデンの劇作家ストリンドベリの言葉を山口は引用している。

 

「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」山口さんが私淑していた作家の山本周五郎さんが、人生の指針として警句でもあった。山本さんの代表作である「青べか物語」にも、主人公のつぶやきとして登場する。

 

最後の「この世は巡礼である」を、自分に言い聞かせるように、私は何度も口にしたり、日記に記したことがある。このストリンドベリの言葉に通じる文章を、最近、昭和三部作を仕上げた松井今朝子の、シリーズ第一作『壺中の回廊』(集英社、二〇一三年)で見出した。

 

人間はすぐに年を取って、誰しもいつかはこの世から姿を消す。それゆえ束の間の人生を、昨日よりも今日、今日よりも明日が幸せだと信じて過ごしたいのではないか。そうだ、そうして人間は現実のほうを徐々に変えてきたのだ。昨日よりも今日、明日が今日よりもっと幸せになるよう願って。

 

松井今朝子は、一九九七年、『仲蔵狂乱』(講談社、一九九七年)で時代小説大賞、二〇〇七年、『吉原手引草』(幻冬舎、二〇〇七年)で直木賞を受賞している。松竹で歌舞伎の企画・制作、フリーになってからは歌舞伎の演出・脚色を手がけた経験を生かして、歌舞伎や演劇を舞台にした作品を多く書いている。前掲『壺中の回廊』に続けて、『芙蓉の干城』(集英社、二〇一八年)、『愚者の階梯』(集英社、二〇二二年)を上梓し、昭和三部作を完成させた。一作目は、浜口首相が狙撃された昭和五(一九三〇)年、二作目は、日本が国際連盟を脱退した昭和八(一九三三)年、最終作は、傀儡国家満州国の皇帝の溥儀が来日した昭和一〇)年と、ファシズムが進行する時代が背景となっている。殺人事件は歌舞伎の殿堂で起こる。事件の解決に尽力するのが、江戸歌舞伎狂言作者の末裔で大学講師の桜木治郎。作者の、軍国主義と戦争に抗う批判精神が作品ににじみ出ている。『愚者の階梯』には、憲法学者の美濃部達吉が攻撃された天皇機関説問題にかかわる、桜木治郎の思いが綴られている。

 

真っ当な知識人が影をひそめ、偏狭な日本バカが大きな顔をしだしたこの国は、今後ますます世界で孤立し、いずれは舵が壊れた小舟のように底なしの渦潮に突っ込んで行くのではないか。

 

残念ながら、現在の日本でも「偏狭な日本バカ」をあちこちで見ることができる。そして、事件の鍵をにぎる映画スターの宇津木典英は沈鬱な響きの声で戦争というのは常にあっけなく始まるんだよ。始まったら最後だれも止められない。始める連中は、あとのことなど何も考えちゃおらんのさ」と語る。

NHKラジオ第一の土日の七時台には、エッセーコーナがあり、時々仲代達矢の声を聴く。昨年一〇月末にも、九〇歳の仲代が、興奮気味に思いを吐露していた。「仲代達矢役者七十周年記念ロングラン公演」と銘打って、石川県七尾市にある能登演劇堂で九月四日から一〇月一〇日まで、無名塾で指導した若手とともに『いのちぼうにふろう物語』の舞台に立っていたのである。原作は、山本周五郎の短編小説『深川安楽亭』。四方が堀に囲まれた、小さな島にある、おやじの幾造が仕切る膳飯屋安楽亭は、抜け荷、密貿易の拠点で、無頼な若者のたまり場だった。彼らが、そこに怪我をして担ぎ込まれた、見知らぬ若いお店者のために、命懸けで行動する。無償の奉仕、利他の行い、これが作品のテーマといえよう。一九七一年、『いのち・ぼうにふろう』のタイトルで映画化された。仲代は無頼な若者の一人である定七役として出演した。安楽亭のおやじ幾造役だった、前進座の中村翫衛門の演技が印象に残っている。仲代は『いのちぼうにふろう物語』では、幾造役を演じた。

山本周五郎と双璧をなすのは藤沢周平だろう。二〇一二年に、開館間もない、藤沢の生地山形県鶴岡市にある文学館を妻と訪ねている。「作家・藤沢周平の軌跡」のコーナーには、には感じ入るものがあった。作家になっても会社員時代と同じ規則正しい生活を送り、「家族との普通の暮らしを大切にしながら、人の世の物語をつむぎだした」との説明文の後に、長女遠藤展子の文章が紹介されている。父から「人を外見や持ち物(財産)などで判断することは間違っている」「本当に偉い人は自分で威張らなくても周りが認めてくれる」ことを教えられたと(「父が教えてくれたこと」『父・藤沢周平との暮らし』新潮社、二〇〇七年)

藤沢作品を支持できる理由として歴史学者の田中優子は、登場人物が「大志を抱かない」ことと「いつも何かに後悔している」ことをあげ、それぞれが「後悔しながらも自分の思うように生きていく」と述べている(「自分を優先させずに「自身」を生きる」『藤沢周平に学ぶ』東海大学出版会、二〇〇六年)。私が最も愛し、繰り返し読んでいる『蝉しぐれ』の主人公の文四郎も悔いる人である。『蝉しぐれ』と同様、常に自分が今置かれている場所・位置から出発する、その出発を繰り返していく、そうした人間を描いているのが、『三屋清左衛門残日録』である。中風で倒れた旧友平八が歩行の習練を始めた姿を清左衛門が目撃し思いをめぐらす下りは、多くの人が引用するのだが、私は毎日散歩中に暗唱している。

 

衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽して生き抜かねばならぬ。

 

 

 

「故郷の歴史を通して平和的な市民運動で歴史を

伝える木村玲子さん」

後藤守彦訳

 

《木村玲子さんに依頼され、韓国東義大学東アジア研究所編『東アジア研究叢書第八巻 在日コリアン社会の形成と時代的表象』(博文社、二〇二二年)所収の論文「水銀鉱山イトムカと五六号ダムを記憶し、犠牲者の慰霊碑を建てようとする市民たち」の第二章を翻訳しました。論文の執筆者は李修京東京学芸大学教授です》

当時イトムカで育った子どもたちは、水銀廃液処理用のダム(通称「五六号ダム」)と呼ばれる場所で、きれいな水と思い込んで水泳を楽しんだこともあった。元山(もともと水銀鉱山があったところ)から離れた、森深くに「水神」と刻まれた石碑があるが、この後ろ側に五六号ダムがあった。こうした話は、イトムカで生まれ育った人たちが地図から消えた、自分たちの故郷について思い起こした記憶を編んだ、木村玲子の『イトムカからのメッセージ』(二〇一六年)で確認することができる。

 『イトムカからのメッセージ』で言及した内容は次の通りである。

 

このダムは戦時中、強制労働によって駆り立てられた、多くの朝鮮人や中国人によって造られたといわれている。その詳細について洋子はよく分からないが、この場所でも何人かが命を落としたと聞いている。(中略)そんな子供の頃に、密かに語られていた、この地で働かされ命を落とした朝鮮人や、中国人のこと。ふとした時に大人が漏らしたひと言ー「あのダムにはね、朝鮮人の死体が埋まっているのよ」とか、「道端のあの大きな石の下にも埋められているかも」などという囁きが、この地にある隠された歴史の暗部を、幼い胸に沈殿させていったのだった。

 

 木村さんとインタビューした時に聞いたことによれば、石の下やダムの底に朝鮮人の死体が埋まっているという噂が流れていたが、大人たちは子どもたちの前でそうした話をするのを避けていたそうだ。

 一方、この本の著者の木村玲子さんは、後述する「慰霊碑を建てる会」(二〇二〇年八月一五日現在会員五〇名)を結成し、全ての犠牲者のための慰霊碑を建て、彼らの霊を慰め

強制連行された労働者の記憶を記録し、戦時暴力がない平和な社会を希求することにより、自分が生まれた故郷の暗い歴史を市民の意志で変えていこうと考えている。こうした活動の動機について、二〇二一年九月二〇日に聞いた話を整理し、その一部を紹介する。筆者はイトムカ水銀鉱山の広場の周辺を巡って見た後に、札幌市在住の木村さんが慰霊碑を建立する活動をしていることを知り、会ってみたいと思い、約束をとりつけた。イトムカだけでなく、北海道の各地の現場で同じようなことが沢山あったことを、彼女の話から確認したいという思いもあった。約束した当日、近くの大学で資料を探した後、急ぎ約束した場所に向かった。彼女とは初めて会ったのだが、東京の外務省の外交資料館で『華人労務者就労顛末報告書』などの資料を通してイトムカの労務者たちの動員について確認し、直接生存者たちに会い、自分の故郷の暗い歴史と向き合ってきた強い意志をうかがうことができた。その間、韓国との歴史問題で韓国に行くのが難しくなっていた二〇一四年には、済州島を訪問し、四・三事件に関連する地域を訪れたことなどを、終始一貫、落ち着いた雰囲気で淡々と語った木村さんとの長時間のインタビューは、本当に有意義だった。ここでは、イトムカ関連の内容だけを概括して紹介することにする。

 

インタビューの対象 

「慰霊碑を建てる会」木村玲子代表

  インタビューの日時 

二〇二一年九月二〇日(月)一五時三〇分~二一時 場所 札幌パークホテル

 

   私は戦争が終わった一九四六年三月一二日に、イトムカ鉱山元山から八キロ離れた大町で生れました。一四歳までイトムカで育ち、その後高校の国語教師として勤務し、日本民主主義文学会の会員になりました。二〇〇八年に発行されたイトムカ水銀鉱山閉山四〇周年記念文集である『思い出のイトムカ』の編集委員として本を編んだ時、故郷でともに過ごした人たちの中に、朝鮮人労働者の生活の場面を記憶している人たちがいることを知りました。イトムカには中国人より先に朝鮮人が来ていたのです。徴用された日本人の学生が鉱山で働いていた時、朝鮮人も一緒に働いていました。鉱山の所長には人間的な人もいましたが、朝鮮人の生活は惨めなものでした。朝鮮人の子どもたちはおらず、危険な仕事が朝鮮人に命じられました。水銀を採掘し選鉱まで運搬するケーブルのようなものが八キロメートル続き、ケーブルの鉄柱に付いた車輪に油を注ぐ仕事は朝鮮人に命じられましたが、転落して死亡した時に「アイゴー!」と叫んだ声が聞こえたそうです。

   『思い出のイトムカ』には載っていませんが、そのころ斎藤茂吉のお兄さんがイトムカ診療所に勤務し、女学校の生徒たちが看護師見習いとして働き、朝鮮人労働者たちの世話をしていました。過酷な労働に耐えられなかった朝鮮人労働者の中には留辺蘂方面に逃亡しようとした人もいましたが、そこには検問所がありました。雪の降る厳寒期に大雪山の方向に逃亡し、凍傷で手足が腐り切断しなければならなかった人もいました。

   水銀鉱山で採掘された水銀は精錬場に運ばれ、そこで出た廃液が五六号ダムに流されましたが、水面は澄んでいるものの、水底には水銀が沈殿していました。後に環境問題で、五六号ダムは埋められましたが、しばらくの間、そのあたりでは草も生えませんでした。大雪山の麓には、良木が多く森林鉄道が敷設されていました。 

  〈三葉の写真ーキャプション「左右は慰霊建立関連資料、真中は「慰霊碑を建てる会」の代表木村玲子さん」〉

   私は退職したころ、西本願寺札幌別院で開催された、朝鮮人・中国人強制連行労働者の犠牲者を考える北海道フォーラムに行きました。そして「華人労務者移入方針」という歴史的悪法によって動員された中国人たちが、一九四四年三月三一日に留辺蘂駅に到着して初めて、働くところがイトムカであることを知ったのです。拉致に似た暴力的な過程で亡くなった人もかなりいました。この話を聞き、故郷であるイトムカに関心を持つようになりました。

   二〇一〇年『しんぶん赤旗』に愛知大府飛行場の犠牲者についての連載記事が掲載されていることを知人から教えられたのですが、その中にイトムカでの労働への言及があることを知って、中国人の生存者を招待した追悼式が開かれる名古屋に向かいました。式後の懇談会で私がイトムカ出身であると挨拶すると、その生存者はすぐに「イトムカ?寒かった・・・・・」と言い、その後生存者の唐燦さんとの交流と証言をもとに当時の様々な様子を知ることができました。唐燦さんの娘さんを北海道にお招きしたり、私が中国に行きお話を聞いたりしました。そして何とかして彼らの苦しみの歴史を知らせ、犠牲になった方たちの霊を慰霊し、戦争のない平和を願って、慰霊碑をイトムカの近くに建てることが道理にかなっていると考え、会を発足させました。幸いにも色々な人たちが趣旨に賛同してくれ、一緒に調査作業や追悼式を企画し、講演会や会報の発行などで広く人びとに知らせています。可能であれば、イトムカの近くの墓地に慰霊碑を建立したいと思います。これについては、自治体との関係もあり、慰霊碑に書き込む言葉も建立場所がどこかにもより内容が違ってきますし、慰霊碑を制作する方の高齢化もあり、今私たちの会のメンバーとともに急ぎ検討中です。

 

 

松本ひろ「驚愕の大地」

狂牛病とのたたかい

泉  脩

 一九八五年、イギリスで一頭の牛がよろけて立ち上がれなくなった。いわゆる狂牛病、牛海綿状脳症(BSE)の発生である。この牛の伝染病は瞬く間に世界中に拡がった。

BSE感染牛を原料とした、骨肉粉の飼料が原因だった。日本では二〇〇一年に千葉県で一頭目が発生した。北海道から買い入れた仔牛からの成牛だった。同じ年に二頭目が北海道の宗谷猿払村で発生した。

 帯広畜産大学の判定が、宗谷の家畜保健所に伝えられると、大騒ぎになった。農協や共済組合共々、対策に追われた。八十頭あまりの牛を飼う酪農家、笹野元(はじめ)の牛だった。

 家畜保健所の中心メンバー三人が笹野宅を訪問し、笹野元・美津子夫妻と舅の国男と話し合っている時に、マスコミが殺到した。

結局笹野家は、患畜となるおそれがある家畜として、六十頭あまりを手放すしかなかった。この牛は殺処分となるのだ。笹野夫妻は牛を出す前に、一頭一頭にブラシをかけ、きれいにして涙ながらに見送った。

 笹野元は二代目で、敗戦後国男が家族と共に猿払村に入植し、農業から酪農に転換し、元を婿養子に迎えたのである。今では幼い二人の子供も生れ、家族で協力して困難な酪農を続けてきたのである。残された二十頭の牛をもとに、再出発することを国男は望んだ。

しかし、ストレスから健康を害した美津子が反対し、元も同調した。

二〇〇二年一月中旬、笹野元・美津子は、離農して家を出て行くことになった。家畜保健所の役員が見送りに来て、日本政府の無責任ぶりを改めて呪った。発生後、早くにECが日本に骨肉粉の輸入を止めるよう勧告していたのに、日本政府はこれに従わず、結局二〇〇九年に全国で三十六頭目が発生するまで、続けてしまったのである。誰も責任を取ら

ず、何の補償も行われなかった。

 この作品は、たいへんな力作である。家畜の伝染病の恐ろしさをくっきりと表現し、風評被害による牛製品の価格暴落の様子も書いている。何よりも身を削って困難な酪農に打ち込んできた家族が離散する悲しみを、まざまざと書いている。読んでいて涙が滲んでくる思いだった。

BSEを発症した全国三十六頭中、二十六頭が北海道産とあって、北海道はまさに驚愕の大地になったのである。他の国々が次々と、飼料に混ぜる骨肉粉の輸入を止めたのに、日本政府は、国会内での輸入禁止の意見を無視して、決定を先延ばしにしてしまった。そして全国の酪農家に大きな打撃を与えてしまったのである。

昨年の大晦日に、私はたまたまNHKのテレビ番組で、山田洋次監督の「続・遥かなる山の呼び声」のドラマを観ることができた。かつての高倉健と倍賞千恵子主演の名作の続きである。五年振りに網走刑務所を出た主人公が、出所を待つ母と子の元に戻る話である。

すでに亡くなった高倉健と、高齢になった倍賞千恵子に代わって、新しいそっくりな若い二人が出演していてびっくりした。物語は、かつての映画では辞めたはずの酪農が続いていて、必死に女主人公が一人で六十頭あまりの牛を飼い、息子は音楽の道に進んでいる。道東の中標津が舞台であり、私にはとても懐かしい、うれしいドラマだった。

しかし、今回の松本ひろさんの作品は、実にリアルで、シリアスな内容になっている。

松本さんは長く宗谷の農協に勤め、農協新聞を編集・発行してきた。かたわら農業・酪農に関わる多くの作品を書いてきた。作者自身が身をもって体験した事だったからだろう。

松本さんは道内の民主主義文学の有力な書き手である。

 

マフノ運動の魅力

                松木 新

今年は伊藤野枝・大杉栄らが、東京憲兵隊大尉・甘粕正彦によって、憲兵隊内でひそかに扼殺されて百年になります。

今年度上半期の直木賞を受賞した小川哲『地図と拳』(集英社 2022年6月)が、「満州国」建国の謀略にかかわった甘粕を的確に描写していますので紹介します。

 

〈甘粕司長(「満洲国」民生部警務司長―引用者)は敵の多い人物だった。彼は大震災のどさくさで大杉栄を殺害し、何年間も刑務所で過ごすことになった「甘粕大尉」として知られている。彼には様々な黒い(うわさ)があった。楯突(たてつ)いた部下が消されたという噂もあったし、今でもアナキストを殺しまわっているという噂もあった。だが、噂が真実であれ嘘であれ、彼が常に君国のことを思っているのは間違いなかった。彼の言葉を聞いて、安井はそう確信した。彼は自分と同じ「修羅」なのだ〉

 

憲兵中佐安井が心酔する甘粕の思想は、次のようなものです。

 

〈「家では家長に従って犠牲的精神を養い、国では大御神(おおみかみ)の顕現たる皇室に従う。我が国においては、国家、(すなわ)ち皇室が主であり、個人は従である。このように己を空にして、家長、族長の下で一致団結することのできる大和民族は、世界的に見ても特別の存在である」〉

 

村山由佳『風よあらしよ』(集英社 2020年9月)を読んでいたら、次の文章に出会いました。

 

〈「どうだろう、こ、今度はほんとに男の子かね」

「わからないけど、そんな気がするわ」

「もしそうだったら、名前はネストルだよ」

「わかってます」

ウクライナの革命家、《無政府主義将軍》と呼ばれたネストル・マフノ。大杉がいま最も傾倒しているのが、農民たちを率いて神出鬼没の転戦を続けていた彼だということは知っている。この旅でも、マフノに関する資料をしっかり買い込んできたようだ〉

 

ネストル・マフノについてはまったく知らなかったので、ピュートル・アルシノフ『マフノ運動史 1918-1921 ウクライナの反乱・革命の死と希望』(社会評論社 2003年6月)を読んでみました。著者はマフノと共にたたかいを指導した人物です。

無政府主義者のマフノフは、ロシア革命の1年後から3年間、故郷であるウクライナ南部を拠点にマフノ軍を結成、ボリシェビキと手を結んで反革命デニキン軍とたたかい勝利しますが、ソビエト権力についての意見の相違から、ボリシェビキと袂を分かちます。

巻末に収録されているトロツキーのマフノ批判論文によると、マフノは地域的なソビエト権力を認めるものの、中央のソヴィエト権力は認めないことに意見の相違の原因があるようです。ボリシェビキは、当時、ペトログラードとモスクワの二大都市では、圧倒的に多数派でしたが、ウクライナでは少数派でした。ウクライナでは、マフノ軍が圧倒的な支持を集めていました。アルシノフは、マフノ運動の特徴を次のようにまとめています。

 

〈この運動の特徴、独自な面を挙げよう。非労働の、あるいは、特権的な社会集団への強い不信感。政治的な党派に対する不信感。いかなる組織によるものであれ人民の上に立つ独裁の否定。国家の原理の否定。労働大衆のそれぞれの地域における完全な自治。この自治の具体的、基本的な形態は労働者農民の諸組織による自由勤労ソヴィエトになる〉

〈1918年のはじめ、反乱マフノ軍は数度の戦いの後、デニキン軍をアゾフ海に撃退したが、この時、貨車百台相当の穀物を種子の形で手に入れた。マフノとその司令部の頭に浮かんだのは、この戦利品の食糧をペトログラードとモスクワの、飢えに苦しんでいる労働者に送ることだった。そして貨車百台分の穀物はマフノ軍の代表使節とともにモスクワに送り届けられ、熱い感謝のうちにモスクワ市ソヴィエトによって受け取られたのだった〉

 

トロツキーに指揮された十万のソビエト軍に包囲された3千のマフノ軍は、退却を余儀なくされますが、マフノ軍の後を農民たちが従っていきます。

 

〈退却するマフノ軍の後を、さまざまな村からの数千の農民家族がその財産一式と家畜とともについていくことになった。数百キロも続く荷馬車の列。これはまさに人民の大移動であり、軍隊の後を追って西へ西へと移動する「幌馬車の王国」だった〉

 

1921年8月、重傷を負ったマフノと指揮官の数人は、治療のためにドニエルトル川を渡り隣国のルーマニアへ脱出、その後、パリへ移ったマフノは結核のために45歳で亡くなりました。

マフノ軍がこれほどまでに農民に慕われたのは、その政策にあります。

〈地域農民の意向に沿って活動する自由ソヴィエトの創出。農民と都市労働者の互いの労働生産物の相互交換にもとづく連帯、平等で無権力な形に農民の生活を組織する〉

〈 言論の自由、良心の自由、政治的党派に所属する自由という革命の原則がマフノ軍によって完全に実行された〉

巻末の付録として、マフノ回想録から、レーニンとマフノとの会見記が収録されています。

トロツキーはマフノ軍を、〈労働者階級の意思を認めようとしない武装集団、好き勝手なものを強奪し気分次第に敵を選んで闘う武装集団〉であり、〈今やこうした無政府主義的・富農的な放埒に、終止符を打つべき時である。今後いかなる者もこうした振舞いに浸ることがないよう、きっぱりと終止符を打つべき時である〉という立場でしたが、レーニンは違いました。

 

〈するとレーニンはスヴェルドロフ(全ロシア中央執行委員会議長―引用者)に向かって――無政府主義者は常に献身的で、どんな自己犠牲もする覚悟でいる。しかし、彼らは、盲目的な熱狂家で、遠い未来のことばかり考えて、現在というものを見逃してしまうんだ――と言ってから、それが私のことを言っているのではないとつけ加え――同志、君は、現実的な人間で当面の課題をよく理解している。と私は思う。もしロシアの無政府主義者たちの三人に一人が君のような態度を取るのなら、我々共産主義者も、生産者の自由な組織のために、一定の条件で、無政府主義者と協同することもできるのだけれど――と〉

〈レーニンは、共産党の無政府主義者への態度はそれほど敵対的なものではないのだ、それは彼の私への態度からもわかるだろう、と私に説き始めた〉

 

スペイン人民戦線での無政府主義者のたたかいについては、それなりに理解していましたが、マフノ運動を知って、改めて無政府主義について考えてみたいと思いました。

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇二二年十二月〇一日 289

 

 

十二月例会誌上合評

 

 

合評作品

 

菊池 明「妻の微笑み」

      『民主文学』十二月号

 

 

意見1           松木 新

この小説は、子どもの非行や犯罪で悩む親の立場を描いていますが、息子と向き合う両親の姿勢に大きな違いがあり、そこに興味をもちました。

退学届を出すという息子の言葉に、〈全身が硬直したように感じた。思わず妻の顔を見た〉父親は、〈「なにをいうのだ、辛抱できないのか」〉と息子を説得しようとしますが、母親は、〈いきなり、「わー」と奇声をあげると、息子にとびかかった。・・・息子の上に馬乗りになって、「わー」と声を発しながら息子の首をしめはじめ〉ます。

また、所在不明の息子を探して、〈半狂乱になって息子の行きそうな友人のところに出かけたりしていた〉のも母親でした。

息子がオレオレ詐欺で逮捕され懲役三年の判決を受けると、母親は、〈呆けたようにあれ以来毎日を過ごしていた〉のでしたが、父親は勤務先にウソを言って、息子と面会をしたり、〈親たちの会〉へ一人で参加したりしています。

父親の行動は、問題をかかえた息子にたいする態度としては、ある程度納得は出来るのですが、息子にたいする姿勢の本気度という点では、母親にくらべて、どこか表面的な感じがします。自分が傷ついても息子を救おうという気迫が感じられないのです。

このことを端的に示しているのが、最後の場面です。学習会をかねた例会に、親の立場から体験談を語るように依頼された父親は、〈「どう断ろうか」〉と悩んでいるのに比べて、母親は、〈「まだ渦中にいる方たちに語ることによって、その方たちに励ましの言葉になるのではないでしょうか」〉と、引き受けるように促します。

作者が当初から、父親と母親の子どもと向き合う姿勢の根本的な違いを明らかにすることで、非行や犯罪に走った子どもを救うとはどういうことなのか、を問いかけているとしたら、大した力量だと感心しましたが、〈「モデルはある家族です。最後は温かい雰囲気が感じられるような作品にしたかった」〉(「しんぶん赤旗」123日付)と語っているので、そのような意図はなかったようです。

選評で何人かが、母親が描かれていないと言っていますが、この作品に描かれている母親像から、母親の心情を考えることがなぜできないのか、と不思議に思いました。柿を描いた絵画を観て、リンゴが描かれていないと文句をいうようなもので、評者の想像力が問われています。

 

 

意見2           豊村一矢

 力のこもった作品だ。我が子が犯罪者となった親の、動揺、苦悩、自責の念が綴られている。

 今、どこの家庭でも十代後半の我が子が犯罪者となる可能性がある。他人事ではない。だから、身につまされる思いだった。

 しかし、増加しつづける少年犯罪の問題を取りあげたものという視点で作品を読み返してみると、納得のいかないことが多かった。

 息子の一回目の逮捕となった傷害事件、9ページ上段では、「地元の少年と喧嘩をしてナイフで刺した」だが、P13ページ下段、息子自身の言葉として「俺自身も下校時にあいつらに因縁を付けられ殴られるのは怖かったです」とあり「もし、先生たちが俺のような被害者の声もっと聞いていてくれたなら俺は少年院に行かなくてすんだかもしれません。……」とつづく。さらに、脅かされたことを学校にいっても、かかわりをもちたくないのか、解決してくれず…先生たちも二、三年したら異動でいなくなってしまう、とまで言っている。

作者さん、傷害罪を犯した生徒にこういうことを言わせるのは、おかしくない? 

 無論、学校が生徒を守るために力を尽くすことは当然だが、一方、学校は生徒の犯罪行為にきびしく対処する責任がある。高校の場合、関係機関との協議を経た上で、重大な犯罪をおかした生徒を退学処分にすることがある。資料に当っていないから正確な数字は分らないが、結構な数だと聴いた。

 もう一点、「保護司」のこと。作品では「保護司」がチラッと二箇所ほど出てくる。少年院を出ると、強制ではないが「更生保護」を受ける機会をえる。

 特に少年院を出た者の立ち直りについては、更生保護の一環として保護司とたっぷり交流することが有効だと思う。作品が重要視していないのが不自然で気になる。「非行や犯罪で悩む親たちの会」などもいいと思うが、これは親たちの集まりだ。

「保護司」は、罪を犯した本人と関わり思って更生保護に当る。親との連携もある。

 

 

意見3           石川節子

田口の妻に対しての愛情が滲み出ている重厚な作品だと思いました。

しかし、主訴内容は息子の不幸な事件の成り行きだと思います。題名が妻に対する愛情の方に重点がおかれているように感じます。

男の子は、どうして虐められても、親に訴えないのでしょうね。先生に訴えた所で何の解決にもならない事は当たり前でしょう。それでも、先生に告げるのは義務だとおもいます。「ちくる」とは違うのだということを教え、「虐められ」の芽が小さい内に、もぎ取らねば不幸の連鎖が大きくなってゆくのだということを教えなければと強く感じました。

鑑別所から、「被害者たちへの反省がない」ということで少年院への送致が決まったようですが、息子が覚悟を決めてナイフを抜いたのなら、被害者への反省が無いのは当たり前ではないでしょうか。覚悟のうえでの決行でしょうから。

ここでは相手側の怪我程度に触れていないので本当のことは解らないのですが、大した受傷ではく、「ナイフを抜いたこと自体」に問題があるのでしょう。

でも、しつこく絡んでこなければナイフ等、持つことも無かった筈です。少年(息子)の苦しみ抜いた日々が忍ばれて胸が痛みます親も先生も「この少年達の苦悩」に着目すべきです。鑑別所もこの、出発点を重視して欲しいものだと思いました。

小学校高学年の内に「絡まれたら、どう、対処すべきか」の授業を行うべきだと感じました。

十ページ上段の十四行目の描写には泣かされた。

最終行、愛する妻が久し振りに見せた微笑みにどれだけ励まされたかと結んでいる。でも、遅いんだよ。もっと早く参加しなさいよ

 

 

 

 

 

意見4            泉 脩

 事の起こりは、三人の少年による、高校生の息子への恐喝である。息子は暴力で体中に跡が残り、ナイフを用意して抵抗して相手にケガを負わせた。これは正当防衛に近く、傷害で少年院に送られるならば、相手も少年院に送られるべきである。

 この事を、警察、教師、親も気が付かなかった。大人の無理解である。親は動転して息子と話し合うチャンスを失い、家出をさせてしまった。教師は退学の申し出を受け入れ、いわば厄介払いをしたのである。

 父親は悩み相談に電話をかけ、同じような悩みを持つ親たちの集まりに出席し、ようやく解決の糸口を見つけた。同病相憐れむであり、お互いに理解が早く、励ましをもらう。元教師が仲介していることもうれしい。教師も親も、生涯学び合う必要があるのだと思う。

親は子どもを育てながら親になっていくのだ。教師は生徒から学んで教師になるのである。教師も親も真実を知るために、何としても少年と話し合い、立ち直るチャンスを見つけなければならないと思う。  

すべての親が子育ての初心者である。自分の親、他の親の経験をよく聞くことが大切である。

この作品はよく書けていて、最後まで惹きつけられて読んだ。家出後に、罪を重ねて刑に服した息子がどうなっていくのか。続きを読みたいものだ。

母親が自分を責め、半狂乱になるが、夫の話を聞きながら立ち直っていく姿は、自然の成りゆきかも知れない。そしてともかく父親が解決に向かって努力する姿も好ましい。

私は自分自身の経験と重ねながら、いろいろと考えさせられた。

 

 

 意見5           北野あかり

息子の犯罪に打ちのめされる親の苦悩と葛藤が描かれており、意志疎通が取れなくなった我が子と、

どう向き会うかが問題提起されていると思いました。

前半は犯罪に手を染めた息子への関りが、腫れ物にでも触るように、息子との絡みがなく、はがゆい思いでした。

息子と直接係れる場面がいくつかあり、その時どのように対応したのかに注目しました。留置所での対面の時、刑事から「事件の内容」「身体にかなりの打撲の跡がある」などと説明され、「被害者への反省がない」ので「少年院へ送検する」と告げられた。それに対して何故黙っていたのか。何も発言しない親はいないと思う、息子に親の率直な気持ちをぶつけて、本人が応えなかったのなら解るが…。また、息子が出所した後、真面目に「退学したい」との申し出に対して、親が感情的になってそのチャンスをのがしている。冷静に話せる場だったのに…。家出してしまった息子から手紙が来た時、何故すぐ居場所を探そうとしなかったのか。消印から追跡もできるのに…など自分の体験と合わせ、叱咤したい心境になりましたが、そのような親がいることも事実なのだろうと理解しました。

しかし、後半になってから「非行や犯罪で悩む親の会」と、親の苦しむ事例が紹介され、何れも苦しみを一人で抱え込んで苦しんでいる様子がよく解りました。そしてこのような会の存在はとても大事だと思いました。

会に参加するようになってから、親の立場からしか事件を見られなかった田口が、子供の気持ちも理解しようとするようになり、息子は立ち直る!と自分に言い聞かせるなど、変化が生まれてきた。そして、その考えや、会の様子を妻や息子に話すようになってから、息子の表情に柔らかさが見えはじめ、妻も息子の小さな変化が積み重なって、人は変化していくと思うようになり、例会に自ら参加を申し出るように変わっていった。最後は、息子と意思疎通が回復し、立ち直っていく未来も感じられ、救われた思いがしました。

気になったこと

1頁15下段「完全黙秘している。身分証明もない」というのに、どうして刑事が自宅を訪ねて来れたのか?

2頁19下段~20上段:妻の言葉「お疲れのようですが、どこか具合でもよくないのではないですか」「あなたは…どう考えているのですか」「私も…18行(長い台詞)…ないでしょうか」

言葉が、他人行儀だったり、長い台詞が説明を受けているように感じました。内容はいいので表現方法に工夫が必要だと感じました。

 

 

 

 意見6           泉恵子

 切実な問題を赤裸々に綴ったインパクトの強い作品だ。息子が、傷害事件を起こして逮捕され少年院に送られる、という最初の事件から父親の立場で、その衝撃や動揺、対応を真摯に描いている。特に冒頭の警察から帰る道々の場面は、その切実さが良く伝わってくる。

 更に、少年院を出た息子は、再び登校を始めてまもなく退学してしまい、家出をして知人の親方のもとで建築現場で働くという道を辿る。しかし、コロナで職を失い、詐欺事件の「出し子」容疑で、再び警察沙汰となってしまう。

 そんな息子と向き合い苦しむ中で、「非行や犯罪で悩む親の会」を知り、そこで自身の体験を語るようになるまでの父親としての心情を丁寧に描いている。

 共に悩み苦しむ妻の姿は、家出をしたときに半狂乱で、心当たりを当たっていたという描写からも察することができるが、そのように共に苦しむ妻を、「親の会」に行くとき、どうして誘わなかったのだろう。なぜ、友人と会いに行くなどという嘘をついて出かけなければならなかったのか。

 夫田口の視点から、傍らの妻もまた苦しんでいる様子が伺えるが、共に行動するという点で疑問が残る。妻もまたなぜ自分も一緒に行くと言わないのだろう。(二年以上たった末尾の場面でやっと「参加させてもらいます」と言うが。)だから最後の妻の前向きな言葉ー体験発表をした方がよいというーは、今までの言動から唐突な感じを与える。田口が「親の会」の例会に参加するたびにその報告をするようになり、妻も会報などを読んでいたという事から、その中で妻が変わっていったことを伺わせが、そのあたりを少し描いた方が、妻の言葉や最後の微笑みも不自然ではなかったろう。

 タイトルはテーマの凝縮された言葉だとしたら、ここでは唐突で不自然な感じがする。

 描かれてはいないが、読者は汲み取るべきでは?という声もあった。「ないものねだり」は必要ないが、ここではもう少し、妻の言動の変化の描写が欲しいと思った。

 

 評者の中に「若者の生き難さに挑んだ意欲作」という言葉があり、この息子の変化の背景が感じられる。虐めにあったことを、親に伝えられない心理。教師に伝えても、それなりの対応がなかった。おそらく護身のためのナイフだったろう。そのことをわかってもらえない苦しみ。再び登校する時も、大きな葛藤を抱えてのことを周囲はもっと配慮するべきだった。学校、教師の対応は全く不適切ということは、例会の中で共有された。それが今の大方の現実ということだろう。

一寸したボタンのかけ違いで、とうとう子までしてしまった経緯は、半面周囲がもっと気遣っていればということにつながる。(これは筆者自身にとっての戒めでもある。)

「親の会」で、共通の悩みや苦しみを語り合うで、田口の心境も変化し、息子の未来を信じてゆこうとする。こちらの方にテーマがあるのではないか。

 

 蛇足かもしれないが、9ページ下段に、この苦しみを亡き母に聞いて欲しいと思う場面がある。

 作者菊池明さんの「初冬の風に」(2016年、12月号)という作品を偶然見つけた。(この年の支部誌・同人誌推薦作品として掲載されている)この中に戦地から帰った父が失踪してしまい、母が苦労して育ててくれたことも描かれていて、母への思いの深さがここにも表出されたのかと思われた。

 

 

 意見7             後藤守彦

二カ月ぶりに対面の合評に参加できました。知人・隣人の家庭が困難を抱えていることを最近知り、あらためてそれぞれの家庭に悩み・苦しみがあるのだと痛感していたところで、この作品に出合いました。テーマの重さがのしかかってきました。合評出席者の多くが母親の描き方の不足を指摘していましたが、確かに父親中心であるものの、親の葛藤が率直に吐露されていたと思います。合評では、教師体験をもとに、学校・教師の対応が批判されました。

私はそれに耳を傾けながら、厳寒期に事件を起こした生徒の家庭を訪問し、煌々と輝く月光のもと凍結した路面を車で走行し深夜に帰宅したことを想い出していました。こうした家庭訪問が何度あったでしょうか。しかし、私の力量が不足していたからでしょうが、教師としての限界をいつも感じていました。

「出された不足な部分をすべて補えばいい作品になるのか」と発言しましたが、言葉足らずでした。否定から肯定につながる道筋を示すことが必要ではないかと思います。読み手の読みは読み手の数だけあると思います。しかし、自戒の言葉ですが、読みが独りよがりであってはなりません。誠意をもっての、批判し批判される関係が求められるのではないのでしょうか。

 

 

意見8           柏原竜

 読み終えた後、胸がドキドキして怖くなった。一歩間違えれば自分の子供にも起こり得るかもかも知れない。そして自分の周りの子供たちにも。田口尚は正義感の強い、いい子だったと思う。その子がどんどん変わっていった。

 不登校や「いじめ」の問題はいつでも何処でも起こり得る。自分の子だけは大丈夫などはありえず、どの子にも起こりうると言われ、自分も当時学習会や懇談会には意識して参加し注意してきたつもりだった。

 今、自分の子育てをしていた頃を思い出すと、ただ忙しく走り続けて日々を過ごし、真っ白い空白の時間帯になっている。どんな日常生活をしていたのか詳しくは思い出せない。あの頃、きちんと子供と向き合っていたのだろうか。もっと、色々話したり触れ合ったりしておけばよかったと思う。

 今、不登校や「いじめ」が社会問題化されている。子供の育て方は親の責任だと言われているが、社会はどうなのだろう。ピリピリした人間関係、熾烈な競争社会。そして格差社会。そのような社会で子供たちは伸びやかに健やかに育つのだろうか。自分の子供の頃、不登校など聞いたことなかった。また、虐めは確かにあったが、このように陰湿ではなかったように思う。現代社会は生きづらい世の中になっているのだろう。

 最後に、「妻の微笑み」だけに眼を向けないで、息子尚にも眼を向けてほしかった。

 

 意見9            室崎和佳子                         

成長期(思春期)の我が子の本心を掴むことはとても難しい。

なんか変だな、と感じたら、すぐ対処しなければ、早晩この小説のような事態(逮捕 少年院 再逮捕 懲役刑)に行き着く。

 こういう展開は恐ろしいまでに速い。

 田口尚は驚くほど生真面目な青年である。

P9下段2行目「時間ですと刑務官にいわれると椅子から立ち上がり深ぶかと頭をさげた」P11上段6行目「息子が改まった態度で、田口たちに向かい、黙したまま頭をさげた」

P11下段16行目「申し訳ありませんが、明日、学校に退学届を出したいと思います」

P15下段後ろから3行目「面会時、息子は田口に対し頭を下げ、申し訳ありませんと何度もいった」等々の丁寧な言葉遣いにびっくりする。

 そういう青年がオレオレ詐欺の出し子をしなければならなかったことに心が痛む。

 田口尚の母の成長にホッとするものを感じた。興奮して息子の上に馬乗りになって首を絞め始めるような母親が、悩んでいる親たちの例会に出ようと思うまでになって本当に良かった。

 

意見10            村松祝子

主人公田口の語りで物語が進む。田口はサラリーマンで娘と息子がいる。妻は専業主婦である。

息子尚は高校に入学して間も無く家族との距離をとりはじめ会話も少なくなり夕食後は自分の部屋に閉じこもってしまうようになった。

そんな息子がある日傷害事件を起こし地元の少年三人の一人に隠し持っていたナイフで怪我を負わせた。その後尚には被害者への反省が見られないと言うことで鑑別所から少年院へ送致された。その時夫婦は警察から尚の体にかなりの打撲の跡があることを警察から知らされるのであった。

尚の悩み苦しみを田口も妻も理解しようと苦悩する。しかし田口自身管理職という社会的立場を意識し世間体も気にして家庭内で事件を処理しようとしていた。

少年院から帰ってきた尚は学校に馴染めず留年を免れない事を知ると退学を希望する。

しかし退学希望が叶わなかった尚は家を飛び出し三年が経過した頃、ひょっこりと手紙が舞い込み、建築現場の下請けで働いていると知らせてきた。

さらに三年ほど経って刑事が田口の自宅を訪ねてきてオレオレ詐欺の出し子になった息子と警察で対面するのだった。

ある日の夜田口はニュース番組を観ていて非行や犯罪で悩む親達の会がある事を知り藁をも縋る思いでそこに参加した。

そこで田口は自分たちの経験した事件以外に衝撃的な事件の数々が世の中にあることを知り改めて社会への視野が広がるのを感じるのであった。

これからの尚の人生は現代の日本の社会体制の中でどい生きていくのかそれは田口のこれからの世間との関わりと共につながっていくような気がした。

題名の「妻の微笑み」はこの作品にしては似つかわしくないと思ったが、再度読み直してこの作品の最後の妻の独白のような語りはこの物語で言わんとしている中心なんだと思った。

これから田口と一緒に親の会に参加していく妻の姿は新しい人生の出発点でありその両親の前向きな姿勢を感じるであろう尚の未来も像されてこの小説を読み終えた。

身の回りにある出来事を的確に書き上げている良い作品だと思った。

テレビのニュースでよく報道される「オレオレ詐欺」の事件の裏で若者達の懸命に生きようとする人生を炙り出しそれがコロナ禍で仕事場を奪われ社会に押し潰されてしまいそうな現実を見事に小説にした大作だと思う。

その苦しみの果てに人は変化していくものだし現実からの逃避は何も得るものはないと言う文章は心に重く響きました。

またコロナ禍で職を失った若者達にたいし先進国では救済制度があり日本社会には救済制度が無いのに等しいのも厳しい現実である。

 

                                

 

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ケルト人の夢』の真実

                  松木 新

 

知人に勧められて、『ケルト人の夢』(岩波書店 2021年10月)を読んでみました。二〇一〇年にノーベル文学賞を受賞したスペインの作家マリオ・バルガス=リョサの受賞後第一作です。

二〇世紀初頭、コンゴとアマゾンの先住民に対する虐待、植民地主義の罪を告発したアイルランド人のイギリス領事ロジャー・ケイスメントの伝記小説です。彼は祖国アイルランドの独立を成し遂げるため、1916年4月の復活祭蜂起に参加、反逆罪で絞首刑になります。

本書は「コンゴ」、「アマゾン」、「アイルランド」の三部構成になっています。

「コンゴ」編

一八八五年、コンゴ人が一人も参加しなかったベルリン会議で、14の列強が、ベルギーのレオポルド二世に、コンゴの250万平方キロの土地と、二〇〇〇万人の住民を無償で与えました。コンゴ自由国の誕生です。わずかの間に、コンゴは世界一のゴム生産国になります。一方、ルコレラ村では、一八八四年に5000人いた住民が、ケイスメントが調査に入った一九〇三年には、352人に激減していました。

〈何事も始まりは単純明快だ。各村落にははっきりとした義務が与えられたのだ。公安車や、道を切り拓き、電信用の柱を立て、桟橋と倉庫を建設する日雇い労働者に食べさせるために、一週間ごとあるいは二週間ごとに食料――キャッサバ、鶏、とアンテロープの肉、野生の豚、ヤギあるいはアヒル――を提供すること。しかも村落は、先住民自身が蔦植物で編んだ籠に集められたゴムの一定量を納めなければならないとされた。こうした義務を果たさなかった場合には様々な罰が与えられた。提供した食料やゴムが規定量を下回る場合には、罰として鞭打たれ、その回数は決して二〇回を下らず、ときには五〇回あるいは一〇〇回ということもあった。罰を受けた者の多くは出血多量で死んだ。逃亡する先住民――数は少なかったが――は家族が犠牲になった。なぜなら、妻たちが、公安軍がすべての駐屯地に持っていた〈人質(メゾン)()(ドタージュ)〉の人質として収容されるからだ。逃亡者の妻はそこで鞭打たれ、罰として食事や水を与えられなかったり、ときには自分や監視の糞尿を飲み食いさせられたりする、きわめて悪意のこもった拷問を受けた〉

ケイスメントより少し以前に、コンゴ自由国での搾取の実態を暴いたのが、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』(光文社古典新訳文庫 2009年9月)です。そこでは象牙狩りに狂奔する植民者の残虐ぶりが炙り出されていました。

先住民の叛逆を断罪し抑止するための、悪名高い「手首斬り」という統治手段の横行、象牙商人クルツの屋敷の周りに立つ一本一本の杭には、首が突き刺さっていたのです。

〈先っぽの丸いものは飾りじゃなくて、象徴のようなものだったんだ。意味深長で不可解、衝撃的で不穏―人間にとっては思考の糧だが、もし禿鷹が上空を飛んでいたらそいつの糧にもなる。杭をよじ登る勤勉な蟻にとっても然りだ。杭の先の首が建物のほうを向いているのでなかったら、もっと迫力があっただろう〉

フォード・コッポラ監督は、この小説を原作に、舞台をベトナムに移して、映画「地獄の黙示録」を撮りました。

「アマゾン」編

アマゾンでも、コンゴと状況は変わりません。生ゴム生産会社は、奴隷制度を利用し、武器を携えたごろつきが拉致した先住民の〈原住民狩り〉によって、ゴム採取人や使用人を獲得していたのです。ゴム生産業者が有無を言わせずに持ち込んだシステムによって、ある地域に住んでいた七つの部族約4万人が、瞬く間に一万人に激減しました。

〈先住民をゴム農園に連れていってこき使い、三か月ごとに最低三〇キロの割り当て分を差し出さなければ、彼らをさらし台に掛けて吊し、火とナイフでマークをつけ、大量の血を流して死ぬまで鞭打つ〉

〈もっとも多いのは搾取、飢え、手足などの切断、さらし台を使った拷問、殺害による犠牲者だった〉

ケイスメントが告発したコンゴやアマゾンの実態は、松浦武四郎が告発した美国の実態と重なってきます。

美国漁場では、文化6年(1809年)76人いたアイヌが、和人による搾取と抑圧のために、安政3年(1856年)ころはついに16人になったのです。

武四郎はアイヌにたいする和人の暴虐を、次のように告発してます。

〈さて、こうして三巻の原稿を書き終わり、やっとのことで机上に筆を置こうとしたところ、この五、六日の疲れに心身くたびれ果てて筆を投げ捨て机によりかかった。

一眠りしたかと思うまに、私の魂は陸奥の山河を過ぎ、七里の海峡の怒濤を越えて函館の港へと行きついたのである。そして、私も一度は言ってみたいと思っていた函館山上町にこのたび竣工したという三階建ての料亭に行ってみると、そこにはいまや富貴をきわめて栄えておられる役人方が、同地に名高い芸妓たちに三味線を奏でさせ、蛇足園の菓子、武蔵野の料理を並べ、請負人、問屋、大工の棟梁、支配人どもが太鼓持ちをつとめて歌えや舞えと歓楽を尽くしておられた。

そのとき、座敷を吹き抜ける一陣のなまぐさい風に振り返って見れば、大皿に盛られた刺身は鮮血したたる人肉、浸し物はアイヌの臓物、うまそうな肉は人の肋骨、盃に満ちているのは、みな生血ではないか。二目とみられぬそのありさまに周囲の襖を見ると、描かれた聖賢の画像は土人の亡霊と変わって、ああ、うらめしや、うらめしやと訴える声に、思わず目をさました。全身に冷汗が流れ、私はもとの深川伊予橋の仮住居、餐熬豆居の南の窓の下の机にもたれていたのであった。

このアイヌたちの恨みの声を、私だけでなく各界有識者の方々に知っていただきたいとの願いによって、松浦武四郎源弘は、このように記しおえたのでる〉(『アイヌ人物誌』)

「アイルランド」編

コンゴやアマゾンの植民地の実態を目の当たりにしたケイスメントは、イギリスの植民地であるアイルランドも同じだ、武器を持ってたたかう意外に自由を勝ち取ることができない、とアイルランド独立闘争に参加します。

〈我々アイルランド人は、ブトゥマヨのウイトト族やボラ族、アンドケ族、ムイナネ族みたいなものだ。もしも自由を得るために、法律や制度やイギリス政府を信用し続けるなら、植民地化され、搾取され、常にその状態であり続けることを宣告されている。自由は決して与えられないだろう。与えざるを得なくなる抗し難い圧力を感じない限り、我々を植民地化している帝国が我々に自由を与えることがあるだろうか?その圧力は武器からしか生まれない〉

ケイスメントが参加したのが、第一次大戦中の1916年4月にたたかわれた復活祭蜂起です。アイルランド義勇軍が6日間、イギリス軍とたたかい敗北します。指導者16人は軍法会議でただちに処刑されましたが、ケイスメントはサーの爵位をもつせいか、イギリスで正式の裁判にかけられました。バーナード・ショーなどが減刑の運動を行いましたが、1916年8月3日、反逆罪で絞首刑に処せられました。

〈ロジャー・ケイスメントの遺骸は、墓碑はおろか十字架もイニシャルさえもないまま、かなり以前に処刑された有名な殺人犯、クリッペン博士のやはり無名の墓の隣に埋葬された〉

1965年、イギリス政府はケイスメントの遺骸のアイルランド返還を認めました。遺骸はアイルランド独立の英雄としてアーバーヒルにある聖心教会の礼拝堂に安置されました。〈すると、何十万人とみられる人々が訪れ、順次弔意を表した〉のでした。

 

アイルランドの復活祭蜂起については、ほとんど未知の分野だったので、少しばかり調べて見ました。

1849年に相次いでイギリスに亡命してきたマルクスとエンゲルスにとって、アイルランド問題は常に関心の的でした。エンゲルの妻は、アイルランド出身の労働者です。

マルクスは『資本論』第一部第二十三章「資本主義的蓄積の一般的法則」を、次の文章で閉じています。

〈こうしたもうけの多い方法も、この世のあらゆる善きものと同様にその欠陥を持っている。アイルランドにおける地代の蓄積に歩調をそろえてアメリカにおけるアイランド人の蓄積が行われる。羊と牛とによって排除されたアイルランド人は、大洋の彼岸でフェニアン党員としてよみがえる。そして老いたる海の女王(イギリス)に向きあって、若い巨大な共和国(アメリカ)が、威嚇的に、そしてますます威嚇的にそびえ立つ。

〝苛酷な運命がローマ人を苦しめる、

  しかも兄弟殺しの罪が〟〉

文中で言及されている〈フェニアン党〉とは、武装蜂起によってアイルランド独立の達成をめざす秘密結社です。1857年にアイルランドとアメリカで結成。アメリカでフェニアン兄弟団として活動しましたが、弾圧により、七〇年代以降は下火になりました。

エンゲルスは、「マルクスへの手紙」(1867年11月29日)のなかで、フェニアン党をきびしく批判しています。

〈この党派の指導者たちがたいてい愚物で、なかには搾取者もいるのであった、われわれはどんな陰謀にもつきものの愚行に責任を負うことはできない、ということだ〉

エンゲルスが、アイルランドの蜂起は、〈イギリスとアメリカのあいだに戦争がおこった場合にだけ、チャンスがある〉(「ベルンシュタインへの手紙」1881年3月12日)と言っていることは、注目に値します。

復活祭蜂起に直接言及しているのがレーニンです。

ロシア革命の前年の7月に執筆した「自決にかんする討論の総括」の第一〇章「一九一六年のアイルランドの蜂起」のなかで、アイルランドの蜂起を積極的に評価しています。

〈科学的な意味で「妄動」と言えるのは、蜂起の企てが、陰謀家またはばかげた狂信者の一サークルのほかにはなにも明るみに引きださず、大衆のうちになんの共鳴も呼びおこさないようなばあいだけである。すでに数世紀の歴史をもち、いろいろの段階といろいろの階級利害の組合せとをとおってきたアイルランドの民族運動は、とりわけ、アイルランドの独立に賛意を表明した、あのアメリカにおける大衆的なアイルランド民族大会(『フォルヴェルツ』一九一六年三月二十日号)となって現れ、また長期にわたる大衆的扇動、デモンストレーション、新聞の発禁等々のあとで、都市小ブルジョアジーの一部および労働者(・・・)()一部(・・)の市街戦となって現れた。この(・・)よう(・・)()蜂起を妄動と名づける人は、最悪の反動家か、さもなければ、社会革命を生きた現象として考える能力をまったくもたない空論家である。(略)アイルランドの蜂起がイギリスの帝国主義的ブルジョアジーの権力にくわえた打撃は、その力は、同じであっても、アジアまたはアフリカにおける蜂起よりも百倍も大きな政治的意義をもっている。(略)アイルランド人の不幸は、彼らが時期尚早に、すなわち、ヨーロッパにおけるプロレタリアートの蜂起がまだ(・・)成熟していなかったときに、蜂起したことにある〉

 

 

 

 

 

大浦ふみ子『埋もれた足跡』

長崎の大学医学部をめぐるたたかい

 

泉  脩

 

 長崎の大学医学部でのたたかいについて書いた、力のこもった二つの中編小説である。著者の大浦さんは日本民主主義文学会の書き手で、多くの本を出している。

 「住宅地に作るな!危険な実験施設」 二〇一五年の正月明け、主人公が長崎大学の正門前を通りかかると、一人の男がマイクを持って何かを訴えていた。長崎大学の医学部が、西アフリカで流行しているエボラ熱のウィルス実験施設を作ることについて反対の演説をしているのだ。

 大学は住宅地から近く、市民の命と暮らしを脅かすとして、ずっと市民の会や周辺住宅の会が、反対の署名運動に取り組んできた。ところが大学側はこれに応じず、長崎県議会も大学を支持していた。国かの莫大な予算を当てにしているのである。

 ただ一人共産党議員が文部省と交渉し、「周辺住民の支持が無いうちは許可しない」との約束をさせたのである。そして多くの団体・住民による反対の大集会で、物語は終っている。

 現在のコロナ禍を予告するような作品であり、発展途上国から次々と発生する伝染病がどんなに恐ろしいか、今ではすべての人が実感している。

 この作品の中で、世界各地で研究・実験施設が作られているが、テロによる細菌攻撃への対策か、アフリカなどにおける白人居住者を守るためだ、と書いている。

「埋もれた足跡」 一九六〇年代の中頃、主人公矢野幹雄が崎央大学の医学部に合格し、下宿めじろ荘の二階の部屋に入った。ふすまを隔てた隣りの部屋に、父親と共に松村正彦が入ってきた。父親は矢野にくれぐれも息子のことを頼んでいく。

 矢野は佐賀の役所勤めの父親をもち、母は一年前に急死している。このことから矢野は医師を志すようになった。

 松村は、瀬戸内海の小島で医師をしている父親の跡を継ぐために、医者を目指している。元々は文学少年で、考古学志望だった。色白で痩せていた。

高校時代山岳部だった矢野は、松村を登山に誘い、二人は九州中の山々を登って過ごす。同じ下宿の医学生、伊谷新平も仲間に加わる様になる。

 やがてベトナム戦争反対など学生運動が盛り上がる。矢野は少ない仕送りを補うため、アルバイトに忙しく、伊谷は過激派に取り込まれていった。

松村は参加するが暴力には絶対に反対で、いつも「暴力反対」のプラカードを掲げている。やがて過激派と対立するようになった。松村の父は戦時中、医師もすべて戦争に協力させられ、生体実験などを行った―と息子に話していた。そのため彼は戦争

反対、暴力反対を主張したのである。

 過激派はエスカレートする一方で、学長軟禁、座り込み、ストライキ、バリケード封鎖を行い、反対する者には見境なく暴力を振るった。セクト(分派)毎に赤・青・白のヘルメットを被り、ゲバ棒を振りまわした。そのため、彼等と対立する民青系の学生は、一時黄色のヘルメットを被り、ゲバ棒を持って対抗した。

松村はどちらにも属せず、一貫して暴力反対を貫いた。矢野は学生大会で、ストライキにいつも棄権を表明した。

 医学部はインターン反対の要求を掲げたが、比較的平穏だった。しかし伊谷らの過激派の圧力で遂にストライキに突入し、八カ月続いた。そのため全員留年の危機が迫り、授業が再開され、過重なスケジュールが組まれた。

「授業阻止」「医学部粉砕」「革命」を主張し、バリケード封鎖を強行する過激派は機動隊に排除され、伊谷ら指導部は逮捕された。矢野は学力優秀な松村の助けで、やっと卒業することができた。

 物語の最初と最後は五十年後のことで、矢野は青春時代の雑記帳を見ながら自分たちの歩みを回想するのだった。矢野は心臓外科医で活躍し、松村は民医連の医師として働き、伊谷も三年遅れで卒業し医師になった。

 著者は大学紛争を見事に解明し、特に、複雑な医学部の真実を明らかにしようとしている。医学部は、病院と直結して大金が動くだけに、現在でも不明朗なところが多い。製薬会社との癒着、無給医問題、教授の権力・・。かつての学生紛争が、特に医学部で激化したのも、矛盾が大きく、根が深いためである。

 この作品は山崎豊子の長篇小説「白い巨塔」とともに、禁断の地に踏み込んだ、すぐれた作品であると思う。

 

 

長沼昭夫『「きのとや」の挑戦』

痛快な一代記

泉  脩

 

「長沼昭夫の菓子づくり人生」というサブタイトルがついたこの本は、著者が七十五歳になる今年(二〇二二)に出した本である。

 一九四七年に札幌の琴似で生れた長沼さんは、六人きょうだい(兄三人・姉二人)の末っ子で、早くに父を失い、札幌西高・北大を奨学資金とアルバイトに頼って卒業した。

それでも、中学ではスキー部、高校では管弦楽部、大学では山スキー部に打ち込み、自分の心身を鍛え、その後の人生の試練に耐え抜いた。

 ここまで読んで、私は私の人生とそっくりだな、と思った。私の方が十年以上先に生れたが、私も早くに父を失い、奨学金とアルバイトで北大を卒業した。

私は五人きょうだい(姉二人、弟、妹)で、母は縫い物、編み物で生計を立てた。長沼さんのお母さんはお花とお茶を教えて子供を育てた。母方の実家に世話になったところも似ている。

 長沼さんは幾つかの職業を経て、三十五歳で洋菓子屋を始めた。妻裕子の父、阿部眞一の強い勧めによってである。義父は金融業を手広く営んでいたが、「菓子屋は人を笑顔にする」と言って勧め、娘婿の長沼さんは従ったのである。そして、札幌の白石に菓子店を開業した。「きのとや」という店名は、義父の故郷新潟にある古い歴史を持つ寺の名前からきている。

 長沼さんは洋菓子を仕入れて売ることに甘んじられず、パティシエ(洋菓子職人)を見つけて洋菓子製造に乗り出し、やがてクリスマスケーキやバースデーケーキの予約販売を始めて大成功した。(最初は予約を取り過ぎて失敗したが。)

 きのとやの名前は洋菓子の美味しさと相まって、ぐんぐんと拡がった。製造工場を新設し、販売店も次々と増やし、年間売上が十億円に達した。

ところが一九九七年にサルモネラ菌中毒が発生し、きのとやは大ピンチに立たされた。

長沼さんは「すべての責任は社長の私にある。」と全社員の前で宣言し、一人で被害者の家をまわった。心から謝罪し、治療費などの支払いをすべて言われるまま支払った。一億円の損害を出して、食料品店としては致命的な中毒事件が終息した。

きのとやは再開後、順調に回復し二十一世紀に入ると、焼き菓子製造にも乗り出した。「札幌農学校」という大ヒット商品を出し、現在は年商四十億円に達している。

二〇一五年、長沼さんは六〇代で社長を専務に譲り、会長になった。それからは更に牧場、養鶏場の経営に乗り出し、きのとやは全国に名を成す総合的企業になり、北海道全体の洋菓子業の発展に努めている。

この本は読者を惹き込み、一気に読ませる小気味の良い痛快な本であり、私は感動に包まれた。何より長沼さんの人柄が魅力的だ。素直で謙虚なのである。人の言うことに、よく耳を傾け、それに従うのである。決して我を張らないのである。特に義父との出会いは大きく、その時に打ち込んでいた水商売を辞め、考えてもいなかった洋菓子業に乗り出したのである。義父の援助を受けつつも、やがて独立して大成功する。

経営コンサルタントに教えを請い、名高いパティシエに指導、助言を受け、次々とヒット商品を生み出すのである。

ひと度確信を持つと率先して実行に移す行動力。責任はすべて背負う覚悟。そして、全社員とその家族の幸せを願い、大切にする。

本社のトイレ掃除を長い間、社長自らやっていたことには、びっくりである。私はこの本を読んで、きのとやの洋菓子が食べたくなり、丸井デパートの地階の店で、ショートケーキと「札幌農学校」を買って食べた。とてもおいしかった。当分は、長沼さんに想いを寄せながら、食べ続けていくだろう。

長沼さんは毎年一年間の方針を明記した文書を作り、社員全員に渡している。

その中で、常に「お客様第一」「社員とその家族の幸せ」「会社の成長、発展」を掲げている。この三つは一体であり、どれも欠かすことができないという。  

さらに毎月「社長通信」を発行して、お客の反応など様々な記事を書き、社員を励ましてきた。

これは私の学級通信と同じであり、私は笑ってしまった。私は延べ十一年間に二千号の学級通信を発行した。これは私の命綱だった。

この本の最後に、家族のことが書かれている。二人の娘は結婚し、孫は「目の中に入れても痛くない」という。一人息子は、中学、高校と野球に打ち込み、慶応大学の商学部に入った。成人して、今はきのとやグループの一員になっているが、二代目社長にはならないという。これは良いことである。二代目は創業者を超えられないからだ。そして最後は、妻裕子への感謝の言葉で締めくくられている。

 

 

2022日本のうたごえ全国交流会in愛知 

参加感想

                北野あかり

                         「ウクライナに平和を」に心をこめて

 

12月2日~4日、名古屋市を中心に開催された「2022日本のうたごえ全国交流会in愛知」で、「ウクライナに平和を」を歌ってきました。

日本のうたごえ運動は、戦後、関鑑子さんの「うたごえは平和の力」との呼びかけで初められました。

ここ3年間はコロナの禍のなか、歌うことを阻害され、休会を余儀なくされる中、リモートで一人一人を繋ぎ、感染対策を学び、換気とマスクで歌うことで、歌う喜びと元気を取り戻してきました。

来年で75周年を迎えるうたごえ祭典、今年は「日本のうたごえ全国交流会」とし、合唱で繋ぎ、次代を担う人たちに繋げる音楽会にしようと、全国のうたごえ合唱団、青年、女性、職場の合唱団、オリジナル合唱団、志賀中学校合唱部などの合唱団が参加し、名古屋を中心に親子で取り組んでいるミュージカル「バックトウザ・フーちゃん」が上演されました。名古屋には、戦時中、象を殺傷処分するという命令に抗して、2頭の象を護った東山動物園があり、戦後、象を見たいという子どもたちの願いを実現させるために、臨時列車を走らせたという実話に基づき、ミュージカル「ぞうれっしゃよはしれ」が作られ上演されました。そこで培われた親子の繋がりが各地に拡がり「ぞうれっしゃ合唱団」として続いています。今回は、故郷に戻れない福島の現状をモチーフにしたミュージカルでした。上演に先立ち出演者が何度も被災地に足を運び制作、上演されました。小学1年生から大人まで休憩なしで1時間半見事に演じきり、只々感動!次世代に確実に繋げていることを実感しました。

私は「ウクライナに平和を」をうたうという「北の国から合唱団」に加えてもらいオリジナルコンサートに出場してきました。演奏曲はこのほかに2曲、「おにぎりのうた」と大雪と石狩の自然を守る中で作られた「石狩川憲章 」です。「ウクライナに平和を」の作詞は山形合唱団の方、作曲は北海道合唱団の指揮者ですので、指導にも力が入り、ぐいぐい引っ張ってくれます。ピアノ伴奏者には「前奏を穏やかな田園風景から突如爆撃が轟くように」、合唱団には「土足で踏み込むな!と、出だしを力強く!」と指示。

歌詞の一番は「“土足で踏み込むな 友の住む街に 銃口を向けるな 国境をこえるな 私たちの願いは一つ 平和なウクライナ”」です。私はこの出だしの言葉に“戦争はやめろ!との思いを込めて歌いました。

祭典の最後は、祭典のハイライトとなる「特別音楽会」でした。全国各地で中心合唱団として活躍している人たちの大合唱が演奏されます。主催地の愛知合同による「命かがやけ」「いのち光らせて」の歓迎演奏ではじまり、次いで、名古屋市立志賀中学校合唱部の出演で、全日本合唱コンクール全国大会で3大会連続金賞受賞した合唱を直に聴くことができ、その若さとハーモニーに酔いしれました。中学生の団員から「私たちは中学生になった時から、コロナの中で歌も歌えない状況が続き気持ちが折れそうになりました。そんな時、東日本大震災を歌った「群青」に元気を貰いました。3月にはこの歌を歌って卒業します。

今日、私たちの歌を全国の皆さんに前で歌えることがとても嬉しいです。聴いてください」と言って、合唱が始まりました。「青葉の歌」「群青」など、アンコール曲を含め6曲が演奏され、演奏が終わる頃には、会場から手拍子が起り始めました。その雰囲気を察した指揮者が会場に向かって指揮棒を振りました、

手拍子はどんどん大きくなって、舞台と会場が一体となった感動の舞台でした。

次いで「日本のうたごえ合唱団」「全国合同」「青年のうたごえ」合唱組曲「銀色の翼に載せて」の大合唱が会場一杯に響き渡り、感動のうちにフイナーレとなりました。特に北海道でおきた芦別事件をうたった「芦別の雪の中を」を聴いた時は、雪の中、夫の冤罪を晴らすために歩きつづけた夫人を思い、どんな苦しいことがあっても前を向いて歩き続けるよう、今できることを一生懸命やろう!と決意を新たにしました。来年の開催地は札幌で8月25日~27日に開催します。オープニングは芸術の森野外ステージ、特別音楽会と合唱発表は札幌市の中心部の会場で行われます。あと8か月後です。うたごえは平和の力、うたごえは生きる力です。

82才半ですが体力の続く限り歌い続けたいと思っています。

 

 

 時代・歴史小説あれこれ

後藤守彦

 

一一月中旬の三日間にあったことから始めよう。一一日金曜日夜、BSプレミアムのドラマ『赤ひげ四』全八回の二回目を見た。

小石川養生所の所長新出去定を船越英一郎、青年医師の保本登を中村蒼が演じている。人気があるのか、パート二からは、山本周五郎の原作にない話が展開されているのに、また放送がスタートしたのである。

翌一二日土曜日午後、北広島団地内にある福音キリスト教会で行われた「三浦綾子生誕一〇〇年記念読書講演会」に参加した。講師は、森下辰衛で、福岡の大学で教えていたが、退職して家族とともに旭川に移住し、二〇〇六年に、三浦綾子記念文学館の特別研究員となった。一九二六年の十勝岳大噴火が背景となっている『続 泥流地帯』を中心に語り、三浦文学のテーマは罪と苦難だと強調していた。会場で配られた三浦綾子記念文学館館報『みほんりん』第四九号では、『細川ガラシャ夫人』を再読した田中綾館長が、ロシアのウクライナ侵略に思いを寄せて、一節を引用している「玉子は深いおどろきを感じた。(ここでは、人が人を殺すことがない)ここには戦さがなかった。人々は人を殺すことを学ぶ必要がなかった。戦どころか、物盗りもなかった。彼らは畠を耕し、機を織り、物を煮、木を切ることを知っていればよかった」

私も再読したが、結びの文章「顧みて自分の信仰の貧しさを思いつつペンを擱く」に現れた、三浦綾子の自分を低くする姿勢に胸が熱くなった。三浦綾子は歴史小説をもう一作書いている。それが、江戸後期の、知多半島の熱田港を出帆した千石船の遭難事故を描いた『海嶺』である。

翌々日の一三日日曜、『北海道新聞』の朝刊を覗いたら、山本周五郎がいた。「風 論説委員室から」というコラムで、作家の山口瞳が年二回、サントリーの新聞広告に、三〇〇字のエッセーを寄せていたことが紹介されていた。一九八一年の四月一日、入社式を迎えるこの日には、スェーデンの劇作家ストリンドベリの言葉を山口は引用している。

「「苦しみつつ、なおはたらけ、安住を求めるな、この世は巡礼である」山口さんが私淑していた作家の山本周五郎さんが、人生の指針として警句でもあった。山本さんの代表作である「青べか物語」にも、主人公のつぶやきとして登場する」

最後の「この世は巡礼である」を、自分に言い聞かせるように、私は何度も口にしたり、日記に記したことがある。このストリンドベリの言葉をソフトにしたような文章を、最近、昭和三部作を仕上げた松井今朝子の、シリーズ第一作『壺中の回廊』(集英社、二〇一三年)で見出した。

「人間はすぐに年を取って、誰しもいつかはこの世も今日、今日よりも明日が幸せだと信じて過ごしたいのではないか。そうだ、そうして人間は現実のほうを徐々に変えてきたのだ。昨日よりも今日、明日が今日よりもっと幸せになるよう願って」

松井今朝子は、一九九七年、『仲蔵狂乱』(講談社、一九九七年)で時代小説大賞、二〇〇七年、『吉原手引草』(幻冬舎、二〇〇七年)で直木賞を受賞している。松竹で歌舞伎の制作、フリーになってからは歌舞伎の演出・脚色にあたった経験を生かして、歌舞伎や演劇を舞台にした作品を多く書いている。前掲『壺中の回廊』に続けて、『芙蓉の干城』(集英社、二〇一八年)、『愚者の階梯』(集英社、二〇二二年)を上梓し、昭和三部作を完成させた。一作目は、浜口首相が狙撃された昭和五(一九三〇)年、二作目は、日本が国際連盟を脱退した昭和八年、最終作は、傀儡国家満州国の皇帝の溥儀が来日した昭和一〇)年と、ファシズムが進行する時代が背景となっている。殺人事件は歌舞伎の殿堂で起こる。解決に尽力するのが、江戸歌舞伎狂言作者の末裔で大学講師の桜木治郎。作者の軍国主義と戦争に抗う批判精神が作品ににじみ出ている。『愚者の階梯』には、憲法学者の美濃部達吉が攻撃された天皇機関説問題にかかわる、桜木治郎の思いが綴られている。

 

 

 石原真衣『〈沈黙〉の自伝的民族誌サイレント・アイヌの痛みと救済の物語』を読む

木村玲子

 

著者の石原真衣さんは、祖母がアイヌで、母がハーフのアイヌ、父は屯田兵の子孫の和人である。十二歳までは普通の日本人として、毎夏には平取に住む日本的な生活をしているおばあちゃん(ツヤコ)のもとを訪れて過ごした。この大好きなおばあちゃんがアイヌであることを母(イツ子)から知らされたのは十二歳の時。その時母は「アイヌについて理解ある人以外には話してはいけない」「大人になって色々なことを考えた時に、自分で判断しなさい」と伝えた。

このときから、真衣さんは「話してはいけない」秘密を持ってしまった。が、普段は今までと変わりなく過ごし、一人娘の教育への投資を惜しまない両親のもとで、中学ではアメリカへのショートステイ、高校ではアメリカ留学をし、大学を卒業してから、英語教員として勤務してきた。その間、親しい友人に自身がアイヌの出自を持つことを伝えた時、友人は言った。

「あなたがアイヌでも、気にしない」

その言葉に大きなショックを受ける。「アイヌでも」というとき、「でも」の上にくる言葉は、優位に立つ言葉ではなく、社会的に劣位に置かれた言葉だろう。また、「アイヌの出自を持つ」と言っただけなのに、アイヌと決めつけられてしまう戸惑い。

そんなこともあり、真衣さんますます自身の出自を語らなくなった。が、そうした「沈黙」に耐えられなくなった二八歳の時、自身の苦しみは何なのか、何処からくるのか研究しようと仕事を辞め、北大大学院に進学し、アイヌ民族に関する文化人類学の研究を志した。

その中で苦悩しながら、自身と向き合って研究を深め、修士論文、博士論文等を経てまとめたのがこの著書である。

 

世界中の先住民族や、抑圧された民族ーその中には黒人や、在日朝鮮・韓国人等も含まれるーを論じた人類学や、歴史哲学などの書物を読み、また実際にカナダやアメリカなどでそうした人々に会い、自身の問題意識と向き合ってきた。その間には、迷宮入りして困惑し、絶望的になることもあった。

社会的に駆逐されたアイヌと、「開拓のリーダー」としての屯田兵ー両者の物語は「私」の存在に刻印されていない。なぜ私は歴史を持たないのか。アイヌの出自を持つことをカミングアウトして始まった大学院での研究生活の中で、様々に誤解もされ、なかなか自身の存在を理解してもらえなかった。

「アイヌでも和人でもない」と語ると「アイデンティティが曖昧だ、揺らいでいる」

「アイヌの出自を否定している」と言われ、いつもアイヌの出自が問題視され、和人性について誰も了承しない。

近年、アメリカでは、先住民の出自を持つということを公表する有名人が増えているという。

たとえば、エルヴィス・プレスリーの高祖母の母が、100 %チェロキーインディアンの血統であったとか、女優のアンジェリーナ・ジョリーはイロコイ(アメリカ先住民族)の先祖を持つと言っても、誰も本人がそうであるとは考えない。しかし日本では、「アイヌの出自を持つ」といっただけで、容易に「アイヌ民族出身の」とみられ、大部分をしめる和人性誰もが見落としてしまう。

 語れば語るほど自身の存在は透明になり、痛みは増し、不可視化し、絶望の淵へ追いやられてしまった。

 

「植民者と被植民者、マジョリティとマイノリティ、和人とアイヌ、加害者と被害者―という論争はどちらかの当事責任しか用意できない。

これらの二項対立的な枠組みを前提とする議論は、私が自分について思考する機会を奪い、思考されない存在である『私』は声を失ってゆく」「私はまるで透明人間だ」とますます沈黙してしまった。

そんな状況を打開したのは、二〇一六年北大の納骨堂に眠っていたアイヌの遺骨が、杵臼コタンに返還される行事に参加した時だという。

遺骨の「沈黙」に接して、そこからくる遺骨たちの叫びー「忘れるな」「沈黙から言葉を紡げ」の声に押されるように目覚めた。

〈沈黙〉の痛みから言葉を紡ぐことは、未来への道を開くだろう。「沈黙は創造的可能性である」と。

「その背景には、人類にとって本質的な事象があるだろう」「ある社会構造における声なき主体という問題が重要なテーマである」「この〈沈黙〉は私一人のものではない」という問題意識に辿りつく。

 

国内外で講演をすると、多様な人々から共感の声を得た。多数派とは異なる、民族や人種的な背景を持つマイノリティのみではない。「ヒバクシャ」の子孫、福島で暮らす人々、福島から避難した人々、性的マイノリティ、病や障がいを抱える人々等々。

「出自について沈黙せざるを得ない社会的要因があり、語りたくても語れない、自己の存在が分からず、何を語ればよいのかわからないという状況を明確にするために、アイヌの出自を持ち、自己が何かわからなくなり、沈黙している人々を指す用語として」〈サイレント・アイヌ〉という、「〈沈黙〉の痛みという問題領域」を提唱する。

そして、それぞれ固有のライフヒストリーと、ライフストーリーを語るなかで、その見えない世界を明らかにしてゆこうとする。実験として自身のファミリーヒストリーを四世代前の曾祖母「つる」から「ツヤコ」「イツ子」とルーツを探ると共に、自分自身を「当事者」化して自伝的民族誌「真衣ーサイレント・アイヌの物語」を語っている。

大好きなおばあちゃんがアイヌであるという出自から、眼をそらしたくないという思いと、二八歳まで普通の日本人として生活してきた中で培ったものを大切にしたいという思い。その過程で「異例なるもの」として沈黙する存在から、見えない世界を照らし出すことで力を供給する存在「コミュニタス」へと「私」を創造していき、その中で「私」は救済されていった。

興味深いのは、真衣さんは日本のキモノ(着物)が大好きで、今では週の半分は着物で過ごし、夫と共に時折着物を着てのイベントを開催しているという。アメリカ留学の際、日本のキモノが世界的に認知されていることを知ったことも影響しているとか。

アイヌの民族衣装アットウシも素晴らしいと思うが、それを着ることには抵抗があるという。

 

ここに至るまでの葛藤、その複雑なカオスに対しての探求は、実に緻密であると同時に、多面的に目配せしており、この短い文の中に短絡的に理解したかのように書くのは、危惧される

だが、二項対立から零れ落ち、沈黙せざるを得ないその歴史的過程と社会構造を明らかにしようとする真摯な姿勢と、絶対的な「沈黙」の痛み中にある自己を曖昧にしない姿勢、そしてその学術的探究にも敬服させられる。

その過程の中で、「混乱しているのは『私』のアイデンティティではなく、『私』にアクセスすることのできない既存の秩序・構造なのである」というとき、この問題は私を含んだ日本人全体の問題であり、背景に「北海道命名一五〇年」があることを考えると、「和人」としての自分は何者かという問を突き付けられてもいることを知る。

 

今、真衣さんは北大アイヌ・先住民研究センターの助教として、〈サイレント・アイヌ〉として語り、活躍している。

 

しかし、この〈サイレント・アイヌ〉というのは過渡的なカテゴリーであり、いつの日か、アメリカで出自を語る有名人たちの様に語れるようになったときには、消滅する存在だとも。その萌芽のようなものを、母校の高校で講演した時に、高校生達の反応に感じたという。

そんな時代が来ることを願ってやまないし、また早晩来るであろうことを私も予感する。

 

余談だが、真衣さんのお父さんの、古書店「サッポロ堂」()店主石原誠さんは、今病の床にいる。妻のイツ子さんが、規模を縮小して場所を移し運営している。

 

私の夫が亡くなった時、考古学、歴史学関係の書籍をかなり引き取ってもらった。この夏残ったアイヌ関係の本を引き取ってほしい旨電話したが、これ以上規模拡大は難しいとのことで、やむなく弘南堂さんにお願いした。

札幌民主文学通信 

二〇二二年十一月〇一日 288

 十一月例会誌上合評

 合評作品

宮腰信久

「峰々に憩いあり」

      「民主文学」十一月号

 

 意見1        小崎勢津子

この作品は、N学園における民主化闘争を題材にしている作品として読みました。

それは一人の校長の人事配置からはじまった。校長権限の強化により、これまで民主的に運営されてきた職場が、凄まじい勢いで崩され、仲間が分断されていく状態が目に見えるように描かれています。

校長がとった行動は、1.全員に「授業満足度アンケート」を実施。2.現状改善のために校長自ら全教室の授業観察。3.問題教師の呼び出し。4.授業案の提出強制.5.優良な授業の公表。

その結果、教員同志が分断され、組合脱退、第二組合の結成。そして、これまでの組合は少数になり組合活動も勢いをなくしていった。 

その背景に石原都知事の「悪しき平等主義が生徒の学力低下を招いている」として、「教育改革」の名のもとに、教育現場に競争原理が持ち込まれ、N学園と同じような施策が多くの学園に拡がっていった。ところがN学園では、2年後には校長を退陣に追い込んだとなっている。

組合員が減り、分断された職場の複雑な人間関係の中で、どのような闘いを繰り広げていったのか書かれていないので、唐突すぎて不自然に感じる。

分断された職場はもとに戻らなかったという職場の状況は、組合の闘いが職場に根ざしていなかった結果と思う。教員として、自らどのような教育を行おうとしていたのかが見えないし、組合としても教育現場における理想とする教育実践も出てこない、組合の果たす役割が「校長退陣」に偏っていたのかと感じる。

校長の組合つぶしに対しても、組合の中枢にいた役員は何を討議し、職場の構成員に何を求めて活動していたのか見えない。権力を持つものは、その権力を振りかざして様々な攻撃をかけてくる。役員はその攻撃に負けまいとして立ち向かっていかなければならないのが実情だと思う。P27で書記長として「敵の攻撃に負けまいとして身構えてばかりで、職場一人一人を思いやる気持ちに欠けていたのかもしれない」との指摘は大事な視点だと思う。しかし、「闘うだけが能でなかったな…」と呟いている場合ではない。そのことで被害を被るのは、多くの職場の構成員や学生である。

一人一人を思いやる気持ちを要求にまとめて共に闘っていく姿勢が大事だったと思う。

教育現場における組合活動は、どのような教育を目指すのかを明らかにし、そのための労働条件改善や民主化闘争だろう。指導者には誰のために、何のために闘うのかを見つめなおし、構成員の要求を大事にして攻撃に立ち向かうという姿勢が求められると思う。

タイトルについて、タイトルを「峰々に憩いあり」としている。P23に、亡くなった浅田が書記長の横山に伝えた最後の言葉として「峰々に憩いあり」「待てしばし」「今に、いいことがあるかもね」という台詞がある。作者は学園の民主化闘争の教訓として、これを読者に伝えたいことだったのだろうか。

   

 意見2      松木 新

武田泰淳の『司馬遷―史記の世界』の中に、次の文章があります。

〈世界の歴史を書き、歴史全体を考えようとするものは、まず「人間」をきわめなければならない。(略)「人間」の姿を描くことによって、「世界」の姿は描き出される〉

N学園教職員組合のたたかいには、学ぶべき多くの教訓があり参考になりますが、そこに「人間」が描き出されていなければ、無味乾燥な組合報告になってしまいますが、この小説では、浅田守の姿が見事に立ち上がっています。彼を際立たせる存在としての横山俊彦の姿も、ていねいに描かれており、六年間のたたかいの歴史に生命を吹き込んでいます。

とくにゲーテの「旅人の夜の歌」の効果は抜群です。

この作品で考えさせられたことは、若い二人の教員が、〈勇気ある証言〉をしたにもかかわらず、浅田にはなぜ〈「証言者になる勇気がなかった」〉のか、です。

横山は、〈勇気がなかった・・・・・・。それを言えば、私だって勇気がなかった。最後まで組合に踏みとどまって闘ってはいたが、心中はびくびくものだった。いつやめさせられるか・・・・・・〉と、浅田に同情することで、この作品は閉じられていますが、もう少し、突っ込んで考えてみる必要があると思いました。

加藤周一が、斎藤茂吉、武者小路実篤、高村光太郎、菊池寛は、〈決して狂信的軍国主義の批判者ではなく、むしろ支持者であった〉ことの理由として、次のように述べています。

〈政治的世界からの意識的な離脱は、政治的世界を批判する武器を用意しない。政治の側から個人を組み込もうとする力が強まったとき、政治哲学の上でいわば無防備の世代が、しばらく忘れていた大日本帝国との自己同定の潜在的欲求を、顕在化させたとしても、不思議ではない〉(『日本文学史序説』)

〈浅田守には、一種、超然としたところがあった〉、〈浅田の父親は、知る人ぞ知る、戦前から戦後にかけて活躍した文人で、世俗を嫌悪し、精神の高さを求める生き方が、熱心なファンから今でも愛されている〉という文章を読むと、浅田は、加藤がいうところの〈政治的世界からの意識的な離脱〉を心情としていたようです。

〈政治の側から〉この小説では、それは牧村勉校長ですが、〈個人を組み込もうとする力が強まったとき〉、〈政治的世界を批判する武器を用意しない〉浅田が、〈「証言者になる勇気がなかった」〉のは当然の帰結だったといえるでしょう。

横山が、浅田の態度が内包するこの国の精神的脆弱性にまで目を向けることができたならば、この小説はもっと奥行きの深い作品に仕上がったと思いました。

 

意見3       豊村 一矢

独り善がりな作品だと思う。

作品は、「私立男子高・N学園を舞台に、カッコ付き「民主的な学園運営」を守り推進しようとする教職員と、それを覆そうとする校長や理事会との抗争が主な内容だ。

 作品が言う「民主的な学園運営」とは?  

➀「教頭以下(の校内人事)は教職員で互選する」➁「校長権限の抑制(校長に校長の職務をやらせない)」➂「職員会議決定の尊重(職員会議、最高決議機関論)」➃「理事会・評議員会に教職員やPTAの代表を入れる」と書かれている。

➃は私立学校だから出てくる言葉だが、いずれにしても、このような学校運営は民主的でないどころか、民主的とは真逆であり、学校の形態をなしていない。致命的なのは、学校教育法に反しており違法だということだ。学校教育法と私立学校法は、ともに教育基本法のもと、憲法の精神で運営される学校の組織を明示している。小学校で言えば、第二十八条で、配置すべき職員と、それぞれの職務について規定している。

作品に出てくるこの学校の実態は、はっきり言えば、教職員に乗っ取られた学校だ。しかも、これらの教職員を支えているのが、教職員組合「全教」になっている。

わたしが信頼する全教を貶めるようなことは書かないで欲しい。

 このような運営を行った学校は、瞬く間に崩壊し、多くの犠牲を伴って、生まれ変わるか、消滅するかだろう。

作品のN学園も然り。四半世紀前、いくつかの学校で起こった事例でも、同じような経過をたどったと記憶している。

 

作者は、教育基本法、学校教育法、私立学校法をどのように理解しているのだろうか。

 私立高校も、当然に、公教育を担うものとして、全く同様に位置づけられ、設立も運営も、公立学校同様、先の三つの法に合致しなければならない。

教育基本法の「前文」からの引用。

最初の文「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようと決意を示した。」

前文の終り・シメの文「ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」

 

➀~➃以下が事実であれば、学校法人N学園は、私立学校法第五十条により解散させられる可能性がある。私立学校は、学校法人としての要件に反した場合、あるいは要件を満たさない場合、法律により解散処分を受ける。  

それらの所管庁は、文部省でなく、都道府県知事だ。

ちなみに、公立学校に➀~➃以下のような事実があった場合、校長はもちろん、関わった教諭等は処分(免職、戒告、減給、訓告、降格など)を受けるだろう。それは弾圧ではなく、違法行為に対するする処分だ。

 

作品での、牧野校長との闘いにはエールを送りたい。

だが、闘いの方法を間違えると、換えって相手(牧野校長、石原慎太郎みたいな人物、背後の悪いヤツ)を利することになると思う。

 

意見4       浅野 勝圀

 「しんぶん赤旗」の「文芸時評」では木村朗子さんが「かつて運動にかかわった人の回顧小説」としていますがちょっと「?」という気がしました。

主人公の横山らが勤務したN学園はもしや日本学園では?と胸をつかれましたが、何の根拠もありません。国民学校4年の夏に東京から疎開してきたKという友人と親しくなり、引き揚げた後も文通を続けました。彼の住所は今もそらんじて(・・・・・)います(杉並区方南町八七)。その彼が日本学園に進学したことを不意に思い出しました。

全六章の本作では導入部(一、二章)がなんとも不自然でぎこちない展開で気になりました。しかし五~六章は一気に読ませる魅力がありました。

この落差のことを今日は話し合えたらと思っていました。

主人公たちが経験した事柄はほとんどぼくの北見北斗時代と合わせ鏡のように重なります。OBを中心にした校長派には地域反動勢力の後ろ盾もあって、ある年見事に組合執行部を乗っ取られた苦い思い出があります。これは一年後に回復しましたが、組合脱退者が続出し、10・21の参加者は13名という状況でした。また働き盛りの年代の人たちがエト(・・)にちなんだサルトリ(・・・・)会を作り、これはたとえばUさん(早生れ)を巧妙に外したものです。

マンパワーポリシーの推進、小学区制から大学区制へ、強制人事異動などが吹き荒れることにつながりました。

そういう点でこの作品はよく現実を暴き出しています。導入部の作りすぎがなければ!と惜しまれます。

まとまりませんが、感想の一端を書きました。

 

意見5          泉恵子

久し振りに例会に参加して、やはり対面合評のよさを実感しました。やり取りの中で一人では見えないことが見えてくるのは、意義あることです。

この作品を読んで、私自身の私学教員時代の組合を思い出しました。勤務した年(一九六〇年代の終わり)に組合が分裂し、ぎくしゃくした中でのスタートでした。あるストライキ権を巡って、50%台という僅差でストライキが確立し強行したことから、脱退者が続出し(三分の一位)、すっかり職場の雰囲気が変わったとのこと。それまでのリーダーシップのある校長に代わって迎えた公立高校退職の校長に対しても、「何もしない」と不満たらたらの声を聴きながら、以前を知らない私は、上からの指示ではなく自分達でより良い方向に進むしかないではないかと思っていました。

「何もしない」校長でしたから、あくどい攻撃はなく第二組合も創られませんでしたが、非組合員との確執の中での職場は教育環境として決して望ましいものではなかったかと。私は組合役員にはなっても、書記長などの重責はなかったので、「清濁併せ吞む」等と格好の良いことは言えないが、ナアナアの感じでやってきたかなと振り返ります。

この作品は、退職して十年以上経つ主人公「私」に、同僚だった浅田守の葬儀案内が届くところから始まる。親しくはなかった浅田との関係を見つめる時、どうしても組合との関係が絡んでくる。ここを詳しく描かざるを得ないが、この作品はあくまで浅田を描きたかったのだろう。私は書記長だったことから組合を脱退した浅田との関係はあまり良くなかったことが、いくつかのエピソードを交えて味わい深く語られている。

「不当労働行為」として組合を切り崩した学園側と争ったときの裁判で、証言できなかったことを「勇気がなかった」といっていた浅田。

若い組合員の二人の教師が証言できたのに、年配のベテラン教師が勇気がなく証言できなかったのはなぜか、ということの追求はこの作品にはないが、例会での話は興味深かった。若い二人は組合員であり、組合という後ろ盾があるが、ひょうひょうとして超然としているような浅田には後ろ盾がない、ということもあるかもしれないが。

浅田の父親は戦前から戦後にかけて、世俗を嫌悪し精神の高さを求めた文士だった。茫洋とした浅田も、父親に似ているかもしれないといことから、当時こうした作家たちは権力の攻撃があった時は、すっかり吞み込まれてしまった。

 日本人の抱えている問題に通ずるのではないかという提起は新鮮だった。

 

 意見6        泉  脩

私と同じ私立高校の教師が主人公の作品で、しかも組合書記長として同じ苦しみを味わっている。酒が飲めず、盃を交わしながら人間関係を作ることができないことも。

 私は悪らつな理事長と激闘したが、この作品の横山はズル賢い校長と激突した。そして二人とも勝利したが、失敗もしたのである。

 私は札幌地裁で一人の女性教師の解雇無効の判決を勝ち取って、職場復帰を実現し、反撃の口火を切った。横山は東京都労委で、校長の不当労働行為を認めさせ、校長を退職に追い込んだ。しかしこの間に組合も打撃を受けた。

組合員の脱退、横山は第二組合の結成と過半数の加入を許してしまった。

 日本の労働組合運動の右傾化と、政府=財界による強圧が背景にあった。

 この作品の面白さは、中立的な位置にいる教師、浅田の存在である。彼は組合では時々批判的発言をし、教育活動もユニークである。そして校長・教頭の圧力に負けて組合を脱退するが、第二組合には入らない。都労委での審問に、校長らの組合脱退への圧力を証言する勇気をもたず、このことを反省している。退職後十年以上経ってから、横山はこのことを知り、書記長としての力の不足を知る。職場の人間関係を築く力量の不足を痛感するのである。

この点でも、私はまったく同じだった。文学読書会をしたり、囲碁大会をしたり、マージャンをしたりしたが、一部の教員しか結集できなかった。何よりも、生徒への教育活動への打ち込みがかなり遅れてしまったのが、決定的だった。

九年間も「担任外し」を受けたのだ。

横山の教育活動について、この作品はあまり触れていない。やはり思うようにはいかなかったのかも知れない。教師はつらいよ、である。

 

 意見7        後藤守彦

民主的な学校の要であった教職員組合への校長の分裂攻撃と、それに対する抵抗が丁寧に描かれています。作品の舞台は私学で、私の勤務した公立学校と違う側面があるとは思いますが、私の体験と重ね合わせながら作品の世界に没入しました。主人公の、「敵の攻撃に負けまいと身構えているばかりで、職場の一人一人を思い遣る気持ちに欠けていた」との悔いの対象であった浅田の形象が秀逸だったと思います。

掃除当番をサボった生徒たちが、黙々と掃除をする浅田の姿を見て変化していくところなど、生徒たちの動きを通して浅田像を浮かび上がらせる描写もよかったと思います。分裂攻撃の始まりが校長による授業評価でしたが、褒められて喜ぶ教員の姿は頷けました。

私は管理職の道を選びませんでしたが、一〇人以上の校長の姿を見てきました。残念なことに、総じて尊敬の対象ではありませんでした。教員になって三年目に出会った校長は最悪でした。道教委による新任校長マル秘記録、職場の組合破壊に狂奔した九人の道立校長の秘密報告が明るみにでましたが、その一人でした。生徒がつくる学校新聞の発行を停止することまでしました。彼が熱心なクリスチャンであると知りショックを受けたことを今も鮮明に覚えています。

 

 意見8         村松祝子

一読して「峰々に憩いあり‥‥」の詩と共にそうだよなぁと自分の老いに照らし合わせ人生はそう言うもんだと納得し、幾分悲哀を含んだ終わり方にも心が和んで良い小説だと思った。

しかし皆とこの作品について語り合って後で読み返して見ると単なる老いの安らぎばかりでなく団結して闘う強さの素晴らしさも垣間見られる作品であるなと思う。

主人公横山俊彦は世田谷にある私立男子校・N学園の国語の教師である。

この学園の民主的教職員組合に襲いかかった組合潰しの騒動の中で横山は浅田と言う社会科の教師との浅い付き合いを通して職員組合の書記長としての自分の未熟さを友人の中井の話から気付くのだった。

一九九九年の石原東京都知事による凄まじい教育行政の反動化の中で為政者側の巧みな組合潰しのテクニックはよく描かれていて現実の厳しさが想像された。

裁判闘争の場面においても、不当労働行為を衆目の面前で堂々と否定する校長の姿はまさに現実の世の中を突きつけられる。

物語の後半組合を脱退した浅田が書記長の横山に相談したかった案件を抱えていたと浅田と親交のあった中井から聞かされる。

それは都労委で不当労働行為の証言台に浅田自身が立とうかどうしょうかと葛藤した件であった。

しかし浅田は横山に相談するチャンスを自ら捨てた挙句自分の勇気のなさを心に抱いて旅立った。

その浅田の葬儀に中井と一緒に横山は参加し浅田の無念に答えられなかった自分自身の力不足に改めて気づくのだった。

書記長として大勢の組合員と共に当局と戦っている横田自身でさえ権力側と対峙するときは恐怖に慄くのだ。

仲間と一緒であるからこそ戦えるのであって、ましてや一匹狼のように孤立している浅田は葛藤し悩んでもその勇気は湧いてこなかった。

勇気とは仲間に支えられてその中から生まれて来るものなだとこの小説から教えられた。

集団の大切さは共にその根元に集まってくる一人一人の大切さに繋がり大きな勇気もその中から作り上げていくものかもしれない。

浅田の個性がもう少し具体的に描かれていたら物語がもっと盛り上がったかなと思った。 

後半横山の心の苦しみや苦い思いも垣間見られ、そこが物語の主題だと思った。

 

 意見9         石川節子

一通り読み終えて、題名に違和感と不満を持ちました。また、始まりの方がなんとなく、もたつきを感じ、最初の四行はない方が良いように感じました。

この作品は全体として力作で、今まで、私が知りたくても知り得なかった多くの事柄が詰まっていて、とても有り難い作品でした。

合評をしている時、隣の席にいたAさんが、

「何の根拠も有りはしないのだけれど、もしかして、この作品のN学園とは、日本学園ではないかと、思いました。昔、同期の友が、『日本学園に行くんだ』と言って居たことが、今、鮮やかに蘇ってきて・・」という発言に、いいしれぬロマンを感じ、私は、しばしその長編小説に、酔いしれました。

以前にも、そんなことが有り、それが現実の運びとなって、「作者と幼少の頃の友が、面会を果たす」と言う展開があり、読者として、あんな楽しい事はありませんでした。

校長がめちゃくちゃな発言をする、十八ページ上段十五行目、アメリカだったら、ブルーカラーですよ。ホワイトカラーは望むべくもない というところがあります。

是は悪しき儒教の「労働者をバカにする悪しき教え」と同じで、世の風かみもおけないとんでもないことで、悪い校長を表現するには、とても効果的な表現だと思いました。

校長側との対立点も詳しく表現されているし、その重みから見ても、浅田との交流の思い出よりも、ズバリ争議の内容までも表すような題名にした方が建設的で良いと思いました。 

憩いありは、疲れの方が感じ取られて「軽い」、と思います。

 

 意見10         室崎和佳子

何度読んでも、作品の意図がよく分からない、なぜこの題名なのか、筆者の意図するところが掴めない作品であった。

 石原都政のもと、悪辣な校長と闘ったN学園の組合運動のことはよくわかる。

 でも、筆者は、この闘いを訴えたい訳ではなさそうだ。少なくとも主題にしているとは思われない。

 では、主題は何か。 

 峰々に憩いをもって闘わなければ人間の心はつかめない、ということなのだろうか。

 消化不良のまま読み終えたことが残念だった。

 

意見11       柏原 竜

題名の『峰々に憩いあり』とは、どのような意味か解らなかった。中ほどで「人生に困難は次々とやってくる。一つ困難を乗り越えたら、次の困難が待ち構えている。しかし、たまにはしばしの憩いがなくちゃね。そうして、しまいに最期がくる」の説明が入って、納得した。

20数年前、「組合が支配する学校」を覆すために乗り込んできた牧村校長に対して、組合はたいして警戒心も抱かないでいた。彼の並々ならぬ覚悟をもっと真剣に受け止めるべきだった。当時書記長をしていた横山は忸怩たる思いを持っている。牧村校長のすさまじい嵐に翻弄され続けた。人事権を握り、さらに校長や教頭によってすすめられた、教職員に対する組合脱退、第2組合への加入の勧めが行われた。横山達は不当労働行為として、労働委員会に提訴した。

それから2年後牧村校長を退陣に追い込んだが、闘いの傷跡は大きかった。組合員と第2組合員とに分断された職場は、二度と元には戻らなかった。やがて横山は定年を迎え心残りながら退職せざるをえなかった。

権力側の攻撃は止むことなくいつまでも続いていく。しつこい。なぜそんなに攻撃をするのか。お金がほしいのか。自分の地位を維持し上に上がって行きたいのか。それとも、その集団の流れに乗っていかないと生きていけないのだろうか。よくわからない。権力側の1人1人には様々な動機があるのだろう。  

我々の闘いはまだまだ続いていくのだろう。 

「峰々に憩あり」と口ずさんでいた浅田という人はどの様な人なのだろうか。組合を人間関係で引きずられて脱退して第2組合に行き、そのことを不当労働行為であると裁判で発言しようと思ったが勇気がなく出来なかったと言っていた。自意識が高く、プライドが強く、しかも教育者としては高いレベルである。

浅田のように第三者的な物の見方をして、関わりたくないと距離を置く人は結構いる。しかし、悪い人ではない。多様性が叫ばれているが自分の範疇では認識できない人が増えて複雑化していくのだろうか。 

職場で理不尽な事がおこっても、攻撃されても断固として頑張れる人,挫けていってしまう人は何処が違うのだろうか。育ち方か、品性か、環境か。

これは、同じ11月号に載っていた造船所を舞台にした「三人の造船工」を読んでも感じた。たった一度の人生、闘いに明け暮れる人生、一歩引いた人生、引いて崩れて行ってしまう人生、引かざるを得なかった人生。自分は労働者の闘いの現場で生きてきた人間ではないのでよくわからない。しかし権力者とはすざましい。

 

                              

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『六つの村を越えて髭をなびかせる者』が面白い

               松木  新

天明の蝦夷地調査隊に参加した最上徳内を主人公にした西條奈加『六つの村を越えて髭をなびかせる者』(PHP研究所 2022年1月)が、とても面白く参考になりました。

天明5年(1785年)3月、老中田沼意次が普請役山口鉄五郎を隊長とする蝦夷地調査隊を派遣しました。これには、青島俊蔵と彼の竿取最上徳内も参加しています。調査隊は二手に分かれ、青島や徳内らは東蝦夷地のクナシリ島まで、西蝦夷地はカラフト島まで、足を伸ばしています。

翌年は徳内だけで調査がすすめられ、彼はエトロフ島でロシア人と会い、ウルップ島に渡りますが、将軍家治の死と田沼意次の失脚により、同年十月、蝦夷地調査が中止されます。

寛政元年(1789年)5月、クナシリ・メナシのアイヌが蜂起、この戦いを調査するために、青島俊蔵と最上徳内が現地へ向かいます。青島が書いた戦いの経緯をまとめた報告を目にした幕府は、翌年、松前の役人と馴れ合って報告書をまとめたとの嫌疑をかけ、青島に遠島処分を下します。絶望した青島は、牢内で自死します。青島の死後、普請役になった徳内は、その後6度も蝦夷地に渡り、調査を続行します。

この小説のストーリーは、底本である照井壮助『天明蝦夷探検始末記 田沼意次と悲運の探検家たち』(八重岳書房 1974年9月)とほぼ同じですが、アイヌの側に立って書くという作者の創作姿勢が鮮明なために、この作品の現代的な意義が鮮やかに浮かび上がってきます。

蝦夷地に向かう徳内が根底にすえたのは、師である本多利明の次の言葉でした。

〈アイヌの民は、ずっと昔から蝦夷地にすまっておる。何百年、いや、ことによると千年以上も前から在るのかもしれん。雪と氷に閉ざされたさいはての地で、それほどの長きにわたり、子孫を絶やすことなく存してきたので。その智恵と工夫は計り知れず、北方を拓くには欠かせない。ぜひ助力を乞い、共に手を携えるべき相手だ〉

アッケシの惣乙名で、クナシリ以東の島々を含む東蝦夷地すべてのアイヌを束ねているイコトイと話し合った徳内は、イコトイの胸の内にある矜恃に触れます。

〈イコトイが本当に言いたかったのは、別のことかもしれない。人が生きるには、なくてはならないものがある。ある意味、糧以上に大事なものがある。

それは誇りだ――。人として、民族としての誇りこそが、生を営むには欠かせない。

対等の立場にあってこそ自尊が芽生え、見かけの貧富にかかわらず暮らしを支える。昔日のアイヌの民のように自然の中で伸びやかに暮らせば、何の不足もない。

誇りを支えるものは自由であり、両者は表裏一体のものだ〉

蝦夷地の調査を終えた徳内は、気持ちが高ぶり、じっとしていられません。

〈苛酷でありながら、いや、険しい道程だったからこそ、生きる喜びを肌で感じた。徳内の裡では、蝦夷での二年の日々が、ことのほか輝いて映るのだ。

 その景色の中にフルウが浮かぶと、いっそう明るさを増す。土と森と獣のにおい、海風の唸りと、森閑とした雪原。はるか遠くまでさえぎるもののない、海のようなあの大地。

五感がいっぺんによみがえりどうしようもなく血が騒ぐ〉

クナシリ・メナシの戦いを調べるために現地に赴いた徳内は、この戦いは〈一揆だ〉と確信します。

〈どんな理由があろうと、仕掛けたのはアイヌの側であり、非もまた彼らにある。徳内とて、わかっている。それでも、蜂起するしかなかった心情を、ぎりぎりの選択であった事情を、よく承知してもいる。今回のことは、まさしく一揆だ。犂や鍬を手に、領主に歯向かうよりほかに生きる術がなかった農民と何ら変わりない。ただ、野生の獣を退治し、武に優れていただけに、その分犠牲も大きかった〉

この小説で初めて教えられましたが、この戦いの元凶である飛騨屋久兵衛は、病弱な二十五歳の若者で、ひ弱なために一度も蝦夷地に足を運んだこともなく、商は手代に任せ切りだった、ということです。

アイヌに殺害された七十一人のうち、松前家臣の一人を除いて、実に七十人が飛騨屋の雇人でした。飛騨屋は、松前藩に貸し付けていた一万五千両を帖消しにすることで幕府に詫びをいれ、お咎めなしになりました。

イコトイやツキノエの説得を聞き入れて自訴したアイヌの指導者三十七人は(その中には、二十歳にも満たないツキノエの弟セツハヤウも含まれていました)、ノツカマップで詮議されることもなく、直ちに斬首されました。

以前、下呂温泉に行ったとき、駅前にある飛騨屋久兵衛の銅像を目にした時の違和感が忘れられません。

アイヌはこれから〈どの道をどう生きるのか〉、〈この問いには正解なぞない〉にもかかわらず、徳内は考え続けます。

〈和語が浸透すれば、アイヌ語を忘れるのは必然であり、農耕が行きわたれば、培った狩猟の技も廃れよう。あの独特の装飾すらも、髷や着物に変わるかもしれない。

文化はおしなべて暮らしに密接しており、少数が多数に吸収されるのは世界の慣いだ。

それでも、民族の誇りだけは、失ってはほしくない〉

なお、この小説のタイトルは最上徳内を象徴しています。徳内が松前で最初に出会ったアイヌの若者から、〈「六つの村を越えて、髭をなびかせるものは何か?」〉と謎かけをされます。そのこたえは「キケパラセイナウ」でした。イナウには二種類があり、削りかけを散らしてあるイナウが「キケパラセイナウ」、削りかけを撚ったイナウが「キケチノエイナウ」です。イナウについては、知里幸惠編訳『アイヌ神謡集』の第一話「梟の神の自ら歌った謡 『銀の(しずく)降る降るまわりに』」のなかにも登場します。梟の神が小さい家を立派な宝物で一杯にしたとき、その家の老人は感謝の気持ちを込めて、〈イナウの木をきり/りっぱなイナウを美しく作って〉梟の神を飾るのです。

物語の最後、親しくなったアイヌの若者は、この謎かけの答えは徳内自身だと言い、次の文章で閉じられています。

〈イワン コタン カマ レキヒ スイエブ ヘマン ネ ヤー

六つの村を越えて、髭をなびかせる者。

仰いだ冬晴の空に、自身のその姿がくっきりと浮かんだ〉

 

加藤利器『赤いテラスのカフェから』

フランスとアイヌを結ぶ壮大な話

泉 脩

 著者の加藤利器(りき)さんは、一九五六年に千葉で生れ、東北大学を卒業後に北海道新聞社に勤めた。一九九四年から九八年にかけてパリ駐在員になり、帰国後は論説委員などを勤めた。現在は札幌日仏協会理事長。

 パリの中心のシャンゼリゼ通りに面した建物の四階に、道新パリ支局の部屋があり、階下の赤いテラスのカフェで多くの人々と会談した。そのうちの一人、文芸評論家の菅野昭正氏との話から、フランスとアイヌの不思議な関わりが解ってきたという。

 一九八四年、道新はパリ発の大スクープを報じた。フランス東部のスイスに近いブザンソンの美術館で、十一枚の古い日本の絵が発見された。

一七八九年、フランス大革命の勃発の年、北海道の東部でアイヌの反乱が起きた。「クナシリ・メナシの戦い」と呼ばれた。当時北海道は蝦夷地と呼ばれ、アイヌは松前藩に支配されていた。家臣たちは直接アイヌと取引せずに交易を請け負った商人たちに任せた。交易だけではなく商人たちはアイヌに暴力や脅迫をして、安い賃金や品物で長時間労働させ、食料も確保できず餓死するアイヌもいた。アイヌの女性への性的な暴行行為が横行し、アイヌの怒りが爆発したのである。すでにアイヌの大反乱が二度起り、松前藩の武力と謀略で鎮圧されていた。そのためか十二人の酋長(しゅうちょう)がこの反乱を押え込み、多くの参加者を処刑した。松前藩はこの十二人を招き、これに応じた五人を歓迎した。この時、松前藩家老の蠣崎波響(かきざきはきょう)が、この十二人の酋長の見事な肖像画「夷酋列像」(いしゅうれつぞう)を描いた。アイヌが完全に服従したと、内外に知らしめるためだった。

 このうちの十一枚が、どうしてフランスに渡ったのか。加藤さんはブザンソンを訪ね、多くの人に会い、調査したのだ。そして加藤さんは二つの仮説を立てた。

 第一は、幕末に将軍慶喜の要請で派遣されたフランス軍事顧問団のジュール・ブリュネである。彼は最後まで旧幕府軍に参加し、ぎりぎりで箱館港のフランス軍艦に脱出した。この時に滅亡寸前の松前藩から手に入れたのではないか―というのだ。

 第二は、同じく幕末に来日した宣教師メリメ・カションが、財政困難な松前藩から買い入れたのでは―というのである。彼は日本語をマスターして箱館に教会をつくり、やがて通訳として活躍した人物である。

 加藤さんの綿密な調査が、この本の中心になっている。さらに北海道の先住民アイヌへと関心が拡がり、興味深い考察を繰り広げている。加藤さんは、「人権」を世界で初めて主張したフランスの思想家の業績を明らかにし、フランス大革命の中で作られた「人権宣言」を讃え、カントの「永世平和」の主張も挙げ、日本国憲法第九条の「戦争放棄」の源泉を明らかにした。そして日本の先住民のアイヌの権利擁護へと及んでいるのである。

 加藤さんのこの本は、加藤さんの新聞記者としての豊かな経験と、この中で会った内外のすぐれた学者、評論家、政治家などとの交流を通じて、たどり着いた現在の心境をくっきりと、力強く書いている。

 私は長く「北海道新聞」を愛読してきた。それだけに一九五四年の「深川西高あゆみ会事件」では、北海道新聞地方版の大きな過ちと激しくたたかった。道新本社にも抗議をした。そしてこの経験を、前々著書『歴史を学んで七十年』に詳しく書いた。道新論説委員の書いた本を読み、評論を書くのは今回で二回目となる。

 この本で力強く主張されている人権と戦争放棄(恒久平和)は、私が七年間の学生時代に、もっとも打ち込んだロマン・ロランの生涯と主張と一致している。

私は、今でもこの偉大な作家・思想家のヒューマニズムを信奉している。時代的制約があるにせよ、やはり彼の業績は立派だと思う。

 八十八歳の高齢になり、世界中が多くの困難に見舞われている時、若き日の探求に通じる加藤さんの立派な本を読むことができて、良かったと思う。この本が、私の多くの本作りのパートナーである竹島正紀さんと井上美香さんの協力を得て完成したことも、うれしいことである。

付記 道新論説委員の書いたもう一冊の本は、同じ頃のウィーン駐在員の書いた滞在記である。

 

 

 

 

となりで暮らす人たちを

理解するということ

後藤守彦

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房、二〇一八年)を翻訳し、韓国の現代小説のブームを生み出したともいえる斎藤真理子が、翻訳以外の日本語の単著を初めて上梓した。それが、『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス、二〇二二年)で、文芸評論家の川村湊は、「文芸評論というより、非常に良質な韓国文学の案内、手引書といってよい」と評価している(「日韓交流 言論の場の創設を」『北海道新聞』二〇二二年八月三一号)。そして、川村は次のように述べている。

「民族の言語を奪われた植民地時代、南北に分かれ殺戮し合った分断時代、軍事独裁政権を倒すための民主主義革命を経た韓国の現代文学を読むためには、そのための質の高いリテラシーが要求される。同じような文章の連なり、文章の記述であっても、日本の現代小説と同様の〈読み方〉では取り零すものが多すぎる」

リテラシーの原義は読み書き能力のことだが、正しく理解し表現する力ととらえるべきで、韓国文学を理解するカギは歴史認識だ、と確信をもっていいたい。

『韓国文学の中心にあるもの』は、全九章で構成され、韓国の近現代史を辿るように多くの文学作品が論じられている。第七章のタイトルは、「朝鮮戦争が韓国文学の背骨である」で、次のように書き出されている。

「韓国文学を読む上で、いちばんの要となるのは朝鮮戦争だ。それは文学の背景ではなく、文学の土壌に染み込んでいる。もっといえば、それは韓国文学の背骨に溶け込んだ、カルシウムのようなものかもしれない。たとえ表面から見えなくとも、また若い世代の作品においても、このことは同様といってよい」

朝鮮戦争では南北合わせて四〇〇万人もの人たちが犠牲になった。一〇〇〇万人の離散家族も生じた。こうしたとなりに暮らす人たちの苦しみ・悲しみをよそに、日本人は特需景気だと浮かれていた。南北分断が朝鮮戦争の原因であり、分断の基底的責任は、朝鮮を植民地化した日本にあるというのに。一九八〇年に行われた、韓国の作家との対談で、中上健次が朝鮮戦争について「ああ、なんでこんな大事な大きな悲劇をしらなかったんだろう」と述べたことも紹介されている。

『韓国文学の中心にあるもの』で最後に取り上げられている作品が、ある病院にかかわる五〇人の人たちのエピソードをまとめた、チョン・セランの『フィフティ・ピープル』(亜紀書房、二〇一八年)である。労働災害や労働環境の改善に取り組んでいる、職業環境医学科卒の若手医師が、「いつも負けてばっかりいるみたいで、辛いんです」と悩みを打ち明ける。これに、七〇代の先輩医師が答える言葉が引用されており、それが『韓国文学の中心にあるもの』の結びとなっている。

「でも、傲慢にならずにいましょうよ。どんな若い人にも、次の世代がいるのですから。しょせん私たちは飛び石なんです。だからやれるところまでだけ、やればいいんです。後悔しないように」

チョン・セランの作品をもう一つみてみる。『韓国文学の中心にあるもの』では取上げられていないのだが、『保健室のアン・ウニョン先生』(亜紀書房、二〇二〇年)は、私立学校を舞台にしており、主人公は養護教諭、韓国では保健教師といわれる女性教員である。霊能力をもつアン・ウニョンは、学校で起こる怪奇現象、不思議な出来事の背後にある邪悪なものに立ち向かっていく。「穏健教師パク・デフン」の章には、歴史認識の問題が織り込まれている。学生時代、デモにも参加したことがなかった歴史教師のデフンが、教科書の選定にあたる。デフンの基準は「叙述が整然としていること、集録された資料が正確であること、生徒たちが学習する際便利であること」だった。ある教科書を選んだところ、校長から「アカなのか?」と怒鳴られ、別の教科書を薦められる。その教科書は保守派の推す、叙述に一貫性がなく、内容も散漫、資料の出典もめちゃくちゃ、基本概念の説明が間違っている箇所がある、到底採用できないものだった。デフンは悪夢を見るようになる。夢の中に、教科書に写真が載っている、一八九六年に始まった義兵闘争の兵士たちがセピア色の姿で現れてくる。彼らは、校長室に入り込む。校長は体調を崩し、定年をまたずに辞める。デフンは「少々穏健でなくな」り、ゆっくりと変わっていく。生徒たちを見て、デフンは思う。「後から来る者たちはいつだって、ずっと賢いんだ。この子たちなら僕らよりもはるかにうまくやれる。だからあのばかばかしい教科書を拒否できて良かったよ」と。このデフンの思いは、前述した『フィフティ・ピープル』 での老医師の語りと重なる。

約二五年前のことである。私の勤務していた高校が、ソウル市内のある高校と姉妹校となった。韓国からの代表団を迎えるにあたって、国際交流推進員会が組織され、「知っておきたい韓国・朝鮮」という小冊子を作製し、HRでの事前学習に活用した。私がこの小冊子の原稿を執筆した。クイズ形式で五問を用意した。第一問は、「〈近くて遠い国〉ではなく〈交流の盛んな隣国〉でありたいのが朝鮮半島の国々です。朝鮮半島には朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の二国がありますが、両国をあわせた面積は日本のどのくらいと思いますか?」、予想は「一、日本の二倍くらい 二、日本と同じくらい 三、日本の二分の一くらい 四、日本の三分の一くらい」である。   

正解は三になる。答の解説で、面積・人口・言語から始まって歴史・生活・文化の基本情報を提供した。教育制度については、日本と似ているとしたうえで次のように書いた。

「韓国では日本以上に厳しい受験競争が続いており、姉妹校となった高校の生徒たち  も、昼食用だけでなく夕食用の弁当をもって登校し、夜九時近くまで学校に残って勉強しているそうです」

夜も学校に残っての勉強は、「夜間自律学習」といわれるもので、『保健室のアン・ウニョン先生』にも何度か出ており、今も行われている。韓国の過熱する受験競争については、よく報道もされるが、注意が必要である。長くソウルで暮らしている伊東順子は、日本も異様だと述べる。

「少なくとも韓国には、日本のようなエスカレーター式の名門校や高額な学費の私大医学部など、いわば「特権層向けのコース」はない。また日本の都会のような中学受験はないし、そこからごっそり東大に入れるような中高一貫の男子校なども存在しない」(『韓国カルチャー隣人の素顔と現在』集英社新書、二〇二二年)

『韓国カルチャー隣人の素顔と現在』は、韓国の映画・TVドラマ・小説などをもとに、韓国の現状をコンパクトにまとめている。同書を読んでも、隣国の歴史や文化についての理解がまだまだ不足しているとあらためて痛感した。それとともに、著者の自戒の言葉、「韓国について知れば知るほど、実は日本について何も知らなかったことに気づいている」に共感した。 

札幌民主文学通信

二〇二二年月〇一日 287

 

 

十月例会誌上合評

 

合評作品

 

大浦ふみ子

「忘るなの記」

       「民主文学」十月号

 

 

意見1         豊村 一矢

力作だと思う。戦争の非人間性を告発する小説で、大浦ふみ子の執念のようなものが伝わってくるし、共感できる。

去年の「民主文学」三月号『かたりべ』でも、一昨年の「民主文学」二月号『石木山の畔り』でも、場面や内容はそれぞれだが、戦争の非人間性を告発するという点で一貫している。

本作では、アメリカ軍の雇兵となって、朝鮮戦争に参戦する日本人が書かれている。

個人的に欲をいえば、「朝鮮戦争」を世界史・近代史の中に位置づけて捉える視点が欲しかった。

つまり…。

朝鮮戦争の性格は、第二次世界大戦の連合国側による覇権争いや打算、呂運亭の独立運動や李承晩、金日成など動きも絡んで複雑だ。アメリカやソ連、中国は、自分が後ろ盾になっている勢力が不利になると介入する。日出男が従軍したのは信念によるものではない。北の勢力が優勢になってアメリカが押し返そうと軍事介入した中でのことだ。

戦争は自然現象ではない、というようなことを書いて欲しかったのだが、あくまで一読者としての願望だ。

 

 

 

意見2         北野あかり

 戦後日本は、二度と戦争はしないという憲法が公布されたにも拘わらず、朝鮮戦争にアメリカの戦闘員として参加したり、特需で儲け、好景気を生み出したことが描かれており、今また再び戦争への道をつき進もうとしていることと重なり、同じ過ちを繰り返さないためにも、歴史を検証していくことが大事だと思いました。

また、中学時代の日出男との想い出を忘れず、顔の印象が醜く変わってとしても親友として変わらず繋がっていようとする和真の人間像の素晴らしさに感動しました。

人生において再会したいと思う人がいる、それがこの作品の中で、日出男と出会い、「青ヤン先生」との出会いが、偶然の出会いとして描かれています(日出男と出会いは複数回も…)。若いころの私は目に見えないものは信じないと頑なに思っていましたが、長い人生の中で、先祖に願いを託したりして、思いが通じたか…と思うハッピーな出来事があると、目に見えないものでも、求めが通じることもあると、それもありと信じるようになってきた。この作品の中でも求める心が通じたかのような偶然の出会いが出てきますが、それも解るように感じました。

只、不勉強で「朝鮮戦争」が何故起こったのか、日本どのように関わっていったのかが解っていなかったので、参考文献を読めばわかる事ですが、作品の中で少し触れてくれたらよかったと思いました。

最後にハッピーで終わるのは、良かったです。

 

 

 

意見3       泉  脩

 若い銀行員の江口和眞が、床屋で中学時代のクラスメートの富岡日出男に会う。隻眼で頬に傷があり、 態度も荒々しい。

 その後も二人は何度か会い、日出男の悲惨な身の上を知った。戦争末期の佐世保空襲で家族を失い、戦後は仕事を転々と変え、アメリカ軍の施設で働く中で朝鮮戦争に従軍し、負傷したのである。

和眞もやるせない生活をしていたが、やがて日出男からの手紙で、偶然再会した昔の教師の勧めで、四国の小学校の小使になることを知る。しかも、自分が救った少女と結婚するのである。ハッピーエンドで終わるのが救いだが、二人の若者は今後どうなるのだろうか。 

私も子供の時、東京で空襲に遭い、家を焼かれ、疎開先で父を失った。インフレと物資の欠乏で大変な生活難を体験した。そのため、この物語の背景がよくわかる。戦後の日本のすさんだ生活がよく書かれ、朝鮮戦争の影響もよくわかる。

 朝鮮戦争で日本人の生活がやや上向く、という罪深い体験もした。だから、この物語はとても重苦しく、読んでいて辛かった。しかし説得力があり、若い二人の主人公の幸せを、願わずにはいられない。

 

 

 

 意見4         松木 新

 優れた作品だと思います。

朝鮮戦争に参加させられた日本人という特異な存在に焦点を当てた大浦さんの問題意識には感服させられました。

朝鮮戦争当時の佐世保の状況が、土の匂い、路地裏の空気感など、とてもリアルに描かれており、それが富岡日出男の存在感を際立たせています。

大浦さんのこれまでの作品の水準を凌駕した、水準の高い作品に仕上がっています。大浦さんの代表作といってよいでしょう。

〈―あんなふうに殺った自分は、これからものうのうと生きていけるだろうか。答えはノーだった〉という日出男の言葉は、あの侵略戦争で戦場の狂気にさらされたすべての人たちに対する問いかけでもあると思いました。

 

 

 

 意見5         後藤守彦

読書家として知られる作家北村薫の言葉、「ひとつの作品に多様な読みが生まれる。読者の数だけ読みがあるといってもいい」(『雪月花』新潮社、二〇二〇年)に最近出合い、意を強くしています。

先ず述べたいのは、朝鮮戦争と日本人との関係を深く掘り下げて描いたことの意義は大きいということです。特に、殆ど知られていない、戦闘に銃を持って加わった日本人を取り上げたことが、この作品の冒頭にある、理髪店の客の会話、「金のなる木でしたなあ、朝鮮戦争は。もっと続いてほしかったですよ」「まったく。この特需は天の助けやった」は、隣国の人びとの悲劇をよそに、特需景気に浮かれた日本人の醜い姿をさらけだしています。朝鮮戦争が起こったことに日本の責任もあることを認識していた日本人が、どれだけいたのでしょうか。現在も。  一九四八年に二つの国に分かれたから、朝鮮戦争が起こったのであり、南北分断の基底的責任は、朝鮮を植民地化した日本にあるのです。

作者は、朝鮮戦争で隣国の四〇〇万人が犠牲になり、一〇〇〇万人の離散家族が生じたという事実を参考文献に拠って、丁寧に書いています。朝鮮戦争

は休戦状態で、終わっているわけではありません。

ですから、隣国の人たちの苦悩は今も続いているのです。翻訳家の斎藤真理子は、「朝鮮戦争は韓国文学の背骨である」(『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス、二〇二二年)と明言しています。

プロットもスムーズで、反戦の思いが伝わってきます。戦争中迫害された先生の言葉が胸に響きますね。「人間とは日に日に新しい自分を創っていける存在だってことだ」、この言葉を読み手として真摯に受けとめたいと思います。

 

 

 

意見6         石川節子

すごくインパクトのある内容なのに、それにも関わらず何か物足りない、他人事の実況中継を見たような、それでいて、重い石を私の心の中の置いて行かれたような、みょうな心境になりました。

多分、見慣れ無いことがらに触れ、自分自身に消化しきれない物があるためだと思います。

全体は相当に書き慣れたベテランの文章表現が感じられ、はっきりとしたイメージが浮かび、スケッチ出来るような画面が浮かびました。

 

意見7        泉 恵子

先月(9月)号の「別離」に続いて、今月も巻頭の表題の作品が〝朝鮮〟を扱っていて、日本と朝鮮の因縁の深さを感じさせる。

今回は「朝鮮戦争」に従軍した日本人のひとりを、友人の立場から描いた話だ。あの戦争で日本の米軍基地から、また港からアメリカ兵や軍事物資を運んだことは知っていたが、日本人が傭兵として従軍させられたことは知らなかった。まさしく隠された事実であり、「忘れてはならない」ことをこの小説によって知らされた。

恥かしながら私も、三八度線は、朝鮮戦争によってつくられたと誤認していたひとりで、今回、「朝鮮戦争」についての本を少し読んで、認識を新たにした。

孫埼亨著『朝鮮戦争の正体ーなぜ戦争協力の全貌は隠されたのか』を読み、この戦争を背景にして、日本国内ではレッドパージが行われ、警察予備隊がつくられた。レッドパージは、新聞社や出版界にも及んで、良心的な報道陣を追放し、事実を隠して報道させず、朝鮮特需ばかり強調されて浮足だっていたのを知らされた。私のように知らないままの日本人がまだ多いと思う。

この作品では、主人公江口和真を通して、中学時代の友人トミーこと富岡日出男が朝鮮戦争に従軍させられていた事実を聞き出すという手法で書かれている。軍港佐世保の町を背景に、空襲で家族を失ったトミーが従軍せざるを得なくなった事情、戦場で受けた顔の傷以上に傷ついた心などを二人の会話から浮き彫りになる。

中学時代の苦い思い出の一つにある戦時中、学校を追放された「青ヤン」先生のこと(後にトミーが立ち直るキッカケをつくる)や、和真の恋人三穂の弟で、朝鮮戦争反対の学生運動をしていた誠四郎の演説口調の話しで、この戦争のからくり、情報が隠されていたことなどが明らかになるなど構成の巧みさを感じさせるが?

和真とトミーの会話で、「戦争の真の恐さを知らない奴」と言われて、思わず口にした「きみみたいに人を殺ったりしていないけど」の一言から、ふたたび疎遠になってしまったのだったが.……。

三か月後の手紙で、「青ヤン」にばったり会ったトミーが、先生のつてで四国の学校用務員として旅立つことになったこと、面倒を見たことのある娘とともに…… という終わりは出来すぎ(創りすぎ)の感があるように思う。

知られざる朝鮮戦争の真実を描こうとした作者の思いが溢れている作品だが、そのための緊密さが、かえって創りすぎの感じを与えてしまうのは残念と思った。

 

 

 

 意見8         室崎 和佳子

まさに『忘るなの記』に値する内容であり、感銘を受けた。

 佐世保は描いても描いても描ききれないほどの戦争の闇をひきづっている街なのだな、と改めて思ったことである。

 満州からの引き揚げ船で賑わった頃、たくさんの女たちが人知れずお腹の子を葬らざるを得なかった街でもあった。

 たくさんの女たちはソ連兵などに犯され、お腹の子の存在を隠しながら必死になって祖国日本へ引き揚げてきた。隠しきれないと絶望し自らの体を佐世保湾の海の底に沈めた女たちもいた。上陸した港で待ち受けていたのは、強制堕胎であり、傷ついた心身を抱えて故郷に帰り着いたのである。

 その後の人生はいかばかりであったのだろう。

 そして、朝鮮戦争である。

 女ばかりでなく、富岡日出男や青ヤン先生をはじめとする男たちもひどい目にあうのである。日出男に至っては先の戦争(空襲)で家族全てを失い、占領軍であるアメリカ軍関係者から仕事をもらう中での朝鮮戦争への参加である。否応無しに戦争に参加せざるを得ない残酷さを描いている。

 しかし、作品の最後、和真に当てた日出男の手紙で、日出男が見事立ち直って生きていくことを知らされ、救われた気持ちになった。青ヤン先生の心の広さが素晴らしい。やはり、人間を救うのは愛の力なのだな、と実感する。

 三穂と誠四郎の姉弟の描き方が清新である。

 こんな時代に、三穂のようなしっかり者の女性がいて、主人公の和真と学び合う関係にあるというのが興味深いし、誠実で生真面目な和真と三穂がさらに良い関係を構築することを祈っている。

 一箇所だけ作者の意図が分からなかったところがある。

 9ページ上段3行目【後ろからついてくる憲兵がいるのに気づいた。若い、青ヤンと同じくらいの歳に見える男だった。彼は言った。「きみたち、何か誤解をしてるよ。僕にはそんなに悪い先生には見えないのだがね」】という文章である。

この若い憲兵については後にも先にもこれだけしか出てこない。だから、この文章の意味するところは何なのかな、と思ってしまったのである。

 

 

 意見9          柏原 竜

戦後5年ほど経って朝鮮戦争が起こった事は知っていたが詳しくは知らなかった。小説の冒頭の部分で、理髪店での客と亭主が話している。朝鮮戦争のおかげで日本は特需を受け戦後復興していったと。よく言われていた。特に佐世保はその前線基地になっていたから影響は大きかった。

江口和真が、敗戦後9年を経って偶然中学時代の大事な友達富岡日出男と出会った。軍国少年として鬼畜米英を唱え、この戦争は絶対負けない、たとえ1人になっても闘うのだと教えこまされ信じ込まされていたが、敗戦を迎えアメリカの占領の下で生きてきた二人。

和真は空襲で家を焼け出されその跡地には進駐軍の住宅が建っている。今は家族を養うために銀行員として働いている。日出男は家族全員が床下防空壕で窒息死して1人生き残った。食うために必死であった時、駐留軍で働くことになりその延長で朝鮮戦争が起こったとき朝鮮に行った。従軍してそこで怪我をして帰ってきた。今は輪タクの運転手をしている。

敗戦後人々の心の葛藤や苦しみはどうだったのだろう。自分が信じてきたものが嘘だったと知って。   

生きていくために、明日食べる食糧のために必死で働いていかざるをえないため、それをずっと引きずって日常生活の中に埋没していったのだろうか。 

マッカサ―に日本人は12歳の子供だと言われたそうだが、日本の中枢部はそんなものかもしれない。日本の国の将来のことより自分達の身を守ることしか考えてないから足元を見られたのだろう。

戦後77年経っても変わってないかもしれない。特に今騒がれている統一協会の問題は同じだと思った。あれ程朝鮮を侮蔑していながら統一協会と慣れ親しんできている。日本は優秀な大和民族だ神の国だと言っていて矛盾しないのか。日本の中枢部は昔とまったく変わらない。進歩してない。

敗戦によって民主主義が唱えられ広がってきたが、それを考える人間は多くはない。それが血となり肉となっていくのには時間がかかるのだろうか。

 題名「忘るなの記」の「忘るな」の言葉が解らなかった。どういう意味なのかと。

 

 意見10        村松 祝子

一気に面白く読み終えました。違和感なく時系列に過ぎていく物語の流れに入って行けました。

敗戦後日本がサンフランシスコ平和条約を成立させて一年後朝鮮戦争が勃発した。

朝鮮戦争のおかげで戦後の日本経済は潤ったし立て直しにもなったのだった。しかしその朝鮮戦争に駆り出され戦った日本の青年がいたことは驚きでした。

作者は史実をたどり二人の青年の生き方を通して戦後の混乱の中を生きていく若者を見事に表現してくれたと思います。

第二次世界大戦で被災した富岡日出夫は一家全滅で自分だけが助かった。一方江口和真は家は焼かれたが母と妹は無事だった。

同級生だった二人は戦後の日本の混乱機の中で和眞は西海銀行に入行し日出夫は戦前敵国であった米軍に雇われ朝鮮戦争の戦場に立たされ戦傷して帰国する。

終戦から五年後の日本国内の混沌とした中で、生きるために食うために他国の朝鮮に連れて行かれてそこで銃を取らされて戦った日出夫の苦しみは読む者の胸にビンビンと響いてきました。

日出夫の旅立ちを匂わせる手紙は少し上手くいき過ぎているかなとの印象を感じましたが読むものに安心感を与えてもくれました。心に残る小説でした。

疑問に思った箇所がありました。終戦間近に映画館が開いていたのかということと、中学の授業に英語授業がまだ行われていたのかということです。

ページ28の下段9行目から「‥‥人間とは日に日に新しい自分を作っていける存在だってことだ。誇りを持って新しい自分をこれから創っていけばいいじゃないか」と青ヤンが語る言葉は日々の暮らしの中で苦悶しているものに対する励ましにも聞こえて良い文章だなと思いました。

 

                              

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村瀬さんの思い出 

             ノーマ・フィールド

 

2004年の5月だったと思いますが、村瀬さんのご案内、そしてご友人の運転で、倉田稔さんと私は「東倶知安行」に出てくる京極町の光寿寺を訪れ

ることができました。そこの第3世住職・松長正憲さん(2020年死去)はなんとも魅力的な方でした。私はなぜ、開基住職だったおじいさんが多喜二たちの講演会のお堂での開催を認めたのか、とお尋ねしました。しばらく黙っておられ、それから、原始共産主義と仏教は共通するところがあると思いませんか、と静かに問われました。書斎にはマルクスの翻訳本などが書棚に並んでいました。

 

戦時中、中学生のころ、朝鮮人・中国人の強制労働者の「監督」をさせられたとき、彼らに親切にされた経験も話してくださいました。

 

他の住職さんに聞いた話ですが、泊原発のあるあの地で、反原発を貫かれたそうです。

 

 

 

 

 

 

 

追悼・村瀬喜史さん    

 松木 新

 

村瀬喜史さんは、日本共産党北海道委員会退職直後に、札幌支部に加入してくれました。道委員会在職中も雑誌『民主文学』を愛読していたという力強い味方の登場に、支部の人たちは大歓迎でした。

村瀬さんは、亡くなるまでの二十六年間で、札幌支部誌『奔流』、全道研究集会作品集『北海道民主文学』に、創作・評論・評伝・エッセイ二十五編を発表しています。

創作は、「新米党専従者」など自分史が中心で、山科喜一・多田光雄に光りを当てた評伝は、発表当時反響を呼びました。小樽商大出身の村瀬さんは、こ とのほか小林多喜二への思い入れが強く、評論では、小林多喜二論が出色の出来映えでした。

忘れられないのが、多喜二研究のために小樽に滞在していた、シカゴ大学教授ノーマ・フィールドさんとの出会いです。

ある日、支部の例会に村瀬さんがノーマさんを連れてきました。小樽商大の倉田ゼミで知り合ったとのことでした。以来、一年間、ノーマさんは例会に毎回出席し、赤提灯での二次会にも欠かさず顔を見せてくれました。文学会創立四〇周年記念講演会では、りんゆうホールに集まった百名の人たちの心に届く多喜二像を語ってくれました。

博識な村瀬さんが本領を発揮したのが、定山渓温泉で開かれた文学会全国研究集会でした。

バスを借り切り、ニセコから小樽までの多喜二ツアーを実施したのですが、村瀬さんはマイクを片手に、多喜二に関するエピソードを、小熊秀雄の詩「しやべり捲くれ」よろしく、しゃべりまくったのでした。  

全国から集まった参加者はその迫力に圧倒されて、「村瀬さんは何者だ」と、ひとしきり話題になりました。

惜しい人を亡くしたと、今、しみじみと思っています。

(「ほっかい新報」10月9日付)

              

 

 

 

 

村瀬さんの思い出

                泉  脩

 

村瀬さんが亡くなったと知って、がく然とした。入院中とは聞いていたが、こんなに早く亡くなるとは。少し年上の私には、身に迫る思いである。

 一九八五年、私は最初の本『青春の飛翔』を出版した。自費出版にも関わらず千五百冊も売れ、大きな反響だった。自分のクラスで起きた二年間の、苦しく生々しい体験を書いた本で、職場の評判は悪かった。

その中で村瀬さんから感想の手紙をもらった。とてもうれしかった。それから退職して十数年後、『人間を考える。文学読書会五十七年』を出した。すると、また村瀬さんから感想の手紙をもらった。そして札幌民主文学会への加入を勧められ、私はそれに従い、加入をしたのである。

 こうして十年以上、村瀬さんと読書会での協力が始まった。村瀬さんは多方面の本を読み、私より視野が広かった。そして私の出す本を読んで、感想を書いてくれた。ありがたい読者だった。

 そしてもう一つ、村瀬さんは囲碁が大好きで、アマチュアとしては上級者だった。私も囲碁が大好きで、村瀬さんには二目を置かなければ勝てなかった。  

読書会の合宿では、必ず村瀬さんと対局した。私には大きな楽しみだった。

 村瀬さん、永い間お世話になりました。ありがとうございます。

 

 

 

 村瀬さんのこと

               浅野 勝圀

 

 村瀬さんと初めて顔を合わせたのは、2004年に帯広で開催された第十五回北海道研究集会の折りだった。

「浅野ともあろうものが、党を裏切った中野重治の作品を採り上げるとは!」

 嚙んで捨てるような彼の語気の激しさは今もよく覚えている。

『民主文学』に中野重治はそぐわないのかと落ち込んだのだが、村瀬さんの批判はその時かぎりで尾を引くようなことはなかった。そんな村瀬さんの大人的魅力もまた忘れられない。

 石川弘明、村瀬喜史、浅野の三人は、一九五一年四月、共に富良野高校に入学している。いわば同期の間柄なのだが、父の転勤に伴いぼくが釧路湖陵に転校してしまったので、このせっかくの偶然にもたちまちピリオドが打たれてしまった。富良野高校に汽車通学したのは二週間ほどでしかなかった。

 新聞のお悔やみ欄で目にした彼の訃報に彼の享年が86歳とあった。ああぼくと同じ早生まれだったのだと知っていちだんと懐かしさが増したものだ。

 彼が「北海道民主文学」に発表した沢山の作品で二篇にだけ触れておきたい。十四号の「五十六年目の八月」と二十号の「評伝 多田光雄」である。

 「五十六年目の八月」は、中学以来の朋友石川弘明と一緒に出かけた中国への旅で、肉親と死別して一人きりで引き揚げてきた石川弘明に、強く慰霊の旅をすすめて実現したもので、親友としての二人の結びつきの深さが胸を打つ。

 「評伝 多田光雄」の方は北海道における民主主義の運動の当事者からの報告で、大切な記録であろう。こうした分野での貴重な報告は村瀬さんにこそふさわしいテーマで、もっともっと掘り起こしてほしかったと残念である。

 一度はきびしく批判されたのだが、ぼくらには作家と作品についての好みが共通する一面があった。李恢成、中野孝次、高見順について彼が語り、書いた三人へのオマージュには大いにわが意を得た記憶がある。ぼくにとっては不意打ち同然の彼の死が悔やまれてならないのだ。友よ心おきなく眠れ!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

旭爪あかね『歩き直してきた道』

心の変転をたどる

 

泉 脩

 

 二〇一六年に出版された、旭爪(ひのつめ)あかねの最後の本。この後は遺稿集が二冊出た。

 この本はエッセーで、自分の子供の時からの心の変転を丹念に辿っている。痛々しいまでに、率直に、誠実に書かれていて、読んでいて胸が痛む思いである。

 小説『稲の旋律』に始まる長篇三部作などで、旭爪さんの心の遍歴は断片的に書かれてきた。そしてこの本で、一貫した流れが明らかにされている。

 子供の時、両親が東京都内の中学の教師で、一九八〇年前後の中学の大荒れで苦闘した。組合の活動家だった二人は、疲労困ぱいして毎日を過ごしていた。自宅が千葉県にあり、片道二時間の通勤の大変さもあって、両親は定年前に退職し年金生活に入った。

 一人娘だった旭爪あかねは、こんな両親の元で育ち、両親の恥にならないように小学生の時から気を遣い、良い子になろうと努力した。他人の評価を気にし、他人から気に入られるように常に心遣いをした。同時に児童文学に心を惹かれ多くの本を読み、小説を書きたいと考えた。

 大学は北関東の宇都宮大学に入り、農業経済を専攻した。親元を離れて下宿生活をし、悪い子になろうと考えたのである。

 サラエボ冬季オリンピックのテレビ映像を観て、社会主義国でありながら、若者たちが自由な髪型や服装をしているユーゴスラビアに関心を持った。そして、一年間のユーゴスラビア留学までした。しかしユーゴスラビアの現実はきびしく、若者たちは西欧諸国に憧れていた。そして一九九〇年前後にソ連と東ヨーロッパの社会主義国は崩壊した。

 旭爪あかねは修士課程に進んだが、ユーゴスラビアの自主管理農業組合のテーマの研究に挫折して修士論文が書けず、留年した。その後引きこもりになり、大学は退学をした。

 彼女はやがて自宅に戻るが、十年もの引きこもりを続け、ただ一つ出来たのは、日本民主主義文学会の文学教室に通うことだった。多くの初期の習作が書かれ、同人誌などに発表された。やがて、その一つ「冷たい夏」が「民主文学」の第二回新人賞に

なった。彼女は日本の農業に関心を持ち、稲の実りの美しい風景に、心から惹かれた。

 三十歳の頃に中編「世界の色をつかまえに」が、「民主文学」に一挙掲載され、やがて長篇『稲の旋律』が新聞赤旗に半年に渡って連載された。こうして彼女は作家の道を歩み出した。この作品は「引きこもり」がテーマであり、作者と等身大の人物、千華が農業を通じてよみがえる話である。連載中から大きな反響を呼び、全国の引きこもりの人々とその親たちに支持された。

 全国各地の「引きこもり友の会」から招かれて講演をし、話し合うようになる。さらにこの小説が舞台で公演され、映画化された。

 彼女は日本民主主義文学会の会員になり役員を引受け、引きこもりから脱却する。

映画作りや上映運動で全国をまわる様になる。

この中で二〇一一年の東北大震災が起こり、その時の体験を基に書いた短篇小説が、賛否両論を招き、彼女はとても悩み苦しんだ。すでに二〇〇九年の不況のもと、派遣切りが横行していた。親の援助と結婚により、生活難から免れてきた彼女の考えは「甘い」という非難を受けた。多くの苦しみに遭い、彼女はうつ病になり、アルコール依存になった。

 旭爪あかねは、こういった心の変転を実に率直に克明に書いているのである。遂には作品が書けなくなり、やがて体調を崩してガンになり、二〇二〇年、五三歳の若さで亡くなってしまう。

 この本は、私にはとてもつらい本だった。私も子供の時から多くの困難にぶつかり、いわゆる自分探しをしてきた。それだけにこの本の内容が手に取るように解るのである。小説こそ書かなかったが、中年になって本を書き始め、大きな賛否両論にぶつかった。文学に救いを求め、文学でよみがえったのである。

 現在八十八歳、十四冊目の本に取り掛かっている。旭爪さんにも何冊か本を送って迷惑を掛けてしまった。彼女の最後の文章の中に「心のこもった本を送られながら、何の対応もできなかった」と書かれている。繊細で誠実な旭爪さんを、私も苦しめてしまったのである。申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 旭爪あかねは異色の作家である。政治や社会の不正と闘い、変革を目指す民主主義文学会に属しながら、人間の内面を深く掘り下げてきた。引きこもりという、現在全国で百万人にも達する世界でも希な現象を、最初に取り上げ解明したのである。そして引きこもろうと、引きこもらなくとも、人々を苦しめている元凶は同じなのだということを明らかにしたのである。

 うつ病などの精神病の増大、自殺と犯罪の増加。貧富の差の増大。挙げれば切りがない苦しみが日本を覆っている。

 文学者はこういった現実を明らかにする「社会のカナリア」の役を果たしているのだ。かつて炭鉱で、ガスの発生をいち早く検知したのはカナリアである。  

旭爪さんは偉大な先輩の宮本百合子と、ほぼ同じ年頃で亡くなってしまった。

 

 

 

 

『幼な子の聖戦』と統一協会

                 松木 新

 

十一月号の『民主文学』の「編集後記」で牛久保さんが、木村友祐が芥川賞候補になった「幼な子の聖戦」のなかで、統一協会に〈「入信しかけた体験をほとんどそのまま書いた」〉と語っている、と紹介していました。

木村友祐については、『聖地Cs』や『イサの氾濫』で関心を持っている作家のひとりなので、早速、『幼な子の聖戦』(集英社 二〇二〇年一月)を読んでみました。

この小説は、青森のある村の村長選挙をめぐる狂想曲を、方言豊かに、〈「んだべ。してもまぁ、おらはオリンピック自体いらねぇんども。だぁへば、あったら利権イベント。そもそも、巨大資本の支えがねぇばでぎねぇスポーツ競技ってなんなのよ」〉、〈「オリンピックが、復興ば食い物にしたごどよ」〉など、この国の政治の実体への批判を織り込みながら、巧みに仕上げた作品です。

そのなかで、蜂谷が統一協会に入信しかけた話が挿入されています。

学生の頃に、池袋で意識調査のアンケートにつかまったことから始まり、近くのビルで、聖フランチェスコの若いときを描いた映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」を観せられ、その後、山の合宿所で行われた講習会に参加します。

〈そうやってバカみたいに率直に心を動かされたのは、事前に講師が、幼な子のような無垢の心で話を聞くことの大切さをくり返し説いた効果もあっただろう。批判や疑いの心に、人間の心を操る「デーモン」が忍びこむのだと。彼ら教団の者らは、神を実の父親のように語るのと同様、悪魔も実在するかのように語るのだった。(略)このおれは、デーモンと戦う選ばれし神の民なのだということだった〉

蜂谷が入信をためらったのは、神の存在についての〈違和感〉でした。

〈「神はいる」と言い切ることは、まだおれにできなかった。(略)そういう意識が抜けない自分が、まだ幼な子の心になりきれない、デーモンに心の尻尾をつかまれた罪深い者のようで、やましい気持ちにもなるのだった。

そのまま自分の懐疑心を一つ一つ潰していったら、この教団の教祖こそが神の化身だとする講師の説明も鵜呑みにして、やがておれは教団の一員になっていただろう。おれがそこを抜けたのは、合宿を終えて東京に戻り、指導員の男と話していた時に覚えた違和感にあった。(略)結局は、見て即座に了解できる神の実在の確固たる証拠は示せないのだという違和感が、そのときのおれに残った〉

教団に退会を申し出た蜂谷に、指導員は、〈「あなた、地獄に落ちますよ」〉と脅しをかけます。そのときの蜂谷の返答が傑作です。木村友祐のツイッターによると、この場面は実体験とほぼ同じだということです。

〈まだどこかでその世界観を引きずっていたおれは一瞬ひるんだが、笑って言い返したのだった、「落としてください。そしたら、ああ、神はいたんだと思って反省しますから。そして、そのときは、地獄に落ちたぼくを、あなたが救ってくださいよ」と〉

この小説では、退会の理由に神の存在が挙げられていますが、ツイッターによると、実際は、青森の実家に帰宅した木村友祐が、兄と母に相談した結果とのことです。

〈母と兄の話にぼくは心を動かされたのだが、それでもまだ、これもサタンの誘惑なのではないかという懸念を払拭できたわけではなかった。だが、この家族をサタンだと決めつけることは、ぼくには到底できなかった。サタンならサタンでもいいと思った。そして、(ここがカッコいいのでよく聞いてほしいのだが)文学はサタンの側に身を置いて書くものだろうと思ったのだ。

 東京に戻ったぼくは、研修には行かないこと、教団には入らないことを告げた。指導役のスタッフの男性は「あなた、地獄に落ちますよ」と言った。ぼくはそこでようやくはっきりと教団の素顔を見た思いで、笑って、「幼な子の聖戦」にも書いた文句を言い返した。

 

 

 

 

「PLAN75」の衝撃と二つの小説「老残」

後藤守彦

 

 早川千絵監督の長編デビュー作の「PLAN75」は、カンヌ映画祭に正式出品され、カメラドール特別表彰を受け、話題となった。シネマフロンティアで上映が始まったが、重いテーマであったため結局見に行かなかった。その後、シアターキノで再上映されることを知り、やはり見るべきだと自分に言い聞かせて、妻と劇場に足を運んだ。私たちが見た回は、満席だった。

 少子高齢化が進んだ近未来の日本では、老人を襲う事件が頻発する。ついには、満七五歳以上の高齢者に、生死の選択権を与える制度である「プラン75」がスタートした。主人公は角谷ミチ七八歳。夫と死別し、子どもはいない。ホテルの客室清掃員として働きながら慎ましく暮らしていたが、高齢を理由に解雇される。新しい仕事を探すが、なかなか見つからない。その間、一緒に働いていた友人の孤独死を発見もする。追い詰められたミチは、「プラン75」に申し込む。ミチをとりまくように、市役所の「プラン75」の申請窓口で働くヒロム、申請者が亡くなる日までサポートするコールセンタースタッフの瑤子、フィリピンから出稼ぎで来て、「プラン75」の関連施設で死を選んだ人々の遺品整理にあたるマリアが登場する。彼らはこのシステムの存在に疑問を抱き始める。

 早川監督は語る。「ただ単に問題意識を提示する映画ではなく、生きることを全肯定する映画にしたいと思うに至った」、「生きづらい人に対して死の選択肢を差し出すような社会と、共に生きようと手を差し伸べる社会と、どちらに生きたいか。私は後者を望んでいます」と。私も早川監督同様、「共に生きようと手を差し伸べる社会」を望んでいるが、「生きづらい人に対して死の選択肢を差し出すような社会」を示したのが、二〇一六年の、一九人もの命が奪われた相模原障害者施設殺傷事件である。

 年老いることをどうとらえるか。韓国の作家キムヘジンは、「一つずつ楽しみを失っていくことなのだ」(『娘について』亜紀書房、二〇一九年)と表現している。こうしたマイナスイメージでとらえる言葉の一つとして「老残」がある。その意味は、老いてどうしようもない姿を人目にさらして生きながらえることとなるが、この言葉をタイトルにした短編小説が二つある。少々古い作品ではあるが。

 ある図書館の文庫のコーナーで、川崎長太郎の短編集『老残/死に近く』(講談社学芸文庫、二〇一三年)に出合い、早速借りる手続きをとった。川崎については、恥ずかしいことに作品どころか名前さえ知らなかった。帰宅後、書棚にある『日本近代文学大事典』(講談社)で調べてみると、一ページを越えて、詳しく紹介されている。一九〇一(明治四三)年に神奈川県小田原で魚商の父の長男として生まれ、一九八五(昭和六〇)年に小田原市立病院で亡くなっている。享年八三歳。

父の死までの、自分の来し方を振り返ったともいえる「船頭小路」によると、「赤い思想」にかぶれブタ箱に入ったり、アナキストの仲間に入り、「テロリズムこそ男子の本懐」とのぼせ上ったりした。一九二三(大正一二)年一月には、アナキスト詩人の岡本潤壺井繁治萩原恭次郎とともに詩誌『赤と黒』創刊している。しかし、「左翼的な行動的な世界は、臆病で、引込思案な自分の性に合わぬ」として離れ、実家のある小田原で暮らすことにした。僅か二畳敷きの物置小屋が生活の場である。独身のまま、娼家の並ぶ抹香町に通い、娼婦とのふれあいを作品化していく。

結婚はしないだろうと思われた川崎だったが、六〇歳で三一歳の大阪の女性と結婚する。年齢や両者の間にある肉体的精神的な距離に悩んだ末に。前掲『老残/死に近く』所収の「老残」は、結婚する前にあった、二人の間の軋轢を描いている。小田原から出発した川崎と、大阪から旅だった女性は、長野県の旅館で落ち合う。普通の女性には相手にされないだろうと納得している「頭髪はゴマ塩の、顔全体日向臭く皺っぽく、歯も上側はそっくり抜けてしまってい」る老作家。文学少女であった女性は、執心を示す。だが、女性は泊まりの旅をしながら、別の部屋に寝て、身体に触れられるのを拒む。朝を迎え、老作家は未練たらしく別れる。女性の部屋に押し込もうとも思ったが、結局ためらってしまう。それは結婚を決断できない心情の反映だろう。

川崎は典型的な私小説作家と言えるのだが、文芸評論家の齊藤秀昭は、『ひかげの宿/山桜』(講談社学芸文庫、二〇一五年)の解説で、「酷薄なまでの虚飾の剥ぎ落としが、長太郎文学の核である」と、川崎の作家としての厳しさを強調している。

文庫の末尾にある著書目録を追ってみて気付いた。所蔵している『現代日本文学大系 第四九巻』(筑摩書房、一九七三年)に川崎長太郎の作品が載っているではないか。迂闊だった。その巻は川崎長太郎が独り占めしているわけではない。『葛西善蔵 嘉村磯多 相馬泰三 川崎長太郎 宮地嘉六 木山捷平 集』となっている。宮地嘉六については、プロレタリア文学の作家として認識していた。代表作として『ある職工の手記』がある。目次を見て、宮地も「老残」というタイトルの短編を書いていることがわかった。

この作品は、一九四五年の敗戦から七年ほど経った時期に書かれているが、敗戦直後の話である。作家と思われる主人公は、二人の子を罹災者寮に預け焼け野原でバラック暮らし。きまった収入がなく、その日暮らしを続けている。ある日、街で偶然出会った女性の引揚者のためにハンコを作ってやった。なかなかいいものができ喜ばれる。それをきっかけにハンコ屋を路上で開き、何とか食いつないでいく。ひょんなことから手に入れたウイスキーに酔いながら、自分で自分の弔辞を読む。それは「君は天才ではなかったが、よく六十五歳の長きを生きた」で始まる。結びの言葉がいい。「おう私はまだ生きていた・・・・・・と、ひとりでひょうたくれながらこの大晦日の夜を、ぐびりぐびりと独酌でのみ明かしたが、実をいうと悔恨の生涯に慟哭したい気持をまぎらわすためであった・・・・・・」。この「悔恨の生涯に慟哭したい」とのいいように私は共鳴する。

札幌民主文学通信

二〇二二年月〇一日 286

 

 村瀬喜史さんの死を悼む

日本民主主義文学会札幌支部

松木 新

 

村瀬喜史さんが九月二十二日に逝去されました。

謹んでお悔やみ申し上げます。享年八十六歳。

往年の活躍を偲び、村瀬さんの作品を紹介します。

 

『奔流】(札幌民主文学会支部誌)

第16号 1997年 

エッセイ「円空仏のふるさとへ」

第17号 1999年 

創作「ニッコロムシ」

第18号2001年 

創作「新しい日々へ」

第19号 2003年 

評論「多喜二を語る(1)」

第20号 2005年 

評論「多喜二を語る(2)」

第21号 2007年 

創作「決断のとき」

第22号 2009年 

創作「お祭りスト」

第23号 2011年 

創作「試練とき」

第24号 2013年 

評伝「レクイエム 評伝 山科喜一」

第25号 2015年 

創作「老いても楽しく」

第26号 2017年 

エッセイ「生活綴り方事件と共謀罪」

第27号 2019年 

エッセイ「わが少年時代」

『北海道民主文学』(北海道研究集会作品集)

第11号 1996年 創作「父さん」

第12号 1998年 創作「町内のなかに」

第13号 2000年 創作「港の見える坂」

第14号 2002年 創作「五十六年目の八月」

第15号 2004年 創作「俺たちの時代」

第16号 2006年 創作「孫たちと」

第17号 2008年 創作「新米党専従者」

第18号 2010年 創作「釘ひとつ打つ」

第19号 2012年 創作「希望ある時」

第20号 2014年 評伝「多田光雄」

第21号 2016年 エッセイ「治安維持法と沢良」

第22号 2018年 エッセイ「認知症と囲碁とAI」

第23号 2020年 エッセイ「認知症予備軍に編入されたか」

 

九月例会誌上合評

 

 

合評作品

 

石井建仁

「別離」

       『民主文学』九月号

 

 

 

意見1        北野 あかり

 タイトルが「別離」となっていたので、どのような「別離」があったのかを作品の中から拾ってみました。小学6年生から4年間クラスメートだった和夫と稔の友情と別れ。母親との別れ、稔の姉と家族との別れ、そして子猫との別れが描かれています。

第一は、和夫と稔の別れで、稔と過ごした4年間は、初日の出会いがら“貧しい”という共通点で友情が築かれ、家族の事や朝鮮人への蔑視問題などを話し合ったり、アケビ取り、脚の怪我、通学時助けてもらったなどを通して、和夫と稔はお互い腹心の友として成長していく。

それが、国の施策により稔が北朝鮮に帰国するために別れを余儀なくされることが描かれています。特にアケビ取りの場面の情景がよく描かれていると思いました。

第二は、日本人と結婚する稔の姉と、北朝鮮に帰国する家族との別れです。姉の結婚を巡っての両家の考えのぶつかり合いの場面から、朝鮮人が虐いたげられ蔑視されていることは、国の支配者によって植え付けられた意識、偏見であること。姉が日本に残ることは、日本と韓国の橋渡しになるということ、などが語られており、このことは作者からのメッセージと思い、偏見を克服していかなければならないことだと思いました。

最後に、稔が大事にしていた子猫を和夫に託して去っていく場面は、幼い和夫を残して去っていった母親との別れの情景と重なり悲しみが伝わってきました。

この作品を読んで、別れは淋しく悲しいものですが、憎しみから幸せは何も生み出せない。

これまでの繋がりを大切にし、明日への懸け橋になるように生きていこうと思いました。

 

 

 

意見2    泉 脩

 福島県のある分校で五年生まで学んだ今井和夫が、六年になって本校に通学することになる。始業式に登校する途中、在日朝鮮人の家から出てきた張本稔に会う。彼も六年生で本校に通うことになり、学校に着くと二人は同じクラスだった。その後、和夫と稔は親友になり、中学でも交友は続くが、やがて稔は両親と共に北朝鮮に帰国することになった。稔の姉の洋子は日本の農家の息子と結婚し、親友と親兄弟の悲しい別離となるのである。

この物語は子供の世界が美しく書かれ、とても気持がいい。自分も戦争孤児であり、貧しい農家の祖父母に育てられた和夫には何の偏見もない。異民族で結婚した稔の姉夫婦も仲睦まじく気持ちがいい。

 民族的偏見、貧富の差別が根強く続く中、この物語は胸を打たれる。ただ張本一家らが帰国する北朝鮮が決して夢の国ではないことが、やがて明らかになってくるだろう。

この別離の後に待っている悲劇が書かれていないだけに、胸を締め付けられる思いである。どうしてこうなったのか、現代史における深刻な問題として、深く考えなければならない課題である。

 

 

意見3    村松祝子

 少年石川和男と在日朝鮮人の少年張本稔との六年生から中学一年生までの張本稔が北朝鮮へ帰るまでの友情を描いている。

作者自身の優しさが滲み出ているような優しい文体で淀みなく読み終えました。

方言の扱いもその地方の匂いまで感じさせてくれました。

小学高学年から中学一、二年生向きの児童書とも見れるかな、とも感じました。

日本と朝鮮の歴史はギクシャクしていて、それを題材にして書くには、襟を正さなければならないと思います。それを子供の目を通してと描いておりました。

嫁の陽子さんが和男に語る在日朝鮮人の日本での虐げられて来た歴史をわかりやすく説明する箇所は読者としても頷きながら読み進めました。

最後に猫が突然出てくるのは違和感を感じました。二人の間に猫との交流が少し描かれてあれば納得できたかと思います。

永遠の別離を通して張本君は今幸せに過ごしているのだろうかと思いを馳せます。

私も青春の頃、在日韓国人の研修医の青年と知り合いました。しかし彼の目は鋭くあなたは故郷を分断された者の苦しみなんか判るはずがないと一刀両断に切りつけられたことがあります。

初めてそんな世界があるのだと知りました。

気をつけて周りを見回すと身近に在日韓国人の友人がいたり仲間がいたりで意識しない中で生活しています。

親類に、二年ほど前、演劇志望の韓国人の青年と結婚した娘がおります。若い二人が小説の中で描かれているように日本と韓国の架け橋になっていく世界であってほしいと思います。

今回、短編を書かれた作者について、短い紹介と作品についての作者の思いを載せてくれたらと思いました。

 

 意見4        松木 新

この作品は、二人の少年の友情が、日本と朝鮮の橋渡しになれることを描いています。

和夫が、〈稔こそ、生涯の友だと心に刻んだ〉経緯が、少年の目線でぶれずに描かれており、過度な形容に走らない筆致に感心しました。特に、アケビ採りのエピソードは効果的で説得力があります。

稔の姉の結婚が露わにした日本人の朝鮮人への蔑視、加害者である日本人にたいする朝鮮人の恨みなど、両民族の間に存在する問題を、和夫の目線で理解しようとする姿勢には、好感を持つことができました。

前川はどの程度の集落なのか、前川分校では、なぜ六年から本校へ通わなければならないのかなど、説明不足の箇所もありますが、よい作品だと思いました。

なお、作中に〈朝鮮戦争を経て、朝鮮は北と南二つの国に分かれた〉とありますが、これは明らかな事実誤認であり、作者の初歩的なミスです。

問題は、北朝鮮への帰国運動の扱いです。

1959年12月の帰国運動開始から1984年の終了までの期間に、北朝鮮での新しい生活をめざして日本から帰国した9万3千3百40人の物語、〈それは策略と欺瞞と裏切りの物語であり、その複雑にからみあった網の目は日本と北朝鮮の政府、クレムリンとホワイトハウス、さらには世界でもっとも崇められている人道主義組織のひとつである国際赤十字の運動にまで広がっている〉(テッサ・モーリスースズキ『「帰国事業」の影をたどる 北朝鮮へのエクソダス』2007年5月 朝日新聞社)ことが、現在では明らかになっています。

〈生涯の友〉との「別離」であるにもかかわらず、和夫は帰国について、稔にも、祖父にも何一つ質問していません。〈「北」の国は貧乏人を大事にする国だ〉、〈「北」へ帰れば俺たちは主人公なんだよ〉と語る稔の言葉が、そのまま紹介されています。

この小説「別離」が、『キューポラのある街』が書かれた時代の作品ならいざ知らず、「帰国事業」の真実が明らかになった現在の作品であることを考えると、作者の姿勢が問われていると思います。

現在の到達時点から、当時の状況を描く場合の創意工夫が、いまひとつ欠けていると思いました

 

 

意見5      後藤守彦

どうしても出席しなければならない、別の集まりがコロナで中止になったため、例会に顔を出すことができました。稔を猫が追い続けるラストシーンを

めぐって、犬ならわかるが、猫はどうだろうかといった声が聴けたのも、対面の合評に参加したおかげです。私は、民族の違いを超えた、在日と日本人の

少年の友情が、温かい筆致で描かれていると評しました。出席した皆さんの評価も概ね好意的だったと思います。

帰国事業については現在では問題があったとみなされているので、それを踏まえた表現が求められるのではないかとの意見に対して、当時の認識のまま

でいいのではと反論しましたが、改めて考えてみたいと思います。

「朝鮮戦争を経て、朝鮮は北と南二つの国に分かれた」という短文を、歴史認識が誤っていると厳しく批判しました。翻訳家の斎藤真理子は、「ときどき勘違いしている人がいるのだが、南北分断は一九五〇年の朝鮮戦争で始まったわけでない」(『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス、二〇二二年)と念押ししています。

一九四八年に二つの国に分かれたから、朝鮮戦争が起こったのです。南北分断の基底的責任は、朝鮮を植民地化した日本にあります。

例会の前後、JRの車内で読んでいたのが、今年刊行された伊東順子『韓国カルチャー~隣人の素顔と現在』(集英社新書)でした。隣国の歴史や文化についての理解がまだまだ不足していると痛感しました。それとともに、著者の自戒の言葉、「韓国について知れば知るほど、実は日本について何も知らなかったことに気づいている」に共感しました。

 

 

 

 

 

意見6   豊村一矢 

 如何にも素人っぽい作品だけど、読み始めると清々しい気持ちになっていった。なぜだろう。

まっすぐ主題に迫る書き方と、朝鮮戦争・民族の違い・貧富差による差別等々を扱う中で、中心の登場人物が子ども(二人の小学生)ということで、そうなったのかもしれない。

 支部例会では、朝鮮戦争と南北分断、北朝鮮への帰国事業の話が出た。

戦後、帰国事業が始まった頃、私は十代の始めで作品の子どもの年齢とほとんど同じだったが、何やら周囲の空気が、北朝鮮は天国だというような話で充満していたのを覚えている。 

どうして、そんなことを覚えているのか。そのころ住んでいた村落の日常に原因があるような気がする。

荷車を引いて残飯集めをする朝鮮人をワルガキどもが囲んでバカにする。すると、朝鮮人は「チョウセンチョウセン、ナニイウ。オナジ、メシクテ、トコ、チガウ(朝鮮・朝鮮、何言う。同じ飯食って、どこ違う)」と悲しそうに抗議する。ガキどもは、それを面白がって、その朝鮮人の口調をまねて繰り返し、からかい、囃したてる。

 あの朝鮮人は、帰国事業で北朝鮮に帰るだろうなと、子ども心に思ったものだ。そんな経験があって、『別離』での和夫と稔の展開がスッキリと伝わり、心に沁みたのだと思う。

『別離』は文学作品であり、創作、小説だ。作者が帰国事業の不幸な実態を書かなかったのは、失念や無知ではなく、主体的な判断だと思いたい。

 

 

意見7   石川節子

全体的に、素朴な郷愁を感じさせる、優れた作品だと思いました。

私にも朝鮮籍の幼馴染みが居ましたので次回はそれをテーマにした作品を書こうと決めていました。しかし、この作品を読んで「先に書かれてしまった」と感じ、ちょっぴり残念に思いました。

九ページ上段の中央の日本人はどうして朝鮮人をバカにするのかな」。 これは、私も、ものごころついた頃からの疑問でした。

大まかな所では「容認出来ないこと」が出てきますそれが今、現在でも延々と続いているます。

一度、すり込まれた、自分たち日本人にとって心地よい優越感」は、それが間違っていると気づいても訂正しようとしない身勝手さを、この作品で提示され改めて深々と日本人の罪ぶかさを感じさせられました。

 

 

    投稿欄

 

 

入管の問題点を炙り出した『やさしい猫』

               松木  新

 

ウクライナからの入国者が、5月21日で千人に達しました。政府はウクライナからの入国者を難民ではなく避難民として特例的な措置として入国を認め、積極的に生活支援を進めています。

一方、昨年3月、スリランカ人のウィシュマ・サンダマリさんが、名古屋市にある入管(出入国在留管理庁)施設で亡くなりました。33歳でした。昨年の難民認定者数は過去最多の74人でしたが、不認定者は一万人を超えています。政府が、入国者にたいして、ダブルスタンダードを採っていることは明らかです。

中島京子『やさしい猫』(中央公論新社 2021年8月)は、難民受け入れにたいする日本社会の現実を照射した、タイムリーな好著です。

シングルマザーの保育士ミユキさんが結婚した相手は、スリランカ人の自動車整備士クマさん。在留カードの期限が切れていたクマさんが強制送還される瀬戸際に追い詰められたミユキさんは、裁判闘争に踏み切ります。タイトルの「やさしい猫」は、スリランカの童話です。

クマさんが法廷で、〈日本人は、入管のこと、在留資格のこと、なにも知らない〉と語る場面があります。ぼくもまさにその中の一人で、この小説を読んでショックを受けました。改めて知ったことを列挙します。

○パスポートの期限が来月であっても、在留カードの期限が今月で切れていたら、外国人は日本にいることはできない。

○強制退去になった場合、出国した日から五年間、日本への上陸はできない。

○東京の入管収容所には五百人以上の外国人が収容されている。

○収容所は刑務所のようだ。六畳の部屋に五人を収容。テレビ一台とトイレがあるだけ。スマホは取り上げら、外部との連絡は、公衆電話と一回三十分の面会時間だけ。外からは収容者に電話できない。

○茨城県牛久にある東日本入管センターの収容者の部屋には窓がない。運動するところがあるが、高い塀があって上にフェンスがあるので外部は見えない。

○在留資格のない外国人は全員、入管の指示で無期限に収容される。諸外国では、三ヶ月とか六ヶ月など収容に期限があり、それを超えても帰れない人たちの収容は解かれる。しかも必ず裁判所が関与する。裁判所の許可もなく、無制限に収容してよいという日本の制度はおかしい。

○日本は血統主義の国なので、両親のどちらかが日本国籍ではないと日本人になれない。血統主義のフランスでは、両親が外国人でもフランスに生まれて五年間フランスで育っていればフランス国国籍がとれる。アメリカは血統主義ではないので、アメリカで生まれた子どもはすべてアメリカ人になれる。

両親が外国人で日本で生まれた子どもは、生まれたときから仮放免という資格になる。仮放免とは、収容はしないで外で暮らしてよいというもので、仮放免期間が一ヶ月とか二ヶ月と決まっている。期限がきたら、入管に出頭して、仮放免許可をもらう。正規の滞在許可ではないので、仕事をしてはならない。したがって、健康保険には入れず医療費は全額自己負担になる。他の都道府県に行く時は、入管に申請して旅行の許可を取らなければならない。

作品の中では、川口に住む仮放免のクルド人の少年が、無断で東京ディズニーランドヘ行った事が発覚し、大問題になる場面があります。

○日本は難民条約に加盟して四十年になるが、この間、難民を助けるための仕組み作りに、ほとんど取り組んでこなかった。

○根源的な問題は、入管が、入国管理と難民保護を同じ部署の同じ人間が行っていることである。日本には、難民認定制度はないに等しく、あるのは難民不認定制度である。

○在留資格に問題がなく難民申請ができても、九十九%は認定されない。カナダでは六十七%の人が申請を認められ、他の国でも、基本的には、二桁が認定されているが。日本の認定率は一%にも満たない。

不認定を受けても、帰国できない事情は変わらないので、何度でも認定申請を繰り返している人が多数いる。国連難民高等弁務官事務所は、このような外国人に、「法的な幽霊」という名前をつけている。

○難民条約の定義では、「人種、宗教、国籍、もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国の保護を受けることを望まない者」だが、難民にはLGBTQの人もいる。同性愛者を懲役刑や死刑にする国があるからで、日本では同性婚を認めていないけれど、同性愛を罰する法律はないから、逃げてくるのである。

○世界一安全な東京オリンピックにするために、入管は不法滞在の外国人を無制限に収容する方針で臨んだ。

 

小説世界では、弁護人の最終陳述が、心に残りました。

〈この裁判は、日本の社会に根を下ろして生きていこうとする外国籍の人々に対する国の姿勢を問うもの〉であり、〈家族を引き裂いてしまうことによって、憲法で定められた婚姻の自由と幸福追求の権利を、国が個人から奪うことができるのかを問うもの〉である。

 

 

旭爪あかね「銅の秋」

貴重な作品集

泉 脩

 二〇二〇年に亡くなった旭爪あかねの第二遺稿集。第一部は小説が十二遍で、大半が初期の習作である。

 二十代の後半に大学の修士課程を辞め、引きこもりの中で文学を志した。日本民主主義文学会の文章教室に通い、その中で次々と書いた短篇小説で、どれも興味深い。

 私が特に感銘を受けたのは、一九九六年の「焦茶色の小鳥」で、後に大巾に手を入れ、縮小されて、「冷たい夏」と改題された。「民主文学」の第二回新人賞を受け、作者のデビュー作になった。

 主人公は若い雛子(ひなこ)で、千葉県の小都市で働きながら詩を作っている。ある日、散歩中に若い男からチラシを渡される。地方誌の「北方雑観」の宣伝である。立ち話の中で、彼女が詩人であることを知って、その青年佐々木は、彼女を編集部に誘う。

 佐々木の他は、編集長の横山と、大学を卒業したばかりの原田の三人である。「北方雑観」は、この頃市内の北部の農地にビル建設をしようとする計画への、反対キャンペーンをしていた。雛子は反対行動に参加し、その感想を詩に書いて「北方雑観」に載せるようになる。大企業が市幹部と結んで、貴重な田園地帯をこわそうとしているのである。ところが住宅地域の住民は反対運動を支持せず、農民たちとの対立になってしまう。

 雛子は話合いの場をつくり、双方の理解を進めようと提案し、原田と対立してしまう。

彼女は高校時代の担任の加藤に相談し助言を受ける中で、加藤からプロポーズされる。佐々木に心を惹かれていた雛子は、煮え切らない佐々木から離れて、加藤を受け入れる。

 しかし、一人で陶器作りに励む老婦人に会い、戦時中に反戦運動に打ち込む恋人を捨てた老婦人の反省を聞いて感動する。老婦人は地主の息子と結婚するが、自分の子供を戦争で失い、かつての恋人が関心を持っていた陶器作りに自分の後半生を捧げているのである。

 雛子は結婚をやめ、もとの生活に戻り、詩作に励むのである。この作品は、自分たち全体に襲いかかってくるものに対し、国民が目覚めて抵抗する必要性を訴えているのである。

 次に感銘を受けたのは、二〇〇六年に「民主文学」に載った「ミシンと本棚」である。

 一九九〇年代の初め頃、東京のある大学の博士課程に、一人の青年が合格した時である。栃木県からきた主人公桜井渉は合格発表を見に来た時、大学の近くの洋品店の窓に展示している婦人服に目を止める。店の前の掃除に出てきた店員の塚原りさ子に声を掛けられ、びっくりする。来合わせた大学院生(チェン)にも声を掛けられ、二人は大学に向かう。

韓国からの留学生崔は渉と同じ学科の博士課程で、すでに学位はとっているが、就職待ちだった。二人は親しくなり同じ部屋で机を並べ、話合うようになる。崔は同じ韓国人の順伊と結婚していて、渉がりさ子に惹かれていると知って、二人を引き合わせる。四人は仲良くなり、渉とりさ子は恋仲になり、北海道の大学に就職する崔夫妻を見送ったところで終わる。

この間、韓国の民主化運動の中の悲惨な光州事件(一九八〇)が書かれ、研究の自由について語られ、ノンポリだった渉の目が開けてくる。洋裁に励むりさ子の苦しみも書かれ、若者たちの世界がよく解かる。やや後の作品だけに、作者の上達を示している。

「西瓜レジスタンス」も、とてもおもしろい。残業、休日出勤、残業代未支給に対する社員の抵抗を、西瓜をめぐって書かれている。

「約束」では、夫の遅い帰宅の中でアル中になった妻が、小さい息子と交わした約束について書いている。飲酒をやめる代わりに、息子にも親に心配を掛けないことを求める。結局、夫婦は離婚し、成長した息子にも反抗期を与えるために、わざと母親が飲酒するのである。考えさせられる作品である。

代表作「稲の旋律」に達するまでの、旭爪あかねのたゆまぬ努力が、これらの作品からよく解かり、とても興味深い。

この本の二部は詩集、三部はエッセーである。詩のひとつの「銅の秋」が本のタイトルになっている。

エッセーは率直に書かれていて、とても興味深い。ずっと精神科医にかかっていて、抗うつ剤を飲んでいる。私の妻と同じなので、よく解かる。うつ病は治療によって治るのである。

アルコール依存症はずっと続いたので、とても深刻である。これが最後まで続いたのだろうか。子供の時から父親のアルコール依存を見てきたのに、自分も同じになるとは皮肉である。やはり子供は親の背中を見て育つのだろうか。私の父は酒もタバコもやらなかった。私も同じになり、一人息子も同じである。

さらに深刻なのは、旭爪さんが、子供を育てる自信がなく、結婚してせっかく授かった子供を中絶してしまう告白である。このように、旭爪さんは、エッセーの中で自分をさらけ出して書いている。だからこそ、彼女の小説も読者の心をとらえる力を持っているのかも知れない。

エッセーの中で、アルコール依存はガンになりやすく、多くの人が五十代で亡くなる―と書いている。そして旭爪さんもその通りになってしまった。痛ましい限りである。

 

小松隆二他

『ニュージーランドの思想家たち』

理想社会を目指す人々

泉 脩

 

二〇〇一年に出版された、十三人の研究者による共著。慶応大学教授の小松隆二さんの退職を期して出版された。

 私の前著『八十七歳の詩(うた)』で紹介した、『小さな大国ニュージーランド』の姉妹篇であり、思想家と題しているが、政治家、学者、文学者、社会活動家たちである。そこに思想家と言ってもよいほど、理想の社会と国家を目指す求道的ともいえる生き様が展開されている。利己的な営利を目指す、日本の政治屋や名士たちとは、まるで違っている。

 まず、三人の労働党首を取り上げたい。一九二九年にアメリカから始まった世界恐慌は、ニュージーランドにも波及し、国民の生活を苦しめた。その中で労働党が力を強め、一九三五年に初の労働党政権が成立した。サヴェージ首相は一九三八年に社会保障法を成立させた。アメリカに次ぐ世界で二番目の快で、内容的にはアメリカよりずっと秀れている。

医療、失業保険、年金など、ほぼ国費で賄われる。アメリカでは現在に至るも医療保障が無く、国民は高い医療費に苦しめられている。

 一九四〇年に跡を継いだピーターフレーザーは、副首相、大蔵大臣として政権を支えてきた人で、社会保障政策を受け継いだ。

 この二人はイギリス系の移民の子孫であり、苦しい生活から学歴も無く台頭してきた政治家である。地盤、看板、カバンを利用して栄達してきた日本の政治家とはまったく違っている。

 労働党は一九四九年に選挙で敗れ、国民党政権に代わった。しかし一九八四年に労働党のロンギが首相になり、徹底した反核政策をとった。これは現在も続き、核兵器も核原発も拒否し、核兵器を乗せた軍艦の入港も拒否している。

 その一方、ロンギ政権は経済困難を切り抜けるため、行政改革を進め、国民に苦しみを耐え忍ばせている。ロンギはまったくの現実的政治家だったのである。

この後、保革の二人の女性首相が続き、それぞれの信念に基づいて相反し、補い合う政治をしている。

 この他、一九五三年に世界初のエベレスト登頂に成功したエドモント・ヒラリーが注目される。彼はイギリスの七回の登山チームに加わり、遂に成功したのである。

これはイギリスの勝利として讃えられ、同行したポーターのテンジン・ノルゲイと共に後世に名を留めた。彼は国民にスポーツを奨励した。同時に、生涯に渡り力を注いだのは、世界中の人々による登山、トレッキングブームによる荒廃から守るために、ヒマラヤの自然、環境の維持に努めた。

 世界初の世界一周を実施したキャプテン・クックの生涯を研究し、膨大な伝記を書いた歴史学者もいる。イギリス人のクックは三度目の大航海の途中、ハワイで先住民に殺された。私はてっきりフィリピンだと思って、教えてきてしまった。

 世界的な女流文学者。マオリ族の権利のために九十歳の生涯をたたかい抜いた女性指導者など、全部で十三人のニュージーランドの名高いリーダーを書いていて、興味は尽きない。ニュージーランドは現在、世界有数の社会保障国家であり、反核平和の

国であり、美しい自然とスポーツを楽しんでいる国である。

 日本と同じ島国で、南北のほぼ同じ緯度にあり、地震大国である。日本は、アメリカに追随して戦争の道を辿らずに、ニュージーランドと同じ道を進むべきであると切に思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

行為の明暗を分けるもの

後藤守彦

 

フランスの歴史学者P・ヴィダル=ナケは『記憶の暗殺者たち』(人文書院、一九九五年)で、アウシュヴィッツとガス室に象徴されるユダヤ人虐殺を否定する歴史修正主義者を糾弾した。日本でも、日本のアジア侵略を認めない勢力、「記憶の暗殺者たち」が跋扈している。

「記憶の暗殺者」という言葉を最初に紹介したのは、北広島九条の会の二〇一五年三月例会でであった。三回シリーズの連続講座「近代日本の戦争と平和を考える」の初回のことである。用意したレジュメのはじめに、「「記憶の暗殺者」=不都合な真実の抹殺者を許さない」と記した。昨年刊行された武井彩佳『歴史修正主義ーヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中公新書、二〇二一年)にも、ナケは登場する。武井は批判的な視点にたって、歴史修正主義の歴史や特徴、問題点について丁寧にまとめている。冷静に読まなければと思うものの、私は終始憤りながらページをめくった。一側面を誇張して全体を結論付ける、事実を否定することによって二重に被害者の尊厳を貶める、否定する側が自説を立証すべきなのに事実だとする側に立証を求める、立証もせずに否定するのは自由だと開き直る、陰謀論にもつながる、などの特徴を武井は明らかにしている。武井の指摘で特に注意したいのが次の点である。

 

歴史修正主義者は、人々に認識の「揺らぎ」を呼び覚ますことを意図している。実際に明らかに白に近いものと、明らかに黒に近いものがあるにもかかわらず、その差が曖昧にされ、学術的な知見に基づいて構築された歴史解釈が骨抜きにされてしまうのだ。こうして、長い時間をかけて形成された社会の合意が侵食されていく。

 

 武井は同書を「粉飾された歴史の上に創り出されたアイデンティティは結局利益をもたらさない。なぜならそれもまた、確実に書き直されていくからである」と結んでいる。

歴史修正主義の発現の一つが、ヘイト・スピーチ、ヘイト・クライムといえよう。二〇一三年、在日朝鮮人が多く住む、大阪市の鶴橋駅周辺で行われたヘイト・スピーチデモで、ある女子中学生が「いつまでも調子に乗っとったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ」と叫んだ。この発言が海外にも報道され衝撃を与えた(師岡康子『ヘイト・スピーチとは何か』岩波新書、二〇一三年)。これを知った私の胸は、その場にいなくとも凍りついてしまった。なぜ歴史を否定するのか、歴史修正主義にとらわれる人と、歴史事実を誠実に受け止める人との違いはどうして生ずるのか。素朴な疑問が湧いてくる。

 アウシュヴィッツでユダヤ人の大量虐殺が行われたことは、歴史修正主義者がいくら否定しようとも否定できない明白な事実である。アウシュヴィッツを生き抜いた、数少ない人びとの証言・記録が存在する。人間の気高さ・善意への信頼にあふれている、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』(みすず書房、一九五六年)は、戦後初期から世界中で読まれてきた。自らをディアスポラとする徐京植は、ユダヤ系イタリア人のプリーモ・レーヴィを同じディアスポラとみて深く心を寄せている。レーヴィはレジスタンスに加わり、一九四三年に逮捕されアウシュヴィッツに送られた。生きのび作家として活動するが、一九八七年に六七歳で自死した。レーヴィの『これが人間かーアウシュビッツは終わらない』(朝日新聞出版、二〇一七年)は、記録文学の名作である。レーヴィは述懐する。

 

   自分たちは奴隷にされ、何百回となく無言の労働へと行進を繰り返した。だが、無名の死がやって来る前に、もう心は死んでいるのだ。私たちはもう帰れない。ここから外に出られるものはだれ一人としていない。なぜなら一人でも外に出たら、人間が魂を持っているにもかかわらず、アウシュヴィッツでは、少しも人間らしい振る舞いができなかったという、ひどく悪い知らせが、肉に刻印された入れ墨とともに、外の世界に持ち出されてしまうからだ。

 

アウシュヴィッツは、人間から生命だけでなく、「名前、顔、尊厳、希望を奪う施設」だった。レーヴィは、人間に戻ろう、人間性を回復しようとしてもがき、生き残ったことへの罪悪感に苦しんだ。徐京植は「アウシュヴィッツは終わらず、レーヴィは結局そこから出ることはできなかった。考えることは死につながったのだ」と惜しんでいる(『過ぎ去らない人々ー難民の世紀の墓碑銘』影書房、二〇〇一年)

 ドイツにはユダヤ人を迫害した人しかいなかったのだろうか。それを追究したのが、平山令二『ユダヤ人を救ったドイツ人』(鷗書房、二〇二二年)である。平山が紹介しているのは無名の普通の人たちである。かれらは、自らの行為を語ることが少なかったので、サブタイトルにあるように「静かな英雄たち」と呼ばれている。最初に取り上げられているのが、二〇〇二年公開の映画『戦場のピアニスト』で描かれた、ユダヤ人ピアニストのシュピルマンを助けた、ドイツ軍のホーゼンフェルト大尉である。彼は、ソ連軍の捕虜となり獄中死している。ユダヤ人狩りの情報をユダヤ人に流し続けた警察署長クリュッツフェルト。彼には協力する部下もいた。視覚障害のユダヤ人を雇って匿った実業家ヴァイト。他にもいるのだが、平山が最も興味をひかれ、共感を覚えたのが、アントン・シュミット軍曹だった。彼は軍用トラックを利用して、多数のユダヤ人を安全な場所へ逃がしただけではなく、ユダヤ人抵抗組織も支援した。しかし、密告による可能性が高いが、逮捕され死刑となっている。

 アウシュヴィッツに象徴されるユダヤ人迫害を積極的に実行した人、迫害に加担した人、迫害を黙認した人、ユダヤ人を援助した人、ユダヤ人を命がけで救った人、こうした行為の明と暗を分けるものは一体何なのだろうか。シュミット軍曹のような「人間性」によるのだろうか。疑問は尽きないが、それが分からなくてもいいのではないかという、著者の現在の心境と同じ地点にひとまず立とうと思う。

 

   迫害された人々を命がけで救おうとした人々がいたこと、その事実さえ分かればそれでよいのではないか。漆黒の暗闇にも小さいが確かな輝きを放つ灯があることを見れば十分で、その灯が何に由来するのかを確かめる必要はないのではないか。小さな灯はのちの世代の人々に必ずや人間性に対する信頼、迫害された人々に手を差し伸べる勇気を与え続けるだろうから。

 

 極限状況のなか命がけで一歩を踏み出した人たちを発掘し、彼らの生き方を蘇らせること、これを歴史を学んできた者として追い求めていきたい。どうしてそうできたのかとの問いを抱えつつ。

 

 

 

『ウクライナ青年兵士との対話』が呼びかけるもの

                 松木 新

 

土橋芳美が長編叙事詩『ウクライナ青年兵士との対話』を発表しました(サッポロ堂書店 7月29日)。

前作の長編叙事詩『痛みのペンリウク 囚われのアイヌ人骨』(草風館 2017年3月―第51回北海道新聞文学賞詩部門佳作)では、土橋の曽祖父の兄にあたる平取コタンの首長ペンリウクとの対話でしたが、この作品では、医学部三年生で戦場に倒れたウクライナ兵士との対話です。

ウクライナ兵を、〈同じように/戦場で/戦わざるを得なかった/ロシア兵のことを/自分のことのように/思っている〉若者として描くことで、戦争全体を視野に収めている土橋が、この詩で強調していることは、話し合いによる戦争の解決です。

 

アイヌ民族に

むかし むかしから

伝わる

争いを避けるための

決まりごとの一つに

チャランケ

と いう方法があるの

  ・・・・・・

チャ   は言葉

ランケ  は下ろすというの

つまり

自らの主張を

相手の心に

下ろしていくの

・・・・・・

大事なことは

自分の心を

閉ざしていては

言葉は下りないの

だから

話し合う前に

まず心を空にして

清めておくことが

大事なの

 

そしてこのとき

最も大事なことは

相手

追いつめ過ぎないって

ルールもあるのよ

つまり

相手の心に

納得のいく

言葉を

下ろしあうの

それは

個人でも

あるいは

民族や国と呼ばれる

集団でも

工夫すれば

出来ることじゃないのかしら

 

土橋(旧姓平村)芳美は、砂澤ビッキ、結城庄司とともに、1973年6月、タブロイド紙「アヌタリアイヌ」を発行しました。この新聞は、76年3月の第一九二〇合併号まで刊行されました。

母親が芳美と従姉妹である石原真衣は、「アヌタリアイヌ」について、次のように書いています。

〈「自分たちは、そして、私たちの痛みとは、何なのだろう」とわからないから、知ろうとするのだ。『アヌタリアイヌ』は、アイヌとは何だ、民族とは何だ、自分たちの置かれた状況とは何だ、とアイヌと和人が共同して問う場所であった〉(『〈沈黙〉の自伝的民族誌 サイレントアイヌの痛みと救済の物語』 北大出版会 2020年2月)

 

 

 

 

 

 

 

戦争と女性兵士

後藤守彦

 

二〇一九年に制作されたロシア映画『戦争と女の顔』を、今年八月にシアターキノで観た。新進気鋭の監督バラーゴフが、二〇一五年度のノーベル文学賞を受賞したスヴェトラーナアレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』に触発されて完成させた作品である。

舞台は、一九四五年、独ソ戦が終った直後のレニングラード(現サンクトペテルブルク)。私は、四二年前、冬のレニングラードをツアーで訪れている。

レニングラードは、一九四一年九月八日から一九四四年一月一二日までの九〇〇日間ドイツ軍に包囲された。その間過ごした冬は三回。餓死者凍死者を含む市民の犠牲者数について、レニングラード大学東洋学部日本語学科を卒業した、ツアーガイドのターニャは一二〇万人と説明していた。

映画のストーリーをみてみよう。荒廃したレニングラードにある、多くの傷痍軍人が収容されている病院で、元高射砲兵であったイーヤは看護師として働いている。イーヤはPTSDを抱えながら、子どもを育てていたのだが、後遺症からくる発作のせいで、その子供を喪ってしまう。

戦友でイーヤに子どもを預けた母親マーシャが戦地から帰還し、イーヤと同じ病院で働くことにる。マーヤも心と身体が傷ついていた。二人は自分たちの生活を再建するため闘っていく。葛藤するイーヤとマーシャを演じた女優がともに新人だと知り、正直驚いた。

 私が初めて出合ったアレクシエーヴィチの作品は『チェルノブイリの祈り』(岩波書店、一九九八年)だが、アレクシエーヴィチの第一作は『戦争は女の顔をしていない』である。群像社から二〇〇八年に出版され、二〇一六年に岩波現代文庫になり、広く知られるようになった。アレクシエーヴィチは、戦後の一九四八年にウクライナに生まれ、ベラルーシで育った。母方の戦死したウクライナ人の祖父、パルチザン活動に加わりチフスで亡くなったベラルーシ人の祖母、三人兄弟のうち戦後に帰ってきたただ一人の息子がアレクシエーヴィチの父であるという家庭の出身である。

 アレクシエーヴィチは、「世界が知らないままに隠されてきた」「女たちの戦争」「女たちのものがたり」を綴るため、一九七八年から一九八三年にかけて高齢の元女性兵士を訪ねる。ほとんどが召集ではなく志願により女性兵士が一〇〇万人以上誕生した。衛生兵や軍医のように人の命を救うために戦った女性もいれば、狙撃兵砲兵飛行兵のように命を奪う、人を殺すため戦った女性もいた。時にはともに抱き合い、涙を流しながら、アレクシエーヴィチ聴き続けた。「愛をもって理解しよう」とした。  

証言の数は、五〇〇をはるかにこえる。アレクシエーヴィチは、間接的ではあるものの、数多のむごたらしい死と遭遇する。アレクシエーヴィチが世に問うた証言は、いずれも苦悩に満ちたものとなる。「痛みに耳を澄ます・・・・・・過ぎた日々の証言としての痛みに・・・・・・そのほかの証言はない、それ以外の証言をわたしは信じない」、そうアレクシエーヴィチは言い切っている。

文芸評論家の石井正人は、女性兵士の体験の流れを最初の「熱狂的な愛国心から前線で戦うことを志願」から始まって一〇点列記しているが(「戦争の非人間性に苦しむ心を伝承することーアレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』について」『民主文学』二〇二二年五月号)、九点目の「戦後女性兵士として酷い偏見と差別を受ける」には、胸がしめつけられる。

 ロシア文学研究者の前田しほ島根大学准教授は、『戦争は女の顔をしていない』をつぎのように意義付けしている。彼女の仕事の意味を悟った女たは、再び作家を呼び出し、かつては語れなかったことを語り直し、本は版を重ねるたびに書き換えられていった。我々が手にする翻訳も何冊もの異版を詳細に検討し、練り上げた労作である。本書はそれ自体が、女たちの連帯の物語=歴史なのである。(『ロシア文学からの旅ー交錯する人と言葉』ミネルヴァ書房、二〇二二年)

『戦争は女の顔をしていない』は、小梅けいとにより漫画化されている(KADOKAWA、二〇二〇~二〇二二年)。書名は原作と同じで、第五〇回漫画家協会賞を受賞している。漫画化は映像化であり、原作と若い人との距離が近くなると期待したい。時代考証もしっかりしており、漫画として成功していると思う。猫好きの私だから、猫が登場する場面は気分が高揚する。全三巻の内の第一巻に載る、特別輸送隊に子連れで夫とともに志願し戦った女性機関士の証言。原作では「戦地で猫が見つかる喜びのこと」とタイトルがついている、家族で列車で移動中、キエフ駅で猫を拾う。猫を抱きしめる息子が、「おかあちゃん、うちには猫ちゃんがいるんだよねうちは本物の家になったんだよね」とささやく。

「これは抜かさないでね」「必ず猫ちゃんのことを書いてね」とアレクシエーヴィチは念押しされる。 

証言からはどんな猫かわからないので、小梅は随分考えたことだろう一色なのか、しましまなのか、などなど。漫画では、黒でもなく、トラでもなく、灰色一色の淡い姿になっている。

さらに『戦争は女の顔をしていない』に着想を得て、逢坂冬馬は『同志少女よ、敵を撃て』(早川書房、二〇二一年)を上梓し、二〇二二年本屋大賞、第一一回アガサクリスティー大賞を受賞している。ドイツ軍に母親を殺され、復讐のためスナイパーとなった一六歳の少女を主人公に、狙撃兵の少女たちを描いている。

ソ連アメリカ日本の女性兵士創出の歴史をふまえて、女性兵士問題に切り込んでいるのが、佐々木陽子『総力戦と女性兵士』(青弓社二〇〇一年)ある。

佐々木は、「女でもここまでやる」「女も国民である」と勇ましさを発揮した女性兵士は、ナショナリズムの力学の体現者として熱狂を示した一方、「母性への裏切り」であると女らしい戦争協力を主張するジェンダーの力学からの批判を浴びた、と二つの力学のせめぎあいを指摘する。『戦争は女の顔をしていない』に書かれている、女性兵士が戦場から帰還して後、偏見と差別を受けた事実は、後者の力学の反映といえる。また、佐々木は、勇ましい女性兵士が、兵士になりえない身体障害者や兵役拒否者を侮蔑することもあり得、これは新たな排除の軸の構築へ連動するという。そして、佐々木は現在にも続く女性兵士の問題について提起する。

軍隊が暴力装置であり、その暴力を独占しているからこそ抑圧や侵略の主体となる危険をつねにはらみもつ以上、大学、司法、ビジネスといった、同じく女性を排除してきたほかの制度内の平等観念と同列に論じうるのだろうか。

軍隊を縮小して解体の方向を模索したいと考える立場からは、軍隊への女性の参入の容認は、むしろ軍隊組織の強化に結びつくという「意図せざる結果」をもたらす結果になってしまうのではないか。

『戦争は女の顔をしていない』の背景としての、独ソ戦については大木毅『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』(岩波新書、二〇一九年)が最近評判になった。

私は授業や講演で、第二次世界大戦での戦死者数は、ドイツの侵略を受けたソ連が最多で、その数二〇〇〇万と語ってきたが、同書では二七〇〇万という数字を示している。ソ連の被害の甚大さに驚が、スターリンにも責任がある。

『戦争は女の顔をしていない』でも、アレクシエーヴィチが取材に向かう途中の列車に乗り合わせた元男性兵士の語りとして紹介されている。スターリンが「戦争が始まる前にもっとも優秀な司令官たち、軍のエリートを殺してしまった」、一九三七年の大粛清が「あったからこそモスクワまで後退せざるを得ず、勝利のための犠牲が大きかったのだ」と。

 

前述したレニングラードの犠牲についても、『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍』は、スターリンの過ちを糾弾している。スターリンは、「革命の聖都」の放棄を認めず市民の一部しか避難させず、秘密警察を使って統制に従わない多数の市民を「人民の敵」として逮捕処刑したのであった。

札幌民主文学通信

 

二〇二二年月〇一日 285

 

 

 

月例会誌上合評

 

合評作品

塚原理恵

「エンゼルケア」

        「民主文学」8月号

 

 

   

意見1      松木 新

この作品からは、これがコロナ禍の医療現場の現実だ、という怒りの声が聞こえてきます。医療現場の真実を描いた小説をようやく手に入れた、という思いです。

葵が語ったエンゼルケアの実際に、当時の状況を象徴させた作者の手腕は見事です。

退職して三ヶ月の美穂が、一ヶ月間の経験を経て、再び看護師として働く決意をする経緯も納得がいくものでした。

それだけに、三十歳の美穂が退職を決意したとき、それまで培ってきた看護師としての矜恃とどのような葛藤があったのか、三カ月前の自身の決断ときちんと向き合う姿勢が、再就職を決めたいま、必要だったのではないでしょうか。

再出発を保証する土台がそこにあると思うからです。

 

 

 

意見2        泉 脩

 二年前の春、八年続けたナースを辞めた笹川美穂が、友人の頼みで応援ナースをする話である。コロナ禍の始まりで、右往左往する病院の様子がよく書けている。

 コロナ病棟に人員が割かれ、美穂は手薄になった一般病棟を手伝う。末期ガンの患者のケアであり、経験を積んだ美穂は患者に寄り添ったケアをする。

 その結果その経験を見込まれ、コロナによる死者のエンゼルケアをすることになった。患者の終末をエキスパートの指導のもと、ていねいに行うのである。

 美穂は一カ月で応援期間を終えるが、仕事への自信と意欲を取り戻し、ナースとしての、より高い道を目指す決意をする。

 よく書けたリアルな物語であり、感染症の恐ろしさと難しさが実感できる。まだワクチンがない時期であり、すべてが手探り状態なのである。

 私は七十年前、父を天然痘で失い、まだ三十代の母と五人の子供が残された。そして一月前、自分がコロナになり一週間苦しんだ。きびしい体験だった。

 幸い三回目のワクチン接種を受け、息子の妻が保健所で働いていたので連絡を取って、なんとか乗り切ることができた。だからこの物語の一行一行がよく理解でき、心を打たれた。

 現在コロナ禍の第七波で過去最大の感染が拡がっている。コロナウィルスは生き残るために次々と自分の姿を変え、新たな力を得て襲い掛かっている。三年目を迎えて、いつ終わるのか計り知れない。

 この物語は実にタイムリーであり、経験に裏付けられた確かな筆致で書かれている。医療関係者の努力は実に貴重であり、ありがたいことである。

 公立病院や保健所の削減を進めてきた政府への批判も、きびしく書かれている。

 

 

 

意見3         後藤守彦

 八月例会を欠席しました。看護師経験のある方の批評に耳を傾けたかったと思います。「エンゼルケア」を最初に読んだのは、自宅から徒歩三分の位置にあるクリニックで診察を待っている時でした。コロナ禍での医療従事者の苦闘が、胸に刺さるように伝わってきました。

その内科クリニックには、降圧剤を処方してもらうため月一度通っていますが、血圧を測りながら医師は語りました。「コロナの感染がすごいですから、注意してください。うちでも毎日、二〇人ほどがPCR検査を受けています」。この言葉を聞き、「エンゼルケア」の世界がより鮮明に立ち上がってきました。

帰宅しすぐに読み直しました。看護師である主人公美穂はコロナ病棟に入ったわけでもなく、しかも短期の勤務であったのですが、彼女の体験を通して、医療現場の緊迫した状況が臨場感をもって描かれています。筆にゆるみはありません。特に、感染管理認定看護師の大貫と一緒にエンゼルケアにあたる場面は圧巻でした。「知らないことは罪だ」との美穂の思いに共感できました。

美穂はあすなろ総合病院での体験から、再び看護師として働こうと決意します。そこはわかりますが、なぜ看護師を辞めたのかの理由がはっきりしていれば、理解がより深まったと思います。

「エンゼルケア」が載っている『民主文学』八月号の「編集後記」について一言。支部を足蹴にし去っていった人物が、かつて支部誌に投稿した作品を『民主文学』に掲載することが、「支部活動と直結した編集」に該当するのでしょうか。納得できませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

意見4         豊村一矢

 時宜を得た作品だ。もっと言えば、時宜を先取りした作品だ。コロナ禍の医療現場の実態をリアルに描ききった。医療用語を駆使することによって効果をあげている。作品は筆者の実体験にもとづく創作なのか取材による創作なのか、知る由もないが、圧倒的な迫力だ。だから、病院を減らそうとする国の政策を批判しても説得力がある。

 私は、作品の主題は、主人公・笹原美穂の成長物語だと思った。三か月前に看護師をやめた美穂が、頼まれて応援看護師を勤め、医療従事者の同僚、上司、患者たちと相見える中で、看護師として進む決意を固める。これが安っぽいものにならず、感動できるのは、背景に圧倒的な迫力で展開された医療現場の実態描写があったからだと思う。

 この作品の欠点は、美保が三ヶ月前になぜ退職したか、きちんと書かれていないことだ。立派な理由でなくていい。寿退職でもいい。給料が安いからでもいい。上司、同僚と反りが合わない、でもいい。

「わたしは、孫の顔が見たい」という母の言葉に、

「それは、お母さんが決めることじゃないよ」と軽口で美穂が返す最後の場面。両親は笑顔になり、美穂は涙ぐみそうになる、感動だ。

 但し、美穂が別の道を選択したとしても、私は、励ましの言葉を送るだろう。

 

 

 

 

意見5        室崎和佳子

看護専門学校を卒業して八年、今は退職して三ヶ月の笹川美穂のもとに、看護学校同期生の矢田あかりから自分の勤めている病院へのヘルプを頼まれるところから物語は始まる。 

 ときはまさにコロナ初年度の2020年春。

 

 コロナ患者を受け入れするため多忙を極めているあすなろ総合病院で、コロナ患者のエンゼルケアを通して看護師として再生しようとする美穂を描いている。一口に看護師といっても、極める内容によって「感染管理認定看護師」「救急看護認定看護師」等々、色々あることも初めて知り、美穂が「感染管理認定看護師」の大貫のすごさに憧れ、やる気を出すところがいい。

 しかし、人間とは面白いものである。こんなに頑張り屋の美穂にして、密かに心を寄せていた研修医が若い看護師と付き合っているらしい、と聞いたぐらいで仕事をやめるというのが、私にしてはとても不思議です。その研修医と深い仲だったというならわかりますがね。

だから、人間とは面白いものである、と思ったのです。

 けれど、そんなヤワでは今後生きていけないよ、美穂さん。

 

 

 

 

 

 

 意見6         石川節子

 初めて聞く言葉が沢山でて来てとても刺激を受けました。

自分としては、「人の死」についての論考がかなり煮詰まっているものと感じていたのですが、一部、自信が揺らぐところがあることを指摘されたような気がしました。

二十ページ上段の患者の遺体はきれいに清めることもせず、モニター類の管を外すだけで白い納体袋に入れた。納体袋の周りを消毒し霊安室に運び、棺に入れた。すると葬祭業者が来て透明テープで棺を固定し、消毒液を噴霧した。

「びしょびしょに濡れて・・、しずくがぽとり、ぽとりって・・、―さんが泣いているみたいだった。まるで穢れた物みたいに扱われて」

かなり人情が優先して、嘆き悲しんでいますが、「感染予防を優先」するならば、仕方のないことではないでしょうか。 「死」とは、「人情より、化学を優先させねばならない宿命」なのです。 だから、「死」は怖いのです。

「死亡認定」を受けて二十四時間、焼却は出来ない。何故なら、生き返る可能性がゼロではないから。その時間を利用して通夜を行う。それが合法なのだ、という、大多数の人々の常識があるけれど、死んで間もなく袋に密閉されたらその可能性がなくなる。どう考えたらいい?

このことについて、法律はどのように明記しているのだろうか。我が家にある小六法を隅から隅まで見たけれども、そのかけらもみつけられなかった。

葬儀業者なども売り込み文句に言っている「一晩、置かなければ成らないことは法律で決まっているのだから」というのは業者もそう思い込んでいるだけなのではあるまいか。それとも条例にあるのだろうか。

 

 

 意見7        北野あかり

オミクロン株派生型(BA5)の国内感染が72220万人を超え、1ヵ月後の8月20日には25 万人を超え、死亡者が254人と恐ろしい勢いで急増し、収まる気配が見えない。そんな中で読んだこの作品は、コロナ感染で逼迫している医療現場が舞台となっており、タイムリーであったと思いました。

新型コロナウイルス感染症を受け入れている総合病院で、クラスターが発生。人員不足に陥った病院は、退職した看護師に復職を要請する対応がとられた。退職して3か月の美穂に、元同僚のあかりから「…助けて」と医療現場の逼迫した訴えが届いた。感染するのではないかという恐れと、感染のリスクを負ってでも引き受けるべきではないか迷うのだが、「…いま断ったら、絶対後悔するよ…」という言葉が、看護師としての使命感、責任感に火を付け働くことを決意した。踏み出すべきか!という迷いは、日常的に遭遇することも稀ではない。その時、身近にいた人の一言が決め手になることが多いのが現実だと思いました。

応援ナースとして雇用された美穂を通して、新型コロナウイルス感染症を受け入れている病院の実態が描かれています。

採用初日、清潔ケアを行うということで雇用された美穂が目にしたのは、病院が戦場化しており、その日の感染状況、患者の受け入れや転移先、スタッフへの通知などの情報を確認して職場に向かうスタッフの姿。コロナ感染患者の病床確保のために、内科病棟に、手術後や緩和ケア病棟の患者を移し、異なる疾患が混在している病棟。急変する患者対応に看護が追い付かず、清拭などのケアが手薄になっている状況。即戦力が求められており、オリエンテーションもなく、美穂は2年目の看護師と清拭を行う。65才肝がん末期患者の清拭回数も減り痒みが辛いとの訴えや、娘さんが看護学生である事など対話ができ、患者の安らぎに繋がっている。キャリアのある美穂だからこそ、本来の看護を提供出来たのだと思います。

3日目には、肝癌の患者さんが肝臓破裂で検査室に搬送される、急変患者を個室に移動するなど病棟は逼迫状態。美穂は午後の清拭を一人で行うことになる。肺がん脳転移で痛み緩和の治療を受けている75歳の女性の清拭を行う。蒸しタオルを使った熱布バックケアを行い、眠気を誘うくらいの心身の安楽が得られ、ケアの効果を確認し満足のいく看護が出来たと実感している。

しかし、午後にケアを行ったのは一人の清拭だったように描かれている。ケアが手薄で雇用され、多忙な病棟でケアをしたのは一人ではないと思われます。数名のケアを行った様子を書き込んだ方がいいと思いました。

コロナで死亡した患者さんの「エンゼルケア」の事例が紹介されています。

一例目は、受け持ち患者だったことで若いナースがエンゼルケアを初体験する。「モニターの管を外し、白い納体袋に入れ、納棺したあと業者に渡した。業者は蓋を閉め、テープで棺を固定し消毒薬を噴霧した」穢れた物のように扱われたことにショックを受けている。

2例目は、感染管理認定看護師、内科病棟師長、美穂の3人で行った。「遺体に黙祷、声掛けながら処置、清拭、納体袋に収容。遺族の心に寄り添うようにビニール越しにお別れできるように遺体の鼻が潰れないように配慮。   

写真を納体袋に入れた」そして「ストレッチャーに載せて霊安室に運び納棺した」で終わっている。その後はやはり業者に渡したのだろうと想像する。

この一連のケアを読む限り、「個人の尊厳を守り遺族の心に寄り添うケアをする」ということが感じられない。「声掛けながらケアをした」だけでなく、どのような声を掛けて処置をしたのかを具体的な言葉を入れると良かったと思う。「ご夫妻は山が好きだった、岩の上でストックをかかげて万歳をしている笑顔の写真を入れた」ではなく、家族のことも

加えて描くと良かったと思いました。

また、エンゼルケアにベテランの看護師が2時間以上もかかるのか?現実はもっと短時間と思いました。

大貫看護師の「マニアル化してこれからの看護に生かす」との言葉で、まだこれからの課題だというメッセージなのだと思います。 

コロナでの死者が日に数百名に増えており現状はどうなのか気になっています。

 

 意見8      柏原竜

あすなろ総合病院がコロナのクラスターになり、野戦病院のような混乱した状態になった様子がリアルに書かれている。この中で、奮闘なさっていた病院関係者に感謝の気持ちを強く持った。医療関係の言葉が当然出てくるわけだが、なかなか呑み込めず先に進めなかった。

認定看護師になることと、主任になることがどの様に違うのかとか。随分わかりやすく丁寧に説明されていますが。病院内の仕事は細分化されより高度になっていっているのでしょう。

 笹川美穂は勤めていた病院を辞めて3か月が経った頃、親友の矢田あかりからコロナのクラスターになった病院の応援ナースを頼まれた。

「患者第一は学生時代からの合い言葉だ」とと強く迫られたからだ。病院側は辞めた元看護師などに頼んでいたがなかなか集まらなかった。特に人間関係で辞めていった人はだめだった。もうすぐ30歳になる笹川美穂がコロナ病棟で働くことにより、また新たな目標を持てた。丁度30歳頃、仕事を初めて10年近くなって考え、立ち止まる人がいるようだ。自分はこのままでいいのか。何をしたいのか、などなど。

笹川美穂はコロナ禍の病棟で働く事で新たな目標が見つかった。よかった。自分をスキルアップしたいと思う人が真剣にもがき努力

している姿は見ていてうれしい。これはどんな仕事にも通じるだろうが。

 尊敬する現場の先輩大貫の言葉がとても大切だと思った。「看護師はもっと現場の声を発信したほうがいい。患者が安心して医療が受けられる土壌を整えることも、看護の専門職としての大事な役割ですよ」と。

 私達は、医療現場が大変なことは解っていても、具体的にどうなっているのかは解らないから、現場の人達が発信することがとても大事だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                     投稿欄

 

 

ウトナイの鳥      写真 嶋田 忠    

    文 石城謙吉

 

渡り鳥の聖地               

泉 脩

 

四〇年位前、平凡社から出版された写真集。美しい写真に立派な文章がついた、すばらしい本である。著者の(いし)(がき)謙吉さんは、『イワナの謎を追う』の著者であり、学問的研究に裏付けされた、きわめて文学的なエッセーを書いている。

 北海道の胆振の勇払原野にあるウトナイ湖は、さほど大きくないが、多くの渡り鳥の中継地であり、越冬地なのである。シベリアなどユーラシア大陸から渡ってきた鳥たちが、日本以南に飛んでいく中継地、あるいは戻りの中継地なのである。一部はウトナイ湖で越冬をする。

 ヒシクイ、アカエリカイツブリ、カルガモ、オオジュリン、カッコウ、シマアオジ、

オオジシギ、アカモズ、コヨシキリ、

アリスイ、ノビタキ、ノゴマ、

キビタキ、ノダカ、チュウヒ、チゴハヤブサ、アオアシシギ、ツルシギ、トビ、ハクセキレイ、アオサギ、ホオジロガモ、カワアイサ、マガモ、コガモ、オナガガモ、ハシブトガラ、

エナガ、シジュウカラ、ウス、カケス、

アカゲラ、ヤマゲラ、シロフクロウ、

コミミズク、ハクチョウ、オオワシ、オジロワシ、ハシブトガラス、ハシボソガラス。

以上紹介されただけでも四〇種、実にこれだけ多くの鳥たちの写真とエッセーが載っていて、読んでいてとても楽しい。そしてあらためて日本は、多くの鳥たちの聖地(サンクチュアリ)なのだと気がつく。鳥たちにとって、北海道は大切な場所であり、中でもウトナイ湖がその中心であることが解かる。ただ、この中にあの優雅な鶴が入っていないのが残念である。

 石城さんの文章はとても説得力があり、動物生態学に打ち込む情熱が、ひしひしと感じられる。書斎にこもる学者ではなく、自然の中に溶け込んでいく学者なのである。

 

 このかけがえのない自然の宝庫ウトナイ湖を、工業化から守ろうとする人々の努力も、よく書けている。自分も何かの役に立たないかと考えてしまう。

 私はかつて、高校一年の息子のクラスキャンプに、父母の一人として付いて行ったことがある。それがないと学校の許可がおりないからだ。洞爺湖のキャンプ場で、二泊三日のキャンプだった。運悪く一泊目の夜は雨に当たって、たいへんだった。二日目は晴れて、静かな湖のそばで、のんびりと過ごした。

一羽の白鳥が湖面を近づいてきて、餌をねだるそぶりを見せた。なんとも美しい姿だった。地域の人の話によると、羽にケガをしていて飛び去ることができず、ここに棲みついているそうである。

 この白鳥に誘われたかのように、私の息子が服を着たまま泳ぎ出した。他の生徒たちはびっくりして見守っていた。

 もうひとつ、一九九四年三月末、最後の卒業生を送り出し、苦労を共にしてきた学級PTAの役員と、空知の温泉に一泊旅行をした。私は妻と一緒だった。二日目の午前中、宿から出て帰ろうとすると、誰かが「先生、カメラ、カメラ」と叫んだ。なんと澄み切った青空高く、白鳥の大編隊が飛んでいるのだ。私はこの時、白鳥が飛ぶ姿を初めて見ることができた。北のシベリア方面に向かっているのだろう。渡り鳥の見事な飛行だった。

三年間必死に教え導いた生徒たちが、全員無事に卒業していった後だけに、心に残るとても象徴的な出来事だった。

 それにしても無数の鳥たちが、子孫を残すために、産卵・子育て・越冬と、毎年数千キロの旅をする姿は、実に感動的なことだ。

 この本は写真と文章で構成した、見事なドキュメントだと思う。

 

 

 

『殺人容疑』が問いかけるもの

              松木 新

 

ロシアのウクライナ侵略の結果、一部にロシア人にたいする憎悪の感情が生まれています。そうした感情に同調するかのように、駅名にあるロシア語表記を隠したり、道路標識のロシア語を隠したりするなどの、浅はかな行為も見られました。こんなことで良いのか、という思いから、第二次大戦直後のアメリカの小さな島を舞台に、日系アメリカ人という理由だけで、殺人容疑をかけられた男の物語『殺人容疑』を読んで見ました。

デイヴィッド・グターソン『殺人容疑』(講談社文庫 1996年9月)は、原題のタイトル「ヒマラヤ杉に降る雪」で、工藤夕貴出演で映画化された小説です。作者はアメリカの作家で、94年に発表されると同時に英米でベストセラーになり、フランス語、ドイツ語、イタリア語、オランダ語、スウェーデン語、デンマーク語、ノルウェー語、ポルトガル語、ギリシャ語に直ちに翻訳されました。

第二次大戦が終わって十年近く経った54年、ワシントン州の西に位置する人口約五千のサン・ピエドロ島付近の海で、漁師の死体が発見されます。保安官が捜査を進めた結果、日系アメリカ人、カズオ・ミヤモトが殺人容疑で逮捕、起訴されます。陪審員は日系アメリカ人に根強い人種偏見を抱いている白人からなっています。

サン・ピエドロ島に日本人が移民したのは1883年で、真珠湾が奇襲攻撃を受けた日までには、八百四十三人の日系アメリカ人が住んでいました。戦争が始まると、彼らは財産を没収され矯正収容所に隔離されます。そこから、カズオ・ミヤモトのように、〈勇気を証明するために戦争に行く必要があるのだ。自分の国であるアメリカ合衆国に対する忠誠心を証明する必要がある〉と、多くの日系アメリカ人たちは、母国日本とたたかうために戦場へ向かいます。

登場人物のひとりが、〈カズオがジャップ(・・・・)だというのが問題なんだ。おれはジャップを憎んではいないが、好いていない。説明するのはむずかしいが、ともかく、やつはジャップだ〉というように、戦後五年が経っても、島の住民たちの間には、日本憎しの感情が払拭されていませんでした。このような背景で、事件が起こったのです。

この作品を読んでいて一番納得がいったのが、開戦直後に地元の新聞社の編集長が書いた意見でした。

〈この島には、昨日、正しいすべてのことに対して非道な仕打ちをした国と血の繋がりのある百五十家族の約八百人が住んでいる。その国は、われわれに戦いを挑み、それに対し、われわれは誤りのない行動を即座にとった。(略)われわれが果たすべきことは重大で、われわれは最大の情熱を傾けてそれを果たさねばならない。しかし、そうした情熱は、日本人を先祖とするすべての者に対する盲目的でヒステリックな憎悪を含んではならないことを本紙は強調せねばならない。それらの者の何人かはたまたまアメリカ市民で、アメリカに対して忠実であり、生まれた国と、もはやなんの繋がりもないという事実は、集団ヒステリーによって簡単に無視されることは許されない。

この点に鑑みて、本紙は、この島にいる日本人が真珠湾の悲劇を起こしたのではないということを指摘しておく。そこを間違えてはならない。彼らはアメリカ合衆国に対して忠誠を誓っていて、何十年も前からサン・ピエドロ島の善良な市民なのである。彼らは、われわれの隣人である。彼らは六人の息子をアメリカ陸軍に送った。彼らは、要するに、われらの島のドイツ系、イタリア系の仲間たち同様、敵ではないのだ。われわれは、そのことをわすれてはならない。そのことを念頭に置いて、われわれはすべての隣人に接しなければならない。(略)戦時の狂乱状態においてはいとも簡単に忘れてしまうことを忘れないようにしようではないか。偏見と憎しみは決して正しくはなく、正義の社会においては決して受け容れられないということを〉

 

 

 

金子文子再び

後藤守彦

 

イギリス南東部のイギリス海峡に面するブライトン在住のライター・コラムニストであるブレイディみかこは多作の人だが、最も

話題になった著作は、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、二〇一九年)、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー2』(新潮社、二〇二一年)である。このノンフィクションは、アイルランド人の父と日本人の母をもつ中学生の息子の体験を母親の視点から描いている。イギリス社会の格差や貧困の問題にも切り込みながら。息子が通ったのは、「底辺中学校」で、「殺伐とした英国社会を反映するリアルな学校」だった。だからいじめもレイシズムもある。息子の同級生のダニエルはハンガリーからの移民の子で差別の対象になるにもかかわらず、アジアやアフリカ系の子に対する差別意識を強く持っていた。「多様化したレイシズムには様々なレイヤーが生まれていて、どんどん複雑になっていく」のである。世界で分断がすすむ今こそ必要だ、と息子が学校の授業で学んだエンパシーempathyについて、シンパシーsympathyと混同しやすいとことわったうえで、ブレイディみかこは次のように説いている。

シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似たような意見を持っている人々に対して抱く感情のことだから、自分で努力しなくても自然に出て来る。だが、エンパシーは違う。自分と違う信念や理念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。

 私もエンパシーに注目したので引用したのだが、『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』にたった四ページのみ登場するこの言葉に、多くの読者が関心を寄せたようだ。それを受け、エンパシーをもっと掘り下げようとして、ブレイディみかこは『他者の靴を履くーアナーキック・エンパシーのすすめ』(文藝春秋、二〇二一年)を著した。同書では、大逆罪に問われ一九二六年に二三歳で逝った、アナキストの金子文子を「エンパシーの達人」と評価している。そして、アナキズムへの深い関心と共感を披歴し、「民主主義とアナキズムとエンパシーは密接な関係で繋がれている。というか、それらは一つのものだと言ってもいい」と断言している。

 今もアナキズムが忘れられていないことの証左として、『奔流』二八号に載せた拙稿「クロポトキンと日本人」の「はじめに」で、森元斎『アナキズム入門』(ちくま新書、二〇一七年)などの文献を数冊紹介した。その後、松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社、二〇一九年)が刊行され、今年の『群像』四月号では「アナキズム・ナウ」と題して特集が組まれた。同特集では、金子文子も取り上げられており、上智大学教授の小川公代は、「生の要請を粘り強く考えることによって権威主義を排した未来社会を想像できるというのが、アナキスト大杉栄の思想であり、金子文子の態度でもあっただろう」、「弱い者同士はたがいに助け合って生きてゆくしかないという悟り」が文子にはあったと述べている(「女たちアナキズムー〈生〉を檻から解放する」)。

 ブレイディみかこは、金子文子に深く心をよせている。三年前に刊行された『女たちのテロル』(岩波書店、二〇一九年)は、金子文

子を軸に、イギリスの戦闘的な女性参政権運動家エミリィ・デイヴィソンとアイルランド独立運動の戦士マーガレット・スキニダー、この三人の女性の闘いを混ぜ合わせるように描いている。裏表紙の裏には、金子文子の短歌「手足まで不自由なりとも死ぬといふ、只意志あらば死は自由なり」が大書されており、本文にも引用されていた。私も深く感ずるものがあり、拙著『只、意志あらばー植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)のタイトルに採った。『女たちのテロル』で着目したのは、金子文子の楽天性に言及しているところである。鶴見俊輔を援用しながら、「起死回生の裏返りを見せる。この楽天性の根拠になっているのは「違う世界はある」という文子の確信だ」と、ブレイディみかこは強調している。私の考察では欠落していた点である。また、「一言でいえばあまりに単純すぎる。しかし実は徹底するのが非常に困難な天然の平等思想」「平等感覚」を文子がもっていたとの指摘も鋭い。

ブレイディみかこは、今年六月には、初めて書いた小説『両手にトカレフ』(ポプラ社、二〇二二年)を上梓した。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のようなノンフィクションの形では触れることができなかった少年少女の物語を書きたかった、とブレイディみかこは吐露している。この小説の主人公はイギリスの一四歳の少女ミア。生活保護を受けている家庭で、心と身体を病んでいる母と弟をケアしている。ミアはヤングケアラーなのである。ミアは図書館で、金子文子の自伝『何が私をこうさせたか』と出合い、一〇〇年前に夭折した文子を、同級生の誰よりも自分に近い存在と感じるようになる。この小説では、ミアの行動と思いが、ミアの読んだ文子の自伝の一節と交互に織り込まれている。引用された自伝のラストは、植民地朝鮮で虐待された文子が川に身投げしようとするものの、まだ見ていない、知らない別の世界があると思い直し、踏みとどまる場面である。

 フミコが見た空のことをミアは思った。ここと違う世界はここから始まり、広がっているのだとフミコに教えた青い空。自分と同じように苦しんでいる人たちに、そのことを伝えたいとフミコに思わせた力強く澄んだ空。きっとフミコは私にも、それを伝えに来たのかもしれない。

文子に背中を押されるようにして、ミアは前に向かって歩みはじめる。「言葉」と「感情」という二つの武器をもって。『両手にトカレフ』の巻末に記載されている参考文献は七冊だが、その一冊として拙訳書『常磐の木ー金子文子と朴烈の愛』(同時代社、二〇一八年)があげられている。また、『女たちのテロル』でも、参考文献として紹介されている。正直嬉しいことであった。

 先日、大学の同窓生で岩手県在住の吉田美和子から、新著『ダダ・カンスケという詩人がいたー評伝陀田勘助』(共和国、二〇二二年)が届いた。彼女は数々の評論を手がけており、『宮沢賢治ー天上のジョバンニ・地上のゴーシュ』(小沢書店、一九九七年)で、岩手日報文学賞賢治賞を受賞している。その新著に、詩人の小野十三郎が、金子文子の遺品の裁縫道具を見て詠った詩「鏝と鋏」が載っていた。迂闊にも今まで知らなかった。孫引きさせてもらう。

「××××が生前使ってたものだ」

 さう云って手にしてゐたものを畳の上に並べたそれは古風な鏝と鋏であった鏝は赤く錆びつき、異様に大きい鋏は手垢で黒く光っていた俺は今さらのやうに彼が女であったことを想ひ出した。

 こゝにも彼女が一生を懸けて苦しみ戦ってきた路があった反逆児××フミが女性であったと云ふことは必ずしも偶然ではなかったのだ。

錆びた鏝を持ちあげてしづかに置いた。

吉田は「こういう詩を書ける詩人はめったにいまい。読者もまた息をのんで錆びた鏝の重さが胸にこたえるのを知り、そこに生身

の女性の苦しみの生涯をあらためて思うのである」と述懐している。

 

 

 

連続エッセイ 7

  耳聡い少年がイメージした

     「戦中、戦後」の風景

 

 第七話 冷たい目

 連続エッセイ第二話「英語教師を頼む」で終戦直後のころは教師を確保するのが大変で、各地で悲喜劇が展開された事を書いた。今回は、私に生じた悲劇の話である。

 小学三年生のときのことだから、昭和二六年だったか。グラウンドで体育の授業が始まった。まず、準備体操。私のクラスの担任は、戦地からよくぞ生きて帰って来たと評判の若い教師、準備体操の模範指導にあたる。

 ところが、こういうときの準備体操は八拍子と相場がきまっているのだが、担任の試技が(確か)七拍子で終った。

オッチョコチョイの私は、大きな声で、

「先生、七つで終る体操あるの? 八つでないですか」と、叫んでしまった。

「ちょっと、こい」と担任が手招きする。私は、褒められるのだと思って、意気揚々と進み出て担任の前に立った。すると、いきなり左頬にビンタが飛んできた。

「生意気だぞ!」

 担任が怒りと悲しみの入り交じった目で睨み付けてきた。私はただただ茫然、だが、体罰など日常茶飯事の時代、すぐに忘れてしまっていた。

 

 このことを父や母に話したのは、ずいぶん後で、中学生になってからだろうか。「何人かの先生の冷たい視線が気になる。僕の態度に問題あるのかな」など相談したときだったと思う。父は、冷たい視線の何人かの先生の氏名を、嫌がる私から聴き出した。父は合点がいったらしく、

「気にするな。人はみな、そうやって大きくなる」

 とか、訳の分らないこと口にした。

 私も教員になり、納得できた。戦後間もなく教員不足のなか、資格がなくても駆り出されたか、「まずは食い扶持を」としがみついた人たちは、強い劣等感を抱いていること多かったという。師範学校あがりの父を持つ私は、その劣等感をチクチクと刺激する嫌なヤツだったしても納得がいく。

 

 これも戦争の残した負の遺産と言っていいのだろうか。

札幌民主文学通信

 

二〇二二年月〇一日 284

 

 

 

 

月例会誌上合評

 

 

合評作品

 

三原和枝

「家」

       「民主文学」七月号

 

 

 

 

 意見1 室崎和佳子 

 福島県浪江町在住だった澤山周子(72)が原発事故で避難生活をする中で、心優しい夫の潔を失う。

 生まれ故郷を失い、健康を害している潔の喪失感は並大抵ではではない。

 持って生まれた潔の繊細さと原発事故後の寂寞感・喪失感は、彼が生き続けることを拒んだのだと思う。

 結果、我が身を認知症へと追い込み、身体をいじめて死へ導いた。

 誠実で愛情深い潔の面差しが浮かび上がり、涙を禁じ得なかった。そうであるから、周子の後悔はいつまでも続く。あの時 言わなければよかった、と。

 つらいことである。

 が、あえて言わせてもらえば、周子の未熟さが潔を死なせたとも言える。

 P14上段後ろから2行目からP14下段13行目までの文章で、いくつか、問題点がある。(あくまでも、当創作作品上の周子の認識の浅さとして)

「落ち着いて買い物ができないため、一人で外出するようになった周子は、マンションの部屋を出るとき、これから行く場所、帰る時間をホワイトボードに記入した。」のところ。

 一人で外出してはいけないのである。

潔を連れて出かけるのである。

潔がどんなに邪魔な存在になったとしても、彼の手を引きながら、カッコよかった潔を思い出し、両の手を愛撫するのである。

 

 

 

意見2 村松祝子

二〇一一年三月十二日の朝の防災無線が鳴るまで福島県浪江町で普通に生活して居た夫潔と妻周子夫妻の身に突然降りかかった原発事故。二人は逃れるように東京にいる娘夫婦のところに逃れた。

その後東京でマンションを購入して生活を始めて三年の間に、潔の心はどんどん壊れていって行った。

彼は認知症を発症しついに帰らぬ人となった。

残された周子は周囲の暖かい援助に助けられて浪江町の自宅を私設の「原発被災記念館」にしょうと決意する。原発被災後の新聞のくりぬきを背を丸めてマンションの一室でスクラプしていた潔の意思を受け継ぎ自分もその仕事を引き継ぐ決意をするのだった。

淡々と平易に綴られていてわかりやすい文章だった。それだけにもっと起伏が欲しいと思った。夫潔のことを深く書きたかった作者の気持ちがよく伝わって来る。

それだけに潔が浪江町での生き生きとした生活がもっと書かれていたら潔の心の中も想像されるかなと思った。

スピーディの地図に示されている事故当時の放射の雲の流れの下にある地域に避難民を誘導する当局の無能さと、その危険さを伝えなかった政府と東電の冷たさに驚かされる。

家の周りの放射能線量を正確に測ってそれを小説の形で表されているのは読む者には理解しやすかった。当時の新聞記事を読むとこの小説のように故郷を追われ、心を壊されて亡くなって行った人々が数多く生まれたと想像される。

その人々の一人一人に原発後の人生が重くのしかかり亡くなって行った。今なおその重みは続いているのだとこの小説は教えてくれた。

 

 

 

意見3 豊村一矢

 読み始めると、すぐに引込まれた。そして、読み終えてすぐに、作品名を「家」としたことに納得した。

 小説「家」は、東日本大震災の中でも、福島第一原発のメルトダウンにより、「家」を離れ避難を余儀なくされた澤山周子とその家族の物語だ。語弊を恐れず言えば、作品では、「家」をハウスという建物の意味とホームという家族が暮らす所と言う意味の二つを合わせ持たせており、成功しているように思う。

 家の玄関脇に立っている柿の木も作品の中で良い役割を果たしている。

 七月二七日号の「しんぶん赤旗」日曜版は、「東京電力の取締役が震災以前に義務を果たしていれば福島第一原発の事故は防げたーという判決を東京地裁が言い渡した」ことを記事にしている。それには、東電の当時の経営陣五人に株主が22兆円を東電の株主に賠償するように求めた裁判での判決報道も含まれているし、さらに、かつて政府の地震調査研究推進本部が公表した地震予測の「長期評価」によって対策を施していたら原発事故は防げたという見解も述べられている。

小説「家」でも、当然、国と東電は何の地震対策をしなかったし、原発事故の後も賠償金の負担を減らすため、まだ放射線濃度が高いのに早々に避難指示を解除し帰郷を促す態度をことが描かれているが

そのことを声高に前面だして展開のするのではなく、澤村周子の家族が傷付き困難に直面しながらも前向き立ち向かっている姿を描ききっている。完成度の高い小説で感動した。

 

 

 

意見4  泉 脩

二〇一一年福島第一原発の事故で、浪江町の家を追われた夫婦の物語。二人は東京のアパートに移るが、夫の潔はうつ病と認知症を患い、二〇一四年に死去する。妻の周子は浪江町の自宅に毎月帰り、窓を開けて風を入れて掃除する。

 やがて東京の平和集会に参加して話すようになり、その後自宅に住めるようになると、自宅を原発災害の博物館にする。

 夫婦共に教員だった二人が、老後の生活を壊され一人になり、それでも立ち直る姿が、しみじみと描かれている。なんとも無残な、考えさせられる話である。

 東京に娘と孫がいるのが救いであり、立直りを支えようとする仲間がいるのも、うれしい。

 あらためて原発から発する放射能の恐ろしさを教えてくれる。夫は事故さえなければ、自然に囲まれた故郷で、囲碁や交友で静かで楽しい老後を送れたのである。夫の死後から七年経って、妻はやっと立直り、ささやかな戦いに向かうのである。

 私の義兄が、かつて福島第一原発周辺の企業の所長になり、三十年の期限を迎える。

原発の処理について話してくれたことがある。

原発廃棄物を処理する仕事をしていたのだが、立地(存続)期限がきても、壊した建物の廃棄ができないと言うのである。頑丈な入れ物に入れて、海底に沈めるか、ロケットに乗せて宇宙に飛ばすかだと言う。義兄は原発事故前に退職し、間もなく亡く

なった。そして事故後、政府は原発の存続期限を四十年に延ばし、更に延期する余地まで用意した。マスコミに小さくひっそりと発表された。そして再稼働が始まっている。

共稼ぎで子育てを終え、の棲家として家を建て、落ち着いた老後を迎えた時の、避難指示である。どんなに無念だったろう。私も借家に始まり、永い親せき宅の住まいだったが、五十三歳で初めて自分の家を建てることができた。そして待望の自分の書斎を持つことができた。

現在八十八歳の一人暮し、病気もあり、老人ホーム入りを勧められている。三十年も住み慣れた我が家を離れるのは、なんとも切ない思いである。家財道具そして本とCDをほとんど捨てなければならない。

この作品の主人公の苦しみが痛いほど解るのである。それだけに、やっと我が家に帰った喜びと決意がよくわかるのである。

 

 

 

 意見5  石川節子

周子は福島県浪江町の柿の木のある、この家で親子三人ゆったりと暮らしていた。しかし、二〇一一年三月十二日の朝、町の防災無線が鳴り、「原発が危険です」と避難させられた。

四年前の二〇一七年三月三十一日に避難指示解除となったが、山や森林は除染できないから、雨が降れば腐葉土から放射性物質が流れ出す。

国は避難指示を解除し、「戻れ」という。しかし、二階の寝室の放射線は高く、不安で住む事はできない。友人達もそれぞれの避難先に落ち着き、浪江には戻らない。元あった集住地が解体されて更地になって行く。

しかし、周子はこの家を取り壊す積もりは全くない。この家には、家族の幸せだった暮らしが、歴史が詰まっているのだ。そのことを、解ってほしい。見てほしいと思う。訪れた人にはこれらのものを全て見てもらいたいと思う。当時の新聞の切り抜きや避難後の東京での夫の病の過程の史料を含め、この家に置いて、私設の原発被災記念館にしたいと思っている。個人の小さな幸せな暮らしまでも汚染した原発事故のその後を落ち着いた筆致で書き表す。

読みやすくて解りやすいが、作品の構図としてはメリハリが無く、なだらか過ぎて心に残るきらめきが無い。面白味がない。なかなか両方を織り交ぜて表現することはむずかしい。

 

 

 

意見6  松木 新

聖火ランナーが出発した浪江小学校が、一ヶ月後に解体された事実を冒頭にもってくることで、この作品が、この国の政府の欺瞞性を衝くことを意図していることを鮮明にしており、それに対抗する手段として、作品の最後に、周子の浪江の家を、〈私設の原発被災記念館〉することが語られています。   

よく考え抜かれた構成で感心しました。

潔の描き方には注文があります。

浪江町で生まれ育ち、この町で社会科の教師として組合活動を熱心にやっていた潔が、〈「俺は何のために生きているんだ。わからないんだ」〉と語るまでに追い詰められます。東京の避難先で、一時は〈反原発の集会で発言したりもした〉ようですが、生活状態はどんどん内向していきます。

周子が、〈国の政策で、危険な原子力を使い、津波対策も怠り、取り返しのつかない恐ろしい事故が起きて、なぜ福島県民が苦しみ死ななければならないのだ〉と語る場面があります。

社会科教師で組合活動も熱心な潔ならば、同じように怒りを表明しても不思議ではありませんが、見当たりません。そこには浪江町で生まれ育った潔が、知らず知らずのうちに、原発の安全神話に絡め取られていた事情があったのではないか。そこを文学的に掘り下げるのが作家の役割だろうと思うのです。

 

 

意見7  柏原 竜

2011・3・11 福島の原発事故が起きて11年が経った。大変な事が起こってしまい、それに遭遇した人たちの悲しみご苦労は計り知れないものだと解っていた。だから、自分も怒りを込めて旭川での原発反対の金曜行動に参加している。

しかし、今、この三原さんの「家」を読んで当事者の深い悲しみと怒りは、はるかに大きく胸をえぐられるような気持になった。なんとなく解っていた積りだつたが、より細やかにより深く知らしてくれた。  

「人は、家に、土地に、ただ住んでいるわけではない。土地に、家に、根を生やして生きているのだ。その根を、結びつきを、理不尽にも、いきなりなぜ断たれなければならない」

 亡くなった夫、潔に対する深い思いも伝わってきた。「潔は浪江で生活していれば、友人と囲碁を楽しんだり、子どもたちと畑を耕したり、今も穏やか  に、元気に暮らしていたはずだ。なぜ、福島県民が苦しみ死ななければならないのだ」 

今、これは福島県民だけの問題ではなく、我々すべての日本人に関わる問題かもしれない。原発の問題しかり、災害に対する無防備。そして、経済的格差がじわじわと押し寄せてきていて、生きていても生きづらく、やせ細っていく暮らしをしている。 

 7月の参議院選挙は与党と補完勢力が議席を増やし、野党は後退した。政治なんて、選挙なんて我々の生活と関係ないという人が多数いるが、政治そ、選挙こそ我々の生活を左右するものだと自覚しなくては。 

 今の政府は国民を騙す,ごまかす、嘘をつくことを平気でやってきた。これからもやっていく積りだろう。今彼らの言う事は一つ一つ疑い検証してみないと信用できない。油断してはならない時代なのかもしれない。

 

 

意見8  後藤守彦

久し振りに例会に参加しました。やはり対面での議論はいいですね。私の発言は迷走気味でしたが。

第二一回女による女のためのRー18文学賞の大賞を受賞した、衝撃的な上村ユタカ「救われてんじゃねえよ」とほぼ同時に読んだからでしょう、正直

インパクトは弱いものでした。しかし、原発事故への怒りと加害者と闘う決意が、破綻のない文章と構成により伝わってきました。淡々と書かれているよ

うに見えますが、熱いものが秘められていたと思います。平板だとの批評もありましたが。

議論で出てきた「年寄りが書いた」との言い方を批判しました。「丁寧に書かれている」、「完成度が高い」といった評価がいいと思いますが、どうでしょうか。

私小説とは何か、書くとはどういうことなのか、に議論が発展しましたが、書きたいことをどう書くのか、これが出発点だと思います。関連して、ブレ

イディみかこの話を提供しました。長くイギリスに住むブレイディみかこは、今年六月に、初めて書いた小説『両手にトカレフ』(ポプラ社、二〇二二年)を上梓しました。評判になった『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』のようなノンフィクションの形では触れることができなかった少年少女の物語を書きたかった、とブレイディみかこは語っています。この小説の主人公はイギリスの一四歳の少女ミア。生活保護を受けている家庭で、心と身体を病んでいる母と弟をケアしています。ミアは図書館で、金子文子の自伝『何が私をこうさせたか』と出合い、一〇〇年前に夭折した文子を、同級生の誰よりも自分に近い存在と感じるようになります。この小説では、ミアの行動と思いが、ミアの読んだ文子の自伝の一節と交互に織り込まれています。例会後の、『北海道新聞』七月一七日号の書評欄にも取り上げられていました。

 

 

 

意見9  北野 あかり

原発事故で浪江町の家は、人が住めなくなったばかりではなく故郷を追われ、人の繋がりも絶たれ、心身を病んでいく被災者の様子が、周子の目を通して描かれており、原発はいらない!との思いを新たにしました。

原発事故の際、放射能が北西に流れるという予測があったにも関わらず、避難先を放射線量が多い方角を指示し、多くの住民が被爆したこと。復興五輪の聖火ランナーの走る部分だけをきれいに整備し、聖火ランナーの出発点を、浪江中学校として映像で報道したが、そのあと中学校は解体された。歴史ある浪江中学校として解体延期と閉校式開催を求める住民請願を無視したうえ解体したとは…すっかり騙されていたことことに怒り心頭です。避難解除にしても、被爆放射線量は一般の基準限度は年間1ミリシーベルトであるのに、国は年間20ミリシーベルトで避難解除としているなど、作品を読んで政府のいい加減さが解り怒りを新たにしました。

周子と夫の潔は、運よく避難先が危険であると知らされ被爆は避けられたのだが、帰る家も場所も友もうしない、夫は精神を病み亡くなり、周子も生きる気力を無くしてしまった。それからどのように立ち直っていったのか…重要なことだと思って読みました。そのきっかけが、夫が作っていた原発事故関連の記事を切り抜いた資料を周子が見つけたことでした。社会科の教師のであった夫が、「原発事故が何故起きたのか、政府は何をしたのか、人々は何故故郷を追われなければならなかったのか、一つ一つ歴史として残し検証しなければならない」ということを思いだした。そして、その意志を継ぐことが自分なのだと気づいたことが立ち直るきっかけだったのだと思いました。先人たちの残した意思を継いでいくこと、それが残された者の役目であると私も考えているので、作者の思いと共有出来たようで嬉しくなりました。

また、周子さんを見守ってくれた友人の岡野さん、被災記念館を提案してくれた武田さんの存在が、更に社会に目を開かせました。家族の想い出が詰まっているだけの住めなくなった家が、原爆資料が詰まった記念館として新たな命を吹き込まれた家として蘇る、その実現に向かって生きて行こうとする周子さんに拍手をおくりたいと思いました。

私も夫が亡くなったあと、立ち直るきっかけになったのは夫の書いたメモでした。そして、リンゴ狩りに誘い出してくれたサークルの友だったということなど、作品と共通していて近親感を持ちました。このことは困難に遭遇したり、挫折したりした時など、多くの人に通じることなのではないかとも思いました。

 

 

 

 

 

 

                                  

投稿欄

 

 

石城謙吉『イワナの謎を追う』

壮大なドキュメント

 

泉 脩

 

 一九八四年に岩波新書の一冊として発行され、今年(二〇二二)に十六刷として再刊された。著者は一九三四年に長野県で生れ、北大農学部で動物生態学を専攻し、現在は北大名誉教授である。

 一九六二年に、根室標津高校に生物の教師として勤める。一学年の生徒数が八〇人という、小さな公立高校だった。同僚に誘われて、近くの川で魚釣りを始め、やみつきになり、熱中した。土日ばかりでなく、時間割係の特権を利用して、自分の授業を午前中に移して、午後から釣りに出掛けたりした。

 イワナがよく釣れて、夫人に天ぷらにしてもらって食べた。ところが不思議なことを発見して、イワナを標本にして観察するようになる。イワナの横腹に白い斑点か赤い斑点があり、それが川によって決まっているのである。

 原野の南側は白い斑点のイワナ。北側は赤い斑点のイワナである。南側は湿地帯が多く、川は緩やかに流れている。北側は知床山地の急な渓流が多い。そして、その間の標津川とだけは、両方のイワナがいるのである。石城さんはこの発見で夢中になり、特に両方が住む二本の川の調査に打ち込んだ。

 その結果、標津川では山地から流れ込む急流に赤い斑点のイワナが住み、平地を流れる本流とその付近に白い斑点のイワナがいて、互いに住み分けていることがわかった。

しかし水系の規模が小さく、全域が平地の清流である伊茶仁川では、両者が全域にわたって混生し、ただ両者間に微妙な食い分けがあることがわかった。

 次の年の二月から十一月にかけて月に一度ずつ、手網で水中の稚魚をすくい取って調べると、両方のイワナは時期をずらして成長し、秋の産卵・受精もずらして行われていることが分かった。赤い斑点のイワナは上流で、白い斑点のイワナは中流で、それぞれ場所をずらして。つまり両種のイワナは純血を守り、雑種を作らず、二つの別の種なのである。赤い斑点のイワナはオショロコマ、白い斑点のイワナはアメマスなのである。

 この本では世界中のイワナの研究を紹介し、日本の早くから多くの学者や研究者の研究も紹介している。自分のけんめいな調査・研究も加えて、見事なイワナ学の本に仕立てているのである。

 なによりも広い根釧原野を駆けめぐり、体を張って調査をし、まさに壮絶なドキュメントになっているのである。

 石城さんは高校教師を三年で辞め、北大農学部の大学院(博士課程)にもどり、自分の研究を深め、完成するのである。

この本では、北海道全体のイワナの生態について、まとめられている。北海道でオショロコマは、湖沼では(十勝)と(空沼岳)のみに封じ込められている。河川でも道南ではほとんど姿を消し、その他でも渓流の一部に限られている。

 アメマスは、河川型と降海型に分かれ、産卵の多くは降海型が行なっている。ともに鮭科の魚だが、北海道ではアメマスが優勢になりつつあるという。壮烈な種の保存をめぐる戦いなのである。

 私はこの本を高橋篤子さんの推薦で読むことができた。そして、大きな感動を受けた。まさに生きた学問であり、地球温暖化が進む中でオショロコマは滅びゆく種なのであろう。現在北海道ではイカやサンマが激減し、イワシやブリが姿を現している。

鮭も減少し、北海道の味覚は変わろうとしている。その中で鰊が再来して、喜ばしいことである。

 著者の石城さんは、高橋篤子さんの亡くなった夫の旧友で、高橋篤子さんと同じに早来で、夫人と共に静かに暮らしているという。数年前、高橋篤子さんの作品の中で、石城夫妻を訪ねて、夫のことをしみじみと話合うシーンがあった。胸を打つ美しい

シーンだった。

 私は石城さんと同じ年に東京で生れ、同じ頃に北大で学び、同じ高校教師になった。

しかも奇しくも、この本の出版と同じ頃、私の最初の本を出すことができた。この本のような学問的裏付けはないが、私としては渾身の本であり多くの人に読んでもらうことができた。歩く道は違っても、似たような生き方をしたのである。

 そのため、この本に込められた情熱と努力は、痛いほど分かるのである。よい本が読めてうれしい。感謝である。

付記 高橋篤子さんは現在、苫小牧の老人ホームに入ってる。

 

 

 

 

 

北の国から来た猫第一二章

後藤守彦

 

 民生委員として、月一回、ひとり暮らしの高齢者宅を訪問している。コロナ禍でしばらくの間、直接会わずに手紙訪問の形式をとった。昨年一〇月、久しぶりに対面で会うことにしたのだが、猫を数匹飼っている高齢女性宅で、今年八月で一八歳(人間の八八歳)となる、私の飼い猫ミーコと同じキジトラで同い年の杏が亡くなったことを知った。飼い主に一七年間、慈しまれたのだから、幸せだったと思う。そのお宅では、いつも人間よりも猫を話題にしていた。杏は玄関先までよく出てきたので何度か抱いたことがある。身体が弱ってお漏らしをしたのでおむつを買いに走ったのだが、その間に亡くなってしまった、穏やかな表情で苦しむことはなかったようだ、と飼い主が語っていた。その飼い主も弱り、介護保険を利用することになった。ミーコは半年に一回動物病院で受診しているのだが、獣医師から「頑張って生きている」と褒められている。しかし、この六月の血液検査で検査項目のクレアチニンや尿素窒素の数値が一年前の一・五倍となり、腎不全が悪化していることがわかった。まだまだ生きてほしい。

 最近亡くなった猫といえば、人気者のまるがいる。養老孟司が二〇〇三年から飼っていたスコチッシュフォールドで、二〇二〇年一二月に生を終えた。猫嫌いであった妻が、庭にあるボケの木の下でまるを休ませていたら、しばらくして息をしなくなった。残念ながら、外出中の養老は看取ることができなかったのだが。翌年出版された追悼集ともいえる『まる ありがとう』(西日本出版社、二〇二一年)で、養老は次のように悼んでいる。

 まるは理屈なんか言わず、素直に生きて、素直に死んだ。今でも時々、しみじみ会いたいなあと思う。また別の猫を飼ったら、といわれることがあるが、それでは話が違うのである。まさに一期一会、かけがえのないとは、このことであろう。

 さて本の話に入ろう。まず、猫に関係のない新刊本を読んで、既刊の猫に関する本を知ったことから。昨年末、図書館の蔵書を著者名で検索したところ、『猫なんて!作家と猫をめぐる四七話』(キノブックス、二〇一六年)を発見した。著者名は佐々木幹郎。この詩人の名を知ったのは、代島治彦『きみが死んだあとで』(晶文社、二〇二一年)によってである。代島は、佐藤栄作首相の南ヴェトナム訪問阻止を企図した、一九六七年の羽田闘争で死亡した京大生山崎博昭に関わった若者たちのその後を追った。その若者の一人が佐々木で、大阪の大手前高校の同じ教室で山崎とともに学んでいる。『猫なんて!作家と猫をめぐる四七話』では、四七人の作家が猫論を展開しているのだが、佐々木は野良猫とふれあい、その一匹を詩人と呼ぶようになった。その猫は「臆病で気が弱くて、優しさに満ちていて、それでいて生きることの厳しさと、孤独を知っている」のであった。佐々木の自画像だろうか。

 一昨年五三歳で逝去した旭爪あかねの遺稿集『こんなときこそ』(二〇二一年)に載るエッセイ「児童文学の森へ」で、最初に取り上げられているのが、越谷オサム『陽だまりの彼女』(二〇〇八年、新潮社)である。同書の帯封には「完全無欠の恋愛小説」とある。

ベストセラーになり映画化されたのだが、全く知らなかった。ミステリアスなところがあるので、ネタばれにならないように注意しながらストーリーを簡単に紹介する。馬鹿でとろいといじめられていた真緒をかばった浩介は、おとなしいものの何時キレるかわからない奴だ、とクラスメイトに警戒されるようになる。その浩介に真緒はつきまとうが、浩介の転校により二人の関係は一旦終わる。十数年ぶりの再会。真緒はバリバリ仕事をこなす素敵な女性に変身していた。二人は愛し合い結婚するのだが、私の命は短いと語ったり、こっそり預金をおろし現金化したりするなどの真緒の不可解な言動に、浩介は困惑し不安を募らせていく。真緒は何だったのだろうか。

 次は、この一年間の、直接猫に関わる新刊本の話題。昨年一二月二五日初版発行の本の書評が翌日の『しんぶん赤旗』に載ったので、同日に市内の書店に注文したところ、大晦日に入荷の連絡があり、今年の元旦に受領し読了したのが、寺本成貴『ゆきぐにのねこー猫と人々の四季』(出版ワークス、二〇二一年)である。前置きがくどくなったが、それだけ心待ちにしていたということ。著者は、二〇一七年四月から毎月、北海道の極寒の地に通い、子猫が四季を通じて成長する姿を撮り続けた。マイナス二桁の気温になる漁村で、漁師たちの愛情を受けて命をつなぐ猫たち。その愛情に応えて漁網や干物をカラスやキツネから守る猫たち。粉雪が顔にかかったキジトラの子猫が、雪をこぐように前足を踏みだしている写真を目にした時は、涙ぐみそうになった。キャプションは「初めての冬を迎えた子猫が、力強く雪を掻き分けて前へ進んでいる。目に生きる気力を感じる。この子は「生きる」と確信した」だった。

中島京子『やさしい猫』(中央公論新社、二〇二一年)のタイトルは、スリランカの民話からとられたもので、日本の入国管理制度の非人道性を告発している小説である。語り手のマヤは、保育士の母ミユキと二人で暮らしている。ミユキは東日本大震災でのボランティア活動を通して、八歳年下のスリランカ人クマルと知り合い結婚する。しかし、オーバーステイだとして入国管理局に収容され強制送還されそうになる。そこで闘いが始まるのである。クマルがマヤに語って聞かせた民話「やさしい猫」のストーリーは、こうである。両親を猫に殺された子ねずみが、猫に窮状を訴える。それを聞いて後悔した猫が自分の子と一緒に育てることにした。それで、三匹の子ねずみと三匹の子猫が兄弟のように仲良く生きる。これをミユキの友だちのユウキが解釈するのだが、それがいい。

 「猫が多数派、ねずみが少数派。で、多数派はそれまでずっと、少数派のことは無視して生きてきたわけ。殺すとか食べるというのは、少数派の権利を認めないとか、そういうことの比喩だと考える」

 「ねずみを食べるのは猫のアイデンティティーだという呪縛から、猫自身が解放される物語だと読めない?」

 「そしたら、その猫は、やさしい猫じゃないよ。やさしいとかじゃない。まともな猫とか、改心した猫とかだよ」

 有川ひろ『みとり猫』(講談社、二〇二一年)は、帯封に「猫とあなたの七つの物語」とある通り、七匹の猫と人間との深い結びつきを描いており、時々目を潤ませながら読んだ。読む前には猫が人間をみとる話かと思ったが、逆であった。書名と同じタイトルの第七作目が特にいい。妻が第二子出産のため入院中に、夫が、母猫において行かれた子猫を拾う。第二子は男児で、浩美と命名され、あわせて子猫の名も浩太と決まる。浩太は赤ちゃんの浩美と添い寝し、成長した浩美の背中を駆け上る。浩美と浩太は絆を深めて行く。しかし、別れの時がくる。旅行会社の添乗員として海外に出張している浩美の帰宅を待って、二三年間生きた浩太は息を引き取るのだった。みとった家族は「何故だか悲しくなかった。ただありがとうと思った」と、作者は綴っている。

 かがわ直子「ラストステージ」(『民主文学』二〇二一年九月号)、は短編。正明が松井に頼まれて、生き残った最後の猫を動物霊苑に運ぶ話から始まり、高齢なので新しい猫を飼うのは無理だと言っていた松井が、庭にやって来た猫を飼い始める話で終わる。その間に社会変革の活動が描かれる。「奴らは勝手に来たんだからさ。俺が誰かにもらってきたわけじゃない」、この松井の言い訳がほほえましい。

 本を愛する母に「物語は読んでほしがっているのよ」と囁かれた一二歳のデイヴィッド。その母に死なれて孤独に苛まれるデイヴィッドが、母の声に誘われて、おとぎ話や神話に登場する人物・怪物が蠢く世界に入り込み彷徨する。それがジョン・コナリーによって書かれた『失われたものたちの本』(創元推理文庫、二〇二一年)と題する異世界冒険譚である。その冒頭で、犬と較べて猫が評されている。

 犬は、無視されたと思って吠えたりすることで、人に気付いてもらいます。そして猫はといえば人のすぐ隣で過ごしていても、そばには誰もいないかのような顔をしている名人なのです。

 猫のとる距離感がいい。私も飼い猫のとる距離感が気に入っている。

 通いネコアルフィーシリーズの第七作『通い猫アルフィーの贈り物』(ハーパーコリンズ・ジャパン、二〇二一年)もある。レイチェル・ウェルズの手になる第一作『通い猫アルフィーの奇跡』が二〇一五年に発売されて以来、ハートフル猫物語として猫好きの支持を集めている。大好きな飼い主のマーガレットおばあさんが亡くなり、灰色のオス猫アルフィーはひとりぼっちになってしまった。アルフィーは決意する。これからは複数の飼い主と生活する通い猫になるのだと。そして、エドガー・ロードにやって来る。人間と言葉を交わすことはできないが、仕草や行為で人間と心を通わせるアルフィー。困っている人、苦しんでいる人を見ると放っておけなく、助けるため守るため頑張るアルフィー。第七作の季節はクリスマス。ホームレスを助け、ホームレスのシェルターを支援するため、アルフィーの飼い主たちが大規模なクリスマス会を企画するが、妨害工作が繰り返された。そこで、アルフィーは仲間の猫の協力を得て、会の成功のため奮闘する。訳者あとがきには「孤独や悲しみは人間を変えてしまうことがあるとアルフィーは知っています。そして孤独や悲しみでめちゃくちゃになった心が癒されると、その人が本来の姿に戻ることも」とあった。

 長くなってしまったので最後に、父の日プレゼントして娘から貰った本について。「ちいさな手のひら事典」シリーズの一冊で、フランスのブリジット・ビュラール=コルドーが書いた『ねこ』(グラフィック社、二〇二一年)。「起源」から始まる全八〇項目で構成され、見開きページの左側には、作家の言葉と解説、右側には絵が載っている。「起源」に付された作家の言葉は、モーパッサンの「どこにいても自宅にいるかのようにくつろぎ、どこからでも入ってきて、音もなく去っていく、静かなる徘徊者」である。他に「私がねこと戯れている時、実はねこのほうが私を相手に遊んでいるのではなかろうか」、「わが友よ、すべての生きとし生けるものの中で、私の内に潜む異様な闇をお前ほどよくわかっているものはいない」、「ねこに関して私が愛してやまないのは、恩知らずとも言えるほど独立心が強く、誰にもこびない性格だ」などがあった。きりがないのでもう一つ、今の私の心境を言い当てている言葉を紹介しよう。「ねこについて書こうと思ったら、インクびんがいくつあっても足りない」。

 

 

 

『アイヌ文化史辞典』の魅力

                  松木 新

 

待望の『アイヌ文化史辞典』が出版されました(吉川弘文館 7月1日)。その魅力二点を紹介します。

第一、「先住民族」概念を明確にしていることです。「刊行のことば」冒頭の文章です。

 

〈一五世紀末以降、二〇世紀に至るまで、列強諸国は世界各地で植民地獲得競争を繰り広げた。その結果、かつて植民地となった地域では、その地域を統治している国家が支配を及ぶす以前から居住し、かつエスニックな実体をなしていた集団(先住民)が、今日なお政治的・経済的に劣勢な地位に置かれる状況が続いてきた〉

 

 現在でも、アイヌは先住民族ではない、と主張している人たちがいます。その理由として彼らは、北海道にはアイヌ以前に、縄文人やオホーツク人が住んでいたことをあげています。彼らは、「先住民」あるいは「先住民族」を、「その土地に先に住んでいた人々」と理解しているために、このような意見が生まれているのです。

「先住民族」という考えは、植民地政策にたいする反省から生まれた比較的新しい概念です。一九七〇年代頃から国連で論議され、2007年にようやく国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が決議されました。日本では、1997年に成立した「アイヌ文化振興法」で、アイヌを民族として初めて法的に認めました。そして、2019年の「アイヌ新法」が、ようやくアイヌ民族を先住民族と明記したのです。

第二、「前近代アイヌ文化期」という新しい概念を採用することで、近代以降をもアイヌ文化史の射程に含めることを明示していることです。

これまで、遺跡やそれに伴う遺物資料などから、その時代の暮らしの変化の様相を、縄文文化、続縄文文化、擦文文化、オホーツク文化、アイヌ文化と呼称されてきました。近代以降の時代は元号を用いて呼ぶことが一般的ですから、従来の記述では、アイヌ文化は開始と終末があるかのような非常に狭いものとして捉えることになりました。これでは、現在のアイヌ文化を正しく捉えることができません。

「前近代アイヌ文化期」という概念については、これから論議されていくと思いますが、画期的な問題提起であることは間違いありません。

ちなみに、アイヌの物質文化は、次の四つの内容を含んでいます。

1.原材料の調達から製品化まですべてアイヌがおこなったもの。主にアイヌの生活圏で入手できる動植物を原材料としており、衣食住全般にわたる。

2. 和人や他の北方民族との交易で手に入れたもの。鉄鍋やマキリなど日常生活に欠かせない金属製品、ガラス玉・蝦夷錦・漆器などのように宝物になるもの、木綿・米・タバコ・煙管・酒といった生活の質を向上するものが含まれる。

3. 交易で手に入れたものにアイヌが手を加えたもの。多くは金属製品で、アイヌは手に入れた貴重な金属製品を分解・溶解・鍛造し直すことで、自分たちが必要とするものを新たに造り上げた。

4.主に他の民族への交易品からなるもの。ヒグマ・エゾシカ等の陸獣の毛皮や熊胆、アザラシやラッコといった海獣の毛皮、鷲羽、鮭・昆布などの食品や、肥料として重宝されたニシンの〆粕、蝦夷細工物などである。

 

 

 

 

鑑賞二題

                  松木 新

 

映画「オフィサーアンスパイ」

先日、世紀の捏造事件として有名なドレフュス事件をテーマにした、ロマンポランスキー監督の映画「オフィサーアンドスパイ」(仏伊合作)を観てきました。ドレフュスの無実を示す証拠を発見したフランス軍防諜局長のピカール中佐を軸に、ほぼ史実に即し、文書改ざん、証拠隠滅、メディア操作など、この国の現実を想起させるような映画で、ドレフュスやエミールゾラなど、実在人物によく似た役者が演じていることもあって、堪能できました。

帰宅して早速、本棚にしまい込んでいた大佛次郎の「ドレフュス事件」を読んでみました。驚いたのは、このノンフィクションが、昭和五年四月―十月の『改造』に発表されているのです。

大佛次郎は、朝日新聞社版『大佛次郎全集 第1巻』の「あとがき」のなかで、当時『改造』と並んでいた『解放』が社会講談と名付けて、堺利彦(日本共産党創立時の中央執行委員長)荒畑寒村らが著名な社会運動史上の事件を、講談の形式で発表していたこと、堺利彦がパリコミューンを書いていたことなどを念頭にしたと書いています。

 

〈先輩たちのひそみにならい、平易で興味ある読物にして、軍部と云うものが近代国家でどういう地位を占め、誤った場合には、如何な方向へ国そのものを引摺って行くかを書こうとした。この昭和五年前後には、日本の軍部が政治干渉のきざしを早くも示し始めていた。国家に於ける軍の地位を、日本のように統帥権に依って「国家内の国家として」それだけ独立を許している国では、事情を充分に理解して警める必要があった〉

 

昭和五年(1930年)は、二十七歳の多喜二が上京した年です。虐殺されたのが三年後の2月ですから、〈この昭和五年前後には、日本の軍部が政治干渉のきざしを早くも示し始めていた〉ことは、充分に了解できます。

このような情勢下にもかかわらず、「ドレフュス事件」では、狂信的な愛国主義、反ユダヤ主義にたいして、ゾラなどが果敢に反撃したことが詳細に語られています。この時代に、このような抵抗の文学をよくぞ書いたものだと、感心しました。

無罪になったドレフュスは、軍籍に戻って少佐に昇進しますが、大佛次郎は、〈少佐になってから、引続き軍隊にいたかどうか、調べたいにも手もとに材料がない。これは、その内僕が巴里へ行って当人に会って親しく尋ねて見るつもりである〉と書いていますが、実際に会えたのかどうかは分かりません。

 

 

 

演劇「眞理の勇気―戸坂潤と唯物論研究会」

念願が叶ってようやく青年劇場第127回公演「眞理の勇気―戸坂潤と唯物論研究会」を、ネットで観劇することができました。

戸坂潤は古在由重とともに、学生時代から愛読していました。五月に東京で公演することを新聞で知りましたが、コロナ禍ではどうにもならずやきもきしていたところ、ノーマさんがネットで観劇できることを教えてくれたのです。

良心の灯を掲げて、あの暗黒時代を駆け抜けた戸坂潤の生き方が、ていねいに表現されていて大満足でした。劇中、繰り返し強調されていたのが「科学的精神」でしたので、それを紹介します。

 

〈科学的精神は()()意味に於ける実証的(・・・)精神(・・)る。というのは、単に感性に訴え感性の保証を要求するだけではなく、その感性が主体的な能動性の発露面出入の役割を担うのだ。つまりこの感性は実践と実験の窓なのである。之がなければ事物の時間的歴史的推移の必然性の内面に食い入って之に対処することが出来ない。科学的精神とはその限り歴史的(・・・)認識(・・)()精神(・・)である。事物をその実際の運動に従って把握する精神なのだ〉(「科学的精神とは何か―日本文化論に及ぶ―」)

 

『民主文学』誌で「文芸時評」を担当することになったとき、真っ先に読んだのが「文芸評論の方法について」でした。要点を紹介します。

 

〈印象は批評の初めであり母胎である。云って見れば印象が批評の凡てを決めて了うようなものだ。(略)だが批評が印象に基づくということと、所謂印象批評というものとを、区別しなければならぬのは、勿論のことだ。批評を印象の上だけに止めておくということが所謂印象批評だ。之に反してこの印象を追跡し反省し分析し、なぜそういう印象を直接印象として自分が受け取らねばならなかったかを説明することが、批評評論の責任なのだ。所謂印象批評はこの批評の元来の責任を負わないという処に、その放言的な本性があり、評論としての貧困あったのだ。評論は印象そのもののリアリスティックな追究解説のことだ〉

 

〈文芸評論は文芸作品の評論を必ずしも結局の目標としないということをつけ加えておこう。之は所謂創作と評論との連関対比に於て重大な点だ。

創作も元来そうである筈なのだが、文芸評論は一種の時代(・・)()評論(・・)とも呼ばれて然るべきものなのである。処が時代を最もよく描いて呉れ、時代のコピーを最もよく御膳立てして呉れるものが、他でもない文芸作品だ。そこで文芸評論というものは第一に文芸作品を取り上げる。文芸作品が最も整理された媒介物だからである。文芸作品の背後には、奥には、時代があり社会がある。この作品をつき抜けて時代と社会とに迫るのが、文芸評論の本格的な使命だ。

つまり所謂作品も評論も、同じく併行してこの時代と社会とを取り上げる。批評も亦作品と併ぶ作品の一ジャンルと考え得る所以だ。(略)文芸評論の使命がそこにあるとすれば、何故夫が少なくとも科学的なものでなければならぬかは、すべて明らかなことだ〉

 

「文芸評論」を何年間も書いていながら、〈一種の時代(・・)()評論(・・)〉に到達できていないもどかしさを感じている今日この頃ですが、〈文芸評論は文芸作品の評論を必ずしも結局の目標としない〉ことだけは、肝に銘じています。

 

 

連続エッセイ 6

  耳聡い少年がイメージした

     「戦中、戦後」の風景

 

 この連続エッセイに出てくる街は、現在は「紋別市上渚滑町」という地名だ。当時は上渚滑村といった。紋別とは異なる自治体。その後、紋別市と合併したわけだ。ちなみに、現在はこの辺り、文学会旭川支部で活躍中の、かつ、牛の人工授精師、細野ひとふみ氏(薗田宣紀さん)のお仕事の縄張りだ。

 戦中、戦後の上渚滑村は面積の約90%以上を山林、畑地は10%以下だったか。

市街地ときたら、面積は0,…%といったところ。それでも、国鉄の支線が通り、駅、役場、小学校、中学校、郵便局、消防署、劇場兼集会場、魚・衣類・雑貨・薬などを売る店が二軒、それに蹄鉄屋が二軒。飲み屋がやはり二軒。病院があったかは定かでない。この頃、父が盲腸をやっているが紋別の病院まで行ったのかも知れない。無いのは銭湯くらいだったか。ほとんどの家が風呂場を備えていた。

 後日、知ったことだが、上渚滑村は、広大な山林から伐り出される木材で成り立っている村だった。特に戦中は軍事、戦後は復興のための産業という性格をもっていたと思われる。実際、木材工場が三つも駅のちかくにあったし、山林所有者は大金持ちだった。

さて、連続エッセイ6である。

せいぜい私は6歳くらいだったか。

眠っている父を起こす母の声で目をさました。母は「風呂に誰か入っている」と訴えている。当時、風呂場は母屋に隣接する離れにあった。下駄か板を渡して風呂場に行くのである。私は怖くて寝たふりをつづけた。父が起き上がって風呂場の方へ向かう気配がした。戻ってきた父が、ひそひそと母に何やら伝える。やや、しばらくして、父がまた起き上がり、今度は母を伴って風呂場に向かった。なかなか戻ってこなかった。風呂場から、かすかに二人の声が聞こえてくる。声に緊張感がなかったので、私はほっとしてすぐ眠ってしまった。

 翌朝、私は父と母の会話に耳をそばだてた。父と母は夜のうちに湯を全部流して捨て、厳重に消毒したらしい。

後になって、噂などを総合して私が子どもなりに理解したことは以下の通りだ。

 

 

 私の住んでいた家から畑を挟んで一〇〇メートルくらい離れたところに上渚滑村の金持ちの一人が囲っている女性の住処(すみか)があった。その女性は梅毒か何かの病を得て廃人のようになり事実上そこに捨てられていたのである。食事は与えられていたようだが、風呂がない。我慢できなくなって、一番近い、我が家の風呂場を拝借に及んだのだろう。

 札幌民主文学通信

 

二〇二二年月〇一日 282

 

 

 

月例会誌上合評

 

合評作品

三富健一郎

「死者の温もり」

          「民主文学」四月号

 

 

   

意見1 室崎和佳子 

 小説は現在と過去を織り交ぜながら進行していく。

 がしかし、率直に言わせてもらえば、時制とそれに伴う人物の位置がわかりずらかった。何度読み返してもわからないところがあり、そういう時は先に進んで読み、その内容から類推し判断するしかなかった。そう思うのが私一人だとしたら、それはひとえに私の読解能力のなさであり、赤面の至りではある。

 信二の父母、祖父母の時代から今日に至るまでの商工業(とりわけ手工業)の盛衰、家父長制の中でもがき続ける女が信二の母を通して描かれる。弱い者同士でいじめ合う嫁姑の確執は哀しい。これらを引き起こす根っこ(原因)は一つだというのに。

 信二の父は、「下駄屋(最初は雇われ人→自営) →布団屋の下働き→スーパー呉服部の販売係→同スーパーの最上階にある子供の遊戯部の管理」と仕事を変えながらも働き続けた。戦争に行ったのはこの流れのどこだったのか。想像するに、下駄屋の前か。

自分の父母(信二の祖父母)の前では妻に容赦なく暴力の限りを尽くした信二の父(P19下段1~3)が、大腸ガンで入院した彼女のおむつの世話から体の洗浄まで一手に引き受け、献身的に看護した事実は重い。信二の父は本当は信二の母を愛していたのではないか。

 信二と隆一との関係も深く澱んだものが底にあり、信二が素直になれない要因を作っている。事実認識の違いもあるようだが、信二の屈折した思い込みもあるように感ずる。二人に共通しているのは、競争の世の中(くそ金の世の中)をなんとかしたいという思いであろう。(P35~P36にかけての記述)

 若き日の暴力行為があってもなお信二の母は信二の父を心の底では愛していたのだと思う。小説の終章で、療養所から電話がくる。母親が父親を探し始めて困っている、と。正常な思考ができなくなっている母親だからこそ、「お父ちゃんに似た人」に何かしらの本能的な不安を覚えて探しているのでしょう。嫌いな人を探しはしません。それをわかった隆一の妻の千里の判断は優しく正しい。

 

 この小説は最初に述べたように掴みづらく難しい小説だった。残念ながら「死者の温もり」という題名が何を暗示するのか未だに自信を持っては答えられない有様である。

 P40下段最後の2行「それでも、何やら温もりだけは手の中に残った。それが親父の残した全てかもしれない。」がわからないのである。

 

 

 

意見2 村松祝子

読み終えて心にずっしりと心に残る感じがした。次男坊として物心つく頃から父親を批判的に見てきた作者が父の骨壷を手にした時初めて壷を通して伝わってくる父の暖かさを理解する。

一貫して信二の目を通して一家の半世紀の歴史を描いている。

男性らしく力強い文章で淀みなく理路整然と描かれており長文ながら退屈させず一気に読み終えた。

事件というものがあまりないのだが、兄の隆一、父、母、祖母、祖父、甥の幸次郎と登場する人物はどの人も丁寧に描かれ各人のセリフにその人の人生が窺われる。

ドイツと日本とのジェンダーの相違など読んでなるほどと思う。

時代の推移に取り残されながらも生きて働かなければならない庶民の生活が良く描かれていると思う。

こいう家庭のいざこざがどこの家でも一つや二つはあったであろうと思う。このように描かれると私には懐かしくその時代を彷彿させてくれる。

戦前の絹織物が盛んな時代に生きたおじいさんとおばあさんの掛け合い漫才に子供たちがわらいころげる描写は心の文化のゆとりがあったのだと想像される。民話じみたきつねやたぬきの話も遠いドイツにいてよく調べられていると思った。

父親が捕虜を切った罪悪感を吐露せずにはいれなかった苦しみを信二は一刀両断に切り捨てるところに信二の一途な正義感が良く表れていると思った。

久々に重厚な読み物だと

 

 

 

意見3 豊村一矢

 『民主文学』誌上の作品で、こんなに読みづらい作品に出会ったのは、たぶん初めてだ。5月例会合評の課題作品でなければ、半分も読み進まずに投げ出していただろう。私は『民主文学』での作品を好意的に読むクセがあるが、この作品には参った。これには私の貧しい読解力に問題があることも心得てはいる。

 読みづらかったのは文章の作り方が私の感覚とミスマッチだったというのも要因だと思う。日本語で書かれており、意味はしっかり伝わるのだが、口語でいう訛りのようなものが気になった。外国語(英語とかドイツ語など)の訛りが邪魔をした。

 つぎに長すぎる。冗漫すぎる。

 文芸作品である。芸の部分がきちんとしていないと興醒めになってしまう。

 さらに作品の内容は私小説的で「ああ、そうなんですか……」で終り、それ以上のものが私には残らなかった。

 一年前の民主文学新人賞佳作作品『引き継ぐべきもの』では、冗漫でも、私小説的でない主題が明確だった。

 最後に、火葬場での場面。釜から出てきた骨を壺に納めていくのだが、骨がまだ熱いのは当たり前だ。私も、今年三月に亡くなった叔母の喪主を勤めたので、この場面が甦る。これをタイトル「死者の温もり」に結びつけるのは、どうも理解できない。

 

 

 

意見4 泉 脩

 上州(群馬)の桐生市に住む、一家三代の話し。家族の生活が時代の流れとともに、大きく変わり、祖父母が亡くなり、その後父の死と葬儀で終る。興味深いが、時には、やりきれなくなる。

 主人公は三代目の次男信二で、大学を出てドイツで就職する。地元の自動車工場に勤める兄隆一から、父の死を知らされ、葬儀に駆けつける。母は認知症になって入院し、夫の死を信じない。

 どの人物もよく書けていて、多くのエピソードがおもしろく書けている。結局、信二は嫌気がさして国外に逃げたのである。その点、兄の隆一はしっかりしていて、別居しながらも両親に気を配り、弟をたしなめている。これで女姉妹がいたら、もっと複雑になるのだろう。私は群馬県をまったく知らないが、戦国時代の終り頃、北から真田、南から徳川が進出し、沼田城をめぐって戦った地である。そして明治になって、渡良瀬川の公害(足尾銅山鉱毒事件)をめぐって、田中正造が大奮闘している。

 こんなことを思い出しながら、この作品を味わった。父親が中国での戦争話で自慢するところは、まったく不愉快である。

 ともかく家族とは、大切だが同時にドロドロしているものがあるのだ。その点も、よく書けていると思う。

 

 

 

 意見5  石川節子

兎に角、長すぎる。

昔、私が絵を描き始めた頃、自分自身は楽しくて楽しくて、画面に少しでも空白があると、あれもこれも描き入れてしまった苦い経験が思い起されました。

祖父の話があまりにもおもしろ過ぎて、主たる父のストリーが薄くなってしまっていると思いました。あまり盛りだくさんにしないほうが焦点が絞れることを実感しました。しかし、いくら盛り沢山でも、信二の「葬式は無駄だ」という主張は伝わってきますし、日本で暮らしている親族達は金銭感覚が少し甘いのではないかと思って居るらしいことも感じとれました。

終行の、それでも、何やら温もりだけは手の中に残ったと言う、その「温もり」は、感情としての温もりよりも、窯から出て間もないお骨の入った骨壺の物理的な温かさの方が強く連想されて、信二は、かなり痩せ我慢をして結論づけていると思いました。

 

 

 

意見6  松木 新

故郷を捨て、ドイツで生活している信二が、父親の葬儀で帰国し、父親に関わる人々との思い出を語った作品ですが、そこで語られる在りし日の故郷の生活・文化が、精彩を放っており、読み応えがありました。

父親が語る華北の輜重兵の話では、〈人から聞いた話〉として語られる斬首の話を聞いた信二が、〈嫌な予感が体中を走った〉と書くことで、この体験は父親のものだと想像できるうまい描写です。

〈三途の川、閻魔大王、針の山、火矢地獄、釜茹地獄、いずれも爺さんの特異とする話〉には、柳田国男の『遠野物語』を彷彿とさせる世界があります。

父親の下駄を作る作業の実際や、〈絹の町の最大の祭り〉である〈織姫にちなんだ七夕〉の模様、内職や裁縫工場で働きつづける母親の仕事ぶりなども、ていねいに描かれています。

こうした状況が時代の趨勢で衰退していく様には、この国の歪んだ現実が反映されており、作者のこの作品に託した問題意識を見て取ることができました。

感心したのは、地場産業が衰退していくことと反比例して、男たちと女たちの力関係が逆転していったことを、作者が、祖母や母親の所作を通して、巧みに描いていることです。いずれにしても、この作品からは、作者の郷土愛を読み取ることができました。

作品の中で、桐生が〈(映画「用心棒」の舞台である)〉と書いていますが、この映画は、〈空っ風で有名な上州という設定〉で、〈映画の舞台となる宿場町はオープンセットで作られた〉(『全集 黒澤明』第五巻「作品解題」)とありますから、映画の舞台を「桐生」とするのは、少しばかり無理があるようです。

 

 

 

意見7  泉 恵子

 父の死の知らせを受けて、ドイツからしぶしぶ帰省する主人公信二。その目を通して語られる、祖父母の時代からの一家(一族)の物語と読んだ。

 「かかあ天下と空っ風」と言われた上州(群馬県)の桐生市。一時は絹の街として栄えたが、着物の衰退に伴って下駄屋を営んでいた父親の仕事も傾いてゆく。

 そんな中で育った信二の父親との確執から始まって、祖父母の世代の話しは男尊女卑の根深い社会風俗の中での、祖父と祖母の掛け合い漫才のような笑えないおかしみ。祖母と母との嫁姑の確執は壮絶で、家父長制の時代の嫁の立場の辛苦を、今は認知症を患って施設にいる母への思慕を伴って感慨深く描いている。

 特に、施設から葬儀の場へ来た母親が、夫の死に顔を「似た人がいる」という傍から、初めて息子の信二を認めた場面は印象的だ。(P16)一時は、もはや母の中に還ることはできないことを知って、故郷を捨てた自分の永遠の居場所はどこか「南であろうが北であろうが、土の下に温もりはない」(P15)と感傷的になり、なかなか「温もり」に到達しないのだが。

 祖父、祖母、父、母それぞれの人柄、尊敬していた兄ともいくらかの確執を伴なって上手く描き分けられていると思う。

 しかし、伯母の息子幸次郎の父への借金の話しも加わってくると、「温もり」とはますます遠い一族の話になり、少々読み疲れてきた。だが、追い詰められた幸次郎と、追い詰められた父親とが重なって、父の心情をより理解するという展開になって、やはり必要な場面だったのだろうと思われる。

 ただ、かつての帰郷とこの度の帰郷との時間軸がちょっと混乱することがあって、そのあたりの工夫が欲しいと思った。

 最後に、骨を拾う場面でやっと父親の「温もり」が感じられ、父との「和解」があるのだが、ここまでの、幾重にももつれた糸がやっと解きほぐされてゆく経緯が重たく、読むのに少々苦労した。

 織も下駄も廃れてゆく時代に翻弄されて、その中で様々な確執を抱えてもがく人間像が、その赤裸々な姿が浮かんでくる。

 また、たくさんの比喩表現に文章の巧みさを感じた。

 例「一抹の恐れが腹の皮の上を毒蜘蛛のように這い上がってきた」(P13)

 「曲がった背を亀が立ちあがったような格好で伸ばし」(P24)

 「古い時代の語り歌のようなお経がだだっぴろい空間をごろんごろんと踊り虫のように転げまわる」「蛇の舌のような赤い炎が稲荷寿司を縛るかんぴょうのように絡まり棺を包む」(P38)等。

 

 

 

意見8  後藤守彦

四月例会に欠席したため、対面で皆さんと議論できず残念でした。『民主文学』五月号の文芸時評の「人びとの暮らしぶりが変わっていく様子」がよく描かれているという評価と、『民主文学』六月号で紹介されていた、「父と息子の和解を描こうとした作品」との作者と読者の会での報告に異議はありませんが、母への愛情の表出といった側面もあると思います。

家族を中心に人物を立ち上がらせる筆力の確かさを感じました。随所に、光る文章が散りばめられていました。例えば、認知症の母について、「子供を常に愛おしんだ人が、今、茫洋としたあてのない水の上を漂っている。叫ぶことも嘆くことも虚しく失われる水のいざないの上で、ままごと遊びでもするように素朴に微笑んでいる」と、兄について、短文ですが、「隆一もまたキャリアを追って「駄賃」をせびる道など選びはしなかった」と表現したところなど。

冒頭のみならず終わりでも、「儀式は儀式に過ぎない」と、死者との対話の場でもある葬儀に来たことを疑問視していますが、その真意が読み手に十分に伝わっていないと思います。「壺を入れた箱にはまだ死者からの言葉のような温もりがあった」で結び、その後の六行はカットしてもよかったのではないでしょうか。

 

 

 

意見9  北野 あかり

父親に対する憎悪を抱きドイツへ移住した主人公が、葬儀に参加する過程で父の生きた時代や、生き方を深く知ることで、父への憎しみが浄化されていったことを描いていると思います。

 

主人公の信二は、父の葬儀出席ついて「葬儀は残った者の三文芝居だ、死んだ者を快く忘れるためにあるといっていい。お金がかかる。天皇の兵卒など少なくなるに越したことはない」と拒んだが、兄の「母親に会いたいだろうに」の言葉に、頑なな気持ちを翻し参加することを決めている。兄弟同士の会話にお互い相手の言い分を聞こうとする態度が感じられ、大切なことだと思いました。

 

「死者の温もり」というタイトルから、父親に対して余程恨みがあるのかと思って、亡くなった父の人柄や職業についての部分を拾い出して読んでみました。

人柄について、軍隊の話では独特の人懐っこさ、誰にでも話していける人の好さで、現地の人とも繋がり、言葉が通じるということで通訳も行っている。主人公の信二も家を出た後、ドイツで現地採用され移住し現在に至っていることをみると、父のDNAを受け継いでいると思われ、主人公も似た者親子の一面を感じたのではないかと思いました。

子供の頃の想い出では、迷子のなった信二を探す父、近所の子供を加えて赤城山に登った時の冷たいキュウリ、飯盒ご飯の味、夜中に父と見たホタルなど、子煩悩だった父の思い出が沢山ある。

仕事面では、下駄屋の奉公人時代、下駄の歯や鼻緒の結びなど仕事面で一目おかれる腕前をもち、親方からは一目おかれ、奉公人たちから兄の様に慕われていた。その反面、自分の子供たちに対して鉄拳の制裁を人前でなく加えることに、父の負の想い出も抱いています。

下駄から靴の時代への変化により仕事は激減、店でぼんやり過し、テレビのよろめきドラマを観ている父。時には母を足蹴にしたり、鷲摑みするなどの暴力を振るう父。朝から夜更けまで働き続ける母と対比し父親への憎悪が募り、家も故郷も棄ててドイツに移住した信二。

信二が家を離れてからの父について、下駄屋から、布団屋の下働き、スーパーの呉服部の販売係、マメで真面目なことが買われて、子供の遊技場など、畑違いの職場にもめげず、定年まで働き続けている。定年後父の姉の次男の子(甥)が仕事に行き詰まり困っている状況を見ると放置できず、定年時の退職金200万円の大金を貸してしまう人の好さと、見通しの悪さに嘲りの気持ちを抱き、父を許せない心境を持ち続けている。

しかし、母が大腸癌の手術を受けた時に、母のおむつ交換、清拭、洗濯までしている父。父と最後に会った時、「貸していたお金も月々入金されており、金のことは心配するな、俺も十分働いている」と、過去のことに拘りなく話す父の素朴な温かさに圧倒される思いがしたこと。

仕事に行き詰まり、喪失感に追い込まれた父を理解せず、憎んだことが正しかったのか…と顧みるようになっていた。

父の葬儀中、亡くなった父と対面した時の母の挙動「お父ちゃんに似た人がいる」、棺の前で「笑ったかと思うと突然泣く」、葬儀場から帰ったあと「父親を探しに行くと言って介護士を困らせている」との電話に信二は、長年連れ添った両親の絆の深さを知り、父への憎しみが浄化していったのではないかと思いました。

人を描くこと(その人がどのように生きて来たかを掘り下げて書くこと)により、憎しみも浄化されていくということを伝えたかったのではないか。これは、今を生きる私たちのとっても大切な事だと思いました。

 

この作品は信二を取り巻くファミリーヒストリーを詳しく描くことで、憎しみも浄化するということを伝えようとしたのだと思います。ただ描き過ぎると主題が解らなくなってしまうと思いました(爺さんの小話等面白く読んでしまい、それが描きたい事だったのか?と思ってしまいました)。

また、最後の療養所からの電話に対して、長男隆一の妻が突然登場してきて、その場にふさわしい決め言葉を言います。この作品の主たる人物ではないので、ここは長男の言葉とし、母のもとに妻を行かせるとした方がいいと思いました。

 

 

 

意見10 柏原 竜 

ここ何十年もの間、日本の国内にシャッタ―通りの街が現れた。昔から賑わいを見せていた商店街が徐々に閑散となっていった。桐生の街も同じように寂れていったのでしょう。機屋、下駄屋も繁盛していたが時代の流れと共に灯りを消していった。人々はその流れの中で縛られていた封建的な価値観から徐々に変化していった。作品の中で、家の格式、家の中での上下関係が生々しく書かれている。特に女が虐げられ、それが当然だと思われていた。祖母や母親達は「女に生まれれば親に従い、嫁いでは夫に従い、老いては子に従う」と良妻賢母の教育を受けて、女は男に立てついたりしないで、男を立てておいて上手に動かすのが利口な女なんだと言われてきた。だから戦後、男女平等を唱えられたが、すぐに実際の日常生活には浸透しなかったように思われる。しかし、商売が行き詰まり生活が苦しくなり、家の格式や上下関係が徐々に変化し生活様式も変わっていった。父親が下駄屋を辞めて勤め始めた。家長である祖父が亡くなって祖母一人になってから母親は徐々に強くなった。嫁姑のいがみ合い、夫婦のあつれき。その中でいろいろあったが、女のたくましさがおもしろかった。 

 今、ジェンダー平等が課題になっているが、自分の周りでは女はたくましく生きている。信二の祖母、母親、兄の隆一の妻と。その中で父親が徐々に変化していった。母親の病気の介護を一生懸命するようになった。 

 男の視点ではなく女の視点で書いたら、また面白いのではないかと思った。

 

 

 

 

 

 

「奔流」28号「ホームタウン」の

合評を受けて

               泉 恵子

 

題名に関する疑問がいくつか出されていた。

 最初は映画の「ノマドランド」に刺激されて「ホームランド」としていた。どこかで「故郷」をそのように呼んでいたのを聞いたと思ったので。そしてそのあとに「~からの伝言」とでもつけようかと思っていた。

 しかし、辞書を引くと「ランド」の方は「祖国」といった意味合いで、「故郷」は「ホームタウン」と書かれている。迷った末後者にしたのだが、この響きは「街」のイメージなので、自分でもあまりしっくりこない思いはあった。そのあとにいろいろ言葉を考えたが、長くなるのでカットした、という経緯がある。「ふるさと」という日本語の響きは好きだが、同題歌のイメージが強く、またこの題の小説は他にあるように思い、あまり気乗りはしなかった。

 また、主人公をエイ子にするまで、二転三転した。いつもの洋子は止めようと思い、初めは身近にモデルがいた「美枝」の視点だった しかし、どうも線が細くて上手くいかず、行動的なエイ子に切り替えて落ち着いた。だ、その心情に迫り切れていないと思う。     

 会話は作者の願望の要素が強く、現実はもっと困難で、口に出さない戸惑いと了解の思いを描くのは難しい。表現力の乏しさが悩ましい。

 

 

 

 

 「奔流」28号「日の丸」の

 合評を受けて

           豊村一矢

 

口幅ったいが、私は今回の自作品にかなり満足していた。そして、民主文学関係者はもちろん、二〇年くらい前に同じ教育現場にいた人たちの感想なりも聴ければと思っていた。

例会合評(誌上合評)で貴重な意見を伺えて、感謝、感謝だ。

 意見の中には、作品を評してくれるというよりは作品中の登場人物になって発言してくれているのもあり、面白く、嬉しかった。

因縁の旗、「日の丸」について私の個人的な考えや捉え方を語る必要はないとも思っていたが、主人公とも言える秋葉幸司に、かなり私自身を仮託していたこともあり、個人の事も書くことにした。

1.「日の丸」は黒い過去を持っている。だが、それは国旗にしない理由にならないと考える。

私は、黒い辛い過去にも思い寄せつつ、総合的判断で国旗とした流れを肯定出来る。

むしろ、革命や政変をシンボライズした国旗を奉る方が危険だと思う。

2.「国旗国歌法」は政権の強引な国会運営などによって成立したのではない。多くの世論調査でも高い支持率を示したし、国会では、丁寧な論議が重ねられ、地方、中央の公聴会も積み重ね、過去の数ある与野党対立法案と比べても、圧倒的な賛成票で可決された。

すでに永いこと、「日の丸」が実生活の中で広く定着していたのが反映したと考えている。

3.「学習指導要領」は「国旗、国歌」に係わる項目を含め日本国憲法、教育基本法の主旨に合致し、矛盾しない。

4.伺った意見の中で、学校の教育方針を決定するのは「職員会議」とする主張が見えた。かつてこの主張が、一部教育現場で散見されたが、これは荒唐無稽で運動の戦術論の変形に過ぎず、「日の丸」反対運動の敗因の一つだったと思っている。  

蛇足だが、この「職員会議最高議決機関論」は、私が教員に成り立てのころに聞こえ始めた。中国の「文化大革命」の影響があったのではないかと言う人もいたが、さすがに二〇年も前に終結した文化大革命の影響とは考え難い。

5.意見の中には、安倍政権批判で、いくつか安易すぎると感じるものがあった。一〇ヶ月程前、支部の「群青の彼方」の誌上合評でも同様の思いをした。安倍晋三がコロナ禍で出した休業要請は、その手順、方法において問題があり、今もって批判が燻っている。それでも私は、この休業要請は、基本、正しかったと思っている。

この休業要請がなかったら、地方の教育行政はもっと長く混乱しただろう。未知の、全国規模のコロナ感染症だ。各学校が、個々に、休校措置を単独で判断し決行するなどできるものではない。行政の長の指示、要請により可能になった。その後、コロナ禍の学校の対応・方法がだんだん確立していき、今日に至っている。

結果的に安部晋三は、最低限、やるべき事をやったということだ。安部晋三は最悪の政治家だが、具体的な根拠をもって批判しないと揚げ足を取られる。

 最後に。

私は意識して、「国旗、国歌の掲揚、斉唱」と「個人の思想信条の自由」の問題を作品の中に採り入れた。こちらが本命だった。

 学校現場では今も、児童生徒、教職員を含め、処分だの裁判だのの渦中にある。例えば、音楽教師が卒業式での国歌斉唱指導担当を命じられる、拒否する、服務違反で行政処分、等々が繰り返されている。

 続「日の丸」に挑戦する気力、体力が残っているか、甚だ、心許ない。

 

 

 

 

 

 

 

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旭爪あかね「月光浴」

社会を変える第一歩

泉 脩

 

 長篇三部作の第三作。三十代初めの薮崎千華(ちか)が、十代終り頃の奈緒(なお)にピアノを教える。二人は共に、引きこもりになって十年あまりで、解かり合い親しくなったのである。

「私たちいつから太陽の下で、日光浴ができるようになるのだろう」と千華が言うと、奈緒が「当分は月光浴をしようよ」と応える。ピアノレッスンが終り、月夜に千華が奈緒の帰りを送った時のことである。二人とも、いつかは引きこもりから抜け出したいのである。

 千華は、千葉県の三喜町で野菜作りをしている小林新(あらた)と愛し合うようになっていたが、一緒に暮らす決心がつかない。自分の夢を持ちたいからである。脱サラをして農業に打ち込む新にしても、容易に採算が取れず、苦しんでいる。そして何かアルバイトをしたいと言う千華に、大学での仲間で、編集プロダクションでライターをしている大沢榛名(はるな)を紹介する。

 彼女は千華を助手にして、トラック運転手の苛酷な労働について調べ、論文コンクールに応募しようとする。大学の五人の仲間の一人、漆原靖(やすし)がトラックドライバーになり、苛酷な労働条件から追突事故を起したので、その原因を明らかにしようと考えているのである。

 二人は関係者のインタビューを重ねる中で、二〇〇一年に成立した小泉内閣によるトラック運輸業の規制緩和に行き当たる。五台以上のトラックを持てば、容易に運輸業ができるようになったのである。そのため、運輸業者が急増して過当競争になり、低料金、運輸時間の短縮、そしてトラック運転手の過労と事故急増になったのである。

 榛名はこの調査結果を論文にまとめ、コンクールに提出した。そして調査に協力した全国運輸労働組合の書記、石渡と恋仲になり、新への永い片思いから抜け出した。

 千華はこの調査に協力する中で、社会や政治への理解が深まった。そして積極性も増し、引きこもりの若者が集まるルナ・ハウスの仕事に協力し、新の農業への協力もさらに強めていく。

 この作品の最後は、ルナ・ハウスのメンバーや関係者十八人を、新の農場に招き、農作業の手伝いや接待を通じて、引きこもりから抜けたいと苦しむ若者たちと心を交わせる。

 千華は新との共同生活を決意し、農業における新しい試みに取り掛かるのである。

 特に惹きつけられたのは、「野菜売通信」を発行することである。安全で新鮮でおいしい野菜を売る重要性を、手作りの通信で宣伝することである。そして、その反応を次の通信に載せ、生産者と消費者の交流を進めるのである。ライターの榛名も協力する。これは実に大切なことであり、新の農場の将来を決めることになるだろう。

 引きこもりからの脱却は、社会を変える試みと結びついてこそ実る―という作者の考えが、実によく表現されている立派な作品である。

 二十一世紀になって、ますます強くなった政府自民党の新自由主義政策は、二〇〇八年九月のリーマンショックで破綻する。そして二〇一一年の東日本大震災と福島第一原発の大事故である。二〇一〇年に初版が出たこの作品は、きびしい批判と抗議の作品である。

 なお、大学での「水力発電研究会」の五人組の他の三人はどうなっているのか。漆原靖はトラック事故により、交通刑務所で服役中である。(大沢榛名は自分の論文を彼に送っている)長谷川宅郎は、七回目の高校教員採用試験に合格したらしい。そして篠崎あかりは、ついに初恋の先輩と結婚する。詳しいいきさつは書かれていないが、靖以外の三人の仲間がお祝いの会を開いている。(千華も誘われたが断っている)

 千華は新とのことを父に告げ、近く新を引き合わせることになった。そして奈緒は、小三で登校拒否になり、東京のフリースクールに通い、大検を受け十九歳でアメリカの大学を受験している。

 このように若者たちは、それぞれの道を進んでいるが、残念ながら続篇は書かれていない。旭爪あかねは、新しい長篇を計画していたが、五十二歳で病死したため、実現しなかった。返す返すも惜しいことである。 

 なお千華が、時々うつ状態になり、精神科医から抗うつ剤をもらう場面がある。妻のうつ病に二十年も関わった私には、実によくわかるシーンである。作者自身の体験に違いない。

 

 

 

知里幸惠没後百年に寄せて

              松木 新

 

この九月に没後百年を迎える知里幸惠の『アイヌ神謡集』を、あらためて読み返している。一九二三年(大正十二年)に発行された『神謡集』の凛とした清楚な「序文」には、幸惠が幼い頃に暮らした故郷登別の四季が投影されている。〈今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう〉という幸惠の願いに応えて、違星北斗『コタン』、バチェラー八重子『若きウタリに』、森竹竹市『原始林』が、三〇年代に刊行された。

堂々と「俺はアイヌだ」とさけぶのも正義の前に立ったよろこび(北斗)

石を割る 木さえある世ぞ ウタリの子等

割りて進まむ 此の憂世をば(八重子)

英雄と歴史が語る其の中に真のアイヌの血潮流るゝ(竹市)

幸惠が『神謡集』で残し伝えたかったのは、アイヌの神謡(カムイユカ)である。カムイユカは、この国の現実と響き合っている。

『神謡集』のなかで最も有名な冒頭の「梟の神の自ら歌った謡 『銀の滴降る降るまわりに』」は、幸惠の地元に伝承されていたものである。

梟の神が、〈昔のお金持が今の貧乏人になっている〉老夫婦を、〈昔貧乏人で今お金持になっている者〉の上の正統な地位に復活させるこの謡には、アイヌの収奪にたいする精神的抵抗の意味が込められている。

第二話の「狐が自ら歌った謡 『トワトワト』」は、『神謡集』全十三話を通して異質である。物語性やメッセージがなく、狐による自嘲、自己否定が繰り返されるだけである。格差社会のなかで、「自己責任」を一方的に強いられている若者たちの心情に、それは通底している。

カムイユカに、文学的想像力を駆り立てられた作家が津島佑子である。「月の満足」、「鳥の涙」は、忘れられない好短編である。

知里幸惠が金田一京助に、カムイユカを書くことを約束した十五歳から、『神謡集』のタイプ原稿の校正を終えて急逝した十九歳までの時代は、いわゆる大正デモクラシーの風潮が最も盛んな頃であった。平塚らいてう、山川菊栄、神近市子、伊藤野枝らが、女性の地位の向上などを主張したが、マイノリティである先住民族アイヌは、彼女たちの視野の外に置かれていた。

当時の『女学雑誌』に原稿を依頼された幸惠にたいして、文章を寄稿したりすると、世間に見下げられてしまうかも知れないと心配した知人にたいして、幸惠は逆に憤慨して、〈私はアイヌだ〉と昂然と言い切っている。

〈私はアイヌだ。何処までもアイヌだ。(略)ただ、私のつたない故に、アイヌ全体がかうだと見さげられることは、私にとって忍びない苦痛なのだ。おゝ、愛する同胞よ、愛するアイヌよ!!〉(一九二二年七月十二日付「日記」)

幸惠が、カムイユカを見事な日本語に移し換えるという、とてつもない困難な作業に集中した心底には、アイヌの存在を知って欲しいという、強い願望があったといえる。

幸惠の思いに応えた作家が、十九歳の宮本百合子である。

近文で幸惠と会った金田一は札幌に戻り、ジョン・バチェラー宅を訪れ、バチェラー八重子や初対面の宮本百合子と、夜の十一時頃まで話し込んだ。金田一の話に感動した百合子は、その日から渡米するまでの短時日のうちに、「風に乗って来るコロポックル」と未定稿「遙かなる彼方」を書き上げた。

生まれ故郷の登別をこよなく愛した幸惠は、いま、登別ハシナウシの丘に建つ伯母金成マツの十字架の墓標の隣で、ひっそりと眠っている。

(「ほっかい新報」2022年4月24日・5月1日合併号)

 

 

村上春樹インタビュー

過去の戦争を美化しようとする一部の人々の企てにも、強い怒りを感じる

                         

 

      松木  新

   

フランス誌『クーリエ・ジャポン』が5月1日、「世界で最も読まれ、世界で最も謎めく作家の一人」と評する村上春樹にインタビューをおこないました。過去の戦争を美化する者たちへの怒りを表明していますので、村上春樹の発言を紹介します。

 

──子供時代に戦争の悲劇を意識するようになったことは、村上さんご自身の人生や仕事に無意識のうちに影響を与えたりしたのでしょうか。 僕が成長する過程で──

「ありがたいことに日本は国家として直接参加はしなかったけれど──数多くの『泥沼のような戦争』を目にしてきた。アルジェリアでのフランス軍の戦い、ヴェトナムでのアメリカ軍の戦い、アフガニスタンでのソヴィエト軍の戦い……そういう意味のない、あるいは意義の不明な(としか思えない)戦争を目にするたびに強い空しさに襲われることになった。また過去の戦争を美化しようとする一部の人々の企てにも、強い怒りを感じる。あるいはそれは、祈りを捧げる父親の後ろ姿を見てきたせいであるかもしれない」

 

 

エッセイ

本という奇跡

後藤守彦

 

地元の図書館の新着図書コーナーで見つけ、書名に惹かれ借り出した一冊の本。それが

森沢明夫『本が紡いだ五つの奇跡』(講談社、二〇二一年)である。全五章で構成され、各章のタイトルは、「編集者 津山奈緒」「小説家 涼元マサミ」「ブックデザイナー 青山哲也」「書店員 白川心美」「読者 唐田一成」となっている。高校時代に自殺しようとまで追い詰められたが、涼元が書いた本によって救われたと思っている女性編集者津山が、涼元に新たな本の執筆を依頼する。生活のため今書きまくっている、あまり売れていないミステリではなく、かつて自分が感動して読んだ、悩み苦しむ人に寄り添い、ともに未来をきりひらいていく、そんなテーマの小説を。津山の期待に応えて涼元が書き上げたのが、『さよならドグマ』である。癌で余命僅かと宣告された青山は、『さよならドグマ』の原稿を読んで感動し、妻の協力を得ながら本の装丁に心をこめる。書店でアルバイトをしている大学生の心美は、小学生の時、川で溺れた自分を助けようとした兄を溺死させてしまった、とずっと罪悪感に苦しんでいる。その心美も『さよならドグマ』を通して、美大生の一成と結ばれていった。架空の小説である『さよならドグマ』の主人公真衣の台詞が、『本が紡いだ五つの奇跡』の中に繰り返し引用されている

 

   わたしの人生は、雨宿りをする場所じゃない。土砂降りのなかに飛び込んで、ずぶ濡れを楽しみながら、思い切り遊ぶ場所なんだよ。

 

『本が紡いだ五つの奇跡』を読み終えた後、これは映像化できると思った。調べたところ森沢の作品は、何度も映画化されているのがわかった。二〇一四年に公開され、私と同い年の吉永小百合が主演しているので観に行った『ふしぎな岬の物語』もそうである。原作のタイトルは『虹の岬の喫茶店』(二〇一一年、幻冬舎)だが、映画を観た時には原作者のことなど頭になかった。なお、この映画には二〇二〇年に自死した竹内結子も出演していた。

 他にも、『津軽百年物語』(小学館、二〇〇九年)、『夏美のホタル』(角川書店、二〇一〇年)、『ライアの祈り』(小学館、二〇一二年)、『きらきら眼鏡』(双葉社、二〇一五年)が原作と同じタイトルで映画になっている。テレビドラマになっている作品もあり、森沢の小説は映像化に適しているといえよう。これらの作品には、本好きの人物がよく登場する。例えば、『きらきら眼鏡』の主人公の明海青年がそうである。心が乱れる時、自分の内ある海から潮騒が聞こえてくる。明海にとって、「胸の浅瀬をじわじわと侵食する潮騒ーその鈍痛から逃れるための薬は、いつだって読書だった」のである。ある日、よく行く古書店で一冊の本を買う。その本で、たった一か所傍線が引かれている文章が「自分の人生を愛せないと嘆くなら、愛せるように自分が生きるしかない。他に何ができる?」だった。本には栞がわりに、一枚の名刺が挟まっていた。名詞には「大滝あかね」という名前と、「文章と編集」という肩書、電話番号などが表記されていた。明海はあかねを愛するようになる。つまり、本が二人をつないだのである。

次に、最近出合った、本と本を読むことについて綴った文章を四つ紹介したい。

先ず、一昨年、五三歳で逝去した旭爪あかねの遺稿集『こんなときこそ』(二〇二一年)から拾ってみる。

 

   ここより他の世界があることを気づかせてくれるもの。いまを生き抜く力を与えてくれるもの。すぐに何かの役に立つわけではないけれど、自分で考えることのできる人間を育ててくれるもの。ときに人々が、命を懸けて守り抜いてきたもの。本って、すごい。

 

 雑誌に連載された児童文学評の中にあったものだが、彼女は、読みながら常に書くことを意識していた、とつくづく思う。

 次は、ドミニク・チェン早稲田大学准教授の『コモンズとして日本近代文学』(イースト・プレス、二〇二一年)から。

 

   読書はただの受動的な経験ではない。読むというプロセスの中には書くという行為が埋め込まれているからだ。

 

 インターネット上の電子図書館である青空文庫の意義を説きながら、日本の近代文学史をチェンは概観している。青空文庫では、著作権が消えたものを中心に一五〇〇〇を超える作品を読むことができる。作家の後藤明生は、「小説を書くことは読むことからはじまる」(『小説ーいかに読み、いかに書くか』講談社現代新書、一九八三年)と言い切っている。

 特集「アナキズム・ナウ」が気になって読んだのが、文芸誌『文学界』二〇二二年四月(文藝春秋)。評論家鴻巣友季子が書評を次のように書きだしていた。

 

読むということは恐ろしい。読むごとに、無知と不可知の荒野の無辺さがそくそくと迫ってくるからだ。

 

 あれも読んでいない、これも読んでいない、と未読の作品や作者の名が、次々と浮かんでくる。「二十世紀文学に大きな影響を与え、さらに二十一世紀文学の扉をも開こうとしている大小説家」(加賀乙彦『小説家が読むドストエフスキー』集英社新書、二〇〇六年)であるドストエフスキーも全部読んでいない。そして、再読しなければと思う本も少なくない。トルストイの『戦争と平和』のような長編を読む気力がまだあるのか、と不安を感じもするのだが。

 読書セラピーという療法がある。読書によって問題を解決したり、癒しを得たりすることで、特にイギリスで広がっている。読書によって心と身体が楽になり、うつ病などの克服につながる効果があるという。この療法でカウンセラーを務める青年を主人公にして、イタリアの作家のファビオ・スタッシが『読書セラピスト』(東京創元社、二〇二二年)を書いている。このミステリの中で、体重を増やしたいと求める女性に、青年は答える。

 

読書は受け身の活動じゃないんです。読者が登場人物の人生の展開にどの程度引き込まれるかによって変わりますが、本によっては体重を増やすどころか、健康を損ねてしまうでしょう。

 

 書くことだけでなく、読むことも創造的行為である。

 

 

 

 

 

 

 

「白老ウポポイとカウボーイ焼きの旅」に参加して

                                       

              木村 玲子

 

 4月27日(水)「平岡九条の会」と「旅システム」共同企画の上記の旅が実現しました。コロナ感染は依然高止まりでしたが、GW前の少し落ち着いている時でした。

 

 総勢35人を乗せた行きのバスの中では、清田区に住むアイヌ問題研究者荒木幸穂さんのレクチャーがありました。近年のアイヌ問題に関する新聞記事のほか、荒木さんのレポート「同化政策を謝罪しなければならない」(『人権と部落問題』22年2月号〈特集〉「アイヌ民族の先住権と人権保障を求める闘い」所収)の冊子が配られました。

 表題の様にアイヌの同化政策について、未だ謝罪をしない政府が背景にあって、TVのお笑い芸人の認識不足のコメントや、閣僚の差別発言が続いていること等の問題点が語られ、それを克服しているオーストラリアやカナダの紹介もありました。

 

 最初に、そんな問題の一つでもある、そしてほとんどのツアーが行かないという博物館から1キロ離れた所の「慰霊施設」を訪れました。海の近くの見晴らしの良いところに建つ、灰色の簡素ながら壁に施された紋様が趣ある建物で、北大その他の大学などで調査といって盗掘された遺骨が収められています。「土から生まれ、土に還る」というアイヌの死生観にそって、遺骨は地元の受け入れがあるまで預かっているということのようですが、今迄にここからそのように移っていった遺骨はまだないそうです。その隣には様々な行事を行うための建物のほかに、この慰霊施設を象徴する背の高い鮮やかなアイヌ紋様のモニュメントが聳えていました。「空に向かって伸びる様子は、平和を希求する思いと民族共生の理念を表している」と説明版にありました。色々問題を抱えた「慰霊施設」ですが、その問題そのままに多くの人に訪れてもらいたいと思いました。

 その後、白老観光商業共同組合盛悦子理事長の、地元白老の観光土産物店の存続を訴えてきた経緯、元財団法人アイヌ民族博物館館長のアイヌ問題研究家中村斎(いつき)さんの話を聞きました。

 観光組合盛さんのお話は、国立博物館が白老に建設されることになったことに伴って、土産物店の土地を譲渡せざるを得なくなり、営業権は確保したものの仮店舗での営業も難しく次第に組合員が減る中、白老独自の観光土産物店としての存続を訴えてきた経緯でした。そしてついに昨年テナント施設の建設を町が承認し、今年の4月から新たな店をオープンするに至ったとのことでした。「ウポポイ」建設の陰で、今迄の伝統を守って行こうとする観光土産物店組合の粘り強い運動があったことは感慨深いものでした。

 中村さんは、白老がアイヌ部落の象徴のようになった経緯を、歴史をさかのぼって語られました。和人と呼ばれるヤマト民族が、先住民族アイヌを抑圧して作り上げた北海道。その虐げた側の子孫としての自身の存在とどう向き合ってゆくか、贖罪意識を持ち、その思いをこれからの子どもたちにも伝え、皆がそうした思いを共有してゆくこと。そして、これからのアイヌの「自立」はどうあるべきか等、奥深い考えさせられる話でした。

 こうした地元の方との話し合いは、「旅シスム」ならではの意義深い催しです。

 昼食は待望の「カウボーイ焼肉」。この日は白老牛ではなく、アメリカ産の牛肉だそうですが、大きな塊を小切りにした焼肉の後、窓の外で新しくブロック焼きしたばかりのローストビーフを目の前で切りながらの食べ放題。じゃがバターに野菜サラダ、ごはん、スープのほかに普段は出されないというガーリックライス、デザートは地元のペネショコ芋?で作ったお餅の入ったお汁粉と、ふんだんに戴きました。

 満腹の午後の最初は、盛さんたちの運動が実った土産物店ポロトミンタラ(白老観光インフォメーションセンター)と、開店間もない盛さんのお店ポンエペレで買い物をして、いよいよ国立アイヌ民族博物館へ。

 近代的な建物は背景のポロト湖とうまく溶け合って、広い敷地は入口から工夫が凝らされています。まずアイヌ舞踊を観劇する建物へ、大勢の客とともに列を作って入りました。映像を駆使したバックの中での見事な舞踏でしたが、昔の素朴な踊りも懐かしいような……。博物館の中もゆったりとした空間で、見易く分かり易くアイヌの生活文化の中で使われた調度品や衣服などを展示していましたが、同化政策が進んだ明治以降の差別や格差を生んだ歴史などももっと展示してほしいと思いました。DVDで通史を流してはいましたが、アイヌの立場に立ったより詳しい映像が望まれます。アイヌの誇りをもって「神謡集」を翻訳した知里幸恵や、研究者の知里真志保、復権を進めてきた萱野茂や野村義一ら多くの携わった人々の説明や、民族衣装アットウシの作り方の映像など様々な工夫はありましたが、苦難の歴史に迫っていない物足りなさも感じました。

 「ウポポイ」とは「みんなで歌う」という意味とのこと。多くの若い人が見学していましたが、「民族共生」を目指すというときに、先の中村斎さんの話した精神が果たして伝わるだろうかという思いと、しかし、初の「国立」博物館ができたことの意味は大きいだろう、ここから始まるのではという思いとが交錯しました。様々に問題を孕んでいますが、一見の価値ある、多くの日本人に見てほしい「象徴空間」だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連続エッセイ 4

  耳聡い少年がイメージした「戦中、戦後」の風景

          豊村 一矢

 

 第四話 私は本庄陸男と同窓?

 私が一〇歳の頃で上渚滑小学校の四年生だったはず。その頃になると、大人のお喋りの、社会問題のような話題にも、それなりに興味が持てるようになっていたらしい。

 父と母と祖父が一枚の写真を見ながら喋っている。私は少し離れて聴いている。戦争前、お尋ね者の小説家が上渚滑に住んでいた、というような話をしている。お尋ね者だったことを自慢しているようなところがあった。

 祖父はいきなり私の方を向いて、

「カズボー。お前もお話、書いてみるか?」とその写真を私に見せた。若い祖父と7人の生徒が写っている。「この人のお兄ちゃん、上渚滑小学校に通ってたんだぞ」と言ったような……。

 篤農家であった祖父は農業の傍ら上渚滑よりさらに奥地の「教習場」の教員も兼務していた。

 後に祖父は自伝を書き残しおり、その時の「学級写真」と再会する。それは大正一〇年三月の卒業写真だった。その前列左に児童に本庄ウタ子の名がある。

 本庄陸男は佐賀藩士の六男に生まれた。陸男8歳のとき一家は確かに上渚滑に来ている。さて、私は本庄陸男と同窓なのか。

 本庄陸男は一九三四年、三四歳で他界している。私が生まれる八年前のことだ。

 でも、戦後の片田舎で本庄陸男が自慢の対象のなっていたのは、なぜか嬉しい。

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇二二年月〇一日 281号

 

 

 

月例会誌上合評

 

合評作品

(札幌民主文学会支部誌『奔流』28号)

 

 

北野あかり「ゴクラクゴクラク」

 

 意見1 泉 恵子     

集中豪雨災害に続く、コロナ災害という地球規模での天災や人災の中で、身近な人達にも異変に起きている。

 脳梗塞になった兄のこと、それを伝える妹のいつもと違う様子、そして義姉の慶子ちゃんの最期が語られる。

 そんな重たい現実が伝えられる中で、筆者は一つ一つに誠実に向き合って対応している。猪突猛進型の自身を反省しながらも、一度に起きるさまざまな事態に平静さを失わず対応するさまが、筆者のどっしり構えた楽天性と逞しさを感じさせる。

 中でも妹さんとの対応が中心で、異変を感じて東京まで駆けつけるまでの経緯がリアルに描かれている。道中でのこと、「安心紐」を結んで寝るさま等面白く読める。

 しかし、その妹がその後うつ病を発症して入院という事態が唐突で、そのあたりをもっと書いてあったらと思った。だが、それは帰札してからのことであり、筆者にも本人にも分からないことで、また書くことで妹を刺激するかもしれないことなので書けなかったと例会で聞き納得した。

 重たい現実だが、重たくならずに軽妙に語られている。それは「ゴクラクゴクラク」と言って亡くなった義姉の慶子ちゃんに同感して、自身もそうやって最期を迎えられたらという思いとも重なっていて、そこを表題にしたことと大いに関係するのだろう。

 

意見2 泉 脩

身内が次々と亡くなり、コロナ禍もあって、見舞いも看護もできない苦しさを書いています。同感するばかりです。

それでも東京のマンションで一人暮らしをする妹の時には、思い切って上京し、数日を共に過ごしました。とても切ない、よい文章です。男の兄弟なら、こうはいかないでしょう。

「ゴクラクゴクラク」とは、身内の一人が病院で亡くなる前に、温泉に入った時の言葉です。現在、普通の都会でも千メートル以上もボーリングすれば温泉が出るのです。私の家の近くの老人ホームに、古い友人を訪ねると、「毎日温泉に入っている」と聞いてビックリしました。温泉付きの病院もありうるのです。特に末期患者にはありがたいことでしょう。

作者の北野さんは永らくナースをしていたので、病人のことを客観的に書けるようです。それにエッセーが上手になりました。どんどん書いて、いずれはまとめて本にしてください。文学にかかわった以上、一冊は自分の本を出した方がいいと思います。私には、夫との出会いと結婚のエッセーが印象的でした。来年の本には、北野さんの人物像を載せる予定です。(今年の本には、福山さん・室崎さん・石川節子さんの人物像を書きました)

 

意見3 松木 新

豪雨災害やコロナ禍など、今日、明日がどうなるのかが不確かな時代に、人間、どう生きたら良いのか、を考えさせてくれる好エッセイです。

〈豆まきで「管は~外!と言って撒いた」とか、恵方巻きを作って「南南東を向いて食べた・・・」などと、面白がってやった〉り、〈私のドジは何なのだろう。思い込みや急ぐ時に起きている〉と自戒したりと、生活を楽しんでいる様子から見えて来るのは、目前の危機の根源に目を据えながら、〝自然流に生きる〟ということではないかと思いました。〝無〟の境地といって良いのかも知れません。

妹さんや、知人のことなど、すべてを受け入れ対応できるのは、常にこのような境地に自分を置いているからだろうと思いました。羨ましい限りです。

 

 意見4 豊村一矢

 北野さんの生き方がよく解り、心に沁みたエッセイです。

「奔流28号」の編集に係わることで北野さん携帯電話すると東京の妹さんのところに行っている北野さんが出ましが、作品を読み、その時の電話のやりとりが甦りました。

 私は、毎年のように終末期を迎えた近しい人との別れを経験していますが、最近は、悲しむより逝く人の人柄や人生から何かを学ぶようにしています。

そんな意味で『ゴクラクゴクラク』に大いに共感しました。

 

 

 意見5 石川節子

北野さんの行動力には脱帽です。とても、真似はできません。羨ましい限りです。

 コロナ禍の入院患者は、家族との面会も許されず、私の夫・弘明とは、二月三日以来、まだ、一度も逢っていません。

ぼけてしまうのではないかと心配です。

 

意見6 室崎和佳子

北野さんの一族はとても仲がいいんだなあと思いました。

 兄の連れ合いを、和ちゃん、慶子ちゃんとちゃん付けで呼び合って、いい関係を築いているのがわかります。

 三つ違いの妹さんの危機を感知し、コロナ禍の中 東京へ飛んだ話は姉妹愛に溢れています。「安心紐」を結び合って隣同士で寝たことに、ほのぼのとしたものを感じました。 

 義理の姉である慶子ちゃんのあっぱれな死が題名につながったのですね。

 住み慣れた紋別から息子のいる神奈川の地へ、死の一ヶ月前に移り住んだ慶子ちゃんと温泉付きの緩和病棟を用意して母を呼び寄せた息子の愛にも心惹かれるものがありました。

 

意見7 村松祝子

八十路を過ぎた作者の周りには歳を重ね、亡くなって逝く人が多い。それらの人々の別れの状況を綴っている。

特に東京にいる妹さんを中心に書いていると思う。コロナ流行の中での旅行の様子などリアルに表現されていると思った。

冒頭で二〇二〇年の熊本県で起きた集中豪雨から書き出して最後に地球温暖対策の訴えを綴りコロナも地球温暖化が作り出したもので温暖化の問題も考えていきたいと結んでいる。

幾人かの近しい友達や身内の逝く姿を描いているがもう少し綴る人を絞った方が内容が締まってくるかなと思いました。

文章が淀みなく書かれ最近の日本で起きた大きな災害も正確に記され改めて気候変動による大災害が続いていることを思い出し、考えさせられました。

 

 意見8  柏原竜

友人知人親戚などたくさんの人に囲まれている北野あかりさんの、元気な暮らしぶりをずっと読ませてもらっていましたが、コロナ禍で一遍した事がよくわかりました。

コロナ感染と高齢者の病気が重なり大変な事になっている。自分の周りでも入院したり施設に入っていたりして会えない。そのうち病気が進んで会えないうちに亡くなってしまう人が周りにいる。

 「今こそコロナ禍の中での入院のあり方について、患者さんが家族や親しい人と、心通わせる方策を見直し、具体的に提示していくことを切に思う」  

本当にこの通りだと思う。

人間は誰も年を取って弱っていき、病気になって亡くなるが、最後の時は大事にしてほしい。ご本人も後に残された人に取っても、とても大切な時だと思われる。

 

 

 

泉脩「人との出会い特別編その3」

 

意見 泉 恵子

 泉脩さんが最初に上梓された1986年発行の『青春の飛翔』は大変な反響だった。当時の勤務校での二年間の教育実践を綴ったもので、荒れるクラスとがっぷり四つに組み、悪戦苦闘しながら次第にまとまってゆくまでの豊かな教育の記録である。

 そこにはたくさんの生徒たちが実名や仮名で登場している。卒業した生徒たちが、実名で出してもいいと言ったとのことで、泉先生への絶対の信頼を汲み取ることができる。そこに至るまでの泉先生の「やさしいことは強いこと」という全人格をかけた信念が貫かれている。

 そのころ私立高校教職員組合の委員長でもあった先生は、末端の一組合員の私には雲の上の存在だったのだが。

 当時、同じ市内の私立高校でクラス経営に苦労していた私は、この本に感銘を受けて、ご自宅に伺ってお話しさせていただいたものだった。そして、書いた拙い感想文が一〇年後の『青春の飛翔』第四刷発行の時に掲載していただいた。

 

 それから一〇年後は退職されて同じ年数を経ていたが、さらに『すべての生徒がドラマを持つ』を上梓された。この本の序文を書かれた「生活指導研究会」で活躍された田村宣征先生は、この本の中にある「どんな生徒でも二つの要求を持っている」「この要求とは『存在感』と『交わり』です」の言葉をひいて、この視点が実践の世界で展開しているという。そうした生徒の要求にどこまでも寄り添いながら、一人一人の特性を引き出してゆこうと奮闘する教師の姿もまたドラマである。

 担任した全生徒の家庭訪問をして、学級通信を日刊で出し、毎月学級父母懇談会を開くというのもなかなかできることではない。が、そうした実践があったからこそ、生徒と教師と親とで織りなす教育のドラマが面目躍如として来るのだろう。

 

 退職して四半世紀余り経っても、心に残る生徒をこのように生き生き描けるというのは、そうした土台があってのことでしょう。例えば「わるの三人組」の一人M君の結婚式の祝辞で「悪口言うことができて、いくらか清々した」等の率直な語りは全幅の信頼関係の証で しょう。

 フィクションの世界ではなくエッセイだから嘘は書けないわけで、自分は果たして何人書けるかなと思ってしまう。

 

意見2 松木 新

十話に登場する生徒たちが、すべて生き生きと躍動している姿に感心しました。泉さんの文章には、修飾語があまり見当たりません。起きた事実を淡々と記しているのですが、それだけで登場人物に生命が吹き込まれているのは、取り上げた事実が、その人物を象徴している事実だからだと思います。

一人の人物にかかわる事実は多岐にわたります。その中から、どの事実を選択すれば最適解かは、ひとえに作者の人間にたいする洞察力にかかってくるのですが、泉さんにはそれがとても優れているのだと実感させてくれるエッセイです。

 

意見3 豊村一矢

作品には、教師と生徒という立場の違いがあっても同じ人間同士という基本があるように思う。

小見出しを付けた十編の小編からなっているが、実に生き生きと人間が描かれている。私もタイガースフアンだから、出だしから引込まれた。

ただ、なぜか、読後、泉脩先生の目に留まらなかった生徒たちも大勢いたのではかと感じたのも事実だ。

私は小学校の教員だったから、教え子の結婚式に招かれるようなことは、まず、ない。受け持った子が年賀状くれたりするのは、中学校を卒業するころまでが大半。稀に、手のかかった子の親が進学や就職、結婚の際に手紙をくれたりすることはある。

 そういう意味で泉脩先生が羨ましい。

 

 意見4 石川節子

作品全体に愛情表現が満ち満ちていて、面倒見の良い先生の典型が、目に映ります。

しかし、学級が荒れて不良生徒の数が多くなると先生は不良生徒の手当に翻弄され、心身共に疲労困憊します。

そんなとき、「大人しい子」達に大きな難儀が降りかかっていても、先生は気がつかない。

「大人しい子」達は、いま、先生の大変な現状をよく理解していますから、決して先生の手は、わずらわせるまいと先生には持ち込まない。

こうして、先生は不良生徒の世話ばかりに明け暮れて、善良な多くの生徒たち面倒は、見ることができません。

しかし、生徒は良い子も、不良も等しく先生の注目を期待しているのです。

悪い子ばかりが先生を独占するのは、間違っています。

是は私が、高校生のころ、自分の担任の先生に対して感じたことでした。

勿論、泉先生はそんな事は無く、あまねく生徒に目を配られたことと信じています。

 

意見5  室崎和佳子

いつも思うことですが、泉さんは天性の楽天家ですね。

 まだ大人社会の汚れや錆を知らない少年のような、できたての茹で卵を剝いて手に取った時のふわふわつるつるの感覚に酔いしれているような人なんだなと改めて思いました。疑うことを知らない(疑いたくない)人だとも思います。

 疑問点があります。

 P246下段の 1行目~6行目「一九八〇年代前半は全国の高校・大学が大荒れしました。一九六〇~七〇年にかけての大学における過激派(全共闘)の暴走が降りてきたのです。中学生の校内暴力・家庭内暴力の洗礼を受けた生徒が高校に入ってきて、高校が危機的状況になりました。高校には退学があるので、ある程度防がれてきたのですが、抑えきれなくなりました。」という文章です。

過激派の暴走が降りてきた 洗礼を受けた生徒が高校に入ってきた 高校には退学があるので、ある程度防がれてきたのですが、抑えきれなくなりました 等々あまりにも表面的で、管理主義的な言葉の羅列にびっくりしました。本当に泉さんの言葉なんだろうか、と。暴走が降りてきた、とは何なのでしょう。大学の下が高校だから 降りてきた というのでしょうか? 退学させることで危機的状況を防いできたとすると、管理は存在しますが教育は存在しないのではないでしょうか。

 P246下段の8行目~9行目  私が二年から受け持った就職クラスは、吹き溜まりになってしまいました。 という文章で、「吹き溜まり」とは「脱落者などが自然に寄り集まる所(現代国語例解辞典 小学館)」とあります。この文章を読んだ生徒さんはどう感じるでしょうか。悲しい気持ちになるのではないでしょうか。

  

意見6 村松祝子

作者(泉さん)が高校の先生として接してきた心に残る生徒の思い出を、綴っている。

どの生徒も、青春の多感な時季を力いっぱい生きていた時間を作者と共有できたことは教師冥利につきると思います。

良い思い出を作って社会へ旅たっていった生徒の様子が良く理解できます。

だからこそ卒業しても結婚式に招待されたり、仲人もお願いされるのでしょう。それは作者の人柄と生き方を生徒たちが評価してくれていたのだと思います。

こ言う先生を持った生徒は幸せだったに違いないと思います。

ふっと父のことを思い出します。 私の父も戦前の一時期教師をしていましたが彼は良い教師だったのだろうかと‥‥。

良い教師にめぐり合うことはその人の一生のうちで見えない形で力になっていると思います。

作者の文章はどこから読んでもすぐその文章の中に滑り込まされます。それだけ読者にわかりやすく書かれていることは、通信を書いてきた宝なのでしょうか。

 

 意見7 北野あかり

十人の生徒さんに焦点を当てて描かれており「全ての生徒にドラマがある」ということがよく解りました。

特に手の付けられない生徒がモデルの「ワルの3人組」は、何とか卒業させたいと奮闘する教師と生徒、家族の様子が描かれています、卒業後はそれぞれ自立し、ペンキ職人、介護資格を取り精神科で勤務している。家族の言葉として「先生が諦めないのだから、親が諦めることはない」と寝込んでいるМ君の布団をはがしたそうであると紹介されている。このようなことは通常は気が付かないし、話してくれる人もいない。作者の素晴らしさに感動しました。そこ迄繋がれた原動力は何だったのでしょう。組合活動で培ったものもあったのではとも思いました。組合活動をしていたことで差別され、9年間の担任外しを受け、やっと1年生を受け持った時、すでに40歳を過ぎていた。そんな逆境を「学級通信」を週23回、書き続けた。その内容も難しい事や説教を書くと紙屑となる。事実を淡々と、生徒の関心あること、要求を取り上げ、コメントは最後に。など、情報化時代にふさわしいニュースの発行にとても参考になる作品でした。 

 

 意見8  柏原竜

テレビや映画などの学園ドラマの熱血教師は現実にはいないと思っていたが、この作品を読んでやはりいたのだと思った。自分の高校時代を振り返ってみると、クラスメートは思い出すが教師の姿はほとんど思い出さない。そしてあのころ何を考えて生きていたのだろう。自分の感心あることには手を出し口を出し飛んで歩いていたように思う。周りの事はほとんど考えなかった。自分は過去は振り返らないで前しか見ないで生きてきたが、年を取ったせいか昔をいろいろ思い出すようになった。

今の中学高校生を見ると、グチャグチャ、ガチャガチャ葛藤しているはずだと思うが、とても礼儀正しく優しいように見られる。自分達のころは、武骨で生意気で俺が俺がという生き方を模索していたように思われるが、どうだろう。

 

 

 

高橋篤子「スイウヌカラアンロ」

…また会いましょう…

 

 

意見1 泉 脩 

すでに評論を書いたが、また書いてみたい。二か月ぶりの例会で取り上げ、いろいろな意見が出された。私は数日前に再読して、あらためて高橋篤子さんの文章の上手さに感銘を受けた。

 あかりと千枝の再会の場面がとてもいい。自然描写も見事である。そして、三年前の胆振東部地震の描写もすごい。体験者だけに実感がこもっている。

 作者より五歳も年上の千枝が、森の中の一軒家で一人暮らしをし、地震で家を失い、避難所で過ごした後、また元の場所に小さな家を建てる。ガスも水道もない森の中である。この毅然とした生き方は、作者と共に私も胸を打たれた。

 人は生まれ育った場所、永く暮らした場所から、容易には離れられないのである。アイデンティティ(自己同一性)とでも言うべきことだろうか。

 私も三十三年前に自分で建てた今の家、特に自分の書斎からは離れることができない。東京から疎開してきてから四十年以上も経ち、やっと手に入れた自分の家である。

作者はこの千枝さんを充分には書ききってはいないと反省しているが、八十代半ばの人を数年の付き合いでは、充分に理解するのは無理だと思う。一つのスケッチと考えるべきではないだろうか。

 フキノトウのアイヌ語をめぐって詳しく書かれているが、これも興味深く、アイヌ民族を理解するための一歩だろう。

 手のケガで本人が出席できず、残念だった。

 

意見2 松木 新

〈バッキャ、バッカイ、抜海。どれもアイヌの言葉でフキノトウのこと〉という〈小さな発見〉の物語を、胆振東部地震に絡めて描いた手法には感心しました。

バッキャ味噌を作ったり、靴下を繕っている千枝さん像が具体的で、とても魅力的に描かれています。森の中での独り暮らしをもう少し加えたら、作品世界はもっと豊かになると思いました。

最後の「旧土人保護法」についての解説部分は、論議になると思います。この箇所を、小説として描き出すにはどうすれば良いのか、思案所だと思います。

解説の内容からいえば、「同化政策」は幕藩体制下で行われていたものであり、明治政府がそれを引き継いだだけではなく、アイヌを強制的に「日本人」に組み入れたことに、最大の問題点があることを明確にして欲しかったと思いました。

知里真志保の「分類アイヌ語辞典植物編」によると、樺太各地では、「フキノトウ」を「ぱカイ」と言っているとのことです。

1875年(明治8年)の「樺太千島交換条約」によって、その年の9月、樺太アイヌ841人が宗谷に移住しました。故郷の樺太を見通すことができるこの地に彼らは愛着を持ったといわれています。この地が今の抜海です。

私見ですが、移住したこの土地で翌年、春を迎えた樺太アイヌは、一斉に顔を出したフキノトウを目にし、この土地を「ぱカイ」と名付け、それに和人が「抜海」という字を当てたのではないでしょうか。

翌76年9月、道庁が樺太アイヌを対雁に強制移住をさせたときには、彼らは猛烈に抗議しました。それだけ、この「抜海」への愛着が強かったのだと思います。

 

意見3 石川節子

読み進むうちに、バッキャについての論究が展開されていて、私の目は、皿になりました。

その論究に私も参加させて戴きたいと願い、口をはさませてください。

私の場合は、親から得たものですが、「バッカイ」や「バッケイ」「バッケ」は、春先に一番早く芽吹くあおものを指し、フキノトウや、バイケイソウが一番、代表的なものでした。

バイケイソウはアルカロイドが強すぎて食用には向いて居ないのですが、毒消しや肥料として利用されていました。この百合科シュロソウ属のバイケイソウ(梅蕙草は)はカボチャを植える為に穴を掘ると、その穴の底に十本ほど入れるのです。

子どもの腕には十本も抱えると、目先が見えない程の量です。フキトウよりはるかに大きいのです。とても良い肥料でした。

私はその「バッカイ取り」が大好きでした。役にたつ手伝いをして大人になったような充実感がありました。

 

意見4  村松祝子

20018年9月6日の未明に起きた北海道胆振東部地震により被災したみさとは避難先の町民センターで畳一枚程度の大きさの段ボールと毛布にくるまって寝た。そのとき隣り居合わせで寝たのが千枝さんだった。

その千枝さんとの交流の物語かなと思ったが、蕗味噌造りの上手な千枝さんを通して蕗のとうがアイヌ語でバッキャとも言うことを追求していく。千枝さんのオオオバが土人と共に抹茶楽を楽しんでいたこと、この土人から蕗味噌の作り方を教わったのだとみさとに教えてくれた。

土人即ちアイヌ人を日本人は差別し虐げてきた。そのための悪法を次々次々と作ってきた過程をたどり今日の「国立アイヌ民族博物館」にたどり着く。

千枝さんの大地に根を張った生き方に80歳に入ったみさとは刺激を受けながら「また会いましょう」とアイヌ言葉を夕日に向かってつぶやいた。

エッセイふうに書かれた物語のように感じた。アイヌの言葉にこだわりながらそこに差別の問題もサラリと含ませながら綴っている。

アイヌのことを土人と言っていた北海道の歴史を私は知らなかった。やはりこの言葉を聞いた時は黒人を想像されて吃驚したのだが、だいぶ前の新聞記事で辺野古の基地阻止のために座っている人々に向かって金網のヘンスを挟んで向こう側にいる若い機動隊から「土人!」と呼ばれたという。この時の機動隊の出身地は大阪方面の機動隊だったと記事に書かれてあった。本州では蔑視用語にこの言葉を今も生きているのだろうかと、土人の言葉で考えさせられた。

震災当時の部屋の様子がリアルに描かれて現場にいるかのように想像できた。

作者の高橋篤子さんが出席されると期待していましたが、手首を骨折したとかで出席されませんでした。お大事にしてください

 

 

 

意見5 室崎和佳子

人里離れた山の中で愛犬リンタと二人で自給自足の生活をする八五歳の千枝さんが印象深い。

 

 人生の終わりを自分ひとりで幕引きできる覚悟がある人しかこういう生活はできないだろう。そう思うと、千枝さんの生活は途方もない価値がある。でも、千枝さんにとっては極めて自然なこと(祖父母や父母や自分が住んでいた家)だったのだろう。一人娘の子育てを終えた後は、自分の生きたいように生きてきただけだ、と千枝さんならこともなげに言い放つと思う。

 靴下の繕いのところで感じたこと。篤子さん(みさと)は繕わないで捨てていたんですか。私は「繕い派」です。親指が長いため(あたり前ですが)すぐ穴が空きます。それで、繕うしかないのです。 

 孫の淳も好感がもてます。祖母の千枝さんを慕って北海道(自然)が好きでこちらに来たのでしょう。千枝さんにとっても震災の時などどんなに心強かったことか。

 リンタ、千枝、淳が一体となって平和な自然の愛に満ちた生活を営んでいる。

 戦火の中では考えられないことです。

 ウクライナの人々を想い、悪い心しか持つことができないロシアの支配者を憎みます。

 

 意見6 豊村一矢

作者名や人名、地名などがふせられたこの作品を読んでも、すぐに高橋篤子の作品だと知るだろう。惜しみなく、高橋篤子の作品世界が展開され引込まれていく。

 スイウヌカラアンロ、「また会いましょう」は別れのことばであり、再会を期することばでもある。  

作品世界に引込まれると、さらに、その感を深くする。

 どんな再会になるのか。

 今年は雪が多かった。我が家の小さな裏庭の雪が解けきるのも遅かった。裏庭に最初に姿を現したのは自生していたバッキャ。妻が、さっそく、酢味噌和えの御浸しにしてくれた。

 今、裏庭ではカタクリが春風に揺れている。

 

 意見7 北野あかり

何度も読みたくなる話題が魅力的に描かれており、バッキャ味噌や冷たい煎茶も作品を参考に作って愛用するようになりました。作者や千枝さんにも会いに行きたくなる作品でした。

書き出しの場面は、みさとの老いを感じる身体の衰えと起床時の血痰であるが、よい医師との出会いもあったが、自然豊かな樹々の間を歩くことで、光に向って花開く生命力を感じ、生きる力を得たのです。それが「ありがとう」と「等身大の自分が…」という言葉で、生まれ変わった自分を表現しているのだと思いました。地震の場面は自分がその場に居合わせたように描いており、そこで出会った千枝さんの素朴な人物を会ってみたくなるように、魅力的に描いています。どうしたらそのように描けるようになるのかが、今後の私の課題だと思いました。

タイトルの「スイウヌカラアンコ …また会いましょう…」は、フキノトウ味噌からバッキャ、アイヌの言葉へと、疑問を追いかけ、新たな発見をしていく…そんな作者の生き方が反映している「今」の言葉なのではないか…と思いました。コロナ禍の中で人との繋がりが希薄となって会いたい人にも会えない。そんな時代だからこそ「また会いましょう」の言葉が心に響きました。

 

 意見8 柏原竜

地震の凄まじさを感じさせられた。新聞やテレビの報道では解っていたつもりだが、実際に被災した人の体験の作品から恐ろしさがじわじわと伝わってきた。ほんのちょっとの事で生死を分ける。きつい事である。地震の揺れがほとんどない旭川に住んでいるが、怖さがよく解った。

アイヌについての作品をずっと読ませてもらっていました。北海道に住むまでアイヌの問題がこれほど深刻だとは知らなかった。歌や踊り、木彫りの熊やメノコなどから、穏やかなメルヘンの世界のように思っていた。北海度の開拓で和人がアイヌを追い詰めていったことをだんだん知って、弱肉強食そのものだったことを知った。強い者は弱い者を支配し、アイヌは虐げられ、悔しさからどれだけ歯ぎしりしたことだろう。今でも地球上で弱い者を征服しようとしている。ウクライナを攻撃しているロシアのプーチンのように。弱い者を潰そうとするのは動物の本能なのだろうか。もうそろそろ共存共栄の世界になってほしい。

日本は単一民族だという人もいる。しかし、この頃外国ルーツの人が増えて活躍しているのをみるとうれしい。たくさんの人と交流してほしい。

 

 

 

続 三月例会誌上合評 

 

発言者 柏原竜

 

「凍てつく朝に」について

最初の初夜の場面で仰天。しかし、痛快だ。たくましい女の姿は、自分も女のせいか読んでいて嬉しい。男は敵ではないが。戦後すぐの愛子の生きていた時代は、まだまだ古い時代で女の方から離婚を宣言するなんて考えられない時代だったと思う。経済的にも精神的にも女は自立できなく、ずるずると結婚生活を続けさせられた時代だと思うが愛子はまったく違った。

 「愛子のしっかりさも頑固さも、自分は間違っていないという自信と潔癖すぎるほどの正義感からきている」 

これは凄いことだ。地域や親せきなど何の引っ掛かりもない北海道の開拓地であるからこそ、更に子供の時から、家族のために必死で働いてきたから体力も知恵もついて、生き方に自信も付いたのだと思う。  

今、ジェンダーが様々な所で問われているが愛子の決断は時代の先取りをしているようだ。男と女が対等平等に生きていくには、まだまだ時間がかかりそうだ。まず社会的な格差をなくして。男女同一賃金、家事育児の分担、意識して女性の地位向上を考える。そうしたら離婚が増えるかもしれない・

 

「ホームタウン」について

作者は故郷イトムカに関する作品をずっと書き続けているが、その深い思いに敬服します。 

 60年程前に一クラスで9年間過ごした仲間とのクラス会が層雲峡で開かれるので、その前に何人かの友人達で、故郷イトムカに行った。イトムカ水銀鉱山が閉鎖されて45年。

企業城下町なので会社が無くなると町全体が共に消滅した。山や川は変貌しながら残っているが。今はリサイクル会社が稼働している。設備や技術を引き継ぎ産業廃棄物の再資源化をしている。あの当時水俣病など水銀汚染の問題が社会的に大きな問題になっていた頃で、会社にお世話になっているという思いもあって心を痛めながら複雑な気持ちだった。 

 クラス会のメンバーの洋子がイトムカに慰霊碑を建てたいという運動をしていた。戦時中にイトムカに強制連行されて働かされ命を落とした朝鮮人や中国人の追悼のための慰霊碑を建てたい。歴史にきちんと向き合ってほしい。国策だったからしかたないと、あいまいにしないで皆に知ってほしい。過去を蒸し返さないでそっとしておけばいいと言う考えもあるが、戦時中日本人が朝鮮人や中国人に対して行ったことは誠実に対応しなければならない。何年たっても虐げられた事は忘れない。今、虐めの問題が騒がれているが、虐めた方は忘れても虐められた方は忘れないものだ。 

 

「日の丸」について

学校の先生方とりわけ校長先生は、卒業式は大変だった。作者は20年程前の事を第三者的な視線で書いていますが、相当ピリピリしていたのが解ります。 

 国は「君が代」、「日の丸」を国民の間に定着させる為に必死に推し進めていたので対応する学校側は大変でしたでしょう。

「君が代」の歌詞は今の日本には合わない。歌の内容が憲法の精神から外れている。天皇の世の幸あれだけで、国民一人1人の人権が尊重されてない。また、天皇一族は税金で養われているからといって、憲法で保障されている人権がないがしろにされているように思われる。先頃の秋篠宮家の結婚報道は個人のプライバシーもなにもない。人権が守られてないように思えた。かわいそうだ

 また、日本人の中で君が代を歌えない人が多いのではないか。自分も60年近く歌ったことがない。心に響く歌でもなく暗い感じだ。あまり聞きたくはない。時代にあった国歌を作ったらいい。 

 日の丸は中国や朝鮮の人々にはどう見えているのか。日の丸を掲げて戦争を推し進めて行ったのだから。今、ウクライナがロシアに侵略されているが、人々が逃げ惑う姿は戦前の日本がした事に重なって見えて怖い。そして、日の丸の赤い色は血を連想させられる。日本人は桜の花が好きだから桜色にしたらいい。今、祝日に日の丸を掲げる家はあるのだろうか。オリンピックで見るくらいである。

 自国の国旗国歌が嫌な人、無関心な人が沢山いる国は世界広いといえども少ないのではないか。

 先生たちも大変だ。上からの命令で逆らえず思想信条の自由がない。これからどうなるのだろう

 

 

 

 

4月例会で合評を受けて

泉 脩

 私のつたない文章をよく読んでいただき、また過分な評価をしていただき、ありがとうございます。

「形容詞をほとんど使っていない」という発言がありましたが、その通りです。私は人物を書く時、その人の特徴的な言動を思い出して書きます。余計な修飾語を使わないのです。

「人生のまとめをしている」といった意味の発言もありました。やはり私は教師であり、自分が受け持った生徒たちの成長が一番大切なことだと考えています。そして特に、印象深い生徒たちを書くことで、自分の人生を評価し、まとめたのだと思います。多くの失敗もあり、その点ではダメ教師でした。

 自分が高校生の時、二つの大きな疑問にとり付かれました。

「人間とは何か?」

「日本はどうして愚かな戦争をしたのか?」

これが、文学と歴史に打ち込むようになった理由です。

 どちらも専門家・学者にはなれませんでした。二兎を追ったためです。更に「正しい生き方とは何か」という疑問も湧き、組合運動にまで加わって三兎を追い、とても苦しい体験をしましたが、充実した人生になったような気がします。

 教職は生活の糧を得るためですが、結果的には生きがいになりました。文学・歴史・組合運動で得たものをフル動員したのです。そして失敗も多かったのは、私の人間的欠陥と、不勉強の結果です。

 それでも生徒たちのおかげで、私も少しはマシな人間になれました。感謝するのみです。

「続、心に残る生徒たち」も書いたので、次の同人誌に載せるつもりです。担任ではなかった生徒の思い出です。

 

 

4月例会で合評を受けて

            北野あかり

新型コロナ感染症の蔓延は、親しい人のお見舞いや愛する人の看取りの機会をも奪いました。病院という所は、入院や、そこで死を迎えなければならないことは避けられない所です。

この時期に、私の身近に起きた事例から、患者さんが家族や親しい人と、心通わせる感染対策がないか…ということを見直し、具体的に提示していくことが重要ではないかとの思いを、この作品に込めました。

作者から「ゴクラク…ゴクラク…というタイトルは良かったのか?」と問題提起しました。

 タイトルを「ゴクラク…ゴクラク」としたことについて、私は、やはり家族に看取られて…というのが理想。しかし、現実はそうではない。災害、事故、自宅での孤独死、病院での孤独死、それに加えて戦死もある。そのような中で自分の生き方を貫き、最後に病院の緩和ケア病棟に入院して、死の前日に入浴させて貰い「ゴクラク…ゴクラク」と、家族に言って亡くなった義姉。それが私の願いでもあり、それをタイトルとしました。また、タイトルは、その作品の顔でもあり、思わず読みたくなるものでありたいと思っています。タイトルについては「面白い、深刻なのにこのタイトル」と、意見はお一人からでしたが、登場人物が読み手を混乱させている、語り手から見た関係とすると良いとアドバイスを頂きました。他に、人の生き方を教えられたとの意見や、ご自分の遺言書の内容を紹介されるなど、文書発表にはない対話ができた合評会となり、とても良かったです。

 

 

 

                                   投稿欄

 

 

お悔やみ欄を見る

後藤守彦

 

朝食後、新聞を広げお悔やみ欄に必ず目を通す。次は、今年二月のある日の『北海道新聞』に載った、石狩地方のお悔やみ欄の概要である。数字は死亡年齢で、性別は名前から判断した。

 

千歳市、七二、男性、喪主妻

  千歳市、七九、男性、喪主妻

  恵庭市、六七、男性、喪主妹

  北広島市、七五、女性、喪主長男

  北広島市、七四、男性、喪主妻

  石狩市、七八、男性、喪主妻

 

ショックを受けた。何しろ、六人中四人が私より年下なのである。葬儀終了と記されていたのが二件。最近はこれが少なくなく、なかには葬儀なしで遺体を火葬場に運ぶ直葬もあるだろう。一〇〇歳を越えた死の横に、一歳の死があったこともある。亡くなったのが子どもで、喪主が親ということもあった。しかし、お悔やみ欄から知ることができる情報は限られている。亡くなった人の年齢、亡くなった人と喪主の名前、葬儀の予定だけである。死因は何か、その人の死を遺族はどう受けとめたのか、それは不明である。ましてや亡くなった人の人生の細部は知りようがない。

私がお悔やみ欄にこだわるのには理由がある。子どもが同居していなければ、喪主である夫または妻が、配偶者の死後ひとり暮らしになる可能性があるからである。民生委員になって九年目になるが、安否確認のためひとり暮らしの高齢者宅を訪問している。この活動を最も大切にしているので、どの世帯がひとり暮らしであるかを洩れなく把握しておかなければならない。担当地域にある二つの町内会の会長から情報を得たりもするが、お悔やみ欄でのチェックも欠かせない。札幌市では、民生委員が七〇歳以上の一人暮らしの家を毎月訪問するのを原則としている。一方、私の住む北広島市ではそうした措置はなされていない。民生委員がひとり暮らしの家を訪問しなければいけないという制度上の全国的な決まりが、特にあるわけではないのである。

 高齢者に目を向けている私自身も高齢者である。朝、目覚めた時、今日も命を与えられたと心から感謝する。今まで生きた時間よりも、残された時間ははるかに少ない。一時一時を大切に編んで行かなければならない、と自分に言い聞かせている。

 最近逝った人が生と死について綴った本を、薦められて読んだ。我家の書棚の、山と花の本を集めた、小さなコーナーには、『礼文 花の島を歩く』(北海道新聞社、二〇一二年)などの杣田美野里と夫宮本誠一郎の共著四冊がおさまっている。彼女は東京出身で礼文島に移住し、礼文や宗谷の花と自然を撮り続けた。残念ながら、昨年一〇月亡くなっている。享年六六歳。肺癌になり余命宣告を受けたが、花の写真を添えて闘病記を書いた。それが妻が薦めた『キャンサーギフトー礼文の花降る丘へ』(北海道新聞社、二〇二一年)で、亡くなる二か月前に上梓されている。キャンサーギフトとは、何なのだろうか。彼女に訊いてみよう。

 

   がん患者であることは、けっして幸せなことではありません。でも、命の期限を知り、いろいろなことを諦めたその後で、当たり前と感じていたものが輝きを増すことがあるの  だと思います。

 

 癌になったからこそ受け取れるキャンサーギフトが教えてくれること、それは日々の何気ない営みを大事にして生きていくことだろう。

『北広島九条の会の事務局員に最近なった人が貸してくれた本がある。カフカの翻訳・研究で知られるドイツ文学者の池内紀が、私の現在の年齢で書いた『すごいトシヨリBOOKートシをとると楽しみがふえる』(毎日新聞出版、二〇一七年)である。共感した結びの一節を引用する。

 

   法的なことは別にして、自分で自分の人生はここで、もう、けりをつけるという、そういう終え方があってもいいんじゃないかと思います。これまでずっと、どんな生へ向って、どんなふうに生きるかという選択をしてきた。最後はどんな死へ、どんな死に方をするのかという選択があっていい。僕は、風のようにいなくなるといいな。

 

 池内は、二〇一九年に七九歳で亡くなった。「風のようにいなくなる」、その通りになったかどうかはわからないが、私はそうなりたいと願う。

 

 

 

ホテルウクライナ

後藤守彦

 

二月二四日、ロシアがウクライナに侵攻した。ロシアの侵略に抗議する宣伝活動に参加し、支援の募金に協力したりはしている。しかし、今この時も命の危険にさらされ、逃げ惑う人びとがいるのに、何もできないまま安穏に暮らしているのではないか、と自分を責める気持になってしまう。

戦っているロシアとウクライナは、祖国をともにしている。それが、九世紀から一三世紀にかけて存在したキエフ・ルーシである。だから、ロシア語とウクライナ語は近接した言語となっている。東ヨーロッパ史の研究者の早坂真理は、ウクライナ旅行記の中で、「われわれの意識では、ロシア人もウクライナ人も区別しにくい」と述べている(『ウクライナー歴史の復元を旅する』リブロポート、一九九四年)。キエフ・ルーシはモンゴルによって滅ぼされ、二五〇年にわたる「タタールの軛」といわれるモンゴルの支配が続く。それを断った後、ウクライナはロシアに支配されるのだが、ポーランドに治められた時期もあった。一九一七年のロシア革命後、一九二二年に結成されたソ連邦の一共和国となっていたが、一九九一年のソ連邦の解体により独立する。ウクライナの面積は約六〇万平方キロで、世界一大きいロシアの三〇分の一ほどしかないが、ヨーロッパは小さい国が多いので、五四か国中三位である。人口は、二割を占めるロシア人を含めて約四〇〇〇万。

一九八一年の一二月二九日から翌年の一月五日まで、冬の芸術祭というツアーに参加し、モスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を訪れた。通年観光をもくろむソ連政府観光局が、日中の美術館などの見学後、連夜にわたるバレエ・オペラ鑑賞をセットし、外国人観光客を呼び込んでいた。ボリショイ劇場で観たハチャトゥリアン作曲のバレエ「スパルタクス」の、私のバレエ観を一変させたダイナミックな踊りは今も忘れられない。

三泊し年越しもした、モスクワの宿泊先はホテルウクライナであった。クレムリンの西の、モスクワ川に面する位置にあった。蒼空に翼を広げて勢いよく飛び立とうとする鳥のような高層建築物である。およそ三層になった二九階建てで、中央には尖塔が屹立していた。ロシア人のガイドは、スターリンがニューヨークの摩天楼に対抗して造らせたといわれている、と説明していた。車窓から見た、当時世界で最多の外国人留学生を受け入れていたモスクワ大学も、同じスターリン・ゴシック様式であった。冬に家族の期待を一身に集めて私が作るボルシチを初めて口にしたのは、ホテルウクライナの三つあるレストランの一つでであった。ボルシチはウクライナの伝統的な煮込みスープで、食材のビーツが鮮やかなピンクの色を出す。

四〇年以上保管してきた、ホテルで貰ったパンフレットには、ロシア語とならんで英語でAt the main entrance to the hotel there is a garden with a monument to the great Ukrainian poet Taras Shevchenkoと記されている。ホテルの正面入り口の雪で覆われていた庭に、「近代ウクライナ文学の祖」といわれている詩人タラス・シェフチェンコの銅像がたっていた。撤去されてはいないと思うのだが。

シェフチェンコは、一八一四年、帝政ロシアの支配下にあったウクライナの、家畜のように売買される農奴の家に生まれた。絵を描くのが好きで、画才を認めた人びとの尽力で、一八三八年、二四歳の時に農奴身分から解放される。この年、ペテルブルグ美術大学に入学し、絵を学ぶかたわら詩作に取り組むようになる。彼は優れた画家でもあった。大学卒業後、彼は絵筆とペンの力で、農奴制と専制政治と闘う道を選ぶ。立身出世や金儲けは、彼の望むところではなかった。彼と同時代の作家のゴーゴリもウクライナ出身だったが、名作『外套』『鼻』などの小説を支配者の言語であるロシア語で書いている。一方、シェフチェンコは母国語のウクライナ語で、ウクライナの農民の言葉とリズムを生かし詩を書いた。彼はウクライナの秘密政治結社のメンバーと親交があったとの理由で逮捕され、九年間流刑となり、皇帝ニコライ一世の勅命により、詩も絵もかくことを禁じられる。しかし、密かに彼はかき続けた。彼は決して屈しない。

生誕一七五周年を記念して一九八八年に『シェフチェンコ詩集』(れんが書房新社)が出版された。叙事詩「ガイダマキ」は、訳書でいうと、一八行からなるページの数が一五三だから、トータルで二五〇〇行を越える大長編である。ガイダマキとは、一七・一八世紀に蜂起したウクライナ・コサックのこと。「遺言」というタイトルがついた詩を、現在のウクライナに思いをはせながら引用したいと思う。彼は一八六一年に四七歳で亡くなっているが、死期が迫った頃ではなく、逮捕を覚悟した、死の一六年前にこの詩を書いている。三連からなるが、第二連は省略する。

 

  私が死んだら

  なつかしい ウクライナの

  ひろい丘の上に

  埋めてくれ

  かぎりない畑と ドニエプルと

  けわしい岸辺が みられるように

  しずまらぬ流れが 聞けるように

 

  私を埋めたら

  くさりを切って 立ち上がれ

  暴虐な 敵の血潮とひきかえに

  ウクライナの自由を

  かちとってくれ

  そしてわたしを 偉大な 自由な

  あたらしい家族の ひとりとして

  忘れないでくれ

  やさしい ことばをかけてくれ

 

 三月九日のシェフチェンコの生誕日には、ウクライナ西部のリビウに市民が集まり、彼の詩を朗読して、ロシアへの徹底抗戦を誓ったそうである(『北海道新聞』二〇二二年三月二二日号)

 ウクライナで一九三二~一九三三年にあったウクライナ大飢饉、ウクライナ語でホロドモルと呼ばれる飢餓殺人を初めて知ったのは、恥ずかしいことに悲劇発生後八〇年以上も経ってからである。北広島九条の会の会員である元道新記者から勧められて読んだ、イェール大学教授のティモシー・スナイダーの『ブラッドランド』(筑摩書房、二〇一五年)が教えてくれた。ブラッドランド、流血地帯は、ポーランド・ウクライナ・ベラルーシ・バルト三国・ロシア西部をさす。二人の独裁者、ヒトラーとスターリンによって、第二次世界大戦が終わるまでの一二年間に一四〇〇万人が殺戮されたのだが、その中には、スターリンによって餓死させられたウクライナ人、スナイダーが「私の見積もりは控えめ」としてあげる三三〇万人が含まれている。穀倉地帯なのに農業集団化政策と穀物徴発により、人肉食に追い込まれるまで飢えて死んだのである。スタンフォード大学教授のノーマン・M・ネイマークは、スターリンによる大量殺人をジェノサイドと定義すべきと主張している(『スターリンのジェノサイド』みすず書房、二〇一二年)。一九四八年、国連総会でジェノサイド条約、正式には「集団殺害罪の防止及び処罰に関する条約」が採択された。条約では、特定の国民・民族・人種・宗教上の集団を迫害・殺害する行為は、国際犯罪であり処罰の対象となるとしている。二〇〇六年、ウクライナ政府は、ウクライナでの飢餓殺人をジェノサイドと認定している。

 最後に、ロシアはウクライナから撤退せよ、と呼号して筆を擱く。

 

 

『戦争と平和』とキエフ

                松木 新

キエフに関わる小説の一つに、トルストイの『戦争と平和』(望月哲男訳)があります。有島農場の解放が、トルストイの影響によるものであることは良く知られていますが、『戦争と平和』のなかで、トルストイが農奴解放を試みている土地がキエフです。

主人公のひとりであるピエールが、一八〇七年の春、フリーメイソンに入会後まもなく、彼の所有する農民の大半がいるキエフ県へ向かいます。フリーメイソンに入ったことで、ピエールは〈自分がかつてのペテルブルグ時代の自分ではなく、まったく別の、より善きピエールになったのだ〉と自覚し、〈善行の喜びこそ、人生で唯一確かな幸福だ〉と確信して、農奴解放を考えたのです。

彼はすべての領地管理人を本部事務所に呼び集めて、次のような計画を指示します。

 

〈農民を農奴身分から完全に解放する措置が即刻とられるべきこと、そしてそれまでの間、農民に過重労働を課してはならぬこと、女と子供は労役を免除されること、農民に支援が提供されるべきこと、処罰は体罰ではなく訓戒をもってなされるべきこと、各領地に病院、養護施設および学校が設置されるべきこと、であった〉

 

しかしピエールは、総管理人に手玉に取られてしまいます。

 

〈きわめて愚かでありながら抜け目のない総管理人は、賢くても純朴な伯爵殿のことをすっかり見抜いてしまい、おもちゃのように手玉に取ったあげく、手配した一連の歓迎行事がピエールに効果を発揮したのを見て取ると、以前よりもきっぱりとした態度で、農奴解放は無理であるどころか不要であるということを様々な根拠をあげて主張した。農民は解放などされなくても全く幸せだと説いたのである〉

 

総管理人の意見を聞いたピエールは〈気がひけながらも、自分が正しいと思うところを主張〉し、総管理人は〈ご意志を実現するために全力を尽くします〉と約束しますが、ピエールの計画は、抜け目のない総管理人にあっさりと覆されてしまうのでした。

総管理人は、ピエールには物事がどのように進行しているのかを〈確かめる力がない〉だけでなく、農民たちの状態についても、〈おそらく決して尋ねもしなければ察しもしないだろう〉ということが分かっていたからでした。

 

トルストイが戦争を、〈人類の理性に、そして人類の全本性に反する出来事〉と認識していることは、参考になります。

一八一二年〈六月十二日、西ヨーロッパの軍がロシア国境を越え、戦争が始まった。つまり人類の理性に、そして人類の全本性に反する出来事が起こったのだ。何百万もの人々が互いに無数の悪行を、欺瞞を、裏切りを、窃盗を、贋金の製造発行を、強奪を、放火を、殺人を働いた。それは世界中の裁判記録が何世紀かけても収集しきれないほどの規模に上るが、当時本人たちには、犯罪を行っているという意識はなかったのである〉

 

 

 

 

 

 

 

「折りたたみ北京」が面白い

               松木 新

 

「しんぶん赤旗」(1月25日付)で、「折りたたみ北京」を知りました。北京で二人のオミクロン感染者が発見されました。公表された二人の行動履歴は、格差と分断が横行する中国の現実を明らかにしました。「『折りたたみ北京』とそっくりだ」と指摘する指摘が、SNS上で噴出したとのことです。

郝景方「折りたたみ北京」(ケン・リュウ編『折りたたみ北京』所収 2019年10月 ハヤカワ文庫)は、2014年~2015年に発表された中国のSF小説で、50年後の北京を描いています。

折りたたみ式の街である北京の人口は一億人。街は三つのスペースに分かれています。

地面の表面が第一スペースで、人口は五百万人。彼らに割り当てられた時間は、午前六時から翌朝の六時まで。その後、第一スペースの人々は眠りにつきます。建物は地面に折りたたまれて平らになり、地面が回転します。

地面の裏面が、第二スペースと第三スペースです。第二スペースの人口は二千五百万人。割り当てられた時間は、二日目の午前六時から午後十時まで。第三スペースには、五千万人が暮らしていて、割り当てられた時間は、午後十時から午前六時まで。そして、地面は第一スペースに戻ります。各スペース間の移動は禁止されており、破ると厳罰に処せられます。

各スペースの給料を比較して見ました。

第一スペースの女性は、銀行の頭取付き補佐を半日務め、給料は一週間で十万元(現在は1元=約18円ですから、週給18万円。ただし、50年後の世界の話ですからどのくらいかは不明です)。

第二スペースの大学院生は、財政顧問サービスの会社でインターンをやっており、月給十万元。

第三スペースに住む主人公の老刀は四十八歳。第一スペースと第二スペースから出る生活ごみを 分別し、焼却炉へ投げ込む、ごみ処理施設の従業員で、午後十時から午前午前四時まで働き、月給は一万元です。

食事の模様の比較です。

第一スペースでは、レストランに入るとロボットが食事の世話一切をおこないます。宴会では、二人分で三万元か四万元の食事が提供されます。第二スペースでは、壁のパネルのボタンを押すと、料理が自動的に出てきます。第三スペースでは、午前五時頃に仕事を終えた人々で通りは埋め尽くされ、男も女も露店に群がり、食事客は、屋台のテーブルにぎゅうぎゅう詰めになっています。

交通事情の比較です。

第一スペースの交通手段は、自動運転のカートや車です。第二スペースの道路は、第三スペースの倍の広さですが、車は混雑しています。第三スペースでは乗り物はありません。

物語は、第三スペースの老刀が、第二スペースの大学院生から依頼されて、第一スペースの女性に贈り物を届け、莫大な報酬を受け取ると言う話です。第二スペースの大学院生は、第三スペースの人間に依頼する手段として、ガラス瓶に手紙を入れて、ダストシュートに投げ入れという方法をとります。どこか、『稲の旋律』に似ているようで、笑ってしまいました。

SNS上で、格差社会中国を象徴する小説と言われていることを実感できる作品です。

 

 

 

 

 

 

 

 

旭爪あかね「風車の見える丘」

夢を追う五人の若者

泉 脩

 

 旭爪あかね(一九六六~二〇二〇)の代表作「稲の旋律」の続篇。

一九九〇年代の終わり頃、東京の私立日本農業大学に入学した五人の若者(男三名・女二名)が、最初の授業で近い席に座り、そのままグループになる。五人は授業で助け合い、遊びでも付き合い、卒業まで親密に過ごす。

二年の春、漆原(うるしばら)(やすし)の運転する車で房総半島にドライブし、丘の上にそびえる風車を見つける。デンマーク製の三枚羽の風力発電機で、全員その美しさに心を奪われる。日本ではまだ珍しく、原子力発電所が乱立する中で、安全な発電所として注目されるようになっていく。

五人は「風力発電研究会」を作り、大学構内にも風車を建てようとするが、うまくいかない。それでも三年の学園祭では、風力発電の研究発表の展示をして注目され、一年生の加入者も出る。

そして卒業を迎えて、五人はカフェ「セルバンテス」でお別れ会を開き、今後も友情を保持し、困難な時は打ち明けて、お互い助け合おう―と固い誓いを立てる。

小林(あらた)は、共栄コンサルタントという会社の研究員になり、会社が作る新しい土壌の効力を計る実験をする。ところが良い結果が出ず、他社の作る土壌より劣ることが明らかになった。しかし会社は、実験結果のごまかしを新に強制した。すっかり嫌気がさした新は、退社してしまう。

新と恋仲の篠崎ゆかりは、千葉県の生活改善委員になり、農村女性の地位向上の仕事に打ち込む。同じ千葉県で働く新とは、定期的に電話で話し合い、時にはデートをする。しかし生き生きと働くゆかりに対して、新は自分の悩みを打ち明けることができず、二人はしっくりいかなくなる。

ゆかりは家の中心になって農業に打ち込む二年先輩に再会し、かつての憧れが再燃する。しかし彼には心の病いに苦しむ妻がいて、うまくいかない。しかも二人の仲が諷になり、苦しい立場になる。

退職し失恋した新は、岡村農園でアルバイトを始め、農業に関心が深まり、ついには土地を借りて野菜作りを始める。この中で近くの農民広瀬晋平と近づきになる。彼は「稲の旋律」の主人公であり、女主人公の薮崎千華と文通をし、農業を手伝ってもらうまでになっていた。そして新も脱サラした農業青年として登場していた。

この新がこの作品では主人公になるのである。彼は容易には黒字経営にならず、岡村農園でのアルバイトもして、やっとの生活だった。

この新を在学中から片思いしていた大沢榛名(はるな)は、出版社に勤めたがうまくいかず、次々と勤めを変え、編集プロダクションのライターとして一息ついた。そして日本の農業・酪農の在り方への関心を深めていった。

また大きな農家の長男漆原靖は、農家を継ぐ気が無く大学も卒業せずに、トラック運転手になる。しかし過労から追突事後を起し、刑務所に入れられる。

もう一人、長谷川拓郎は高校教師を目指すが、資格試験に五回も不合格になり、うつ病になる。

卒業五年後、靖以外の四人がカフェ「セルバンテス」に集まり、刑務中の靖のために、テープに各人の近況を吹き込む。この中で四人は次々と真実を語り、自分のライバル意識、ねたみ、不実を反省する。そして、それぞれの再出発を誓うのである。

全編を通じて、理想を求め、挫折を繰り返す若者の苦しみが、生々しくリアルに書かれている。そして友情を再構築し、再出発するのである。

この作品を読む中で、私は六〇年~七〇年前の、自分の苦しい青春時代をまざまざと思い出した。そしてバブル崩壊後の長い不況と、自己責任と市場万能の新自由主義時代の若者たちの耐えがたい苦しみが、理解できるような気がした。

この作品の初版は二〇〇四年であり、就職氷河期の最中である。しかも東海村原子炉事故の直後であり、やがて福島第一原発の大事件を迎える。そのはざまに、五人の若者が風力発電に心を惹かれ、「風力発電研究会」を作るとは、作者である旭爪さんのなんという先見の明であろう。

「世界の色をつかまえに」で、「ひきこもり」について書き、やがて世界でも希な「ひきこもり百万人時代」を迎えるのである。まさに、すぐれた作家は時代の予言者なのである。さらにもう一つ。この作品も前作と同様に、農業について実に克明に書いている。これもすばらしい。

「稲の旋律」で、作者の分身として登場した千華がこの作品でも途中から現れ、新と結ばれるのだが、「自分の夢を持ちたい」と、新と暮らすことを断わる。今後この二人の関係がどうなるのか、次の作品「月光浴」が楽しみである。

ハッピーエンドになればよいのだが。他の若者たちも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連続エッセイ3

耳聡い少年がイメージした「戦中、戦後」の風景 

                豊村 一矢

 

 第三話 豚の失踪

 第二話と同じ頃。つまり昭和二十二年、私が五歳のころ、父と母が、ひそひそと、家で飼っている鶏と豚の話をしていて、急に父が、顔を挙げ、

「ジジがおいでって。イチゴ、上げるって」

 と、言った。

楽しみにしていると、祖父が馬車で迎えに来て一里半ほど離れたイチゴ畑につれて行ってくれた。

次の日、また馬車に揺られて家に帰りると、豚小屋に豚のいないことに気づいた。訝る私に父は豚に逃げられたと言った。さらに何日か経って、あたらしく子豚が小屋に入っているに気づいた。私は子豚とすぐに仲良くなった。

 さらに何年か経って、少し離れた田舎道を歩いていると、豚のただならぬ鳴き声が響いてきた。何とも恐ろしげな声で私は震えがとまらない。

あのとき豚は逃げたのでなく潰(つぶ)されたのだと知った。しかも、父や母、近所の大人達の手によって。

七十歳代後半になって、農家出身(現札幌市美しが丘付近の農家)のゴルフ仲間に話すと、

「家で豚を飼って自分たちで潰して食するなんて当たり前のことだったよ」と笑った。

「どうやって、潰すんだ? ギャーギャー鳴いてるんだぜ」

「手足を縛って押さえつけ、首の動脈を切るのさ」

 

 私は妙に納得してしまった。

札幌民主文学通信

 

二〇二二年〇月〇一日 280号

 

 

 

三月例会誌上合評

 

合評作品

(札幌民主文学会支部誌『奔流』28号)

 

 

 室崎和佳子「凍てつく朝に」

 

意見1 北野あかり

かつて日本は、面識のない人同士が勧められるまま結婚することが当たり前でしたが、今は「結婚は両性の合意に基づく」となっています。しかし、いまだに性被害に苦しんでいることがクローズアップされています。この作品は「合意なき性行為は暴力」ということに焦点を当て、その被害者の実態とその変革のために生きた女性を描いています。女性の地位向上を目指す時代にふさわしい作品だと思いました。

主人公の愛子は古いしきたりを当たり前のこととして結婚したのだが、結婚初日に受けた新郎の行為、身をもって受けた屈辱!人間としての尊厳をも傷つけられたのだった。許せないこのことは、女性が人間として尊厳されなければならないということに目覚めるきっかけとなった。

愛子は、子供と自立して生きることを決意し、その決行の時期を定めて着々と準備する。夫とは徹底的に対決、家事万端を手抜かりなく行い嫁としての存在感を示して家族を味方にしていく。自立しようと行動する人間としての責任を感じさせられました。冒頭の、道東根室湾の凍てつく海岸の情景は、主人公の愛子がそこに立っているかのようであり、荒波に立ち向かう旅立ちを示唆していると思いました。その厳しい描写が見事だと思いました。

変わるきっかけは誰にでもあることと思いますが、人間が堕落していく要因についても・苦労しないで手に入れたお金・快楽の体験・孤独などがあるということも作品を通して再認識しました。

ただ一つ気になるのは、どのような言葉で表現するかということです、頁120下段10行目~23行目は無い方が作品としての価値が高まったと思うからです。

 

意見2 後藤守彦

作者は、骨太の筆致で主人公愛子の生き方を浮かび上がらせています。私の祖父母の婚姻は大正時代のことですが、祖母は「結婚するまでおじいさんの顔を知らなかった」と幼い私に語っていました。愛子の結婚も、戦後初期とはいえ、それに近いものであったでしょう。初夜と翌日の夜の描写は強烈でした。いずれにしても、愛子は自立した個であろうとしました。それは生得のものであったかもしれませんが、自分の働きによって「一家を支えた」との自負が産んだものともいえます。愛子の生き方を象徴するような、「凛としてすっくり立っている」蝦夷松を描いた一節は鮮やかです。

作品は夫昭一への嫌悪で溢れていますが、昭一像を膨らませてほしかったと思います。二人の間に生まれた子について、どう考えていたのか、など。また、嫌った昭一の子を産むことにした愛子の葛藤をもう少し丁寧に描いてもらいたかったと思います。

愛子のその後について書いてほしいと期待しています。

 

 意見3 泉 恵子     

 道東の地名(根室、別海村)や、結婚した年月、子どもを産んだ日にちが明記されていることで、モデルのある話しと推測される。

 主人公愛子は、親の一存で、相手とは初夜の床で初めて顔を合わせるという理不尽な結婚をた。そうしたことが、明治憲法下での民法のもとでは珍しくなかったが、戦後もまだ尾を引いていたことに驚く(現在もまだ旧民法は残存するが)。

 それでも互いの努力で上手くいく場合も少なくなかったと思われるが、愛子の場合、相手の昭一はあまりに非人間的だ。仕事もろくにせず、遊郭に入り浸りの夫とは、初夜の強姦とも見まがうような仕打ちから早々に相容れないと見切りをつけていた。が、身籠ってしまう。その子を産んで二十一日目の「日明け」に実家に帰ると決意し、実行する。

 「元来持っている強い正義感と、負けず嫌いの性格」「人間としての誇り」が、愛子を行動に導く。そのイングリット・バーグマンに似た端正な風貌にふさわしく泣き寝入りせず、自立してゆく愛子を描いている。

 もし、愛子が身籠らずに居て「日明け」ということがなかった場合、どうなっていたろうか。夫以外の家族は優しい人たちでも、恐らく、どんな形にしろ早晩婚家を出ただろうと思うが。

 二月中旬の「凍てつく」頃に実家に帰った愛子は、二週間後蕗のとうを摘んでいる。「凍土を突き破って、この地上に顔を出した蕗のとう」に、愛子がオーバーラップする。

 察するに作者の母を描いたのかもしれない。そうだとしたら作者もまた、愛子の自立心の強さや正義感を受け継いでいると思った。

 疑問に思ったのは、そんな愛子でも、戦後にあって、父親の言うままに、相手の顔も見ずに嫁してゆくということ。まだ日本国憲法が施行される(一九四七年五月三日)前だが、当時の環境の中での限界も感ずる。

 

意見4 泉 脩

 道東を舞台にした作品である。父親の命令で結婚した主人公の愛子が、粗暴で遊び人の夫昭一を嫌って、生まれて間もない和美を連れて実家に帰ってしまう。父親は自分の判断の間違いを愛子に謝った。父の態度に家族はびっくりする。

 結婚先は根室の質屋で、父親が采配をふるっていて、昭一は形だけの仕事をして給与はすべて遊興に使ってしまう。両親と弟妹は働き者の愛子を大切にし、和美もかわいがる。しかし愛子は、夫昭一を嫌って許さない。わがままな道楽息子だからである。

 男女不平等、女性差別にきびしく反対する作者らしい、決然とした作品である。文章が生々しくて力強い。

 広島で私財を失って別海町に逃げてきた愛子の実家も、家夫長制の強い家族だが、愛子の自立への決意は尊重するしかない。

 それにしても愛のない夫の子供であっても、母親は自分の生んだ子供はやはりかわいいらしい。これは男にはわからない感情であり、ある意味では夫は情けない存在といえるかもしれない。この作品のように、放り出されてしまうのである。

 私も小さな時の一人息子に、「お父さんが死んだらどうする」と聞いたら、「お母さんと暮らす」と答えられて、びっくりしたことがある。子供にとっても母親は絶対的な存在なのである。こうして子孫が続いていくのだろう。

 いくら戦後間もなくの時代とはいえ、実際にはこれほど甘やかされた道楽息子はそうは居なかっただろうと思う。

 

意見5 松木 新

最初のところで、愛子を〈﨟たけた端正な顔立ち〉と形容している文章を読んで、ビックリしました。大江健三郎の『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』(2007年)を読むまでは、〈﨟〉という言葉を知りませんでした。それだけに、なんとなく懐かしい気がしたのです。

愛子を〈一面の雪の純白の中で、凜としてすっくり立っている蝦夷松〉で、和美を〈何よりも、この地上に、春だよ、春が来たんだよぉ、と触れ回る〉〈蕗のとう〉で象徴したことが、作品世界では生きていると思いました。

〈寒冷辺境の地へ逃げてこざるをえなかった辛さと悲しみ〉が、〈故郷蒲刈島への切ないばかりの愛〉となって沈潜している母ミスエ。〈人間としての誇りをもって生きてきた〉愛子。そして、生まれたばかりの和美――女三代の百年は、この国のジェンダー史に刻まれる貴重な証言になると思います。続編を期待しています。

 

 意見6 豊村一矢

 親の同士が決めた結婚の初夜、主人公愛子は夫昭一から屈辱的な仕打ちを受ける。以来、昭一を徹底的に退け、自分の心に従って自立的に生きる。初夜のたった一度の交わりで妊娠していることが解るが、自分の子として和美を出産して育てる。また婚家の嫁としても懸命に働き存在感を築く。実家に和美を見せに戻り、その後、婚家には帰らないと告げる。自分の良心、信念に従い、自立的なお生き方を貫徹するのである。

愛子の生き方・女性像に感銘を受けた。

 欲を言えば、婚姻届は出されていたかどうかを書いてほしかった。出してなければ、和美は私生児になる。出していれば、婚家に戻らないことを告げるだけでなく離婚の意志を示すのが筋だ。

 読者としては気になるところである。

 

 意見7 石川節子

実家にもかえらず、居続けるようになり、ついには・・)と、私の中のイメージは展開してゆきます。

「根室港周辺が芭蕉湾と呼ばれている」事を私は知りませんでした。いや、忘れたのかもしれません。冒頭から新鮮な驚きと共に読書欲が盛り上がりました。

世間体だのなんだの、雑音が全く入らないこの物語の作風は、重厚で読む心に落ち着きをあたええてくれます。実家に帰ってきた愛子を、慌てふためいた父が、愛子のために婚家と連絡を取り合う姿は強く印象に残ります。兎に角、婿殿を省くと全て愛情に満ち満ちていて心安らぐ通快さがあります。私には、その続きの場面までイメージされるのです。

(愛子が生んだ赤ちゃん・和美の可愛さが忘れられない義弟・昭二が、度々逢いに来るようになり、やがては農作業まで手伝うようになる。

 

意見8 村松祝子

愛子の結婚と破局に至る人生を自らの手で切り開いて実家に戻る過程を綴っている。

「初夜」の場面が赤裸々に描かれ動物のように扱われた愛子のショックはいかばかりだったろうと想像された。世間では終戦二年後のまだ民主主義の知識も乏しかった頃にこんな結婚があったのだろうかと吃驚させられた。

それにしてもバーグマンの映画を見ていて現実は映画とは程遠いが、愛に対する知識はそれなりに二人にはあったであろうに。見たこともない相手に「はい」の一言で嫁に行く愛子の勇気にも驚く。なにも考えなかったのだろうか?

愛子の断固たる生き方には頷けるが「行け」と言われて素直に婚家先に嫁いだ愛子自身の反省はないのかとふと思った。父親の女遊びはさらりと書いて夫の女遊びは嫌悪感を持って書かれているのも気がかりだ。昭二のことが再三描かれているがこの小説の中でどう描きたかったのであろうか?

蕗の薹の成長過程に愛子は女性の逞しさを見た。愛子のその後の生き方の逞しさが蝦夷松と蕗の薹で表現しているが具体的にその後どう生きたのかの暗示があると愛子という人が具体的に想像されてくると思った。

ページ一一八ページの下段の後ろから9行目に書かれている義母ウメの言葉、「昭一、こっちへ来たら。あんたの最初の子でしょうが」と声をかけた。しかし、昭一がそれを無視したので、決まり悪そうに愛子の方へ弱々しい目を向けた。この義母の弱々しい目は意味深く上手な表現だなと思った。

力強い文章にぐんぐんと引き込まれていきました。

 

 

 

 

泉恵子「ホームタウン」

 

意見1 北野あかり

小学時代、学び遊んだ想い出の郷里が「水銀汚染を生み出した場所であること、朝鮮人が強制労働で多くの犠牲者を出したこと、その事実が葬りさられていること。過去の加害に謝罪することなく、装い新たにして会社として起業としている」など、「自分の郷里に起きた、負の歴史にどう向き合ったらいいのか…」という難しいことについて問題提起をしていると思いました。作者がテーマとして長年取り上げて来たのが「イトムカに慰霊碑を建てたい」という作品だったので概要は理解していました。今回は同郷である小学校時代のクラスメイトとの関りを中心に描かれております。負の遺産との向き合かたが個々に違うこと、目指すことに共感してもらうことが困難と知りつつ、理解を求め続ける作者の姿にエールの拍手をおくりたいと思いました。

長文なので各章ごとに要約し、理解が困難だった箇所を抽出してみました。

場面は、小学校の同級生が、卒業60年目のクラス会に向かう途中の出来事。

   故郷が一望できる場所から、盛り土をしている土木作業を眺めている7名。イトムカ水銀鉱山は閉山となり45年、昔の面影消え選鉱場だけが史跡建造物として残っている。かって水銀汚染水を排出していた会社は、装い新たに水銀最終処理会社として稼働している。

クラスメイトの他に、会社の案内人(浜田さん)が登場してくる。このことは単に立ち寄ったのではなく、理解を深めたいという意図だったのか?その意図も書いた方が解りやすい。案内人から埋立地が3番目と説明されるが何を埋め立てているのか?(水銀鉱山で採掘した洞窟のようなところを埋め立てているのか?イメージできない)

   今回のクラス会の案内にイトムカに寄ることを提案。今回は故郷に会いたいという気持ちでこれまで不参加だった人も集まることになった。札幌4名、北見2名、旭川1名、帯広2名。コロナ問題でキャンセル1名。水銀鉱山恃みの住民の生活。水俣病の悲劇でイトムカを離れ、連絡もとだえてしまったことと、1回目のクラス会が回想として挿入されており、今回クラス会の事かと誤解した。

   急に場面が変わり、高速道路を走る車窓からの風景と車中での4人の会話。高台からクラス会の会場に向かうのかなと思っていたが、途中から違うようだと気づいた。

洋子は、イトムカに慰霊碑を建てたいと行動し、協力依頼もしている。

「なぜ蒸し返す?」の問いに「戦時中イトムカに強制連行され、働かされた朝鮮人、中国人。その人たちで犠牲になった人たちが毎年追悼式をしている。戦直後朝鮮人の暴動に対してアメリカ兵が鎮圧した。」「昔のことを忘れないため:供養されていない、遺骨も遺族に渡されていない」「日韓問題:徴用工の事は日韓条約で解決済み:日本政府。今の会社に責任はあるのか。法人が変わった。技術や設備は使っているが歴史は受け継いでいない。過去の歴史は否応なく背負っている。韓国には日韓条約で5億ドル払って全て解決済みとした。中国間では友好条約結び国は関係しない、民間交渉には口出ししない:和解。政府との訴訟では最高裁で却下されている。1965年日韓条約反対運動があったなど、疑問に応えるように洋子が応えている。

作者が一番伝えたい場面だったと思えました。

   冒頭の「元の集合場所に…」で?高速を通って降りて来たのか?と思ったが、山の上から降りて来た場所のよう…そこでまた小学校時代の想い出話となる。グランドに行く途中にあった樹、大きな石(これらはイトムカの歴史を見て来た…と同感するクラスメイト。更に洋子から「足枷はめれた。92歳のお爺さんに聞きに行った」ことが話される。和恵の夫は別ホテルに行き、その後(3)に登場した4人で水神と書いてある石碑を見に行く→そのあとクラス会なのか?

石碑のある場所、水銀汚染水を流すために作られた溜池ダムを見下ろせる場所。石碑を建てたのは溜池ダムを作った当時の会社。今は埋め立てられてその面影はなく。石碑のある場所も草に覆われ知る人はあまりいない。それでも洋子は「いい会社に生まれ変わって嬉しい」「歴史にきちんと向き合って欲しい」と言う。クラスメイトの「石碑が溜池の歴史を見つめてきた。もっとみんなに知ってもらいたい。」という相槌に感慨にふける洋子。一歩一歩と先の長い闘いであるが、日々努力している作者にエールを送りたいと思いました。

 

意見2 後藤守彦

作者は、イトムカの記憶を描き続けてきました。その多くは作者の分身である洋子を主人公にしたものでしたが、この作品では、中学時代の同級生であるエイ子の視点から、慰霊碑の建立に取り組む洋子が見つめられ、イトムカの問題に言及されています。問題への理解を広げるという意味で、多角的視点から迫るというのは有効です。エイ子は、遠い出来事で会社には世話になったし、「それぞれの胸の内で、ひっそり弔うということで良い」と思っていましたが、洋子との対話によって、「故郷の知らざる一面を初めて知って」いきます。その過程が、少し説明調ではあるものの、丁寧に描かれています。

二月に、佐渡金山の世界文化遺産への登録推薦を決めた政府は、戦時下の朝鮮人の強制労働を認めようとはしません。以前、『イトムカからのメッセージ』を評させてもらいましたが(『民主文学』二〇一六年一〇号)、その書評を「不都合な真実を抹殺しようとする勢力が跋扈する今、著者がすすめる忘却に対する記憶の闘いは貴い」と結びました。

 

意見3 泉 脩

一昨年(二〇二〇)の初夏、イトムカ小中学校のクラス会が行われた。九年間も同じクラスで学び、現在は七十代になった八人が層雲峡温泉に集まるのである。

 そのうちの五人が、(一人はクラスメートでない夫と)まずイトムカ水銀鉱山の跡地を観にいった。閉山から四十年以上も経ち、すっかり変わっていた。施設と技術を受け継いだ産業廃棄物処理の会社が営業していた。そして、水銀含有物を処理するのである。

 美枝子、エイ子、洋子が建治の車で層雲峡に向かう時、洋子が進めている外国人強制労働者のための慰霊碑建立の運動について話合い、次第に理解が深まってくる。過去の歴史と向き合う必要性についてである。

洋子は粘り強く運動をしてきただけに、急がず静かに話していく。

 作品の中では洋子だが、作者の努力は見事であり、加害者としての日本の責任をくっきりと明らかにしてきた。被害者の証言を得るため、何回も中国に行っている。戦時中に地崎組が政府に提出した中国人強制労働要請書を突き止めている。次々と小説・ルポタージュとし、本も書いている。そして慰霊碑建立の会の設立である。

 しかし最近、北見市がルベシベの市有墓地の使用を拒否した。残るは民有地での建立である。頭が下がる思いである。

 この作品は、しみじみとした円熟した作品になっている。説得力がとても強い。作者のこだわりが生み出した、立派な作品だと思う。

 現在戦時中の強制労働は、慰安婦問題と共に、韓国・中国などとの大きな懸案になっていて、日本の間違いの根本的是正が迫られているのである。

 

 

意見4 松木 新

まとまった良い作品です。主人公を、これまでの洋子からケイ子にしたことが、功を奏したと思います。

最後の場面、水神の石碑を前に、〈「ここで亡くなった人を悼んで弔う意味を込めたって思わな い? 」〉という洋子の問いかけに、ケイ子が〈「うーん、どうかなあ、そこまで考えたかはよくわかんないけど」〉と答えるところが出色です。この発言があるために、〈「ここに建っているっていう事は、なんだかとても意味がありそうだねえ」〉という、エイ子の発言が生きてくると思いました。

タイトルですが、内容の重さを際立たせるために、あえて軽さを強調したのか、とも思いますが、再考の余地がありそうです。

 

 意見5 豊村一矢

筆者は、何度か、生まれ育った街、「イトムカ」への思いを作品にしてきた。

イトムカは、現在の北見市留辺蘂町にあり、戦前、水銀産出日本一を誇る野村鉱業の、いわゆる企業城下町で、活気に満ちていたと思われる。筆者の父は、その企業の幹部であり、幸せだったに違いない。今までの作品はホームタウンへの慕情が基調になってはいたが、朝鮮からの労働者の強制連行、タコ部屋労働など、イトムカの負の部分を書くことも忘れなかった。

今回は、今までのホームタウンへ思いを書いた作品をなぞるような内容、書き方になっている。  

私は、筆者はイトムカものを今回で最後にするつもりではないかと思ってしまった。

ぜひぜひ、いろいろな視点から、これからも書いてほしい。

 

 意見6 石川節子

洋子は、社会的にも大きな難題を、身近なクラスメイトにも理解して貰おうと、時間を掛けて働きかけ、何とか共感して貰えるまでに根気良く行動する。

この洋子の姿は、連続長編小説の終章部分を読み切るような感覚を覚えます。

思い出すことがあります。私がまだ、釧路に居た頃、松本成美という大人物(松本美紀子さんのお父様)がおられました。長いこと中国、朝鮮人などに日本が行った、強制労働に心を痛め、その事実調査を行っておられました。事実が明確に特定された、存命の被害者の複数名の連絡先もわかり、ある朝鮮人を韓国迄、訪ねて行ったようです。

既に故人となった方達の遺族なども集まり小さな村の大集会になり、日本から役人でもない一個人が訪ねてくれたと、とても歓迎されたそうです。

しかし、長い間、放置されていた村人たちのやり場の無い怒りは、次第に目のまえに居る日本人に向けられ、松本さんは被害者に理解を表しに来ただけなのに、この場は松本さんが謝らなければ納まらない状態になってしまったそうです。松本さんは少しためらいもあったそうですが、意を決して、謝罪したそうです。

「皆さんに危害を加えた日本人の一人して深く謝ります」と、深深と頭を下げると。短い静寂のあと、会場中が、しくしくと嗚咽で充満したそうです。

帰国してから、「総理大臣でも有るまいし何で個人のお前が謝るの?」と批判されたそうです。「でも、私はあの時、少なくとも、私一人でも謝る事が出来て満足している」と、誇らしげに語っておられました。

その時、私は『国家の戦争責任と国民個人の責任感』を深く考えこんだものでした。

 

 

 意見7  室崎和佳子

泉さんのイトムカに対する思いが存分に表されている小説である。

 クラス会に集まってくる面々の来し方(過去、現在)を描きながら、一人一人の人生観を大切にして、慰霊碑を立てることの意義をわかってもらうことの難しさと同時に展望をも感じた。

 中学校を卒業してから六十年も経ち、既にそれぞれの人生哲学をもっているわけだから、一朝一夕にとはいかないのは分かっている。しかし、イトムカという同じふるさとを共有する同士なのである。きっと分かってくれる、いや、分かってほしい、という洋子の願いは小説の最後三行(P148  15~17)によって実を結びつつあるように思う。

 

 

 意見8 村松祝子

中学を卒業して五十年以上経た同窓会を層雲峡で開き故郷のイトカムを訪ねる物語である。

集まった皆の父母たちはイトカムの工場を生活の糧とし、子供たちはイトカムの工場地帯を中心にして育ってきた。

故郷のイトカム工場は水銀抽出の工場として戦争の波に乗り中国人や朝鮮人を使い隆盛を極めたが戦後衰退していった。

過去の楽しかった生活を偲び、埋め立てによって消されていく故郷の地形に皆は戸惑うのだった。

冒頭のところで総勢七人が立っているところは‥‥とあるのでこの七人はどう展開するのかと思っていたがその辺がはっきりしなかったように思う。

洋子を主人公にエイ子、美枝、健治を中心に故郷イトカムの負の歴史が語られていく。最後に「水神」と言う碑に辿り着き洋子の説明に、もっとみんなに知ってほしいとエイ子と美枝は頷きあうのだった。

 

全体にイトカムの歴史が理路整然と書かれておりわかりやすかった。

洋子の一方的な語りで進んでいくが、どこかに山場があればもっと盛り上がりがあったかなとも思う。

泉恵子さんは毎回イトカムに材をとって書いている。

この故郷イトカムが小説としてどう展開していくのか楽しみです。

題名が「ホームタウン」となっておりますが、なぜカタカナの「ホームタウン」なのか? 日本語の「ふるさと」の方がぴったりするように思えるのですが、どうでしょうか?

 

 

 

豊村一矢 「日の丸」

 意見1 北野あかり

卒業式の日の丸・君が代問題に絞って、作者の体験に基づいた教育現場の実態が紹介されています。このことに関しては、是か非かをめぐって考えが対立していますが、騒ぎを起こして世間にアピールしようなどは、教育者の考えることではないと思いました。また、その違いをめぐって教育現場での教員、父兄、子供にどんな問題がおきているのか、それにどのように対応しているのかなどの現状を知ることが出来たことは、子供と接点のない私にとって、将来を背負う子供たちのことも真面目に考えなければならないと考える作品でした。

「国家権力による教育支配の圧力の存在。これが前提になっている、従って議論できる」とのスタンスで昔の仲間が忌憚なく話せる場があることはとても羨ましい。そのような場が今とても大事なことだと思いました。  

全体に解りやすい言葉で書かれており、最後まで一気に読みました。作品の作り方も、冒頭に「公立小学校で、卒業式のあり方をめぐって…」と、作品の主題がコンパクトに紹介されており、読み手の興味引き出してくれとてもいいと思いました。作品の区切りにサブタイトルがつけられており、その先が知りたくなる言葉で効果的でした。また、小説の中の飲み会の部分を「シナリオ」としています。このような作り方は、他の作品にはない方法でしたが、臨場感が伝わってきてきました。多くの人数が登場する宴会や会議の場面などを描きたい時、参考にしたいと思いました。

 

意見2 後藤守彦

作者は、いつも文章を練るだけでなく、小説の形式・方法に工夫を凝らしています。この作品では、劇中劇が用意されています。劇中劇で学校内の出来事を、それを挟むようにして前後に、学校外、つまり地域の視線が描かれています。この試みは成功していると思います。劇中劇は、校長たちを戯画化していると見ました。そうでなければ、日の丸・君が代の闘いを「騒動」と、日の丸を奪った定岡を「パシリ」「猿芝居」と、職員会議で反対意見を述べる教員たちを「連中」と、その意見への賛成を「迎合」となど表現するのは、納得しがたいことになります。校長にならなかった「六十の白髪男」が、処分覚悟でとった行動は、私には切ないものにうつりました。

最初の床屋談議で、理容師が「ヘンなのがごろついているみたい」と突っ込んでくる。黙っていた秋元が帰り際に「いい卒業式が出来そう」と返しますが、こうした行事の意義はどこにあるのでしょうか。小中学校の入学式・卒業式に、コロナ禍でここ数年は出席できていませんが、六年間、民生委員であることから来賓として呼ばれていました。「国歌斉唱」の時には、暗い気分になりながら。

 

意見3 泉恵子

 床屋の店主との談義の間に、眠りに誘われた客の北幌市立白樺小学校長の秋葉が夢見た話が挟まっている。

 昨年の卒業式後に集まった市内の四つ小学校長が、卒業式での「日の丸」「君が代」騒動について話している。

 四人ともかつて学生時代は学生運動の闘志だったことから、「国家権力のパシリたる校長」の自覚がある。そのもとで、「権力による教育支配の圧力」を阻止できるか(どこまで抵抗できか?)話し合う前で目が覚めるというのは、肝心の話がこれからというところで終わっているという印象だった。

 その前に、式場設営の折に国旗を抜き取って体育器具室に立て籠もる教師に対する対応や、国旗、国歌に反対の保護者への対応、韓国籍だから歌えないという子どもへの対応など、悩ましい話が挙げられる。校長としてどの様に対処するか、悩ましいのだが、うまく凌いだというだけの会話になると、どこか揶揄的に聞こえる。

 ただ、小手先のその場しのぎの対応に追われるだけで、また、組合の弱体化を嘆くだけで、根本のところに迫っていかないもどかしさを感じた。公立校の校長という難しい立場の限界か?

 そんな状況が一昨年の安倍元首相によるコロナでの一斉休校という横暴の混乱を招いていると思う。文部省に右へ倣いの教育委員会、そこにものを言わない学校。大混乱を引き起こした大本の、「権力による支配」の圧力に無力な現場を作り出しているところにもっと抵抗してゆかねばならないのでは?

 

意見4 泉 脩

 平成の中頃、道内のある市の小学校校長四人が、卒業式が終わった直後に、飲み会をする話である。四人(男三人・女一人)は教育大学在学中の仲間であり、現在は市内四十校あまりの小学校のうちの、四校の校長として苦労をしている。

 話は当然、終ったばかりの卒業式のことから始まった。前年「日の丸」をめぐって事件が起きた学校が、今年は無事に終わったとのことだった。事件とは、一人の年輩の教師が式場の日の丸を前日に取り去り、自分も卒業式当日欠勤したのである。結局、その教師は減給処分になった。

 他の学校では、生徒の中から「君が代」「日の丸」の拒否が、何人か出た。親の影響から、子供も反対行動に出たのである。在日朝鮮人の子供による拒否も出た。それぞれ目立たないで済ませることができたという。

 政府と文科省は、「指導要項」を盾に強硬な態度を取り、組合からの突き上げもあって、校長たちは苦労してきたのである。四人ともかつては、学生運動の活動家であり、セクト(党派)は違っても戦ってきたのである。しかし今では、無事に切り抜けることに努めているのである。

 私も私立高校で苦労してきた。すぐれて思想的な「君が代」「日の丸」問題は、間違えると組合分裂を引き起こしてしまう。細心の注意が必要なのである。

私の学校では「日の丸」は掲げられ、「君が代」は「演奏」になった。生徒も教師も唄わないのである。しかし、根本的に歴史的に考えなければならない大切な問題なのである。私自身、現代史研究が専門であり、自分の思想からいっても絶対反対なのである。

「日の丸」「君が代」は、現代の「踏み絵」である。

 

意見5 松木 新

とても刺激的な作品です。

額縁と絵画の例えでいうと、額縁は現在の物語で床屋談義の場面。これを小説として描写。絵画は過去の物語で、緊急呑み会の場面。これをレーゼシナリオとして描写。このような作品を読むのは初めてで、興奮しました。

額縁の場面は小説ですから文章自体が完成品です。床屋の詳細な描写は、作者がこのことを充分に理解しているからだと思いました。

絵画の場面のレーゼシナリオは、映像化を予定しないとはいえ、演出や演技、音響、照明、衣装などによって完成品になる設計図ですから、ナレーション以外は、登場人物の会話だけで進行しているのも頷けます。

「日の丸」問題を、地域の住民、子ども、マイノリティ、教師、校長などの問題として広く目配りしている作品の思想性にも、共感しました。

作品の最後、〈「八木さん、白樺西小学校の卒業式のこと心配してくれてありがとう。先生たちの努力はもちろん、PTAや地域の支えもあって、いい卒業式が出来そうです。これからも、よろしくね」〉という秋葉のセリフが生きています。

 

意見6 石川節子

床屋談義はいつも面白い。今回はまた、「おまけ」があり、卒業式シーズンの先生達の「ぼやき会」などがシナリオで実況中継され、自分までがその席に居座って意見を交わしたような錯覚を覚えて実にたのしかった。

百九十九ページの上段二行目、十二歳の児童の思想信条って如何ほどのもの?  ここで私は、何日も想いをめぐらしました。人生で一番、個人差の出る年頃ではないかなあと思い、教育現場などでは、その平均をどのように把握しているのか、とても知りたいと思いました。

 

意見7  村松祝子

現在の教育現場の困難さは関係者以外にはなかなか見えてこない。

この作品を読んで現場で校長として仕事している者の悩みを垣間見られたように思う。

現場で起きた事件をシナリオの形式で夢の中で語り、夢から覚めたら座り心地の良い床屋の椅子から滑り降り現実の世界に帰っていく。

厳しい世の中に向けて生きて行く幕引きと思えた。

学校現場では先生も子供達も親もあがいているのだと知らされる。

201ページ上段の5行目から11行目までの神崎先生のセリフがこの作品の中で希望をもたせてくれる文章だった。

信念を持って立たない、歌わない子供と教師である自分とを比べて自分は降参したと酒席の席で告白する。

この神崎先生のような人々が一人でもいる現実に希望を見えます。

四人のセリフがそれぞれ職業上の匂いも含ませてよく書けているなと思いました。神崎先生の女のセリフがもう少し女言葉が出てもいいのではないかと思ったりしましたが、セリフの使い方が私には良い勉強になりました。

最後の床屋の亭主との挨拶に「‥‥いい卒業式が出来そうです。これからもよろしくね」に世慣れた校長の匂いを感じさせて、ついニヤリとしました。

 

意見8 室崎和佳子

教育の現場を知るものの一人として、校長の立場としては「緊急呑み会」でも開かなければやってられない、という精神状態だったんだと初めて思いいたり、豊村さんの大変さがよくわかりました。

 

 時の政権は卒業式という学校の一大行事を通して、日本の国旗は「日の丸」で、国歌は「君が代」である、ということを子供達に押し付けようとしました。

「日の丸」も「君が代」も日本が過去に起こした侵略戦争のシンボルとして利用されていたものです。

 それに反対している教師たちと「文部科学省~北海道教育委員会~校長」が真っ向から対立して、卒業式は揉()めに揉めたのです。

 校長は権力の末端機構の中にあり、現場での調整役として良心的な人ほど苦しんだに違いありません。

 P201上段19行目の「安倍政権による教育支配の圧力を国家権力のパシリたる校長が阻止できるか」という秋葉のセリフがそのことを表していると思います。

 豊村さん独特の表現方法(形式)を用いて、教育現場の管理職・校長側からの日の丸・君が代問題を作品化したところに意味があると思いました。

 

 

 

続 二月例会誌上紙上合評 

 

意見1 後藤守彦

 

森本のりこ「満州おじさん(二)」

日本による中国東北地方の植民地支配を背景に、戦前戦後の一人の日本人の歩みが良く描かれています。日本人の加害性もきちんと織り込まれています。

主人公正五郎の苦悩について、そのよってきたるところを含めてもう少し掘り下げてほしかったと思います。視点の乱れも気になりましたが、文章のほとんどに読点がないというのはどうなのでしょうか。書き手の思いをしっかり読み手に伝えるという意味でマイナスだと思います。さらに、史実に関わって一言。知覧は航空機による特攻基地があったことで有名ですが、人間魚雷との関りはありません。

昨年の「満州事変九〇年」に合わせて刊行された手塚孝典『幻の村ー哀史・満蒙開拓』(早稲田新書、二〇二一年)を最近読みました。まえがきの言葉「一人ひとりの人生に深く分け入り、たとえ目をそむけたくなる記憶であっても直視し、すくい上げる」に、著者の決意がこめられていました。

 

柏原竜「大雪山よ

街中の市井の人びとを描いてきた作者が、今回は農村で暮らす人びとに目を向けています。いずれにしても視線の温かさは変わりません。印象に残る情景がいくつかあります。主人公の奈津江が、小さな椅子に座って移動しながら草取りをした、化粧台に向かっている時、鏡に夫の指先が見え隠れし、「何も言わずにただ指先がゆっくり近づいてきた」、辛くて眠れない夜、「起き出して近くに流れている川に小石を思いっきり投げ続けていた」、「気持ちを抑えきれず、家のドアをバッタンと開け閉めしたりした」、など。義母と一緒に、浮気した夫がいるアパートに車に向かい、義母が部屋に乗り込んでいく場面があります。車に戻って来た義母は「車の中は涼しい」と言っただけ、奈津江も何も訊きません。ポイントの一つかと思いますが、ここは奈津江が夫に愛人がいると気づいたとの記述のところに、もっていったほうがよかったと思います。

コロナ禍の前はよく大雪山の旭岳などに登り、麓の温泉で疲れを癒しました。高山植物の美しさにも酔いしれました。奈津江には登る余裕などなく、大雪山は遠景だったのでしょうか。

 

石川節子「養老の崖」

書き出しの道東と思われる自然の描写に、作者の筆力の確かさを感じました。モモのような子どもだけでなく大人にとっても、いじめ・差別はなぜ行われるのか、神は存在するのか、という問いは人生の根源的な問題です。モモが必死に考えている、その姿が伝わってきました。私の孫は今小学四年生ですが、モモの思考のレベルは随分高いと思います。リアリティの点で少し気になります。

文中に「生まれながらの素質である、ものの考え方・思考回路は、環境を整備するなどで、容易に変えられるような安易なもので、堅くて、とても頑固なものなのだ」とありましたが、私もこのテーマについて模索し、一定の整理をしました(拙稿「思想の形成をめぐる諸問題」『北海道民主文学』第二一号)。が、依然として未解決で、今も考え中です。

結びで作者が顔を出しています。冒頭にもってくることも考えてみましたが、やはり抑制的であったほうがよかったのではないでしょうか。

 

 

意見2 室崎和佳子 

 

森本のりこ「満州おじちゃん()」  

 満鉄に勤め、満州の地で神経を病んで日本に帰ってきた正五郎の札幌での戦後を描いた小説であり、森本さんの努力を感じて素直に感動した。

 この日本の中で、たくさんの「満州おじちゃん」たちが苦悩し、それでも死ぬまでは生き続けなければならなかったという重い事実(家庭内暴力、絵画、写経)が改めて胸に迫る。

 理屈ではない。戦争はしてはならないのである。他国へ勝手に入っていって人を傷つけてはいけないのである。 

 こんな簡単なことがわからない人間が政治の中枢にいてはいけないのである。

 

柏原竜「大雪山よ」       

 土の匂いがする朴訥な奈津江の生き方を描いている。

 夫に裏切られてもそれをあからさまに非難せず、どっしりと構えているように見える奈津江は、最後は義母(夫の母)の信頼を得て全てを任せられるようになる。

 人間を裏切らない誠実な生き方がいかに大切か、という証左なのだろうと思う。

 それにしても、土とは凄いものだ。奈津江の悲しみも怒りも、毎日の土いじりが受け止めてくれた。ただ受け止めるだけではなく、再生のエネルギーをも与えてくれた。 

 今までの柏原さんの小説とはちょっと違うなぁと思いながら読んでいたのだが、小説の最終部分(P83上段)に、おなじみの「岸さん」がちょい役で出てきているのには思わずニヤリとしてしまった。

 

石川節子「養老の崖」         

 小学校四年生のモモの禅問答ならぬ神問答が真剣で好ましい。

 人間はこうして人間(ひと)になるのだ、と大きな声で叫びたい気分になる。 

 今の節子さんに通ずるものが当時既に出来上がっていた、と見ると、学校帰りの養老の崖での「考える人」は、とても有効なことだったのだろうと思う。

 しかし、暴力を伴ういじめの結果としての養老の崖での「考える人」なのだから、素直に評価するのも問題をはらんでいるかもしれません。その点はご容赦ください。

 その思い出の地「養老の崖」へ七十年ぶりに行って来られたとのこと、様々な思いが交錯されたことでしょう。

 それにしても、引揚者に対するこんな差別もあったのか(P91下段13行目)ということを改めて知りました。

 

 

 

 

 

    投稿欄

 

 

 

岩井圭也著『竜血の山』を読む

              木村 玲子

 

 今年の一月下旬、表題の本が届いた。複雑な気持ちで心待ちにしていた本である。最初、表題の『竜血」という文字に何かおどろおどろしいものを感じて一瞬ドキリとした。

 四〇三ページもの分厚い長編小説だ。帯には「北の鉱山に刻まれた痛哭のクロニクル」と書かれ、初めて知る作者の名前の横には「圧巻の大作」とある。更に「あなたも水銀を飲む用意は出来ているか?一期は夢。冒涜的なまでに美しい物語を、僕は夢中で読んだ」と作家真藤順丈氏の言葉が表に刻まれている。

 「水銀を飲む?」とはどういうことか。そんなあり得ないこととまず違和感を持った。

 

 そう、これはイトムカ水銀鉱山をモデルにした小説である。

 一年半程前、出版社「中央公論新社」の編集者F氏から電話があり、「イトムカを舞台にした作品を書こうとしている」作家がいると、私たちの編集した『思い出のイトムカ』を求めてきた。が、この本は私の手元に私用の他一冊しかなく、譲ることはできなくて、一年程貸すことになった経緯がある。

 巻末の参考文献には、留辺蘂町史など郷土史関係や、水俣病関係本の他、『イトムカ史』やイトムカの組合関係の本とともに、拙著『イトムカからのメッシージ』と編著『思い出のイトムカ』も挙げられている。

 

 おもむろにページを開いたのは二月になってからだった。

 イトムカをモデルにしたフレシラ水銀鉱山の始まりから書きだされている。フレシラとはアイヌ語で「赤い岩」のこと。「富禮志羅」という当て字があるが皆通称のカタカナを使う。と、イトムカ(伊頓武華)と重なるような語りもある。初代所長那須野寿一が辰砂が発見された未踏の山奥に足を踏み入れた時、不思議な少年に出合う。この物語の主人公榊芦弥(以後アシヤ)は「水飲み」と称される一族の一人だった。この山奥に外界から隔たってひっそりと営まれている部落の面々は水銀を飲むことが出来る一族だった。本当に人間なのか?と作中でも疑う個所が何度か出てくるが、まぎれもない人間らしい。

 

 そんな、あり得ない設定に最初は違和感を持ち、まさしくエンターティメントとして読む心構えができたのは、どこかで一面ほっとしていた。

 最初、イトムカ水銀鉱山を舞台にしたどんな作品が生まれるのか、期待と同時に何か「やられたな」という思いが交錯していた。自分がイトムカを書くことは難しいと思いつつも、どこかで書けたらいいなという思いも微かにあったらしい。時々に短編で書いてきたがほんの一面を切り取っただけで、全体像は書けないと思っていた。 化学としての水銀の持つ要素や、それを採鉱して精錬する過程などは理科学に弱い頭では理解が難しかったこともある。そうした主に男性たちが働く現場の雰囲気には想像力が及ばない。

 

 この作品はあくまでイトムカをモデルにしながら、あり得ない登場人物アシヤ達「水飲み」一族を中心に、現実的なあり得る人物たちを縦横無尽に動かしている。

 八〇%もの硫化水銀を含む辰砂の存在を知った那須野寿一の水銀鉱山開発事業の執念に引きずり込まれてゆくアシヤの一族。何より、水銀を飲んでも毒が効かないという体質が買われて、一番困難な切羽を任される。そうして、この部落の一族は鉱山に翻弄され、しだいに外の世界へ出ていき、やがて滅びてしまう運命を背負っている。ついアイヌ民族を連想させるが、大分違う。

 この地には洞窟の果てに満々と水銀を湛えた湖があるが、そこに近づくことができるのは「水飲み」一族だけである。彼等は年の始めの真冬に、皆がこの湖の神聖な水である水銀を飲むという儀式をする習わしであった。

 この湖の底には竜が眠っているという。竜の血がすなわち辰砂であり、竜の涙が自然水銀という設定である。彼等はこの水銀(みずかね)を売って生計を立てていた。

 この湖底の主は集落の守り神であり、緊急脱出の時は「番いの山」に連れて行ってくれるという言い伝えがあった。

 最後にこれは、この集落から逃げる人を出さないための作り話であり、「番いの山」は存在しないことが明かされるという展開なのだが。

 

 鉱業という業界はありのままの自然を壊し収奪するのが仕事という。鉱山技師はそうした自然への冒涜を運命づけられた人物で、ここでは那須野寿一が、水銀という美しい物質に惹きつけられ、その毒性に長年浸された末に病に冒され、最後は殺害されるという結末に到る。次代を背負う息子の那須野源一もまた水銀に魅せられた数奇な運命を辿ってゆく。

 と、ここでは水銀は人を魅了する美しい物質の一面を持ち、一時はフレシラ鉱山は東洋一とまで繫栄するのだが。

 

 しかし、物語は翻弄され崩れてゆく「水飲み」一族の嫉妬や憎悪の渦巻く世界でもあり、殺人も絡んで凄惨な場面もあり、壮絶な展開を辿ってゆく。

 そこには水俣病の背景が大きく絡んでくる。この奇病の存在が水銀が原因ということが明らかになってゆくにしたがって、鉱山は揺れ動き衰退してゆき、遂には閉山に追い込まれる過程と重なってもいる。

 それでもなお、最後まで美しい水銀の山を求めて冬の山を探索する源一。最後は山で雪崩にあい、命尽きるのだった。

 そして源一と共に、やはり水銀と離れられないアシヤもまた、一人きりの荒野を彷徨い、たどり着いた海原にかの洞窟にあった湖の幻影を見て、氷(恐らく流氷)に乗ったまま岸を離れてゆく。

 

 昭和十三年から四十三年までの三十年間を九章に分け、章の初めに当時の新聞報道の一節を切り取って、その時代の鉱山を特徴づけ、現実と夢の世界が交錯する描き方は巧妙な設定と思った。

 表紙の帯の裏側には「この美しい毒はなぜこの世に存在するのか」「水銀と共に生きる一族の青年・榊アシヤ。鉱業所所長の息子・那須野源一。戦争の混乱、失踪と殺人、水俣の公害問題赤い岩(フレシラ)を巡り、二人の青年の運命は翻弄されてゆく」とある。

 

 水銀に魅せられ、水銀とともに生きる人物の設定に、作者の水銀に寄せる並々ならぬ思いが籠っているとみた。あるいは、そんな栄枯盛衰を辿ったイトムカ鉱山に対する尽きぬ好奇心と哀悼心?とでもいおうか。

 

 作者の岩井圭也氏は一九八七年生まれ。大阪の出身だが、北海道大学大学院農学院修了とある。十年近い?北海道での暮らしの中で興味を抱いたらしいイトムカ。そして極寒の北の大地の様子などの描写にも迫力ある筆を奮っている。

 最初はあり得ない人物の設定に違和感を覚えながら、しだいに引き込まれてゆき、最後には「一期の夢」のような「冒涜的なまでに美しい物語」の言葉が頷ける気がした。その想像力の逞しさに感嘆しながらも、微かな戸惑いも隠せないでいる。    (二〇二二、二,二六)

 

 

 

三間浩「新色鉛筆」

試練が続く結婚生活

泉 脩

 

 「色鉛筆」、「続色鉛筆」に続く三作目。幼くして交通事故で両親を失った主人公()(どり)が、高校生の時にアルバイトをした藤岡書店の店主義樹と結婚する。彼は店を継ぐ重圧から独身で四十代になり、思いがけず遥かに年下の妻をむかえる。

 彩花も世話になった伯母の家で肩身が狭く、やっと居場所が見つかったのである。しかし、小さな書店は忙しい割に生活は楽ではなく、毎日けんめいに働いた。けれど二人の仲は睦まじく、しかも彩花は好きなイラストも続けることができた。

先輩書店員の()希子(きこ)()()という一人娘を育てるシングルマザーで、テキパキと仕事をする。

ある日、大きな台風が町を襲い、書店は営業できなくなり、彩花は義樹とともに避難所での救援活動に力を注ぐ。最初は成すところがなかった彩花も、次第に力を出すようになる。

こういった中で早希子が恋に落ち、やがて子供を置いてオーストラリアに行ってしまう。彩花に新しい試練がやって来るのだが、今回はここで終っている。

新婚生活がとても細やかに書かれていて、これはめずらしい。どんなに年令が離れていても、苦しみの中で結ばれた愛は強い。この二人が今後、どのようにして生活を維持し、愛を守っていくか続篇が楽しみである。柏原竜さんの「節子さん物語」のように、粘り強く物語を発展させていってほしい。

今後の課題としては、取り残された月渚がどうなるのか、彩花自身の子供がどのように生まれ育っていくのか。彼女のイラストの才能がどのように発揮されるのか。そして、やがてこの町にも現れるであろう巨大スーパーに、商店街がどう立ち向かい、そして藤岡書店は生き抜くことができるのか。

高校からの親友である瑞穂、従姉の(いく)()、さらに災害支援で知り合った秋元()()が、どのような役割を果たすようになるのかも、興味がある。

私は小学五年の時に医師である父を失い、敗戦後の困難もあって、母と子供五人が貧困の生活を送った。そしてこの中で、自分の生きる道を見つけ出すのに、もがき苦しんだ。だから、この連載の主人公彩花の苦しみは理解できるような気がする。幸せになって欲しいし才能を発揮してほしい。

 

 

畠山益枝「アクションで救え」

軽妙なシナリオで若者を描く

泉 脩

 

 主人公の高井舜の就活の苦労を、軽妙なシナリオで書いている。まず子供の時、公園のジャングルジムで動き回り、友人をハラハラさせる。これが後の伏線になる。

大学生になって就活で苦労している時、姉の夕に呼び出される。父豊が重病だという。びっくりして病院に駆けつけると、母鈴からガンで余命三ヶ月だと告げられる。間もなく父が臨終。それでも就活は続けた。

ある会社の面接に行った時、階段から滑って落ちかけた中年の男をとっさに受け止める。その男は面接先の俳優プロダクションの社長で、舜の俊敏な動作を認めて入社を勧めた。映画村での忍者のテストの演技を褒められ、舜は入社を決心する。

最後は、夏休みの子供たちに忍者の演技を教え、大いに盛り上がるところで終る。舜が今後、時代物の映画の俳優として活躍することを暗示するのである。

畠山さんには、三年前に全道民主主義文学研究会で、初めてお会いした。函館でただ一人の民主主義文学会員として活動されていて、この時もシナリオを提出していた。

家具がものを言うという奇抜な発想だった。私は車のカーナビを例に出して、そういうことがもう始まっていると発言した。

畠山さんは一昨年の同人誌に「日記・新大阪一人暮し」というエッセーを載せた。中学校の養護教諭を定年退職し、一年後新大阪に部屋を借りてシナリオ教室に通った話である。毎週一日だけ登校し、課題のシナリオを出して厳しくチェックされるのである。

畠山さんは、がんばって課題のシナリオを書き続け、合間に大阪市内を見物し、更に西日本から九州まで見物し、遂にはフランスなどへ二回のヨーロッパツアーにまで行ってしまう。約半年間、そのすごいパワーにびっくりした。

たまたま私の本について便りをもらったので、それ以後文通を続けている。かつて函館には、かなりの人数の民主主義文学の支部があり、立派な同人誌も出していたが、現在は畠山さん一人になってしまった。そこで文章を書く会を作り、文集も出している。

今回の作品は、実に手慣れた軽妙な作品であり、とてもおもしろく読んだ。若者の就活の苦労がわかるし、父親との死別の悲しみも胸に迫るものがあった。

私は畠山さんの作品をかなり読み、彼女の筆力に感銘を受けた。コロナが終ったら、ぜひお会いしたいと思っている。同じ教師の夫と死別し、子供たちも自立している。年令も私よりずっと若く、今後の更なる成長と活躍を願って止まない。

なお私が現在、週二回本を読んでもらっている山本國光さんが、かつて函館で小学校の教師としてがんばっていた頃、畠山さんが会ったことがあるという。

つくづく不思議な縁である。

 

 

ファシスト・プーチン

             松木  新

 

ウクライナを侵略するプーチンとは、いったい何者なのか?

『薔薇の名前』の作者であるウンベルト・エーコの『永遠のファシズム』(岩波現代文庫 2018年8月)を読んでみました。

これは95年4月、ヨーロッパ解放記念行事として、コロンビア大学で行った講演です。

エーコはファシズムの典型的特徴14を列挙し、それを「原ファシズム」あるいは「永遠のファシズム」と呼んでいます。

 

1 伝統崇拝

2 非合理主義

3 行動のための行動を崇拝

4 批判拒否

5 余所者排斥、人種差別主義

6 欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ

7 ナショナリズム

8 敵の力を把握する能力の欠如

9 反平和主義

10 弱者蔑視

11 死の崇拝

12 男らしさ重視

13 テレビやインターネットによる質的ポピュリズム

14 貧弱な語彙と平易な構文を基本にすえた「新言語」(「新言語」とは、ジョージ・オーウェル『一九八四年』に登場する国家の公用語です)

 

この特徴からすると、プーチンは明らかにファシストです。もっとも、彼だけではなく、どこかの国の元首相や、専制国家の指導者たちにもそのまま当て嵌まりますが・・・・・・。

ウンベルト・エーコは講演の最後に、次のように呼びかけています。

 

〈これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもあるのです。わたしたちの義務は、その正体を暴き、毎日世界のいたるところで新たなかたちをとって現れてくる原ファシズムを、一つひとつ指弾することです〉

 

『サピエンス全史』累計が3500万部を突破した世界的歴史学者・哲学者のユヴァル・ノア・ハラリが、2月28日、イギリスの「ガーディアン」紙に、「プーチンは負けた――ウラジーミル・プーチンがすでにこの戦争に敗れた理由」と題した記事を寄稿しました。

 

ロシア帝国の死亡診断書に死因として記される名前は、「ミハイル・ゴルバチョフ」ではないだろう。それは「ウラジーミル・プーチン」となるはずだ。ゴルバチョフはロシア人とウクライナ人が兄弟のように感じられる状況にして舞台を去った。プーチンは逆に、両者を敵同士に変え、今後ウクライナが自国をロシアと敵対する存在として認識することを確実にしたのだ

 

ウクライナ人の勇敢さにまつわる物語は、ウクライナ人だけではなく世界中の人に決意を固めさせる

 

私たちの誰もがその意気に感じ、腹をくくって手を打つことができるだろう。寄付をすることであれ、避難民を歓迎することであれ、オンラインでの奮闘を支援することであれ、何でもいい。ウクライナでの戦争は、世界全体の未来を左右するだろう。もし圧政と侵略が勝利するのを許したら、誰もがその報いを受けることになる。ただ傍観しているだけでは意味がない。今や立ち上がり、行動を起こす時なのだ

 

3月5日、『チェルノブイリの祈り』、『戦争は女の顔をしていない』などを書いたベラルーシのノーベル文学賞作家スベトラーナ・アレクシエービッチや、『民主文学』3月号の「文芸時評」で紹介した『緑の天幕』の作者リュドミラ・ウリツカヤら十七人の作家が、複数の欧州メディアで声明を発表、「完全な真実」をロシア国民に伝えるように訴えました。

3月8日、ロシア文学者の沼野充義が、「言葉の虐殺」と題するメッセージを発表しました。

プーチンもまた極端から極端に走りがちなロシア人の生み出した怪物であることは否定できない(いや、それともあれはロシア人ではなく、ロシアを滅ぼすために天から送り込まれた小悪魔なのだろうか?)

 

大量殺人そのものよりも、大量殺人を嘘によって善行にしたてあげることのほうが恐ろしい。これは言葉の大量虐殺である。そしてロシア文学がその土台としてきたものの破壊である。

 ロシア人は偉大なロシア文学を産み出しておきながら、みずからそれを殺戮している。私はそれが身を切られるほど痛く、恥ずかしい

 

そういえば、「通信」278号で紹介した『巨匠とマルガリータ』の作者ブルガーコフは、ウクライナ・キエフの出身でした。「道新」(3月7日付)の「卓上四季」が、ウクライナ生まれのゴーゴリの小説「タラス・ブーリバ」を取り上げていましたが、ゴーゴリは、「ロシア語で書くロシアの作家」を自任していました。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウクライナ・キエフの物語

   『ペンギンの憂鬱』が面白い

             松木  新

ウクライナの作家アンドレイ・クルコフ『ペンギンの憂鬱』(新潮クレスト・ブックス 2004年9月)は、ソ連が崩壊してウクライナが独立した直後の、犯罪が横行しマフィアの暗躍する過渡期の都市キエフを舞台にしたミステリーです。

チェルノブイリの子供たちの病院建設のために集められた寄付金が横領されたり、死者十七人、負傷者九人、五回の爆発をともなう〈本物の戦闘といっていいような大事件〉が起こり、〈「二大マフィア」の解体〉が進んでいたなど、その混沌ぶりは凄まじいものです。

間もなく四十歳になろうとする売れない短編小説家ヴィクトルは、憂鬱症で心臓も弱い皇帝ペンギンのミーシャと暮らしています。エサ代に事欠いた動物園が、欲しい人に譲るというので、貰ってきたのです。

五十万の読者を持つ新聞「首都報知」の編集長から、仕事の依頼がきます。編集長が渡す資料を素材にして、生きている人の追悼記事を書いて欲しい、というものです。その人が実際に亡くなった場合に備えてカード目録にしたいという趣旨です。編集長は、追悼記事のことを〈十字架〉と呼んでいます。原稿料も高く、小説の執筆に行き詰まっていたヴィクトルは心安く引き受けます。

〈十字架〉という独特のジャンルを見つけたヴィクトルは、その執筆にすっかりはまり込んでしまい、小説を書くことも上手くいかなくなってしまいます。

〈十字架〉を編集長に渡した数日後、その記事が新聞に掲載されました。記事に書かれたとおりに死に方でした。同じようなことが次々と起こりますが、ヴィクトルは意に介さないで〈十字架〉

を書き続けます。そのうち、墓地に立ち会い、追悼供養にまで参加するよう要請され、言われるままの行動をとります。

ある日、見知らぬ男が、ヴィクトルの〈十字架〉を書いていることを突き止め、その内容を知って愕然とします。ここから物語が急展開します。

この小説の読み所のひとつが、「擬似家族」の物語です。ヴィクトルとペンギン、それに友人から頼まれて面倒を見ている四歳のソーニャ、ソーニャのベビーシッターである十五歳のニーナ。一軒の家で生活する様子は、あたかもソビエト社会主義共和国連邦下の、各国の在り様を象徴しているようです。

訳者の沼野恭子によると、クルコフは自分を、「ロシア語で書くウクライナの作家」と見なしており、村上春樹の『羊をめぐる冒険』が気に入っているとのことです。

 

3月10日、日本ペンクラブ・日本文藝家協会・日本推理作家協会が連名で、「ロシアによるウクライナ侵攻に関する共同声明」を発表、〈これは、完全に侵略であり、核兵器使用に言及した卑怯な恫喝であり、言論の自由を奪い、世界の平和を脅かす許し難い暴挙です〉と糾弾しました。

キエフから逃れ、猫のpepinとハムスターのSemyonとともに、田舎に非難しているアンドレイ・クルコフが、この「共同声明」にリツイートしています。

 

3月16日付の「朝日新聞」に、クルコフが緊急寄稿しました。

〈この戦争が終わり、ウクライナが独立を守り通したら、また日本を訪れたい〉

〈私たちは退却せず、独立と自由を保たなければならない。降伏もしない。降伏するとは、ロシアの人々になることだ〉

〈今もやはり恥ずかしい。しかしロシア語を話すことが恥ずかしいのではない。ロシアという国が恥ずかしいのだ。かつては文明的で文化的な国だったのに〉

 

 

 

オプシャンニコワさんのメッセージ

松木 新

3月14日夜、ロシア国営テレビのニュース番組に飛び込んで、「戦争反対」の手書きのポスターを掲げたマリーナ・オプシャンニコワさんが、この行動に出る前に、SNS上にメッセージを投稿していました。その全文を入手しましたので紹介します。

 

〈いまウクライナで起きていることは犯罪だ。ロシアは侵略者だ。侵略の責任はプーチン大統領にある。兄弟国である私たちは、まだ和解できるはずだ。

残念ながら私は、過去何年もの間、この第一チャンネルでクレムリンのプロパガンダを拡め、いまそれをとても恥じている。テレビ画面を通じて嘘を伝えることを許してきた自分を恥じている。ロシアの国民が騙されるのを許してきたことを恥じている。

すべてが始まった2014年。クレムリンがナワリヌイさんを毒殺しかけた時に、私たちは抗議集会に行かず、この非人間的な政権をただ黙って見ていた。そして今、世界中が私たちに背を向けている。今後10世代にわたる子孫は、この同胞による戦争の恥を洗い流すことはできない。

私たちは思考力があり賢いロシア人だ。この暴挙を止めるには私たちの力しかない。抗議集会に加わってほしい。当局は全員を拘束することなどできない。何も恐がることはない〉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

連続エッセイ2

耳聡い少年がイメージした「戦中、戦後」の風景 

                豊村 一矢

 

 第二話「英語教師を頼む」

 昭和二十二年頃だったと思う。私は五歳、小学校入学前だ。父と父よりはかなり年齢の男が話し合っている。母はそれには加わらず、私を膝に座らせて話を聞いている。

 

父「あなたは、さっき、サンキューって言ったではないですか」

その男「敵性語かもしれないけど、サンキューくらい誰だって言えるよ」

父「いや、あなたは英語で礼を言った。あなたは英語ができます。決まりです」

 

父は、復員して、片田舎の、現・紋別市立上渚滑中学校に復職した。父は札幌師範学校を出ている。片田舎では師範学校出の教員など、大変なエリートであった。復職して、教頭になっただけで村の教育行政の人事担当もやらされたらしい。

 

戦後の日本は、驚くべき速さで、六・三制の義務教育をはじめ、新しい学校教育の仕組みを確立した。

昭和二〇年九月一五日、文部省「新日本建設の教育方針」。

昭和二〇年一〇月二二日、連合国軍総司令部、「日本教育制度に対する管理政策」指示。

昭和二二年三月二六日、「教育基本法」成立。

 

 こうして終戦二年も経ずに、義務教育、小学校・中学校の教科、学習内容が法制化される。中学校では外国語(英語)があり、前出の大人の会話は、中学校では英語担当の教師を確保しなければならず、父が近所の男に、あなたは英語できる、英語の教師になれと、半ば、強要している場面であり、耳聡(ざと)い私の脳裏にメモされたものである。

 この人は、その後、勉強しながら英語教師をやり、講習を何度も受けて教師の免許とり、定年まで勤めあげたと聴いたような気がする。

現時点から見ると、戦争で多くの人材を失ったため資格を持った教師が圧倒的に少なく、「新日本建設の教育方針」の具体化には、一見、滑稽とも思えるくらいの苦労が偲ばれる。

 

蛇足だが、この「第二話」は、札幌支部の例会で、木村さんから「子どもの頃、デタラメな英語教師に出会った」話を聴いて、私の「脳裏に眠っていたメモ」が動き出してできたものだ。

 

札幌民主文学通信

 

二〇二二年〇月〇一日 279号

 

 

 

二月例会誌上合

 

合評作品

(札幌民主文学会支部誌『奔流』28号)

 

森本のりこ「満州おじちゃん㈡」

 柏原 竜 「大雪山よ」

 石川節子 「養老の崖」

 

 

 

 

森本のりこ「満州おじちゃん㈡」

 

意見1            泉 脩

 前回の(一)は主人公の正五郎が満鉄勤務中に自殺未遂で帰国させられ、その後、就職・結婚・敗戦・失業と続く。(二)の続篇では敗戦後の困難の中で、親子三人が苦しい生活に追い込まれるところから始まる。幸い、水道管を修理する仕事で立直り、朝鮮戦争もあり、家族六人幸せになる。しかし正五郎の精神不安定から、妻文子に暴力を振るうようになる。やがて文子をガンで失い、老年は反省の日々を過ごし、九八歳で死去する。

 満州での自殺未遂は、上司が中国人の父と娘を射殺するのを目撃したからであり、戦後もそのショックが尾を引くのである。

 作者の実の叔父がモデルであり、かなり事実を反映しているようで、描写が生々しく身に迫ってくる。すごい筆力である。

 私も敗戦後の苦しみを体験しているし、朝鮮戦争による隣国の不幸で、日本が立直るという罪深い事実もよく知っている。それだけに読んでいて身震いする思いだった。満州における日本人の罪深い悪業も推察できる。それだけに正五郎の荒れようも、うなずける。しかし、妻へのDVは許せない。

 この作品は、いわば日本の裏面をリアルに書き、軍国主義・帝国主義を告発しているのであり、よくぞ書いてくれたと思う。加害者としての日本の歴史は、もっと書かれなくてはならないと思う。

 

 

 

意見2           松木 新

正五郎の生き様がくっきりと描かれていて、良い作品だと思います。とくに、創成川の川べりに立ち並ぶ闇市の場面がていねいに描かれているために、作品世界がリアルに迫ってきます。

(六)の最後の場面を、もう少し詳細に書いてほしいと思いました。

〈思いつめた正五郎は神経を病み日本へ帰された〉とあります。正五郎が、日本へ帰されるほどに〈神経を病〉んだこと、〈心の傷は深かった〉ことの原因が、事務長の暴挙にあることは理解できるのですが、正五郎が、神経を病むほどに悩んだことを、正五郎の日々の生活の実態に即して書き込んでいくことで、この場面が生きてくると思います。

なお、時々、正五郎の視点から外れて、佐々木の視点になったり、文子の視点になっている場面があります。

短編では、複数の視点を用いると読者を混乱させます。この作品の場合、佐々木や文子の視点の場面を正五郎の視点で描くことが可能なので、再考の余地があると思いました。

 

 

 

 

 

意見3          泉 恵子

 「満州おじちゃん(一)」は、姪の視点でおじちゃんこと正五郎をみつめた作品だったが、(二)は正五郎自身の立場で書かれていて、最初戸惑った。が、作者はおじちゃんの内面に迫ろうと難しい挑戦をしたことが解った。

 このおじが、若い頃自殺未遂をしたことがあるという事が、この作品が生まれる動機となっている。

 

 おじが満鉄社員として満州に渡った三年後に、精神を病み帰国したことは(一)に描かれていて、京都駅にて両親が迎える場面は秀逸だ。出掛ける前は子どもたちを喜ばせる明るい青年だったが、帰国してからは陰欝になり、苦しい日々を過ごした後、四年程して豊平製鋼に勤務することになった。結婚もしたが、敗戦と同時に会社は閉鎖し路頭に迷ってしまう、というところまでが(一)の内容だった。

 

 (二)は、敗戦後の混乱した街の様子、特に闇市の様子がリアルだ。そこでかつての同僚に出合い、やがてそこから進駐軍関係の配管工事を請け負うことになる。朝鮮戦争特需もあり、しだいに生活の基盤が安定してくる。

 と戦後の混乱期の中での苦闘が描かれるが、ふとしたみじめな事件から満州での苦い経験が思い出される。満州での日本人の横暴。クーリーをいとも簡単に打ち殺す無慈悲。心優しいおじの精神が打ちのめされ、病んで帰国せざるを得なくなったことは、性格の変貌を招いた。 

 家庭で妻に暴力を奮うようになった遠因も恐らくここにあるのだろう。

 立ち直って真面目に生きてきたおじだが、満州での傷跡は深く、戦争(ここでは植民地支配の横暴)が人を歪めてしまう。作者はそこを描きたかったのだろうか。

 自殺未遂はいつだったのか?帰国して間もなくだったのか。そこを知りたい気がした。

 

 妻が病気になってからは、贖罪の意識もあったのか、昔の優しい穏やかさが戻り、絵を描き、妻が亡くなってからは写経をする正五郎。その半生

を描くには紙幅が足りないと思うが、その生に迫ろうとしたことに拍手したい。いくつかのリアルな場面に描写の巧みさを感じた。

 

 大正五年生まれは私の父と似た世代。日中戦争に従軍した父も、晩年に写経をしていたことを思い出した。

 

意見4         北野あかり

この作品は、20208月発行の「北海道民主文学 第23号」に満州おじちゃん➀として掲載されており、➁では、国策としての満州進出に意欲的に参加した叔父が、3年後に、自死の危険ありということで、夢遊病者の状態で帰されてきます。その後も悪夢にうなされたり、獣のような奇声を発したりする状態が続きますが、家族の暖かい愛情に支えられて健康を取り戻し、仕事にも就くことが出来、結婚し子供にも恵まれ、終戦を迎えます。

➁では、冒頭に終戦を境に庶民に降りかかる悲惨な飢餓状を、札幌の貧困状況も織り交ぜて描かれており、戦争が殺し殺されるだけでなく、平穏な生活が根こそぎ壊されていくものであることを描いています。 

また、家族を護るために懸命に職探しに明け暮れする中で、ままならない憂さ晴らしから、怒りの鉾先を一番身近な妻に向けられ暴力行為に至ります。自分より弱い物に向けられる暴力行為は、自己中心的であり、支配者意識の現れとして許しがたい。

しかし、妻は動ずることなくしっかり家庭を護り、自ら病に侵されても弱音を吐くこともなく家族の生活の柱として生き切った。その強さは戦後の苦しみを共に生きて来た夫への信頼があったからだろうと思う。   

叔父が闘病している妻に絵を描き届け続けたことや、自らの命が尽きるまで書き続けていた写経は、妻への感謝と、罪の償い、そして、満州で自ら犯した償うことのできない罪に対する謝罪でもあったと思いました。

この作品を読んで、戦後の飢餓状態について「食べる物もなく北大構内は芋やカボチャ畑だった」と言う年配の方の話を聞く程度の知識しかありませんでしたので、札幌の貧困状況を知ったことで、より身近に感じることが出来ました。また、限りある人生を如何に生きるべきか、どのような死を迎えるかについても考えるきっかけともなりました。読み終えて、何かを成し遂げようとした証があればいいのではないか…。ふと、そんなことを考えさせてくれる作品でした。

 

 

 

 

意見5            豊村一矢

 上から目線のような言い方で気がひけるのだけれど、森本さんは、創作(小説)が上手になったと思う。

その上で疑問点も、一つ挙げてみたい。

冒頭の第1節㈠の、最初段落(十五行)から。 

・「親孝行な娘だよお前は!……」と呟いたのは誰か。

  ・正子の頭を撫でたのは文子か正五郎か。

 この解釈について、私は一瞬、戸惑った。

視点がフラフラするためだと思う。

 一度、読者の位置から自分の文章を見てみるのも必要でないだろうか。

今日、「満州」を題材にする作品は、もっと書かれていいと思っていた。「満州おじちゃん㈠」が札幌を舞台にした「満州おじちゃん㈡」へとつながったことも嬉しかった。

 

 

 

意見6            柏原竜

戦争が終わって、正五郎も家族を養うために必死で働き始めた。

ある時仕事先の社長から見下すような仕打ちをされて、戦時中の満洲での古傷を思い出してしまった。目の前で、親しい中国人が満鉄の事務長に射殺された。そののち中国での日本人の蛮行を見続けて、心がだんだん病み神経も病むようになり日本に帰された。その心の痛みが沸き上がり自分を押さえることが出来なく、妻への暴力が始まってしまった。そして妻が亡くなった後は、満洲での贖罪と妻への暴力への懺悔を続けた。

「戦地でのことはあれこれ聞くな。又、戦地に行った当人はいろいろ話すものではないし、話したくもないだろう」

子供のころ大人が話しているのを聞いたことがある。占領地で日本の軍隊はどんな蛮行をしたのだろうか。戦後、大部分の人々は心の痛みと贖罪を抱えて生きてきたのだろうが、ある一部には開き直って知らぬふりをして何も無かったと言っている人もいる。

あの戦争は何だったのか、歴史的事実に基づいた歴史感を定着させなければならないと思う。

 正五郎も戦争がなかったら、どんなに素晴らしい人生を送ったことだろう。それを考えると戦争に翻弄されてしまった気の毒な人だと思ってしまった。

 

 

 

意見7            石川節子

第一作の『満洲のおじちゃん(一)』が、満洲から帰されて父母と弟に迎えられて京都駅で再会する、あの名場面が、「完成された絵画」のようにまぶたに焼き付き、なぜ、返されるようになったのか頭に爪を立てられたような強い印象を持たされていました。

そのためか(二)の、回答に至るまでの文面の長かったこと。地団太踏む思いで読みました。

私も随分、気が短くなったものです。いつの間にか自分の作品を添削しているかのような錯覚に陥ってしまい、斬っては貼り、貼っては剥がし、目の色が赤くなるほど夢中になりました。

五十三ページ下段、六行目、九州の崕まで連れてこられにわか作りの少年兵に仕立てられと、ありますが、ここは、九州の果てまで連れて行かれ、にわか作りの少年兵に仕立てられとした方が分かりやすいのではないでしょうか。

五十五ページ、上段十行目、月寒にあるという指定された家を目指して、始発の電車とバスに乗った。バス代を工面するのも大変だったでしょう ね。

五十七ページ上段、後ろから十一行目、社長から仕事の説明を受けに行った時仕事をとありますが、ここは  行った時、仕事をと、しなければ読者を疲れさせる。句読点は大切だと思う。

仕事をくれてやるような態度で「これくらいの仕事なら十分にやれるだろう?」と見下すような目つきだった。

油の滲んだ作業服を着ていた正五郎を汚いものでも見るような目つきで見下した。

その目は昔、自分が満洲でクーリーに投げかけた目であった。

満洲での苦い思いが頭の隅に浮かんだ。

(六)、満洲での日本人が現地の人に対する目は、まさに、さげすみの目であった。 この、(五)から(六)への移行の瞬間、現在から過去への逆流する場面をうまく繋げましたね。

うまいなあ。私は、この技法に自信がないものだから、時系列にばかり記述する臆病者です。

まだまだ、いっぱい書きたい事があるのに、本日は特に体調が悪くて、これ以上続けられません。残念至極。明日、続行できると良いのですが。

 

 

 

意見8            村松祝子

この作品を書いている頃は昨年の六、七月頃でコロナの全盛期でした。

比較的早く五月にワクチンを打った私は気持ちも落ち着いていたし、すべての行事はキャンセルされて出掛けることもなくなりました。其のぶん時間が取れてこの作品に集中できました。提出する期日前には出来上がっていたことは自分でも驚きでした。

今度こそ誤字脱字はないと思って出した作品でしたがやはりありました。

 

第二次世界大戦終了前後の食糧難の苦しみをなんとか書き残したいと思っていましがあまり書き表されていませんが正五郎が朝床の中で天上の柾目が歪んで見えたり床から起き上がろうとしても起き上がれなくなったりする箇所は五、六歳の私が経験したことでした。あの当時のお水が何よりおいしくて綺麗でした。その思いを正五郎がコップに注ぐ水の勢いに表してみました。この箇所は三回ほど書き直して自分でも気に入っている箇所です。

札幌民主文学通信の275号で書かれていた豊村さんの文章の中で「月寒が軍人の街だった。」とありましたがその月寒に小学一年生から(ただし入学式は戦後のどさくさ紛れで私は突然二年生に編入し、読み書きは全然できなくて帰ってきてから母が壁に書いて貼ってくれたあいうえお表でひらがなを覚えました。)六年まで過ごしました。

思い当たるのは戦後中国からの引き揚げてきた家族たちはかって兵隊が入っていた兵舎に入れられたのではないかと思うのです

小学校三年生頃だったと思うのですがクラスの女の子の家に遊びに行きました。その子はどこか寂しそうで一見弱々しく見えました。彼女の家は大きなアパートの一間で長い暗い廊下が続きそ一つの部屋に入ると六畳一間くらいの広さでした。お父さんと二人の生活だと話していました。すみに薄い布団がきちんと畳まれその上に枕が二個並べてありました。他には何もありませんでした。押入れも・・・。暗い部屋で天井が異常に高く上のほうに窓が一カ所ありました。隣の部屋との仕切はもちベニヤ板一枚だったのではないかとおもわれます。そこにお父さんと二人で住んでいたのです。あの部屋は仕切りを取り外すと兵隊たちが頭を並べて寝る部屋にぴったりだと思います。クラスの子の多くは満州からの引き揚げ者が多くどんな苦労を背負ってきたのか、年齢の高い子も混ざっていました。でもどの子も元気ハツラツで太陽のもとで遊ぶことに夢中でした。

遊びがてらに神社の裏を行くと大きなほらあながあったり崖があったり、今思えば軍隊の訓練に使われた後の残骸だったのだと思います。

小学校のクラスの友達はどの人も大陸の戦禍を乗り越えてきた子供たちだったのだと八十を過ぎて今思うのです。

今回の私の作品は支那人の女の子が殺されるのですがその場面はもっと深く書きたかったと思うのですがそれには当時の状況を知る資料が必要なのですが

力不足でそこまでいきませんでした。

漱石の「満韓ところどころ」を読んでみても初代満鉄総裁の彼とは同期の桜で中国を旅するのも総裁の彼の地位を利用しての文章に出会うと、漱石はこの頃の満州の動きに対してノンポリだったのかとがっかりさせられました。

正五郎の一生を描いた感じですがそれがそれぞれの生きた時代にどう翻弄されていったのか理想は高かったのですが力不足で書けなかったです。

年取って体力の衰えと頭の衰えも感じていますが、書くことによって世の中と少しでも繋がっていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柏原 竜 「大雪山よ」

 

意見1            泉 脩

 節子さんを主人公にする連作を続けてきた柏原竜さんが、めずらしく独立した短篇を書いた。旭川郊外で農業を続けてきた二人の女性の物語である。

 一人で細々と畠仕事をしている奈津江が、残された畠を介護事業に使うために売って欲しいと、二人の男が訪ねてきて頼まれる。どうしたものかと、仏壇の三人の写真を見る。義父母と夫の健一である。

 義父母は開拓二代目で、健一は二人の息子である。奈津江も開拓二代目の農家の娘で、健一と結婚以来、農業に打ち込んできた。やがて地域一帯が市街化調整区域になり、ぼつぼつと畠が売られて宅地になる。奈津江の義父母も畠の一部を売り、その金でアパートを建てる。夫の健一は工場に勤め、畠が忙しい時だけ手伝う。やがて給料を渡さなくなり、遊びに行くようになった。釣りと称して外泊もするようになった。

 ある日、義母は奈津江に車を運転させ、健一の愛人を住まわせているアパートに行って、居合わせた息子に何かを言って出てくる。車で待っていた奈津江と家に戻る。

 健一の行状は少し改まるが、やがて車の事故で大ケガをし、入退院を繰り返した後に亡くなった。義父母も亡くなり、奈津江一人が畠仕事を続け、その畠も売却を迫られるのである。

 十五枚の短篇だが、実に巧みに淡々と書かれている。義母と奈津江の女二人が黙々と働き、財産をしっかりと握り、男たちは従うしかない。

 男は金が入ると遊びだし無駄遣いをし、やがて死んでいく。健一は車の事故だから自滅である。浮気の罰を受けたようなものである。奈津江は義母と共にしっかりと家を守り、子供たちも独立させ、夫の浮気にも動じずに先立たせる。義母と共に大地に根を下ろした女性の靭さが見事に描かれている。

 作者の柏原竜さんは関東の農家に生れ、大学で知り合った夫と結婚し、夫の実家のある旭川に来た。夫は大学では昆虫学を学んだが、北海道では日本共産党の専従として、一貫して各地の地区委員長として活動してきた。

 従ってこの作品は全くのフィクションだが、巧みに書かれていて説得力がある。農民や漁師が、土地や漁業権をお金に代えて、やがて使い果たしてしまう事例はたくさんある。かつての武士の商法のようなものである。特に男は誘惑に負けやすく、元も子も失ってしまうのである。

 

 

 

 意見2           松木 新

ばぁちゃんと奈津江が、女のアパートに乗り込む最後の場面まで読んできて、この後は修羅場だろうと想像したところ、見事に読みが外れてしまいました。柏原さんの、人間を見る目の確かさに感心しました。

〈「持ったことのない金」〉のために人生を狂わされた息子の健一にたいするばぁちゃんの気持ち、奈津江にたいする信頼、それらが一つになって、〈「ああ、車の中は涼しい」〉というセリフになったのだと思います。

〈開拓二代目〉としてのばぁちゃんの意志的な強さを、小さな椅子に座り移動させながら、家の周りの草取りをしている姿として描いていることも、説得力があります。

ばぁちゃんにとって、大雪山がどのようにとらえられていたのかを書き込むと、タイトルの意味がもっと鮮明になると思いました。

 

 

意見3          恵子

 今までの荻生ワールドとは異なる新たな世界に挑戦した作品。と思って読むと、最後にいつも出てくる岸さんが顔を出し、やはり岸の関わる世界の一人に焦点を当てた話しのようだ。

 

 大雪山の麓の農家の娘だった奈津江は、やはり大雪の麓の開拓二代目の農家に嫁ぐ。しっかり者のばあちゃんの姿のあとを追いながら、地道にコツコツ働き、ばあちゃんの信頼を得ている。

 地域一帯が市街化区域に指定されて、一部の畑を手放してから、夫健一の生活が変わってきた。まとまった金が入ったことによって健一は女遊びをし、それが高じて妾宅?まで作るという背信行為に及んだが、奈津江はただ黙々と今まで通りの生活を営んでいく。

 離婚しても帰るところがなかったのかもしれない。否、「離婚」の二文字はここには出てこない。やり場のない苦しさに、夜中川に石を投げ込みながらも耐えることで、しっかりと家(婚家)と土地を守り、信頼を得る道を歩む。三人とも亡き後、その財産は奈津江のものとなった。今その土地を売ってほしいという業者の前で手放そうかどうしようか迷っている。

 健一の裏切りは、今では離婚ものだが、ひと昔前は奈津江のような状況は少なからず存在していた。「嫁」は「家」に嫁ぐのだ。(しかし、そこから脱皮して自身の道を切り拓いた人が歴史を前に進めた。)

 

 ばあちゃんが、奈津江の運転する車に乗って、息子の住む妾宅に押しかけてゆく様子は痛快だ。ばあちゃんはそこで何と言ったのか?話しもしないし、聞きもしない。が、今まで通りの生活が淡々と営まれてゆく。

 

 この作品では男は全くだらしなく、女が家を取り仕切り守っている。特にばあちゃんの逞しさが印象的だ。そんな姿をもっと膨らませて描くと豊かな世界になると思う。

 そんな生き様を、いつも大きく包んで見守っている大雪山。その四季折々の姿がもっと描写されると良かった。

 

 

 

意見4           豊村一矢

 一読後、本当に柏原作品?と、タイトのところに戻って筆者名を確かめた。今までの作品と趣が異なっていたからだ。

 「新資本主義」とかいうものが極まった日本社会で、一次産業を生業とする人たちの生活が蝕まれ壊れていく現実を活写している。それも声高かにではなく、ばあちゃんの、開拓者魂むき出しの行動で表現される。見事だ。ここで「大雪山」が出てくるが、キザでない。

 

 

 意見5           北野あかり

主人公の奈津江は大雪山の麓で生まれ、幼少時から農作業に従事して来た。同じ北海道開拓者の息子と結婚し、養父母に仕え、子供にも恵まれた。しかし、農作業に従事していた時は苦楽を共にできたのだろうと思うが、夫のサラリーマンへの転職や、区画整理事業の収益はこれまでの金銭感覚を狂わせ、浮気にはじまり、生活費も持ってこなくなる。挙句の果てに自らアパートを借り浮気相手と週末を楽しみ、平日は自宅から会社に通い、社会的対面を保って平然としている。そんな夫と暮らさなければならない彼女の悲しみや怒りは計り知れないものと思う。

奈津江の怒りは、自ら夫に向かわず、小川に向かって思いっきり石を投げ続けたり、ドアを思いっきり開け閉めすることで気持ちを切り替えている。また、そんな奈津江を直接支えたのは夫の両親の存在であり、とりわけ夫に直接対峙したのは夫の母(養母)だった。母は強しである。

大雪山は、そんな生き方をずっと見つめてきた存在として、奈津江に勇気と癒しを与えてきたのだろうと思う。枯れた草花に「寒くなってきたね…でも暖かい日がまだあるから、これからも花を咲かせて」と、話しかけたり、遺影に向かって恨みごとをぶつけるのではなく「大事にしてきた畑を欲しいと言ってきたよ…どうしようかね」と話しかけている。大地に根を張り踏ん張ってきた奈津江を象徴しているようである。

夫と苦楽を共にしたことの描写があればもっと良かったと思いました。

 

 

意見6          村松祝子

淡々と八〇代に近づいた奈津江の今までの来し方を一人語りで書かれている。爺ちゃんと婆ちゃんとの生活の中での軋轢も数多くあったであろうことを何一つ書かないで義父母との良い思い出を綴っている。それは作者の心の優しさと大きな度量だからであろう。義母が息子の浮気相手の家に乗り込んでいって帰りの車の中で奈津江に一言とも言わなかった婆ちゃんの心根に人生の難しさと親としての息子の可愛さも読み取れたりしてここは読み手にあらゆる想像をさせる。作者の狙いかなと思われた。夫健一は最後に婆ちゃんと奈津江に介護されて死んでいった。

大雪山の雄姿は人生の喜怒哀楽をあるがままに受け入れて人生を過ごして行ったばあちゃんの生き方の姿なのだろうか。

最初奈津江が主人公と思ったがこれは婆ちゃんの生きてきた人生に対する賛歌のように思われた。

奈津江の岸夫婦に掛ける言葉「連れ合いが元気でいいわね」と言う一言は夫健一を許した言葉だったのだろうか、それとも奈津江の人生の晩年を迎えての寂しさなのだろうか。

短い文章の中に優しさを感じさせ余韻の残る物語だったと思った。

 

 意見7          柏原竜

新沼謙治の「大雪よ」という歌が以前から好きだった。今、コロナ下で家に引きこもり物思いにふけっては、外に出ると大空に広がる「大雪山」を見る機会が増えた。「大雪よ」の歌のように心を包み込むようなものを書きたいと思った。人間が一生懸命に生きていく姿を。

大雪山は、冬は真っ白な山に夏は真っ青な山になり、複数の山の頂が、がっしりと支えあって固まりそびえている。その姿が安心感をあたえる。

アイヌの権利を奪いながら進められた北海道の開拓は大変だったと思う。それが、たった百五十年程の間に、この様に近代化され大きく発展するとは当時は考えられなかったのではないかと思う。そのエネルギーは凄まじい。

私が四十年程まえに母と一緒に旭川に来た時、母が言っていた。

「旭川は東京からあらゆる物がジェット機で運ばれてきているようだ。街並みや人々の服装、雰囲気。そして周りの人と話していても。鉄道で関東から東北、北海道とトコトコ走って来たのではなく、直行便だ」

今は日本全国どこも変わらなく同じようになったが。

石川節子 「養老の崖」

 

意見1           泉 脩

 道東の海岸の養老に住む少女、偉井桃子は小学校四年生。カラフトからの引揚者の一員だが、クラスの女子三人組にいじめられて、毎日崖の中に隠れ、三人組をやり過ごす。

 桃子は神の存在について考え、自分を守ってくれることを願う。しかし遂に神からの自立を決意し、学校では明るく積極的にふるまう。ある日、三人組の一人から桃子の家が引揚者なのに、自分たちより良い暮らしをしていることの妬みを告げられる。そしていじめが終る。

 彼女の悩みを知った隣りの小学校の校長が、自分の息子を通じて「あまり強い人にならず、楽しい人になって欲しい」と伝言する。おそらく作者の子供時代の体験に基づく話であろう。それにしても、川に突き落としたり、崖から落としたりするのは、すさまじい。

子供の世界は残酷であり、非情である。そして妬みは恐ろしい。

小学校四年頃は女の子のほうが、体力があり頭も発達している。同じ土地の男の子たちが、見て見ぬふりをするのはわかる。下手をすると自分もやられてしまう。

私の一人息子も同じような体験をして、母親の励ましで切り抜けたことがある。当人が決意することが、大切なのである。この作品は、子供の世界を実によく書いていると思う。子供は子供なりに悩み苦しみ、そしてその中で成長していくのである。

道東の風土がよく書けていて、いつも感心させられる。そして、小気味のいい直さいな文章である。

 

 

 

意見2          松木 新

作者とモモとの距離感が適切で、落ち着いた文体になっており、じっくりと読ませる作品です。

なぜ「虐め」をしたくなるのか、神様はいるのか、というモモの疑問にたいして、作者がモモにていねいに寄り添っていることに、好感を持つことができました。

モモが住んでいるのは、母親が〈日傘を差して歩いたら、村中の人から「きちがい扱い」されて、さんざん悪口を言われました〉という集落だが、同時に、〈それぞれの事情を抱えて移住して来た人々が、みんな、ここを「墳墓の地」と定めて助け合って暮らしてきているのです。お互いに余計な事情を尋ねたり、話したりすることは「非常識」となっていて、お互いを出来るだけ認め合うことだけが礼儀となっている〉集落です。

日常のささいなことについては、神経を尖らせながらも、大本のところでは互いの存在を尊重するこの集落での経験が、モモを成長させたことが、よく描かれていると思いました。

なお、モモの思考が、小学四年生としてはどうなのか、と思われるようなところもありました。89ページ上段の後半、同ページ下段の後半などです。

また、84ページで、モモや養老、アットゥシなどにカギ括弧をつけていますが、これは不要だと思います。

 

 

 

意見3             恵子

 虐めを受けていた小学校四年のモモ(桃子)の話。下校時は、虐めっ子を避け、崖下の太平洋の見渡せる洞窟に隠れて、「人はなぜ虐めをするのか」考えている。

 「自分さえ正しいことをしていれば神様はちゃんと見ていてくれる」と言い聞かせて我慢しているが、「本当に神様は見守ってくれているのか」疑問も湧き、神はいないのではないかと存在を疑うようになる。もしいなかったら自分は何を頼りに生きてゆけばいいのか不安になる。 懸命な思考の末、神の存在が問題なのではなく、「神様を 頼るかどうか」の問題だと気付き、「神様からの自立」をしようとする。

 そこに至るまでの懸命な思考回路が、賢い子どもらしさを思わせる。

 自立したモモの前に、虐めっ子は幸せそうなモモが羨ましくて腹が立って及んだ行為であることを告白する。欲求不満の解消に虐めをする子が可哀想になるのだった。

 そこで「涙が止まりませんでした」(p92)とあるが、そこまで自分を虐めた子に感情移入することができるものか、疑問も生じた。

 

 隣の部落の校長先生に「校長先生のお考えも教えていただければ」と、手紙を書く行為もしっかり者の四年生を思わせる。返事は「あまり強い人になろうと思わないで、楽しい人になって欲しい」という伝言だった。というところが興味深い。

 最後の一節「あれから七〇年」以降はいらないのではないか。

 少なくとも、末尾のひとこと「年だから」は無くても分かる。それともユーモア?

 文中「神様」と「神さま」が混在しているが、意図があるのか?

 「モモ」は「桃子」の愛称だろうが、ミヒャエルエンデの小説『モモ』を連想してしまうのだが

 

 

 

 

 

 意見4           豊村一矢

小学四年の少女モモが、神さまから自立して自分の信念に従ってしぶとく生きる決意をするという自己変革・成長の物語として読んだ。

文章の全部を常体でなく敬体、丁寧語で結んだのは、内にこもった悲しみや苦しみの表現に役立っている。主題が貫徹されており完成度の高い作品だと思う。

 もう一つ。私は読了後、「宗教は民衆のため息であり、阿片である」という二十五歳のマルクスの言葉に思いがいった。ここでマルクスは阿片という言葉を使っているが、宗教に否定的な役割だけでなく、肯定的な働きをも認めている。

作品で、モモが三人組を「可哀想な人たちなんだな」と思う場面あるが、「嫉妬、侮蔑、苦悩、憎しみ」と、人間は無縁になりえないことを暗示しているようで、『養老の崖』の続編が読みたいと、一瞬、思った。

 

 

 

意見5          村松祝子

四年生のモモは三人の女の子から虐めを受けて養老の崖から突き落とされて前歯四本の欠ける怪我を覆った。小さな川を渡る時、雪解け水の冷たい増水時期や海が時化たり大雨の時など川幅が増水した時にはわざと後ろから押されて川の中で転ばされたりした。

四年生になってから始まった虐めについてモモは養老の崖のほら穴の入り口に座っていつも考えていた。なぜ虐めをするのだろうか。

四年生のモモらしく神にお祈りしたりしたが、神に頼らず自分の信念で生きていく考えに至る。モモの独り立ちしていく心の成長を描いているように思う。

米寿になって虐められた記憶は懐かしく養老の崖を訪れる。

その場所は昔の面影とは変わりもう子供たちの姿はそこにはない。一抹の寂しさを感じさせてもう二度と訪れることない養老の崖を後にする文章に人生の寂しさがふと伝わってくる感じがした。虐められる側からの子供の心理を描いたのは珍しい読み物だと思った。モモの一人語りであるが時々作者の考えで語られる部分が気になったが、全体によくまとまって破綻がない作品だと思いました。

虐めをした女の子はどうなったのかなぁ? 校長先生の伝言に『あまり、強い人になろうと思わないで、楽しい人になって欲しい』の箇所はもう少し説明が欲しいかなと思いました。

 

 

 

 

意見6           柏原竜

虐めがひどい。小学四年生なのに。クラスの中では仲良しのふりをして、帰り道でいじめをする。モモは何もしてないのに、暮らしぶりなどを妬まれて意地悪をされた。モモは、虐められつづけても神様は自分を見守って助けてくれると信じていたが、養老の崖から突き落とされ前歯四本を折ってから、神様をあてにしないで自立していこうと考えた。虐める子達に対してたくましく活発なリーダー的態度に変身した。しかし、いつ虐められるか解らないのでいつも身の周りには細心の注意を払っていた。虐めに対しては堂々とした態度と虐めてやろうと狙っている人への細心の注意が大事なのだろう。これは、大人の世界でも通用することだ。虐めは何処にでもあり年齢は関係ないようだ。

 相手の言動が「嫌だな」と思ったら、それはもう虐めである。当然のことだ。虐める側は虐められる側との人間関係をゆがめてしまっている。相手が嫌がることをするのは絶対におかしい。間違っている。虐められたら、無理してそこにいる事はない。自分を守ることが一番大切だから、そこから離れたらいい。

 旭川では、女子中学生の凍死事件があった。学校や教育委員会の対応が悪く凍死まで追い込んでしまったようだ。虐めは人間の世界からなくならず、子供にも大人にも付きまとうかもしれない。だから、子供の時から虐めについて親子で話したり、学校で学習することが必要だ。

 

 

 

 意見7         北野あかり

小学4年生の時に命を脅かすほどの虐めにあった主人公のモモ、その小学生が抱える悲しみや怒りを「養老の崖」の窪みに身を潜めて「虐め」について、なぜ虐めが起きるのかを必死に考える。その際、自分を責めたり相手を責めたりしないで「自分が正しいことをしていれば神が見ていてくれる、安心していればいい」と我慢する。 

その後、虐めが起る要因が、同じ境遇や平等でないことへの妬みや僻みであること、成長と共にその間違いに気づき虐めはなくなるだろう。その思考回路を変えることは素質もあり容易なことではない。その役目は神だと考えるようになり、その時期が来るまで待つしかないのか…と我慢する。

しかし、なお深く考えることで、神が見守ってくれるという神頼みに疑問が生じてくる。そして、「正義感を培い、協調性を学ぶ、しぶとく生きる術を身に着けてゆく」ことと悟るようになり、2学期を境に、ひ弱から脱皮し逞しく活発なリーダーに変身してゆく。

小学生でも真実を突き詰めていく思慮深さを持っていることを再認識しました。このようなモモの個性は生まれながら備わっているものではあるが、モモの変化に影響を与えたのは、モモの存在をそのまま認め、課題まで提起してくれた。新任の校長先生との出会いだったと思う。

一人では超えられないことも信頼できる人の存在がその後の人生に大きく影響を与える事なのだと思いました。

私も樺太から引揚げ、1年遅れで小学1年生に入学したことで、妬みや仲間外れの存在となり、寂しい小学時代を過ごした。そんな中でたった一人、絵を描くことが好きな友達がいて、いつも画用紙を持ってあちこちの景色を書いて過ごしていた。このことが、その後の人生において職場の同僚でも、看護の中でも、困っているような人がいると、傍に寄り添いたくなる。

今回、小学生時代にモモと同じような人生があったことを振り返る作品に出合い、そんな体験が今を生きる糧になっているのだと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

一月例会合評報告」(通信278号)

               の追加

 

  通信担当豊村の手違いで、北野あかりさんの原稿が印刷終了段階で届いてしまいました。

  不手際をお詫びするとともに、追加報告させていただきます。

 

 

 後藤守彦「クロポトキンと日本人 

 

 北野あかり

クロポトキンと言えば、無政府主義者の代表のように思っていました。

この作品から理解したことは

 〇クロポトキンについて:モスクワ生まれ、国の王となる位置にいる公爵の子供。上流階級の腐敗・傲慢に幻滅する。軍人として赴任したシベリア体験で行政機構という手段では民衆のために役立つことは何一つできないことを悟る。そこで名もなき民衆の建設的な労働が果たす重要な役割を知った。命令と規律の原則に基づいて行動する場合と共通の理解を原則として行動する場合との違いが解った。そして、国家は有害・不必要と考えるようになる、富を万人のものにすると考え、無政府主義者として活動を始める。

〇クロポトキンのいう新しい社会像とは?・人間がいろいろな目的のために連合した共同体によって構成される(農業団体、工業団体、知識人の団体、芸術家の団体、消費のための自治体)、・自治体相互の連合、自治体と職業団体の連合 ・全国規模 ・世界的規模 これらのグループは相互間の自由な協定によって直接的に結びつく。

討論の中心は「相互扶助社会」という考え方が中心でした。確かにその考えはいいと思いました。

どのように変革していくのかについて討論はされなかったが、様々な国の違いもあり一様ではないと思う。

 日本の場合、議会を民主的に運営し国民のための政治が行われるようにすること、そのために選挙で国民の意思を反映する議員を選出しようとしている。このこととクロポトキンとはどう結びつくのかよく解らなかった。

 

 

 

 

松木新「旭爪 あかねの文学

 

 北野あかり

旭爪あかねさんの作品は「稲の旋律」を新聞の連載で読んでいた程度でしたが、今回例会に参加して、作品そのものの奥に秘められた作者像をも知る事が出来、新たに 、2016510日発行の50周年記念臨時増刊号に収録されていた「約束」を読みました。

この度の「旭爪 あかねの文学」については、書きだしが、映画「レ・ミレザブル」の中で「赤と黒」を歌う場面が紹介され、これから始まる演劇の世界に誘っているようでした。①~⑤までの項目は、内容が深い示唆に富んでおり、項目を再度拾い読みして、繰り返して読んでいます。①「世界の色をつかまえに」が原点 ②「三人の詩人と作家たち」③ 際立つ脇役たち ④『菜の花が咲いたよ』の重要性 ⑤「ジャスミン」問題…どれも書くことの大切さが伝わってきます。

年頭にあたり今年トライすることを、短歌風に書いてみました「トラの年 読み書き歌に 参院選 八十路すぎても なお忙しき」 このことにトライしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

秋月礼子「すみれ色の勇気」

 

 北野あかり

この作品は、作者自身の体験をモデルに書かれたと思います。幼少の頃からの聴覚過敏、その後統合失調症を発症し、一人で外出もできないまま大人に成長してきた主人公であり、どんなに苦しい思いをしてきたのか…他人事とは思えません。

作品の中で、主人公をサポートする両親の関わり方や、ケケマネージャーの大貫さんの関わり方がとても心に響きました。特に、区役所から来たケースワーカーと、父が紹介してくれたケアマネージャーの大貫さんとの違いが、とても分かりやすく書かれており、とりわけ大貫さんの「自分の価値観を押し付けない」「表出する言動を受容する」ということが大事であることを、改めて知ることができました。 

この作品のタイトル「すみれ色の勇気」について、最後のところに「紫のすみれの群生→強い生命力→世界が変わる→すみれたちの紫色が、私の背中をそっと押した」という言葉が出てきます。

私は、「紫すみれ」の花言葉を検索してみましたら、「愛」「あなたの事を一途に愛しています」と出ていました。作者にとって生きていく勇気と力を与えてくれた大貫さんは紫すみれであり、彼女への感謝の思いが伝わってくる、とてもいい作品だと思いました。 

しかし、現実はそう簡単ではない。作品の主人公のように、ウサ美ちゃんという妖精が居たり、何でもなくす、期間を決めても守れないなど、生活が自立できない子供が傍に居たとしたらどうだろう?

私事ですが、50歳を過ぎた全盲の子供(実子ではない)のことである。

将来を考えケアハウスに入居し、生活援助を受けながら、就労する道を歩み2年が経過したのですが、慣れるに従い、自己中心的言動に加え、感情コントロールが出来ないなどの症状が顕在化し、生活援助の拒否、ヘルパーさんに対する暴力的言動だけでなく、この真冬に、他に移ると言い張ってマンション見学、その財源を得るためと宝くじ購入などを強要しているのです。

私は、入居に際し保証人となり、距離はおいても支援行動はしてきたつもりでいましたが、この現実に直面し、今後、将来に渡り私の関わりはいかにあるべきか…この作品から答えを見つけ出そうとしています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                 

                               

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松本ひろ「散り桜その後」

死に別れの再婚

             泉  脩

 

前作「散り桜」は、中学校教師の加奈子を結婚九年目で、乳がんで失った話である。

農協職員の夫の康夫は、あまり前面には出ていなかった。何とも悲しい話だが、特に教え子たちとの別れに胸を打たれた。

今回はその康夫が主人公で、亡くなった妻加奈子の妹昭子(あきこ)との再婚話である。

この姉妹は小さい時に母親に死なれ、父が再婚した後妻が姉妹を育てた。この新しい母の姉が康夫の母なので、三人は血の繋がらないいとこなのである。母親同士が姉妹なこともあって三人の子供は仲良しで、一緒にお祭りに行ったり花火をしたり、楽しい日々を過ごした。しかし、康夫が高校生、加奈子と昭子が中学生になると、お互いに異性を意識して、三人は一緒に遊ばなくなった。

そして成長し、康夫と加奈子は結婚して九年続いたのである。加奈子は死に際に、昭子に康夫のことを頼んだ。昭子もずっと康夫が好きだったのである。ナースになった昭子は加奈子の七回忌の法事のあと、思い切って康夫に姉からの頼みを打ち明けた。しかし康夫は、まったく取り合わなかった。

今回の続篇では、十年後の十七回忌に康夫は昭子を招き、五人の教え子も加わって、悲しみの中にも賑やかに過ごした。昭子は更に一泊し、康夫に頼んで浜頓別周辺を案内してもらう。旭川の病院勤めに戻った昭子は、ますます康夫への想いを強め、また康夫のところに押しかけ三泊し、遂には病院を辞めて康夫の家に引っ越してしまう。

押しかけ女房である。かたくなだった康夫の心もほぐれ、遂に昭子と再婚に踏み切るのである。気持ちのいいハッピーエンドである。

この物語は、私にとって他人ごとではない。私は妻を失って七年目である。十年間の長い入院を含めると、一人暮しは十七年目に入っている。康夫と似ているが、妻は末っ子で、妹はいない。それに私自身は八七歳で、五十代の康夫より遥かに年上である。

生き別れと違って、死に別れでの再婚は難しい。嫌いになって別れたのではないからである。どう しても亡くなった妻を思い出すし、時が過ぎると共に、思い出は美化されていく。これでは再婚した相手もやり切れないだろう。

「散り桜その後」の、康夫が再婚に踏み切れない気持ちはよくわかる。しかし一人暮しはわびしいし、康夫のように人嫌いで、かたくなな人間になってしまう。昭子のような亡くなった妻に近い、一筋の純情な女性に再会したことは、男冥利に尽きるといえるだろう。康夫は幸運な男なのだと思う。

この作品は描写が美しく、とてもよく書けている。自然の流れでハッピーエンドなのでとても気持がいい。なんと言われようと、私はこういう物語は好きである

私自身はあまりにも高齢であり、新しい家族を作る気力はない。大好きな文学の仕事に、残されたわずかな時間を使いたいと考えている。それにしても女性は魅力的であり、偉大である。ひとたび目覚めれば、男に勝る生き方をするのである。私はこういう女性を多く知っているし、文章にも書いてきた。そして現在も多くの女性のお世話になり、かろうじて生活を維持し、仕事を続けているのである。人生は楽しい。

康夫と昭子が、これからどんな老年を迎えるのか、更なる続編が書かれれば嬉しいのだが。

 

 

 

進藤良次「停車場」

日高における朝鮮人強制労働

泉 脩

 

 戦争末期(一九四四~四五)に、日高の漁村における在日朝鮮人の強制労働を、小学生の兄弟(六・四年生)が見た様子である。

 この町に二系統のバスが来る停車場がある。ここから更に北に向かう道路は曲がりくねっているので、直線にする工事が始まる。二台のトラックで三十人の朝鮮人が連れて来られ、四人の軍人が監督をする。レールが敷かれトロッコで土を運んできて、突き固めるのである。

 小学校三年の良夫と五年の兄日出夫は、工事の様子を興味深く眺める。二人は中学生の姉と末の妹の四人きょうだいで、母は亡くなって、漁師の父に育てられている。冬は、工事が休みになり翌年の春に再開される。日曜は工事が休みなので、二人はトロッコなどで遊び、大いに楽しんだ。

しかしそのトロッコの事故で二人の朝鮮人が死傷した。その上アメリカの空軍による機銃掃射が続き、艦砲射撃があるというので人々は山に隠れる。道路工事が終わらないうちに敗戦を迎える。そして戦死者の遺骨が戻り、南方でマラリアになった兵士が戻ってくる。

このような戦争末期の漁村の姿を、子供の目線で淡々と描いている。作者の進藤さんは良夫であり、この後、静内の高校と学芸大学函館分校を経て教師になり、更に共産党町議として長く活躍するのである。

昨年(二〇二一)出版した『「変革」へのたたかいの(うた)』は、子供時代からの自叙伝で、胸を打つ見事な本だった。私は前著「歴史を学んで七十年」で詳しく紹介した。

今回の作品は、かなり前に書かれた文章の様だが、よく書けていると思う。

戦争が進むにつれて、若者がどんどん召集されていく。年寄りと女・子供で出征兵士を見送る様子。やがて中年の男たちも駆り出される。日出夫と良夫の父親は、一人で四人の子供を育てているので召集は免れる。そして朝鮮人の容赦ない強制労働。死傷者が出ても、次の日から何事もなかったように工事が行われる。どこからか逃げてきた朝鮮人も描かれ、父親は食物を恵んでやる。さりげない描写だが胸を打つ。米軍が迫ってきて、室蘭への艦砲射撃が行われる。

子どもの目から見た立派な戦争文学である。特に朝鮮人の強制労働は、未だ解決していない重要な問題である。

 

 

 

『ヒロシマ・ボーイ』が面白い

              松木 新

 

平原直美『ヒロシマ・ボーイ』(小学館文庫 2021年8月)は、問題意識が新鮮で、面白い小説です。作者はカリフォルニア州生まれのアメリカ人で、両親と祖母が広島で被爆した被爆二世です。

昨年四月、本書がエドガー賞にノミネートされて話題になりました。そのときのNHKのインタビューで次のように話していました。

「アメリカではいまだに過半数の人が、原爆投下は正当だったと考えているなかで、アメリカ人を主人公にしたミステリー小説という形でなら、原爆の被害に関心を持ってもらえると考えて、今回はじめて広島を舞台にして本書を書いた」

この小説の主人公は、子どもの頃に広島で被爆した日系米国人で、元庭師のマス・アライです。ナオミ・ヒラハラの筆名で、彼を主人公にしたシリーズが書きつづけられ、今作は7冊目で、初めて筆名を漢字にしたとのことです。

エドガー賞とは、アメリカ・ミステリー協会が1946年に創設した最も権威あるミステリージャンルの賞で、ミステリー作家エドガー・アラン・ポーにちなんで命名されました。彼に憧れて、平井太郎が筆名を江戸川乱歩にしたことは有名です。ちなみに、平井宅が、ぼくが通っていた大学の隣にあって、興味本位に門前をうろついたことが、懐かしく思い出されます。

作中、〈〝キベイニセイ(帰米二世)〟ってやつでね。でもって、〝ヒバクシャ(被爆者)〟〉という文章があります。移民としてアメリカに渡り、戦時下のアメリカでの生活が困難になったために帰国。その後ふたたび、アメリカへ戻った人々のことを〈帰米二世〉といいます。マス・アライは帰国した広島で被爆した帰米二世という設定です。

86歳のマス・アライは、彼と同じく帰米二世であった親友の遺灰を、広島のイノ島の施設で暮らす姉のもとに届ける役割を引き受けて、およそ50年ぶりに日本に帰ってきます。この小説は、彼がイノ島で遭遇する少年の殺人事件に関わる顛末を描いています。最後には、疎まれていた広島市の刑事から、〈「残念ですよ、アライさん、もうちぃと若けりゃなあ」・・・「県警の刑事に採用まちがいなしですよ」〉と言わせるほどに、マス・アライの推理は冴え渡ります。

小説の舞台であるイノ島は、広島市の南約4キロ沖にある(にの)(しま)がモデルです。この似島や、〈原爆投下は正当だった〉という当時の状況については、堀川惠子『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋 2015年5月)が参考になります。

原爆が投下された8月6日午前9時過ぎ、広島市宇品の陸軍船舶司令部が、手旗信号で似島にあった陸軍検疫所に指令を発します。

〈「似島救護所ヲ開設セヨ。最大限ノ準備ヲセヨ」〉

その結果、人口1千人余りの小さな島に、1万人もの被爆者が収容されました。特に重傷者が運び込まれたために、その多くはその地で亡くなりました。広島市内中心部で建物疎開に動員された学生たちの多くが、似島で亡くなっています。

〈原爆投下は正当だった〉ことについて、『ヒロシマ・ボーイ』のなかでは、次のように言及されています。

〈市内全域が原爆の被害を受けていたので、そういった事例が握りつぶされることはなかった。沈黙を求められることもなかった。誰かが声をあげると、次々と声があがり、コーラスのように大きく膨らんでいった。その声はアメリカにも届いたが、注目を浴びなかった。ごく一部の知的探究心が旺盛な人たちの耳には届いたが、終戦のめでたしめでたしのハッピーエンドだと信じたい人たちの耳を傾けさせることはできなかった〉

『原爆供養塔』には、当時の広島市長の発言と、1975年の天皇発言が紹介されています。

敗戦の翌年の8月6日、広島市主催の「追悼法会」が開催され、木原七郎市長が次のように挨拶しました。

〈「本市が被りたるこの犠牲こそ、全世界にあまねく平和をもたらした一大動機を作りたることを想起すれば、・・・」〉

原爆投下が世界に平和をもたらしたという、アメリカの「正義」そのままをなぞったような市長の挨拶について、堀川惠子は、〈GHQの占領下での致し方ないものだったのだろうか〉と、書いています。

1975年10月31日、アメリカから帰国したばかりの昭和天皇が、記者会見で次のように発言しました。

〈「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中のことですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」〉

原爆投下を〈「やむを得ないこと」〉とした天皇発言は、広島では衝撃を持って受け止められました。

『ヒロシマ・ボーイ』で作者が主張したかったことは、次のことです。

〈今でも巨大な津波や激しい地震が人々の暮らす街を破壊することはあるが、それはあくまでも母なる自然の手で引き起こされることだ。破壊の原動力が人間にあるとき、それを自然現象と同じ文脈で語ることはできない。なぜなら、それは善なる理由と悪しき理由の双方から出発し、数字を弾き出し、計画されたものだからだ。だが、その力が放たれたとき、それは誰に及ぶのか? すべての人間である――上層のなかでも最上層の者から、下層のなかの最下層の者まで、みじんの容赦もなく。さらに怖ろしいのは、その破壊の力が病気をもたらし、人間の身体を、頭脳を、そして精神をむしばみ、場合によっては先々の世代までをむしばみかねないことである〉

この小説は、原爆が今も人々に深い傷痕を残していることを、平易な文体で記した印象深い作品です。

 

 

 

多喜二の死と小説「子」

松木 新

 

89年前の2月20日、多喜二は正午頃に逮捕され、3時間におよぶ拷問の末、午後7時45分頃に死亡しました。日本では、治安維持法による死刑はなかったといわれていますが(植民地朝鮮では50人を超える人々が死刑を執行されました)、こうした拷問による「死刑」は、100人を超えるといわれています。多喜二を虐殺した特高の3人は、戦後、何の罪にも問われず、天寿を全うしました。

貴司山治の短編小説「子」は、多喜二が虐殺された半年後の『改造』8月号に発表されました。

多喜二の「党生活者」が、「転換時代」の仮題で発表されたのは、没後二ヶ月後の『中央公論』4月号、5月号でした。〈題名の改題は、作者の没後、編集者と作家同盟の貴司山治、立野信之との協議によるもの〉(『小林多喜二全集』第四巻「解題」)とあるように、当時、貴司山治は作家同盟の中央委員として多喜二と協力しながら、創作活動を行っていました。

多喜二虐殺を題材にしたこの小説には、拷問死を否定する当局の検閲の目もあって、拷問死の記述は一行もありませんが、通夜の場面など、当時の緊迫した雰囲気がリアルに描出されています。

とくに注目したのは、死の一週間前に、貴司が多喜二と再会した場面です。そこには、多喜二の素顔が描かれています。

地下にもぐった多喜二から連絡があります。貴司が金を持っていることを確かめた多喜二は、「遊び」として、道玄坂下の天ぷら屋に行きます。多喜二は貴司に語ります。

〈「この運動は、世の中のどこにも無理のないやうにするというものなんだろう。だから僕らの生活のどこにも無理があつては間違ひなんだね。そこで僕は時々母に手紙を出し、母の暮らしのためにもどんどん作品を書いてやると云ふことの楽しさあがわかつたね。運動の中にゐる人の子としての僕自身がはつきりとつかめたんだ。僕は子だよ。子・・・・・・」〉

〈「さうだよ、運動に対する決意性、困難をのりこえて行く力・・・共産主義者の道が、子・・・としての自覚から照らし出されてくるよ。僕はかうなつてから母に対する僕の愛がどこ迄深いものかといふことがわかつた。今迄は浅い、浅い、うすつぺらな生活だつたんだ」〉(ゴシックは発表時の伏せ字です)

多喜二のセリフは貴司によるものですから、若干の脚色は当然考えられますが、多喜二との再会が、〈あれは「訣別」だつたのではないか〉と貴司がとらえているだけに、大筋では信用できると思います。

貴司山治はその後転向し、大政翼賛の方向に舵を切っただけに、この小説はこれまであまり論議されてきませんでした。しかし、今回、初めて読んでみて、多喜二の「党生活者」を読み解く上でも、参考になる小説だという気がしました。

 

 

 

連続エッセイ1

耳聡い少年がイメージした

「戦中、戦後」の風景 

                豊村 一矢

 

 「連続エッセイ」について

 小学校低学年になったころ、つまり、かの戦争に敗北して五~六年経ったころ、私は大人のお喋りを聴くのが大好きだった。

大人の話を聴くといっても話に加わるのではない。例えば、父と母の間の世間話や経験談に、近くで、何気なく耳をそばだてるのである。悪趣味で褒められたことではないが、父母の場合、私が聴いているのを咎めたことはない。

話によっては、父母は、内心、聞かせたかったのかもしれない。

実のところ、かの戦争の、戦中・戦後の日本のイメージは、この大人の会話の傍聴によって脳裏に刻まれたメモが、その後の成長過程で膨らみ、形作られたもの、と言っていい。

 

 

 一話

今回の「一話」は、現・紋別市滝上町の尋常小学校訓導であった父に招集礼状が来て、満州の関東軍に配属されていた時の話だ。

 

 父は、ある日、普通なら口を利くこともない、かなりの上の司令官から夕食に同席するよう声がかかった。何事かと行ってみると司令官の傍らに一人の見覚えのある女性が侍っていた。

 司令官は酔眼を父に向けて、

「これが、お前に馳走してやってくれと言うのでな」と言った。

「椛(もみじ)ですよ、昇さん」

 と、傍らの女性が微笑んでいる。父方の遠戚にあたる人であった。

 過日、司令官が酒を飲みながらぺらぺらと所属部隊の名簿をめくりながら椛と戯れ言を交わしているとき、椛の目に父の名前が留まった。その戯れのごとから、夕食に父を招くことになったということだ。

 後に、満州にソ連軍が侵攻しくる情報を得た司令官は、開拓団や分散している部隊を残し、満鉄で椛だけを連れて本土へ向かったという。因みに、父は一ヶ月前に南方の戦線に移動させられていたらしい。

 その後、その司令官がどうなったか、大人の会話傍聴だけでは知る由もない。

椛は寒村の実家の離れの小屋で隠れるように暮らし、最後は結核を患って四十歳ころに亡くなったという。

 

 

 

音楽映画と映画音楽と

後藤守彦

 

ここ二十数年間に、心を震わせながら観た音楽映画は四本ある。それが、天才ピアニストデイビッド・ヘルフゴットの半生を描いた『シャイン』(一九九六年)、優れた映画音楽の作曲家エンニオ・モリコーネが音楽を担当した『海の上のピアニスト』(一九九八年)、ユダヤ人ピアニストを主人公にした『戦場のピアニスト』(二〇〇二年)、ロックグループ・クイーンのボーカルのフレディ・マーキュリーに焦点をあてた『ボヘミアン・ラプソディー』(二〇一八年)である。

 コロナ感染の第五波と第六波の間の昨年一二月に観たのが、『天才ヴァイオリニストと消えた旋律』。公式HPに「極上の音楽ミステリー」とあったように、謎解きの要素が色濃い。バッハ「シャコンヌ」、パガニーニ「二四の奇想曲」、ブルッフ「ヴァイオリン協奏曲第一番」、クライスラー「愛の悲しみ」などの名曲が流れるが、実際に演奏しているのは台湾出身のヴァイリニストのレイ・チェンである。

ストーリーは、一九三八年のロンドンから始まる。九歳のマーティンの家に、天才的なヴァイオリニストであるユダヤ系のポーランド人のドヴィドルがやって来て、兄弟のように暮らすようになる。二人が出会った年の翌年には何が起こったのか。ドイツのポーランド侵攻、即ち第二次世界大戦の開始である。その時ドヴィドルの家族は、ポーランドの首都ワルシャワにいた。大戦が終わり、二一歳になったドヴィドルのデビューコンサートが行われることになった。しかし、コンサートの当日、ドヴィドルは連絡もなく姿を消してしまう。マーティンは探し続けるが、ドヴィドルの行方は分からない。三五年後、あるコンクールの審査員になったマーティンは、一人の青年のヴァイオリンの演奏を聴き、ドヴィドルの影響を見出す。そこから、ドヴィドルを追うマーティンの旅がまた始まる。ポーランドに行き、七〇万人以上のユダヤ人が虐殺された、ワルシャワ郊外にあるトレブリンカ強制収容所の跡地も訪れる。そしてアメリカへと。

映画を観ての私の思いは、公式HPに載っていた、札幌交響楽団と縁の深い指揮者尾高忠明のコメント、「魂を揺さぶられた。涙が止まらない」と全く同じである。

 映画音楽には、名曲が多いこともあってクラシックがよく使われる。前掲『戦場のピアニスト』は、第二次大戦下のポーランドが舞台だから、当然ショパンの曲が使われている。冒頭シーンで砲撃音が聞こえ来る中でピアニストが放送局で演奏した「ノクターン第二〇番」や「バラード一番」、「ピアノ協奏曲第一番」などである。前掲『シャイン』では、ピアニストとして成功を収めたヘルフゴットが、亡き父の墓に詣でる場面で、ヴィヴァルディのモテット「まことのやすらぎはこの世にはなく」が流れる。古い映画だが、『ベニスの愛』(一九七〇年)では、バロックの作曲家マルチェッロの「オーボエ協奏曲」の第二楽章アダージョ、『ベニスに死す』(一九七一年)では、マーラーの「交響曲第五番」の第四楽章アダージェットが用いられている。モーツァルトの死因を宮廷楽長サリエリによる毒殺とした『アマデウス』(一九八四年)では当然だが、モーツァルトの名曲が次々と奏でられる。「交響曲第二五番」の第一楽章ではじまり、「ピアノ協奏曲第二〇番」の第二楽章で終わる。途中では、私が月一回以上は聴いている「レクイエム」なども。モーツァルトの曲は映画音楽で最も使われているといっていい。手元にある「モーツァルト一〇一」という六枚組CDの「映画で聴いたモーツァルト」のパートでは、三四曲があげられている。そのうちの「ピアノ協奏曲第二一番」の第二楽章は、スウェーデン映画『みじかくも美しく燃え』(一九六七年)を含む三本の映画で使用されている。

 クラシックの名曲に引けを取らない映画音楽を作り上げた作曲家が何人もいる。私の好きなものをあげていこう。前掲『海の上のピアニスト』のイタリアのエンニオ・モリコーネは、最多の作曲数を誇る。モリコーネには、他に『ミッション』(一九八五年)の「ガブリエルのオーボエ」、『ニュー・シネマ・パラダイス』(一九八九年)などがある。イタリアにはニーノ・ロータもいる。彼とよく組んだフェデリコ・フェリーニ監督の『道』(一九五四年)は、学生時代、仙台名画座で初めてみた。旅芸人のザンパロに最後は置き去りにされた、心清らかなジェルソミーナの哀しい運命に涙した。『太陽がいっぱい』(一九五九年)、『ロミオとジュリエット』(一九六八年)、『ゴットファーザー』(一九七二年)もニーノ・ロータが作曲を担当している。アメリカのヘンリー・マンシーニも多作の作曲家で、オードリー・ヘプバーン主演の『ティファニーで朝食を』(一九六一年)、『ひまわり』(一九七〇年)などがある。マンシーニの「作風は、根底に美しいメロディーラインが必ずあり、それをジャズやシンフォニックな衣で包む、というごくオーソドックスなものだが、いつも心の安らぎを覚えさせくれる」(宮本啓『映画音楽への招待』丸善ライブラリー、一九九七年)と評価されている。

他に上げたい名曲は、チャップリンが監督・主演の『ライムライト』(一九五二年)の「テリーのテーマ」、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』(一九五五年)ピエトロ・ジェルミが監督主演の『鉄道員』(一九五六年)、同じく『刑事』(一九五九年)の「死ぬほど愛して」、『避暑地の出来事』(一九五九年)の「夏の日の恋」などである。いずれも懐かしの映画音楽ばかり。

最後に、日本人が手がけた最近の映画音楽についてふれておきたい。先ず、坂本龍一の『戦場のクリスマス』(一九八三年)と『ラストエンペラー』(一九八七年)はよく知られている。もう一人、注目しているのが加古隆である。一九九五年にNHKスペシャル『映像の世紀』のテーマ曲「パリは燃えているか」を作曲、自らピアノを奏でて高評価を得た。映画音楽としては、五木寛之原作の『大河の一滴』(二〇〇一年)、南木佳士原作の『阿弥陀堂だより』(二〇〇二年)、小川洋子原作の『博士の愛した数式』(二〇〇六年)、大岡昇平原作の『明日への遺言』(二〇〇八年)、池宮彰一郎原作の『最後の忠臣蔵』(二〇一〇年)などがあり、いずれも美しくもの悲しいメロディーが胸に沁みとおってくる。

 

 

  

札幌民主文学通信

 

二〇二二年〇月〇一日 278号

 

 

 

一月例会合評報告

 

合評作品

(札幌民主文学会支部誌『奔流』28号)

 

後藤守彦 「クロポトキンと日本人」

 松木 新 「旭爪あかねの文学」

 秋月礼子 「すみれ色の勇気」

 

 

 

 

 

合評を受けて

 

後藤守彦

 

出席者が少なかったのですが、久しぶりに対面で話し合うことができて嬉しく思いました。気づかなかった表記上のミスも指摘していただきました。ありがとうございます。「あなたはアナキズムを支持するのですか」と問いかけられました。換言すると、「あなたはアナキスト?」と問われたことになるでしょうか。私はアナキストではありませんが、アナキズムには魅かれるものがあります。特に、個人の自由な意志の結合と相互扶助というエッセンスに。大杉栄が神近市子に刺された日陰茶屋事件を含めて大杉と伊藤野枝について話題になり、アナキズムとテロリズムの関連の解明などが課題としてあがりました。

 冒頭発言を補足します。アナキズムを日本では一般的に「無政府主義」と訳していますが、「無支配主義」「無権威主義」とする見解もある、と紹介しました。それに「無強制主義」も加えたいと思います。拙稿執筆後に発刊された『くらしのアナキズム』をお見せしました。版元はミシマ社、著者は文化人類学を専攻する松村圭一郎岡山大学准教授です。同書の「はじめに」から引用します。「無力で無能な国家のもとで、どのように自分たちの手で生活を立てなおし、下から「公共」をつくりなおしていくか。「くらし」と「アナキズム」を結びつけることは、その知恵を手にするための出発点だ」。

 

松木 新

旭爪文学については最初のまとまった論評であること、「レ・ミゼラブル」による導入部などを評価していただいて、自信を持ちました。

旭爪文学をまとめてみて、改めて考えさせられたのが、「ジャスミン」問題でした。旭爪さんほどの力量と経験のある作家でさえも、ひとつの批評で、二年間も書くことが出来なくなる。

「創作と批評は車の両輪」とよく言われますが、両者がとてつもない緊張関係にあること、とくに批評の側の言葉の一つひとつが作家の〝魂の死〟を招来しかねないという緊張関係にあることを、実感しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品合評

 

 

後藤守彦「クロポトキンと日本人」

 

 

意見1  松木 新

支部誌『奔流』の題字を揮毫したのが、かつてアナキストだった江口渙だけに、この評論には特別に親しみを感じました。

教えられることの多い評論です。とくにクロポトキンの〈『相互扶助論』は今も生きており、新自由主義が振りまく自己責任論への対抗軸となる〉という指摘は、斎藤幸平の『人新生の「資本論」』にも通じる考えであり、正鵠を得ていると思います。

リュドミラ・ウリツカヤ『緑の天幕』(新潮社)は、スターリンが死んだ1953年に出会い、ソ連崩壊までの激動の時代を駆け抜けた三人の幼馴染みを描いた作品ですが、その中で、クロポトキン『ある革命家の手記』について言及していました。

〈ロシア文学黄金期が終わった後の作品だが、いかにして子供の魂が不正と残酷さに満ちた世界を受け入れ、同情と共感に目覚めていくのかが描かれていた〉

マルクスが「フランスにおける階級闘争」のなかで、〈プロレタリアートは、ますます革命的社会主義のまわりに、すなわち、ブルジョアジー自身がそれにたいしてブランキなる名称を考えだした共産主義の周囲に結集しつつある〉と書いています。『共産党宣言』が書かれた2年後の論文です。当時のマルクスが、ブランキたちの思想も含めて、「共産主義」として認識していたといえるのではないでしょうか。マルクスがバクーニンの『国家と無政府』を批判したのは、「バクーニン・ノート」(一八七四年~七五年執筆)でした。

アナキズムについては、長い間、〈小ブルジョア社会主義の一つ。政治闘争を否定し、あらゆる国家権力に反対し、一揆や個人的テロによって現存制度をくつがえし、国家のない社会を一挙に建設できると主張する〉(『社会科学総合辞典』1992年)との規定を鵜呑みにしていました。

アナキズムの運動について、きちんと考えてみなければならないと痛感したのは、スペイン市民戦争を主題にした文学作品を読みはじめた頃からでした。

参考になったのが、スペイン・アナキズムの指導者で、市民戦争のさなかに虐殺されたドゥルティの生涯を描いたH・Mエンツェンスベルガー『スペインの短い夏』でした。

一八六八年十月、ジョゼッペ・ファネリというイタリア人が、マドリードに到着しました。第一インタナショナルの最初の使者ですが、彼はバクーニン派でした。アナキズムの理論は、西スペインと南スペインの農業・工業労働者たちのあいだに、燎原の火のように広がります。

スペイン・アナキズムは、第一に、アンダルシア地方の農業プロレタリアートのなかに、第二に、カタロニアの工業プロレタリアートのなかに根をおろしました。

バクーニン主義を、スペイン・アナキズムは次のように具体化していました。

〈アナキストたちはいつでも、またどこでも、じぶんらをひとつの政党と考えたことはない。かれらは議会選挙に関与せず、官職に就かないことを原則とする。国家をわがものにしようとはせず、国家を廃止しようとする。かれらの連合は下部から規定される。各地のグループはそれぞれ、きわめて広汎な自治権をもつ。ともかくも理論の上では、下部は指導部の決定に従うことを義務づけられていない。もちろん、こういった諸原則が実践のなかでどのように現実化されるかは、さまざまな具体的な条件にかかっている。スペインのアナキズムは一九一〇年、アナキストの労働組合CNT(全国労働者連合)をもって、ようやくその最終的な組織形態を見いだすことになった〉

CNTの組合費はきわめて少額で、農村ではゼロだした。そのため、一九三六年にCNTの組合員は百万を越えていましたが、有給の役員は一人だった、とのことです。

最近読んだブルガーコフ『巨匠とマルガリータ』のなかに、権力と暴力にかかわる面白い記述がありました。

ユダヤ駐在ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスが、捕囚のヨシュア(イエス)に問いかけ、ヨシュアが答える場面です。ブルガーコフがピラトゥス=スターリンを意識して書いたのではないか、と思われます。

〈「ありとあらゆる権力は人々にたいする暴力にほかならず、皇帝の権力も、ほかのいかなる権力も存在しなくなる時が訪れるであろう、と。人間はいかなる権力も絶対に必要としない真理と正義の王国に移行することであろう」〉

 

 

 

 意見2     泉  脩

すぐれた評論である。十九世紀のヨーロッパでもっとも遅れたロシア帝国で、大貴族の四男として生れたクロポトキンが、すべての権力、私有財産を否定し、相互扶助の協同社会を目指すアナキズムを創り出した。そしてイギリスに亡命し、多くの著書を残した。

 明治後半から大正にかけて、日本では幸徳秋水・大杉栄らがアナキズムを受け入れ、文学者の有島武郎が影響を受け、小林多喜二も大学の卒業論文でふれているという。

 今まで名前しか知らなかったクロポトキンとその主張について、私はやっと系統的に知ることができて、とても勉強になった。

 十九世紀のロシアというと、トルストイを中心にしたリアリズム文学、チャイコフスキーらの音楽、レーピンの絵画に親しんできたが、すぐれた思想家も存在したのである。

しかし科学的社会主義がスターリンらによって歪められ、大きな害悪を流したので、アナキズムを見直し、長所を取り入れる必要があると思う。

それにしても幸徳・大杉・有島の分析は見事であり、胸を打たれる。有島は北海道に(ゆかり)があり、彼の作品は今後も読まれていくだろう。しかし、幸徳以下四人とも、悲惨な最後を遂げたことは、権力を握る支配階級がいかに無慈悲であるか、思い知らされる。

アナキズムは理想主義であり、そして純粋ですべてを否定するだけに、支配階級にとっては、もっとも恐ろしい許せない敵であり危険思想なのだろう。

私は若い時にロマン・ロランのヒューマニズムに傾倒し、やがて科学的社会主義に転じた。アナキズムも、その理想においては一致する思想かも知れない。特に、非暴力と戦争絶対反対において。そして非核政策において。

 

 

 

意見3    豊村一矢

アナキズム関連を集中して学習したことはないが、学生運動に熱中していた大学時代の読書で、ある程度の知識を得たつもりでいた。正確には、知識というよりイメージのレベルだったかもしれない。どんなイメージかといえば、共産主義運動の日和見主義的な一分派、あるはキリスト教のなかの行動派、といったところだったような。いずれにしても自分がアナキズムに傾斜することはなかった。

「クロポトキンと日本人」は、たくさんの資料を基にアナキズム、アナキストを論じ紹介している。自分の怠慢・傲慢さを恥じた。

 

 

 

 

意見4     泉 恵子

 最近「アナキズム」とか「無政府主義」という言葉を多く耳にするような気がする。

 昨年は「平塚らいてう」との関連で、偶然読むことになった伊藤野枝の評伝、『風よあらしよ』(村山由佳著 集英社出版 第五五回 吉川英治文学賞受賞作)は、関東大震災時に無政府主義者大杉栄とともに、官憲に捕まるところから始まり、その波乱に満ちた生涯を語って、最後に虐殺されるという展開だった。

 また、今年初めのNHK「一〇〇分で名著」の番組は「一〇〇分でパンデミック」のテーマで五人の論客が、それぞれにこの危機的な時代に何を読んだらよいか、紹介したい本を挙げていた。その一人が、後藤さんの評論にも出てくる栗原康で、紹介する本は『大杉栄評論集』だった。

 

 後藤さんの評論は、クロポトキンや無政府主義と関りを持った四人の人物(幸徳秋水、有島武郎、大杉栄、小林多喜二)に焦点を当て、膨大な資料を駆使し、実に丁寧にその関りを論じている。その学究ぶりに感心してしまう。

 日本では、無政府主義はテロと結びつく危険思想とのレッテルを貼っていたような気がする。 有島武郎が「農地解放」をなしたということはクロポトキンの思想に共鳴していたからなのだろう。ということを改めて知らされた。

 アナキズムは最近の論調から再び見直されているような気がする。

 それはマルキシズムとどう違うのか。「無政府」ということが果たして可能なのだろうか?それは実現不可能な理想主義ではないのか。筆者はクロポトキンの『一革命家の生涯』に感動したとのことで、関心が深いから論じているのだろうが、果たしてアナキズムに賛同しているのか?という疑問を持った。

 その中の「相互扶助」の考えに焦点を当てているようで、確かにその考えには共鳴できるものがあると思う。     

 昭和の初めころ「消費者協同組合」を立ち上げて「組合長」として八年程活躍した平塚らいてうも、この「相互扶助」に共鳴したようだ。

 あらゆる分野でこの「相互扶助」思想が追究されれば、無政府主義に近づくのか?

 

 よくわからないながら様々考えさせられる評論だが、それもこの混迷した危機的な曲がり角に来ている日本の現実と関りがあるだろう。資本主義の行き詰まりを感じている人は多い。だが、ではどの様な社会を?ということから今、「アナキズム」が注目されているのだと思う。

 

 

 

 意見5     室崎和佳子

まず最初に、膨大な量の書籍を読みこなし、自身の論の中に巧みに生かしているということに心底から敬意を表したいと思う。

 この文章を読みながら、なるほどそうなのか、と思う箇所がたくさんあった。

 名門貴族出身のクロポトキンの思想が、幸徳秋水や有島武郎や大杉栄や小林多喜二に与えた影響もよく理解できた。

 「奔流28号」を石川啄木の研究をしている友人に贈ったのだが、彼女は「学者の書く超一流の論文だった」と評したので、私は「間違いない。学者だから」と答えた。

 

 

 

 

 

 

松木新「旭爪あかねの文学」

 

 意見1     泉   脩

たいへんな力作である。旭爪あかねをデビュー以来追いかけ、高く評価してきた松木さんの渾身の力を込めた評論である。

 ユーゴスラビアの自主管理農業協同組合の研究をテーマにしてきた旭爪あかねが、ユーゴスラビアの崩壊で絶望する。そして自分自身の生き方にも疑問を持ち、十年もの間、引きこもりになってしまう。脱出の道を文学に求め、日本の農業を探求する小説を書き、民主主義文学の新境地を開くのである。

 松木さんは、引きこもりからの脱却に当たって、外界で援助し手助けする人々の存在に注目し、作品に則して詳しく分析している。「世界の色をつかまえに」の高子、「稲の旋律」の新平などである。農業を題材にしているのは、大学で農業経済を専攻してきたからである。さらに自ら農業体験を重ね、稲の実りの光景の見事さに魅せられたからである。

 こうして旭爪あかね自身が引きこもりから脱却するのである。

 日本政府の内閣府によると、近年国内の引きこもりの総数は百万人にも及び、世界でも希な現象である。旭爪あかねが二十年以上前から書いてきたことが真実であり、先見の明だったのだ。

 松木さんの評論は、この恐るべき社会現象の原因と解決策には触れていないが、旭爪さん自身が五十代の短命で亡くなり、旭爪さんが準備していた大作が書かれなかったのは、なんとも惜しいことである。

 今後、あらゆる分野で探求されなくてはならない大きな課題であると言えるだろう。

なお、日本各地に引きこもりの会があり、当事者と親たちが話し合い、励まし合っている。生前の旭爪あかねは、これらの会に参加し講演をするなど、協力を惜しまなかった。

 私が敬愛する三人の女流文学者、樋口一葉・宮本百合子そして旭爪あかねは、いずれも短命であり、なんとも残念なことである。

 意見2    豊村一矢

 感動した。

『旭爪あかねの文学』を掲載した「奔流」28号を永久保存したいと思った。とりあえず、白石区役所庁舎内にある。図書館に寄贈してこようと思っている。

 今まで、評論のジャンルの文学作品を読んでも、なるほどと感心はするが、感動することは、ほとんどなかった。

 

日時・場所は思い出せないが、何度か旭爪あかねさんを囲む集まりに同席した。言葉を交わしたことはないが、一度、偶然、旭爪さんの隣の席になった。

そのとき彼女は、いかにも苦手な場所に座っているといった様子だったが、それだけでなく、誰かの発言に反応して、旭爪さんがブルッ、ブルッと体を強ばらせる。それが伝わってきて、私も自分のことのように心が強ばってしまった。

 

 

 

 

意見3    泉 恵子

 ―『歩き直してきた道』―

 浅尾大輔さんが旭爪あかねさんの訃報を受け取ったのは二〇二〇年十一月八日(浅尾大輔「希望の泉として読みつがれて 旭爪あかねさんを悼む」『しんぶん赤旗』2020・11・8付)というから、亡くなってからかれこれ一年と二か月余経つ。五四歳という若さで豊かな才能が逝ってしまったのは本当に惜しい。

 約七〇年前に五一歳の若さで亡くなった宮本百合子を思い出し、時代も個性も全く異なるが、二人とも日本文学の世界に大きな財産を残していったと同時に、まだまだ活躍してもらいたかったと悔しく残念だ。

 松木さんの評論「旭爪あかねの文学」から、これから書こうとする構想メモが残っていたことを知り、ここも百合子と共通すると思った。

 この評論は、初めて旭爪あかね文学の全体像を総合的に俯瞰したものとなっていて意義深い。その特徴を五つの章に分けて分かり易く論じていて教えられた。

 その中で、『歩き直してきた道』に書かれた文章が度々引用され、解説的に使われている。この本は二〇一四年六月に刊行されていて、私は翌年購入している。その時は、旭爪さんの文学作品とは異なるご本人の生の声に新鮮さを感じながらも、すんなり読み終わってしまった。

 この度例会の当日朝になって再び書棚から引き出したが、この評論と合わせて読むと、一言一言が含蓄あり、易しい言葉で書かれながらも深い内容に、その日はほんの数ページ目を通しただけで時間切れになってしまった。合評が終わってからじっくり噛みしめながら読み直した。

 

 この本は、不登校やひきこもりの子を持つ親の会、支援者の会、農業団体などの集まりの時に話した記録をまとめるとともに、もう一度これまでを振り返って整理し書き直したものとある。

 いわゆる「ひきこもり」(著者自身はこの言葉は使わないできたとのことだが)と言われる当事者の方々には、小説の持つ本質から離れた雑多な事実の方が重要で参考になるということがある、ということから小説でないものを書く意味はそこにあると考えて、嘘をつかないことを一番の目標に書いたとのこと。邪道ではないかとの葛藤があったが、話しを聞いて「楽になった」「参考になった」という声に励まされて書いたとのこと。

 旭爪作品が当時社会問題になっていた「ひきこもり」に、内閣府が実態を調査する二〇年も前に焦点を当てて書かれたその先駆性は「文学の勝利」と松木氏はいう。

 それこそ、多くの悩める人々の胸を打つ作品になり、当事者はもちろん、その親や、周囲で困難を抱えている人々に、「希望の光」として迎えられた。新聞小説「稲の旋律」が反響を呼び、映画化されたことはそのことを物語っている。当然民主文学の枠を超えて、一般社会で「居場所」つくりをしている支援者や、心理学などの研究者などにも反響は大きかった。 

 札幌にいらした折(講演で?)に、懇親会に集った方々にはそうした支援者や大学の先生が顔を見せていて、文学の世界のみならず多くの幅広い支持者が旭爪さんの周りにいることを知らされた。

 旭爪さんの作品は、そんな主人公の内面を見つめるだけではなく、そうした状況を生み出す、効率一辺倒の弱肉強食の社会構造にも目が行き届いていて、その中でそれぞれが葛藤し重層的な厚みのある世界が構築されている。

 社会の問題ばかりではないだろうが、新自由主義的な色彩が濃くなってきた中で、孤立を深める人はますます増加している。10代から60代までの層でひきこもりが百万人と推計されているということは、この40年余りもの日本社会の歪みが極まってきたことの現れだろう。

 我家にも訳アリ息子が居て、8050問題は他人事ではない。

 この閉塞的な状況に風穴を開けてゆくような小説を、旭爪さんにもっと書いてほしかったと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意見4    室崎和佳子

松木さんらしいすっきりした書き方で旭爪さんの作品の背景と作品そのものを論じていて、わかりやすかった。

 旭爪さんが体調を崩して書いていない時期があったということは知っていたが、「ジャスミン」に対しての厳しい批判が原因だったことを初めて知った。繊細な神経の持ち主にとって堪え難いことだったのだろうと思う。

 旭爪さんは二〇〇四年一〇月に十勝で初めて開かれた北海道研究集会に講師できてくれた。誠実そうな若い人だな、という印象であった。

 

 

 

 

 

 

秋月礼子「すみれ色の勇気」

 

意見1    松木 新

とても良い作品です。一つひとつの場面が、絵画のように立ち上がっています。とくに、『ルリユールおじさん』を一人で買うことのできた詩尹菜が、夕刻、空き地に咲くすみれの群生を目にし、その強い生命力に〈それに感動する心が、私にはあるようだ〉と思うその場面が、すぐれています。

自閉症スペクトラムの詩尹菜と、イマジナリーフレンドのウサ美ちゃんとのやりとりもよく考えられていて、詩尹菜像をくっきりと浮かび上がらせています。

ケアーマネージャーである大貫さんの、詩尹菜に接する態度が理にかなっていることを、読む物が納得できるように、ていねいに描かれていることにも、好感を持つことができました。

〈おばあちゃんとの温かい記憶は、全部手放さなければならなかった〉という一節が、この国の福祉行政の貧困さ加減を浮き彫りにしており、感心しました。

 

 

 

意見2    柏原 竜

 精神的な病の人が、何を考え何を思いどんな感情や感覚で生活しているのかよく知らなかった。大変だろうな、可哀そうだなと言う気持ちであって、その先には進まなかった。この作品によって分かってきたように思う。人間は生身の生物だから、この世に身体的精神的障がい者は、これからも生まれ続けると思っている。その人達が気持ち良く生きて行ってほしいと思う。この作品の中の大貫さんのような人がたくさんいて欲しい。そのためには、健常者がゆっくりとした落ち着いた生活をしてないと障がい者に優しい目は向けられないかもしれない。毎日の仕事がきつく生活費もカツカツで苦しいと優しい目を向けられないかもしれない。更に、自分たちは今は健常者でもいつ病気や怪我で障がい者になるか解らない。同じなのだと思う必要がある。

 自分の事を振りかえると、生活がたてこみ、めいっぱい忙しくなると壊れたロボットのようになり、体を動かすとギイギイと音をたてるように感じる。また心が病んでくると柔らかい胃の中に固い石が投げつけられたようになる。人はこうして病気になるんだと感じたことがあった。人間だから、揺れ動いているから。いつ自分はどうなるか解らない所がある。

 最後に、生活保護を受けてどこが悪いのか、社会に発信しよう。引きこもりになってどこが悪いのか、社会に発信しよう。弱者に対する優しさを社会に堂々と求めよう。国に求めよう。周りの人たちに伝えよう。その為にも、秋月さん、作品を書き続けてください。

 

 

           

 意見3    泉  脩

一回目の読書後すぐに評論を書いた。例会の前日に二回目を読み、例会で討議して更に理解が深まった。

 主人公の女性が引きこもりから抜け出す話であり、介護事業のコーディネーター(世話役・調整役)の大貫さんが大きな役割を果たす。亡くなった西浦妙子さんがモデルであり、この作品は西浦さんへの感謝の表現である。

 主人公が一人で町に出て、絵本を買って帰宅する。自立への第一歩である。すみれの花が美しく、彼女の後押しをする。ウサ美というイマジナリーフレンドも大きな役割を果たすが、この主人公にしか見えないウサギの友人が注目された。イマジナリーフレンドが現在大きな話題になっていることを、例会参加者の何人かが知っていた。

 作者の秋月さんの想像ではなく事実のようであり、おそらく日本文学では最初のイマジナリーフレンドの登場かも知れない。世界文学では少し意味合いが違うが、カフカの「変身」がある。主人公が虫になる話である。

 このウサ美が実に愛らしく、主人公と共に大貫さんのファンになる。主人公が自立への第一歩に成功すると、ウサ美は喜んで涙を流す。私もここで涙が出そうになった。

 例会ではとても好評で、批判めいた発言は一つもなかった。十年あまり秋月さんの作品を読み、確実な成長を喜んできた私は、とてもうれしかった。

 西浦さんも喜んでいることだろう。

 

 

 

意見4     恵子

   作者秋月さんの文章はいつも瑞々しく、若々しい豊かな感性を感じさせる。

   今回も、高校を卒業した後、自称「引きこもり」の若い女性が、勇気を出して一歩前に進もうとするまでの葛藤を、別れた父と母、大貫さんというケアマネジャーとの交流を通して淀みなく描いている。

 最初「ウサ美ちゃん」という主人公詩尹菜の分身のようなウサギの妖精の存在は、想像の産物かと思って、その想像力の逞しさに感心した。

 が、それは「イマジナリーフレンド」とか「イマジマリーパートナー」という、統合失調症にある幻覚、幻聴の一つとか。 精神的な病の産物とのこと。

 ウサ美ちゃんの場合は、よくしゃべり、物欲は強く、プライドが高く、生意気だが可愛くて、主人公と対話しながら時折注意もする友人のようだ。(こういう幻覚なら悪くない気もするが、現実には攻撃的で意地悪な場合も多いようだが?)

 父親の紹介で、大貫さんというケアマネージャーと月一回の行動を共にする中、次第に心が開かれて行く過程が、図書館で、ハーブティを買いに郊外へドライブする中で、とても友好的な雰囲気で描かれる。大貫さんの接し方が好ましい。少しずつ心を開いてゆく詩尹菜が、やがて道端のすみれの鮮やかな紫色に感動し、勇気を奮って髪をカットし、一歩踏み出そうとするまでが、深刻さを感じさせず爽やかに語られている。

 合評の中で、この大貫さんのモデルは、作者が世話になったという西浦妙子さんだろうと聞き、この作品は西浦さんへのオマージュではないかと思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 意見5    豊村一矢

 秋月礼子は、少なくても小説を書くことについては天才だと思っている。

 今回の「すみれ色の勇気」も能力の高さを充分に証明している。

結婚し人生の伴侶も得た。さらに小説に奥行きが出てくると期待できる。

これからが楽しみだ。

 

 

 

 意見6    室崎和佳子

これを読んですぐわかりました。私の思い違いでなかったら、秋月さんは西浦さんのことを書きたかったのだと。

 西浦さんが生きていたら、満面の笑顔で喜んだことでしょう。

 

 P41下段から登場する「大貫さん」に西浦さんの姿がぴったり重なりました。

「大貫さん」は私の知っている西浦さんそのものでしたから。

 

「大貫さんの周りは温かい。明るく光ってすら見える。」(P44上段7行目)

「あら、私、魔法は使えません」(P44上段15行目)

「あら、私、得しちゃったわ」(P48上段10行目)

「凄いね、自立したね、おめでとう。歌うような、優しい声。」(P48上段7行目)

 

 これらの表現や会話が在りし日の西浦妙子さんを彷彿とさせる。

 

 秋月さんもまた旭爪さんのように書くことで自らを解放してきた人である。

 礼子さん、頑張れ。

                                

  投稿欄

 

 

高橋篤子「スィウヌカラアンロ・・・また会いましょう・・・」について

 

大地震の中の出会い       泉 脩

 

 三年前の秋、胆振東部地震の中での出会いを書いた、重厚で胸を打つ物語である。

主人公のみさとは、八十歳の一人暮し。夜中に激しい揺れと突き上げで目を覚まし、地震と気が付いて飛び起きた。戸棚の中の食器が割れ、多くの品物が散らばり、ただ事ではなかった。

 震源地の厚真町は震度七強で、みさとの住む隣町の早来は震度六強だった。幸いみさとの住む町営住宅は比較的新しい建物で倒壊は免れたが、多くの家が倒れた。町の避難所の広い部屋で、段ボールを敷いて毛布に包まって眠ったが、この時に隣りになった千枝と親しくなった。彼女は八五歳の一人暮しで、森の中の一軒家が倒壊したという。入植者の両親が原野を開拓して農業と酪農をしたが、苫小牧東部開発団地として上地を買い上げられ、その後両親と夫が亡くなって、千枝がずっと一人で暮らしてきたのである。

やがて、みさとは自宅に戻り、千枝は森の中に新しい小さな家を建てる。今年(二〇二一)の春、みさとが木々に花々が咲く散歩道を散歩していると、孫息子の淳と犬と一緒に歩いてきた千枝に出会った。淳は東京に住む娘夫婦の息子で、苫小牧に就職して時々祖母の様子を見に来るのである。二人はフキノトウを摘んでいた。みさとは千枝との再会を喜び、フキノトウを分けてもらう。フキノトウはアイヌ語で色んな言い方があり、みさとは興味を持って調べ、フキノトウの食べ方も千枝に習うのである。

この作品は、二人の女性の出会いと交流、特に年上の千枝の毅然とした生き方について書いている。早来の自然の描写も美しく、重厚で心を打つ作品になっている。

主人公の、みさとには作者自身が投影されており、苛酷な大震災の体験が生々しく書かれ、その中でたくましく生き抜く人々がよく書けている。作者は夫を失って七年目、民主主義文学の秀れた書き手として、次々と立派な作品を書いてきた。全国紙「民主文学」にも数多く発表し、道内有数の書き手である。胆振・日高支部のメンバーとして、粘り強く活動してきた。

私は全道民主主義文学の研究会で何度も出会い、彼女の立派な作品に感心してきた。たまたま胆振東部地震で被害を受けたと聞いて見舞いの手紙を書き、カンパを寄せた。それ以来さらに親密になった。今回は札幌民主文学会の同人誌に投稿された彼女の作品を真っ先に読んで、評論を書いたのである。

表題はアイヌ語であるが、高橋さんはかねてからアイヌ問題に関心が深く、アイヌ語を学び、作品でも取り上げてきた。北海道の作家として、とてもふさわしい。

この作品を読んで気になるのは、主人公のみさとが病気の不安を抱えていることである。血タンが出るのだが、医者にも原因がわからないのである。これは作者自身のことであり、かねがね私も聞いていたが、どうしようもなかった。肺がんなど深刻な病気ではないようだから、我慢するしかないのだろう。私より十歳近く若いのだから、自重してよい作品を、さらに書いてもらいたいものである。

なお、この作品に犬が出てきて息詰まるような中にも、ほっとする気持になる。前の作品でも犬が出てきて、実によい役割を果たしていた。作者は犬を飼っていないが、よほど犬が好きなのだろう。また千枝の孫の淳も心温まる存在である。若い世代の登場はうれしい。私には孫はいないが作者自身は孫がいるので、ごく自然に孫を書けるので、うらやましい。

高橋さんは自分の作品をあまり評価しないが、もっと自信を持ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 在日であることを描く      後藤守彦

 

一九四五年の日本の敗戦は、朝鮮にとっては、日本の植民地支配からの解放を意味した。敗戦時、在日朝鮮人は二〇〇万人いたが、そのうち一四〇万人が帰国した。残留者は、日本国籍のままだが、年末の選挙法改正で参政権が停止された。この選挙法改正は女性参政権を認めたことで注目されているのだが。在日朝鮮人には戦前は選挙権・被選挙権がともにあり、ハングルによる投票も可能だった。一九四七年、新憲法施行前日、外国人登録令が公布された。これは最後の勅令で、日本国籍者と規定しながら「朝鮮」籍の外国人として管理されることになった。一九五二年、サンフランシスコ平和条約発効後、日本国籍を喪失し、外国人登録法により指紋押捺・登録証常時携帯が義務づけされた。「朝鮮」籍は旧植民地・出身地をあらわす、つまり地域をさす記号で無国籍となり、韓国籍は国籍となった。現在は特別永住制度のもと居住している。納税の義務はあるが、地方レベルでさえ選挙権は依然として認められていない。この経過をみても、「日本の「戦後」は「朝鮮」を捨象することによって成り立っている、つまり日本の「戦後」は「朝鮮」(をはじめとする旧植民地)の消去のうえにある」(権赫宙・車承棋編『〈戦後〉の誕生―戦後日本と「朝鮮」の境界』新泉社、二〇一七年)との指摘は正鵠を射ているといわざるをえない。

 こうした歴史をもつ在日朝鮮人が書いた日本語文学が在日朝鮮人文学である。戦後の在日朝鮮人文学史を眺めると、金達寿・金石範・李恢成・金鶴栄・李良枝・柳美里などの高峰を発見する(「在日朝鮮人文学」『座談会昭和文学史』第五巻、集英社、二〇〇四年)。このうち金石範については、大作『火山島』をもとに論じたことがある(「記憶と忘却」『北海道民主文学』第二二号)

 本稿では、最近知った作家が深沢潮について評してみたい。深沢は、一九六六年、在日一世の父、在日二世の母のもとに東京都で生れている。深沢の存在を知ったのは、先月のエッセイで取り上げた、沖縄戦に関する新刊の『翡翠色の海へうたう』(角川書店、二〇二一年)によってである。小説家デビューを目指す葉奈は、歴史の狭間でいなかったことにされる人たちをテーマにしようとして沖縄に飛ぶ。そこで戦争に翻弄された女性たちについて取材を重ねた。葉奈の彷徨とあわせて、異時同図法のように、ある朝鮮人の日本軍「慰安婦」の苦難に満ちた旅が描かれる。葉奈は、当事者ではないのにと覚悟を問われながらも、「取り上げた題材を深く極めて、小説を書くことで、自身が「知らない」ことを少しでも減らしたい」と決意するのだった。本作品に感動したこともあり、他の作品にもふれることにした。深沢は在日であることの意味を真摯に考え書き続けている、これが読み終えた上での率直な感想である。

デビュー作の『ハンサラン 愛する人びと』(新潮社、二〇一三年)は連作短編集である。最初の「金江おばさん」の主人公は、通称金江福、本名李福先の在日二世で、在日の見合いをしきる「お見合いおばさん」といわれている高齢女性である。夫も在日で長く朝鮮総連で仕事をしてきた。息子は朝鮮高校を卒業して北朝鮮に渡っている。六つの短編で、「お見合いおばさん」のもとを訪れる家族の事情がリレー式に、哀しくそして温かく描かれている。複数取り上げられている、日本人と在日との結婚は切ないものがある。

『緑と赤』(実業之日本社、二〇一五年)は、次のように始まる。

  馴染まない。生まれて初めて手にするパスポート。赤や紺ではない、濃い緑色。表には、まったく読めないハングル文字。英語で、REPUBRIC OF KOREAとも書かれている。ページを開くと、まぎれもない自分の顔がそこにあった。(中略)写真の横に書かれた英字は、KIM JIYOUNG。キム、ジョン?これは、いったい誰のことだろうか?自分の名前は、金田知英なのに。

 

日本人として暮らしていた知英は、自殺した父と、父の死後一人で自分を育ててくれた母が在日であることを知る。この知英を中心に五人の人物それぞれの視点で章立てされ、作品は書かれていく。KーPOPのファンで、日本人の大学の同級生梓と、知英はコリアタウンのある新大久保で会う。そこで「朝鮮人ぶっ殺せ」「在日は首を吊れ」などと喚くヘイトデモを目撃した。KーPOPのファンだったが、それにとどまらず、ヘイトデモへのカウンター行動に加わるようになった日本人の中年女性良美とも出会う。知英は梓に在日であることを告白し、二人は予定していた海外旅行の行き先をグアムから韓国に変更する。知英は、梓と別行動で水原華城を見学した際、在日から帰化し日本国籍を取得した龍平と出会った。龍平は韓国の大学で院生として留学中だった。知英は龍平に在日であることを打ち明けない。

 梓は、韓国のアイドルに似ている韓国人留学生ジュンミンに心を寄せるようになった。ジュンミンは、秋夕の祭祀に参加するため、一時故郷の釜山に戻るが、祭祀に来た叔父は、日本の植民地支配により朝鮮人がどれほど苦しめられたのか、「踏みつけた方は、ケロッと忘れてしまうが、踏みつけられた方は、たとえ直接的な痛みは忘れても、尊厳を傷つけられた記憶はなかなか消えない」と熱く語った。そこに突然梓がやってくるのだが、ジュンミンは父から、「うちは、日本人はダメ」、留学はやめて帰国しろ、と厳命される。

 龍平は、一時帰国中に会った、「謝れってしつこいし」、「韓国人のことは、日本人みーんな嫌いなんだよ」と嫌韓感情を露わにした友人に、自分が在日であることを告げた。龍平は知英とデートした際、彼女が在日であることを龍平に隠していたことを知り、詰問する。知英は在日朝鮮人の歴史を学び始め、関東大震災での朝鮮人虐殺などの史実に衝撃を受ける。「結局、戦後からずっと在日は、日本にとっても韓国にとっても、お荷物な存在だったんだ」という知英の呟きは、前述した「日本の「戦後」は「朝鮮」を捨象することによって成

り立っている」と重なる。知英は在日であることが苦しくなり精神を病み、家にひきこもってしまう。作品はそれで終わらない。梓や龍平の励ましで知英は少しずつ回復していくのである。こうした救いが用意されており、正直ホッとした。長々と辿ってきたが、青年群像を通して在日朝鮮人問題が、歴史を含めてほぼ網羅されているといえよう。若者に読んで貰いたい、と切に思った。

次に取り上げる二作は、ともに在日の娘が父の実像、父の真実に迫っていくものである。『ひとかどの父へ』(朝日新聞出版、二〇一五年)に登場する娘には、父について、幼い時の、煙草の臭いがした、大きなほくろがあったなどのおぼろげな記憶しかない。娘はニューカマーの韓国人と結婚するが離婚している。娘は、生き別れた父、それも北朝鮮の工作員との疑惑をもたれた父を追う。『海を抱いて月に眠る』(文藝春秋、二〇一八年)は父の通夜の場面から始まる。父は家族や親戚に疎まれて死んで行ったのに、通夜では見知らぬ老人が棺にすがりつき、美しい女性が泣きはらす。その父の真の姿が、遺品の中から出て来た、父の手記で明らかになってくる。二作とも、父が密入国者で、韓国の民主化のため闘った点では共通している。

 深沢は必ず巻末に参考文献を列記している。丁寧に調べ考え執筆していることがうかがえる。なかでも在日朝鮮人問題の基本文献である水野直樹・文京洙『在日朝鮮人ー歴史と現在』(岩波新書、二〇一五年)は繰り返し紹介されている。同書は、今、帰化つまり日本国籍を取得する者と韓国からのニューカマーが増えており、「「在日コリアン」の世界がさまざまに再編される中で、植民地支配にねざす「在日朝鮮人」の意味が改めて問われようとしている」と投げかけている。

 

『巨匠とマルガリータ』が面白い         松木 新

 

20世紀ロシア最大の作家とされるミハイル・ブルガーコフの代表作『巨匠とマルガリータ』は、とてつもなく面白い作品です。

スターリン時代、密かに書かれたこの作品がモスクワで刊行されたのは、1973年のことです。

1939年4月、『巨匠とマルガリータ』をほぼ書き終えたブルガーコフは、スターリン満六〇歳の誕生日を祝うために、スターリン賛歌の戯曲『パトゥーム』の執筆にとりかかります。無事に書き上げましたが、スターリンの指示によってモスクワ芸術座での初演が差し止められます。半年後の1940年3月、ブルガーコフは失意のうちに急逝します。48歳でした。

1934年8月の第1回ソ連作家大会で承認された「社会主義リアリズム」は、〈現実をその革命的発展において正しく、的確に描きだすこと〉を求める綱領でした。

「社会主義リアリズム」以外、一切の創作方法が禁止されていたスターリンの大テロル時代、一度も逮捕されることなく、政権中枢との関係を維持しながらも、後世の人々のための「証言」として、密かに『巨匠とマルガリータ』を書きつづけていたブルガーコフの作家としての矜恃、そのスターリン観が、『巨匠とマルガリータ』に滲み出ていて、考えさせられました。

巨匠と呼ばれる作家と愛人マルガリータの物語をひとつの軸とし、黒魔術教授の悪魔ヴォランドとその一味によるモスクワ破壊をもうひとつの軸として展開されるこの作品は、巨匠が書く「小説」を入れ子構造にしています。その「小説」とは、2000年前のエルサレムを舞台に、無実を信じながらも、臆病風に吹かれて、ヨシュア(イエス)を処刑したローマ総督ポンティウス・ピラトゥスの苦悩を主題にしています。

作家としての矜恃を見事にしめしているのが、「社会主義リアリズム」の全面的な否定です。

巨匠が描く「小説」は、リアリズムに徹していますが、黒魔術教授の悪魔ヴォランドが暗躍する場面は、ことごとくマジック・リアリズムで描かれています。なかでも、「悪魔の大舞踏会」の場面などは、世界最初の小説といわれるペトロニウス『サテュリコン』の世界を彷彿とさせます。『サテュリコン』は、紀元65年、暴君ネロにもっとも強い影響力をもっていたペトロニウスが、ネロを楽しませるために書いた、〈不道徳というより非道徳な、長篇の悪漢小説〉(岩波文庫版「解題」)です。

ヴォランドが語る〈「原稿は燃えないものなのです」〉という一節や、〈「ドストエフスキーは不滅だ!」〉と叫ぶヴォランドの手下の台詞などには、ブルガーコフの作家としての信念を垣間見ることができます。

ブルガーコフのスターリン観は、とても微妙です。秘密裏に『巨匠とマルガリータ』を書く一方、スターリン賛歌の戯曲を書くという、当時のブルガーコフの立ち位置の二重性が、そのスターリン観に反映されています。

『巨匠とマルガリータ』のエピグラフが、ゲーテ『ファウスト』の、ファウストと悪魔メフィストフェレスとの対話です。

〈「・・・・・・それで結局、いったい、おまえは何者なのだ?」

「私は永遠に悪を欲し、永遠に善をなすあの力の一部なのです」〉

ブルガーコフはこの作品のなかで、悪魔ヴォランドと、巨匠の「小説」の主人公・ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスを、スターリンに見立てています。そして、悪魔メフィストフェレス同様、「永遠に悪を欲し、永遠に善をなすあの力」の持主として、ブルガーコフは彼らを描いています。

悪魔ヴォランドは、モスクワ破壊に狂奔する一方、〈「原稿は燃えないものなのです」〉と正論を吐きます。

ローマ総督ポンティウス・ピラトゥスは、その苦しみから逃れるために、護衛隊長に命じて、イスカリオテのユダをゲッセマネで暗殺します。

ブルガーコフが、ユダは縊死したという史実に反して、ピラトゥスの苦悩を描いたことは、スターリンが大テロルにたいして、少しでも苦悩を感じて欲しい、という望みがあったのかも知れません。

 

 

 

 

 

心の病からの脱出               泉  脩

 

十年位前から研究会で知り合い、同人誌で次々と作品を読んできた秋月礼子さんは、ぐんぐんと腕を上げてきた。「民主文学」にも何回か載り、見事な成長ぶりである。最初から注目してきた私はとてもうれしい。

 フィクションをつかい、センスのある文章で物語を作っている。自分の心の病を直視し、くじけずに立ち向かっていく。全国的にもめずらしい創作手法のケースだと思う。

 今回の作品は、離婚した父母のもと、パートで働く母親と暮らし、ライターの父親からも援助を受け、発達障がいの悩みから何とか脱出しようとする女性の話である。

生活補助を申請された自治体から、中年の男が訪ねて来るが、疑り深く、少しも親身になってくれない。父親からの申請で、介護ヘルパーの大貫というコーディネーターが訪ねて来るが、中年の女性でとても親しみ深い。

まず主人公の詩尹菜とよく話し合い、しばらくして図書館に誘う。彼女に絵本を読ませ、読書への意欲を引き出そうとする。次にカフェに誘い、おいしい飲みものをごちそうしてくれる。このようにして彼女を引きこもりから誘い出し、なにかへの意欲を持たせようとする。

このコーディネーターの大貫さんは、作者の秋月さんを文学の道に誘い込んだ西浦妙子さんがモデルである。一昨年(二〇二〇)に亡くなった西浦さんは、三十年もの共産党町議員の後に、介護事業を立ち上げた人である。同時に民主主義文学の書き手としても永年努力し、立派な本を何冊も残している。

西浦さんは実際に秋月さんを担当し、彼女の文学センスを発見し、作品を書くよう粘り強く励ましてきた。民主主義文学会の全道的研究会で作品を発表させ、中央からの講師の指導を受け、出席者の意見も聞いてきたのである。

私も新会員だったが、秋月さんの成長にびっくりし、私の本も読んでもらい、受け入れてもらった。こうして西浦さんとの二人三脚が始まり、秋月さんの作品は遂に全国誌「民主文学」に載るまでになったのである。

西浦妙子さんは、どんなにうれしかっただろう。西浦さんと秋月さんの努力が実って、秋月さんは立派に成長したのである。私もとてもうれしい。私より三十歳も若い秋月さんはこれからも、もっと成長してほしいと思う。

秋月さんは、恩人の西浦さんの死を心から悲しみ、「民主文学」に西浦さんを偲ぶ立派な文章を発表した。そして今回の作品の中で、西浦さんをモデルにしたコーディネーターを書き込んだのである。しみじみとした実によい文章である。

西浦さんに贈る、またとない弔辞である。

この作品で興味深いのは、イマジナリーフレンドのウサ美の登場である。三十センチ位のウサギの妖精で、主人公にしか見えない。詩尹菜の話し相手になり、助言者になり、物語に深みと幅を持たせている。

このウサ美はどこにでも付いて行き、大貫さんに好意を持っている。私はたくさんの小説を読んできたが、こんなことは初めてである。心の病の幻想だと言ってしまえばそれまでだが、文学の手法としては許されると思う。私は大賛成である。民主主義文学は、これからもっともっと幅と変化を持った方がいいと思う。

私は今回の同人誌で、最も関わりのある人の作品から読み出した。そして高橋篤子さんと秋月礼子さんの二作品にふれることができて、とてもよかった。二人とも自分の作品に満足していないかも知れないが、私はとても心を打たれた。うれしかった。

付記―コーディネーターとは世話役のことである。

  

札幌民主文学通信

二〇二一年十二月〇一日 277号

 

 

 

十二月例会誌上合評

 

 合評作品

 松本 凜 「じいちゃんが死んだ」

  支部誌・同人誌推薦作品 優秀作

     「民主文学」2021年12月号

 

 

 

 

意見一              泉 脩

 九四歳の父方のじいちゃんが九八歳で亡くなるまでを書いている。二世帯住宅に住む両親と高二の息子、三浦翔が介護をする。まず紙おむつの交換から始まるが、ともかく臭い。そして体位交換、食事と続く。

 翔は、いやいやながらそれでも親身に世話をする。描写が克明にリアルになされ、読む方も切なくなってくる。

 やがて自宅では手に負えなくなり、病院、施設と移り、父の妹が一貫して世話をするが、ついには点滴も受け付けなくなり命が絶えてしまう。

 若い翔が、つかず離れず世話をして見舞いにも行くが、その心境の変化がよく書けている。ずっと同居し、うんざりとしていた両親だが、それでも死を迎える時は緊張している様子も、よくわかる。

長命の親を見送る時は、どの家庭でも似たような経験をするだろう。私も妻の両親と同居して、まず義父を見送り、七十歳の母を引き取って十年間同居した。二人の母親の世話で妻がダウンして、私の母を姉に頼み、母は九七歳で亡くなった。

 妻は心労がたたってうつ病が再発し、十年の入院後に亡くなった。私は、結局十七年一人暮らしをしている。

 この作品を読んで自分の体験をまざまざと思い出し、現在八七歳の自分がどうなるのか考えてしまう。翔のような孫はいないし、息子夫婦も生活とたたかっている。

息子は自分の仕事の大詰めを迎えているし、息子の妻は同時に認知症になった自分の両親を三年もの間、介護をして最近見送ったばかりである。

 私は自分がボケないことをいいことに、文学活動に没頭しているが、これからどうなるだろうか。この作品は私にとって実にタイムリーで、切実な作品だと思う。

 

 

 

意見二            村瀬喜史

面白い。一度読了し、テキストに戻り、二度目を読む前に、赤ペンで『作者は何歳か』と、もう一行『実体験が必ずある』と書き入れた。

何度も読み返しながら、頭の隅に、北欧ならどう介護をやっているのか、という思いが離れなかった。私自身が「耐えられない匂いいに包まれた」おじいちゃんの仲間入りをしているからか。

身につまされる気持ちで読み返す羽目に陥っている。

私にも『失禁」の体験がある。応接椅子にこしかけて立ち上るときに気づいた。夜、寝ているとき、夜遅く帰宅した孫が「くさいなぁ」と私の寝ている布団を跳ね除け、くんくんと匂いをかぎ、「やっぱりくさいなぁ」と消臭剤をかけられたこともある。

 この作品について、「支部誌・同人誌推薦作品」の選評の中で各選考委員が意見を述べていて、入選作品でその選評がのせられており優秀作にふさわく好評だった。その評に異論はない。

 

 

 

意見三            松木 新

これが優秀作?と疑問を持った作品です。

この作品で、一番読み応えのあったのが、施設の場面でした。マッサージをしてもらい名前を書く練習をする。「あいうえお」の発声練習をし、歌をうたって、ゼリーまで食べる。

何歳になろうが、何ヶ月後に死を迎えようとしていようが、人間の条件とは何なのかが、ここでは鋭く問いかけられています。

それだけに、この光景を目にした薬学部の学生である〈俺〉が、〈叔母さん、じいちゃんが死ぬのがすごくこわくなっちゃったんじゃないかな〉とか、〈伯母さんも少し普通じゃなくなっていたのかもしれない〉と述懐するのは、浅薄としかいいようがありません。

この家族にとって、おじいちゃんがトリックスターのような存在として描かれているようで、腹立たしさを感じました。

意見四            村松祝子

主人公は高校一年生の男子翔である。彼の高校三年間から大学二年まで家族と共に祖父の看護を亡くなるまで携わった彼の行動を描いている。  

彼はじいちゃんの鼻をつくうんこの臭いも人間的な温かさを持って世話をしている。そこに翔自身の暖かい人間性が感じられ人間って本来こうあるのではないのかと思ったりする。 あるがままのじいちゃんの姿を認め受け入れ、相手と対等に会話している。 反応のないじいちゃんに話しかけてまともな受け答えを期待してないところに、正常な答えが返ってくるところなど本当にじいちゃんは痴呆症なのかと読者をも迷わせ微笑ませてくれる。

父親も祖父に対して深い愛情を抱いているがそれを素直に出せない典型的な日本人男性像がよく描かれている。

翔の目線で書かれているので読みやすく胃瘻するかどうかの問題には一歩退いて付き合う母親と、死に近づいたじいちゃんを少しでも延命させたい父とおばさんの思惑もさりげなく翔の目を通してさらりと描かれている。

じいちゃんの身体的病態も読む者にはリアルに想像された。 読後感が明るく清々しく感じられるのは翔のじいちゃんに対する優しさとじいちゃんを通して翔の性格が良く描かれているからだろう。

もっとじいちゃんに対する家族の対応の様子が描かれてあるとじいちゃんの気持ちも何を考えているのか垣間見られたかもしれない。弟がいると書かれてあるが弟は翔と日常どんな会話をしてどうじいちゃんと関わっていたのだろうか。そのあたりが描かれていると家庭の様子も窺い知れたかもしれない。欲を言えば物言わないじいちゃんは何を思っていたのかなぁと思ったりする。

最後の翔の涙は病と闘ってきたじいちゃんへの称賛なのだろうか。おばさんが俺の腕をトントンと叩いたのはじいちゃんの想いをおばさんと共有できたことなのだろう。この箇所が心に残った。

読み終えて明るく軽いタッチの印象を与えてくれた。

この物語は何を言いたかったのかな?  現代の若者のある一面を描きたかったのかな?

 

 

 

意見五           豊村一矢

 介護を題材にした小説で、筆者の真摯な姿勢に好感したが、少し『浅い』という印象を持った。

 私は人生の終末期の入り口にいると自覚している。妻は私より若いので順当ならば私が先に死ぬ。 

妻と互いの終末期の迎え方について、しばしば議論を交わすが、つねに介護経験や親族たちの経験を参考にしている。

私と妻は、状況は同じではないが、それぞれの両親の介護に係わってきた。親族たちからも、一人暮らしや、夫婦二人暮らしの介護・看取りなど情報は多様だ。

配偶者同士、親子間の自宅同居介護は、きれい事では語れない現実があることを知った。

 一例は叔父夫婦の場合。今は二人とも他界しているが、当時、叔母の方が寝たきりで、排泄機能が低下した。叔父が自宅介護するのだが、叔母の便は固くなり肛門の所で詰まっている。叔父が優しく叔母を励ましながら、ほじり出しにかかる。でも、叔母は死なせてくれと泣きながら懇願するのである。

 二例目、私の母は病院で最終末を迎えた。亡くなる半月ほど前、死期を悟ったのか、メモ用紙に筆圧の弱いたどたどしい文字で「えんめいそちは、しないでください」と書いたかと思えば、翌日、「せんねんも、まんねんも、いきたいです」と書き、心の動揺はあったが知力は正常だった。一方、排尿排便は自力で出来ず、看護士に手当して貰っていた。叔父叔母の話もあり心配したが、母は心を乱すことはなかった。

 妻との議論では、「それぞれ何らかの介護施設でプロの治療や介護をうけながら終末期を迎えるのがいい」としたが、施設の体制が充実度はピンからキリまである。入居資金の調達については結論が出なかった。

 現代、文学の分野で介護を題材にした作品はもっともっと書かれていいと思う。私も、前号の『奔流』で少し意識し書いたが、内容はまったく満足していない。

 優秀作『じいちゃんが死んだ』に励まされた。

 

 

 

意見六            柏原竜      

孫の翔君の目線で、一人の人間の死を捉えている。死とはこの世界に存在しなくなる事である。別れまでの、周りの人たちのその場その場での対応している様子が。両親、叔母の祖父に対する微妙な違いを的確に事細かくみている。祖父の痛々しい姿に手を差し伸べて介護する優しい翔君の気持ちは、時には苛立ち、素っ気なくなる。さらに両親や叔母の祖父に対する介護の違いも敏感に見ている。翔君は祖父に対して冷たくはないが、と言って積極的ではない。なるがままに任せようとしているが、祖父との別れに涙していた翔君。

 私は、同居していた義父母の介護を思い出した。二十年程前、義父は肺気腫で入退院を繰り返していたが、元気だった義母が全面的に介護を引き受けて、私は補助的な存在だった。義母は大好きな踊りをやめ、年に数回行っていた旅行も行かず、義父に付いていた。義父が亡くなった後、義母は十年程元気だったが、秋の夕暮れ時、大豆の収穫をしていて脳出血で倒れた。入退院を繰り返していたが家がいいと言い続けた。家では夫や子供たちが、更に娘である義姉たちが援助してくれた。自宅では週に3回程デイサービスに行っていたがトイレ、食事など様々な介護が必要だった。あの当時、頭の神経はいつも義母に向いていたように思う。「何かあったら」と、無我夢中で過ごした数年間だった。元気だったが突然自由に動けなくなった義母の辛さを感じていた。

 

 

 

意見七          室崎和佳子 

 高校一年の翔が祖父を看取るまでの話である。

 時制を現在と見るならば、疑問に思うことがいくつかある。

 まず、歩けず大小便が自立していない人(じいちゃん)が、何故、一般家庭にいるのだろうか。

 介護保険が確立されて二十年以上になる日本で、普通の生活をしていそうな翔の家庭ならば、介護保険を利用して施設に入所し世話をしてもらう方法をとるはずなのだが……。

 週5でデイサービスへ行き、土日はショートステイをしている(つまり一週間7日とも施設を利用している)のだから、入所した方が良いのである。そうすれば、翔の父が退職する必要は全くない。

 大小便の世話ほど大変なことはない。大変さゆえに、近しい間柄でも、早く死んでくれればいいのにと思うほど、嫌になるのであるから。

 二つ目は、そんなじいちゃんを二世帯住宅の向こうの家に一人で住まわせ、一人で食べさせている、という冷た過ぎる不自然な家族関係である(P8上段後ろから5行目から3行目まで)

 ベッドに横たわったままで何もできない人を一人で放っておいて、食事を運んだり大小便の世話の時だけ適当な時間を見計らって通っているということか。

 まさか、そんなことはあり得ないように思うのだが、文章を読む限りはそういう解釈しかできない。

 以上の疑問ゆえに、余計、施設入所がじいちゃんにとって幸せだと思うのである。

 じいちゃんに対する態度を翔の眼から見ると、父はいい加減で、母は冷たく、どちらも仕方なくじいちゃんの世話(主に大便の世話)をし、自分たちで抱えきれない分を翔を巻き込んでいる。ヤングケアラーと言われる年代の翔を。

 登場人物の中でまともなのは、叔母さん(多分父の妹かと)とマッサージの人、元気な三十代ぐらいのおじさん(P1617上段)である。叔母さんは愛する父(じいちゃん)のために、できるだけの事をしているが、これが普通の姿だと思う。それに比べ、仕事を辞めてまで我が父を介護しようとしたのであろう翔の父のふがいなさ。人間性を失った言葉を連発する翔の母に遠慮してのことであるなら、そのあたりの事情に少しでも触れて欲しかったと思う。このままでは、翔の両親は非人間で終わる。

 P16上段7行目~13行目の「生きているだけで金のかかる人だと、時々思った。一か月早く死んだら、遠くの国へ海外旅行ができそうな金額が捻出できるんじゃないか。」という翔のセリフに違和感を覚え、驚愕した。ここの文章だけ、翔ではなくなっている。この部分だけ突然変異した文章になっているのはどうしてか。この文章を挟んだ前の文章も後の文章も、翔の文章なのに、である。

 

 私は認知症と診断された実の母と義母の二人をずっと見てきて、義母は二年前に、実母は六ヶ月前に見送った。ともに大正十三年生まれで、青春を戦争の渦中で過ごした女であった。義母は生き絶えるその瞬間までそばにいることができたが、実母はコロナ禍ゆえ見舞うこともできなかった。実母は別海町の特養に入所していて、私は月一回片道七時間かけて必ず会いに行った。私を娘とは認識できずに「どこのお方か知りませんがご親切にありがとうございます」と丁寧に頭をさげる母の姿が瞼を離れない。

 

 

 

意見八            後藤守彦

 文学には介護小説というジャンルがあります。ケア小説ともいいます。その定義は、「加齢、事故、病気によって必要(生活、人生の質の確保のために不可欠)とされるケア・看護の場を描いた小説や、介護をめぐって発生する人間関係を描いた小説」(米村みゆき編『〈介護小説〉の風景』森話社、二〇〇八年)となります。この作品は該当するのではないでしょうか。

冒頭の、核心をつく言葉「介護はうんちのにおいとの戦いだ」とオムツ交換の場面で読み手を引きつけ、孫をはじめとする、心優しい家族が祖父を介護し看取るまでを軽妙な筆致で描きあげています。祖父の介護を嫌がる孫が祖父を思いやる人間に変わっていきますが、「人間って、アンバランスに老いていくものだな」「いつも黙ってうんちを拭いてもらっているが、本当はプライドがズタズタになっているかもしれない」、こうした孫の気づきが丁寧に織り込まれることによって、作品世界が深いものになっています。介護という重いテーマは暗くなりがちです。しかし、この作品はそうではありません。生きることの哀しみと喜びをしみじみと感じました。

他方、いとうせいこうの介護小説『どんぶらこ』(河出書房新社、二〇一七年)では、実家に戻った娘が衰弱していく母を見殺しにし、母の死後、遺体をトランクに詰め込んで川に流します。現実に起こった事件が作品に投影されており、苦しみ・悲しみがそのままの、残酷で悲惨な終わり方となっているのです。事実、介護殺人も時々報じられています。個々の具体的な事例によって違うと思いますが、介護小説にとってのリアルとは何なのか、考えさせられました。

 

 

 

意見九           石川節子

もしかして、この作品の作者は高校生では無いかと思いました。

テンポがいい。まよいが無い。この作品で、私はかなり救われました。

我が家の介護者は作品のおじいちゃんより、遙かに病状が軽い。年も若いし病名そのものが違うからなのでしょう。

おじいちゃんのうんちの臭さに参ってしまっていた俺が、ある日、自分のうんちの臭さに気づいて、おじいちゃんのプライドにも思いを巡らすに至るシーンを、さらりと書き進める技には、深い感銘を噛みしめました。

おじちゃんの、娘、息子とその妻の、微妙に違う感じ方と、その振る舞いを観察し、理解を示しながら自分の出来ることを頑張る、この青年は、何と、心やさしい、頼もしいことでしょうか。

作者の人柄と、どうしても、同一視しまうのですが松凜さんはどんなかた

 

意見           泉恵子

 この作品を読んでいると、川端康成の「十六歳の日記」が思い出された。書棚を漁ると『近代文学鑑賞講座 第十三巻』(角川書店)の中にこの文章が載っていた。

 十六歳の作者(後に小説のつもりで書いたと言っている)が七十五歳の祖父の最期の病床と向き合った赤裸々な様子が、淡々とした写実的な筆致で描かれた作品である。

 両親とは顔も思い出せない幼少期に死別し祖父母に引き取られたが、七歳の時祖母が亡くなり、今また十六歳で祖父と別れようという作者。

悲しくも哀れなわが身を思いながらも、祖父の一挙手一投足を冷静な非情な目で描いている。

 昔読んだときはその冷徹な眼差しが印象的だったが、今読み返すと、対象を無慈悲に突き放しながらも、「寂しさ」「悲しさ」が滲み出てくるようだ。

 幼くして次々に肉親の死に出会い、十六歳で天涯孤独の身になったことが、川端文学の根底に流れているといわれている。

 

 「十六歳のーー」では、もっぱら「ししさしてんか」と何度も要求してくる。私は「またか」といやいやながらも、祖父の前を捲り尿瓶(しびん)をさしてやった時のある描写。

 

 「ああ、ああ、いたたったあ、いたたった、   

 あ、ああ」おしっこをする時に痛むのである。   

 苦しい息も絶え絶えそうな声と共に、しびん   

 の底には谷川の清水の音。

 

 この作品には、「じいちゃんーー」によく出てくる便の場面がない。世話をするのは私のほか、私が学校へ行っている時は「おみよさん」という近所の女性が看てくれている。昔、お世話になった恩返しとのことだが、嫁に赤ん坊が生まれたとのことで、泊りはできず、朝夕行ったり来たりの看病で、夜中は私一人が看ている。おしっこも一人でできないのだから便の時は大変だったろうが?

 「じいちゃんーー」では、母や、後には父も仕事を辞めて介護に携わる。祖父の九十四歳から九十八歳までのベッド上での様態を、語り手の俺=翔が高校一年から大学二年までの眼差しで描かれる。

 若々しい率直な筆致で、場面がリアルに浮き上がっている。

 母、父、叔母という肉親が主に介護する傍で何かと世話する翔だが、「十六歳のーー」に比べてまだ余裕がある。優しく思いやリある好青年で、じいちゃんの通夜の前に涙するが、「十六歳のーー」では涙の場面はない。 

 当時(大正の始め頃)、「介護」という言葉はあったのだろうか?「ディサービス」も「椅子式おまる」「紙おむつ」も出てこない。「点滴」や「延命治療」もない。「じいちゃんーー」と比較して、こちらの方が自然な死期の迎え方のような気がした。

 

 「じいちゃんーー」のモチーフ(テーマ?)の一つに、この延命措置に対する疑問があると思う。

 「ベッドに寝かせて栄養を少し上げて、死ぬのを待っているのか。(中略)あまりに残酷に思える」(p14)

 「生きているだけで金のかかる人だと、時々思った。(中略)不謹慎なのは分かっている。(中略)誰もが考えることじゃないのか」(p16)

 「叔母さん、じいちゃんが死ぬのがものすごく怖くなっちゃったんじゃないかな(中略)もう死を待つだけのじいちゃんに、訓練やリハビリを次々とさせた。叔母さんも少し心が普通じゃなくなっていたのかもしれない」(p17)

 「じいちゃん、もう生きなくていいんだよ。(中略)どちらかというとほっとしていた。もう痛くないんだよ(略)」(p20)

 等の言葉に作者の思いが籠っていると思う。

 

 

 

発言十一      北野あかり

タイトルの「じいちゃんが死んだ」と、「介護はうんちとの戦いだ」と、俺は思う。この書き出しがとてもいい。この作品で誰がモデルで、誰がどんなことを伝えたいかがイメージでき、どんな出来事が出てくるのか…という興味が湧き一気に読みました。

1では、うんちの匂いと労力の大変さが伝わってきて、「 もう嫌だ」の心情に共感。

しかし、2、3では、その後徐々に病状が進行し、立てない、正常と異常が混在する意識変化、四肢の拘縮、46時中訴える痛みに翻弄され、父母は手抜きするようになる、放置できなかった俺も慣れてしまう。この、慣れについて、これは恐ろしいことだとの警鐘をならしていることが大事なことだと思いました。

4では、歯が全部あり、何でも食べられる。食事の世話した時など「ありがとな」など、時々まともになるなど、アンバランスに老いていくことを実感したり、自分の便の臭さから、嫌がられ、怒られながら便の始末をしてもらっていることに「本当はプライドがズタズタになっているかもしれない」と思い馳せている。

この排泄の問題は、誰もがいずれ訪れる問題を示唆している。自分の課題として考えなければならないことだと思います。

この時期6で紹介しているが、毎日デイサービスに行く、帰ると日替わりでマッサージ、リハビリ、歯のケア。土・日ショートステイを利用しているが、そのことでの変化がどうだったのか加えたらよかったと思います。

5では、熱中症状況で入院したが、誤嚥性肺炎疑いということで絶食、点滴のみとなる。高齢者が入院すると「…予防」ということで、一様にこのような対応となりがちである。「食べる楽しみ」を奪わない介護は可能と私は思っている。

6では、介護施設での生活となり、死を迎える。施設に入ってからのリハビリで声も出るようになり、歌も歌う。文字を書こうとしたり、経口でゼリー摂取も可能となる。しかし、点滴が入らなくなったのをきっかけに水分補給が不可能となり、10日過ぎ酸素吸入開始し翌日に死亡。12日目だった。

もう生きなくていいんだ。ほっとした。という心境は、病と懸命に闘ったもうこれ以上頑張らなくていいんだよという気持ちが現れていて、悔いはないと思いつつ、溢れる涙はおじいちゃんを失うことの寂しさだったのだと思いました。

 

 

続「十一月例会誌上合評」

       合評作品「忘れ物は重かった」

 

意見        柏原竜

読み終えて、キツイ話だと胸が痛くなった。どうしようもない痛みが響いてきた。離婚をする事は大変な事だが、これから増えていくだろう。波長の合わない相手と、更にⅮⅤをする相手と無理して一緒にいる事はない。たった一度の人生だから大事にしなくては。

 息子洋介が元気に飛び立っていった事は映子には寂しかっただろうが、明日への希望につながった。今、若者の悲しい事件が、虐めや自殺、殺傷事件など多すぎる。しかし、母親映子の息子洋介への愛情がはっきり存在して、それが染み渡っているから、新たな旅たちが出来たのではないかと思う。

 自分の息子2人の事が思い出された。汗臭さや話し言葉、立ち居振舞い。こんな風だったなあと懐かしかった。そして、自分は息子達に映子のように丁寧に接していなかったと反省した。ほったらかしだった。息子達が何を考え何を思い何を悩んでいたのか、今考えても解らない。洋介は親が離婚したという重い荷物と、人間が大人に成長していく過程での葛藤と両方あっただろう。

 自分の家は、夫が単身赴任で月に数回帰って来る生活が長く続いたので「ジジババ付き母子家庭」と言っていた。それが息子達にどう影響したのか解らない。ジジババの助けが大きかったと今つくづく思う。

 この作品は詳細に息子洋介の姿を描写しているからだろうか、自分の息子達の姿とダブって思い出させてくれる。それが凄い。

 洋介がこれからどう成長していくか、更に映子の新しいパートナーとの関係がどう発展していくか楽しみです。

(通信担の都合で二七六号の受付〆切り日を一日早めたため、柏原さんの原稿を載せること

出来ませんでした。お詫びします。 豊村)

 

 

 

 

  投稿欄

 

 

 

101日では遅すぎる』が面白い

             松木 新

 

10月になるといつも気にかけていたのが、SFの傑作であるフレッド・ホイル『101日では遅すぎる』です。ホイルは時間と意識について考察している著名な天文学者です。

1966年に発表された本書が描く作品世界は、1966年のイギリスとハワイ、1917年の中部ヨーロッパ、ペリクレス時代の古代ギリシャ、開拓期以前のアメリカ、遠い未来のソ連、6千年後の国家です。

時間的に異なった時代が、隣り合って存在している世界を舞台に、主役のピアニストと脇役の物理学者が、この時間軸の異なった奇妙な世界を探訪し、そこでは様々な事件が論じられます。

たとえば、1917年の中部ヨーロッパでは、第一次大戦の渦中にあるフランスとドイツの停戦に参画します。すでに確定している歴史的事実をもとにドイツを説得するのですから、効果はてきめんです。

ギリシャではペロポネソス戦争で敗色濃厚なギリシャを救済するために手立てを尽くします。ソクラテスなども登場するのですが、当時のギリシャの民主主義が奴隷制度を基盤していることを、鋭く衝いています。

果てしない未来のソ連は、地表がガラスの表面と化した無人地帯です。核兵器使用の結果かと思って読んでいたら、太陽熱のために地表が溶解した結果でした。

6千年後の国家は、地球上に一カ所しか存在せず、人口は五百万人です。そこの住人とピアニストとの共通言語がギリシャ語ですから、著者のギリシャ文化にたいする思い入れの強さが感じられます。そこで語られる哲学には興味深いものがあります。

〈「まじめな決定的な問題として考えれば、不安なんか何もない。われわれの考え方は、きみたちにはなかなかわかってもらえないだろう。きみ       たちの時代には、重要なことはすべて未来にあった。きみたちは未来を目ざして働いた。進歩の意識が、きみたちを支配していた。そのときに歩いている道は、つぎの角を曲がると見える景色に比べれば、それほど重要ではなかった。われわれの哲学は、まったく違う。いかに現在を生きるかに、重きをおいている。必然と思う状態が容れられないとわかったら、未来を捨てるだけだ。わかっていると思うが、われわれは時間を絶え間ない流れとは考えていない。すべての瞬間が等しく重要だと思っている。過去は失われることはないんだ」〉

面白いのは、ベートーベンの晩年の傑作である「ディアベリ変奏曲」にたいする評価です。

〈それまで私は、ベートーベンのこの偉大な傑作を、別の時代、別の世界のものと考えていた。だが、今それは、かつてなかったほどの新鮮さと、今や遠い昔になってしまった時代の楽器をはるかに凌ぐ迫力をもって聞こえてくるのだった〉

これは、6千年後の社会で、ピアニストが「ディアベリ変奏曲」を弾いたときの感想です。このピアノ協奏曲が、6千年後の世界でも輝き続けるという描写に、誰も異存はないでしょう。

 

 

 

『平山耕佑作品集』

 家族のために作った本

泉 脩

 

 今年(二〇二一)十月二日に亡くなった平山耕佑さんが、残された家族のために、十冊だけ作った本である。

 八月に札幌民主文学会の支部長松木(あらた)さんに電話を掛けて頼み、松木さんはアイワードの竹島さんに連絡して作ってもらった。

 九月になって平山さんの容体が悪くなり、竹島さんは長男に仕事を急ぐよう頼まれた。

出来たばかりの二冊を、長男が病床の平山さんに渡すと、嬉しそうに反応したという。

そして、その二日後に亡くなられた。八五歳だった。

 最近十年あまりで札幌民主文学会の同人誌に発表してきた、十篇の小説・エッセーであり、どれも短いながら胸を打つ作品ばかりである。まず内容を紹介したい。

 最初の「へったれ」は、小樽の私立高校での物語。無口な夫と、同様の息子篠原雄大との三人暮しの、多見恵の日常を書いている。雄大は不格好で親と口をきかず、それでも弁当を持って高校に通っている。朝ぎりぎりに起き、出掛けにオナラをしたりする。母親は自分も高校時代ヤンキーだったので、あまり気にせず諦めている。

 時が経ち雄大の卒業式に出席すると、卒業証書をもらった生徒たちが、マイクを握って感謝の言葉を述べるようになる。なんと雄大もマイクを持ち、学校生活で友人と彼女ができて楽しかったこと、そして母親に毎日好きな鮭弁を作ってくれたことへの感謝を述べる。びっくりした母親は涙が止まらなくなる。

 平山さんが公立高校の校長を退職し、小樽の私立高校の校長になった時の体験を基にした、胸にせまる短篇である。

 「無言の会話」は、作者の実践記録と思われる。高校三年三クラスの生徒全員に、英語の教科書の中の「アンネの日記」を暗誦させるのである。日記三日分の、どの日かを各自が選んで、毎時間一人ずつ発表させる。全員が終ったら、感想を書かせ文集を作るのである。暗誦に先立って、教師がナチスドイツについて歴史的な話をし、特にユダヤ人迫害について教えた。こうして暗誦が始まると、生徒たちは必死に努力し、アンネの日記の内容を考えるのである。平和を願うアンネの訴えは、ぐんぐんと生徒たちに沁み込んでいった。やがて立派な文集が出来上がり、見事な表紙を描いた美術部長の高梨一也は、感想文も立派に書き、大活躍をした。

その高梨から二十年後、妻詩織の死を知らせる通知が届いた。教師は高梨と同じクラスだった栗原詩織のことを思い返し、大人しいので手を掛けなかったことを反省する。そして彼女の感想文を読み返し、無言の会話を交わすのである。見事な作品である。

「宛先のない手紙」は、ほぼ実話である。敗戦間近のカラフトで、小学生の田鍋勝三が転校生の秋田幸男と仲良くなる。賢い秋田は、時々日本の敗北をほのめかす発言をして、田鍋をびっくりさせる。やがて日本は敗北し、一年後秋田が一家の引上げ先の住所を田鍋に渡す。やがて田鍋一家も北海道に引き上げる。ところが田鍋は秋田の住所を書いた紙切れを失くし、埼玉県しか記憶にない。この後、田鍋は埼玉県しか宛先のない手紙を書き続けるのである。

この作品には後日談があり、この作品を載せた同人誌が伝手(つて)になって、同じ札幌に住む秋田と劇的に再会するのである。現実はドラマより奇なり―である。

 「嵐」は小樽の私立高校の話。主人公の木嶋海斗は小学生の時、中二の姉がいじめで自殺する。同じ中学に入りたくなくて、親は転居して海斗を別の中学に入れる。やがて私立高校に入るが、彼は無口で無気力になる。

 二年の時、岡本憲太と友人になり、励まされて元気になる。ところが三年になって憲太が海に落ちた女の子を助け、自分は死んでしまう。

海斗はショックを受けるが、決心をして卒業式の時、マイクを持って語り掛ける。姉がいじめで死んだこと。自分は憲太の分まで生きると―。

 心を揺すられる見事な作品である。

「自分捜し」は、おそらく札幌の高校の話。三年の柳田高志は、いつも窓際の席からぼんやり外を眺めていた。ある日、思い立って近くの祖父母を訪ねた。祖父にビールを飲まされ、戦時中の話を聞く。そして自衛隊には入るなよ、と言われる。別の日には、担任の藤木先生と雑談し、集団的自衛権の話を聞く。高志は自分の進路に思い悩み、学校祭での取組みを思い出し、建築の道を思い立ち大学進学を考えるようになる。

 高校生の自分捜しの話しだが、祖父や担任から、安易な自衛隊入隊を戒められるところがいい。これは私自身も元教師として教えられるようである。 

 「熊ちゃんツアーとジンギスカンツアー」は退職後十年以上経って、かつての教え子たちと旅をした話である。旧姓熊沢裕子が結婚して千葉裕子になり、夫のケガもあって沖縄の石垣島に夫と二人で移住した。平山夫妻は東京に住む裕子の親友、小林美登里と共に二人を訪ねる。裕子と夫の幹夫は三人を大歓迎する。

三年後、裕子夫妻と美登里は札幌を訪ね、今度は平山夫妻が大歓迎する。元教師と教え子の心温まる交流であり、教師冥利に尽きる話である。私も元教師なので、この喜びはよく解かるし、羨ましいかぎりである。

「教師の条件」は、長い教師生活で得た教訓をまとめたエッセーである。この中で、教育の目的は、自分を高め、家族や社会のために役立つ人間になること。次に平和を守り、決して戦争をしない人間になること。この二点を挙げている。

これはまったく正しいと思う。そして作者は自分の教師としての経験を書き、成功と失敗を率直に書いている。

成功は英語教師としての授業のことが中心で、その一つが「無言の会話」に書かれている。失敗の例としては、電気科のクラス担任として、電気に関する英語辞書作りを挙げている。生徒たちの要求ではなかったのである。そして、生徒の要求に基づいた教育実践として、私が五十歳の時に書いた「青春の飛翔」を挙げている。この本は失敗の中から生れた成功の例として、何とも恥ずかしい本であり、恐縮するばかりである。

どんなに無気力な生徒でも「人と交わりたい」、「人に認められたい」という二つの要求を持っている。私はこれに基づいて教師は教育をすべきだ、と考えているのである。

「奇蹟の邂逅(かいこう)」は「宛先のない手紙」の続編のエッセーである。この「宛先のない手紙」を札幌民主文学会の例会で討議した時、村瀬喜史さんが「秋田幸男を知っている」と、つぶやいた。村瀬さんの小樽商大の後輩であり、その後住所と電話番号をつきとめてくれた。平山さんは札幌南区の芸術の森に近い秋田幸男の家を訪ね、二人は実に七十年振りに再会したのである。

「兄の死」は短いが印象的なエッセーである。最近長寿を全うし亡くなった長兄のことを書いている。七人きょうだいの三男としてカラフトで生れた作者は、二人の兄を思い出す。長兄は敗戦間近に予科練に入り、カラフトから引揚げて北海道に落ち着いた家族とやっと数年後に合流した。多くの弟・妹を養うため、兄さんは炭鉱夫として働き、一家を支える。次兄は高校卒業後に銀行員になる。

長兄は定時制高校に入り、文学サークルに打ち込み、作者に大きな影響を与える。作者は、この二人の兄の援助で北大に入り、教師となって公立高校の校長で退職をする。長兄は生涯科学的社会主義支持を貫き、作者の道内七人の元公立高校校長の反戦声明をとても喜んでいたという。共産党を支持し老人ホームに入った時も、小林多喜二全集だけは捨てなかった。兄弟の心温まる協力・協同のエッセーである。

最後のエッセー「ゴムの木のこと」は、まったくの実話である。作者が大切にしているゴムの木の鉢は、三十年前に母から分けてもらったものである。

母は明治時代に福島県の農家に生れ、娘の時にカラフトで女中奉公をした。やがて警察官の父と結婚し八人の子供を生んだ。(一人だけ病没)

敗戦後北海道に引きあげ、道東の炭鉱の町に住む。作者は釧路の市立高校の英語の教師になり、中学生の時の同じバレー部員だった妻と結婚した。その時、母からゴムの木の鉢植えの先の穂をもらったのである。母は同じ釧路の、作者の妹夫婦と暮らし九四歳で亡くなる。生涯貧しく働き詰めだった母親について、作者を含む七人の子供が成長し、多くのかわいい孫も生れ、きっと幸せだったに違いない―と書いている。無謀な侵略戦争の時代を、日本の多くの女性が同じように耐え抜いて生きてきたのだ―とも。

この本は十冊しか作らなかったので、私はやや詳しく紹介した。全体を通じて、私はとても感動した。家族への愛、教師としての献身、そして反戦平和への願い。どれもこれも深々と書かれ、私は胸を振るわせて読んだ。目が悪いので読んでもらったのだが、読み手も元教師なので、二人ともすべてに共感し、胸を打たれた。

平山さんは公立高校を退職して十年後、小樽の私立高校の校長になって苦労されたので、私の私  立での苦しみをすべて理解してもらった。またと無い文学仲間であり、教師仲間である。

このいわば遺稿集に載った十作品は、どれも珠玉のような作品である。私は創作しないので小説は特によかった。エッセーでは「熊ちゃんツアーとジンギスカンツアー」は、まるで天国にいるような気分だった。

私は大学時代から七十年近く読書会をしてきたが、最近の十年間は特に、実り豊かだった。札幌民主文学会に加入したからである。

プロレタリア文学を継ぐ民主主義文学をたっぷり味わい、秀れた書き手と出会い、反戦平和を目指す、たたかう仲間と出会った。

平山さんはその一人であり、すべてにおいて私と一致した。教師には比較的一言居士が多く、何十年とそれで生きてきただけに頑固な人が多いと個人的に思う。その点、平山さんは柔軟であり、私とはなんの対立もなかった。お互いによい理解者になれたのである。

この本は実に貴重な本であり、できることなら多く印刷して、広く読まれてほしいものである。

平山さん、ありがとう。さようなら。長い間御苦労さまでした。

 

 

 

 

今年はどんな年―二〇二二年

後藤守彦

 

 「今年はどんな年」か、と過去に目を向け考える作業を、昨二〇二一年は現在進行形のスタイルで続け、年末に書きまとめた。今年は、そのテーマで年初に考え、これから一年の私の課題をイメージしたいと思う。

 昨年の衆議院議員選挙の結果を受け、昨年一一月一二日、九条の会は「総選挙後の改憲問題の新たな局面を迎えて」と題する声明を出した。今後改憲策動が強まっていくことが予想されるが、今まで策動を阻んできた「力に確信をもって、市民の皆さんが、改憲と九条破壊の阻止のため、決意を新たに立ち上がられることを訴えます」と声明は結ばれている。九条をめぐっては忘れられない出来事が六〇年前に起こっている。一九六二年一二月、北海道大演習場に隣接する地で酪農業を営んでいた野崎健美・美晴兄弟が、自衛隊の砲撃訓練で被害を受け、それに抗議して演習用の通信線を切断した。二人は器物損壊罪ではなくより重罪となる自衛隊法一二一条違反で起訴された。これが恵庭事件である。裁判では自衛隊の違憲性が争われた。二人は無罪となったが、その理由は、通信線は一二一条でいう「防衛に供するもの」には該当しないので、通信線の切断は自衛隊違反にあたらないというものであった。憲法判断を避けた「肩透かし判決」と批判された。現在北広島市に居住する野崎健美氏には、私が事務局員となっている北広島九条の会の例会でお話ししてもらっているが、自衛隊の違憲性を問うために行動した、と明言されていた。この裁判で「初めて九条を憲法の前文とつないだ平和的生存権が登場した」(田中伸尚『憲法九条の戦後史』岩波新書、二〇〇五年)ことの意義は大きい。

北広島九条の会では、三月例会の講師として、知人でNPO法人知里森舎理事の松本徹さんをお招きする。以前、知里幸恵の姪で「知里幸恵銀のしずく記念館」館長の横山むつみさんに講演をお願いしていたが、病気で実現できないうちにお亡くなりになった。今回、ようやく知里幸恵の一九年間の短い生涯について話を聞くことになるのだが、今年はちょうど没後一〇〇年となる。そして、幸恵が『アイヌ神謡集』を脱稿して一〇〇年ともなる。「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由な天地でありました」で始まる、美しい序文を高校の日本史の授業で必ず紹介した。最近幸恵が学習漫画となり話題になった。それが『知里幸恵とアイヌ』(小学館、二〇一七年)で、解説を担当した池澤夏樹は、幸恵の才能を高く評価し、「『アイヌ神謡集』を読む者は、いわば知里幸恵の肩越しに遠いアイヌ世界を見る」と述べている。

 同じ一〇〇周年となると、高校の日本史の授業で一九二二年の出来事として必ず教えていた三つの全国組織の誕生がある。それが、三月に結成された、部落解放運動の全国水平社、四月に結成された、小作人の日本農民組合、そして七月に結成された日本共産党である。昨年一一月に九九歳で亡くなった瀬戸内寂聴は、自分の生年が日本共産党と同じであることを自慢していたそうだ。三浦綾子も同年生まれで、代表作の一つの『母』は、夫光世の強い希望で、虐殺された小林多喜二の母セキを描いている。二〇〇九年、学び直しで上京した際、多喜二を主人公とした、井上ひさし作『組曲虐殺』の初演を天王洲の銀河劇場で観ることができた。その後も全国各地で公演が行われているが、残念ながら、多喜二ゆかりの地である北海道での公演は未実施である。小樽や札幌での公演が実現するよう切に願う。多喜二のように著作を残しているわけでもないが、反戦と革命のため闘い権力に酷く殺された無名の共産党員が存在する。北海道新十津川町出身の西田信春もその一人である。東京帝国大学で学び、九州地方オルグとして活動中捕まり、裁判にかけられることもなく、福岡署で拷問の末に殺害された。多喜二が虐殺された年と同じ一九三三年、三〇歳の若き死であった。最近その評伝が世に出ている。それが闘病しながら上杉朋史が書き上げた『西田信春ー甦る死』(学習の友社、二〇二〇年)である。

生年と逆に一九二二年に亡くなっているのが、文豪といわれる森鷗外である。だから今年は鷗外没後一〇〇年となる。二〇一四年初演で、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した永井愛作・演出『鷗外の怪談』が、昨年一一月からキャストを一新し再演されている。私は二〇一五年に北広島市の芸術文化ホールで観た。大逆事件の弁護人を務めた平出修やこの事件を契機に自身の在り方を転換させた永井荷風などを登場させ、大逆事件との関りで苦悩する鷗外、作家である自分と軍医総監として国家権力に属する自分との葛藤を描いている。夏目漱石の作品は再読してきたし、これからも再読したいと思うが、鷗外についてはどうしてもそうした気持にならない。やはり、社会主義嫌いの好戦主義者山県有朋、幸徳秋水らの命を奪った大逆事件の黒幕山県有朋との関係がどうしても納得できないからだろうか。『鷗外の怪談』では、幸徳秋水らの助命嘆願のため山県有朋邸に向かおうとする鷗外を母の峰が阻んだ、と脚色されているのだが。

 五○周年となると、重大な出来事が二つある。時系列でいうと、先ず一九七二年五月の沖縄返還である。沖縄といえば、どうしても沖縄戦のことが頭に浮かんでくる。沖縄戦に関する新刊で、最近読んだのが深沢潮の小説『翡翠色の海へうたう』(角川書店、二〇二一年)である。小説家デビューを目指す葉奈は、歴史の狭間でいなかったことにされる人たちをテーマにしょうとして沖縄に飛んだ。そこで戦争に翻弄された女性たち、朝鮮人の日本軍「慰安婦」について取材を重ね、当事者ではないのに、と覚悟を問われながらも、重いテーマで書くことを決める。その決意が胸に響いた。

 

   取り上げた題材を深く極めて、小説を書くことで、私自身が「知らない」ことを少しでも減らしたい。私はきっと、書いていい。誰に何を言われようと、自分で決めることだ。書くことは自由なのだ。だけど、自由には、ちゃんとした覚悟や責任がともなう。それは、どういうことなのか、私はもっと考えたい。

 

一六歳の少年兵を主人公に沖縄戦を描いた、野里征彦の新聞連載小説『ガジュマルの樹の下』の書評(『民主文学』二〇一七年五月号)を担当した時も、沖縄戦関連の文献はかなり読んだのだが、まだまだ足りない。私も「知らない」ことを減らすべく、未読の文献にあたってみたい。まず、深沢も参考文献としてあげていた三上智恵『証言沖縄スパイ戦史』(集英社新書、二〇二〇年)から。

もう一つは、九月の日中共同声明による日中国交正常化である。昨年、コロナ禍で流れてしまった「今年はどんな年ー満州事変から九〇年」を演題とする講演を、北広島九条の会の六月例会で予定している。講師の本庄十喜北海道教育大准教授には、今後の日中関係を展望しながら一五年戦争史についてお話しいただくことになっている。

 

 

 

 

続・平塚らいてう没後五〇年によせて

            木村 玲子

 

 一九一一(明治四四)年、らいてう(二五才)は『青鞜社」を立ち上げ、雑誌『青鞜』を刊行し続けるが、五年後の一九一六年「無期休刊」となった。

 女性の自我の目覚めを訴え、女性抑圧の体制に挑戦した『青鞜』だが、専ら内面の覚醒に注がれた「文芸書」であって、当時の社会問題ー例えば大逆事件などーには無関心であった。二年目に福田英子が「婦人問題の解決」という文章を載せたが、社会主義者の論文だということで発禁処分を受けている。

 社員には当初は女子大出身の中産階級か、やや上の良家の娘たちが多く(注1)、のち地方出身の伊藤野枝らも加わるが、実務を担っていた保持研子が病に倒れ、また他の娘たちも結婚等で欠けてゆき、編集はらいてうの肩にかかってくる。

 そのころ奥村博史と知り合ったらいてうの身にも「共同生活」という変化が生じ、編集や雑務に疲れたらいてうは体調を崩し、留守を伊藤野枝に頼んで、千葉の御宿海岸へ療養に行ってしまう。のち、正式に発行権を野枝に譲り、博史の結核療養に伴って茅ヶ崎へ転地し、らいてうは長女曙生(あけみ)を出産するという慌ただしさであった。

 一時は子どもを産むことにも懐疑的だったらいてうは、子どもを儲けてから、母性が急速に成長して行くが、育児と仕事と、博史の看護の生活に葛藤することになる。

 それは『青鞜』を引き継いだ伊藤野枝にもー当時は辻潤との同棲生活で、家事、育児にも多忙であったー同様に押し寄せた忙しさで、遂に疲れ果てて一年後、『青鞜」を無期休刊するという状況に陥ったのだった。

 仕事を持ちながら、家事に育児とを両立させてゆく難しさは今日的な課題でもあるが、保育所などの施設が今以上に不十分だった時代の女性たちの大変さは並大抵ではなかったろう。時には子守りやお手伝い(当時は女中)さんを雇ったりすることもあったようだが。

(注1)物議を醸した尾竹紅吉は女子美術学校、神近市子は女子英学塾(のちの津田塾)出身。

 

 エレン・ケイの『恋愛と結婚』や「婦人解放」思想に学び、長女曙生の出産から二年後には長男敦史が生まれたらいてうは、母性保護思想に確信を持ってゆく。与謝野晶子との「母性保護論争」を経て、働く婦人の実態を知りたいと、愛知県下の繊維工場などを視察する。そこで働く「女工」らの過酷な姿に「地獄を見る」思いで衝撃を受けた。 

 時あたかも第一次世界大戦後の日本が資本主義体制を急速に拡大させており、、労働運動も盛んになって中、らいてうの眼も社会に向かって開かれていった。働く婦人たちの団結こそ必要と、市川房枝、奥むめおらと「新婦人協会」設立の準備にかかる。その「創立趣意書」には、

「今こそ婦人は自分自身の教養や自我の充実を期するのみならず、相互の固き団結の力によって、社会的地位の向上をはかり、婦人として、母としての正しき権利獲得のため、男子と協力して戦後の社会改造の実際運動に参加すべき時であります(略)」と、婦人の解放のためには社会改造が必要との認識を深め、そこで初めて女性参政権を要求してゆくことになる。

 同時に婦人の政治結社、政治演説会への参加禁止を謳った「治安警察法第5条」の修正と、「花柳病男子の結婚制限法」の請願運動も起こす。

 二年後、「治安警察法第5条」の改正だけは勝ち取ったものの、激しい運動でらいてうはまた自家中毒症状を起こして、転地療養をする。そんな頃、社会主義婦人運動「赤蘭会」(「蘭」はさんずい)との間で論争が起こるが、らいてうは不在で、市川房枝も極度の精神疲労がたまり、奥むめおが一人で対応する状況だった。やがて「新婦人協会」は足掛け三年程で解散することになり、市川房枝はアメリカに渡って気分転換を図り英気を養うことになった。

 「新婦人協会」の機関紙『女性同盟』には宮本百合子が「ひしがれた女性と語るー近頃思ったこと」(一九二一年月)との文を寄稿していて、婦人運動にも関心を寄せていた。だから解散を知った時の日記には「平塚らいてう氏の新婦人協会が瓦解したという報道がある。同棲の微力寂しく感じる」(一九二二年七月六日付)と書かれている。

 翌一九二三年九月一日、関東大震災発生。数日後「災害救済婦人団」が結成された中に、らいてうや百合子の名前も見える。が、ここで二人は会っていたかは不明。百合子の日記がある。

「三宅やす子、金子茂、坂本真琴、平塚明子、赤江栄子、西川文子、その他で、災害救済婦人団の仕事を始める。例によって自分は、一切講演などには出ないこと、表面でさわぐのはおことわりという前提で小さい内の仕事だけ助力することにする。」(一〇二三年九月二七日)

 百合子は、婦人運動に関心を寄せつつも、前面に出て活動するのは控え、一定の距離を持っていることがわかる。「作家」としての立場を保った発言か。らいてうの記憶では、百合子とは「全くと言っていいほどご縁がなく」、最初に会ったのは、長谷川時雨の主宰した雑誌『女人芸術』の会の席上ー百合子がソビエトから帰国し、「新しきシベリアを横切る」を『女人芸術』昭和六年一,二月号に発表している頃ーだったと書いている。(「その明るさ、曇りなさ」一九六九年六月刊、新日本出版社『宮本百合子選集』第一〇巻「月報」)

 そこでは、そのあまりの明るさ、曇りなさ故、影のなさすぎる不満が残って、百合子の印象をどこか物足らないものにしてしまった。そんな自分の印象は実際の像とは重ならないだろうが、それ故、「遂に宮本さんを知ることがあまりに少なかったことを、いま、残念に思われてなりません」と述べている。

 

 その後、一九二五年に初めて「普通選挙法」が「治安維持法」と抱き合わせで公布されている。が、男子のみの二五歳以上の選挙権で、婦人参政権はなかった。アメリカ帰りの市川房枝らが「婦選獲得同盟」を作って闘ったが、時あたかも治安維持法の吹き荒れる時代で、三、一五事件などによって潰されている。

 

 そんなころ、成城に新居を構えたらいてうは消費者協同組合運動に関心を寄せ、成城に「消費組合 我等が家」店舗を立ち上げ(一九三〇年、らいてう四四才)、組合長(理事長)として、戦時体制で閉めるまでの八年間近く活動している。

 同時に、婦選運動にも発言し、「全婦人団体よ、婦選をその綱領に掲げたる無産政党を応援せよ」(一九二八年『東京日日新聞』)との文を投稿したり、「婦選運動をいかに導くべきか」(『婦人公論』一九二八年七月号)と、そのころ立ち上がった「婦人参政権」を掲げている無産政党を応援しようと呼びかけている。

 また、高村逸枝の主宰する「無産婦人芸術連盟」に参加して、機関紙『婦人戦線』に次のような文を寄せている。

「新婦人協会創立時のわたくしは、婦人の立場からしきりに女性による社会改造を叫びながら(中略)いわば社会政策的ないしは社会改良主義的立場以上のものではなかったことは明白です。

 しかしそのわたくしももうそうした局部的社会改善をもって満足することはできないのでした。現在のこの資本主義(中略)その経済組織そのものの根本的立て直しを女性の立場から、同時に階級の立場から要求しないではいられなくなってきました。しかしそれにもかかわらずマルクス主義社会運動は、第一、その運動方法において、それの戦術において、第二にそうして実現されるマルクス主義の社会組織形態において、わたくし自身の本性(わたくしの個性とわたくしが持つ女心、あるいは母心)との間に到底相容れないあるものを感知させ、結局わたくしの全てを克服し、納得させ、そうして立ち上げらせてはくれないのでした。こういうわたくしの心はマルクス主義社会運動よりも同じく現代の資本主義組織に反抗する無産階級運動として、徐々に、そしてまことに地味ではあるが、しかし今や全世界に広がり、次第に発展しつつある協同組合運動により多くひきつけられて行きました。(中略)最も日常卑近な台所の消費生活を相互扶助の精神により協同の基礎の上に立て直すというまことに平和な、それでいて最も具体的な、実践的な手段、方法を通じて、資本主義社会を確実、有効に切り崩しつつ同時に協同自治の新社会を建設してゆくこの運動こそ(中

 

略)女性の生活と心情とに最も相応した、従って一般女性の立場から成し得られもするし、またしなければならない運動である、と思われるのでした(以下略)」

 当時の社会主義運動にどうしても相容れないものを感じるらいてうの「協同」にかける思いには

アメリカから発生したコミュニタリアニズムの精神にも学んだと思われ、現在言われる「コモン」(斎藤幸平『人新生の「資本論」』)の精神にも通ずるところがあるのではないか。

   また、ここでも言われる「相互扶助」の思想は、かつての『青鞜』時代の仲間伊藤野枝と、共に関東大震災直後に憲兵隊に虐殺された大杉栄の唱える「無政府主義」にも通ずるところがあると思われる。二人の虐殺のニュースを聞いたらいてうは、「いかにも野枝さんらしい最期」との感想を述べているが、この二人の思想にも関心を寄せていたのではないだろうか。

 このような協同自治社会構想、国家権力の支配から自由な平等社会を目指した思想ではあったが

「現実に自分たちを支配している国家権力=天皇制を克服する展望を持たなかったがゆえに、日中戦争以後急速に強まる総力戦体制の下で、もろくも解体する」(米田佐代子『平塚らいてう評論集

』解説より)

 当時のらいてうには「天皇制」を容認するような文章もあり、戦時体制に順応するかに見えたが、一九四二年、いち早く茨城県戸田井に疎開し、以後敗戦まで農耕生活に従事して沈黙を通し、からくも回避した。

 

 その前年、太平洋戦争の開始前の八月、息子敦史の大学卒業、就職の折に「私生児」は不利と知り、「奥村」姓に改めている。

 

 

 敗戦後二年程は戸田井に留まって、今後の自らの道を探っていた。そこに発布された「日本国憲法」に大いに共鳴し、感動する。

 成城に戻ったらいてう(六一才)は、平和関係の書物を漁り読み、翌四八年、市川房枝の公職追放に抗議し、追放取り消し申請書をGHQケージ大佐宛に提出する。二年後、「非武装国日本女性の講話問題についての希望要項」をガントレット・恒子、上代たの、野上弥生子、植村環らと五名の連記でダレス国務長官に提出するが、この八項目の要請書はらいてうが起草した。「非武装中立、全面講和を求めるとともに、いずれの国にも軍事基地を提供しない、再軍備反対の姿勢を明確に示したもので、これまでのらいてうを一歩飛躍させた」(前掲書「解説」)ものだった。翌五一年には「再軍備反対婦人委員会」を結成し、自ら委員長(副委員長は市川房枝、上代たの)となるというように、目覚ましい活躍を展開する。

 それに先立つ四九年の「婦人の日大会」(全婦人団体統一開催)には、婦人参政功労者として感謝状を送られているが、その時の「表彰に答えて」(昭和二四年四月十日「婦人の日」に記す)の挨拶には、「解放された婦人の力を、愛を、知恵を、世界恒久平和への、最も現実的な、具体的なそして合理的な正しい道の探求へーと結集しようではありませんか」と高らかに謳っている。(前掲『平塚らいてう評論集』所収)

 この精神に沿って、講和条約に反対し、世界婦人大会への代表派遣に奔走し、五三年には「日本婦人団体連合会」(婦団連)を結成して初代会長となる。

 激しい活動で体調を崩し、静養しながらも、原水爆の製造、実験、使用禁止を全世界の婦人に訴えて、「世界母親大会」開催の原動力になり、五五年には「日本母親大会」開催へと繋がる。六〇年には「完全軍縮支持・安保条約廃棄を訴える声明」を各界二五名の婦人連名で発表。六二年「新日本婦人の会」結成時には、会長に押されるも既に七六才の身で、固く辞退し代表委員として名を連ねた。

 しかし、現実にはらいてうの願いは踏みにじられ続けた。日米安保条約の発行による基地の提供、そこから飛び立ってゆくベトナム戦争の爆撃機、被爆国でありながら核武装をもくろむ(現在では核兵器禁止条約に署名もしない)政府などなど。

 しかし「庶民の中に生まれる力を信頼して」「わたくしは永久に失望しないでしょう」(「庶民の中に生まれる力」『婦人公論』一九五六年)と希望を捨てなかった。

 八〇才になって、病に侵されながらも安保条約廃棄を求める声明を出し、杖を突きながらのデモ行進に加わっている。また、「ベトナム戦争を止めさせるための全日本婦人への訴え」(一九六六年)を発表し、七一年八五歳で永眠(胆のう胆道がん)の直前まで発言し続けた。

 

 この項では触れなかったが、かつて二〇代のはじめ、「塩原事件」という作家森田草平との心中未遂事件を起こして、世間を騒がせた。その時のらいてう(当時はまだこのペンネームはなく平塚明子)の遺書には、「われは決して恋のため人のために死するものに非ず。自己を貫かんがためなり。自己の体系を全うせむがためなり。孤独の旅路なり。(略)」と書き残していた。(『平塚らいてう自伝 元始女性は太陽であった』)

 世間の非難や中傷を逃れて一人信州の山奥で自己と向き合っていたらいてうの葛藤は如何ばかりかと思われる。が、そこから息を吹き返し、やがて『青鞜』を立ち上げ、その後も悩み苦しみながら前を向いて歩み続け、戦後は「日本国憲法」の精神に則って、世界平和を訴えつづけた。その行動力とそれを裏付ける深い思索には、世間の常識や慣習に囚われない、どこまでも自己に対して忠

実であろうとする信念が貫かれている。

 没後五〇年、良い巡り合わせを頂いた。

 

 

 

 

  

札幌民主文学通信

二〇二一年十一月〇一日 276号

 

 

 

十一月例会誌上合評

 

 合評作品

 杉山成子 「忘れ物は重かった」

    「民主文学」二〇二一年十一月号

 

 発言1  村松祝子

主人公映子は夫、和夫の暴力から逃れるために四歳になる一人息子洋介を置き去りにして家を飛び出した。

一瞬の出来事だった。 しかし一一年後大学受験を迎えた洋介から「あなた、私を捨てたんでしょ、一度」と浴びせられる。

自立して働いている映子にとって、辛い言葉であった。

最近やっとジェンダー平等が世の中で叫ばれてきたが世の中に理解されるまではまだまだ先は長いとこの箇所を読んで思った。

息子の洋介は母親の映子が子育てをするのは当然という感覚で生きている。放棄したことをなじるところは母親の人生にも別の行き方があるのだという感覚はゼロである。 しかし洋介の感覚は高校生として一般的だろう。

杉山成子さんの前作で息子を残して飛び出してきたことは禍根を残すことになるのではないかと以前合評会で出た。 私はその時主人公のこれからの行き方にエール送ったのみだったが、案の定残された息子洋介の苦悩が今回描かれている。 これは母親の立場で描かれているが息子の立場で彼はどんなに悩んで十五歳まで生きてきたのであろうかと想像された。彼の悩みは「あなた、私を捨てたんでしょ、一度」に表されているがこの考えを克服するにはこれからの長い人生で克服されるといいなあと期待した。 進路指導の教師が「親から独立して暮らしてみると、予想外のことに気づいたりもするらしいですよ。棚瀬君がそれを人生に活かしていけるよう願っています」との言葉は世の中には教えられ、克服するチャンスが周りにはたくさんあるとうことを示唆してくれている。

現代には離婚する夫婦も多いだろう。 その下で青春期の子供たちの悩みを垣間見られた一編だった。

洋介のいかにも口数の少ない高校生らしい雰囲気がよく読み取れた。最後に親の作った弁当の紙袋を忘れていくところは、幸せな親子だなと皮肉にも考えてしまった。

蛇足だが私の姪に神戸に住んでいる子がいる。彼女は男の子を連れて離婚した。彼女は二度目の結婚をしてその男性との間に女の子をもうけた。 前夫の夫との間にできた子は現在中学三年生である。 この小説を読んでその子のことをふと思い浮かんだ。 洋介のように未来に向かって旅たつ子であってほしいと。

現代はいろいろな家庭の形があってしかるべきなのかもしれない。

 

 

発言2  室崎和佳子 

 暴力行為が原因で別れた映子の十一年後か十二年後の物語である。 

 惨憺たる暴力の現場でただただ泣いていた洋介も高校一年生になり、これまで暮らして来た父親の元から出て母親である映子と暮らしたいと言う。

 父親の過干渉が原因であった。

 映子にしたように、全てを自分の掌中に留めておかなければ気が済まない性格に育ったために、大人に成長中の我が子に嫌われてしまったのである。

 このことは大半の親が経験することであるが、親も子も互いにどこかで折り合いをつけて、なんとか乗り切っていくのである(乗り切れないで、衝突したまま進んでいくほうが比率的には多いかもしれないが)

 和夫の場合は映子とのことで明らかになったように度が過ぎているのと、たまたま両親が離婚していて二つの家があるので、洋介は映子と住むことを選択したのだろうと思う。

 それにしても、和夫という人物はなんと不幸な人間に育ったことか。「あなたが一番」と母親に褒められて育ったことがたくさんある原因の一つに数えられるのかもしれないが、褒めて育てるのは子育ての常道である。

 褒め過ぎは良くないということか。

 大概の人間は、母親に褒めまくられて成長したとしても、中学、高校、大学、社会人を通じてたくさんの人と出会い、様々な経験をする中で、己の身勝手さや不甲斐なさ、友人の果敢さ、正義感を実践する素晴らしさ等を見聞きすることで、どんな人間になることが良いのか、を感得するのである。

 自ずと、自分が一番では通用しない。

 そうやって大人になっていく。

 P22下段2行目「いろいろな事情って、なんかきれいにいうけど、あなた、私を捨てたんでしょ、一度」という洋介の言葉で映子は愕然とする。

 洋介の言葉は当たり前のこんこんちきである。

 この言葉に驚くようでは、映子もまだまだで修行が足りない。

 と、偉そうにいうが、人間が親になるとは、そういうことだから、である。

 私の母は父親の命令で結婚させられ、私を身ごもり、私を産んだ。私の父が嫌で嫌でたまらなく、日明け(女に許された出産後二一日間の休暇が終わること)を待って、生後二一日の私を連れて婚家を出た人である。

 私は中学一年の時その事実を知り、母を恨んだ。

 でもね、和佳ちゃん、母さんは「この子だけは死んでも離しません、私の大事な子ですから」って言って、あんたを抱きしめて離さなかったんだよ。

 母の妹の保子叔母からそう言われて、初めて母を許した。

子とはそういうものである。あなたが大切で愛おしくてたまらなかった、と母親に言われることで、全てを許すことができるのである。

 映子はどんなに厳しい生き方の中にあっても、洋介にそれを伝えるべきだった。そう実践するべきだった。

 それができなかった映子は、それに気付かされた今から、それをすればいいのである。 

 遅過ぎるということはないのだから。

 

 洋介は英子の作った弁当を、わざと、忘れたように見せかけて、あえて持たなかった、持ちたくなかったのだと思う。

 私だったらそうする。

 母と離れた記念すべき初日に、何が楽しくて母の弁当を食べる子がいようか。

 いるはずがない、からである。

 と、ここまで考えて、「ふさわしい幕切れ(P30下段最後から2行目)」と表現したとしたら、英子さんは合格だと思うが……。

 だから、「右手に提げた紙袋がずっしりと重かった。(P30下段最後から2行目〜3行目)」のですか。どうなのですか。

 

 親というものは寂しいものです。楽しいものです。いつまでたっても親は親ですから。

 

 

 発言3  泉 脩

 四歳の息子洋介を残して、暴力を振るう夫から逃れた大島映子のその後。

 和解協定により月に二回、洋介に会っていた映子は、高一になった洋介から同居しようと言われる。息子を持て余していた元夫も同意する。ところが三年後、洋介は京都の大学に入ってしまう。

 東京を舞台にした物語だが、「お母さんは僕を捨てたんだ」という洋介の一言は痛烈である。母親映子のゆれ動く気持ちが、実によく書かれている。子供の親離れは必然だが、夫の暴力による離婚がからんでいるので、親子三人の心境の変化は複雑であり、容易に理解できない。しかも別れた夫婦はそれぞれ恋人をつくり、息子としては増々やり切れない思いだろう。こんなむずかしいところから逃げ出したくなる気持ちもわかるような気がする。冷静な白川弁護士の助言、映子の恋人の意外に適切な助言もあって、すべてはあるべき道を進んでいく。

 作者は、自分の体験をもとに連作を書いてきたのだろうか。これからの展開が待たれる思いである。

 夫の発達障害による支配欲と暴力。このような男に、恋してしまった女のあやまち。そんな中で生れた子供が、よくここまで立派に成長したと思う。どんな大学生活を送り、結婚をし、社会生活を送るのだろうか。いわば発展小説として、この連作の今後の成りゆきが楽しみである。

 

 

発言4  松木 新

新人賞受賞作の続編として、楽しく読みました。テーマの凝縮性では、DV被害を中心にすえた前作の方が迫力はありますが、思想性では、主人公の思想にほころびが見えた前作よりは、今回の方がスッキリと整理されており、読み応えがありました。

〈「いろいろな事情って、なんかきれいにいうけど、あなた、私を捨てたんでしょ、一度」

「捨てた」「あなた」「私」、洋介の使った言葉が映子の胸に突き刺さる〉

この作品で、一番光っているのがこの文章です。

洋介とは月に二度ほど会っている映子が、「あなた」「私」という言葉にショックを受けたことからも、この言葉はこの場で初めて、洋介の口から発せられたのでしょう。この言葉には、洋介の覚悟が込められているのが、よくわかります。この言葉を使用した作者のセンスが光っています。

〈「一生、恨まれてもしかたないことだと思う。とり返しがつかないとも思う。だけど、あのとき、お母さんにはああるするしかできなかった。せめて、自分が洋くんにそういう苦しみを与えてしまったという事実を死ぬまで背負っていこうと思う」。それがいま映子にいえるせいいっぱいであった〉

「とり返しがつかない」ことをしてしまった映子が、「とり返しがつかない」ことを取り返すために、一歩前に進み出る、その行為は不条理だけれども、そこに行動のエネルギー源があることを、この物語は語っています。

 

 

 発言5  豊村一矢

 前作『誰もこの涙に気づかない』には明確な創作意図があり読み応えのある作品だったが、大きな欠点と思わざるを得なかったのは、予定調和的な展開、作品の仕立て方だった。続編と銘打った本作品『忘れ物は重かった』は、よくある、あるいは、よく聴く人間模様を描いて趣が変わり面白く読めたが、やはり、予定調和的な展開が欠点のように思える。

 前作の「誌上合評」でも描いたが、明白なDV事件による離婚訴訟、洋介の親権問題でも争えば経済力もある映子の勝利は確実と思われる状況下、最後に、「そうだ、洋介は和夫に託そう、いい父親だもの、ちゃんと育ててくれるはず」となったのにはびっくりした。本作続編での成り行きを読んで、やはり予定調和であったと合点したが、でも、自立した女性を目指す映子にとって離婚は選択の余地のない通過点で、必然的に洋介の恨みを生んだとなると、私は混乱する。

洋介の「あなたは私を捨てた」の言葉に打ちのめされるが、映子はこういう場面での覚悟があったはずだ、準備もあったはずだ。実際、準備や覚悟については、本作続編でも、離婚を回想する場面で触れている。

映子は洋介に「お前を川に流したのではない。教会の門前に置いてきたのでもない。和夫に託したんだよ」と説明するか、または「私への憎しみをバネに生きて行け」と突き放してもいい。それも愛情だと思う。

 私は作者が意図したかどうかはわからないが、洋介に狡さを感じる。「あなたは私を捨てた」と攻撃して負い目に苦しむ映子に、食事だの、小遣い銭などを上から目線で集(たか)る魂胆が見えた気がするのだが……如何?

 映子さん。いい加減の所で「あなたは大人になりました。そろそろ、私は負い目にサヨナラします」と宣言しましょう。それも愛情だと思います。

最後に。

映子と和夫の両方それぞれに、親しくお付き合いしている子持ちの片親家族が設定され、映子の相手は男性、和夫の相手は女性だ。この思わせぶりなアイテムが作品の中でどんな役割を果たしているのか解らなかった。未完成の予定調和だろうか。

 

 

 

 

 

 発言6  北野あかり

「生まれてくる子供は親を選ぶことはできない」ということを聞きますが、子供にとって親の存在がどれほど大事なことかを改めて考えさせられました。

作品の中では、離婚した時子供が4歳であり、目の前で繰り広げられたた母に対する父親の暴力より、突然目の前から自分を置いて出て行った母のことの方が、子供にとっては衝撃的なこととして残り、「捨てられた」として、消し去ることはできないのだと思います。更に16歳になり父親の支配から逃れて母の元で一緒に暮らしたいと訴えてきた時、母はシエルターとなるべき存在と考えたのだが、母親にはすでに週末に寝食を共に過ごしている恋人親子が存在している。

週末以外は子供と、週末は恋人と暮らすという事を子供が納得して受け入れるはずがない。それとなく話しているから…と言うのは親のかってな思い込みであり、またしても母親に捨てられたと思ったのだろう。 自立したいと大学入学をきっかけに、親元を去る息子が忘れたように置いていったお弁当の包みは、それを表していると思いました。

しかし、母親にも父親にも、新たな人生を生きてい欲しいとも思う。そのためには、子供の幸せのために親はある程度自己犠牲を払わなければならないのだと思います。それがいつの間にか母親にも父親にも恋人が出来ていることをそれとなく知るという事は、子供にとって耐えがたい苦しみとなることを知るべきだと思いました。親はある時期までは自分の欲求を抑え、子供の成長や人生の節目を考えて、子供に対して一人の人間として誠実に対応するべきだと思いました。

 

 

発言7  後藤守彦

 前作では夫和夫からの妻映子の自立が離婚という方向で、本作では離婚した両親の子洋介の自立が一人暮らしという方向で進みます。前作では作者の映子への感情移入がやや強かったのですが、本作の筆致は冷静で細やかです。映子の人間像も豊かになっています。一緒に暮らすようになった洋介のユニフォームを洗いながら、そうした作業を長い間続けて来た和夫への敬意の感情を抱くところや、洋介と和夫の悪口を言い合うことはしないと決意するところなどは、内面描写として良かったと思います。洋介は和夫を外では進歩的、内では保守的と批判します。保守的とは言い換えると支配的となるでしょうが、映子をも苦しめた和夫の二面性について、前回の紙上発言でも述べましたが、やはり深めてほしかったと思います。こうした人格の持ち主の存在は否定しませんが。

離婚夫婦の子の様々な困難について、白川弁護士に語らせています。少し説明調であったものの、問題を理解する意味で有効でした。映子はやむにやまれぬ状況で泣きじゃくる洋介をおいて家を飛び出すわけですが、洋介は母に捨てられたと認識しています。この傷は深いと思います。夫と妻、親と子という二つの糸でつながっている社会の基本単位である家族を描いた作品は、小説のみならず映画、TVドラマにも数多くあります。困難を乗り越え家族が再生する、それが共感をよぶところです。本作の家族はどうなっていくのでしょうか。洋介が大学進学のため家を出る時、映子が用意した食べ物をいれた紙袋を忘れるのですが、それはうっかりだったのでしょうか、それとも?考えすぎかもしれませんね。

 

 

 発言8  泉恵子

 前作「誰もこの涙に気づかない」を読んだとき、残された子ども(洋介)はどうなるのだろうと行く末が気になったが、そんな読者の思いに応える作品だ。

 

 暴力を振るう夫と別れてから十二年、あの時四才だった洋介は高校一年生になり、父親のもとから離れて、母親とともに暮らすようになるが……

 両親の離婚が子どもの心に与える影響の大きさ。重い荷物を背負わせてしまったことに今更ながら気づかされる主人公映子。

 「離婚する親は勝手」「あなた、私を捨てたんでしょ、一度」という洋介の言葉に動揺する映子の葛藤が赤裸々に正直に描かれている。

 

 しかし、暴力から咄嗟に逃げたあの時、どうすることもできなかった。奥で泣いていた四才の洋介を抱いて、という行動をとっていたら、再び夫の和夫に捕まって逃げられなかっただろう。「我慢できなかったことを我慢しなかった」選択は間違っていない。ひと昔前は、それでも子どものために堪える妻というのが美徳だったかもしれないが、そして妻に経済力のなかった時代はそんな構図もしばしば見かけられたが、それは間違っている。

 一人の人間として、幸せを追究する権利がある。ジェンダー平等の時代である。「我慢できないこと」を我慢する必要はない。

 ただ、あの咄嗟の場面で一瞬踏みとどまって、翌日でも和夫のいないときに、こっそり洋介とともに家を出るという行動をとっていたら、少なくとも「捨てられた」という感覚だけは免れたかも知れない。後日裁判で、どうしても子どもを夫に引き渡さざるを得なかったとしても。

 しかし、幼い子にとっては母親がいなくなるのは、父親よりも打撃が大きいだろうと思う。関わる時間が長ければ尚のこと。 

  それでも洋介は、重い荷物を背負いながらも、健気に育っている。男手一つで懸命に育てた和夫や、ひと月に二度会う母映子の真摯な愛情が反映しているのだろう。しかし、和夫の過干渉は思春期の洋介にも堪えられなくなって、今度は母親と暮らすという選択をする。が、どちらかを選ぶという理不尽から、大学は両親から離れて地方で暮らすことを決意する。独り立ちへの健全な思考のように思う。離れて暮らすことで、父親や母親のこともより冷静に見つめられるようになるのではないか。

 心の傷を抱えながらも、アメフトやバスケに汗を流し、自立して(当面経済的援助は受けるが)前向きに生きようとする洋介の逞しさに救いを感じた。

 最後の、ずっしりと重いお弁当の忘れ物は、そんな重たい荷物を忘れてきた(残してきた)映子自身の痛みとも重なり、洋介にとっては重い荷物からの脱出も意味するのかと思われる。

 

 それにしても、和夫の過干渉、支配力の強さはどこからくるのだろう。遠因にあるのは家父長制の名残か、男の子への母親の溺愛か。歪んだ精神を身につけてしまって、柔軟に考えられない和夫には悲哀を感じた。

 

 

 

 投稿欄

 

 

旭爪あかね「稲の旋律」

    ひきこもりからの再生

泉 脩

 

 二〇〇一年~二〇〇二年にかけての半年間、新聞赤旗に連載された長篇小説。旭爪あかね(一九六六~二〇二〇)の代表作であり、演劇化・映画化された。

 主人公薮崎千華は三十歳。音楽大学を中退し十年間もひきこもり、アルバイトも就職も長続きしない。

思わぬことから千葉県三喜町の農民、広瀬晋平と文通するようになる。やがてひきこもりから抜け出し、晋平の農業を手伝うようになる。晋平は農家の長男として生れ、農業高校で学び、父母と稲作を中心にした農業を行うようになる。二十代と三十代の時に手痛い失恋をして、四十代中頃の現在まで独身である。

千華は自分のSОSの通信に応えて、晋平がくれた手紙に率直な内容の返事を出す。中学の校長の父と、専業主婦の母の期待に応えて優等生になり、ピアノが上手になる。父は千華が教師になることを望み、母はピアニストになることを望む。千華は、間を取ってピアノの教師を目指して音楽大学に入学する。しかし途中ですべてが空しくなり、ひきこもりになるのである。

晋平は自分の失恋の経験を手紙に書き、千華に急がずに生きるように勧める。そして農業のきびしさ、楽しみ、喜びについても書く。千華は晋平の手紙を読むうちに、農業への関心が強まり、二人の文通に反対する母に、怒りがマグマのように噴出する。そして一人で三喜町を訪ね、紆余曲折のあとに晋平の家に泊まって農業を手伝うようになる。

脱サラをして農業をする二十代青年の新、晋平の姪で小学生の時からひきこもった十代後半の奈緒と友達になり、かつての勤め先の先輩で四十代の広川逸子もひき込む。

一年後、晋平は逸子への愛を千華に告げ、失望した千華はまたひきこもるが、みんなの励ましで立直り、自分と逸子が田植えした実験田で、ピアノのミニコンサートを行うのである。

以上がおおよその内容だが、実に深い多岐にわたる内容が込められ、心を揺さぶられる感動の連続である。何よりも作者自身の心の遍歴が文学的表現に昇華されていて、全編を通してパセティック(悲愴)な感情がみなぎっているのである。そして、読む人の心に普遍的な人間の情感、思考、認識を教えてくれる。人間の真実の認識である。

 

書簡体小説

この作品は完全な書簡体小説であり、日本文学ではめずらしい。私の読んだ最初の書簡体小説は、ドイツの大詩人ゲーテのデビュー小説「若きウェルテルの悩み」である。十八世紀後半、ドイツの小国ワイマールの貴族の家に生れたゲーテが、自分と同じ若い詩人ウェルテルを主人公にした小説を書いた。青春の旅に出たウェルテルが可憐な少女ロッテに出会い、失恋してピストル自殺する。母を失い、父と多くの弟・妹をかかえ、詩人に心を惹かれながらも実直な青年と結婚するのである。この小説は大ヒットし、主人公を真似て自殺が続発したという。

「稲の旋律」の千華も、ウェルテルと同じように芸術の道を歩んできたが、実直に生きる生活の基盤を持たず失恋してしまう。しかし周囲の人々の支えで生きる道を探り、再起することができる。この二つの作品は、形式も内容も似ているが、結末はまったく違うのである。

 

ゴールドベルク変奏曲

 千華がアルバイトで得たお金で最初に買ったCDが、カナダのピアニスト、グレン・グールドによるバッハの「ゴールドベルク変奏曲」である。一九五五年に二二歳のピアニストが録音したこの曲は、クラシック音楽界に大きな衝撃を与えた。宗教音楽の大作曲家バッハの曲は、重々しく、ゆっくりと演奏するのが普通だった。ところがグレン・グールドは、明るく軽快に演奏したのである。バッハ演奏の革命だった。

 「ゴールドベルク変奏曲」はアリアと多くの変奏による長大な曲で、ベートーヴェンの「ディアベリ変奏曲」と並ぶ双璧である。不眠に悩む貴族ゴールドベルクが、バッハに作曲を頼んだ曲で、いわば睡眠薬の代わりである。

 千華も不眠に悩み、この曲のCDを繰り返し聴きこみ、自分でも弾くようになったのはおもしろい。そして、遂に稲穂のそよぐ水田で、この曲を弾くのである。

 旭爪さん自身がピアノを弾いたのかどうかは知らないが、クラシックファンの私としては、とてもおもしろく、楽しい結末である。

 

 ひきこもり

「仮面の時代」という本を読んだことがある。中学から高校にかけて、若者は自分の生きる道が定まらず、まったく自信が持てず、そんな自分の心を隠すために仮面を被る―というのである。ツッパリ・ヤンキーの暴走、校内暴力や家庭内暴力に発展する。挙句の果てのひきこもりである。

千華の父親が絶えず口にする「効率」が、結局人を社会の歯車にしてしまうのだが、ひきこもりは、これに対するギリギリの反抗といえるのだろう。

「人に迷惑をかけない」、「時間を無駄にしない」を大切なマナー、モットーにして、「効率よく学び、効率よく働く」ことで「社会の歯車」になるのが日本人の生き方なのである。そして日本は「ひきこもりの国」になってしまった。世界でただ一つ。

旭爪あかねさんもその一人であり、十年の苦しみのなかで、文学に生きる道を見つけだした。そのため旭爪さんの作品はすべて悲壮感に貫かれ、ピンと張りつめている。命がけで書かれた作品ばかりなのである。

 

おわりに

 私も高校生の時に一時的にひきこもりになった。それまでの優等生という仮面が耐えられなくなり、文学の中に生きる道を求めたのである。そして、大学に七年も在学しながら学者にならず、医師・技術者・経営者といったエリートの道にも進まなかった。そのため旭爪あかねさんの作品との遅い出会いは、大きな衝撃だった。手に取るように解るのである。

 旭爪さんは、エッセー・評論・講演の中で、自分はわがままだ―と非難されたと書いている。それも自分より若い世代から。二〇〇九年のリーマンショックを経て、いわゆる派遣切りにあった人たちにとっては、生きるか死ぬかの瀬戸際に追いつめられ、ひきこもりなど、贅沢なことはしていられない―と。

 さらに、自分は女性差別にあったことはないし、貧困で苦しんだこともない―とも書いている。若い時は「うつ病」と診断され、最近は「発達障害」と言われたとも書いている。

 人間の苦しみは多様であり、時と共に変わってくる。そして悩みは尽きないのである。だから旭爪さんの文学を軽々しく評論することはできないし、私の手には余るのである。

 旭爪さんは、私のテーマはひきこもりであり、そして万能薬も特効薬もない―とも書いている。そして多くの人に惜しまれながら、五三歳の若さで亡くなってしまった。三年に及ぶガンとのたたかいの中で。

 偉大な先輩女流作家の樋口一葉は二十代の若さで、宮本百合子も同じ五十代で亡くなってしまった。私が敬愛するこの三人の女流作家は、自分が目指した志(こころざし)の半ばで、燃え尽きるように亡くなってしまった。小説を書くこと、文学を創造するということは、それほどに苦しく、困難な道なのだろう。しかも、三人とも自分の生きる道を求めながら、同時に人間としての正しい普遍的な道を探求した求道者でもあったのだと思う。だから、男の私にも理解し共感できる部分が、たくさんあるのだと思う。

 なお、カナダのピアニスト、グレン・グールドは途中からコンサートをやめてスタジオ録音だけになった。つまり、ひきこもりのピアニストになったのである。そして最後の録音は再び「ゴールドベルク変奏曲」である。今度はゆっくりした、大らかな演奏になっている。

 私はこの新旧二枚の「ゴールドベルク変奏曲」のCDを持っていたが、熱烈なグレン・グールドのファンの友人に譲った。彼はそれまでLPで聴いていたのだ。

 

 

『アフリカの日々』の意外性

               松木 新

 

シドニー・ポラック監督「愛と哀しみの果て」は、1985年のアメリカ映画で、アカデミー賞の作品賞・監督賞などを受賞しました。主演のメリル・ストリープ、ロバート・レッドフォードの演技が印象に残る映画を先日観ていたら、原作に興味が湧き、読んでみました。

原作はデンマークの作家イサク・ディネセン『アフリカの日々』で、1937年に出版されています。この作品を収録している池澤夏樹=個人編集『世界文学全集Ⅰ-18』(河出書房新社)の「解説」(横山貞子)によると、〈『アフリカの日々』は記録ではない。紀行、体験記、ルポルタージュ、自叙伝などのジャンルは、どれもあてはまらない。一九一四年から一九三一年までの十八年間、著者はアフリカで農園を経営した。アフリカを離れてから年を経るにつれて、アフリカの像は著者の内部で結晶し、自分にとっての真実の相をあきらかにしてゆく。その精髄を取りだして作品にしたのがこの本だ〉とのことです。ちなみに、原題は『OUT OF AFRICA』です。

舞台はイギリス領ケニアのンゴング丘稜のふもと、海抜6千フィートを越える位置にあるコーヒー農園です。南にははるかキリマンジャロに達する広大な狩猟地が拡がり、東と北にかけては、公園のような土地とキクユ族居留地でケニア山までつづいています。

この作品の特徴は、入植者である白人と、先住民であるソマリ族、キクユ族、マサイ族などとの交歓が豊かに描かれていることです。

植民地にたいする著者の健全な姿勢が、そのことを可能にしていると思いました。

著者は、デンマークの詩人ヨハンネス・ヤンセンの言葉を紹介しています。

 

〈アフリカの人びとは風景と調和している。このすらりと背が高く、黒い肌、黒い眼を持つ人びとが旅をし――いつも一列縦隊だから、彼らの幹線道路はせまい小径なのだ――土をたがやし、家畜を飼い、大舞踏会をひらき、物語をしてくれるとき、それはアフリカそのものが歩き、踊り、もてなしてくれるのだ。この高地ではあの詩人の言葉を思い出す。

わが見るところ

  現地人は常に高貴

  植民者はとるにたらず〉

 

著者の植民地政策にたいする批判は、現代にも通じます。

 

〈私たち白人はここの人びとから土地を奪った。奪ったのは彼らの父祖の土地にとどまらない。さらに多くのもの、すなわち、ここの人びとの過去、伝統の源、心の寄りどころを奪ったのだ。彼らがこれまで見慣れてきたもの、そしてこれからも見つづけてゆこうとしているものを奪えば、それは彼らの眼を奪うにひとしい。これは文明化した人びとよりも、素朴な人びとの上に一層強く現れる〉

 

アイヌにたいする政府の姿勢に、この思想の片鱗でもあれば、改訂版『アイヌ民族の先住権を考える』(日本共産党北海道委員会 21年9月20日)に寄せられている意見や要望の実現も可能だろうと思いました。ケニアの主要言語である〈スワヒリ語には文字がなく、白人がアルファベットによってこの言語を書きあらわすことをはじめた〉とのことです。アイヌ語との共通性を、みてとることができます。

白人と先住民との価値観の違いを露わにしているのが、『ヴェニスの商人』をめぐるエピソードです。

或る日著者が、ソマリ族の雇い人であるファラ・アデンに、『ヴェニスの商人』を読み聞かせます。ファラの同情は、現金を貸したシャイロックに集中し、シャイロックの敗北に断固反対します。

 

〈「なんですって? そのユダヤ人は要求を取り下げたのですか? そんなことをしてはいけない。肉は彼の取り分ですよ。それっぽっちの金と引きかえではすくなすぎるくらいです」と、ファ ラは言う。

「でも、シャイロックにはどうしようもないのではない? 血は一滴も流してはならないというのだもの」と、私はたずねた。

「メンサヒブ、その人は真赤に焼いたナイフを使えばよかったのです。そうすれば全然出血しません」

「だけど、シャイロックはきっかり一ポンド、それ以上でも、それ以下でもなく、切りとらなければならなかったのよ」

「ユダヤ人でなければ、そんなことでおびえません。小さい秤を持っていって、正確に一ポンドになるまで、肉をすこしずつ切り取っては計ってゆけばよかったのです。そのユダヤ人には、智慧をつけてくれる友達はいなかったのですか?」と、ファラは言った。

(略)

「その人は、ごくすこしずつ切りとればよかったのです。一ポンドの肉を切りとり終わるまで、長いこと相手の男を苦しませてやることができたはずです」〉

 

ファラの視点で『ヴェニスの商人』を読み直したら、どのようなことになるのか、面白い課題が与えられたような気がしました。

 

 

平山耕佑氏を偲んで

              村松祝子

 

札幌民主文学通信275号を受け取って平山耕佑氏の死亡を知りました。

札幌民主文学会の会員として彼を存じていた私には寝耳に水のような驚きで、平山氏がそんなに体調を悪化させているとは思ってもいませんでした。

享年八十五歳と伺えば、そんなお歳を感じさせなかった日頃の彼の穏やかな風貌が思い出されます。

平山氏の作品はどれを読んでも暖かく平易な言葉で読みやすく、その中にしっかりと反戦の意志が滲みでている作品でした。

平山氏の世代は誰もが戦争に翻弄された世代でした。

二〇一五年発刊の「奔流」第5号に載った「宛先のない手紙」は手紙交換を固く約束した親友の住所を樺太から日本への引き上げのどさくさに捨ててしまう悲しさ、二〇一八年発刊の「北海道民主文学」22号では「兄の死後」を書かれ、戦争に翻弄されて行きたかった学校も行けず戦後炭鉱で働きながらも社会に目を向ける兄を描いています。二〇一九年「奔流」27号では「自分捜し」では、じいちゃんの語り口で中学三年の孫に自衛隊の本質を語り、孫が真剣に進路について考え始める。そして「自衛隊」だけは行かない覚悟で将来を考え出す作品でした。 最近二〇二〇年「北海道民主文学」23号に載った遺作、「エッセイ ゴムの木のこと」はまさに今読み返してみれば、穏やかな平山氏にふさわしい最後の文章として読み取れました。 樺太から引き上げ釧路に落ち着くまでの人生で七人の子供を育て上げた母親に感謝しつつ、母からもらったゴムの木は私の3人の子供達の誰のところに行くのだろうと結んで終えていました。

平山氏は教師として過去の日本の戦争の愚かしさを未来に生きる子供達へ示唆し続けてきた人だと思う。 平山氏は過って私がいただいた小誌、二〇一八年二月十五日発行「戦争とわたし」の編集者の一人として携わり退職教職員の戦争に対する思いの作品を作られました。 その小誌では庶民がどのようにして戦禍をくぐり抜けてきたかその息遣いと無念さと戦争に対する愚かしさが切々と語られていました。 市井の人々のつぶやきを一つ一つ拾い上げて作り上げた「戦争とわたし」の小誌に対して平山氏をはじめ外の編集者小松豊氏、土井寿氏にも感謝したいと思います。 特に今は亡き平山氏にご苦労様でしたと言いたいと思います。 この小誌にも平山氏の反戦の思いを込めて作られた気持ちが深く私に伝わってくるのです。

 

生前平山氏にお礼を言いたかったのですが、なかなか言えなかったことをこの紙面をお借りして言わせてください。 それはある日の「札幌民主文学会」例会に平山氏は「壺屋製菓」のあんころ餅を持ってきて皆にごちそうしてくれました。 氏は恥ずかしそうに「特売日だったので」と言いながら差し出しました。 殺風景な会議室で食べたあのあんころ餅は家で食べるあんころ餅よりも何十倍も惜しかったのです。 ごちそうさまでした。 氏は大変お酒の好きな方のようで、羊羹を片手にお酒を飲むかと想像しています。お兄様と雲の上で飲んでいるのかもしれません。

ご冥福をお祈りします。

 

 

今年はどんな年

後藤守彦

 

 NHKのラジオで毎朝六時二〇分頃放送している「今日は何の日」のコーナーに、毎日耳を傾けている。それに倣って、年初に今年はどんな年かを過去に目を向け考えてみたが、書きまとめるのは年末になってしまった。

先ず、二〇一一年三月一一日に起こった東日本大震災のことから。地震・津波・原発事故の三重苦を受けた大震災から一〇年となる。大震災については、現地に足を運んだ体験を含めて何度か書いているが、今年見たTVドラマについて一言。『監察医 朝顔』の原作は漫画なのだが、朝顔役の上野樹里の好演もあって評判になった。第一シリーズが二〇一九年から始まり、二〇二一年三月に第二シリーズが終わった。朝顔は母と一緒に、祖父が住む母の実家を訪ねた際に津波に遭遇し、母を喪う。その喪失に苦しむ朝顔・父・祖父の内面が丁寧に描かれていた。行方不明者を死者として受け入れる、そこには葛藤がある。一〇月末に終わったNHKの朝ドラ『おかえりモネ』も節目の年を意識して制作されている。大震災の時に被災した生家を留守にし、現場にいなかった後ろめたさ、痛みを分かち合えなかった苦しみを抱き続けるモネ役を、清原果耶が表情豊かに演じていた。清原果耶は、格差なき社会への願いがこめられた、一〇月公開の映画『護られなかった者たちへ』でも、大震災で母を喪った女性役を好演している。そして、今年上半期の芥川賞の受賞した石沢麻依の『貝に続く場所にて』は、大震災の体験を文学作品として昇華させていた。練られた文章で生者と死者の記憶を交錯させながら。

一九九一年の九月一一日に発生したアメリカ同時多発テロ事件からは二〇年が経つ。二九七七名が亡くなり、日本人も二四名犠牲になった。当時三四歳の長男を喪った父が、「真実を知りたい」との思いで一三年かけ、アメリカ議会独立調査委員会の報告書の日本語訳に取り組み、九月に全訳を刊行した。翻訳の経験がなかった父は現在八四歳である(『北海道新聞』二〇二一年九月一一日号)。この報告書にも国家機密を理由に伏せられた部分があり、事件の真相は依然として明らかにされているとはいえない。

今年は、パリ・コミューン一五〇周年でもある。パリ・コミューンは、「一八七一年三月一八日パリに成立した民衆的革命政権」(『角川世界史辞典』角川書店)である。妻が購読している『婦人通信』一〇月号では、コミューンの兵士が銃殺されたペール・ラシェーズ墓地の「連盟兵の壁」まで歩くデモ行進の様子を、パリ在住の女性フリージャーナリストがレポートしていた。このデモは毎年行われているとのこと。コミューンに参加した民衆に心をよせ、彼らの高潔・誠実を描いた大仏次郎の大作『パリ燃ゆ』については、六年前に短文を綴っている(「『パリ燃ゆ』から学ぶ」『札幌民主文学通信』二〇一五年三月号)。パリを訪れたのは随分前のことだが、アクシデントのため「連盟兵の壁」に行けなかったことは、今でも悔しい。

私が事務局の一員となっている北広島九条の会では、今年はどんな年をテーマに、三つの連続講演を企画した。第一回は「女性参政権実現から七五年」を演題に、女性解放運動史について学んだ。講師の総合女性史研究会の岸伸子さんは、二〇〇〇年六月、ニューヨークに行き、GHQのスタッフとして日本国憲法の草案作成に関わったベアテ・シロタ・ゴードンに会っている(『二一世紀を拓く』KON工房、二〇〇一年)。予定は六月だったが、コロナ禍のため八月に延びてしまった。第二回は「満州事変から九〇年」を演題に、一五年戦争史について、本庄十喜北海道教育大準教授に話してもらうことになっていたが、七月から九月に延期したものの、それも中止せざるをえなかった。結局、講師の都合で来年に持ち越すことになった。第三回は一一月一三日に、「宮本百合子没後七〇年、平塚らいてふ没後五〇年」という演題で、宮本百合子研究会の木村玲子さんを講師に実施された。丁寧に作成された、A4で九ページに及ぶ年譜をもとに、二人の歩みが熱く語られた。百合子は九歳年下の宮本顕治と、らいてふは五歳年下の奥村博史と結婚したというエピソードも織り込んで。因みに、百合子は一八九九年に生まれ、一九五一年に五一歳で亡くなり、らいてふは一八六六年に生まれ、一九七一年に八五歳で亡くなっている。百合子の年譜の最後に引用されていた、百合子の言葉を紹介しておく。

 

  かつて書いた自身の古典のまわりにいつまでもうろついていられない歴史のたたかいのうちに自身を生かしつづけてゆくとき、私たちは自分の文学作品の到らなさだけをおそれないで生き、書いていいのだという励ましを感じる。私たちの最もゆるぎない励ましは誰にとっても明らかなとおり歴史の進みそのものによる実証である。(「道標を書き終えて」『新日本文学』一九五一年三月号)

 

今年は札幌交響楽団の創立六〇周年でもある。私はその半分以上の期間、定期会員として演奏会に通っている。札幌交響楽団は一九六一年七月に、群馬・京都に次ぐ全国三番目の地方オーケストラとして結成され、同年九月に第一回の定期演奏会が行われた。九月一一・一二日には、札幌交響楽団六〇周年記念コンサートとして第六四〇回定期演奏会が開催された。新型コロナウイルスの影響で渡航が制限され、一年七カ月ぶりに来日した首席指揮者のバーメルトがタクトをふった。曲目は、春先に発表された年間プログラムでは、シューベルトの『未完成交響曲』とブラームスの宗教曲『ドイツ・レクイエム』となっていた。しかし、これもコロナ禍のため、合唱曲である『ドイツ・レクイエム』にかわって、ブルックナーの『交響曲第七番』が演奏された。緊急事態宣言下であり、観客数の上限を一〇〇〇人にし、ブラーボーなどの声援も禁止されたが、演奏後は心のこもった拍手が長く続いた。『北海道新聞』九月一七日号に載った音楽会評は、「誠実で理知的なマエストロの音楽性が浸透したサウンド、これこそ「還暦」の札響が奏でる最も新しい楽章の響きと言えるかもしれない」と結ばれていた。

 

平塚らいてう没後五〇年によせて

                木村玲子

 

 今年は宮本百合子没後七〇年、平塚らいてう没後五〇年に当たる。百合子のことは、昨年から『民主文学』でも「座談会」や論文、随想募集など様々な企画がなされていたので、早くから認識していたが、平塚らいてうについては今年夏ごろまで知らなかった。

 一〇月一九日(総選挙の告示日)は「新婦人の会」創立五九年、来年は六〇周年とのことで、創立に関わったらいてうのことが、やっとクローズアップされてきた。

 そんな時に、「北広島九条の会」の後藤守彦さんから、「今年はどんな年」の一環で百合子とらいてうの生涯について、ジェンダーの視点から話してほしいとの依頼。

 「えっ?わたしが?」

 ちょっと待って。百合子の読書会で、作品をいくらか読んではきたけれど、研究してきたわけではないし、感想文は書いても、評論も、論文も書いたことはない。もっと適任の方がいらっしゃるのでは?と答えたが、「その生涯について概略を話してくれれば。百合子は北海道との関りも含めて」とのこと。ウーン、そのくらいならできるかな?しかし、らいてうさんについては、あまりよく知らないし、やはり無理ではと思ったが、「少し付け足していただければ」とのこと。それでもやはり「百合子を読む集い」の主宰者鷲沢さんに声をかけてみた。が、九五才の彼女は「私はダメ」という。まだまだお元気でしっかりしていらっしゃるが、足腰はめっきり弱くなっている。「読む集い」創立者の北田幸恵さんは埼玉県在住で、難しそうだ。

 良い企画だし、キャンセルはもったいない。「ジェンダー」の視点を考えると、女性の方がいいかもしれない。(という発想は問題あり?)

 それではやってみようか、と無謀にも承諾してしまった。「北広島九条の会」は、昨年、「イトムカ」の話でお邪魔したことがある。イトムカについては私の体験談であり、知って貰いたいことなので積極的に話しをさせていただいたが、今回はおずおず「挑戦する」気持ちだった。

 

 前置きが長くなったが、というわけで、「平塚らいてう」について、猛勉強?することになった。

 文庫本になった(大月書店 国民文庫)『平塚らいてう自伝 元始女性は太陽であった』四分冊が、書棚に眠っていた。

 読み始めると、なかなか興味深く面白い。その他、以前「新日本婦人の会北海道本部」の役員だった方から五,六冊借りることができた。      

 明治の終わり頃(一九一一年)に「青鞜社」を立ち上げ、機関紙『青鞜』の「創刊の辞」に、あの有名な「元始、女性は実に太陽であった、真正の人であった」の文章を高らかに歌い上げて、多くの女性たちを惹きつけ、世にセンセーショナルな「新しい女」の息吹をまいた初期のころ。二五歳でそこに至るまでの青春の日々にも、いくつかのドラマがあり、人生への探求、真実を求める心は実に旺盛で精力的だ。

 当時の社会風潮の影響もあると思うが、ニーチェ、ヘーゲルなどドイツ観念哲学にはまり、同時に禅寺での修行五年間を通じて、「見性」という段階を経て「慧薫」という称号?を貰っている。

 その内容を私は理解することはできないが、「融通無碍」(一切の規制の道徳や慣習に囚われない?)の精神を得たらしい。

 その後のらいてうの並外れた行動力や、様々な批判や中傷にめげない精神は、そんな中で養われたのではないかと思われる。もちろん育った環境の影響も大きいだろう。明治政府の官僚だった厳格な父親への反発。良家の子女が通った「お茶の水女学校」の良妻賢母教育への反抗心。(ここは百合子も似ている)当時の女性の最高学府「日本女子大学校」でも、創立者成瀬仁蔵の実証主義にも反発している。専ら「我は何者か?」という自立への探求、「内面を磨く」ことに懸命だったようだ。

 だから、「元始、女性は……」の文章はとても観念的、抽象的なもので、後に(一九四〇年)百合子は評論「婦人と文学」の中で辛口の批評をしている。

 が、らいてうは自身の恋愛と結婚、出産を経てどんどん思想的変遷を辿ってゆく。その頃出会った生涯の伴侶五才年下の「奥村博(のち博史と改名)」との恋愛を経て、「共同生活」を営むことになる(今でいう「事実婚」)。この時、民法で規定する「結婚制度」には反対で、最初、「結婚」はしない、子どもも作らないという考えだった。そうした内容を綴った「独立するにあたって両親へ」という長文の手紙文を『青鞜』の四巻二号に載せている。(一九一四年二月)(『平塚らいてう評論集』岩波文庫)

 その時奥村に「八項目の質問状」を出し、回答を求めている。(北広島では詳細に触れなかったが、これが興味深いのでこの文を書こうとした動機です)

 一、今後、二人の愛の生活の上にどれ程の苦難が起こっても、あなたはそれに堪えうるか。世間や周囲のどんな非難や嘲笑、圧迫が二人の愛に加えられるようなことがあっても、あなたはわたしから逃げださないか。

一、もしわたしが最後まで結婚を望まず、むしろ結婚という(今日の制度としての)男女関係を拒むものとしたら、あなたはどうするか。

一、結婚はしないが、同棲を望むとしたらあなたはどう答えるか。

一、結婚も同棲も望まず最後まで二人の愛と仕事の自由を尊重して別居を望むとしたらあなたはどうするか。

一、恋愛はあり、それにともなう欲求もありながら、まだ子どもは欲しくないとしたら、あなたはどう思うか。

一、今後の生活についてあなたはどんな成算があるか。

 

 等といったもので、「それに対する奥村の回答は、まことにその人らしく、自然な、素直なもので、少しも囚われたところのない柔軟な受け取り方に感心しました。そこにこの人の強靭さを発見しました」(『自伝』)と述べている。

 らいてう二八才、奥村二三才という姉と弟のような感覚で、奥村も家父長制度に囚われない純真な青年だったらしい。当時は画家としても未熟でらいてうの執筆で生活を支えていた。その後も「若い燕」などと揶揄されながらも生涯添い遂げた。後、成城学園美術教師となり、演劇にも興味をもち、指輪の製作などにも携わった奥村は七三歳で亡くなっている。(らいてうは八五才で逝去)。

 子ども(長女)が生まれた時、らいてうは平塚家を分家して自身が戸主となり、子どもは平塚姓を名乗らせ、私生児として籍に入れた。後、長男の就職時に私生児は不利と知り、奥村姓になっている。世間の常識に囚われず、自身の真実を貫く強靭さこそ、らいてうの名を今日まで語らせる源で、それは「参禅による心根を軸として」(小林登美枝『自伝原本まえがき』)いるようだ。

 

 奥村との共同生活や子どもが授かった頃に、スウェーデンの婦人解放家エレンケイの『恋愛と結婚』という著書を『青鞜』に翻訳(らいてうは女子大卒業後も英語の勉強を長く続けている)していたことも、らいてうの思想に大きな影響を与えたという。恋愛と結婚の一致を説き、恋愛の精神的、情緒的な要素と、肉体的、官能的要素との合一に、人格的に完全な大恋愛を認めている思想は、恋愛と、結婚は別と考えていたらいてうの思想に大きな転換をもたらした。そこから生まれる子どもを産み育てることは、物をつくること(生産)に勝る神聖な創造ということになり、母性も尊重されてゆく。

 そこにらいてうの母性保護思想が生まれ、新たな婦人解放思想が確立していった。

 長男が生まれて間もなくの頃(一九一八年、三二才)、与謝野晶子との間に「母性保護論争」というのがあった。十一人もの子どもを産んだという晶子は、経済的自立なしに、子どもを産むべきではない等というのに対して、らいてうは母性が保護されてこそ、女性の経済的自立もあるのだと主張した。大正初期のこの時代に、今日でも通用するようなこんな論争があったことは興味深い。

 良妻賢母思想の強かったあの当時、大部分の女性は家庭の主婦となっていて、子どもを持ちながらの経済的自立は晶子のような才能を持った少数の人や、特殊な職業人しか成しえなかったろう。  

 らいてうの母性保護思想は戦後しばらく尊重されたが、「男女雇用機会均等法」が生まれた時、深夜業の解禁などとともに一時棚上げされた。

 今は産前産後の休暇や男女ともに育児休業を充実させる、保育所の拡充という方向で動いている。

 

 女性史研究家で平塚らいてうの会会長の米田佐代子氏は、『青鞜』立ち上げの頃までを第一期「自立」とし、奥村博史との恋愛、共同生活の頃を第二期「愛」と区分している。第三期「協同」、第四期「平和」はまたの機会に書きたい。 

札幌民主文学通信

二〇二一年一〇月〇一日 275号

 

 

 

弔慰

      平山耕佑さんの訃報に接し

心より哀悼の意を表します    

札幌民主文学通信

 

 

平山耕佑さんの死を悼む

         松木 新                

 

平山耕佑さんが10月2日に死去しました。享年85歳。慎んでお悔やみ申し上げます。

平山さんは若い頃から釧路支部で活躍。札幌支部でのデビュー作品は、『奔流』第23号(2011・12)の創作「へったれ」でした。以下、『奔流』では創作を発表。「無言の会話」(24号)、「宛先のない手紙」(25号)、「嵐」(26号)、「自分捜し」(27号)。『北海道民主文学』ではエッセイを発表。「熊ちゃんツアーとジンギスカン」(19号)、「教師の条件」(20号)、「奇跡の邂逅」(21号)、「兄の死」   

22号)。23号(2020・8)のエッセイ「ゴムの木のこと」が絶筆となりました。

二ヶ月ほど前、平山さんから電話があ りました。「遺言代わりに、これまでに書いた作品を本にしたいので、相談に乗って欲しい」と、笑いながらの依頼でした。

早速、豊村一矢さんに頼んで作品のデ ータを整理してもらい、アイワードの担当者を紹介しました。その後、担当者から、「平山さんが体調を崩し入院したので、長男と連絡を取り合いながら、作業をすすめている」旨の連絡があり、心配していましたが、本の完成が間に合うことを願っていました。

本の納期は、当初9月30日でしたが、息子さんから早めて欲しいとの要望を受け、28日に納品したそうです。

完成した本を手にした平山さんは、言 葉を発することはできませんでしたが、何度も頷いていたそうです。

『平山耕佑作品集』はB6判、164頁、表紙には全道展会員である奥様の絵がカラーで印刷されています。

『平山耕佑作品集』は、HPの「新刊案内」欄にアップしました。

 

 

 

 

 

十月例会誌上合評

 

 合評作品

 倉園沙樹子 「誠太郎の判断」

     「民主文学」2021年10月号

 

 発言1 村松祝子

倉園さんは以前「戦艦大和」という作品を発表していたと思う。

私には大変興味深く印象にのこった。

今回第二次大戦の末期に広島に落とされた原爆投下前後の様子を遠く離れた国民学校での教師達の日常が描かれている。 八月六日の日に広島の街へ勤労動員として生徒達を連れて行くかどうかに思い悩む教頭高橋誠太郎の様子が臨場感をもって書かれている。

最後まで生徒達を連れて行ってくれるなと願いながら読み続けたが、誠太郎の判断で中止と決まる。読み終えて胸をなでおろした。

冒頭木戸幸一の日記の一部を書いている。 器を安全な信州の方へ移すつもりだがどうかと天皇の意見が書かれている。

庶民は子供達を危険な戦闘機の飛んで来る場所へ連れて行くことに悩み天皇は神器と言う物品をより安全な場所へ保管しようと悩む。

その対比が現代にも通じるように感じた。

コロナ禍の現代にあって政府の面子のみでオリンピクを開催し危険にさらされる庶民を一顧だにしない政府を思い浮かべた。

戦時下の風潮にあって佐伯先生のような人が肩を怒らせて意見を言う職員室のようすが目に浮かぶようである。

秋元先生のような人は警察や軍に目をつけられなかったのだろうかと不安に思った。

冒頭の木戸幸一の日記文と本文とがもう少しスムーズにつながったら読みやすかったなと思ったが‥?

簡潔で読み易い文章であった。人物描写もはっきりと描かれ、なぜ笠原先生が子供達の日記を中止したのかそこらへんがもっと描かれてあればいいかなと思った。

教頭先生が笠原先生の引き出しを開けるのには少々びっくりした。 広島弁が使われていて地方色が感じられた。

遠く原爆雲の下で何が起こっていたのか、その悲劇の閃光を逃れ得た人たちが現代に続いている。

 

 

 

発言2 松木 新

加藤周一の、〈一九三〇年代に「軍部が国を誤った」というのは、まったく不正確であって、「大衆に支持された軍部が国を誤った」のであり、殊に大多数の人々と異なる少数者の意見を、無視し、弾圧し、沈黙させることで国を誤ったのである〉(『現代日本私注』)という指摘を、この作品は想起させます。

〈大多数の国民〉を象徴しているのが佐伯、〈少数者〉は秋元や笠原、その中間にいて右往左往しながらも、結局は〈大多数の国民〉の側に与している誠太郎や校長という図式を思い浮かべながら読むと、赤沢国民学校の教師の間で、体制順応主義がはびこっていることが、手際よく描出されており、感心しました。

〈「非国民」〉、〈スパイ〉のレッテルの前には、子どもたちの生命を守ろうとする教師としての使命も、蟷螂の斧に過ぎない実態が浮き彫りになっています。

この作品の問題点は、次の文章です。

〈誠太郎はもはや、ある種の勘でもって断言できた。今日こそは、間違いなく空襲がある。生徒らを作業所へやってはならん。作業中止。これしかない〉

〈作業中止〉という「誠太郎の判断」の根拠を、〈ある種の勘〉に求めていることは、資料に依拠した創作の限界を示していると思いました。誠太郎の判断の根拠を、資料から十分に推察できなかったために、作者は苦肉の策として、〈ある種の勘〉に助けを求めたような気がしてなりません。

赤沢国民学校と、作業所である鶴見橋、広島の中心地との距離感がつかめないことも難点のひとつです。大半の読者は、広島については不案内なのですから、一考を要すると思いました

 

 

 

 発言3 泉 脩

一九四五年八月、広島市の中心部に防火帯を作るために市民と小・中学生が動員される。ある小学校の教頭が八月六日の朝、不吉な予感に駆られて体育館に集合した全校生徒の出発を中止する。その直後に原爆が投下され、生徒たちは危うく命を取り留める。実話かどうかわからないが、手に汗を握る物語である。

 戦時中の教師たちの心の動きが、実によく書けていて、子供ながらこの当時のことを憶えている私は、最後の結末を読んで、とてもうれしかった。

 実はこの頃、結婚したばかりの従姉が広島にいて、夫の妹の中学二年生がこの仕事に動員されて、多くの級友と共に犠牲になったのである。やっと家にたどり着き、数日後に亡くなった義妹を、タンスの引出しに入れてリヤカーで川岸に運び、一

人でダビにふしたという。

 この物語の最後に載っている史料の本に「どうしてこんなことができたのか、自分でもわからない」という従姉の言葉が載っている。この日、病欠して助かった関千恵子さんの取材に答えたのである。

 私も元教師として、この教頭の必死の判断のすばらしさに、心から讃辞を贈りたい。これほどの大事件でなくとも、私も何回もギリギリの判断を迫られたことがある。教師の仕事は、このくらい大切な仕事なのである。

 なお、作品の中で「非国民」という言葉が数多く出てくるが、私も子供ながら何回も耳にし、心の中で考えたことがある。一人の国民を抹殺する恐ろしい言葉であり、レッテルである。

こんな言葉を二度と使わない日本にしたいものである。似たような言葉も。

 

 

 

 発言4 後藤守彦

 歴史小説の範疇に属する作品だと思います。歴史に拘る私としては、拠っている史実がどうしても気になりました。「お上」の命令に背いて建物疎開作業に行かせなかった学校があったことと、子どもたちの安全と生命を大切にした教師が存在したことの二点です。そこで作者が参考文献としてあげている関千枝子『ヒロシマの少年少女たちー原爆、靖国、朝鮮半島出身者』(渓流社、二〇一五年)などを読んだりして確認しました。そして得心しました。作者は史実を尊重し、史実と史実の間をしっかりと埋めています。教頭の誠太郎の葛藤を含め、教師たちの言動も丁寧に描かれています。

以前、高校の見学旅行で広島を訪れた際、生徒向けの小冊子「ヒロシマから学び考えよう」を作成し、事前学習などで活用しました。その小冊子に『共同研究 広島・長崎原爆被害の実相』(新日本出版社、一九九九年)から「広島市各学校生徒の原子爆弾の被害長聴取概況」表を引用しましたが、爆心地から九〇〇メートル以内にいた県立二中一年・市立女一年などの「学生集団においては総員死亡」とあり、冊子の作成にあたった私自身も衝撃を受けました。しかし、その時には、少年少女たちが建物疎開作業に動員されていたことは知りませんでした。同書にもそうした記載はなかったのですが。

 前掲『ヒロシマの少年少女たち』では、具体例をあげながら「極限の中。教師たちはとにかくできるだけのことをした。自分の身もかえりみず、死ぬまで・・・・・・。疎開作業の地で少年少女だけでなく教師たちも無惨に死んだ。生徒をかばいながら」と記されていました。教職にあった人間としては、戦時下での良心的教師の存在は救いです。

 

 

 

 

 

 

発言5 石川節子

総じて優れた作品だと感心した。その上で、色々感じるものがありました。

一、ここでは、既に「教頭」と言う言葉が使われて居たのですね。私がこの言葉を初めて聞いたのは、昭和三十三年のことです。転勤で母校を離れたK先生のことを、「転任して三年ばかりで、もう教頭になっているらしい。たいしたもんだ」と言う会話をとても新鮮に聞いた事を、今、強烈に思い出しました。

二、二〇ページ上段最後、市民に対して田舎へにげろとは。国が国民に「退去」を禁止していることを知らぬのか。という、秋元に対する教頭・誠太郎の怒りの場面。是も知りませんでした。「文学」と言うものはこうして、欠けていたものを教えて呉れる。だから好きなのです。

戦後になって、都市部に住んでいた人達が田舎に疎開してきました。その時、子供ながらによく、思ったものです。「食糧難だったから」と言うけれど「空襲だってもっと怖かったはずなのに、なぜ、今になってから」と思ったものでした。こんな事情があったからなのですね。「往来の自由を禁止」していたなんて改めて「戦争の恐ろしさ」を身近に感じました。

三、二〇ページ下段、七行目、「伝単」も初めて聞く単語でした。米軍が撒いたチラシと覚えていました。「伝単」という言葉があったのですね。すっきりしました。

四、敵機から空襲を受けた際に、延焼を防ぐ為、民家を破壊するという「建物疎開作業」という計画は、本当だったのだろうか、「滑走路だ」言う、噂があったらしいけれど、戦後になってからも、その真相は「分からずじまい」なのだろうか。とても気になります。

五、下段五行目「本校の生徒まるごと「非国民」とみされる結果を招く。、、、のと、生徒個人が「非国民」と非難されるのとどちらがつらいだろうか。私なら生徒個人の方がつらく、学校全体で非難されるほうが、善いと思います。

六、二十三ページ上段4行目、誠太郎はもはや、ある種の勘でもって……空襲がある。生徒を作業場へやってはならん。作業中止。と、判断します。ここがタイトルの『誠太郎の判断』なのだ思うのです。読み初めて間もなく「どうして、「教頭」としないで個人名、誠太郎としたのだろう?と思って読んでいましたが、この部分でその謎がとけました。当時のあらゆる洗脳からのがれた、誠太郎の深層心理が、この判断の是非を瞬時に表出させたものだと思うのです。ここで作者の全ての意図が理解できました。

七、この作品では、「原爆」という言葉を使っていません。使わなくても日本人には自明なことだからです。しかし、いまや宇宙人である「今時の若ものたち」にはどうなのでしょうかね。

私自身、「原子爆弾」という言葉を初めて聞いたのは、昭和二十八年、六年生の時でした。

八、兎に角、読みやすくてテーマが明快で記述計算式の旨い事に感銘いたしました。本当に美味しい作品でした。

 

 

 

 発言6 豊村一矢

 倉園沙樹子さんの作品は『民主文学』誌上で何度か読ませてもらった。とくに二年前の七月号『絹子の行方』は支部例会の合評作品に取り上げた。

高い筆力をもった作者、との印象を持っていたが、今回も裏切らなかった。

 倉園作品と係わって、戦時中の『建物疎開』について考えてみたい。

 建物疎開とは何か。「空襲による火災の延焼を防ぐため建物を壊し除去して空間をつくること」でまちがいなだろう。当時の日本は国民が戦争協力することを法律で義務づけていたが、壊された家の保障はあったのか、その後の生活を国が面倒みてくれたのか、などなど気になった。しかし、生来の不精者で調べていない。怠慢だった。

 建物疎開は全国各地で行われたという。札幌でも、数カ所、行われた。豊平橋を渡って西へまっすぐ円山に至る道路の両側を建物疎開させた。それはかなり大規模なもので、広い空間、長い道路ができた。軽飛行機なら楽々離着陸できたのではないか。

この豊平橋から逆に進めば月寒に至る。月寒には北部軍司令部があり様々な軍事設備・施設、宿舎が集中していた。月寒は軍人の街だった。

 円山には北海道神宮がある。ここは北海道護国神社であり英霊が祀られている。

 英霊を祀る護国神社と北部軍司令部が繋がる。札幌の建物疎開も単純に空襲による火災延焼を防ぐ目的だけに強行されたのではあるまい。

 

『誠太郎の判断』から私が受けた影響は深く広く大きい。現在、特に安倍政権になって、国による教育支配が露骨で執拗になってきているが、そういうものと重なったから、尚更である。

 

 

 

発言7 泉恵子

 末尾に記された参考文献から、おそらく実際にあった話の脚色だろうと思われる。

 非常時という当時の社会情勢の中で植え付けられた、足並みをそろえなければ非国民という烙印は、上(軍?)が作り出した巧妙な言葉だ。これは今のコロナ禍という社会でも当てはまる。

 作品は主人公の善良でヒューマンな尋常高等小学校の教頭、高橋誠太郎の揺れ動く心理を巧みに捕えている。戦況の悪化の中で、お上(天皇陛下)の命令にはそむけないが、理不尽な命令に対して最後まで逡巡する誠太郎。

 最後は不可解な状況の中で「ある種の勘」が働き、生徒たちの建物疎開の作業の中止を決断する。これは自らの「退職願」と引き換えの、「私一人の判断」「校長も、生徒らも、他の教員らも、いっさい責を負う理由はない」とするぎりぎりの決断だった。この正しい判断を導いたは、あくまで生徒たちの命を第一に思うヒューマニズムの精神が、紙一重のところで勝ったということではないだろうか。

 当時の状況の中では、勇ましい佐伯教諭のような人間が幅を利かせて、誠太郎のような教頭は頼りないように見えるのだが。

 最後の校長の言葉「君は判断しなかった。これは『不測の事態』じゃ」と言いながら、「よう判断してくれた。よう判断してくれた」と泣き崩れる姿には、笑えないおかしみと悲しみが籠っている。(実際目頭がうるんだ)当時の歪んだ世相が巧みに描写されていると思う。

 

 ひとつ疑問に思ったのは、「作業中止」を命じてから事はスムーズに流れて生徒たちを帰宅させようとするが、この時に、佐伯のような教師が反論しなかったのか?そこでもうひと悶着はなかったのだろうか。校舎の一部が倒壊したという事態もあり皆が納得したのか?このあたりの詳細は省かれているが、書かれない方が効果的ということもある?

 また笠原教諭が書かせていた「絵日記」には「鬼畜米英をやっつけろ」などの「女子生徒とも思えない」文句が「あちらこちらに踊っていた」とあり、ここは女子校?と疑ったのだが。

 作品の舞台は「高等小学校」だが、参考文献は「広島第二県女」とあることと関係あるのか。

 

 冒頭の『木戸幸一日記』の一節、国民(当時は平民?)の命より「三種の神器」の心配をする天皇の言葉は、暗示的であり上手いと思った。

 

 

 

発言8 室崎和佳子 

 広島の原爆投下日(8月6日)に至る軍事下の教育現場の状況は多分こんなであったろう、と思われる。

 義眼のため兵役を免れている秋元、典型的な愛国教師の佐伯、良心的で愛国主義教育に疑義を感じている笠原、主人公で教頭の高橋誠太郎、校長の二宮。

 この五人の織りなす会話や状況描写から、戦時軍国主義教育の功罪ならぬの部分が浮かび上がる。

 子どもたちの勇ましい軍国調の言辞が飛び交う日記をやめた笠原の苦悩は、いかばかりであっただろうか。子どもの日記は、教師の生きる糧である。それを、やめさせざるを得なかった笠原。子どもたちの勇ましい軍国調の言辞は、自分の行った教育の成果だと思うたびに自分を責めなければならなかったであろう。日記を続けられなくなった笠原の苦しみは、私の苦しみでもある。

 誠太郎は優柔不断ゆえに(本当の彼はそうではなかったのかもしれないが、結果的には) 8月6日当日の出発を遅らせたことが、子どもたちへの直撃を免れさせた。

 鶴見橋というと代表的な原爆写真で、必ず教科書に載っていた写真の場所だ。

 二宮校長が「高橋くん、よう判断してくれた。よう判断してくれた」と泣き崩れたところで、私も感涙した。

 一億総玉砕のこの軍事下であっても、子どもたちを愛する教育者のしかも管理職の心がピュアであることに。

 現在の管理職教育者には、心がピュアである人は多分一人もいないであろうことが予測されるだけに。

 日本の現政権がそうであるように、人間にとって一番大切な誠実、正直、正義の人は一人たりともいらない(必要ない)のであるから。

 

 原爆投下に関わって、この小説中のことではあるが、アメリカが伝単なるものを広島市民に撒いたことを初めて知った。

 その伝単には、< 即刻都市より退去せよ。米国はとてつもない爆弾を発明した > というような文言が書いてあったという。

 多分事実なのだろうと思うが、そうであれば、いつ、どのくらいの規模で、誰の指示で、それを撒いたのか。ぜひ知りたいと思った。今後調べてみたいと思う。

 広島に行った時のことを思い出しているが、橋という橋のたもとに、学校名と学年と何名の子供達が犠牲になったか、それらを記述した碑が随所に見受けられたし、橋だけでなく、道路の側やその近くの少しの隙間に至るまで同様の碑が町中に存在していた。

「岸田くん」は広島に生まれたものとして、それらを飽きるほど見て育っただろうに、一体全体、どうしてあんなだらしない人間に成り果てたものか、情けない。

 作者・倉園さんは参考文献にある資料から小説化したのであろうが、並々ならぬ力量に感服した次第。

 

 

 

 

 

       投稿欄

 

 

 アイスランドの二人のミステリ作家

後藤守彦

 

 

今までも修道士ミステリ・原発ミステリ・音楽ミステリなどとくくって、ミステリについて論じてきたが、ミステリの書評は難しい。何しろ核心に迫ろうとすれば、絶対に避けねばならないネタばれの危険性が増してくるのだから。

アイスランドについては、恥ずかしいことに、中学校の地理学習で世界の首都名を暗記させられた時に、一番目がアイスランドの首都レイキャヴィクであったという記憶しかない。アイスランドの首相が女性であることは知っていたが、『しんぶん赤旗』九月二九日号の記事で、国会の総議席六三のうちの三〇を女性が占め、占有率四七・六%はヨーロッパ一であることを教えられた。北海道より少し小さい程度の国土で、旭川市ほどの人口しかないが、軍隊を持たない、魅力溢れる「火と氷の国」アイスランド。千葉に在住している学友は、オーロラを見にアイスランドに行っている。羨ましい限り。

この国には、二人の著名なミステリ作家がいる。先に日本で紹介されたのは、アーナルデュル・インドリダソンである。スェーデン・ノルウェー・フィンランド・デンマーク・アイスランドの北欧五カ国はミステリが盛んである。この五カ国合わせてのミステリ大賞がガラスの鍵賞であり、二〇〇二年の『湿地』(東京創元社、二〇一二年)と二〇〇三年の『緑衣の女』(東京創元社、二〇一三年)で初の連続受賞となったのが、インドリダソンである。以前「スェーデンミステリあれこれ」(『札幌民主文学通信』二〇一六年二月号)で紹介したマルティン・ベック・シリーズから学んだ、とインドリダソンは語る。首都警察の犯罪捜査官エーレンデュルを主人公とした、全一五作のシリーズだが、残念ながら邦訳は、家族とは何かをテーマにした『声』(東京創元社、二〇一五年)、独裁国家旧東ドイツにおける若者たちの愛と裏切りを背景とした『湖の男』(東京創元社、二〇一七年)、最新刊の『厳寒の町』(東京創元社、二〇一九年)とあわせて五作のみである。エーレンデュルは妻と離婚し、二人の子をおいて家を出る。元妻は子に会わせない。「子どもたちは大きくなってから父親を探し出し、彼は両手を広げて迎えたが、すぐにこどもたちがひどい状況にいるのが分かった。とくにエヴァ=リンドの生きざまに涙を流した」(前掲『湿地』)。二〇年ぶりに会いに来た娘のエヴァ=リンドはドラッグ常用者になっていた。

エーレンデュルは孤独である。エーレンデュルの内面描写、心理描写に惹きつけられる。「そうやって考えてみると、自分の人生を覆う沈黙がはっきり感じられた。だれもいない,一人だけの人生。色彩のない毎日が無限に繋がっていて、窒息しそうだった」(『緑衣の女』)。白夜の春・夏は、朝の二時ころから夜の一一時ころまで明るい。普通の人はその季節を喜ぶ。ところがエーレンデュルは違った。「春と夏はエーレンデュルの好きな季節ではなかった。明るすぎる。気分が軽くなりすぎる。彼は重くて暗い冬が好きだった」(同書)のである。作者もそうなのだろう。前掲『厳寒の町』は、「人々は家の中に閉じこもる。ドアにしっかり鍵をかけ、窓を閉めカーテンを閉じて、厳寒の季節が早く終わるように祈るのだ」で結ばれている。エーレンデュルはひたすら犯人を追う。「良心の痛みは壁となって、おれが手放したくない悲しみのまわりを囲んでいる。もしかするとおれはずっと前にこの悲しみを手放して、救われた命をありがたく思い、何らかの意味をこの人生に与えるべきだったのかもしれない。だがおれはそうしなかった」(前掲『緑衣の女』)

もう一人のラグナル・ヨナソンには、二つのシリーズ物がある。先ず始まったのが、二〇代の警官アリ=ソウルのシリーズで、第一作が『雪盲』(小学館文庫、二〇一七年)である。

アリ・ソウルは一三歳で両親を喪い、大学で神学を志すが挫折し、新米警官として、北極圏に近い北端の町シグルフィヨズルに着任する。二か月後、厚い雪に覆われ、外へ通じる唯一の道が雪崩で不通となったこの町で事件が起こる。上司のトーマスから、この町では何も起きない、と聞かされていたのに。老作家が劇場の階段から転落し亡くなった。さらに雪の中で半裸の女性が血を流して倒れていた。アリ=ソウルはトーマスとともに真相の究明に取り組む。勿論、この町には暗く寒い冬しかないわけではない。アリ・ソウルと親しくなった女性は、シグルフィヨズルの美しさを熱く語る。

 

春か初夏になるとね、目を覚ましたときに、フィヨルドに霧が立ちこめている日があるの海だって見えなくなるのよ。山の頂がひとつかふたつ、宙に浮いているように見えるだけ。するとね、突然、太陽が現れて、何もかも一変するの。その美しさといったら息をのむわよ。そういう日を一度でも経験したら、ここを去りたくなくなっていることに気がつくわ。

 

 私も一度経験したいものだ、と読みながら思った。原作と日本での刊行順は逆になるが、第二作の『白夜の警官』(小学館文庫、二〇一九年)では、夏に事件が起こる。建設現場で男性の撲殺死体が発見され、トーマスとアリ=ソウルに加えて女性ジャーナリストも犯人を追う。警察署といってもシグルフィヨズルでは、署長のトーマスとアリ=ソウル、同僚のフリーヌルの三人しかいない。そのフリーヌルが自身の過去の罪に苦しんで自死する。三作目の『極夜の警官』(小学館文庫、二〇一八年)でも、二人しかいない警察署の署員がまた亡くなる。トーマスに代わって署長となったヘルヨウルフルが、町はずれの空き家で銃で撃たれ倒れているのをアリ=ソウルが発見するのである。

このシリーズは、欠点が少なくない未熟なアリ=ソウルの成長物語といってもいい。女性との関係も織り込まれており、アリ・ソウルは紆余曲折を経て結婚するが、夫婦の関係に危機が生じる。事件の背景としての、麻薬・人身売買などにも斬りこんでいる。

ついで、女性刑事フルダのシリーズがある。男性優位の警察社会の中でフルダは、「ガラスの天井」を破ろうとして苦闘する。昨年刊行された『喪われた少女』(小学館文庫、二〇二〇年)とは、一〇年前に殺された少女のこと。犯人とされた、少女の父は獄中で自ら死を選ぶ。フルダは、父は無罪であり犯人が別にいることを明らかにする。それから一五年経ち、数か月後に六五歳定年を迎えるフルダを描いたのが、シリーズ第一作の『闇という名の娘』(小学館文庫、二〇一九年)である。一五年前には生きていた夫ヨンと娘を喪い一人になってから、長い時間が過ぎた。

ある朝、年下の男性の上司から、残った期間の給料は保障するので、二週間後に席を後輩に明け渡すよう指示される。フルダは最後に未解決事件を担当させるよう求め、上司はしぶしぶ認める。フルダはロシア人女性の不審死事件を単独で調べ始めた。杜撰な捜査で、難民申請が通らず自殺したと処理されたのだが、殺人事件だとフルダは判断する。真実に迫るフルダを待ち受けていたのは、実に悲劇的な運命だった。事件の真相と併行するように、フルダの苦悩に満ちた人生も少しずつ見えてくる。自身の歩みについてフルダはどう思い、どう考えているのか。内面の描写が胸に迫ってくる。

 暗い部屋で一人ワインを口に含みながら、ぼんやりグラスを見つめていると、「心の深淵の闇からゆっくりと人の姿が浮かびあがってくる。考えたくはないのに、考えるのをやめられないヨンと娘が」。殺されたロシア人の娘が夢にでてきたせいで、「過去の忌まわしい記憶はわきに押しやられた。何か違ったやり方もあったはずだという後悔と罪悪感から救ってくれた」。ロシア人の娘の「事件を解決することによって、人生の難破船から少しでも何か救い出せないだろうか。それが駄目なら、あきらめがつくかもしれない」。

今年、フルダのシリーズの完結編が邦訳された。それが、『閉じ込められた女』(小学館文庫、二〇二一年)で、四〇歳のフルダが描かれている。フルダの娘に関わる悲劇的な事件が起こるのだが、それに打ちのめされながらも、フルダは若い女性の失踪事件とそれと結びついた、猛吹雪で閉ざされた農場での殺人事件の解決にあたる。この殺人事件も悲劇的なものだった。このようにフルダのシリーズは、六五歳、五〇歳、四〇歳と逆年代記風に書かれている。

ミステリを楽しみながら、ここは厳密に規定したいのだが、「良質の」ミステリを楽しみながら、人間の生き方、社会のあるべき姿についてこれからも考えていきたいと思う。

 

 

 

鹿さん、よく来たね、わが家へ 

室崎和佳子

 

私は十勝の陸別町に残して来た家に、十三年間も通っている。

 もうじき四十六歳になる長男が、一歳の誕生日を迎えた日に出来上がった家だ。

 当時の教員住宅は風呂がなく、雨の日も風の日も赤子をおぶってねんねこ半纏を羽織り銭湯に通った。

 子ども可愛さに、夫は私にたいした相談もせず町の大工さんに相談して、あれよあれよという間に建った家である。

 私の定年退職と同時に江別市に転居してはや十三年。この家は「夏の家」となった(日本一寒い町で冬の最低気温はマイナス三十度にもなるので、冬は自主避難)

 冬じまいに行った今秋十月中旬、まだ明けやらぬ朝五時少し前、私は勢いよく居間のカーテンを引いた。

 その瞬間、目の前の芝生で何かが動いた。

 外はまだ薄暗い。

 じいっと目をこらすと、一頭の子鹿を連れた母鹿だった。つまり親子鹿である。

 二頭は、カーテンを引くシャーという音によほどびっくりしたらしく、七、八メートル向こうの陸別川の堤防の上までひとっ飛びに飛んで、こちらをじいっと見ている。

 それもそのはず。

 ここの家はいつも誰もいないのに、今日は人間がいた。どうしたんだ、一体。

 と、彼らは思ったに違いない。

「鹿さん、よく来たね。大丈夫だよ。安心していいんだよ。君たちの好きな草があったんだね。たくさん食べて行きなさい」

 私が大きな声で言うと、

「キーン、キーン」

 と甲高い声で返答があった。

 芝生といっても今は雑草園であるから、彼らのお気に入りの草がきっとあったのだ。

 私は気を良くして

「鹿さーん、君は偉いね。ちゃんと子どもを連れて来て。立派に子どもを育てていて偉いねー」

 そう言ったら、またもや

「キーン、キーン」

 甲高い声が返答したのだ。

 しばらく見つめあつていた人間一人と鹿二頭であったが、

「さあ、もう、お家に帰りなさい」

 そう言うと、一層高い声で二度鳴き、二頭はくるりと踵を返し、陸別川に向かって駆け出した。

 七十三年も生きてきて、鹿と対話したのは初めてだった。

 親子鹿は軽やかに対岸へ抜け、山を目指して一心に走った。

 

 

 

 人との出会い 特別編 同い年⑩

                 泉  脩

 

北海道有数のエコノミスト

「道の会」は会員がそれぞれ忙しくなって、立ち消えになった。男たちは、それぞれ自分の道を突き進み、専門家になった。しかし、会の中で生まれたカップルを中心に時々会って交流をした。

十年位前「道の会」の集まりに私も招かれた。オブザーバーだったのに・・と思いながら出席すると、懐かしいメンバーに再会した。七十代半ばになっていた。

東京外語大に入り、道内の公立高校の英語教師になった三枝君。道高教組の活動家だった。小樽商大から拓銀に入り、ケーブル会社の役員に天下った鈴木市男君。そして、北大経済学教授になり、道内有数のエコノミストになった小林好宏君などである。女性では、亡くなったが山科夫人の紀子さん、片桐夫人の嶺子さんなどである。三枝夫人とその妹もいた。

ほぼ四十年振りに再会した小林好宏は、ほっそりした昔ながらの姿だった。

彼は太った私を見て最初はわからなかったようだ。しかしすぐに思い出し、とても喜んでくれた。

彼は北大に入ってからの友人で、「道の会」の中心になり、彼の家が会場になることが多かったらしい。クラシックが好きで、NHKの札幌放送局の合唱団に入っていた。

道の会のコーラス指導をして大きな役割を果たしたのである。合唱団のメンバーと結婚し、夫婦で道の会に出ることは無かった。

彼とは同じ校舎だったので、私とよく会って議論した。音楽論が多かったが、経済学の話もした。彼はケインズ経済学、私はマルクス経済学だったが、ケンカにはならなかった。彼は思想的に寛大で、経済学の仲間のいわゆるマル経とも仲良くし、これは教授になってからも同じだったらしい。

自民党道政のブレーンになり、最後は道内経営者団体の理事長になったが、昔の仲間を大切にしたのである。

私が組合運動のリーダーを二十年もしたのに、とても懐かしがってくれた。私が昔描いた絵を大切にしてくれて、私の本も読んでくれた。

私が学生時代に発表した「魅せられたる魂の理念」というロマン・ロラン論を、やさしい文章に書き直して、妹の読書感想文にしたそうである。ところが、これがコンクールを通って、全国大会に出てしまったと笑っていた。妹は困ったことだろう。そして、結果はどうだったのだろう。

小林君は再会した時、「ガンの検診に引っかかって、近く再検査だ」と話していた。翌年の集まりには出席せず、間もなく彼の死が知らされた。山科、片桐に続く北大教授の友人の死である。学者の努力は大きくて、短命なのだろうか―とつくづく考えさせられた。

再会した時に、「よく学者になりましたね」と言うと、彼はあっさり「ひとつのことをやっただけだ」と答えた。歴史、文学、クラシック、それに組合運動と多方面に手を出した私には、耳が痛い話だった。私は更に囲碁にまで熱を上げたのだ!

しかし私の友人は、みんな一つのことだけに凝り固まっていたわけではない。小林君も一生コーラスを続けていたのだ。いとこの土岐祥介も八十歳になってコーラスを始めて、誰もがびっくりした。山科君はキタラホールを作らせてしまった。彼はテニスの他にチェロと尺八をやっていた。片桐君は絵を描き、北大の黒ユリ会のメンバーだった。鈴木市男君はスポーツ万能で、現在は絵を描いている。鈴木順雄はピアノの名手。小学校六年の同級生だった二人の鈴木君は、やはり五十年振りに交友を再開した友人である。

私たちは戦後の民主教育のもとで成長し、平和と共に文化を大切にしてきたのである。日本の生きる道は、平和と文化の中にしかないのである。

 

 

 

『太陽の門』が面白い

             松木  新

 

映画「カサブランカ」の前日譚として構想されたこの物語は、「日本経済新聞」に昨年二月から十一月まで連載され、今年の五月、日本経済新聞出版から上梓されました。日経新聞の愛読者である知人から紹介されて読んだのですが、「カサブランカ」を四、五回観ている者としても納得がいく、とてつもなく面白い小説でした。

作者が映画からヒントにしたのは、革命家ラズロがリックの店でカサブランカからの脱出を、リックに依頼するシーンです。

 

ラズロ ご経歴は伺ってますよ

    エチオピアやスペインで――

    いつも弱者の側に加勢なさったと

リック 金もうけをねらって

    失敗したんですよ

 

テーマはスペイン市民戦争です。この小説では、共和国の素人人民兵を指揮してたたかった、海兵隊出身のリックが参加したすべての戦いを活写されています。そのなかには、有名なマドリード防衛戦や、バルセロナの「五月反乱」も含まれています。スペイン市民戦争にたいする作者の視点がとてもすぐれているために、何ひとつ違和感を覚えませんでした。

太陽(プエルタ・)(デル・)(ソル)」とは、スペイン王国が世界に覇を唱えていた五百年ほど昔、太陽が昇ってくる真東に向けて、マドリードに作られた城門のことです。すでに取り壊されて跡形もなく、今は広場として、その名を歴史にとどめるのみです。

物語の「エピグラフ」を紹介します。

 

〈人類よ、人類よ! 私はお前に訴える。

アメリカの人びとよ、ヨーロッパの人びとよ、私はあなたがたに訴える!

スペインを救え、われわれを救え、いやあなたがたを救えと。

なぜなら、脅かされているのはあなたがたであり、また、われわれでもあるからだ。

   ――ロマン・ロラン「世界の良心に訴う」

 雑誌『ヨーロッパ』(一九三六年十二月十五日 小松清・訳〉

 

フランコの政治的意図についても、作者は的を突いた指摘をしています。

 

〈叛乱軍は、共和国軍内部で対立している共産党とアナキストを、故意にひとまとめにして「()ども(ホス)」と呼び、敵視した。スペインの共産主義化は、資本主義諸国が最も恐れる結末だった。

叛乱軍、すなわち国民(ナシオナ)戦線(レス)の国家主席フランシスコ・フランコは統領(カウディーリョ)として、ヒトラー、ムッソリーニに続く軍事独裁制へのレールを着実に敷きながら、「たとえ国民の半分を失おうとも、マルクス主義からスペインを救う」と喧伝していた。共産スペインを生み出す革命を許すくらいなら、ファシストにスペインを委ねたほうがましだと、自由主義諸国に思わせる目論見だった〉

 

最後の場面、ニヒリストのリックが、〈琥珀色のヘレスの中に、スペインでの過去〉を見詰めます。

 

〈敗れた者が戦った意味は、まだわからない。

スペイン共和国を守らんと、多くの名もなき市民たちが立ち上がり、世界中から集まった外国人義勇兵たちと共に戦って、敗れ、死んだ。

この敗北の意味は、今後の世界史が決めるだろうが、誰もが絶望していた抵抗戦で、市井の民草が自由を求めて戦い抜いた歴史は、誰も変えられはしない。

数瞬の煌めきに過ぎずとも、現代史に鮮烈なる光芒を放ったスペイン共和国滅亡譚は、いつの日か、危機に瀕した《自由と民主主義》を守ろうとする人々が、軍事独裁を目論む者たちと対峙するとき、必ずや勇気と希望を与えるはずだ〉

 

このリックの台詞に、作者のスペイン市民戦争にたいする思いが込められているといって良いでしょう。ジャック白井を登場させるなど、時代考証もしっかりしています。

映画「カサブランカ」へのオマージュよろしく、「君の瞳に乾杯」の台詞や、ピアノ曲「時の過ぎゆくままに」も上手く使っています。

スペインを後にしたリックは、難民の受け入れ態勢を作るためにフランスの国境へ向かいます。無事にパリに戻ったリックは、下僕のサムと再会するだけでなく、イルザ・ラントと出逢います。イルザはスペインで共に戦って殺された恋人と瓜二つでした。ちなみにリックは、スペインで出逢った女性たちに、何度も「君の瞳に乾杯」のセリフを囁いています。

アンリの店で、サムはリックに請われて「時の過ぎゆくままに」を弾きます。

物語の最後は次の台詞です。

 

〈「そうだ、サム。お前の世界一のピアノを、イルザ・ラントと、自由と民主主義を愛するパリ市民に聴かせてやってくれ」〉

 

里村徹「型紙返上」

     私立高校生のたたかい

                  泉 脩

 

一九七〇年代の前半、岐阜県の私立清風高校で起きた私立高校生のたたかいを、見事に描いている。

主人公の有賀光は大学を出て、創立間もない清風高校に勤めた。岐阜市から電車で通い、清風高校生と共に、県立高校の生徒と教師も乗り合わせる。清風高校は、岐阜市の簿記専門学校が高校生の急増に当て込んで急造した私立高校で、校舎も貧弱で、生徒たちも柄が悪い。生徒たちは無気力で学習意欲が乏しく、通学態度も騒々しい。

電車を降りると、生活指導部の教師たちが待ち構えていて、帽子の「型紙検査」を始めた。生徒たちが帽子の記章を隠すために、帽子を変形するのである。これを防ぐために、帽子に型紙を入れさせるのだが、生徒たちは通学中にこの型紙を外してしまう。

清風高校の理事長は、生徒たちに「学校に誇りを持て」と主張し、生活指導部の教師を使って、この「型紙外し」をきびしく取り締まるのである。

同じ駅で降りる県立高校生の目の前で清風高校の生徒たちは、みじめに「指導」され、違反者は名前を記入され、後で処分されるのである。有賀は教師でありながら、この抜き打ち検査を事前に知らされず、生徒と一緒にみじめな思いをした。

彼は採用されて間もなく組合に加入したが、学校側が第二組合を作ったので、組合員は少数派になっていた。それでも朝の打ち合わせで、組合員は「型紙検査」を批判し、職員会議開催の要求をするが、理事長らに握りつぶされる。そこで夜、委員長の家に集まり、型紙問題でクラス討議を行うことを決める。

組合員の担任クラスで討議が進み、有賀もけん命に努力する。

ところが非組合員の教師の三年のクラスで、矢田という生徒を中心に授業妨害を受け、解決しないまま三学期を迎える。有賀は生徒会長の藤川からの電話で、矢田が校則違反の処分で理事長派に脅かされ、組合員の教師に嫌がらせをしていることを知る。有賀は次の日の夜、矢田の家を訪ね両親と矢田と話合い、矢田が態度を改めることを約束する。

過半数のクラスが「型紙反対」を決議すると、生徒会は総会を開こうとするが、理事長は体育館の使用許可をしなかった。

生徒会は寒風が吹くグラウンドで総会を開き、型紙返上や教師の増員などの要望書を決議する。そして、全生徒が次々と大きな段ボール箱に型紙を捨て、生徒会役員が職員室にきて、蒼白になった理事長に藤川が要望書を渡し、他の役員たちは型紙が溢れた幾つかの段ボール箱を職員室に持ち込んだ。

この小説は、かつて十一年間私立高校で教えたことのある、里村さんの体験をもとにした壮絶な作品である。三十五年間、私立高校で教えた私にとって、一言一言が身にしみるような作品で深い感銘を受けた。

 

 

 

   日記3

                豊村一矢

 

 前号のつづき

 2008年

1月18日(金

手塚英孝「小林多喜二」上の残りと下を読んだ。「東倶知安行」に入る。

 自分の創作活動について、これでいいのかと考えてしまう。児童文学同人誌の「季節風」93号が来たが、さあっとめぼしいところを走り読みしても、「季節風」が軽薄なものに見えてしまう。

 1月19日(土)

 「東倶知安行」を読み進む。

 

1月20日(日

「東倶知安行」を読み終わり、「蟹工船」に入る。

1月21日(月

「蟹工船」を終わり、「不在地主」を読んで「防雪林」の途中まで進んだ。蔵原惟人や西澤舜一が言っていることに該当する箇所などが出てきたり、いろいろ興味深い。

1月22日(火

「防雪林」を終わって「工場細胞」に入る。

1月23日(水)

「工場細胞」を読み終わり、「オルグ」を読んで、「党生活者」に入った。

1月24日(木

「党生活者」を読み終えた。「転形期の人々」等も気になるが、児童文学LERAや季節風関係も面倒くさくなり、ほってもおけないので、一時、多喜二から離れよう。

1月25日(金)

読書は「世界文学としての芥川龍之介」を少々、のみ。

1月26日(土)

松木さんから「母ちゃん、おれがんばる」の感想メールがきた。丁寧な評価でうれしい。この作品の問題点が分ってきた気がする。LERA8号に書き直して出してみようかと思う。

 読書は、「世界文学としての芥川龍之介」をチラチラと。

今週は、民文の例会だから合評作品をもう一度読むのと、8号対策、それに季節風への投稿をどうするかはっきりすることに重点をおいて、合間に「世界文学としての…」をチラチラと…でいこう。

 

1月27日(日

外出も読書も仕事もせずブラブラと過ごした。そんな日曜があってもいいだろう。

1月28日(月

 読書は、奔流21号の作品。芥川はとりあえず、書架に一旦納めた。

 1月29日(火)

奔流21号を読み、合評予定作品をノート。他のドキュメンタルやエッセイも。明日でたぶん、21号の全部に目を通すことになるだろう。ここにきて、奔流の作品もいろいろで、文章力に差があることが見えてきた。

1月30日(水)

読書は、奔流21号全部に目を通した。関連で、奔流20号もいくつか読んだ。季節風から心が離れていく。どうするか…。

1月31日(木)

 

 読書、「世界文学としての芥川龍之介」

札幌民主文学通信

二〇二一年〇九月〇一日 274号

 

 

九月例会誌上合評

 

合評作品

 かがわ直子「ラストステージ」

「民主文学」9月号

       

 

 

 発言1           室崎和佳子

なんて明るい小説なんだろう、というのが第一印象です。楽しく読んでいて、あらら、という間に終わってしまった。その速攻さにも意表をつくものがありました。

 

 かつて証券マンだった松井信三は、リストラする側の生き方を捨て、自ら希望退職する。現職の時はもちろん退職してからも、リストラに抗して闘う共産党員の姿が心の奥底から消えることはなかった。

 であるから、吉本正明の誘いを受け入れ、自らの意思で共産党員になる。八十二歳で肺気腫を患い携帯の酸素ボンベから離れられない体であってもである。

 私は、この世の中には2種類の人間のみが存在する、とかたくなに思いこんでいる。「良い人間」と「悪い人間」の2種類である。中間はありえないし認めない。良い人間とは自分以外の人間を傷つけない善良な人間であり、悪い人間とはその逆の人間である。私の生活する周りを見渡しても良い人間がほとんどで、悪い人間はそういない。たまたま日本の政治の中枢を握っている人間たちが悪い人間(しかも極悪人)なので、悩み苦しむ人たちが多いのである。

 松井信三も吉本正明も良い人間である。

 一方は猫をこよなく愛し、他方は猫をこよなく愛している人を愛しているから。

 

 14ページ下段14行目と15行目は不要とみたが、どうだろうか。この2行があることで、松井の揺れる心の内容が浅くなる気がする。     

 長らく音信不通だった息子が訪ねて来て、一緒に暮らそうと誘うが、松井は、少し考えさせてくれ、と言う。しかし、すぐに自分のゆく道を決める。「群れていたい」からと。そして、これからの人生の相棒・同伴者をも決める(猫2匹)

 

 私は十勝で34年間過ごした。26歳で2番目の学校へ赴任した陸別の地で、同い年の酪農家とその連れ合いに出会う。彼は陸別出身の農民で彼女は帯広で看護婦をしていた。彼女曰く「発情期だったんだね、こんなところに来て酪農やってるんだから」と、彼との馴れ初めを尋ねた私に答えたのだった。翌年、27歳になった彼は陸別町初の共産党議員を目指し選挙に立候補した。発情したので酪農民と結婚した彼女は、六十歳になるかならないかでスキルス性胃癌のため死去する。一人になった彼は、ある日、外から窓越しにじっと彼を見つめている1ぴきの猫と目が合い、思わず招じ入れた。猫と彼は家族になった。

 松井の姿は陸別の彼につながる。

 

 16ページ下段の最後の2行は ない方がよいように思えるが いかがなものか。

 

 冒頭で述べたように、息もつかせず あっという間に楽しく読めたこの小説に感謝。

 

 

 

発言2            松木新

この作品では、松井が言った次の言葉に、作者の思いが託されているのだと思いました。

〈「吉本さんな、人間って奴はやっぱり、いつも群れていたいんだよ。この歳になってつくづく思うんだよね。それも気心の知れた仲間とね」〉

面白いのは、作者のこの思いが、『民主文学』4月号に掲載された、上村ユタカの「偽物」と通底していることです。

シュールレアリスムの手法で書かれた「偽物」は、とても愉快な作品ですが、そのなかで、押し入れに閉じこもった主人公の学生に父親から電話がきます。〈はよう友達ばつくらんね。はじめての一人暮らしとこれ、一人じゃ寂しかろ〉。これに答えて、主人公はスマホのツイッターに音声入力します。

〈なんもしよらん。授業も楽しゆうなか。友達てんつくいきらん。大丈夫じゃなか。・・・・・・ばってん、だれも、助けてくれん〉

「ラストステージ」を考え始めた松井と、「偽物」の学生とが、〈仲間〉、〈友達〉のいる人生の在り様を考えているところに、今日的な意味があるのだと思います。

〈〝あがら(・・・)〟の城〉を持っている共産党の居住支部は、全国的にみてもそれほど多くはないと思います。それだけに、街頭宣伝だけでなく、日常の党活動の実際についても少し触れてほしかったと思いました。

それにしてもこの作品は、猫好きには、たまらないのではないでしょうか。ぼくは猫を飼ってはいませんが、長男のところに二匹いて、名前が「ひるね」と「あくび」です。真面目に考えてつけたようです。

 

 

発言3           泉 脩

 和歌山県の地方都市における、日本共産党地域支部の活動を書いている。

 主人公は東京の証券会社の営業マンだったが、失業して妻の実家があるこの地に来た。今では八十代の高齢になり、一人暮らし。入党して、まじめに活動している。肺の病気で酸素吸入が欠かせない。

 彼を囲む人々は、さまざまな職業を経て、ほとんどが老年になっている。地方選挙を前に中年の女性市議の再選を目指して、宣伝活動に協力し、努力している。主人公は、不自由な体で参加し、主として旗持ちをしている。

 彼は、「今度が私の最後の選挙だ」と言い、人々は「またか」と苦笑いする。何度も聞いているので、あまり本気にしないのである。彼は何匹かの野良猫にエサをやり、これが唯一の支えになっている。大都市に住む次男から、同居を勧められたが取り合わず、かえって息子はホッとして帰って行く。

このような日常的な話が淡々と書かれている。私自身も思い当たることが多く、他人ごとではないと思う。私も八十代の一人暮らしであり、息子からは、老人ホーム入りを勧められている。持病もあり、病院通いもしている。しかし、自分の生き方を変える気にはならない。もう選挙活動は無理だが、少し前まではけんめいに取り組んでいた。

日本中の隅々で、似たようなことが行なわれているのであり、これはこれで、大切なことだと思う。この作品は、さりげない描写の中に大切なことを書いていると思う。

猫の話が微笑ましく、心温まるエピソードである。

 

 

 発言4          石川節子

    句読点が少なくて、おまけに不適切に使われて居たりして、かなり読みづらい作品でした。

五回目に読んだ時には、本気で腹がたってきました。年のせいなのか、自分が随分、気が短く成っていることを認識させられた。

    猫好きで「共産党の支援に徹した日常生活を描けば大抵は、好評を得る」という、私の偏見を再現したようで、思わずニヤッとしてしまった。

    「ペタンクの代表選手で酸素を十分に吸って備える」描写がありますが、私は「ペタンク」を知らなかったので、とても興味を持ちました。

 

十二ページ、下段に

「けどな、自分は〃希望退職組〃を選んで職場を去った・・・・・・」あり、後ろめたい表現として私は、読み取ったのですが、この場合の希望退職は後ろめたい事なのでしょうか。卑怯者なのでしょうか。見解の相違を感じましたがいかがでしょうか。

 

十五ページ下段、「けどよ吉本さん、コミバスを走らせてくれの署名運動はたのしかったなあ。とありますが、ここは、①コミバスを走らせて呉れ、署名運動が楽しかったのか、②コミバスを走らせて、暮れの署名運動が楽しかったのか、どちら? 

 

十五ページ下段、後ろから三行目、「村の人達が信三さんを受け入れ、そして議会まで届けた共産党も認知されたと・・・」は、松井さんは議員になったと言うことなの?いくら考えても解らない。

 

 

 発言5          豊村一矢

 おもしろい小説だ。私の原点が児童文学の所為か、小説は面白くなくては始まらない、という感覚が染みついている。文体が「語り口調」に感じる。句読点の使い方がそうさせているのかも知れない。これは創作の参考になる。、「民主文学」の作品を読んで楽しむのは久々だ。

 正明と松井と私は、ほぼ同年代だ、人生最後の段階に入っている。私や私の周辺の人たちと、小説「ラストステージ」のいろいろの場面が重なる。息子、息子夫婦との関係、嫁舅の確執、介護問題、相続問題などなど。そして何よりも「終末期を誇らしく生きる」等々が深く掘り下げながら展開されている。だから、「そうそう」「あるある」「そーなんだよ」と最後まで一気に読んでしまう。

 一方、共産党が出てくる。入党の経緯や具体的な活動場面が書かれる。「〝あがら〟の城」のアガラは、和歌山県辺りの、「おらが」→「わしたち」の意味だろう。支部のメンバーに大工、左官、電気・水道工事の技術陣が揃っていて、ほとんど材料費だけで、支部事務所を立ちあげたとは、作り話だとしても楽しくなってくる。街頭宣伝やビラ作成・配布の活動でも、それぞれが互いにリスペクトの気持ちを持ちながら個性豊かに役割を果たしている。

「野良猫」は作品のアイテムとして生きているし、「人間って奴はやっぱり、いつも群れていたいんだよ」は、最近、「ケア」とか「エンパシー」という言葉で語られる人間同士の理想の関わり方を世俗的に表現しているようにも思う。

私は、ステージを持ちすぎている気もするが、

「いろいろな人と群れながら」気楽にやっていこうと思う。

 

 

発言6          後藤守彦

 生活点で社会変革に取り組む、高齢の松井が仲間の吉本の目を通して活写されています。愛猫家の私としては、野良猫を保護する松井の姿は、嬉しいものでした。猫と関わる松井の言葉を織り込むことによって、松井の人間像が深められていきます。ボス猫ゴンを動物霊苑で火葬した後、同行した吉本が「あとの処分はここでやってくれるのですね」というのに対して、松井は「せめて埋葬とでも言ってくれよ」と返します。動物にも人間と同じ命があるのです。ゴンが亡くなる前にも、何回か吉本は松井を動物霊苑に運びますが、そこでの二人のやりとり、「何匹いても堪えるでしょう」「あったり前だ」、ここにも松井のやさしさがにじみでています。今はペットロスという言葉が広く知られるようになりました。庭先にやってきた猫をあらたに飼うようになったことについて、「奴らは勝手に来たんだからさ。俺が誰かにもらってきた訳じゃない」と松井は言い訳します。何とシャイなことか。最後まで面倒を見ることができないだろうと認識しつつ、受けいれるのです。

 松井は、残された時間は少ないと自覚しながら、猫を愛しつつ、仲間とともに生きていこうと決意しています。ラストステージをどのように演じていくのか、この作品から問われた思いです。

 

 

発言7        北野あかり

私も、傘寿を過ぎてそろそろ今後について考えるようになって来ました。そんな時にこの作品の「ラストステージ」のタイトルに近親感を感じ一気に読みました。

団地に居住する共産党員の姿や活動が魅力的に描かれていて、このような方たちがいる所なら私も終の棲家としてもいいかな…と思いました。特に、肺気腫で酸素を手放せない松井信三さんを公私にわたり面倒をみている吉本正明さんのような方いること。彼の、本人の意思を尊重し相手の琴線に決して踏み込まないことや、個々の特技や条件を考慮した活動参加を重視しており、街頭宣伝は、ともすると活動的な人で済ませてしまいがちですが、「旗を持って立っている」だけでも重要なこととして位置づけ評価しています。

また「町内は不便だ…」という松井さんの呟きを取り上げて、「コミュニティバス」を走らせてほしいと署名活動をはじめるなど、自らの生活に根差した要求を地域の問題として取り上げ、その実現のために活動する共産党の姿も描かれていてとてもいい作品だと思いました。

 

 

 

発言8          村松祝子

掌編小説というのがあるとか‥まさにこのような小説を言うのだろうか。

主人公は八十二歳の松井信三。 

彼の生き方を吉本正明の目を通して描いている。

彼ら二人は共産党員で党の活動を通じて結ばれた。

松井は愛猫家の連れ合いを亡くしてから残された孤独を猫達によって癒されている。

彼の風貌は読み手に「いる、いるこうゆう人」とつい口に出てしまうくらいよく描写されている。 

誰にでも訪れる人生の終わりを「‥いつも群れていたいんだよ。 それも気心の知れた仲間とね」と語る彼の言葉は心に響く。

身内の息子に頼る生き方よりも仲間の中で生きていく生き方を選んだラストステージは大企業のリストラ仕事を拒否し自ら「赤旗」購読を申し込んできた彼の果敢な生き方にふさわしい。

文章が読みやすく。彼の人生にも山あり谷ありが窺える。

職場での葛藤や先妻と二度目の妻との経緯、息子二人との生き方の相違それらを包んで猫たちとのこれからの生活にエールを送りたい。

 

 

 発言9          泉恵子

人生の「ラストステージ」をどう選ぶかのテーマを据えて、地域の日本共産党の支部活動を背景に、ユニークな八二歳の松井信三の姿を、同じ支部員の吉本正明の眼から活写した好編と読んだ。

 地域は、遠くに高野山や奈良の大峰山系を控え、一級河川の紀ノ川が流れる自然豊かな地で、先月合評の「枯死」と地続きの県をまたいだ南西地方になるようだ。

 「紀ノ川」と聞くと、有吉佐和子の同名小説を思い浮かべる。「まだ封建的な風習と雰囲気が残る田舎の」「排他的な空気が色濃く残っている集落」の表現が小説「紀ノ川」に重なってくる。

 ここではそんな空気は描かれていないが、この地域に引っ越して日の浅い松井が、「隣組のおばちゃんや年寄りと実にいい付き合いをやって」存在感を示すという人柄に、正明はその”偉さ”に感服している。このあたりの具体的な描写があったらと思った。

 妻(二番目の?)と死別し、息子たちとも離れて暮らし、一緒にいた猫たちも次々死んで一人暮らし。肺気腫という厄介な病気を抱えているが、「これが俺の最後の選挙」と言いながらも、酸素ボンベを持参して、精力的に活動に参加している。学生時代は短距離の選手で、長身、肩幅広く、率直な物言いで現職議員にもはっきりものをいう姿は彷彿とさせるものがある。

 彼の入党の理由は、大手の証券会社に勤務していたころ、営業成績が良かったことでリストラ振り分けの部署に回された事からくる苦悩が原因だった。その時、リストラに抗して闘う労働組合や、共産党員の姿がずっと心の底にあったという。退職後、「しんぶん赤旗」を自ら申し込み、配達担当の正明の夫婦が「別居までしての配転闘争」をしたことを聞かされたということも、きっかけになったようだ。

 その配転闘争の詳細は描かれていないが、この作品では、松井を語る正明の姿がもう一人の”党員”として立ち上がってくる。松井のように派手さ?はないが、地道に粘り強く、広い心で闘ってきたらしい雰囲気が醸し出されている。松井からの、度々の車で送ってほしいという頼みごとも快く引き受けるいい人で、このような人が地域を支えてきたのだろうと思われる。

 

 多喜二の「党生活者」が書かれてから、約九〇年の時が流れ、あの非合法時代の重苦しい日常とは様変わりの、今日的な党の姿の一端が正面から描かれているのは意義深い。今や、国民の理解もある程度進み、宣伝活動も大らかで、ここでは排他的な空気は感じられない。

 しかし、先日観た映画「時の行路」に示されたような労働者の権利を踏みにじる現実はまだ健在だ。裁判まで権力に寄り添った判決が続くし、反共宣伝も少なくない。

 ここではそれはともかくとして、この作品の主人公松井は、息子の共に暮らそうという誘いを断り、ラストステージは、この地で正明たちと共に党員として生きることを選んでゆく。それは至極まっとうな姿と思われる。

 

 p16の上段5行目から「人間って奴はやっぱり、いつも群れていたいんだよ。……」という松井に対して、「弱さか強さか、それは正明自身が判断することだと思えた」の個所はいまいちよくわからなかった。もう少し松井の内面に踏み込んでほしいと思ったことと重なるの

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

『ザリガニの鳴くところ』が面白い

松木 新 

 

アメリカの動物学者ディーリア・オーエンズが、70歳で初めて書いた小説『ザリガニの鳴くところ』(早川書房 2020年3月)は、今年の本屋大賞翻訳小説部門第1位だけあって、とても面白い作品です。

1969年、ノース・カロライナ州の湿地で、村で人気者のチェイスの死体が発見されます。容疑者として逮捕されたのが、未開の湿地に一人で生活している〝湿地の少女〟カイアでした。

物語の前半は、1952年、7歳の時に母親に捨てられ、その後、残った家族にも去られたために、湿地で自然を友に一人で生き抜く道を選択したカイアの成長譚です。後半は、チェイス殺しの犯人捜しとカイアの公判模様が主です。

チェス殺しの犯人捜しの件は、フーダニットのミステリーとしても一級品で堪能できますが、この小説の最大の魅力は、カイアの眼を通して描かれている湿地の描写です。動物学者の持ち味が遺憾なく発揮されており、教えられるところの多い作品です。

〝ザリガニの鳴くところ〟とは、〈茂みの奥深く、生き物たちが自然のままの姿で生きている場所〉のことです。

秋になるとプラタナスの葉は飛翔します。

〈その瞬間、一陣の風がどっと吹き、おびただしい数のプラタナスの葉が命の支えを断ち切って空に流れた。秋の葉は落ちるのではない。飛び立つのだ。飛翔できる一度きりのそのチャンスに、彼らは与えられた時間を精いっぱい使って空をさまよう。日の光りを照り返して輝きながら、風の流れに乗ってくるくると舞い、滑り、翻る〉

緊急時に子どもを捨てる雌ギツネがおり、しかもその遺伝子が次の世代にも引き継がれるといいます。

〈雌ギツネは飢えたり過度のストレスがかかったりすると、子どもを捨てることあるって。子どもたちは死んでも―もちろん、どのみに死んでいた可能性は高いでしょうけど―雌ギツネは生き延びられる。そうすれば、状況が改善したときにまた子どもを産んで育てられるんだって〉

カイアは、その本能は現代の人間にも引き継がれており、母がカイアを捨てたのは、〈そんな原始的な衝動のせい〉だと考えます。

6月合評作品「誰もこの涙に気づかない」の感想として、子どもの親権を父親に渡した行為に疑問を呈しましたが、〈原始的な衝動〉の視点で、母親の選択を考えると、また違った感想になるのではないか、と思いました。

湿地の生物が繰り広げる交尾競争には凄まじいものがあります。

〈雄のホタルは偽りの信号を送って別種の雄を誘い、彼を食べてしまう。カマキリの雌は自分の交尾の相手をむさぼり食う。昆虫の雌たちは恋の相手とどう付き合うべきか、ちゃんと心得ているのだ、とカイアは思った〉

それにしても、湿原の自然、とくにハクガンの群の描写には、圧倒されました。

〈地平線に細長い黒雲が現われ、それがみるみる上昇しながらこちらへ迫ってきた。大気をつんざく音が急速に密度を増して大きくなり、あっという間に頭上に広がりはじめた雲は、気づくと青い部分がひとつもないほど空一面を埋め尽くしていた。何万、何十万という数のハクガンだった。それが翼を羽ばたかせ、鳴き声を上げ、空を滑って世界を覆わんとしているのだ。渦を巻く塊が大きく傾いて旋回し、着陸態勢に入った。そして、五十万対はありそうな白い翼がいっせいに広げられ、桃色を帯びたオレンジ色の足が伸び、鳥たちの吹雪が地面に近づいてきた。それはまさにホワイトアウトという様相で、遠くにあろうと近くにあろうと、地上に存在するありとあらゆるものが視界から消えた〉

物語は、カイアと結婚した幼馴染みのテイトが、64歳で亡くなったカイアの遺品を整理し、ザリガニの鳴く奥地へ向かう叙情あふれる文章で閉じられています。

〈夜が訪れ、テイトは小屋に向かって歩きだした。だが、潟湖まで来たところで足を止め、深い木立の奥に目をやった。何百という数のホタルが、暗闇の先に広がる湿地へと彼をいざなっていた。はるか遠くの、ザリガニの鳴くところへと〉

 

 

(ひの)(つめ)あかね「世界の色をつかまえに」

     自分探しのスタート

泉 脩

 

昨年(二〇二〇)に五三歳で亡くなった旭爪あかねの、一九九八年の中編小説である「民主文学」に異例の全編一挙掲載になった。

主人公の井上あかりは、北関東の国立大学の経済学部に入学し、修士課程の四年目を迎えていた。普通、修士課程は二年で終るのに、修士論文が書けないまま、ずるずると時が過ぎたのである。彼女は二六歳になり、どうしても論文に手が付かず、大学も休みがちで、引きこもり状態になってしまった。

彼女の研究テーマは、ユーゴスラビアの自主管理農業であるが、ユーゴスラビアが解体し、内戦になり、経済も落ち込んでしまった。元々彼女がユーゴに関心を持ったのは、サラエボ冬季オリンピックのテレビ放映を観て、社会主義国といいながら、若い娘たちが色とりどりの服装をし、髪型も自由な姿を見たからである。

両親が共に中学の教員であり、活動家である。一人娘のあかりは、この両親の期待に応えようと努力してきたのである。しかし現実はきびしく、父親は毎日遅く酒に酔って帰り、母親に負担をかけている。日本はバブル崩壊で不況が続き、世界ではソ連の崩壊から東欧諸国も大変動に見舞われている。

彼女は生きる道を見失い、暗中模索の苦境に落ち込んだのである。この中で、学部の友人で早くに他の学部に移り、卒業して映画製作に努めている貴子(たかこ)に救いを求めた。

貴子の助言から自分を振り返る文章をオレンジノートに書き始める。貴子は、あかりを中心にしたシナリオを書き、映画作りの仲間の酒井と共に、あかりを映画の道に誘い込む。あかりはゴールデンウイークに千葉県の実家に帰り、共に退職していた両親に大学を辞めて新しい生き方に進むことを打ち明ける。そして理解できない父親を罵り、家を飛び出して、巣立ちの時を迎えるのである。

学問の道から芸術創造へと大転換する主人公は、作者の旭爪あかねとほぼ等身大であり、ぎりぎりの切迫した心情がリアルに書かれている。世界と

国内の大きな変動をしっかりと理解しながらも、多くの苦しみを必死に探究するのである。  

私も高校時代からこのいわゆる自分探しに迷い込み、文学研究に生きる道を求めた。しかし文学創造には至らず、高校の歴史教師の道を歩んだ。文学創造に挫折して自死した加清純子と矢島進という先輩・友人の死が、私にブレーキをかけた。しかし私は文学を手放さず、評論とエッセーの道を歩んできた。

 

おわりに

引きこもりとは日本だけの現象である―と、日本に永く滞在したアメリカの記者が書いている。「ひきこもりの国、日本」という本の中で、日本にはおよそ五十万人の引きこもりがいる、とも書いている。

十年ほど前、私は北京ツアーに参加した時、現地ガイドに「日本人は世界一、時間を正確に守る」と言われた。「他人に迷惑をかけない」、「時間を無駄にしない」が、日本人の一番のモラルのようである。そして効率的に学び、効率的に働くことが求められる。狭い島国で多くの人間が生きていく上で、もっとも大切なことなのだろう。

それだけに息苦しく、脱落した者は置いて行かれてしまう。情け容赦ない社会なのでもあるようだ。

旭爪さんの作品は、このような日本を実に的確に捉えている。私は旭爪さんの作品を、さらに読んで味わっていきたいと考えている。

 

 

天正遣欧使節のその後

後藤守彦

 

 約四〇〇年前の一六三三年一〇月二一日、中浦ジュリアンが長崎で処刑された。江戸時代初期、江戸幕府による禁教、キリスト教弾圧の嵐が吹く中、穴吊りの責めを受けた末、命を奪われた。穴吊りは最も苛酷な拷問であった。内臓が下がらぬよう身体を縛りあげて、穴の上に逆さに吊るし、早く死なないように、こめかみに切れ目をつけて頭に溜まった血を出す。じわじわと苦しめながら、キリスト教を棄てるよう迫る。棄てなければ死を迎えることになる。ジュリアンは五日間耐えた後、絶命した。時に六五歳。死に際して、ジュリアンは「私はこの目でローマを見た中浦ジュリアンだ」と叫んだともいわれている。

 「ローマを見た」のは、中浦ジュリアンだけではない。他に三人いた。天正遣欧使節といわれる、大村・有馬・大友の三キリシタン大名の使節となった一二歳から一四歳の少年たち四人である。「ローマを見た」のは、一五八五年二月のことであった。三年前の一五八二(天正一〇)年一月、イエズス会の宣教師ヴァリニャーニに引率された四人を乗せたポルトガル船が長崎を出帆した。マカオを経て、翌年一二月にゴアに着いたが、この間激しい風波にあったり、逆に無風状態で進行を阻まれたりと苦難の航海となった。伊東マンショが熱病にかかり危篤状態になったこともあった。ゴアに留まることになったヴァリニャーニに代わって、宣教師メスキータが少年たちを案内することになり、ようやくポルトガルのリスボンに入港したのは、一五八四年七月のことである。

 次いで、スペインの首都マドリードに入り、ポルトガルをあわせて統治していたフェリペ二世に三キリシタン大名の手紙を呈した。それから一行はイタリアに向かい、長崎を出してから三年二カ月後にローマに到着した。少年たちは、日本服の盛装で馬に跨り、ローマ市民の歓呼の中を、盛大な行列を整えてヴァティカン宮殿に向かい、国王の間で、ローマ教皇グレゴリオ一三世に謁見し、三キリシタン大名の手紙を呈した。一行がローマ滞在中の高齢のグレゴリオ一三世が亡くなり、その後選ばれたシスト五世の即位式にも参列している。

 リスボン港から帰国の途についたが、ゴアでは使節派遣事業の企画者であるヴァリニャーニが一行を待っていた。少年たちの中で最もラテン語に優れていた原マルチノは、ゴアのサン・パウロ学林で報告演説を行った。その演説を印刷した「原ドン・マルチノの演説」と題するパンフレットは現存しており、これは日本人が初めて欧文で書いた著述といわれている。

 一行がマカオに到着した時、既に使節を派遣した大友・大村の両キリシタン大名がこの世を去り、織田信長のあとをついだ豊臣秀吉がバテレン追放令を発布し、禁教の態度を明らかにしていたことを知る。一五九〇年六月に長崎に着いたが、出発の時から数えて八年五か月の月日が流れていた。四人が揃って帰国できたことは、奇跡としかいいようがない。翌年、ヴァリニャーニに伴われて、四人は聚楽第に赴き秀吉と会う。この時、ヨーロッパから持ち帰った楽器を使って四人が演奏し、秀吉を感動させた。聚楽第演奏後四〇〇年を記念して、一九九〇年にCD『四〇〇年前の西洋音楽と古楽器』(技術新聞社)が発売された。四人が演奏したと思われる後期ルネサンス音楽を再現しており、私はかつて高校の日本史の授業でそのうちの「千々の悲しみ」を紹介していた。

 三六年前、私もローマを訪れ、ヴァティカンのサン・ピエトロ大聖堂にも足を踏み入れている。丁度夕べのミサが行われていた時で、荘厳な雰囲気に圧倒された。一観光客にすぎなかった私とは大違いの、キリスト教徒としてローマ教皇と会うという、劇的な感激的な体験を共有した四人であったが、その後の人生は分かれてしまう。禁教の嵐が激しくなる前に、伊東マンショは信仰を貫いたまま、一六一二年に長崎で病死し、千々石ミゲルは棄教した。ミゲルがいつ、どこで亡くなったかは不明である。禁教の嵐がますます激しくなっていく。キリシタン弾圧の苛酷さについては、キリスト教史の研究者片岡弥吉が大部の『日本キリシタン殉教史』(時事通信社、一九七九年)で詳しく叙述している。原マルチノは国外追放され、一六二九年マカオで没し、中浦ジュリアンは前述したように、一六三三年殉教した。

 当然のことながら、天正遣欧使節は文学作品となっている。刊行順に見てみよう。先ず、『少年讃歌』(文藝春秋、一九八二年)がある。使節が長崎を出帆してから四〇〇年経った年に刊行された。作者は『忍ぶ川』(新潮社、一九六一年)で芥川賞受賞をし、短編小説の名手といわれた三浦哲郎で、私が愛する作家の一人である。三浦の二人の兄は失踪、二人の姉は自殺、もう一人の姉は先天的な弱視、こうした家族の「病んだ血」の自覚が作品の根底にあった。この長編小説は、印刷技術を学ぶため同行したコンスタンティノ・ドラードを記録者として、秀吉との謁見までの動きを辿っている。四人がヨーロッパの各地で着物の着用を求められる様子が丁寧に描かれていることから、「外面的な異国趣味にさらされる少年たちの悲哀を作者が書こうとしたことのあらわれ」との指摘がある(『三浦哲郎全作品研究事典』鼎書房、二〇二〇年)

松本清張賞を受賞した村木嵐の『マルガリータ』(文藝春秋、二〇一〇年)は、殉教した中浦ジュリアンの対極にいた背教者ミゲルを妻の視点から描く。ミゲルに関する記録は少ないので、家族のこともよくわからない。村木は、結婚したという記録をもとに珠という名の妻を設定し、ミゲルについて語らせている。珠はいう。「みげるは天主教のせいで命を落としたのでございます。棄教者じゃ、転び伴天連じゃと蔑まれ、生涯一日たりとも安穏に過ごしたことはなかった。みげるは南蛮に行きさえしなければ、あのように酷い生涯は送らずにすんだのでございます」と。

最近、ゴッホの死の謎に迫る『リボルバー』(幻冬舎、二〇二一年)を刊行し、画家の人生と作品をテーマに書き続けている原田マハの『風神雷神』(PHP研究所、二〇一九年)は、フィクションとして『風神雷神図屏風』で知られる俵屋宗達を登場させる。ローマ教皇への織田信長の贈り物である屏風を携えて絵師として少年使節と同行、特に原マルチノと心通わせ行動をともにした。イタリアでミケランジェロの『天地創造』、レオナルドダヴィンチの『最後の晩餐』を見て心を奪われ、大きな影響を受ける。夢物語だが、設定が興味深い。

天正遣欧使節研究の頂点的な労作は、美術史家の若桑みどりが「史料ではなく、人間を読む歴史家」を自認し、七年の歳月をかけ、「私の人生を書くような思い」で綴った『クアトロ・ラガッツィー天正少年使節と世界帝国』(集英社、二〇〇三年)である。重厚な一冊から研究者としての熱い思いが伝わってきた。若桑はエピローグを次のように結んでいる。

 

   時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志をもってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーローだ。そしてもし無名の無数の人びとがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜならわたしたちの多くはその無名のひとなのだから。

 

 

 

 人との出会い 特別編 同い年⑨

                泉   脩

 

偲ぶ会で思い出を語る

七〇代の中頃、私は偲ぶ会で思い出を語ることになった。北大の生物学教授だった、片桐千明君についてである。

 

私たちは好運な世代でした。小学校五年の時に戦争が終わったからです。子供だったので、軍事訓練も勤労動員もなく、中学には全員が入りました。そして、民主教育を受け、平和で文化的な日本を作る理想を持ちました。片桐君とは北大で友人になり、家族ぐるみの付き合いをしてきました。片桐君は穏やかな人柄で信頼できる友人でした・・。

 

このような話しをし、クリスチャンセンターの大講堂を埋めた数百人の人が、熱心に聞いてくれた。私は生まれて初めての大役を終えて、ほっとした。

会が終ると、何人もの人があいさつに来てくれた。私の話が良かったようだ。

片桐君とは中学・高校で同期生だったが、クラスメートにはならなかった。友人の、友人ということで知ってはいたが、北大に入ってから親しくなったのだ。山科、小林、田村そして片桐と私というグループができ、北大キャンバスで話し合い、相互の家を訪問するようになったのだ。山科君の森町の家に、私と片桐で一週間も泊めてもらったことがあった。

家族ぐるみというのは、このグループを中心に他の大学に進んだ人も含めて、「道の会」という学外サークルを作ったためである。南高卒業のメンバーで女性も加え、その友人の女性も参加した。

読書会に始まり、コーラスや人形劇にも取り組み、施設訪問のボランティアをした。私は文学部内に作った「ロマン・ロラン友の会」とアルバイトで忙しく、道の会はオブザーバーだった。後に私と結婚する小畑春美も参加し、彼女はロマン・ロラン友の会にも参加した。

当然のことながらカップルが成立し、その後、三枝、山科、片桐夫妻が生れた。私と小畑春美も準じたのである。そして、これらの夫妻が、数十年も家族ぐるみの付き合いを続けたのである。偲ぶ会では、このことも話し感銘を与えたようだった。

片桐君の死因は間質性肺炎だった。私の下の姉と妻の義兄、友人の妻は、最近この病気で亡くなった。古くは大歌手の美空ひばりもそうだった。未だ治療法がない恐ろしい病気である。

こんなこともあった。妻が小学校低学年の息子を連れて片桐宅を訪問した時、二人の娘さんが上手にピアノを弾いたそうである。息子の剛はびっくりして、家に帰ってから、自分も習いたい―と言い出したのである。私たち夫婦は二人とも音痴なので、それも良いだろうと思った。学校の音楽の授業で少しは役に立つと思ったのである。剛のピアノは小学六年まで続いた。

片桐君に最後に会ったのは、亡くなる少し前に我が家に来てくれた時である。私の書斎のたくさんのCDを見てびっくりしていた。

「欲しい曲をあげるよ」というと、「モーツァルトのレクイエム」というので、カラヤン指揮のCDを探すと、「カラヤンは嫌いだ」というので、ベーム指揮のCDを渡した。

ナチ党員だったカラヤンを拒否したのだ。私は胸を打たれた。私たちの友人は反戦、反ファシズムでは共通しているのだ。うれしい経験であった。

さかのぼれば、私たちの結婚式の最後に、片桐夫妻を含めた「道の会」のメンバーが、会の歌である「赤トンボ」を見事に歌ってくれたことが思い出される。

素晴らしいフィナーレだった。

片桐君ありがとう。

 

 

日記2

              豊村一矢

 

 前号の投稿欄に「日記」という一文をのせた。

 今回、読み返したら、脱字等が多くて赤面した。たまたまフロッピーに保存してあった文章を部分的にコピーしたもので、きちんと校正もしなかったせいだろう。

 本号も、フロッピーからの抜き出しだけで、日記全文ではなく文学関係の箇所だけだ。

私としては、民主文学会札幌支部に加入したばかりのころの初心を思い出そうする試みでもあるので、大目に見て頂きたいと思う。

 

2008年1月

08日(火)

読書は、進まなかった。奔流21の小縄龍一「夕張の郷」を途中まで。

 

09日(水

読書は、奔流21の小縄龍一「夕張の郷」の残りと、田隆吉「白い道」を読み、ノートもとった。「白い道」は、他と比べて文学の匂いが濃く、いいと思った。

それにしても、奔流の作品は、今回読んだ範囲では私小説的だ。いい意味でも悪い意味でも。

 

10日(木)

読書。奔流21の福山瑛子「忠別橋」、ノートもとった。南平太郎「決断のとき」を途中 まで。

 松木新氏より連絡葉書、12日の例会にノーマ・フィールドさんが来るとのこと、楽しみだ。

12日(土)

 札幌民主文学会の2月例会。ノーマ・フイールドさんが女性であることを始めて知った。

 菊地大さん。岩井善昭君も来ていた。岩井君とは37年ぶりだ。彼が共産党道議会議員候補であったことは知らなかった。不覚。

例会での奔流作品合評は刺激的だ。精神活動に変化が生じそうだ。2次会も楽しかった。メンバーの個性も少しずつ見えてきた。

13日(日)

奔流21、南平太郎「決断のとき」を読む。

14(月)成人の日

 奔流21、石川弘明「四離五結」、大橋あゆむ「白杖の調べ」、荻生とみ子「風が流れる」、薗田宜紀「面影」を読む。

慣れたこともあると思うが、民主文学の作品に馴染んできた感じがする。抵抗なく受け入れることができる。

 ただし、私小説的ということの負の面を突き破って、一級品の作品にレベルをあげる努力は、必要だろうという思いも強まる。

16日(水)

 松木さんに「かあちゃん、おれがんばる」と『LERA・風』5号を送った。民主文学での創作方法や様々な課題の解明のきっかけになればいい。

 

 

札幌民主文学通信

二〇二一年月〇一日 273号

 

 

8月例会誌上合評

 

 作品

 小西章久 「枯死」

     「民主文学」2021年8月号

 

 発言1       松木  新

農業を題材にした貴重な作品で、久しぶりに楽しく読むことができました。やはり、生産現場を描く作品には惹かれるものがあります。躍動感のある文体で、稲作に不案内な読者も、十分に理解できるように描写を工夫しており、作者のそうした姿勢には、共感を覚えました。

この作品からは、トビイロウンカの被害の急激な広がり、それに挑む農民たちの姿が、緊迫感を持って迫ってきます。細部にこだわった描出のために、作品世界からは、土や汗や稲の匂いが、立ち上がっています。

気になったのは、ウンカ禍を何とか乗り切った寿人の結論である、次のセリフです。

〈「俺は心折れて逃げようとしたけどな。柊太が戻ってくるまでは二人の作業やけど、残してやらんとな」〉

ウンカとの格闘の傍ら、寿人は転職について悩んでいるのですが、彼の葛藤が、作品世界では表面的にしか描かれていないために、このセリフが出て来たときには唐突に感じました。

小説で人間を描くということは、たとえば寿人の場合では、稲作を続けるか断念するかの瀬戸際 に立たされている彼の内面の心理にまで筆を進め、それを読者に示すことだと思います。それが希薄なために、このセリフを目にしたときには、予定調和にもとづくご都合主義を感じました。

主人公の内面描写に踏み込まないで、なお、小説世界が成り立つことはたしかにあります。レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』がそうですし、古くは、ヘミングウェイ『武器よさらば』です。

キャサリンが帝王切開による出血多量で死に、〈まるで彫像に別れを告げるようなものだった〉と感じたヘンリーは、〈外へ出、病院をあとに、雨のなかをホテルへ歩いて帰った〉という一文で、作品世界が閉じられています。

最愛の恋人を失ったヘンリーの苦悩、悲痛には、ヘミングウェイは一歩も踏み込んでいません。こうした創作方法を可能にしたのは、「失われた世代」のヘミングウェイが抱えていた、痛烈な人間性喪失感のためです。

作者はヘミングウェイとは真逆の立ち位置にいます。

生の肯定感を全身に体現している、熱いハートの持ち主である寿人が、迷いを断ち切って稲作に向き合うという思いをていねいに描くことで、生きた人間が躍動する作品世界が創られると思うのです。

 

 

発言2      後藤守彦

 静かな感動を呼ぶ作品でした。家庭菜園で土いじりをしている程度の私にはわからない農業労働の厳しさが細やかにそして淡々と描かれています。稲刈り、虫害への対応など。農業生産での水の大切さも伝わってきました。水の取り合いにもなりますが、下流の農家に送る「田を作る者の礼儀」を忘れてはいません。学生時代にゼミで狂言についてレポートしたことを思い出しました。「水掛聟」では、田が隣りあった舅と聟が田に引く水をめぐって争い取っ組み合いになりますが、舅の娘は聟に加勢します。室町時代の女性の地位について考察する史料にもなりました。

主人公の寿人も本家の泰夫も専業農家ではありませんが、虫害で収穫が駄目だった今年の結果を受けて泰夫は、「どっちつかずの生半可な気持ちがどっかあった」、仕事を辞めると語ります。再就職を誘われていた寿人も、離農して楽になりたいと思った時もありましたが、「農家のしぶとさを見せ付けてやりましょう」と農業専一を決意します。二人の心の動きがよく伝わる描写になっており、胸が熱くなりました。

深めてほしかったことがあります。再就職の誘いを隠し心揺れる寿人を「浮ついているなって」思って見ていた妻の美咲もそうですが、特に農家として跡を継ごうとする息子の柊太、この二人の前向きな気持ちはどこから生まれるのでしょうか。それが見えたら、作品の世界はもっと豊かになったと思います。

 

 

発言3         室崎和佳子 

 この作品を読んで稲作の大変さを初めて知ったようなきがします。

 高一の古文(漢文)の学習で「粒々辛苦(りゅうりゅうしんく)」という言葉を知り、それ以来、茶碗に一粒のお米も残さず食べる習慣はついていて、わが子にも厳しくしつけたのです。

 お百姓さんは田んぼに植えた苗を一粒のお米にするまでに大変な苦労をするのだから、茶碗に一粒のお米も残してはならない、と。

 しかし、私の生育環境の中では水田を見たこともなく(道東の育ちなので)、見聞きするのは畑作だけでしたので、この作品に描かれているような本当の苦労については知らずに、子供達に説教を垂れていたのでした。

 

 トビイロウンカという害虫によって翻弄される寿人一家(妻の美咲、一人息子の柊太)、本家の泰夫さん、営農指導員の山本さん、それぞれの米作りへの情熱とその一途さに心を打たれました。

 寿人の一人息子の柊太が米作りを続けたいと強く願い、トビイロウンカの被害にあった稲の刈り取りに参加する姿を見て、親である寿人と美咲は大いに励まされ、トビイロウンカの被害に立ち向かいます。

 また、本家の泰夫さんの精神の強さと謙虚さが寿人の揺らぐ心を支え鍛えたように思います。

 若い柊太が農業者になりたいと思うに至った原型は、ひたむきに米作りをする祖父にあったのでしょう。息子である寿人への厳しさとは別の、孫に対する愛が、米作りへといざなったに違いありません。

 

 私は二〇〇八年に道央の江別に越してきて以来、新婦人の共同購入で江別農民組合からお米を共同購入していました。しかし、二〇二〇年九月で共同購入が終了。後継者がいなかったようです。柊太のような若い人たちが育っていれば、この問題は起こらなかったでしょう。

 米作り労働の大変さに見合う政府や農協の見識の高さがあれば、後に続くものたちの見識も育つというものです。

 現在は長沼農民組合の「ゆめぴりか」を共同購入させてもらっています。

 こんなに苦労して作ってもらっている「ゆめぴりか」。徒や疎かにはできません。 

 一粒一粒心していただいています。

 

 

発言4          泉 脩

 主人公、小畑寿人は父親の水田を引継いで、妻美咲と共に稲作に努める。寿人は病院管理の仕事を定年退職した後、美咲はナースの仕事を続けながら。

 息子の柊太が祖父を手伝い、やがては就職先を辞めて稲作をしたいと言い、二人はそれまで水田を保持したいと考える。ところが、トビイロウンカの来襲で大きな損害を受け、寿人は新しい病院への再就職に傾く。しかし彼は、自分で考え出した方法で何とか損失を減らし、刈入れに柊太が駆けつけたこともあって、妻と共に稲作を続ける決意をする。

 奈良平野を舞台にした農業物語であり、私のまったく知らない稲作の現実を教えてもらった。害虫の恐ろしさも解かった。

 米は日本人の主食であり、稲作は命の綱ともいえる大切な仕事である。この作品は実によい作品だと思う。北海道の水産業や酪農を書いた作品と共に、私たちに多くのことを教えてくれる。

 主人公のゆれ動く気持ちがよく書かれているし、息子にしても公務員になった上での片手間の稲作である。農業だけで生活していくことの難しさが、わかるような気がする。

 民主主義文学らしい異色の作品であり、今後の発展を期待したい。

 

 

 発言5         豊村一矢

 作品を読んでいると、清々しい風を受けながら水田地帯を眺望しているような気分になり、筆者の高い筆力を感じた。

 一読後、タイトル『枯死』には筆者の意図は解らないが、農作物の枯死と農業の枯死の二つが内意されていると感じた。

私は幼少期を農村地帯で過ごした。この農村には父方の実家と母方の実家があり、父方の実家は畑作農業と林業を兼ねていたし、母方の実家は稲作と畑作を兼ねていた。今思えば、両方とも篤農家であったように思う。父は農家を継がず中学校教頭で給料取りだったせいか、農家の苦労も知らず、思い出す農村風景は広大で、どこまでも牧歌的だ。作品から清々しい風が流れる水田を連想したのはそのためだろう。

現在の農村風景に付き物はビニルハウスで、農作物(商品)の販売流通経路も多様化し、農協一辺倒でない。昭和二十年代の農村ではない。

登場人物が、皆、互いを思いやり大切にして真摯に生きている姿には、もちろん好感したが、農業を継ぐことへの拘りについては、説明不足で、職業選択は自由だよと思い、特に感銘うけなかった。

 

 

発言6         村松祝子

主人公小畑寿人は総合病院の施設管理室に勤め最後の二年間は所長を勤め上げて定年退職した。 

妻の美咲は同じ病院で看護婦として働き彼より二年早く退職し近所の病院へ週三日のパートとして働いている。

一人息子の柊太は寿人が還暦を迎え退職する年に大学を卒業して地方に就職した。

寿人一家は祖父の代からの田歩を受け継ぎ今は五反の田歩を夫婦で守っている。

息子の柊太はいつか戻って農業を継ぐ希望を二人に伝えている。 

しかし寿人は退職した職場から新しい病院を作るのでそこでの施設管理の仕事の誘いがあった。 厳しい農業労働と比較すると魅力的だし経済条件も悪くなかった。寿人の心は揺れ動いた。

そんなところに奈良地方一帯に稲作の害虫トビイロウンカが発生した。

一緒に農業をやってきた本家の泰夫さんの田も寿人の田も当然被害を受けた。 寿人のトビイロウンカへの挑戦をあざ笑うようにトビイロウンカはどんどん広がった。 そんな現実に寿人は農業に嫌気がさし二日間家でゴロゴロしていたが美咲の懸命に田を守る姿を追って寿人も田に出かけた。田に足を入れると頭と寿人の体が自然と動く。改めて揺れ動いていた自分の心に気がつき農業一筋に生きて行く決意をするのだった。

 

文章全体が読みやすく平易で読みやすかった。日本の農家が三ちゃん農家を基本にしている実態がよく描かれて居る。

主人公の寿人が退職後農業を続ける気持ちがいい加減だったのが最後に吹っ切れるのだが、その辺の決意が一緒に農業をしてきた泰夫さんの言葉のつぶやきで代弁させているところが不満だった。ここがこの小説の一番大事なところだと思うのだが寿人の言葉で直裁的に書かれてほしかった。

美咲との関係も農業をやっていく大切なパートナーであるのにあまり書かれていないのも寂しかった。息子がどんなに農業を愛しているのかの気持ちがもっと掘り下げてほしい。 

十ページの下段の最後から二行目の田の稲も青と緑を混ぜて明るくしたような色をしていた。とあるがどんな色なのか? とふと思った。 

一二ページ下段の最後の一行から一三ページの上段の最初の二行目までの文章に農業する人の独特の汗の拭く動作に現場の暑さが想像され良い文章だなと思われた。

二一ページ上段の最初から三行目までの文章でトビイロウンカの集団が茎と葉っぱと土埃の中にコンバインの刈り取り作業とともに目の前に立ち上はだかる光景は自然の脅威を感じさせられる。

 同じ二一ページの上段の最初から十行目から十四行目までの文章で柊太の米作りの本気度を感じたのは泰夫さんだと思うが、なぜそう感じたかもう少し詳しく知りたかった。

トビイロウンカという稲特有の害虫が東南アジアの方から飛来するとは初めて知りました。 日本政府の農業潰しの政策が日本の国土も同時に荒らされて行く現実も描かれ農作業や米作りの過程が丁寧に描かれていた作品であった。

 

 

発言7           柏原竜

 奈良地方の水田に今まで一度も発生しなかったウンカが発生した。定年退職して自分の家の水田を作っていた小畑寿人は元の職場の先輩から、病院の施設管理の仕事をしないかと誘われ迷っていた時だった。ウンカが発生して、隣近所の人々の様子、徐々にウンカが広がり稲穂が枯れていく様子などが目に見えるようである。過酷な農作業の様子も同時に伝わってきた。

 11月、小畑寿人は再就職の話を断り、来年に向けて田起こしを始めた。胸に「農家のしぶとさを見せてやる」と思いながら、コメを作っても労働に見合う対価が得られない仕事を若手が継ぐはずがない。年々休耕田が増えて、そんな中で息子柊太が頼もしい。農業をやりたいと言い、そのために地元の市役所に入りたいと勉強している姿が嬉しい。大切にしてほしい。

 私は、茨城の農家生まれなので農業を営む人たちの日常生活とともに、苦労と喜び生きがいなどがビ伝わってきて懐かしかった。戦後コメの増産が叫ばれてきたが、コメだけでは食べていけないと、小畑寿人のように勤めに行きながらコメを作る農家が一般的になった。農家の収入はコメだけを作っている専業農家より会社勤めをしながらコメを作る兼業農家のほうが良かった。そのような中で、大規模農家としてコメプラス畜産や花卉、果物、野菜などを作る専門農家が生まれている。

 私は、北海道に来て四十年近くになるが、北海道といえばメロンだと、毎年実家に送っていたが、数年前「メロンは食べ飽きている」ことがわかった。茨城では、北海道のメロンよりも一足先に市場に出て今では全国一の生産量を誇っているそうだ。また、コメについては、北海道に来た頃、コメがまずくて食べづらかった。茨城の父が、「コメを送ってやるから」と言ってきた。しかし旭川で一緒に住んでいた義父がうんと言わなかった。今、北海道のコメはおいしい。日本一だ。すごいことだ。

 農業は、肉体労働である。天候の状態や作物の生育状態で、夜中まで仕事をしなければならないことがある。私も、家庭菜園をやっているが、手を入れないと野菜はすぐにいじけてしまう。子育てのようだ。腕や足腰を酷使するので湿布薬が欠かせない。しかし毎朝畑に行って野菜の見回りをすると、土の中からひょっこり芽が出たり、トマトが真っ赤に色づいたりしていると嬉しくてたまらない。多分小畑寿人も、同じように喜びを感じていたのでしょう。これからも体の節々の痛みとのたたかいが続くのでしょう。

 大規模農業に移行してしまった北海道の農家とは違った家族農業の奈良の農家の人々の葛藤だが、基本的には国が食料問題をどうするのかである。農業はしぶとく変化している。やはり自給率が38%でいいのか、本気で考えてほしい。工業製品とは違いつぶしたら立ち上がるのに何十年とかかり、または立ち上がれないかもしれない。ウンカが日本全国に広がっていったらどうなるのか、個々人や農協、諸団体に任せないでほしい。

 日本農民連会長長谷川敏郎さんが二一二一年八月九日の『全国商工新聞』に、「人間とウンカと田んぼ」という随想を書いています。「タイでは徹底した農薬散布をしても、ウンカが大量発生し収穫は皆無。農家は農薬代の借金で苦しみ、自殺者もでている。去年、西日本は甚大なウンカ被害だった。山口県は作況が七十三と大凶作よりひどい。そのため今年は早くから防御の徹底が叫ばれている。これまでのネオニコチノイド系農薬では効かず、非ネオニコ系の農薬がすすめられている。ウンカに農薬への耐性ができたからだ。次から次へと農薬を開発し、徹底防除するのが正しい道だろうか。ウンカを害虫にしたのは人間かもしれない。我が家の田んぼは全面クモの巣だらけ、もう三十年以上殺虫剤を散布せずにきた。クモは肉食で害虫を食べる田んぼの代表的な天敵。おかげてカメムシやウンカの被害もそれほど大きくない。」

 

 

発言8            泉恵子

 大和三山の見える古代から文明が栄えた地で、先祖からの土地を守って、稲を作っている小畑寿人。この春までは総合病院の施設管理という本業を持っていた。他にも本家の泰夫さんなど、半農半本業?という境遇の人が少なくない土地らしい。

 そこにトビイロウンカ(鳶色浮塵子、俗に秋うんかといって、古くから飢饉の主因の一つという……「広辞苑」より)の被害が押し寄せる。それとの闘いの顛末を詳細に綴っている。

 米を作る作業は並大抵ではない。寿人は農水省の支援を受けられるこの地の「多面的機能組織」の代表になってくれないかという誘いと、勤務していた病院の先輩が、新たに作る総合病院の施設管理の職についてほしいという誘いがあって、迷っている。というのも、息子の柊太が、祖父の田を継ぎたいから、田を手放さないでと言っているからである。息子の言葉がなかったら、大変な稲田つくりの作業は止めたいという思いもあった。

 そうした迷いを持ちながらのトビイロウンカとの闘いだが、発生からの闘いの経緯が、リアルに丁寧に描写されて、その大変さがよく伝わってくる。一時は無力感にも襲われるが、妻美咲の熱心さや息子との共同稲刈り作業の中で、息子の本気度を知り、また例年より少ない幾ばくかの収穫を得る中で、泰夫からの本業の仕事はやめて、米作りに腰を据えるとの言葉などから、やはりこの地を守ってゆこうと、迷いが吹っ切れてゆく。その気持ちの変化が、ウンカと闘いながらの、汗水流す農作業の中に込められている。その心境の変化がうまく伝わるように描かれているかどうかが作品評価の分かれるところかなと。息子の形象がもう少しほしかったと思うが、それなりに伝わってきた。

     *     *     *

 ところで、本題からはそれるが、作品中にあっさりと書かれている「この地では早くから文明が栄え」「裏の畑からは弥生式の土器が出土していた」などの記述に、もしかして……と思いながら読むと、「そこからは大和三山が見える」とあって、やはり予想は的中、あの古代史に出てくる飛鳥地方の付近ではないか。再読の時は、地図を出しながら「大和三山」を確かめ、万葉の里を歩いた昔の記憶を蘇らせた。私自身の高校の修学旅行をはじめ、勤務校の高校生との修学旅行で何度も行った「平城京」跡(唐招提寺や薬師寺のある)やより南にある「石舞台古墳」や「甘樫丘」。飛鳥時代の雰囲気を残す大和三山の麓の万葉の里には個人的にも何度か訪れたものだった。   

 学生時代の研修旅行で、「万葉集」研究家犬養孝先生の万葉の歌の朗誦を聞きながら「山の辺の道」歩いたことからすっかり魅了された土地だ。「甘樫丘」に登って三山とその地方一帯を眺め、

 香具山は 畝傍雄々しと 耳成と 相あらそひき 神代より かくにあるらし いにしへも 然にあれこそ うつせみも 嬬を あらそふらしき(天智天皇)

 等の万葉歌が実感として迫ってくるようにも感じたりした。 

 「枯死」作中にも出てくる葛城山、金剛山に連なる「二上山」には、その頂上に祀られている、謀反のかどで処刑されたといわれる「大津皇子」のお墓まで登ったものだった。

 弟の死を悲しみ歌った姉のうた

 うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山を弟世(いろせ)とわが見む(大伯皇女)

 そのあたり一帯は、掘れば何が出てくるかわからないと言われ、みだりに建物を建てられないとのことで、点在する集落以外、一面田園風景だった。そんな水田地帯を守っている人々を想像しながら読んだ。

 

 

発言9          北野あかり

私は、小学生の時、農繁期に学校から集団で農家の手伝いに行き、春には田植え、秋には稲刈りをしたことがありました。今回の作品を読んで、稲刈りが済んだら終わりではなく、藁を燃やし、肥料をまき、トラクターで耕し翌年に向けての準備が始まり、田植えの前には、籾の塩水選から育描箱への籾撒き、水の管理、農薬散布、徐草など何れも手抜きは出来ない過酷な労働であることを知り、米つくりがいかに大変なのかがより深く理解できました。

特に今回はかって経験したことのない「トビイロウンカの害虫」の被害が拡大し、その被害を食い止めるために奮闘する様子が描かれています。被害の拡大は急激であり、トビイロウンカに有効な殺虫剤もなく手探り状況で、カメムシ用の殺虫剤を噴霧するなど試みるも拡大を抑えられない、災害とも思われる被害に何の補償もないなど、これまでの苦労が報われない農業政策も紹介されており、新コロナ感染拡大に対する政府の対応と類似していると思いました。

しかし、それにめげずに立ち向かう諦めない心意気は何によって培われたのだろうか。それは何事にも投げ出さないで生きて来た両親の姿であり、何事にも動じないで黙々と立ち向かう妻、農業を継承する夢を捨てない息子、困難を乗り越えようとする地域の人々の絆なのだろうと思いました。いろんな迷いを持ちながら、今、しなければならないことに立ち向かっていく主人公に拍手を送りたいと思いました。

民謡に「米節」という歌があり、歌詞の中に「八十八度の手がかかる」とあります。そんなことから「一粒の米でも粗末にしては駄目だよ」と言っていた母の言葉を思い出しました。

 

資料

民謡「米節」(宮城県民謡)

1,       米とゆう字を分析すればョ~ 八十八度の手がかかる~

お米一粒粗末にならぬ 米は我らの親じゃもの

2,       米のなる木で 造りし草鞋ョ~ 踏めば小判の跡がつく~

金のなる木が無いとは嘘よ 辛抱する木に金が成る~

3,       千代に八千代に変わらぬものはョ~ 尾上高砂曾根の松

 わしとあなたは二葉が松よ 色も変わらず末ながく

 

 

 

投稿            細野ひとふみ

 

感想『枯死』から受ける瀬戸際の現場感覚

水稲・水田についての思いは色々とある。20代なかばで北海道に移住した頃、佐呂間にも水田があり、米を作りたい日本人の習性に感嘆したことを覚えている。それもつかの間、役場と農協の指導で、我が町の米作りはなかば強制的に終わってしまった。

小西章久さんの『枯死』は奈良県の兼業稲作農家が経験したトビイロウンカの被害を時系列に描いている。「在所」という言い回しは、学生時代を過ごした東海地方でも使っていた言葉で、正確な意味はすぐに言い当てられない。「この辺では」ぐらいに意訳して読む。「ネジカケ」「豊田」「神宮」のその辺りでしか通じないような地名も、ローカルな雰囲気を感じさせる。小説に登場する(架空の)人たちには、なじみ深い、大切な土地であることも感じさせる。確かに、ちょっとした土の性質、地質みたいなもので、米の美味しさは随分変わるのだ。

そんな土地で先代からの水田を管理する寿人だが、手間ばかり掛かって儲けのない稲作を続けるかどうか悩んでいる。ブドウ畑として貸し出すことや、病院の施設管理への勧誘もある。迷い悩むのは自然で、現金収入を優先して、水田を手放す選択にでる人も多いだろう。このような背景があって、トビイロウンカが現れる。

害虫としてのトビイロウンカは、どんなものなのか? とにかく気になる。ネットで検索して画像も見てみた。稲の汁を吸う、何とも不気味な虫だった。この虫の被害で稲が枯死する、水田が枯死するというのが、小説の象徴するイメージ(画像・映像)だ。私には、枯死するものが、一株の稲にも、一枚の田にも、一人の農家にも見え、いまの時代に水田を守るということが、どれだけぎりぎりの営為であるかを考えさせられた。

作中、農業共済という言葉が出るが、それはまさに私の職場名でもある。これも作中の話、ある農家は、共済金を受け取ることを良しとしない(少なくとも私はそう読んだ)。このへんの心情は読者の推測になってしまうが、生産者は、自分の費やした時間と労力が実を結ぶかどうかに最大の関心があるのかもしれない。

また、農家間のうわさ話で、泰夫が作付けした米の品種がトビイロウンカを呼び寄せたんではないかというくだりは、農村での「よくある話」で切り取りが適切だなと思った。言っている側は軽

いい気持ちだが、言われた側は深刻に受け止めることもある。

寿人にとって、読者にとって、希望もない訳ではない。水田を守りたい息子は、地方公務員としての兼業農家を目指している。親目線で「あえて継ぐか」という雰囲気も出ているが、儲けは二の次といった新感覚もいまどきの現場に無くはない。まだまだ少数だけど。

 ぱっと見で地域を覆う「勝ち負け」や「金が有る無い」の言葉を払しょくするのは、これもまた厳しいようだけど地域に生きる人間なのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

               投稿欄

 

 

 

追悼・なかむらみのるさん

               松木 新

 

なかむらみのるさんが、この7月に亡くなりました。

先日、合評作品「群青の彼方」を掲載した「通信」を、作者である新潟支部の五十嵐淳さんへ送ったところ、ていねいな礼状が届き、その中でなかむらさんの死去についてのコメントがありました。「赤旗」の死亡欄を普段見ていないために、まったく知りませんでした。手紙を読んで、一瞬、茫然としてしまいました。あらためて哀悼の意を表します(今日届いた『民主文学』9月号によると、7月4日死去、享年84とのことでした)。

なかむらさんといつ頃から知り合ったのかは、判然としませんが、全国大会や全国研究集会でたいてい同部屋だったせいか、なんとなく話し合うようになり、なかむらさんの人柄にも魅せられて、以来、懇意にしていただきました。

1997年、『山峡の町で』で多喜二・百合子賞を受賞したときは、我がことのように嬉しくなって、お祝いに毛ガニを贈ったところ、とても喜んでくれました。幹事会の後の二次会では、二人とも最終便で帰宅するのでいつも途中退席し、東京駅まで一緒でした。酔いに任せて文学論を語り合いました。いま、それらの日々が懐かしく思い出されます。

2014年に『信濃川』(光陽出版社)が上梓されたとき、「文芸時評」(『民主文学』2015年1月号)で、〈日本共産党員像を衒いのない文章で真っ向から描いた〉と評価しましたが、なかむら文学の魅力は、このことに尽きると思います。

なかむらさんは、昨年の1月から、部落問題研究所の『人権と部落問題』誌に、「新潟平野」を連載しています。現在、「第五章 梅の木は残った」までが書き継がれています。今年の年賀状には、今年は85歳になり持病に苦労はしているが、「今年中に『完』まで書き上げようと決意しています」とあるので、完成原稿がすでに編集部へ届いているのではないか、とかすかに期待しています。

なかむらさんは、つねづね、『阿賀野川』(2011年4月 憲法9条を守る阿賀野会)、『信濃川』、「新潟平野」の3作品を三部作として考えたいと云っていましたので、「新潟平野」が完成したら、なかむら文学の核心として三部作を論じ、墓前に捧げたいと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

植民地主義の呪縛(二)

後藤守彦

 

 私は台湾に一度出かけている。二〇一六年三月末、四泊五日のツアーに参加し、台湾を縦断した。かつて日本が植民地支配したことを意識しながら旅したが、台湾の人びとの冷たい視線を感じることはなかった。そもそも、短時間表面にふれただけで、事の本質を理解できるはずがない。

 日本は、朝鮮支配をめざして起こした戦争である日清戦争に勝利し、一八九五(明治二七)年四月に結ばれた下関条約により、台湾を獲得した。これに台湾人は納得したわけではない。激しい抵抗があり、講和条約調印後の戦いのほうがむしろ熾烈だった。同年五月には、台湾民主国が樹立され、台湾征服戦争といわれる戦闘が始まる。一一月に、台湾総督の平定宣言が出たが、一九〇六(明治三九)年まで、先住民などによる抗日武装闘争が続く。

その後日本の統治が順調に進んでいると思われていたのだが、一九三〇(昭和五)年には、霧社事件といわれる抗日事件が起こり、日本に大きな衝撃を与えた。台湾総督府の先住民統治策(差別・分断・強制結婚・強制労働など)を不服として、モーナ・ルダオに率いられたセデック族が台湾中部の霧社で武装蜂起し日本人一三四人を殺害したのである。台湾総督府は軍と警察を動員し鎮圧にあたり、二〇〇名以上が自殺に追い込まれた。翌年の第二霧社事件で、日本側は味方になった先住民に、蜂起した先住民を殺害させ、結局両事件あわせて一〇〇〇名以上の先住民が犠牲になった。日本軍が毒ガスを初めて使用した可能性も高い(『台湾霧社蜂起事件ー研究と資料』社会思想社、一九八一年)

こうした台湾の抗日闘争については、高校・大学では教えられていない。すべて自ら学んだことである。ただ、朝鮮と較べて台湾の植民地支配についての認識は浅かったと認めざるをえない。朝鮮より一四年長い五〇年間も植民地支配したのに。朝鮮の植民地化は国そのものの抹殺であるのに対して、台湾は他国の領土の一部の獲得である割譲であったからかもしれない。

植民地に生まれた作家を植民者作家と定義していたが、台湾は除外していた。植民地朝鮮に生まれた作家として、小林勝・森崎和江・後藤明生・古山高麗雄・梶山季之などに関心をもってきた。他方、植民地台湾出身の作家の名前は思い浮かばなかった。植民地時代のものを含めて朝鮮の文学作品はかなり読んだし、訳書も上梓している。他方、邦訳が少ないこともあるだろうが、台湾の文学作品には殆んどふれていない。知っている作家といえば、今春出版された『複眼人』(KADOKAWA、二〇二一年)の作者呉明益ぐらいだろうか。よく練られた文章を含めて呉明益の作品世界の豊かさを感じさせられたのが、『自転車泥棒』(文藝春秋、二〇一八年)である。古い自転車を集めるが趣味の自転車マニアである小説家の「ぼく」が、アジア・太平洋戦争中に、日本の工場で少年工として戦闘機づくりに励んだという体験をもつ、仕立て屋を営む父が、家族に何も告げずに自転車に乗って失踪する。なぜなのか、その理由を探る旅を続ける「ぼく」は、自転車をめぐる人びとのエピソードに出合う。家族史小説ともいえるが、呉明益は後書きで「自分が経験していない時代とやり直しのできぬ人生への敬意によって」書いたと述べている。時代背景としては、植民地時代が大きな位置を占めている。日本に植民地支配された時代を、韓国では日帝(日本帝国主義)時代というが、台湾では日治(日本統治)時代ということも教えられた。

一九四五(昭和二〇)年に大日本帝国が崩壊し、植民地支配が終焉した後も、日本人がナンバーワンであるとする「帝国を支えていた集団的空想」(酒井直樹「パックス・アメリカーナの終焉とひきこもりの国民主義」『思想』二〇一五年七月号)から脱け出ていない、植民地主義に呪縛されている日本人。在台日本人の文学作品を分析した星名宏修は、「植民地支配の歴史をスキップし、台湾の「親日」ぶりをもてはやす昨今の風潮は、こうした空想から抜け出すことの困難さを示しているだろう」(『植民地を読む−−「贋」日本人たちの肖像』法政大学出版局、二〇一六年)と述べている。

日本語で作品を書いている、台湾生まれの作家温又柔は、木村友祐の往復書簡集『私とあなたのあいだいま、この国で生きるということ』(明石書店、二〇二〇年)の最終便でこの問題に言及している。少し長くなるが耳を傾けてみたい。

 

   脅威の大国・中国にちいさな母国・台湾が飲み込まれぬように、「中華民国」という国名を冠する台湾で生きる人びとが安心して生きられるように、李登輝〈台湾史上初の民選総統、二〇二〇年死去ー引用者注〉が日本の世論を巻き込みながら戦略的につくりあげた「日台運命共同体」のイメージは、少なくない日本人が、台湾はアジアの中で唯一の親日国、と考える根拠になりました。(中略)日本にいるほんの少しも考えたくない人たちは、台湾に近代化に日本が果たした役割は小さくないので日本による統治を真っ向から批判するだけでなく冷静に評価しなければならない、という李登輝の発言を、台湾人は日本の植民地支配に感謝している、と都合よく読み替えて、だから台湾は親日である、というイメージに溺れるがままになっている。その背景には、そうすることで得をする人たちがいるからなのですよね。(中略)いまだに、少なくない数の日本人が、台湾は親日だから好感が持てる、と平気で言ってのける風潮があります。しかし私たち日本人は、長きにわたって独裁政権に抑圧されてきたかれらの歴史や、中国との政治的な緊張といったデリケートな背景を十分に想像し得ているのでしょうか?好いてくれるから好き、というだけではあまりに無邪気である気がします。しかも、その点を強調したがる人ほど、敵の敵は友だち、とばかりに、中国や韓国は反日だからね、と続けたりするのです。

 

台湾には、「さまざまな二項対立ー反日・親日、服従・抵抗、善・悪などーでは捉えきれない多様な日本認識がある」(『戦後台湾における〈日本〉 植民地経験の連続・変貌・利用』風響社、二〇〇六年)と指摘する声もあるが、一九八七年まで三八年間戒厳令を敷いた国民党の独裁への批判から、日本の統治がよりましだった、とみている台湾人が存在することは事実である。一九四九年に蒋介石は台湾に逃亡したが、それ以前の一九四七年にも、国民党軍は二万人以上の台湾人を犠牲にしている。ほとんどの日本人が知らない二・二八事件といわれる弾圧事件である。しかし、日本の植民地支配が素晴らしかった、と讃えているわけではない。私たち日本人は、台湾の人々の「親日」ぶりに溺れて、日本が植民地支配した歴史をスキップしてはならない。霧社事件に関わった先住民を訪ね歩いた作家林えいだいは、モーナ・ルダオとともに行動したパワンナウイから「日本人をどれほど恨んでいるか、恨みの気持は百年経っても消えることはなかろうよ」と、手厳しい言葉を浴びせられている(『霧社の反乱・民衆側の証言』新評論、二〇〇二年)。事件が起こってから、まだ一〇年経っていない。さらに、捕虜収容所の監視員などを務め、BC級戦犯として処刑された二一名の台湾人を含めて、アジア・太平洋戦争で徴兵され戦死した台湾人への補償がなされていないことなども忘れてはならない。

これまで二度にわたって朝鮮・台湾とのかかわりで植民地主義について論じてきたが、私の足元の北海道は、日本が最初に植民地化した土地である。私が会員となっているさっぽろ自由学校「遊」では、今年の五月から九月にかけて、「日本の植民地責任と歴史認識」という講座を開設している。コロナ禍のためオンライン参加となったが、第一回目では「北海道を脱植民地化する」というテーマで、小田博志北大教授が北海道との関連で植民地主義について語った(『北海道で考える〈平和〉』法律文化社、二〇二一年)。移民四世の私だが、この課題については今後深めていきたいと思っている。

 

 

 人との出会い 特別編 (おな)い年

               泉   脩

 

文学の友

私の本棚に「文学基点」という同人誌が二冊ある。活版五〇頁あまりの立派な雑誌で、第一号が一九五四年発行。発行、編集は矢島進とある。第二号も同じ年である。

第一号の内容は創作が中心で、矢島進・石田英夫・樫村幹夫等、第二号は、矢島・石田に宍戸正も加わっている。そして、評論に私の「ロマン・ロラン論」が載っている。

今では矢島、樫村、宍戸はすでに亡く、なんとも懐かしい。石田は数年前に五〇年振りに交友が復活し、現在もっとも熱い友人である。

当時私は北大教養部二年で、進路に迷いながらも、根本的な生き方を探求し、フランスの作家ロマン・ロランに傾倒していた。二号に載せた「ロマン・ロラン論」は、いわば、中間報告である。読み返すと、いかにも未熟で顔から火が出るほど恥ずかしい。

矢島進は、高校二年の中頃から親交を結んだ親友である。小学区制の札幌南高校に、中標津から越境入学してきた一人である。根っからの文学志望で、卒業後に東京に行き、作家修業を始めた。

「近代文学」という雑誌を編集していた荒正人に付き、編集を手伝っていた。そして、自分たちの同人雑誌を刊行したのである。

私は高校二年の中頃に受験勉強をやめて、読書に没頭し始めた。クラスメートの矢島君にいわゆる純文学の手ほどきを受け、夏目漱石から太宰治まで夢中で読んだ。自分の新しい生き方を模索したのだが、その前に人間とは何か、自分とは何かがわからなくなっていた。日本文学では答えが得られず、欧米の翻訳文学に移り、ロマン・ロランに到達したのである。「ジャン・クリストフ」、「ベートーベンの生涯」などが私のバイブルになった。

矢島進は創作が中心になり苦労を重ねていた。そして、発表の場を求めて、自分で同人誌を発行したのである。私は彼の熱心な勧めで「ロマン・ロラン論」を書いた。

ところがこの直後、矢島進が自殺をした。創作に行き詰まり経済的に苦しくなったのだろう。

加清純子に続く自殺であり、文学の深淵を覗き見る思いだった。私は文学を専門にする勇気がなく、文学部の史学科に進み、将来は高校の社会科の教師になることにした。もし、文学部にフランス文学科があれば選んだのかも知れないが、第二外国語はドイツ語だったので、無理なことだった。

矢島進とは、すれ違いで終ったが文学への手ほどきをしてもらったので、感謝している。彼は高校三年の時には別のクラスになり、文学活動では札幌東高校に仲間を求めていた。石田英夫、宍戸正らである。札幌南高校では、定時制のサークルで「青銅文学」という同人誌を作った生徒に注目していた。樫村幹夫がその一人であり、加清純子も加わっていたのである。

石田英夫は慶応大学の経営学教授になり、宍戸正は東大文学部仏文科で学び、石田の紹介で経済同友会に働くことになる。(その前は札幌第一高校で私と共に教師をした)樫村幹夫は、広告業界大手に勤め、どう入手したのか、私の処女作「青春の飛翔」を読んで私に手紙をくれた。そして、 私が第二作「すべての生徒はドラマを持つ」を送ると、夫人から手紙が来て、夫の急死を知らされた。

そして、石田英夫に私の第六作「姉さん女房」を送ると(住所がわかったので)、すぐ返事をもらい、石田と学生時代の交友が復活した。同時に数年前の宍戸正の死を知らされた。

こうして私の文学の友は次々と亡くなり、今や石田英夫が貴重な友人なのである。

矢島進のことを思い出すと胸が痛む。私は彼を踏み台として利用しただけなのではないか、という思いである。道東の町から札幌に出てきて、多くの文学友達を作り、東京に出た。東京に集まる多くの文学青年の一人として、自分の才能の限界を知ったのだ。

どこかの大学に入り、どこかに就職し、自分の生活を作ることが出来なかった。私は自分のことで精一杯で、友人を思いやることが出来なかったのである。

文学はすばらしい。私は七〇年も文学活動を続け、十一冊の本を作ることができた。しかし、文学のプロにはならなかった。

私が文学活動に入った頃、太宰治と田中英光が自殺し、そして加清純子さんと矢島進が命を絶った。しばらくして三島由紀夫と川端康成も死を選んだ。

文学は両刃の剣で、人の命を救い、同時に殺しもするのである。

 

 

 

 

 

 日記

                豊村一矢

 

 私の机の引き出しに仕切られた一画があって、フロッピーディスクを雑多にしまい込んである。先日、そこで色々なフロッピーをチェックしていたら、隅っこから「日記」という付箋のついたフロッピーが出てきた。しばらく忘れていたものだった。

 私は日記を書くのが苦手で、子どものころから何度も挫折した。もう成人したころには端から日記とは縁がなくなっていた。

ところ、2007年の大晦日に、家内が…もとい! パートナー、いや、妻が、『TEN YEAR DIARY』という、「毎日の日付」と「文章を書く罫線が引かれたスペース」が十年分詰まっているブ厚い日記帳を見せびらかして「明日から三冊目だよ」と言い、つまり二十年間、一日も欠かさず日記を付けたことを自慢したものだから、つい私は「俺もやる」と言ってしまった。

 私は三日坊主になる可能性を思い、ブ厚い日記帳は購入せず、パソコンで書き、フロッピーディスクに保存する方法をとった。日記は、2008年元旦から2011年十月一日までつづいた。しかし、三日坊主ではなかったが、やはり、なぜかここで途絶えている。

 この日記を書き始めたのは、私が民主文学札幌支部に入れてもらった時期にあたる。読むと支部でのことが、あれ出てきて面白かった。その支部との関わりの部分を抜いて、少しコピーしてみる。

一月三日(木)

読書を再開した。民主文学2月号の中から、松木新「『柳美里不幸全記録』のことなど」、座談会「2008年 日本文学の展望」を読む。

 児童文学をやっていて悶々としたものが払拭できないでいたが、出口が見つかりそうな予感がする。

一月四日(金)

 民主文学2月号。連載小説、井上文夫「時をつなぐ航跡」、特集「小林多喜二没後七十五年」の中から、新船海三郎「多喜二とマルクス、蔵原惟人」、牛久保建男「『東倶知安行』の青春」、下田城玄「小林多喜二の反戦文学」、日本プロレタリア文学集9・黒島伝治「橇」を途中まで。

一月五日(土)

読書。民主文学2月号、特集「小林多喜二没後七十五年」の中から、大田努「『党生活者』を読みなおす。乙部宗徳「伊藤整に於ける小林多喜二の影」。

一月六日(日)

 読書。民主文学2月号、多喜二特集の「私と多喜二」の4つの文章を読んだ。他に、柴垣文子「鐘を撞く」を途中まで。あまりおもしろくない。なぜだろう。

 ネットで、手塚英孝「小林多喜二」上・下(新日本出版社)を発注する。読まねばなるまい。民主文学2月号P126の「書く人はたくさんいるよ。だが、みな、手の先か、体のどこかで書いている。体だけはチャンとしまっておいて、頭だけちょっと突込んでいる」…は知らなかった。寡聞というやつだ。

 

一月七日(月)

 読書は「奔流」21の田中恭子「折々の母」だけ。ノートもとった。12日の支部例会に向けて、読書は今週、「奔流」が中心になるだろう。

 

 こんなことを懐かしがるのは、私も相当老いたということだろうと思う。

 

 

 

ミステリー作家・井上ひさし

松木  新

 

以前、新聞の劇評で、上演中の井上ひさし「キネマの天地」が推理劇だと書いてあったのを読んで不思議に思い、改めて戯曲『キネマの天地』(文藝春秋)を読んでみました。これが本当に上質のミステリーなのです。

山田洋次監督の映画「キネマの天地」が公開されたのは1986年8月でした。主演の有森也実が、この年の日本アカデミー賞新人賞を受賞しました。渥美清の演技が今でも心に残っています。

この映画の脚本を書いたのが、山田洋次・井上ひさし・山田太一・朝間義隆でした。戯曲『キネマの天地』は、映画の続編として、この年の12月に初演されたとのことですが、当時は気づきませんでした。

少し前、「井上ひさし没後10年 〝まさに〟隠れた名作(・・)ミステリ どんでん返しの見本市だ‼」という文庫本の腰巻文学に魅せられて、『十二人の手紙』(中公文庫)を読んだところ、宣伝文句に偽りなし、と感心したことを思い出しました。

今度の『キネマの天地』も、まさに、「どんでん返しの見本市」でした。ネタバレになるので、ストーリーは書けませんが、小説を書く上で参考になるのではないか、と思われるセリフがありましたので紹介します。

 

〈小倉 立花かず子の代表作は『三原山心中 御神火に飛び込んだ彼と彼女』。そうだね。

かず子 堂々二ヶ月の続映よ。松竹キネマの株が倍にはねあがったわ。そして三原山に身を投げる彼と彼女が何十組と出て、社会問題になったのよ。

小倉 あの写真のテーマはなんだった。立花くんは新聞の談話取材になにか答えていたね。

かず子 愛より・・・・・・、尊いものはありません。この訴えにお客様が共感なさったのだと思います。

小倉 ほうら、お題目をただ正面から堂々と、そして率直に云っただけではだれも感動しないのだよ。そのお題目をひとの心に刻みつけ、ひとを感動させるには、心中物語というウソッパチを仕掛けなきゃならない。この『豚草物語』でも事情は同じだ。三女にむかっていくら、「こう殺されたら」だの、「こうなさい」だのと云ったって、三女があっさり受け入れてくれるかどうかわからない。そこでほかの三人は、ウソッパチの殺人物語を通して、つまりお話の迫力を利用して、三女に助言しようとしたわけさ。〉

 

〈竹之助 のみこみ、のみこみ。(四人に)人びとはなにゆえにあなたがた芸術家にたいしてあれほど大きな敬意を払うのでしょうか。歌手の歌を聞くたびに、ひとは自分たち人間の声がこんなにも美しいものであったかと気づき、同時に自分がその人間の一員であることに誇りを持ちます。ひとはバレエをみて人間の肉体のみごとさに感動し、自分にも同じ肉体が備わっていることに感謝いたします。そしてひとは劇場で、人間の知的な能力に自信を抱きます。さまざまな人間を観察し、それを的確に再現してみせる技術のすごさ、おお、人間とはなんというすばらしい生きものなのだ。そして自分もその一員である。人びとはそう思って勇気凜々、劇場をあとにするのであります。このように、すべてのすぐれた芸術はみな人間への讃歌、人びとに人間という存在のすばらしさを教えてくれます。

小倉 喜劇はどうです。人間への讃歌になってお

りますか。

竹之助 もちろんですとも。赤ん坊をごらんなさい。赤ん坊を泣かすも怒らすも簡単ですが、笑わすのはじつにむずかしい。このように人びとの頬をゆるめさせるのは極めつけの難事業。その難事業をつぎつぎにこなして行く喜劇監督の仕事ぶりをみて、人ひとは、「どんなにむずかしいことでもやってのけるのが人間なのだ。なるほど人間はすばらしい」と自信を持つ・・・・・・。〉

 

なお劇中に、〈「それに去年、かあさんに死に別れ、今年でちょうど三年目、思い(いだ)せば七周忌。かあさんもきっと小ちゃんを見守ってくださるわ」〉という面白いギャグがありますが、これはどうやら井上ひさしが尊敬しているニール・サイモンから拝借したようです。

 

 コロナ・パンデミックのために制作が中断していた、山田洋次監督の映画「キネマの神様」が、8月6日に公開されました。原作である原田マハ『キネマの神様』(文春文庫)も、映画好きにはたまらない作品ですが、映画もまた、原作を大幅に変更して山田ワールドを創りだしており堪能しました。

 

 

 

秋元いずみ「鏡の中の彼女」

就職氷河期の若者たち

泉 脩

 

「しんぶん赤旗」に二〇〇八年十月から三ヶ月連載された小説。いわゆる就職氷河期に、生きる道を求めて、苦しみもがく若者たちを実に見事に小説化している。説得力があり、惹きつけられて読んだ。さわやかな読後感だった。

主人公の柏木透子(とうこ)は地方の国立大学を卒業して、そのまま地元の製薬会社に就職した。契約社員で一年毎に契約を更新し、薬の原料の安全性を確かめる実験を繰り返す仕事をし、四年が過ぎ二七歳になった。月十七万円の給料である。

五年目、契約の継続は得られなかった。本採用の願いを断たれたのである。今さら親元には帰れず、再就職を求めて毎日を過ごしていた。

コンビニも無いような田舎町の実家には、両親と双子の妹の月子がいた。月子は小さい時から弱虫で、ついに引きこもりになり、最近やっと老人介護施設に手伝いに行くようになった。姉の透子は、しっかり者で、学業に励み国立大学の農学部を卒業し、自立の道を進んできた。しかし不況が続く就職氷河期には勝てず、ついに二七歳で失業してしまったのである。

彼女は、やむなくショッピングセンターの臨時社員になり、毎日倉庫から売り場に商品を運ぶ仕事に努めた。様々なアルバイト社員が働き、その中で何人かと親しくなった。

彼女と同じ大学の学生の甲田(あゆむ)は、目が大きく、彼女は「兎」と仇名をつけた。いつもニコニコしていて、彼女と帰りが一緒になり、話し合うようになった。両親が小さなパン屋で、仕送りは学費だけなので生活費は稼がなければならないという。やがて割のいい運送の仕事に代わることになった。最後の日、彼女に付き合いを申し入れ、相手がずっと年下なので返事を躊躇する透子に、「三ヶ月」という期限を切った。

こうして二人の付き合いが始まった。日帰りのピクニックに行ったり、デートをして、楽しい日が過ぎた。しかしある日、大学からの帰りに女子学生とニコニコ話し合っている歩を見て、透子はショックを受け、デートでも心を開かなくなり、会うこともなくなった。

そして学生時代の友人で、非正規社員で苦しんでいる瑠璃(るり)、父親のリストラで中退した()()と会い、苦しみを語り合う。

それから臨時の家庭教師をして、二人の男の子の教育に打ち込む母親に接する。さらにショッピングセンターの非正規社員で、離婚して娘と二人で暮らす(みさき)とも親しくなる。ショッピングセンターの仕事と家庭教師の仕事が同時に終わった透子は、悩んだ末に久しぶりに歩に会おうと決心する。彼が実家に帰っていると知り、その町を訪ねる。

さびれた駅前の商店街で、とうに閉店したパン屋を見つける。ぼう然としている彼女に、後ろから歩が声をかけ、彼女を墓地に連れて行く。そこには彼の両親が眠る墓があり、二人は不況でパン屋が成り立たず、借金を返すために働き続け、相次いで亡くなったのである。歩は親せきの世話で何とか通信制高校を卒業し、大学に入学したのである。

人の世話になる中で、誰にでも笑顔で接する習性ができたという。透子のほうも、誰にも話したことのない秘密を打ち明けた。妹ばかり心配する親に反発し、妹も嫌い、自立を目指してきた。そして苦しくなると、買い置きの安菓子をたくさん食べ、太りたくないので、吐いてしまう。この繰り返しを続けてきたのである。歩を失いたくなくて、ついに自分のすべてを話す決心をしたのだった。

二人は解かりあい、同方向にむかって歩くことを決める。透子は欠員が出た元の製薬会社に戻り、自分の友人・知人との話し合いを深め、自分たちを苦しめる物の正体を知ろうと努めるのである。

息詰まるような物語である。日本を襲う長い不況、これを利用して非正規雇用をどんどん導入する経営者たち。v古くからの商店街をシャッター街に変える巨大ショッピングセンターとコンビニ群。こういった中で苦しみ、もがく人々。特に若者は希望を失っていく。

実にリアルで現実的な内容であり、身につまされてしまう。やがてやってくるリーマンショック、東日本大震災、そしてコロナ禍。日本と世界の現実は暗く、希望の光は、容易には見つからない。しかしその中でも、特に若い世代の未来を切り開く努力が続くのだ。

秋元いずみさんは、かつて札幌民主文学会にいたことがあり、私の本を送り、文通をしてきた。現在は岐阜民主文学会で活動している。まだ四十代の初めで、この作品は二十代終り頃に書かれた。たいへんな才能だと思う。

なお、主人公透子を苦しめた、いわゆる過食症は若い娘がなりやすい心の病である。私の親せきや友人の娘が患って親を心配させた。一人は何とか乗り切り、一人は自死という痛ましい結果になった。環境が変わり、孤独・いじめ・過労など、多くのストレスが元で起るのである。

この作品の主人公は、大学や職場の友人と話合い、ボーイフレンドにも率直に打ち明け、やっと抜け出そうとしている。自分たちを苦しめている元凶はなにか―と、根本的に考えようとしている。正しい解決であると思う。

作者自身の深刻な体験があったのかも知れない。それだけに読者を惹き込み、心を揺さぶる作品になっている。そしてさわやかな読後感をもたらしてくれた。

日本民主主義文学会も会員の高齢化に悩んでいる。秋元いずみさんは、貴重な若手の作家であり、今後の活躍を期待したい。

 

 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二一年〇七月〇一日 272号

 

 

7月例会誌上合評

 

 作品

 五十嵐淳「群青の彼方」

      支部誌・同人誌推薦作品優秀作

         「民主文学」2020年十二月号

 

 

発言1     松木新

感想

この小説は、南相馬市立小高中学校卒業生が作詞し、音楽教師が作曲した「群青」をキーワードに、東日本大震災とコロナ禍の子どもたちに焦点を当てています。

東日本大震災については福島から避難してきた原澤かん奈を主人公にすえ、コロナ禍については安倍の非科学的な独断による一斉休校を取り上げています。

作者は、小説の舞台を、新潟市で最も福島県に近い区にある学校として、架空の小阿賀野中学校を設定、ここに、卒業式をめぐる教育現場の混乱と、それを乗り切って進められた「答辞」と「群青の合唱」の場面をうまく配置しています。その構成には破綻がなく、作者の力量を感じました。

「君が代」を歌うことから解放された樋山が、〈安堵する自分がいることに気づいて、陽一は自分自身が情けなく感じた〉の箇所や、「群青」を歌う大部分の生徒が、〈明るく楽しそうな表情で歌っているように見えた〉など、作者の鋭い観察眼も評価できます。

難を言えば、「答辞」の全文を紹介することで、作者のこの作品にこめた思いを代弁させていること、また、「群青」の詩の紹介で、「福島」の現実を代弁させていることなど、作者の手法には安易さを感じました。

また、一斉休校に直面した教育現場の混乱は適切に描出されていますが、最大の被害者である子どもたちの混乱や悲しみが、この作品では遠景にかすんでいることも、一考を要すると思いました。

 

 

発言2     泉 脩

さわやかな物語。私は教師出身なだけに、一語一句が理解でき、胸にひびいた。

まず、気が付くのは、この新潟の公立中学校が、しっかりと気持ちよく運営されていることだ。明るいなごやかな校長のもと、教頭、教務主任と、学校の司令塔がしっかり機能している。

そして、すべての教師がそれぞれの分担する仕事を、しっかりと果たしている。コロナ禍による突然の全国一斉休校にも慌てずに、一番大切な卒業式を立派にやり遂げる。

主人公は六十過ぎの退職教師だが、嘱託として協力し、特に答辞の大任を引き受けた女生徒を、心を込めて指導する。

彼女は東日本大震災で福島県から移ってきた経験も加えて、立派な答辞を行う。この答辞の全文と、この後の卒業生の全員合唱「群青の彼方」の内容がとてもいい。私は胸が熱くなり、涙が出そうになった。

日の丸、君が代の部分も、さらりと書かれており、妥当な対応だと思う。そして主人公と答辞の女生徒の別れの場面もいい。

彼女が、「福島にもどり、ラグビーをやる」という言葉は、うなずかせるものがある。前年の日本におけるラグビー・ワールドカップに感銘を受けたのである。私もそうだった。そして、ラグビーを国技としているニュージーランドに、惹き付けられている。日本が今後の手本にすべき国であり信じられない素晴らしい国造りをしているのだ。

一貫した非核政策ひとつ取っても、すごいことである。すべてが国費による社会保障政策にいたっては、奇跡のようである。世界で最初の女性参政権!

この作品は濁りのない、みずみずしい作品であり、私の好きな作品である。

 

 

発言3      後藤守彦

コロナ禍のもと、為政者のパフォーマンスに翻弄されながらも、子どもたちのために前に向かって歩もうとする学校現場が丁寧に描かれています。人物の形象も成功しており、特に原澤かん奈の爽やかな姿は印象的でした。

細かいことかもしれませんが、卒業式の国歌斉唱が国歌静聴に変ったため歌わないという闘いを避けることができて、かん奈を支えた国語教師の樋山が安堵する場面があります。私は現役の時には来賓席から見られ、今は民生委員として招かれ来賓席から教員席を見ています。いずれしても歌いませんが、国歌斉唱の場面は緊張します。ここ二年はコロナ禍で来賓抜きの卒業式になっていますが、数年前、ある小学校の卒業式で、私の後席にいた来賓たちが「歌ってない教員がいる、とんでもない」と囁いているのを耳にしました。ですから、樋山が安堵する自分を情けなく思う、そうした心のうちを取り入れたところは、人物像を豊かにしています。

読了後、アメリカ文学研究者平石貴樹の言葉を思い起こしました。「それぞれの場所で、みんながんばっているんだなあ、と確かめることによって得られる静かなよろこびやなぐさめというものがあって、人はいつもしみじみと文学を読む」(『しみじみ読むアメリカ文学』松柏社、二〇〇七年)。この作品は、「文学の基本はしみじみだ」と改めて思わせてくれました。

 ところが、そうした思いに逆らうように、よき校長・教員・生徒を登場させ、きれいにまとめあげている、と皮肉る気持も頭をもたげました。福島から避難して来たかん奈への差別的な言動やいじめは無かったのだろうかとか考えてしまいました。失敗を重ねた、悔いの多い私の教員体験を反映しているのでしょう。

 

 

発言4     豊村一矢

 私は合唱曲「群青」を知らなかったので、卒業式の記念合唱の場面で歌詞を知り、その前に読んだ原澤かん奈の「別れの言葉」全文と相まってそれなりに感銘を受けた。しかし、なぜ、「それなり」なのか。感動させようとする仕掛けが余りにも見え見えだからだ。深みのある作品とは思えない。

 また、納得できないところが多々あった。

 例1。作品では、卒業記念合唱で卒業生全員が「群青」を高らかに唱い上げている。コロナ禍、二〇二〇年三月の学校では考えられない。実話なら唖然としてしまう。

 例2.国旗・国歌について。作品は、わざわざかん奈が陽一に教えを請う場面を作り、指導と被指導の関係で、陽一は自分の国旗・国歌観を語っている。これは、反動勢力に、「偏向教育」との、絶好の攻撃材料を提供したことになる。

安倍晋三の学校休校要請は地方自治体の権限を無視したもので、現場に混乱をもたらしたが、それでも、すぐに「地方自治体が主体的に……」と言い直している。休業日、授業形態、入学式や卒業式が、今では、コロナ感染防止を重視しつつ、地域の実態を考慮して実施されている。阿倍発言の思惑がどうであれ、このような実践を生むきっかけになったことは間違いない。地方自治体、教育委員会、況んや現場の校長は、上のお墨付きやお達しがないと動きにくいのだ。

最後に私ごと。後輩からの又聞き情報だ。二〇一一年三月、近くの小学校に、福島原発事故の放射能汚染を逃れて南相馬市から母親に連れられて姉弟(きょうだい)が入学してきた。母親の知人を頼っての避難だった。家計を支える会社員の父親は福島に残った。職場を離れられなかったからである。やがて避難した三人が福島に戻ろうとするが適わず、父親の転職も考えるが簡単でない。二年ほどして、父親の方に一緒に暮らす女性ができ、避難した妻子三人への仕送りが途絶えた。私は、「群青」の歌詞を読みながら、真逆の人生を思った。福島原発事故はまだ終っていない。これが、作品に深みを感じさせない理由となったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

発言5      泉恵子

素直にしみじみとした感動に浸れた。

 この作品には、感動を引き出す様々な要素が盛り込まれている。

 この作品の語り手である、定年後の再雇用教師樋川陽一の眼差しが誠実で温かい。原澤かん奈はじめ生徒たちを愛情深く見つめるばかりでなく、同僚の教師に向ける目線も好意的だ。

これは、コロナで突然の全国一斉休校という安部首相の暴挙に、定年後の再雇用教師樋山陽一はじめ、教師集団が一丸となって、何とか子ども達のために卒業式を挙行しようと真摯に取り組む姿をすがすがしく描く。

 危ぶまれた卒業式も、簡素化されて挙行されることになり、かん奈が述べる「別れの言葉」は何といっても圧巻で、ジーンと胸を打つ。

 小学校入学前に福島の原発事故にあい、この新潟の地に疎開してきたかん奈は明るく素直で聡明だ。

 卒業生の全員合唱「群青」も、政治に翻弄されながらもめげずに懸命に生きようとする気持ちが籠もっている。

 そんな健気さと、この暴挙と格闘する教師集団。

 みんないい人たちで、理不尽な一斉休校と対峙する。そんな全体に流れる誠実な樋山の目線が心地良いのではないかと思う。卒業式の場面では涙腺が緩んだ。

 コロナのせいで「国歌斉唱」ではなく「国歌静聴」となったのだが、歌わなくてほっとさせられている樋山の状況に、歪んだこの国の一端を見る思いがした。

 

 

発言6   村松祝子

主人公樋山陽一は60歳で新潟市立小阿賀野中学校定年退職し同じ学校で再任の国語教師として教鞭をとっている。

その彼が2020年三月四日の新潟市立小阿賀野中学校での卒業生を送るまでの過程を、

一人の生徒原澤カン奈を通して現在のコロナ禍の生活と福島原発の被災者を描いている。

2020年日本を襲ったコロナ禍に対して当時の安倍首相は全国の小中学校、特別支援学校を三月二日から三月十九日まで一律に臨時休校とした。

その思いつきのような政策に翻弄された日本全国の小中学校、養護学校は卒業式を控えて教師集団の驚きと困惑混乱ぶりがよく描かれどこの学校もこうだったのだろうと想像された。

なんとか卒業式だけは行いたいという小阿賀野中学校の教職員の生徒に対する思いがよく描かれていると思う。一人ひとりの教師の個性もよく描かれている。

卒業生を代表して「別れの言葉」を読む原澤かん奈は福島の原発事故から逃れて小中学校をこの新潟で過ごした。 

その間父親は福島で仕事をし、母親とかん奈と弟は父親を欠いた生活を送らざるを負えなかった。それは普通の生活ではない。 いかに日常の生活が大切か、かん奈は「別れの言葉」の文面でその大切さを綴った。 この箇所は迫力あり胸に迫る。  原発事故によって入学式もなく突然新潟の小学校に入り今度はコロナ禍によって中学校の卒業式が行われないかもしれなかった。  そのような状況の中で先生方の努力によってとどこおりなく行われた卒業式でかん奈は教師集団へ感謝の言葉を綴った。 普通の日常生活を送ることは周りの人々の努力に支えられているのだとも述べている。

現在私の日常生活では普通のことが、普通に行われていないことが多すぎる。

日本科学者会議の任命拒否問題しかりコロナ禍でのオリンピク開催しかり大切な普通の生活を壊すことが行われているとこの小説を読んで感じる。

 

原澤かん奈があまりにも優等生的に描かれているのが少し気になりました。

最後にかん奈がこれからラグビーをやると告げた箇所は突然ラグビーという言葉にびっくりしたがこれは作者の思い入れかなと思った。

「群生」という卒業式での歌は福島の南相馬私立小高中学校の平成24年度卒業生の作詞と〈注〉に書かれてある。

なぜこの歌が新潟小阿賀野中学校の卒業歌に選ばれたのかの説明があればと思う。

かん奈の読む「別れの言葉」にぴったりの歌ではあるが、福島の生徒と新潟の生徒との強い絆を想像された。

地名におくりがながつけられると読みやすいと思う。

 

 

発言7      室崎和佳子

昨年の二月末、当時の安倍政権が突然に下した全国一斉休校命令。

 まさに寝耳に水であった。

 通常の学校生活では、学級閉鎖、学年閉鎖、学校閉鎖という名称や段階でインフルエンザ等の拡散を防いできた。今回のように、クラスや学年、学校の状態も調査しないで、いきなり教育活動を停止することはありえなかった。

 そのありえないことを、安倍氏は口から出まかせのように言ってしまったのだから、教育現場は大混乱に陥った。

 そんな中で、中学校の卒業式をやってのけた新潟市立小阿賀野中学校(作品の中での学校名だと思うので、実際にあるかどうかわからない)の実践を小説にしたのが本作品である。

 私がひねくれているのだと思うが、うまく行き過ぎている(出来過ぎ)気がして仕方がない。

 コロナ禍でなくとも、卒業式を成功させることは非常に難しいことである。ましてや、突然の緊急事態宣言という混乱の中で、教職員や子供達に新たな問題は起きなかったのだろうか。全員の子供達が卒業式に出席できたのだろうか。教務主任・藤崎正三が土・日も出勤して作り直した計画案がすんなりと受け入れられたのだろうか。等々。

 ただ、再任用教員・樋山陽一と福島から避難してきた原澤かん奈の物語として読むなら、それはそれで意味合いが違ってくるのかなとは思うが。

  以前から変だなと思っていて、今回も思っていることを一つ。

 合唱曲『群青』の歌詞についてである。

 十五行目「あれから二年の日が 僕らの中を過ぎて」、二十二行目「僕らを待つ群青の街で」、二十五行目「あの街で会おう 僕らの約束は」の三箇所で、「僕ら」という言い方に違和感を覚える。

 男女共学の公立の学校で、しかも男女が一緒に歌うのである。なぜ「僕ら」という男言葉を使う必要があるのか。

 しかも、この歌は、作詞が南相馬市立小高中学校平成二十四年度卒業生(これは実在の学校)であり、教育活動の結果、出来上がった歌なのである。当然、歌詞について十分な論議がされているはずである。この件に関しては、小高中学校の関係者に聞いてみた方が良いのかもしれない。

 それにしても、これを歌ったのは、作詞作曲されてから何年も経っている二○二○年なのだから、なぜ小阿賀野中学校の卒業式でこの歌を歌うのか、義務教育の集大成の場で歌うからこその必然性について、教師を含む生徒全員で再度確かめ合うことが必要ではなかっただろうか。

 うたごえ運動の中で作られた進歩的、革命的な歌をはじめ、一般的な歌や童謡の歌詞の大半が「僕」表記であり、私はずうっと引っかかっていた。

 見過ごしてはならない。

 

 

 発言8     北野あかり

主人公陽一の勤める中学校では、卒業式を目前にして、式典や卒業証書の準備、卒業生代表の「お別れの言葉」の相談や合唱の練習など多忙をきわめている。そんな時、新型コロナウイルス感染を理由に「全国一斉休校」という首相要請が卒業式直前に出された。教育現場は混乱に陥るが、陽一の勤める学校が出した結論は、「卒業式は中止しない、卒業式だけは挙げてやりたい」ということで、在校生と来賓を除く、卒業生と保護者、教員による「卒業証書授与式」として行なうことにした。

特に、中学校の卒業式は、義務教育を終え個々に違う道に巣立っていく。生徒たちにとって人生の節目として格別のものである。「一斉休校」要請の中でも、人生の糧となる卒業式となるよう奮闘していく様子が描かれており、卒業式のプログラムの練り直しや、プログラムに沿った個々の教師の役割、リハーサルまで行い万全を期しての言動や、200名を超える卒業生全員で歌った「群青」の場面を想像すると、圧巻であっただろうと思われます。そしてそれは、巣立っていく卒業生にとって生涯忘れられない事になったと思います。タイトルの「群青の彼方」は、卒業生に対する陽一のエールだと思いました。

また、今年卒業する生徒の中に、東日本大震災とそれに続く原発事故のために地元の学校に入学できなかった子供たちを受け入れてきた学校であったことに加え、卒業式も行われない状況に直面している、生徒たちを思う気持ちが伝わってきた。  

私も、戦後樺太から引揚げてきた当時、樺太には入学する学校がなかった。そのため引揚げ後1年遅れで入学したため、一風変わった存在で、同級生と馴染めないままの小学時代を過ごした。国策とはいえ理不尽なことに翻弄された人生を生きてきたが、この度の作品に登場する生徒さんとも通じると思いました。そんな生徒に心を寄せる教師の存在は救いであり重要なことです。(しかし、作品に登場する「かん奈」は立派過ぎる、苦悩もあったと思うが…)

 

資料

〇 作品の中に、卒業生全員による合唱「群青」の歌詞がそのまま紹介されています。

「群青」がどのような曲だったのか…と思い、手元にあった関西合唱団第18回定期演奏会のCDを聴いてみました。

その表題には「どれだけ生きたかっただろう…どんなに愛したかっただろう…」との言葉が表示されており「群青」など22曲が収録されています。

歌詞につては「福島県南相馬市南部に位置する小高中学校で東日本大震災当時中学1年生だった生徒が原発事故による避難で全国に散り散りとなり、歌も歌えなくなった生徒と、音楽の先生が思いを綴った日記や作文などをつなぎ合わせて歌詞をつくり作曲して、卒業式の学年合唱で演奏した」と紹介されています。

東日本大震災と福島第1原子力発電所の事故よる災害によって、かけがえのない命を奪われ、今なお避難生活を余儀なくされていることに思いを新たにすると同時に、その時作られた曲が、今もなお「卒業記念合唱」として歌い継がれていることは素晴らしいことだと思いました。

 

 

発言9     柏原竜

二〇二〇年二月二七日、安倍首相がコロナウイルス感染予防のため、全国の学校に休校要請を出した。このことによる学校での教師と子供たちの混乱を手に取るように見せてくれた。当時、新潟県内には一人の感染者も出ていなかった。何の前触れもなく出されたことによる戸惑いと怒りが書かれている。

 法政大学の田中優子前総長が言っていたが、日本の戦争末期の状態と五輪開催に向かう今の状態がそっくりだという。専門家の意見もきかず、全体の様子も掌握できずただ闇雲に突進していく姿が。戦争末期の「闇雲に進め」のために、犠牲者は悲劇的に急速に増えた。五輪に向けた今の日本の「指導者」姿が、当時と愚かに恐ろしく重なる。

 教師は子どもたち一人ひとりの姿を細かく見ていることにおどろいた。原発事故で福島から避難した原澤かん奈の姿が凛々しく賢く書かれている。卒業生代表で答辞を読むくらい一生懸命頑張ってきたのだろう。今の若者は心優しく正直な子が多いように思うが葛藤もあったのではなかろうか。自分は若者との交流がないので、よくわからないが。

 コロナのため卒業式の「国歌斉唱」が「国家斉聴」になった。ピアノ演奏のみの「君が代」で卒業式は終わる。かつて「君が代」強要と激しく闘ってきた先輩教師たちに連帯するために、ずっと歌わないできた樋山は、闘わなくてもよいことに安堵する自分に情けなさを感じる。誠実に率直に自己を振り返る樋山は、多分これからも、歌わない闘いをつづけるだろう。

教師の中で多分少数者であったであろう。そんななかで、意見の異なる教師とも歩調を合わせて学校運営にたずさわってきたのだろう。他の教師たちとの姿が生きいきと書かれている。一人一人に対して時には屈託もあっただろうが、仕事ぶりを的確に見ている心の広さを感じた。

 原澤かん奈は福島に帰って高校でラグビー部に入るそうだ。たくましい高校生活を送っていくだろう。エールを送りたい。

 

 

 

 

 

6月例会誌上合評に参加

作品 「誰もこの涙に気づかない」

 

発言     柏原竜

読みながら、夫和夫の暴力がこわく恐怖を感じた。和夫からDVを受け続けた妻映子の苦悩。そこから周りの人に助けられて立ち上がって行く様子がよくわかった。DV被害者を助けるシステムについてもよくわかった。今、離婚はすごく多くあまり驚かないが、DVの話はそれほど聞かない。DVを受けていてもそれを口に出さないのかもしれない。DVの被害者になることは恥ずかしく、さらに自分がみじめになるからだろうか。和夫は自分の思うままに映子をマインドコントロールしてきたのだが、映子が子育てや仕事で社会人として成長していく中で人間として鍛えられマインドコントロールを自分から抜け出そうとした。そのなかで和夫からのDVが始まった。

 『男はつらいよ』 男はたいへんだなと思った。私は戦後のベビーブームの世代だが、そのころ夫が妻や子どもに暴力をふるい近所の人が駆けつけたことを何度か見てきた。「男尊女卑」「女は男の一歩後ろを歩け」と教育された親達に育てられた私たちの世代は、戦後の男女平等などの民主主義がとなえられていたが、日常生活の中では古い男女関係が漂っていたように思う。男は質実剛健、強く逞しく、女はやさしく気配りの出来る人間などと言われていたように思う。まだまだ残っている古い因習の中で育ってきた親達は、自分の子供に対しても知らず知らず植えつけていたのかもしれません。

 映子は夫のことを「案外気が小さい。よく準備できることには自信たっぷりに臨めるが、予期しないことにはいたって弱い」と見抜いている。

 気が小さくても見え張りでも一人の人間として認めたらいいじゃないかとも思うが、夫婦となると難しいのかもしれない。

 また、次のような指摘がある。「DVをする男は気の弱い小心者で会社で重要視されていない人間がなりやすい」と言っているがおかしくて笑ってしまった。子供の世界と同じではないか。

 離婚が増えたのは一概に困ったことでもない。夫婦だって異なった一人ひとりの人間の組み合わせだからそこに考えの違いが起こりいさかいが起こるのは普通である。今は「嫌なら別れなさい」という時代になった。昔は離婚なんてもってのほかと言われていた。これは、社会が進歩してきた証拠だ。私たち女は、女だからというしがらみを解き放ち前に進んでいるのだ。日本はまだまだジェンダーの問題では遅れているようだが女たちの勢いは止められず下から突き上げていくでしょう。

 最近、知り合いから「娘の夫から『娘からDVを受けている』と泣きつかれた」という話を聞いて驚いた。いま家庭内では男女の力関係が変化している。

 映子は大人である。先を見通せる大人である。これからこんな女の人が増えていくのでしょう。

 

               投稿欄

 

 

浅田次郎「帰郷」

 胸をえぐる戦争小説集

泉 脩

 

二〇〇二年から十六年にわたって書かれた、六篇の短編集。いずれも戦争の悲惨さを書いていて、胸をえぐられるような思いで読んだ。作者は一九五一年生れなので、父御世代の戦争体験者から取材して見事に小説化したのだろう。

 第一作「帰郷」は、敗戦直後、米兵相手の娼婦に一人の復員兵が声を掛ける。どこかで自分の話を聞いて欲しいという。

 東京の焼け残った旅館の一室で、男は身の上話をし、女は思わず聴き込んだ。

 長野県松本の地主の長男として生れ、結婚し二人の女の子が生れる。ところが、召集され太平洋のテニアン島で部隊は玉砕し、男はジャングルに逃げて捕えられ、敗戦を知って帰郷する。ところが家では病身で兵役を免れた弟が後を継ぎ、妻と再婚していることを知る。男は東京に出て胸の苦しみを吐き出す相手を探したのである。

 女は同じ長野の小作人の娘で、口減らしで家出し、アメリカ占領軍の兵士を相手に生きてきたが、男の話に身につまされる。すると、急に男から「一緒に生きよう」と迫られる。

 話はここで終るが、どん底の二人が結ばれ敗戦後の荒廃した日本を生きていく―といった光が見えていて救われる。

 第五篇の「金鵄のもとで」はもっとも悲惨で、南方のブーゲンビル島の生き残りの復員兵が、銀座の街頭で片足のない傷病兵に会う。米兵の金をもらって生きているのである。

 男は傷病兵の身の上を書いた板を見て、自分だけが生き残った部隊名が書かれているので憤激する。傷病兵を問い詰めても謝るばかりである。

 そこへトラックが来て、傷病兵を乗せ,降りてきた小柄な男が傷病兵のもらいを取り上げ、怒り狂う男を露店の呑み屋に連れて行って話し合う。彼はブーゲンビル島の看護兵で、死んだ兵士の肉を食べて生き延びたのである。同じ経験をしてきた男は納得し、次の日からは傷病兵のそばでハーモニカで軍歌を吹いて協力するのである。

 最終作は、繰り上げ卒業させられた二人の学徒兵が、にわか教育で海軍仕官になり、特殊潜航艇(二人乗りの小型潜水艦)に乗り、西太平洋の真ん中で沈没する。

 海底百マイルで二人は少なくなっていく酸素を吸いながら会話する。一人は初恋を、一人は海軍相手の娼婦との温泉滞在の話を。若い二人のはかない青春の話である。

 全六話、どれもこれも息の詰まりそうな話ばかりで、今さらながら戦争のむなしさを、日本の支配者たちの愚かさを示している。そして赤紙一枚で、健気に生きる庶民を地獄に送り出す国家権力の恐ろしさを示している。自公連立政権が、戦争政策を推し進める中での、作家による警告なのだろう。

 浅田次郎は「鉄道員」(ぽっぽや)で直木賞を得て、高倉健主演の映画も大ヒットし、有力な作家になった。

私は四〇年続いた職場の読書会を、市民サークルに発展させた時、最初の例会で「鉄道員」のレポートをした。そして二十二年目の例会で「帰郷」を取り上げたがコロナ禍で中止になってしまった。

 会員の高齢化から、通信リラの会は終りを告げることになりそうである。そこでテキストに予定されていた「帰郷」の書評を書いて、有終の美を飾りたいと思う。「鉄道員」では定年退職直前の鉄道員の孤独な死を、「帰郷」では戦争の悲惨さを書いている。どちらも私には身につまされる名作である。

 文学の力は大きく、七〇年も文学活動に加わり、十二冊の本を作った私の人生は、充実した人生といえるかも知れない。

 

 

 

 

 

パリ・コミューンとフロベール

               松木  新

 

パリ・コミューン(1871年3月18日―5月28日)から150年の今年、あらためて作家の政治的見解と作品評価について考えてみました。

ロンドンにいたマルクスが「フランスの内乱」を発表したのは、コミューン敗北の二日後でした。〈三月一八日の明けがた、パリは「コミューン万歳!」〔〝Vive la Commune〟〕という鳴りとどろく叫びで目をさました〉と書き始めたマルクスは、これが労働者階級による最初の革命であり、〈コミューンは、こうして、フランス社会のすべての健全分子の真の代表者であり、したがって真に国民的な政府であったが、それと同時に、労働者の政府として、労働の解放の大胆な戦士として、断然国際的であった〉と評価しました。結びの一句が特に心に残ります。

〈労働者のパリとそのコミューンとは、新社会の光栄ある先駆者として、永久にたたえられるであろう。その殉教者たちは、それを滅ぼしたものどもを、すでに永遠の曝し台に釘づけにしている。彼らの司祭どもがどんなに祈っても、彼らをその曝し台から救いだすことはできないであろう〉(『マルクス・エンゲルス全集』第17巻)

ずいぶん以前、会社の研修旅行でパリへ行ったとき、凱旋門近くのキオスクでフランス共産党の機関紙「ユマニテ」を購入、ついでに、パリ・コミューンで虐殺された市民の墓があるパリ東部のペール・ラシェーズへの行き方を聞いたところ、昼間でも治安が良くないから訪れない方がよいと言われたことが、懐かしく思い出されます。

パリ・コミューンを描いた作品には、コミューンに参加したジュール・バーレスの『パリ・コミューン』がありますが、なんと言っても大佛次郎の『パリ燃ゆ』が圧巻です。その他に、船山馨も『蘆火野』で、パリ・コミューンに参加したひとりの日本人の生き様を印象深く描出していますし、大島博光も『パリ・コミューンの詩人たち』を書いています。

作家の政治的見解と作品評価を考える上で参考になるのが、パリ・コミューンに対するフロベールの姿勢です。

35歳のフロベールが『ボヴァリー夫人』を書いたのが1856年です。この作品については、〈小説という種目(ジャンル)が、ついにここである一点にまで到達した(略)もはや小説は、人々に娯楽としておもしろい話を提供する仕事ではない、ということになった。人間とはどういうものかということを分析追求するものだという意識が、いまやはっきりと出てきた〉(阿部知二『世界文学の流れ』)という評価には、誰にも異論はないでしょう。

パリ・コミューンについてのフロベールの見解について、『パリ燃ゆ』では、フロベールの書簡(1871年4月、6月10日)を紹介しています。

〈私は労働者のみなさんもブルジョアも、ひっくるめて同じ袋に突込みます。なにもかも一緒に河に投込むがいいのです!〉

〈私は民主主義が(すくなくともフランスで理解されているような民主主義は)大嫌いです〉

〈私たちの救いは、いまや正統貴族政治(アリストクラシー・レジティム)にあります〉

なお、大佛次郎はエミール・ゾラがル・セマフォール紙に寄稿した記事も紹介していますが、後に炭鉱労働者のたたかいを描いた『ジェルミナール』の作者だけあって、その姿勢には毅然としたものがあります。

〈私はパリ市内を散歩することに成功した。残酷だ・・・・・・私はただ橋の下に積重ねられた屍体の山についてだけ語りたい。そうだ、曳船道にでたらめに放りだされたこの血まみれの人肉を前にして感じた心を締めつけられるような恐ろしい思いを私は決して忘れないだろう(5月31日)〉

パリ・コミューンに対するフロベールの見解については、サルトルがもっと手厳しく批判しています。

フロベールに対する批判が不当だと非難されたサルトルは、〈次のテキストは誰でも書簡集の中にたしかめることができるが、私はそれを引用する楽しみに抵抗することができない〉として、パリ・コミューンに対するフロベールの見解を書簡集から紹介しています(『文学とは何か』)。

〈私はコミューンの連中に何らの憎悪を持っていない。何故なら私は狂犬を憎みはしないからである〉

〈大衆という家畜の群は、常に憎むべきものであろう〉

〈コミューンは殺人犯人を復権させる〉

〈人民は、永遠の未成年者であり、いつも最後の列にいるだろう。彼らは数であり、大衆であり、きりのないものだからである〉

『ボヴァリー夫人』を書いたフロベールの、パリ・コミューンに対する見解にみられる反動的姿勢をどのように理解したらよいのか。

作家にとって、創作と世界観とは切り離すことができません。

パリ・コミューンに対するフロベールの見解は、貴族政治擁護の立場からの政治的偏見です。しかしこのことは、フロベールの世界観がまったく反動的な思想につらぬかれているということを意味するものではありません。それは、正統王朝派だったバルザックの世界観が、保守的反動的だとはいえないことと同じです。問題の核心はリアリズムにあります。

〈作者の所信が隠されていればいるほど、芸術作品としてはますますよいのです。私の言うリアリズムとは、作者の所信をおかしてさえ、露出しうるものです。実例を引かせてください。私が過去、現在および未来のあらゆるゾラよりもはるかに偉大なリアリズムの巨匠と考えているバルザックは、(略)フランス「社会」のすばらしくリアリスティックな歴史を提供しています。(略)バルザックが自分自身の階級的同情と政治的偏見に反しないではいられなかったこと、彼が自分の好きな貴族たちの没落の必然性を見て(・・)、彼らをよりよき運命に価しない人々として描いたこと、そして彼が当時彼らだけしか見いだされなかったところに、そのリアルな未来の人間を見たこと―それを私はリアリズムの最大の勝利の一つで、バルザック老のもっともすばらしい特徴の一つだと考えます〉(エンゲルス「マーガレット・ハークネスへの手紙」)

今日のリアリズムについては、ノーマさんの定義が参考になります。

〈「現実を把握する」とはリアリズムの根本であるが、それは外界から作品に、なにものかを運び込むのではない。そんなことはそもそも不可能だ。むしろ、リアリズムは想像と創造を要する、ふつうの眼でいくら凝視しても気づかないか、見通す(・・・)ことのできないものを、小説のことばの力で見えるようにすることを目指す文学観と世界観だ〉(小林多喜二ー21世紀にどう読むか』)

科学的に冷静な精神の持ち主であったフロベールは『ボヴァリー夫人』で、恋を恋する女の現実生活を、客観的写実的に、あるがままの姿で描きましたが、それは個人をとおして、典型にまで到達しています。

フロベールが、「ボヴァリー夫人は私である」といい、また「私のかわいそうなボヴァリーは、いま現に、このフランスの二〇もの村で苦しみに泣いている」といったのは有名です。

バルザック同様、フロベールもまた、貴族政治を擁護する〈自分自身の階級的同情と政治的偏見に反しないではいられなかったこと〉を『ボヴァリー夫人』は物語っており、〈リアリズムの最大の勝利の一つ〉を、ここにも見る思いがします。

 

 

 

人との出会い 特別編 (おな)い年⑦

 

                泉  脩

文学の友

私の本棚に「文学基点」という同人誌が二冊ある。活版五〇頁あまりの立派な雑誌で、第一号が一九五四年発行。発行、編集は矢島進とある。第二号も同じ年である。

第一号の内容は創作が中心で、矢島進・石田英夫・樫村幹夫等、第二号は、矢島・石田に宍戸正も加わっている。そして、評論に私の「ロマン・ロラン論」が載っている。

今では矢島、樫村、宍戸はすでに亡く、なんとも懐かしい。石田は数年前に五〇年振りに交友が復活し、現在もっとも熱い友人である。

当時私は北大教養部二年で、進路に迷いながらも、根本的な生き方を探求し、フランスの作家ロマン・ロランに傾倒していた。二号に載せた「ロマン・ロラン論」は、いわば、中間報告である。読み返すと、いかにも未熟で顔から火が出るほど恥ずかしい。

矢島進は、高校二年の中頃から親交を結んだ親友である。小学区制の札幌南高校に、中標津から越境入学してきた一人である。根っからの文学志望で、卒業後に東京に行き、作家修業を始めた。

「近代文学」という雑誌を編集していた荒正人に付き、編集を手伝っていた。そして、自分たちの同人雑誌を刊行したのである。

私は高校二年の中頃に受験勉強をやめて、読書に没頭し始めた。クラスメートの矢島君にいわゆる純文学の手ほどきを受け、夏目漱石から太宰治まで夢中で読んだ。自分の新しい生き方を模索したのだが、その前に人間とは何か、自分とは何かがわからなくなっていた。日本文学では答えが得られず、欧米の翻訳文学に移り、ロマン・ロランに到達したのである。「ジャン・クリストフ」、「ベートーベンの生涯」などが私のバイブルになった。

矢島進は創作が中心になり苦労を重ねていた。そして、発表の場を求めて、自分で同人誌を発行したのである。私は彼の熱心な勧めで「ロマン・ロラン論」を書いた。

ところがこの直後、矢島進が自殺をした。創作に行き詰まり経済的に苦しくなったのだろう。

加清純子に続く自殺であり、文学の深淵を覗き見る思いだった。私は文学を専門にする勇気がなく、文学部の史学科に進み、将来は高校の社会科の教師になることにした。もし、文学部にフランス文学科があれば選んだのかも知れないが、第二外国語はドイツ語だったので、無理なことだった。

矢島進とは、すれ違いで終ったが文学への手ほどきをしてもらったので、感謝している。彼は高校三年の時には別のクラスになり、文学活動では札幌東高校に仲間を求めていた。石田英夫、宍戸正らである。札幌南高校では、定時制のサークルで「青銅文学」という同人誌を作った生徒に注目していた。樫村幹夫がその一人であり、加清純子も加わっていたのである。

石田英夫は慶応大学の経営学教授になり、宍戸正は東大文学部仏文科で学び、石田の紹介で経済同友会に働くことになる。(その前は札幌第一高校で私と共に教師をした)樫村幹夫は、広告業界大手に勤め、どう入手したのか、私の処女作「青春の飛翔」を読んで私に手紙をくれた。そして、 私が第二作「すべての生徒はドラマを持つ」を送ると、夫人から手紙が来て、夫の急死を知らされた。

そして、石田英夫に私の第六作「姉さん女房」を送ると(住所がわかったので)、すぐ返事をもらい、石田と学生時代の交友が復活した。同時に数年前の宍戸正の死を知らされた。

こうして私の文学の友は次々と亡くなり、今や石田英夫が貴重な友人なのである。

矢島進のことを思い出すと胸が痛む。私は彼を踏み台として利用しただけなのではないか、という思いである。道東の町から札幌に出てきて、多くの文学友達を作り、東京に出た。東京に集まる多くの文学青年の一人として、自分の才能の限界を知ったのだ。

どこかの大学に入り、どこかに就職し、自分の生活を作ることが出来なかった。私は自分のことで精一杯で、友人を思いやることが出来なかったのである。

文学はすばらしい。私は七〇年も文学活動を続け、十一冊の本を作ることができた。しかし、文学のプロにはならなかった。

私が文学活動に入った頃、太宰治と田中英光が自殺し、そして加清純子さんと矢島進が命を絶った。しばらくして三島由紀夫と川端康成も死を選んだ。

文学は両刃の剣で、人の命を救い、同時に殺しもするのである。

 

 

 

北の国から来た猫第一一章

後藤守彦

 

 新型コロナウイルスの感染拡大が収まらない。コロナ禍はペットにも大きな影響を与えている。二〇一一年に、収容された犬と猫の返還・譲渡数が殺処分数を初めて上回り、その傾向がずっと続いていたのに、それが変わる可能性がある。譲渡会が開催できない、生活が苦しくなり手放さざるを得なくなった飼い主が増えたなどの理由で(小林照幸『犬と猫ペットたちの昭和・平成・令和』毎日新聞出版、二〇二〇年)。犬・猫にとっても受難の時代である。

 現在調べているテーマとの関連で、『死の懺悔』を再読した。一九二五(大正一四)年に、二五歳で処刑されたテロリスト古田大次郎の獄中手記で、死の翌年出版されベストセラーとなった。この本にも猫の話が出ている。古田の実家に「腹の下と、四ツ足と鼻のあたりが白いだけ」の猫がいる。拾った猫で名はクロ。真っ黒な猫だからだけではない、アナキズムの黒からも採った名前である。古田は「猫は哲学者だというが」、クロは「愛嬌のある哲学者」だという。そのクロもすっかり老いてしまった。クロを世話している父の姿を獄中で思い、古田は涙を流す。古田が猫好きだったことが本当によくわかる。

 

クロが死んだら、自分の墓の傍に、葬ってもらうつもりである。そして不幸な淋しい主従は、長く安らかに共々眠りたいのだ。(中略)お前のことを書こうとしたのが、

  こんなに長くなってしまった。他人から見たらつまらないものかも知れないが、僕は、これを書きながら何度か涙をぬぐったのだよ。クロよ、それではさようなら、家にいる間、おとなしく皆に可愛がっておもらい。僕は今眼を閉じると、妹の膝に抱かれているお前の可愛かった姿がまざまざと浮かぶ。

 

 「僕は一番、妹たちと別れるのが辛い」と吐露する古田が、猫と妹の交感を獄中からしみじみと想像している。作家江口渙が『死の懺悔』の序文でいう、古田の「あんなにも純情純真な」性格が現れた文章であろう。江口と古田は親交があり、クロも江口の家を訪れた時拾い、実家に連れて行ったのであった。江口の家では、太郎という名の犬が飼われており、古田は太郎ともよく戯れた。市ヶ谷刑務所での最後の面会に江口は妻を伴っていく。古田は「クロの写真と一緒に、太郎さんの写真も、ぼくのお棺の中に入れてもらおうと思っているんです」と語る。古田の言葉で江口の妻は、「はっとしたように横を向く。そして、いそいでハンカチを出して顔にあて」たのだった(江口渙『続わが文学半生記』春陽堂書店、一九五八年)

 古田が中浜哲らとテロ行為に走ったのは、一九二三(大正一二)年の関東大震災の際に、憲兵隊に虐殺された同志大杉栄の無念を晴らすためだった。復讐だった。その大杉も猫のエッセーを書いている。タイトルは「飼猫ナツメ」。『吾輩は猫である』の猫には名はないが、それを書いた作者の名字と同じ発音である。大杉が弾圧による収監中、妻の保子が貰ってきた子猫ナツメ。「雉子色の、円く太った、よくジャレる、元気な、しかし、まだ爪を蔵すことも知らぬほどの、無邪気な、ホントーにかわいらしい小猫であった」、これが大杉の初対面の印象である。その時、中浜が作った詩「杉よ、目の男よ!」にあるような、大杉のギョロリとした目に穏やかな光が灯ったであろう。我が飼い猫ミーコと違って、ナツメは誰にもなつく猫だった。だから、誰からも可愛がられる。ナツメは賢い、幸せな猫なのである。誰からも愛されたナツメのなつき方は、相手によって異なっていた。餌を食べ腹が膨れると、「火鉢の傍に坐っている僕の膝の上に来て、居眠りをする」。そして、夜には「必ず保子君の床の中へはいって、いっしょに寝る」。

 夏目漱石といえば、漱石の忘れられていた紀行文(「満韓所感」)発掘が話題となった『暗殺者たち』(新潮社、二〇一三年)がある。著者の黒川創は、小説と評論の二つの分野で活躍しているが、デビュー作は小説『若冲の目』(講談社、一九九九年)である。「鶏の目」「猫の目」の二つの中編で構成されている、この作品には伊藤若冲に取り込まれ彷徨する人々が登場する。若冲は、江戸中期に活躍した、超細密描写が特徴の「色彩の魔術師」といわれている画家である。無数の動物を描いているが、犬は対象となっているのに、猫は外されている。若冲は猫を好まなかったのだろうか。黒川は、細部に執着する若冲の目は猫の目線になっていて、「猫の気配は、そのようなものとして、彼の画幅のなか、あちこちに埋まっている」と推理する。

 昨年の札幌支部の七月例会で中寛信「病院で掃除のアルバイトをするということ」(『民主文学』二〇二〇年六月号)について報告したが、レジュメに木村友佑の言葉を引用した。「目の前で、または見えないところで悲鳴をあげているだれかに寄り添うことが文学ではないのか」(「生きものとして狂うこと」『新潮』二〇一八年八月号)その木村が、ホームレス支援の雑誌『ビッグイシュー』の昨年九月一五日号で語っていた。

 

猫と暮らし始めたこと。これは僕にとって大きな分岐点の一つです。つれあいの会社の敷地に捨てられていた子猫が突然家にやってきました。子猫だから、二時間おきに哺乳瓶で猫用ミルクを飲ませ、お腹を刺激しておしっこを出させて、うんちも出させなければならない。でもそうやって生き物と暮らし始めたことで、自分も生き物だということに気がついたんです。

 

政治的な主張をストレートに書くことは嫌がられるが、「僕はやっぱり、嫌がられても、苦しみ悶えている人を目の前にして見なかったふりをしたくない」と木村は強調している。

 今年出版された小説に、愛猫家の保坂和志『猫がこなくなった』(文藝春秋、二〇二一年)がある。猫好きで知られる青年がいて、地域猫のキャッシーの第一の飼い主として自認しているのだが、キャッシーが来なくなった。消えてしまった。必死に探すのだが、見つからない。ところが、キャッシーは近所の老婆のもとで、別の名をもらって暮らしていたのであった。「猫はこっちの思い通りにはならない」のである。

保坂から猫の飼育について時々アドバイスを受けている笙野頼子が『猫沼』(ステュディオ・パラボリカ、二〇二一年)を上梓している。笙野は印旛沼から三〇〇メートル程離れた地に、猫と生活するため家を購入した。リュウマチ系の難病を抱えながら、次々と猫を看取り一九年が経過した。六二歳の笙野は、最後の猫と思いながら、茶虎の一一歳の老猫を猫シェルターから引き取った。ピジョンと名付け暮し始めてから二年経つ。この作品は、第一章の「猫住ねこずまい」から始まってすべてタイトルの最初に猫の字をあてる全一一章で構成されているのだが、第一〇章「猫沼」に付されたルビ「ねこにおぼれて」のとおりの日常となっている。確かにおぼれているように見えはするが、猫を見つめ、猫の思いをくみ取ろうとしている、笙野の必死さが伝わって来る。笙野にとって猫は猫ではなく人なのだろう。初版限定の写真集が表紙の裏に織り込まれている。最後の写真には、校正原稿の上に横たわっているピジョンが写っている。その写真の下に添えられた言葉が、「今からまた一緒に夜を越えてゆく ここは猫沼 約束の地」である。

 今春、台湾文学を代表する作家呉明益の『複眼人』(KADOKAWA、二〇二一年)が刊行された。ラストシーンに猫が登場する。木の板にのって海を漂って来て主人公のアリスに拾われ、日本語の挨拶「おはよう」に由来するオハヨと名付けられた猫。自死を断念し帰宅したアリスの足に柔らかな何かがまとわりつく。それがオハヨだった。

 

   オハヨだ。オハヨだ。そんなふうに呼べる相手が自分にまだいたことに、アリスは喜びを覚えた。オハヨは気づけばもう美しい大人の猫の成長していた。今ここに生きている小さな命のために、自分はしなければならないことがある。どこか謎めいた小さな頭をもたげ、片や青で片や茶色の目を丸々と開き、呼びかけに応じるように、猫は彼女を見上げていた。

 

 こう『複眼人』は結ばれているのだが、我家に生きている「小さな命」は、猫年齢で一

七歳、人間に換算すると八四歳になった。猫の三カ月は人間の一年になるので、私よりど

んどん年老いていく。半年ごとに受診し、血液検査を受けているが、今年六月の検査では

腎臓の数値が悪化した。動物病院の医者は、「点滴という方法もある」といったが、それを

選ぶつもりはない。そもそも病院に連れて行くのが大変である。猫を入れるケージを棚か

ら下ろす音を聞きつけて隠れてしまうので、前日にこっそりと下ろすようにしている。警

戒されるという点では入浴もそうである。大晦日には必ず入れることにしているのだが、

昨年末も朝抱きながら「今日はお風呂だよ」と囁いたら、逃げられてしまった。やっと見

つけて、風呂場のシャワーで洗った。その後の姿については、貧しく美しく生きた、若い

夫婦と猫を描いた、斎藤克己「樹樹」(『民主文学』二〇二一年一月号)にあった描写を借りよ

う。「できあがった時には、棒切れのように細い躰に濡れそぼった毛がぴったり貼りついて、

実に貧相で、情けない姿をしている」。

最後は展覧会の話題。昨年、九月には三越デパートで岩合光昭の「こねこ」と題する写真展があった。日本と世界の子猫のオンパレード。子猫だからすべて愛くるしかった。当然猫グッズの店が幾つも用意されていたが、ついつい買ってしまった。今回は猫が手書きされた野球帽。地は濃い緑で、前には猫の上半身が、後ろには猫の後姿が描かれている。ローマ字で私の名前を店主に書き入れてもらった。今年二月から四月にかけて、道立近代美術館で「猫まみれ展」が開かれた。既に、猫と猫作品に囲まれて暮らしているコレクターが綴っている『招き亭コレクション猫まみれ』(求龍堂、二〇一一年)を読んでいたこともあり、三五一点の絵画、彫刻などの展示作品にそれほど心が動かされなかった。愛猫家であったレオナール・フジタの水彩画の小品「猫を抱く少女」はなかなかよかったが。

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

二〇二一年〇六月〇一日 271号

 

 

6月例会誌上合評

 

合評二作品

  

作品1

 杉山成子「誰もこの涙に気づかない」

「民主文学」六月号

       第十八回民主文学新人賞受賞作

 

 

 発言1   村松祝子

作者の受賞の言葉を読むと「書かなければ」と強い衝動を持って書いたと言っています。

その言葉通りに作者の気持ちがビシビシと伝わってきて自立して行く女性の生き方に「頑張れ」とエールを送りたい気持ちで読み終えました。

最初夫の暴力をまともに受ける凄さましい場面に出っくわしどんどん引き込まれました。

退屈させず物語が映子の視点でテンポ良く進むので、わかりやすかった。

和夫がどうしてそうなったのか? 子供洋介のことも、もっと描いて欲しい気もしたのですが、それを書くと物語が散漫になって、書こうとする主題がボケてしまうと思いました。

映子の視点で書くほうが彼女の気持ちの悩みや成長が強く迫ってきます。

まさに現実社会の一断面を炙り出して小説という形で社会に示してくれました。

改めて身の回りで起きている事実を見つめてかなければならないのだと、教えられました。

映子は恵まれた環境にいると思いました。

まず仕事を持って経済的自立ができている。(女性の経済的自立は大切な第一歩であると思う。)

職場の上司が女性で協力的で在ったと同時に福祉制度の知識を備えていた。(これが男性の上司ならまた話が違ってくるかもしれない。)

福祉事務所があり、シェルターがあり、新生活をする一式が国から与えられる。

これらの条件に助けられて映子は自立の道をスタートさせた。

私はこう言う男性の暴力から突然逃れてきた女性が生活の糧を得るまでの面倒を見てくれるとは初めて知った。

同性としてこの制度が宝物として守っていきたいものだ。

 

最後の「映子はすでに真っ暗な外をまっすぐに見え据えた。」で終えているが映子自身のぶれない覚悟を滲ませ眼光の輝きも想像されて良い文章だと思う。

これからこういう女性が生まれてくることは、未来に明るい希望を感じさせてくれる作品だ。

 

 

 発言2    室崎和佳子

夫の暴力に怯える映子が、離婚しようと決意するまでの話である。

 暴力の始まりは産休中からで、その後、月日の進行とともにだんだん回数も増え、内容もひどくなっていく(和夫は、しゃがみこんだ英子の髪をわしづかみにし、キッチンまで引きずっていった。和夫の声は腹から出るドスのきいたものだった。彼の精神状態が尋常でないことがそれでわかった。 P13上段)

 一瞬の隙を見て家を出た映子のその後は、トントン拍子に事態が進む(上司の上田早苗~福祉事務所~DVシェルター~新しい住まい~弁護士の白川奈津子)

 不思議なことに、暴力行為に及んでいる当人(和夫)にとっては、その自覚がないようである(P32上下段、P33上段)

 自覚がないからこそ、いくらでも暴力をふるえるのだろう。

 ふるわれる映子にとっては、和夫は恐怖の対象で吐き気のする存在でしかないというのに、そのことがわかっていない(P36上段~「あれほどおれを愛してたじゃないか、あれはうそだったのか?」和夫の声は必死だった。その必死さが恐ろしかった。「どうしてなんだ? どうして……?)ことがなんともあわれで、滑稽ですらある。

 が、常軌を逸しているわけではないのだ。その証拠に、自分より力の強い権力(交番の警察官)には弱いことが露呈される(警察官は尋常でないようすに何かを察したのか、交番の前に出て、和夫を向かえ打つかっこうとなった。それを見て、和夫はくるりと方向転換して、どこかへ消え去った。P33上段)。 

 警察沙汰になっては示しがつかない、格好が悪い、という見栄は十分に張れるわけだから、極めて常識人なわけで、ただただ卑怯な人間なのだ。

 そんな人間とは別れるに限る。

 この泥沼から抜け出そう、という映子の決断は正しい。

 

  小説中の映子さんに一言。

 P33下段に「自分の恋は大きな大きな勘違いから始まったものかもしれない」とあるが、その通りだと思う。

「彼が『おしくらまんじゅう』のリーダーでなかったら、好きになっていなかっただろうな」(P18上段)ということが、そもそもおかしい。言葉を変えれば、未熟ということか。

 ひとを好きになるということは、リーダーであろうとなかろうと、たくさん欠点があろうとも、理屈ではなく、そのひとを丸ごと認める=好きになる、という行為なのだから。

 と、私は思います。

 

 

 

 

 

 発言3   松木新

息子洋介の親権を放棄してDV男和夫と離婚し、〈この泥沼から抜けだそう〉と決意する映子の姿には、拍手を送りたいのですが、映子の選択には疑問が残りました。

映子は〈いい父親だもの、ちゃんと育ててくれるはず〉と考えて、洋介を手放す決意をします。しかし、洋介にとって和夫が〈いい父親〉でいられるのは、和夫が〈決めた形〉の中に、洋介がおさまっている段階までです。

洋介が自意識をもって和夫からの自立を模索しはじめる時、それが小学生か中学生かは分かりませんが、洋介の自立を阻止しようとして、和夫が暴力をふるうことは明白です。〈自分が決めた形からはみ出そうとする映子を暴力で従わせようとした和夫〉が、暴力の対象を映子から洋介へ替えるだけの結果になりかねません。

この作品では、この事実に気づいた映子が、自分と洋介の真の幸せのために、何をなすべきか、について悩みつづける、とした方が説得的だと思いました。

なお、作品では、視点を和夫と弁護士にした場面がありますが、映子の視点で描くことは充分に可能であり、あえて複数の視点を導入する必然性を感じませんでした。ついでに言えば、和夫の視点の場面は、映子の頭の中にある和夫像を描いたようで、薄っぺらなものになってしまい、興醒めでした。

 

 

 

 

 発言4   泉恵子

 内閣府発表によると、二〇二〇年度のDV相談件数は一九万三〇件で、過去最多となり、一九年度の一、六倍に急増したそうである(5月21付道新)。コロナ禍の中のストレスが、妻への暴力という形で反映している事に改めて驚く。

 

 DVの実態を正面から見つめたこの作品は胸が痛む思いで読んだ。とても迫力ある筆致で、説得力もあり惹きつけられた。

 夫和夫が暴力を振るうようになった過程を描く中で、そこに至るまでの自身の未熟だった恋愛に対する主人公の妻映子の反省と、そこから脱皮し自立しようと葛藤する姿に共感した。DVシェルターの様子も興味深く描かれている。

 学生時代は年上のしっかりした頼りがいのある男性と思い、この人についてゆけば間違いないと甘えていた。仕事を通して自身の意見を持ち、母親としても成長してゆく中で、夫と意見が合わずぶつかる。そんな時夫の暴力が顕在化してくる。

 自分の意に染まなくなった妻に対して、力で抑えようとするのは、支配力が脅かされる事への怖れで、いじめの典型だ。弱みを見せまいと格好をつけてきた化けの皮が剥がれる中で、映子はそんな夫の本心を見抜けなかった自身を反省する。

 どちらもジェンダー不平等の中で築かれてきた不幸を背負っている。しかし映子の方は、それに気づき自立しようとするのに対して、和夫の方は一向にそうした自身への反省がなく、なぜ映子が逃げ出し、離婚を迫っているかが分からない。暴力を受ける方(いじめを受けた方)は痛みを通して思考を深めてゆくのに対し、振るう方(いじめをする方)は自覚や反省が弱く差別の構造と同じである。

 明治以降の、夫を頂点とする「家父長制度」は新憲法のもとで「廃止」されたが、その名残がいまだ尾をひいている。昔は自分を殺して夫には逆らわない妻のひたすら耐える忍従で、泣き寝入りの悲劇が多かったが、今「男女平等」思想の中で、 妻は経済力を持ち、自立し自分を主張しつつある。片や暴力は悪いと知りつつ、なぜ自分は暴力をふるうのか自省できず、「暴力をふるわせているのは誰なんだ」という発想しかできない 夫。この作品では一定の知性もあり、家事も育児もできる進歩的な一面を持ちながら、妻が去ってゆく理由を考えられない夫の未熟さ悲しさも伝わってくる。「夫の描き方が弱い」という評もあるが、十分とは言えなくてもそこにも筆が届いていると思う。

 そうした夫和夫の内面に迫ろうとする描き方で、視点が和夫に代わる安易さが評者に指摘されている。あくまで映子の視点で工夫してほしいと。「いわゆる神の手」は短編にはふさわしくないのか。しかしこの場合、映子の視点から描くとすれば推測の域を出なくなるのではないだろうか?臨場感を失わずに、映子の視点で夫の内面に迫る「創造的な格闘」とはどうすればよいのだろうか、教えてほしい。

 この作品を読んで、少なからずの男女が、自身も持つ「意識の遅れ=後進性」に気づくのではないだろうか?未だに夫を「主人」とする旧弊は残っていて、無意識にも夫に頼ろうとする妻と、そ

れに応えようと虚勢を張る夫の構図は根深いものがある。私自身にも感ずるものはある。

 後段、我が子に惹きつけられて離婚調停が長引いていたが、子供には優しい夫を思い、子供は夫に託そうと決意するところはとても切ない。しかし、きっぱりと自身の生に向かってゆこうとする毅然さが胸を打った。

 

 

 発言5   後藤守彦

DVの実相、被害者である主人公映子の内面、DV被害者支援の取り組みなどが丁寧に描かれています。映子の切迫した思いがひしひしと伝わってきました。映子が自立しようとするのを許さず、外では民主的な夫と評価されている和夫が暴力をふるうわけですが、なぜ暴力となるのかもう少し深めてほしかった、と思います。和夫がもともと暴力的なものを潜めていたことはわかりますが。

主人公は「いまはこの泥沼から抜け出さなければ」と親権放棄を決断します。しかし、いい夫ではないが、いい父親であるとの認識には危ういものを感じました。映子は和夫から暴力を受け、家を飛び出しますが、子どもの洋介はその場面に立ち会っています。大声で泣いていたのです。子どもの面前での配偶者への暴力、面前DVは、心理的虐待という種類の児童虐待にあたります。それは繰り返されていたのでしょう。夫は絶対に子どもに暴力をふるわないとの主人公の確信が、子育てを夫に委ねるこの先も揺るがないことを祈りたいのですが。

作品のテーマとのかかわりで考えてみたいことがあります。六月一〇日付の『北海道新聞』に、「コロナ禍 潜むDV」との見出しがついた記事が載っていました。「逃げるのを断念する人もいるのでは」との支援者の声が紹介されていましたが、加害者である夫の暴力は絶対になおらない、だから逃げて隠れて絶縁するしかない、これが作者の立場だと思います。一方、被害者のみならず加害者への支援も紹介している『DVはなおる−−被害・加害当事者が語る「傷つけない支援」』(ジャパンマシニ社、二〇一八年)では、そうしたとらえ方を「巷の言説」と批判しています。民生委員としてDVについての研修を受けたりして学んでいるものの、実際の問題には直面していません。ですから、私の理解は不十分ですので、迷ってしまいます。人間観に関わる大事なテーマだと思いますので、これからも追究していくつもりです。

表現の面では、妻の視点に徹すべきだったのではないでしょうか。

 

 

 発言6    豊村一矢

 作者の「受賞の言葉」や選考委員の「選評」から、DV問題を題材にした作品と予想したが、DV問題というよりはDV被害から立ち直り、転機として苦しみ悲しみを乗り越え、一人の女性・人間として自立していく小説と読めた。作者による構想・人物設定が緻密で、作品作りへの並々でない熱意を感じた。だが読後感は、構想を練りすぎた所為か、都合のいい辻褄あわせが邪魔して、感激からほど遠いものになった。

 この作品を読んですぐ、最近のDVの実態をスマホで検索してみた。見たデータでは、配偶者間DVが全体の約30%少々、さらに配偶者間DVで妻が加害者の割合も約三分の一だった。さらにDV被害により妻が離婚するときの課題は、大きい順に、経済的自立、親権問題、親族のサポートとなっていた。

 都合のいい辻褄あわせについて。

映子は始めから経済的に自立している。実家は頼れないし頼る必要もない。さらに都合よく、力強い「お助けマン」がいる。等々。極めつけは、

離婚訴訟での、息子「洋介」の親権争い。争えば、DVの実態からいって、家庭裁判所での勝利は確実だ。この場面を意識して書かなかったのなら、最後の山場で、『そうだ、洋介はあの人に託そう』という悲痛なる決意を書くためではなかったか。『いい父親だもの、ちゃんと育ててくれるはず』の自己弁護には吹き出してしまった。

 加害者和夫をどう書いたか。和夫のDVは犯罪である。情状酌量の余地はない。しかし結論では「小心者、権力に卑屈、甘ったれ、他者の評価を気にする見栄張り」と道化役に仕立てている。これでは自立していく映子にエールを送る気になれない。視点が和夫に移っている箇所があり、それを作品の欠点のようにいう評が散見されるが同意できない。欠点は視点を移したことではなく、加害者和夫を深く描いていないことだと思う。

  

 

 発言7    村瀬喜史

 この作品が合評作品になる前に二度読み、今度は三度目。こんなことは初めてのことだ。

近所にDV被害者ガ多いので、関心をもっているからだろうが、このコロナのもとで、増えているのかもしれない。昨年の党大会後、珍しく「ジエンダー平等委員会」のコメントが発表されたが、そのなかに「DVは決して一部の人の問題ではなく、女性の約四人に一人、男性の五人に一人が体験しており」と書かれている。

 私の住居の近くに議員の「市民相談室」がある。そのためか、相談にきた人が近くのアパートの一室をとりあえずの避難場所にするので、「ああ助かった」はいいが、未来の生活の見通しがもてない。それでも短期間だが赤旗日曜版の読者になる。しかし、長続きはしない。最近の例では、母にまとわりついている未就学の子づれで、「相談は専任相談員」に任せてというので、週に一度の新聞の配布では口出しなどできない。そのうち郵便受けに宣伝チラシなどがたまってくると、もう転居だ。

 この作品に戻ると、夫の視点でかかれているところがあると指摘もあるが、私には気がつかなかった。なにより迫力がある、一気に読ませた。

 昨年、はたやま和也前衆院議員が、札幌市内にあるDV被害者支援団体である『女のスペース・オン」と懇談して、総務省への申し入れ、国会質問・岩淵参院議員によるものをネットでみて、動画のツイートが続き、問題は広がっている。離婚後の子どもの共同親権など古い民法を改正しても簡単には解決しない。

 

 

 発言者8    北野あかり

 この作品は、第18回民主文学新人賞受賞作で、作者は63歳の女性で、結婚は両性の合意に基づく」という時代を生きてきている方です。そのためか暴力を振るう夫やそれを助長してきた自らの責任も真摯に向き合っています。 

作品で描かれる夫の暴力は許し難いことです。このようになるまでに数年も続けられ、ひたすら耐えていたことに、まだまだ男尊女卑の社会であると思いました。

 この作品で、今はシエルターや弁護士などの救出する場もあることも紹介されており、DVで苦しんでいる人に対する朗報だと思いました。

 DVを受けた時点で早期に相談すべきだった事だと思います。病気でも早期発見・早期治療が常識となっているように考えなければならないと思います。

 そして、暴力のない社会を作るために、シエルターや弁護士などの存在を多くの人に拡げ、制度的にも整備され、全国どこにいても利用出来るようになればいいと思いました。

 

 

 発言者9    泉脩

とてもよく書けた作品である。夫の暴力(DV)から逃れ、自立を目指す女性の話である。

大学のサークル活動の中で、二歳年上の棚瀬和夫に恋した映子が、卒業後に結婚して男の子が生れる。共働きで家事を分担し、理想の夫婦のように思われた。

ところが次第に和夫が映子を束縛し、気に入らないことがあると暴力を振るうようになる。ある日、映子は家から何とか危うく逃げ出し、会社の上司に相談した。そして、福祉事務所のDVシェルターに入り、女性弁護士白川に離婚の相談をする。和夫は発達障害で自己中心の幼児性を持っている。小心で見てくれに気を遣い、妻を我が物と考え、意のままに支配しようとした。映子は自分の恋愛が錯覚だったことに気付き、自分らしい生き方を目指すのである。

白川弁護士は自分も離婚を経験していて、男の自己中心性をよく理解し、和夫に会って映子の決意を伝えた。やがて和夫は、四歳の子供の親権を自分に渡す条件で離婚に同意した。しかし、映子は子供を手放す気になれず、和夫の待ち伏せから危うく逃れて、やっと決心する。この泥沼から逃れて、ともかく自立に歩み出すことを。

実にリアルで説得力のある物語である。和夫の自己中心性は、かつての自分のようであり、私は辛うじて自己変革に成功した。不十分ながら。結婚とは男と女のたたかいでもあるのだ。

和夫に友だちがいない、と書かれているが、成長期に親友を得て、切磋琢磨することが必要なのである。対等平等な交友の中で、お互いに相手の長所・短所を指摘し合い、真の友情を築くことが大切なのである。幼児の時の親のきびしい子育ても大切である。

どちらも深い愛に基づいて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作品2

 

支部活動交流座談会

「コロナ禍のもとでいかに支部活動の活 

性化をはかるか」

     「民主文学」六月号

 

 

 発言1      豊村一矢

 「コロナ禍のもとでいかに支部活動の活性化をはかる」。札幌支部の場合は、例会を毎月確実に行っていたことが一定の活動を維持することを可能にしたのではあるまいか。札幌民主文学通信の内容は例会報告であったから、事実上、結果的に月刊になっていた。

 その経験も踏まえて、例会紙上合評を継続し、来年の6月まで集会形式の例会は行わないことになった。悔しいがコロナ禍では仕方がない。

無論、早々にコロナが終息すれば、その時点で通常例会は再開されるだろう。来年6月になっても終息しなければ、さらに延長されるだろう。

 どういう状況をもって通常例会可能とするか。この判断は極めて難しい。支部員個々によって、コロナへの不安や恐怖、条件がことなるからだ。自分、同居者の基礎疾患有無。例会会場までの交通手段も問題。自家用車、タクシー、バス、地下鉄……。実際、通常例会が開かれていた時から不安を訴える人がいた。

これを考慮せずに再開してはならないと思う。

 

 

 発言2   泉恵子 

五月一八日付「札幌民主文学会便り」が届き、「例会は一年間(二〇二二年六月まで)行いません」と赤字で書かれているのを見て、一瞬目を疑った。「一年間とは……」寂しい気持ちになり、次に暗い気持ちになった。

 昨年十一月から今年の三月まで五か月間例会がなく「紙上合評」ということで、『北海道民主文学』誌上の仲間の作品について、三作ずつの感想を一生懸命に書いて送ってきた。そうした札幌支部の活動は一定の効果もあって、他の支部にも影響を与えたということが座談会で話されている。

 それは書く訓練にはなったし、みんなの批評や感想もそれなりに伝わった。しかし、やっと開催した四月の例会での話し合いは意見の交換もできて、豊村さんも言っているように「やはり顔を合わせてやる方が盛り上がり」、対面での例会が支部の基本であることを実感した。「紙上合評」ではどうしても一方通行で、意見交換ということは限界がある。意見を言うにしても一か月遅れで臨場感がない。

 つらつら思うに私が民主文学に留まっているのは、こうした仲間と顔を合わせての例会での合評がためになり、楽しいと思っているからで、書くだけならば続かなかっただろう。

 

 コロナ禍は、そうした人と人との交流を妨げ、孤独を強いている。気分が落ち込み、鬱になったり、自死する人も増加した。本当に厄介な、人間社会を脅かす感染症だ。

 

 だからこそ、少しでもその間の活動を維持しようと様々な芸術活動も、模索し工夫しながら動いている。札幌支部は「紙上合評」をしながらとはいうものの、「一年間例会なし」とは少し長すぎるのではないか?確かにコロナの行方は見当がつかない。ある感染症の専門家は、二年半から三年はかかると言っている。今回のように、五か月間の後、やっと開催したと思ったらまたもや「緊急事態宣言」ということにもなりかねない。しし、せめて、半年とか、今年いっぱいとか、希望を持たせてほしいと思った。

 それで支部長に「やれる状態になっても一年間休むのか」と聞いたら、その時には再開するとのことで、ほっとした。

 

 同時に我が札幌支部の面々を見ると、高齢化は著しく、このままでは支部の存続は危ぶまれる。もっと若い人へのアプローチを本気でしなければならないのではないか。「『民主文学』の灯を消さない」ために購読お誘いのチラシを作ったり(会津支部)、入会ご案内のリーフレットを活用したり(佐賀支部)、各支部様々に工夫をしている。「組織拡大の話」を、「今度皆と顔を合わせたときには真剣に議論したい」との豊村さんの発言を実行に移すべく努力しなければ。その昔、年に一度「総会」というのをやっていたがなくなって久しい。この会で育てられた事をしみじみ思うにつけ、灯を消してはならないと思う。

 

 

発言3    村松祝子

準会員になってまだ年数の経っていない私が、現在の「民主文学」の状況やこれからの事を案じるなんて、おこがましく思っていましたが一会員としてそれは無責任であろうと気がつきました。 

コロナ禍の中で例会が中止になり人と会うことの大切さを痛感させられましたし、人との交わりの中で人は正常に生きていけるのだと教えられました。 

会の皆の意見が聞けないのであれば誌上合評会には是非参加しなければという義務感で参加していたところもあります。 

そのことにより文章を絶え間なく書くチャンスを与えられたと思っています。

記事を読むと各地方の支部もコロナ禍の中、例会の場所選びに苦労されている様子や、例会をズームやオンラインで行われている状況など、それなりに努力しているのに感心しました。

その中で佐賀支部の山下さんは集会などでチラシを配っている記事を読み参考になりました。 

時々メールを持っている会員に送られてくる宣伝文をコピーして小さな集まりに配ってみることは、私にもできることかなと勇気を与えられました。

すぐに新しい会員に繋がらなくとも、自身の新たな行動の一つになっていければと思っています。

この誌上討論は全国の支部のそれぞれの様子が見られて、年齢の高い方もおられるようで励みにもなりました。

そして新しい書き手の輪を広げたい思いを掻き立ててくれました。

 

 

 発言4  後藤守彦

豊村さんが発言された通り「顔を合わせてやる方が盛り上がります」ので、コロナが収束に向かえば、来年七月を待たずに例会をセッティングしてほしい、と希望します。俳句を嗜んでいる妻は結社に所属して、毎月開かれる句会に参加しています。そこで、それぞれが兼題に基づいて詠んだ二句に点数を付け、合評しています。月刊で発行している結社の機関誌の最後には、「私の共鳴句」というコーナーがあり、前月号掲載分から読者が選んだ句が短いコメント付きで載っています。五月号の妻の投稿を紹介します。掲句は「ICU目ん玉で追ふ窓の雪 河原小寒」。河原さんは癌で闘病中。コメントは「中七の表現がとても印象的。今ICUにいて身体は動かないが、自分の状況も外界の様子も我が目でしっかりと見ておきたいという意志が「目ん玉」にこもっている。見るべきほどのことは見ておかねばと、自分を客観化する強い意志に心打たれます」。

 

 

 発言5   村瀬喜史

 支部交流座談会は初めての取り組み。皆、苦しんでいる。このような座談会を年に一回のテンポにできないものか。

 札幌支部は、今も昔も困難が多い。過去には荒井英二さんを自宅まで送り迎えして支部例会に参加してもらった事があった。それを率先してやった田中恭子さんなんか、たくさん言いたいことがあるだろう。

コロナ禍のもとで、どうやって支部活動の活性化をはかるか、皆で考えたい。  

 

 

 発言6   北野あかり

 民主主義文学会の会員や民主文学の減少が過去最大で、文学運動の存続にかかわる重大問題であると、組織部長さんからの報告に驚きました。

 札幌支部に所属して数年になりますが「奔流」などに執筆した時だけ周りの方に買って貰ったりしている程度でした。 感想を聴くと「面白かった」「元気を貰った」など、生きる支えになったりしているようです。しかしコロナ禍の中で読む時間はあるのですが、テレビ漬けに陥っている方が多い状態です。せっかくいい作品があっても自己満足で終わっています。 

 札幌支部で行っている「紙上合評」もいいのですが、たまには電話合評もいいと思います。また、自ら参加している団体やサークルの方にも「通信」を送って仲間を増やすことに努力してみようかと考えています。

 

 

 発言7    泉 脩

全国六支部の代表がそれぞれの経験を出し合い、民主主義文学運動を発展させるかを話し合っている。札幌支部の豊村さんも参加しているのがうれしい。

五〇年以上も続いている支部(札幌・大阪)もあれば、結成間もない支部もあり、それぞれ苦労し工夫してコロナ禍に立ち向かっている。私が注目したのは、支部の拡大・「民主文学」の拡大のために、組織的に取り組んでいることである。その点では札幌支部は不充分で、豊村さんも認めている。札幌支部が例会を大切にし、毎月の通信と年一回の同人誌を活用していることは秀れている。昨年から始まった紙上討論は、全国的に注目されつつあるようである。インターネットなどを使った討論を札幌支部はしていない。

会員の高齢化は共通の悩みだが、若い会員を加えている支部もあり、もっと注目して学んでいきたいと思う。潜在的には文学への関心は続いているのだから。

私は自分の本を全国各地の会員に送り、一〇人余りの方から著書を頂き、文通を続けている。とても勉強になり、励まされている。札幌支部としても、工夫をして全国との交流を進めて欲しい。札幌支部への手紙を通信に公表したらどうだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                           

             

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人との出会い 特別編 (おな)い年➅

                 泉 脩

初恋ふたたび 

新制の札幌南高校に入学して、私は美術部に入った。下手なりに絵が好きだったのである。一年生部員は私と、女生徒の二人だけだった。西村和子さんといって、小柄でほっそりとしていた。色白の顔に銀ぶちの眼鏡が似合っていた。知的で気品があった。

私は一目で心を惹かれた。東京生まれに違いないと思った。私は生まれ故郷の東京が懐かしく、荒々しい気候の北海道が好きになれなかった。東京の大学に入り、東京の女性と結婚したい―という妙な観念に捕らわれていたのである。

しかし私は彼女と口をきくことができなかった。中学から男女共学に慣れていたけれども、女性と親しくなったことはなかった。臆病なのである。

美術部は活発ではなく、たまに学内展を開くだけだった。二年生の加清純子が輝いていたが、めったに姿を見せなかった。結核という噂があり、学校を休みがちだという。

二年になると二・三年合同の模擬試験があり、私は五番になった。上の四人は三年生で、トップは翌年、東大に合格した。

私は意外の好成績にびっくりし、自分も東大を受けたいと思った。西村さんは数学が満点だった。別のクラスなので詳しくはわからないが、聡明な生徒らしく私はますます彼女に惹かれた。

ところが私は母子家庭で東京進学は無理とわかり、私は勉強にも絵にも関心が無くなり、文学に打ち込むようになる。

加清純子さんも文学志向になり、生徒会議や同人誌に文章を載せるようになった。しかし、卒業寸前に阿寒湖畔で自殺してしまった。

三年の秋、学校の帰りに西村さんと会い、歩きながら話し合った。しかし人生の目標が分からなくなっていた私には、何ひとつ二人の関係を前に進める話が出来なかった。今考えると、彼女も私に関心があって私を待っていてくれたのではないかと思う。

この日のこの出会いが、私たちの最後だった。最近分かったことだが、西村さんは、東京女子大学に入り、その後東京に住んでいる。同期生名簿では姓が変わり、そして五〇代で亡くなっている。

最近(二〇二〇年三月五日)、私は足の骨折で入院した。本が読めないので、頭の中で想像の物語を作って楽しんだ。

その物語は、若い時に出来なかったことが出来て人生が大きく変わるのである。その三番目の物語の中で、父が亡くならず、私は東大に入って医師になるのである。しかも初恋が実って西村さんと結婚し、二人とも絵を続けて立派な絵を描くのである。

まさに夢物語であり、勝手な妄想である。

この話は実際に夢の中にまで出てきて、実に七〇年振りに父に再会した。とてもうれしかった。西村さんは出てこなかった。

彼女とクラスメートだったE君の話によると西村さんは他の生徒と群れをつくらず、孤高を守る女性だったらしい。そして、理数に秀れていたという。気品のある人だという点ではE君と意見が一致した。

私の初恋はあえなく終わった。しかし、人生と自分の生き方に何の確信がないまま、恋だけ追っても仕方がないと思う。たとえ結ばれたとしても、やがて破綻してしまうに違いない。

それにしても秀れた女性との出会いが、むなしく終わったことは残念なことだったと思っている。

 

 

 

『アンブレイカブル』が面白い

松木 新

 

柳広司の書き下ろし長編『アンブレイカブル』(角川書店 2021年1月)が、大変面白い作品です。

柳広司の作品については、福島原発災害の闇に迫った『象は忘れない』と、大逆事件の大石誠之助を主人公にした『太平洋食堂』が印象に残っています。

「アンブレイカブル」(敗れざる者)という題名の通り、作者は天皇制ファシズムに屈しなかった4人を取り上げています。

小林多喜二を筆頭に、反戦川柳作家・鶴彬、横浜事件の編集者・和田喜太郎、希代の哲学者・三木清―治安維持法の犠牲になった彼らを、作者はミステリータッチで描き出しています。

今度の大会の「幹事会報告」が、〈治安維持法による罪状捏造に走る官憲の立場から描き、それに屈しないで闘う人々の生き様を見て、権力側の人物も変化していくことを描く〉と言及しているように、読む者を飽きさせません。

ここでは、多喜二パート「雲雀」を紹介します。

舞台は函館。多喜二が「蟹工船」取材のために、二人から蟹工船の実態について、話を聞いています。一人は生粋の漁師・谷勝巳、もう一人は学生あがりの漁夫荻原です。実はこの二人、内務省の役人クロサキから頼まれて、多喜二の動向を探るスパイでした。

クロサキは、多喜二を逮捕するために、磯野農場にかかわる拓銀の極秘文書を、隙を見て多喜二のカバンに紛れ込ませることを二人に指示していたのです。二人はまんまとこの企みに成功します。

函館での取材を終えて拓銀に出勤した多喜二を、機密情報漏洩の罪で逮捕するために、大勢の警官が拓銀に押しかけます。彼らは、行員たちが見ている前で、多喜二のカバンを開け、中にあった極秘文書印のある拓銀の封筒を取り出します。

中から出てきたのは、恐ろしく下手な兎の絵でした。行員たちが爆笑するなかで、警官たちはすごすごと退場せざるを得ませんでした。クロサキからスパイを強要された二人が、クロサキを裏切って、多喜二の側についたための傑作な結末でした。

なぜ、二人は多喜二支持になったのか。小説では、次のように書いています。

〈結局のところ〝ねっからの漁師〟ということなのだろう。

きっかけは多喜二の言葉だ。

―蟹工船が地獄に思えるのは、労働条件と賃金の配分に問題があるからです。

小林多喜二はそう指摘した。その一言で目から鱗が落ちた感じだった。〉

〈谷は小説(「蟹工船」―引用者)を読みながら、途中何度も息を呑み、あるいはゲラゲラと声に出して笑った。オレたちから聞いた話なのに、あの人はまるで自分の眼で見て書いているみてぇだ。

そう考えて、すぐに思い直した。いや、そうではない。逆だ。なるほど、小説に書かれているエピソードはどれも自分たちが小林多喜二に話したものだ。だが、聞いた話をただ並べたのではこんな小説には決してならない。小説を読んで谷は、妙な話だが、自分が乗っている蟹工船がどんなところなのか初めてわかった気がした。小説を読むということは、あの人の、小林多喜二の目でこの世界を見るということだ。小説は蟹工船での労働が、くっきりとした線で生き生きと描き出されている。蟹工船が如何に地獄なのか、それだけではなく、如何にして地獄なのかが自ずと伝わってくる。そのくせ、読後感は不思議と明るい。小林多喜二は根本的なところで人間と労働に対して信頼を寄せている。たぶん、そのせいだ。

谷の脳裏に、早春の空のきわめて高い場所で囀る雲雀の姿が浮かんだ。〉

治安維持法の犠牲者について作者は、三木清のパート「矜恃」で詳述しています。

治安維持法違反容疑での検挙数は六万五千件余り。起訴となったのは六千五百名ほど、〝取り調ベ中過度な暴行が原因〟の死亡が数十あった。〈数十名が拷問(・・)()しているということだ〉。これとは別に、拘置所内と付属病院での死亡が千数百件あった。

〈日本国内では治安維持法を根拠とする死刑判決は、これまで一件も出ていない。

〝死刑判決ゼロ〟と〝死者千数百名〟の間に存在するのは、〝特高の取り調べ〟と〝拘置所の環境〟だ。〉

この数字から読み取れるのは、〈行き場を失って自家中毒を起こし、すでに腐臭を放ち始めている巨大組織の現状〉でした。

なお、「矜恃」のなかで、三木清が歴史と個人について語っていることが、参考になりますので紹介します。

〈しかし、それでもなお、私は己が持つ力の全てを注いで歴史に参画する自由を、権利を、行使したい。参加した結果が後世〝歴史〟と呼ばれるのだとすれば、自分が生きているこの唯一の時間、唯一の歴史を、他人任せにしないで能う限りを尽くす。その上で、結果は後世の判断に任せる。それが、いまを生きていると胸を張って言える唯一の在り方ではないだろうか〉

 

【紹介】 森繁久弥の「予言」

                松木 新

 

森繁久弥没後10年記念として、2019年10月に刊行された『森繁久弥コレクション』(藤原書店)第1巻にエッセイ「アニサキス」が収録されています。87年、名古屋での公演中に鯖の押し寿司を食べてアニサキスに罹った顛末記です。

その末尾の文章が、新型コロナ・パンデミックの現在を「予言」しているとして、話題になっていますので、紹介します。

 

〈二十一世紀の或る日、私たちはアニサキスのような目に見えるものでないミクロの世界の―それもエイズやB型肝炎の数百倍も強い豪敵に攻められ、人類の大半はあえなく全滅させられるのではないかと、ひとり慄然としたことだ。〉

 

 

 

「十五年戦争」開始九〇年と『満州国演義』

                 後藤守彦

今年は、一九三一(昭和六)年の満州事変から九〇年にあたる。この年から始まる日本の侵略戦争を「十五年戦争」という。評論家の鶴見俊輔が初めて「十五年戦争」という呼称を用いたのは、一九五六(昭和三一)年のことであった。今も評価の高い江口圭一の『十五年戦争全史』(青木書店、一九九一年)は、「満州事変と日中戦争とアジア太平洋戦争とはばらばらの戦争ではなく、相互に内的に連関した一連の戦争であった」ことを明らかにするうえで意義があった、と正しく紹介している。一九三一年九月一八日、中国東北地方の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖付近で、日本の関東軍が日本によって敷設された南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破し、これを中国軍の仕業として軍事行動を開始し、翌三二年初頭までに満州の全土(遼寧・吉林・黒竜江の三省)を制圧した。これが満州事変の概要である。満州事変は、「発端の鉄道爆破から日本軍の出動、治安維持・邦人保護を口実にした満州の制圧まで満蒙(中国東北地方と内モンゴル)を武力占領しようとした関東軍の計画的軍事行動」(山田朗ほか『日本近現代史を読む』新日本出版社、二〇一〇年)であった。自国民の命や自国の財産を平気で侵害してでも、好戦勢力は戦争を企む。柳条湖事件が日本軍の謀略であったことを、日本人が知ったのは戦後であった。一五年にわたる中国侵略で、日本は一〇〇〇万の中国人の命を奪い国土を破壊し、一九四五(昭和二〇)年に敗れた。

 二〇〇〇年に『虹の谷の五月』(集英社、二〇〇〇年)で直木賞を受賞し、二〇一五年に七一歳で亡くなった船戸与一は、日本人以外にとって「雪がナイフのように人々に突きささるごとく降りそそいでくる国家」(山室信一『キメラ満洲国の肖像』中公新書、二〇〇四年)であった満州国を主舞台に「十五年戦争」の過程を描いた。それが全九巻の『満州国演義』で、二〇〇七年から二〇一五年まで新潮社より刊行され、第九巻「残夢の骸」が絶筆となった。演義は、中国の『三国志演義』のように、通俗的な歴史小説をさす。しかし、作者が「小説は歴史の奴隷ではないが、歴史もまた小説の玩具ではない」と述べている通り、三〇〇をこえる参考文献に基づき、史実が丁寧に描かれており、妙な修飾もない。最終巻のあとがきで作者は、資料渉猟は「わたしのもっとも苦手とするところ」なので、「文献に当たっては執筆し、執筆しては再確認するという作業の繰り返しは苦行僧の営為のごとく感じられた」と率直に吐露している。演義としたのは、作者の含羞の表れだろう。

主人公は、東京麻布の名家敷島家の四兄弟。父親は、名前の意味性が子の負担になるのを避けて、長男を太郎、以下誕生順に、次郎、三郎、四郎と命名した。四兄弟の最初の立場は、太郎は奉天総領事館の参事官、次郎は満州馬賊の青龍同盟の頭目、三郎は奉天独立守備隊の将校、四郎は無政府主義系の劇団に出入りする早大生である。四郎もそう遠くないうちに満州に渡るので、兄弟すべてが満州に勢揃いすることになる。

時間は、最新の「十五年戦争」通史である笠原十九司『日中戦争全史』(二〇一七年、高文研)で、「満州事変「前夜」にむけて、歴史の流れを大きく変えてしまった」と位置付ける張作霖爆殺事件があった一九二八(昭和三)年からスタートしている。この事件も日本軍の謀略によって起こされた。関東軍高級参謀河本大作大佐らが、今まで日本が利用していた軍閥の長である張作霖を奉天郊外で列車もろとも爆殺し、それを中国国民革命軍の仕業として、一気に南満州を軍事占領しようとしたものであった。日本では「満州某重大事件」といわれ、時の田中義一内閣は総辞職に追い込まれた。戦争にもっていくことはできなかったが、柳条湖事件の予行演習となったといえる。その後も繰り返される謀略。関東軍特務の間垣徳蔵に絡み取られ、敷島兄弟も謀略・侵略に加担していく。評論家伊達政保のいうように「帝国主義者となり、大日本帝国および日本軍のために働いていくことになった」(「渾身のライフワークが一〇年の時をかけて完結」『図書新聞』二〇一五年三月二八日号)

『満州国演義』は、加害者・権力者の側から描かれている。今は数社の高校の教科書に載っている、一九三二(昭和七)年の平頂山事件をはじめとする虐殺事件などの日本軍の非道、特に「日中アヘン戦争」ともいわれる日本軍によるアヘン生産・販売が詳しく叙述されている。日本軍内部の問題も厳しく追及されている。特に、将官たちが兵士を消耗品のように扱ったことを。例えば、無謀な「死のインパール作戦」や特攻戦法などがそうである。フィリピンの基地で特攻隊員を見送った整備兵の言葉を借りて、特攻隊員を叱咤激励した富永恭次第四航空軍司令官の敵前逃亡を告発している。

 

  特攻隊員たちはこの戦争は負けるとわかっているが、任務だから特攻死するとじぶんには口にしていた。それなのに、司令官は米軍がマニラに近づいて来ると命が惜しくて逃げだした。終わりだ、終わりだ、終わりだ!兵たちは命を捨てて任務を全うする覚悟なのに、何たる卑劣な司令官です!

 

一方、日本のアジア侵略と植民地支配に抗う思想・運動・闘争もすでに第一巻「風の払暁」から用意されている。次郎は抗日救国義勇軍の崔玄洋と会い、言葉を交わす。

 

「聞いたことがあるかね。抗日義勇軍の存在を?」

「朝鮮の独立を目指しているんだろう?」

「正確じゃない、その言い方は」

「どう言えばいいんだね?」

「朝鮮の人民解放」

 

三郎の部下である藤里二等兵は脱走するのだが、三郎に満蒙領有に反対と伝える。

 

じぶんは青森の百姓の倅です。百姓は土地が命です。土地を取られたら、生きていけない。日本の都合で満蒙を領有したら、満州や蒙古に住む百姓たちは次々と土地を追われるでしょう。そういうことに自分は絶対に反対であります。

 

 第六巻「大地の牙」には、三郎が藤里と再会する場面が設けられている。東北抗日連軍に捕まった三郎を、抗日連軍の一員となっていた藤里が助けて逃がす。その際、藤里は三郎に「じぶんはもう兵卒ではありませんし、日本人でもない。ただただ帝国主義を憎み、人民に奉仕したいと願う一個人であります」と言い切る。

 第二巻「事変の夜」の冒頭では、満州日報の記者寄居が太郎に指摘する。大川周明・笠木良明などが唱える、欧米によって圧迫されている有色人種の先頭に日本がたって有色人種の解放に導くという主張で、決定的に欠落しているものが何かを。

 

   おかしいとは思いませんか?日本人は台湾や朝鮮で圧迫する側に立っている。笠木良明にはそれについての自覚がまったくない。どうしようもない驕りに基づいて、勝手に日本人は有色人種の救済者としての務めがあると言い募っているのです。

 

 第二巻で扱う時間である一九三〇年に起こった、ほとんどの日本人が知らない二つ抗日の戦いも作者は忘れていない。それは朝鮮人による間島五・三〇蜂起と台湾先住民による霧社事件である。第四巻「炎の回廊」には、東北抗日連軍第一路軍の総司令楊靖宇が登場する。満州の吉林からの引揚者であるノンフィクション作家澤地久枝は、満州で暮らしていたのに「まったく見えなかった世界」があった、「楊靖宇に代表される戦士たちの意志と、彼らを支えた住民たちとの歳月に「もうひとつの満洲」をみる」と楊の終焉の地を訪ねて語っている(『もうひとつの満洲』文藝春秋、一九八二年)。楊は一九四〇年二月に射殺されるが、飢えに苦しんでも農民からの食糧徴発を許さず、遺体の胃には「草根木皮」と綿入れ服の綿しかなかった。そうした楊の高潔さを作者は伝えている。

 敷島兄弟の運命はどうだったのだろうか。最初に命を落としたのは次郎だった。主義・主張をもたず「柳絮のごとく風に身を委せて生きて来た」のだが、囚人部隊を率いてインパール作戦に参加し、赤痢とマラリアに罹り「白骨街道」を埋める一人となった。満州国国務院外交部政務処長になった太郎は、兄弟の中では経済的にも社会的にも最も恵まれた位置にいたが、シベリアに抑留される。収容所で仲間を密告する役回りとなり、追い込まれて自殺した。三郎は、関東軍憲兵隊の花形将校として各地で活動するが、敗戦後の一九四六年二月、朝鮮との国境近くにある、関東軍の総司令部が移った通化で、残留関東軍将兵・居留民の蜂起に加わり死亡する。生き残ったのは四郎だけだった。大杉事件の主犯である甘粕正彦が理事長に就任していた満州映画協会勤務を経て、敗戦時は関東軍特殊情報課の嘱託となっていた。三郎から、避難中に助けた、開拓民の生き残りの少年を託されて、一緒に引揚げる。少年を広島県佐伯郡に住む祖父のもとに連れて行った後、虚脱感と喪失感にとらわれた四郎は自問自答する。

 

  いまや過去に拘ったところで何かが産み出されるわけじゃないだろう。問題はこれからどう生きるかだけでしかない。しかし、どう生きていくのだ?そのまえに、どういうふうに生きたいのだ?

 

この答えはすぐには見つかりそうもない、と苦悩する四郎を描いて『満州国演義』は閉じられる。

 最後に史実に関して一つ、具体的には、三郎の加わった通化事件について検討しておきたい。中国では「通化二・三暴動」といわれるこの事件について、日本最大の日本史辞典である、吉川弘文館の『国史大辞典』全一五巻をはじめとする岩波書店・山川出版社・平凡社・角川書店などの日本史辞典は、全く取り上げていない。事件が重要視されていないからなのか、それとも事件の評価が難しいからなのか。注意して活用すべきといわれているウイキペディアには、詳述されている。通化を占領していた八路軍(中国共産党軍)・朝鮮人民義勇軍に対して、中華民国政府(国民党軍)の要請に呼応して日本人が蜂起したが、鎮圧され、蜂起に関係した約三〇〇〇人の日本人が虐殺された、これが記述の大要である。通化事件に関する、船戸があげている参考文献は二冊である。それが、佐藤和明『通化事件』(新評論、一九九三年)と松原一枝『通化事件』(チクマ秀版社、二〇〇三年)だが、前者は事件発生時通化にいて一〇歳で敗戦を迎えた人物によって書かれたものである。佐藤は証言を精査したうえで、蜂起すべきではなかった、「勝手に他国を侵略し、その国の人々を殺傷し、そのあげく無条件降伏したと思ったら今度は反対勢力と結んで攻撃をしかける」、それはあってはならない行動だった、と批判している。なお、抗日戦争における中国共産党の戦いについて、「中華人民共和国が成立した後になって、かつて国民党は抗戦をサボタージュし、共産党が抗戦を主導したという神話が作られた」、現在国民党軍の役割が見直されつつある、との指摘(丸山鋼二「十五年戦争時の中国共産党」『歴史の「常識」を読む』東京大学出版会、二〇一五年)があることを付言しておく。

 

 

 

真藤順丈「宝島」

    沖縄の真実を探求

泉 脩

 

六〇〇頁近い大作。直木賞受賞の推理小説。三部構成で第一部は一九五二年から三年かけての幕開け。

一九四五年の春に沖縄はアメリカ軍の猛攻を受け、六月に占領された。島民の四分の一が巻き込まれて死亡し、残った人々は強制収容所に入れられ、銃剣とブルドーザーで広大な米軍基地が作られた。

一九五一年のサンフランシスコ講和条約で沖縄はアメリカの統治下におかれ、アメリカ最大の海外基地になった。沖縄住民は、基地で働くか、米兵相手の歓楽街で働くかして、細々と暮らした。

一九五二年から三年にかけて、少年少女たちの戦果アギャーが活動した。米軍基地の食料や物資を盗み、貧しい人々に分けるのである。いわば義賊だった。

リーダーのオンちゃんは抜群の統率力・行動力を持ち、英雄と持てはやされる。幼な友達で親友のグスクが片腕となって助ける。弟のレイとオンちゃんの恋人ヤマコが続く。ヤマコは「鉄の暴風」と呼ばれた艦砲射撃の中でオンちゃんに助けられ、心からオンちゃんを慕う。

オンちゃんは最大基地の嘉手納基地に忍び込み、米軍に見つかるが逃げ延びて姿を消す。レイは負傷して捕えられる。グスクは逃げて、基地の外で待っていたヤマコとオンちゃんの行方を探す。

第二部は、五年後の一九五八年から六三年まで。オンちゃんの行方は分からず、グスクは警察官になり米兵の犯罪を取締り、暴力団や過激派の暴発を防ぐ。レイは、ならず者になり、グスクとやり合う。ヤマコは小学校の教師になり、校舎への米軍機墜落事件をきっかけに祖国復帰運動に加わる。

第三部は一九六五年から七二年。祖国復帰運動の盛り上がりの中で、日米双方が歩み寄り、一九七二年に施政権返還が実現する。しかし、「核抜き本土並み」の要求は骨抜きになり、基地付き返還となり核兵器と毒ガスまで残された。

レイは「真の独立」を目指し、仲間を集めて嘉手納基地の米軍本部の毒ガス攻撃を決行する。グスクはこれを阻止しヤマコも加えて、オンちゃんの沖縄帰還の真相を突きとめる。

この壮大な物語は、手に汗を握る事件の連続で、沖縄の苦しみと真実の姿を浮き彫りにする。子供から大人までの女性暴行は凄まじく、朝鮮戦争・ベトナム戦争などで荒れ狂い、荒み切った米軍の姿をリアルに表現している。沖縄の人々は本土からも見放され、基地に依存しながらも真実に目覚めていく。最後のコザの民衆騒乱は凄まじい。

こういった中で、沖縄古来の風習習慣、文化、信仰が生き生きと書かれ、民衆の生命力とエネルギーが表現されている。

中心人物のオンちゃんが姿を消し、残された仲間の三人が、苦しみ成長する。オンちゃんが残した子供のウタも成長する。しかし沖縄は現在に至るも変わらず、アジア最大の米軍基地として存続しているのである。

私は沖縄に二回旅をしたが、表面的には栄えていたが課題は山積している。最新鋭の基地建設をめぐって、沖縄は燃え上がり、それに引き換え日本政府の卑屈な姿はますます明らかになっている。

この新基地建設に断固として反対した前知事の本を読んだが、沖縄人の見事な戦う姿勢を知ることができた。この物語に登場する沖縄人民党党首の瀬永亀次郎の精神が、保守勢力の中にも生きているのである。オール沖縄の見事な戦いがいつまでも続くことを願って止まない。そして本土にもこの姿が実現することを心から願っている。

なお、この物語は松木さんの書評で存在を知り、やっと読むことができた。

 

  

札幌民主文学通信

二〇二一年〇五月〇一日 270号

 

 

 

 

支部の皆さんへ

緊急連絡

支部長  松木 新

通信担当 豊村一矢

 

 

コロナ禍での支部活動について

 

札幌支部の基本的な活動方針は、

・月一回に例会を行う

・例会では主として「作品合評」を行う

  でした。

 

通信の発行の目的は、

  ・支部活動報告を基本にする

  ・「投稿欄」での意見発表の場を設ける

  ・隔年で支部誌「奔流」を発行する。

でした。

 

 

コロナ禍での支部の活動方法の変更

  

・月一回の例会・「作品合評」を維持するが、集会形式の例会は今後一年間(二〇二二年六月まで)行わず、通信での紙上例会を原則とする。

  ・「支部便り」の発行は月一回を維持する。

  ・支部便りと通信は原則、同一の郵便にて支部員及び関係者に届ける。

  ・支部員は通信への投稿を通して広く意見を述べ、その交流によって支部活動に参加する。

  

 

支部誌「奔流」28号の編集発行

  

・「奔流」28号は、今年十二月発行を目途に

取り組む。

  ・作品提出者の掲載料負担が大きくなること

   など、新たな困難も予想されるが、議論を

重ねながら編集発行をめざす。

  ・六月中旬までに編集発行方針を連絡する。

                 以上

  

 

 

特別報告      

 松木 新

 

民主主義文学会第29回大会に参加しました

                            

5月15日~16日、千葉市幕張で開催された大会に参加しました。

コロナ禍のもと、今回は会場とZOOMを併用した大会でしたが、初めての試みとしては成功しました。会場参加者31名、ZOOM参加者52名、委任状144名でした。

関東圏以外からの会場参加は松木だけでした。起草委員として「大会宣言」を書くことで大会に貢献できました。

 

新しい役員体制は次の通りです。

会 長 能島龍三(新)

副会長 青木陽子(新)

    宮本阿伎(再)

事務局長 乙部宗徳(再)

『民主文学』編集長 牛久保建男(再)

 

会長だった田島一さんは病気療養中のため退任し、常任幹事として仕事をつづけます。

 

 

なお、幹事会報告案に基づく討論に参加し発言しました。

 発言要旨は次の通りです。

 

宮本百合子とアイヌ

宮本百合子没後七十年のこの年、百合子が描いたアイヌを主題にした小説について考えたい。

日本テレビ系列の朝の情報番組「スッキリ」で三月十二日、アイヌに対する差別表現があり、同局は十二日夕のニュース番組で、「アイヌの方たちを傷つける不適切な表現だった」と謝罪した。お笑い芸人の差別表現は、北海道では昔からアイヌを蔑視するために使われてきた。北海道出身のMCが、それに気づかなかったという事実が、事態の深刻さを物語っている。

二年前の四月、「アイヌを先住民族」と法律に初めて規定した「アイヌ新法」が成立した。それまでのアイヌにたいする日本政府の政策は、明治32年の「北海道旧土人保護法」であり、この法律は、97年5月に廃止された。アイヌは約100年の間、「旧土人」として差別されてきたが、日本政府からの謝罪は一切ない。アイヌにたいする差別や一部のSNS上でのヘイトスピーチが続いている根本原因は、こうした政府の姿勢にあるといってよいだろう。

今から103年前、百合子は約四ヶ月間、札幌に滞在し、〈民族的滅亡に追いこまれているアイヌ〉(「自筆年譜」)の実情を調べた。その結果、「北海道旧土人保護法」に根本原因があるのではないか、と気づいた。百合子は「北海道旧土人保護法」にきちんと目を向けた最初の作家であった。

「北海道旧土人保護法」は、アイヌにたいする限られた土地の給付と農業の強制、アイヌ小学校の新設とアイヌ教育を二本の柱にしている。明治政府は、この法律を振りかざして、アイヌ民族の尊厳を奪い、和人社会への同化と天皇制国家への忠誠を強要した。

百合子は、アイヌ研究の先駆者であるイギリス人宣教師ジョン・バチェラー宅に滞在して、アイヌ問題を学ぶとともに、バチェラーの養女である十五歳年上のバチェラー八重子と、八重子の生まれ故郷である有珠を皮切りに、白老、平取などのアイヌコタンを訪問した。その直後、百合子は二つの小説、「風に乗って来るコロポックル」と「遙かなる彼方」を執筆した。

「風に乗って来るコロポックル」では、土地問題、相続問題が主人公の懊悩の中心を占めており、「遙かなる彼方」では、皇民化教育への批判が、作品世界で精彩を放っている。アイヌを主題にしたまったく異なる手法で描かれた作品が、「北海道旧年土人保護法」の二本の柱を視野に収めているのである。

二つの作品は、ヒューマニズムや社会的正義感に立って書かれたが、同時に、これらの作品が、批判的現実主義への発展を示していることにも注目する必要がある。

 

 

 

 

5月例会誌上合評

 

合評作品

「コロナ禍前夜」

        「民主文学」4月号

       作者 細野ひとふみ

 

 

 

発言1  村瀬喜史

 「家畜人工授精師の圭人は、酪農家たちと麻雀する中で、競争を迫られる酪農経営の現実がみえてくるのだった」と目次に解説がのっていて、短くポイントとをつかんでいて、さすがと思った。書いたのは牛久保さんだろう。

 麻雀をやらないものには、この作品の臨場感など理解しにくいし、用語もむつかしい。これは民文六月の「作者と読者の会』報告でも繰り返し言われている。

 しかし『若い世代特集」に取り上げられる価値はある。次の例会に、小旅行をかねて、ウポポイを訪ね、白老牛のステーキでも食べて・・・と企画しようにも、コロナにやられて実現しそうもない。

 麻雀にもどると、あるとき父の書類を入れておくタンスの引き出しを捜したがみあたらない。それは確か菊池寛の署名入りの麻雀連盟の初段の免状があったはずだが、そのときは無かった。その血をひいているわたしのつたない麻雀とのつきいはつづいている。しかし、入れ込んだことはない。父が戦時下にもやっていたらしい。私の場合、学生寮で面子がたりないと呼び出されて加わっていたのだから、覚えていたことは確かだが、高校生のときの記憶は無く、何処で覚えたのか記憶にない。会社勤めの四年間もつきあいはあつた。しかし、掛け金をはらうのはともかく、まづしい労働者からもらうわけにはいかない。共産党の活動がいそがしくになるにつれて、遠のいていった。今は年金者組合である。これらは別の機会に書きたい。

 そこまで書いているとき、民文五月号がきて、その文芸時評に松田繁郎が書いているのを発見した。六月号には「作者と読者の会」に報告かのっている。

 

 私の希望は、どなたか『北海道の農業・酪農の現状と未来」を大河小説のように書けないか」

 私は酪農家と長く付き合ってきた。七人兄弟の長男として下2人の『ガニマタ」クル病。戦後の栄養不足からきているのは確か。母はその2人の脚を毎日マッサージしていた。食糧不足で都会から農村に逃げ出したとき、長男の私が近所の農家へ毎朝、牛乳一升ビンで買うのが仕事であった。文句を言ったおぼえはない。弟二人の脚はなおした。それが続いていて、札幌の市営住宅に引越ししたあとも、近所に残っていた馬場牧場から同じように一升ビンで牛乳をわけてもらった。第一線引退後も登山にスキーと野山を駆け巡ったが、そのときも長沼の牧場の老夫婦と一緒だった。一緒にロッキ山脈とか、スイス・フランスを滑ったのも白石にかつてあった長浜牧場の娘だった。

 北海道の酪農について大河小説のようにどなたか書けないか。

 別海の上出五郎さんらの「マイペース』酪農。高橋篤子さんの「ピンネ山麓」、矢臼別の川瀬・杉野さんらのこと。・・・『北海道酪農については、民文でもたくさん書きたい人がいるだろう。ある人にいったら「わたしは年だから」と逃げられた。若い細野さんなら挑戦できるだろう。

 

 

 

 

 

 

紙上発言2   泉恵子

最初『北海道民主文学』で読んだときは、麻雀しながら酪農のことを語っている作品という以外、内容はほとんどつかめなかった。

 三回目で漸く、酪農経営とそれを支える家畜人工授精師の在り方(生き方)を描いているらしいということが見えてきた。

 麻雀の場面は、ルールをよく知らないながら、臨場感あふれるリアルな展開に、もし専門用語を知っていたら面白いのだろうと思ったし、その他も、テンポの速い筆致に若々しさを感じ、作者の筆力を感じさせた。

 しかし、主人公東圭人の「家畜人工授精師」という仕事について、何度か細野作品でお目にかかっているので、「発情牛から注入器と腕を抜き切った」場面など大体想像できるが、初めて読む人にはよく分からないのではないだろうか。事ほど左様に、酪農経営に関する用語がやたら飛び出し、面食らった。「畜産クラスター」とか「搾乳牛の交配計画」とか、当事者には分かり切った言葉なのだろうが、酪農業という世界自体に不案内な読者には、分かりずらい表現だ。テンポの速い展開の良さを失わずに、そのあたりを読者に親切に描くのは難しいかもしれないが……

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            

 時は二〇二〇年の初めころ「寒の入り」しても、雪のない「カラしばれ」と言われる真冬。まさしく「コロナ禍前夜」頃の話。酪農家たちの「真冬の楽しみ」麻雀に付き合うことにした圭人だが、「バブリーな畜産業界」の中で、彼ら酪農家たちの昨今は先行きが見えなく、思い切った投資で「ロボット牛舎」に規模拡大したところは、一見よく見えるが莫大な負債を抱えているし、昔ながらの「つなぎ牛舎」で家族経営するところは、小規模経営というところか。個性豊かだが、格差が広がる酪農家たちとの交流の中で、「俺はあの人たちと心を通わせることができるのだろうか」と自問す圭人。

 そんな中、同僚の農協畜産課の影沼は労働組合もやり、早朝新聞配達もやっている。圭人の麻雀も「いいじゃないですか、娯楽なんだから」と大目に見てくれている。そんな魅力的な人物も点描される。

 先行き不透明な酪農業界と、そこで働く「家畜人工授精師」としての主人公の存在の、揺れ動く昨今を描いた作品、と読んだのだが?

 長編にしたらまた別の味わいもあるだろうが、短編としてのテンポの良さがこの作品の魅力かも知れない。

 

 

 

 

紙上発言3 室崎和佳子 

 正直言って、麻雀というものを全く知らない私にとっては、最初の一行目から通じない状況ではあったが、読み進めていくうちに悟った。

 つまり、麻雀そのものを描いているのではない、主題は別なのだ。だから、麻雀が分かなくて良い、ということを。

 

 私は牛乳や乳製品をあまり摂らない方だと思う。毎日牛乳を飲む習慣はないし、ヨーグルトもほとんど食さない。友人から手作りのジャムやソースをいただいた時だけヨーグルトを買い求める。

 遺伝子工学の発展で雌雄の産み分けが可能で、雌判別精液を全頭交配し始めた「歩」という酪農家が出てくる。

 遺伝子工学の発展とは遺伝子操作を自由にすることによって欲深な人間たちにとっては多くの利益をもたらす方向に向かわせるということだろうと思う。

 体に良いからという理由で牛乳や乳製品を摂っている国民の大多数の体に悪い影響を及ぼしはしないか、とても危惧する。遺伝子操作によって無理に雌を誕生させることによる弊害の大きさに畏れを抱くのである。私のこの畏れは理屈を超えたいわば皮膚に感じる畏れである。専門家は笑ってごまかすかもしれないが、素人が正しいことはこの世でたくさんある。

 

 「昔ながらのつなぎ牛舎で家族経営を維持するコージさん」の幸せそうな表情は、私には遺伝子工学の発展の対極の情景として映った。

 

 

 

 

 

紙上発言4 豊村一矢

『コロナ禍前夜』はなかなかの一品である。民主文学4月号「若い世代特集」の中でも、私見だが、抜きん出ている。主題が明確で、構成・言葉が一つ一つ、無駄なく生きている。

 『コロナ禍前夜』のコロナという言葉はタイトル以外に一つもない。最後の一行で、コンビニの新聞差しで目にしたスポーツ紙の見出し、「衝撃予測 感染爆発が五輪直撃」の「感染」という言葉で、「コロナ=主語・感染=述語」とつなげて小説は完となる。見事だ。細野ひとふみ作品が一段と深くなったのを感じる。

 小説が主題の解説書ではツマラナイ。

そういう意味で、コロナ禍での「北海道民主文学」23号、「民主文学」四・五月号。『コロナ禍前夜』、『ペトトル川』など、他にもいくつか、独自の感性による個性的な文学・作品に出会えたのは嬉しかったし刺激になった。

 この作品でも麻雀用語や専門用語が出てきた。

私は、文学に関わり始めてから、作品理解を深めるために各種の辞典をちょこちょこと買い揃えてきた。カタカナ語辞典、アイヌ語辞典、隠語辞典、反対語辞典、ことわざ辞典、年中行事辞典、差別用語辞典、風俗辞典……などなど。でも、今回、辞書のお世話にはならなかった。

もともと用語使用を含め、書き手と読み手の間では、それぞれの意図と理解に大小たくさんの齟齬が生じる事は避けられない。作者の責任でも読者の責任でもない。ごく自然なことでなかろうか。

 私的なことだが、細野ひとふみがいなかったら、私は「民主文学会」に加入していなかったどころか、今も会の存在すら知らなかった可能性がある。

私が児童文学で動き廻っていた頃、佐呂間の同人のところで何度か宿泊した。その時、同人から細野ひとふみの存在を知らされたのだ。

同人と細野ひとふみは狭い佐呂間の街の文化人として顔なじみだったらしい。直接、細野ひとふみと会うのは数年後になるが、そのとき、同人から、かれの作品が載った「奔流」を読ませてもらった。結果、「奔流」に関心を抱き、直後、民主文学会札幌支部に訪(おとな)いを入れることになったわけだ。

「奔流」22号(平成二一年発行)に細野さんの『旅行記 若い世代の文学研究集会二〇〇九in東京』が載っている。今回の民主文学4月号、北海道民主文学23号の「コロナ禍前夜」も、同研究集会の中での作品だ。文学への真摯な姿勢に感動し、みならわなくてはと心から思った。

 

 

 

 

紙上発言5 泉脩

細野さんは酪農について、多くの作品を書いてきた。生々しい描写が多く、とても迫力がある。

 今回の「コロナ禍前夜」は、酪農家たちがマージャンをしながら、日頃の疲れをいやし、困難な仕事に挑む気力を回復しようとしている。一種の職場マージャンである。そしてその合間に現在の酪農の問題を次々と上げて、読む人の認識を深めている。

 外国の安価な酪農製品の輸出攻勢に直面して、酪農の大規模化、機械化、あるいは遺伝子学の応用など、酪農家の努力と苦労は計り知れない。ほとんど休みをとれない毎日であり、経営の安定には程遠い。

 主人公の人工受精師は、この中にあって、重要な役割を果たしていることもよく解かる。作者自身の経験に基づいたリアルな表現が多く、とても説得力がある。まだ若い作家のたゆまぬ努力の結果であり、とても腕を上げている。

短いながら、引き締まった好短篇だと思う。

なおマージャンは、あらゆるゲームの中でもっとも変化に富んだおもしろいゲームであり、人間の性格や心理が充分に反映するものである。酪農もゲームのようなところがあり、運・不運が付きまとうところが似ている。ツキという人智を超えた要素が大きく影響し、その上で最後は人間の精神力が決め手になる。酪農も同じなのかも知れない。

日本の民主主義文学の若手のホープの一人として、今後もよい作品を書いてもらいたい。

 

 

 

 

紙上発言6 松木新

多喜二的発想――徹マンはエネルギーの源泉

小説は言葉の芸術であり、細部のリアリティが何よりも要求されています。「コロナ禍前夜」では、龍平のやねうら部屋で卓をかこんでいる四人の体臭を直に感じるほどに、麻雀の場面がリアルに描かれています。

作中、麻雀は〈いいんじゃない、娯楽なんだから〉という影沼の発言があります。〈圭人と麻雀を擁護するワンフレーズ〉です。畜産業という過酷な労働のなかで、〈娯楽〉を重視する細野さんの着眼点は、多喜二のそれに通ずるものがあります。

多喜二の場合は麻雀ではなく「雑談」でした。手塚英孝『小林多喜二』には、多喜二が三〇分もの雑談に大きな喜びを覚えていたと書かれています。

〈雑談とはなにか。特定の目的をもうけず、ことばを交わすことだ。その過程で自己と相手についてなにかを認識したり、あることがらについて情報を得たり、理解を深めたりすることはあるだろうが、なによりもことばを交わす(・・・)ことだ〉(ノーマ・フィールド『小林多喜二――21世紀にどう読むか』)

多喜二にとって〈なによりもことばを交わす(・・・)こと〉である雑談は、緊張を強いられている日々の活動の原動力でした。

細野さんはこの作品で麻雀は、〈自己と相手についてなにかを認識したり〉、畜産についての〈情報を得たり、理解を深めたりする〉場であること、そして、過酷な日常の労働の原動力になっていることを、描いています。徹マンのあとわずかな仮眠をとって、メンバーは仕事に向かいますが、その原動力が〈娯楽〉=麻雀です。この着眼点は、多喜二的といってよいと思います。

しかも、彼らの仕事の一つひとつの特徴が、短い行数であるにもかかわらず的確に描出されており、〈オリンピック推し〉で〈バブリー〉な畜産業界の現実を鋭く衝いています。細野さんの筆力がさらに上がったなと感心しました。

注文をひとつ。

作品の最後に、早朝、影沼がジープに乗って新聞を配っている姿を圭人が目撃し、〈詮索はしまいと思った〉という場面があります。これは、『民主文学』の読者を相手にした書き方です。〈新聞〉が一般紙ならば、この〈詮索はしまいと思った〉という表現は無意味だからです。

小説は読者を得てはじめて意味を持ちます。どんなにすぐれた作品でも、読む人がいなければただの紙くずにすぎません。その場合、作者の側が読者を限定することは良くないと思います。『民主文学』の読者というように、限定した読者を対象に作品を書くのは、「この程度のことは理解してくれるだろう」という安易な発想に、作者が陥ってしまうからです。

『民主文学』の作品に、時々見かける弱点ですので、お互いに気をつけたいものです。

 

 

 

 

紙上発言7 村松祝子

文章の三分の二が麻雀ゲームの進行とともに描かれているので麻雀を理解していない者には解りづらいところもあったが、最近の三〇代、四〇代の働き盛りの若者の生き生きした会話と生活に接する思いがした。 

 

酪農で働く四人の若者が徹夜マージャンをして翌日三、四時間仮眠をしてそれぞれの職場に戻っていく。

主人公は東圭人、家畜人工授精師という仕事をして各酪農家を回っている。 

ゲームをしながら一人一人の投げる牌と発する言葉に四人の性格を表しているのは面白いと思った。   

ロボット牛舎へ規模を拡大したカヅキさんは億単位の負債に転ばぬようにとおののいている。という箇所は高橋篤子さんの民文五月号(二〇二一年度)の掲載された「ペトルル川」の中で主人公晶子の夫、牧場主が自殺した事件を連想された。

それほどに酪農経営は厳しさを抱えていることが想像される。

経営の落差とともに職種の格差が広がっていっている現状は貧富の拡大につながって行く。 

そんな中でマージャンをしながら主人公は皆と心を通わせたいと望んでいる。

なぜ主人公はそういう思いを抱いているのだろうか?

そこがこの作品の主題なのだろうか?

 

家族経営を維持するコージさんは、正月に二歳の子供を連れて実家に帰省した奥さんが、帰宅するのは当り前のことであるのに「心から嬉しそうであった」の文章はささやかな経営をしている庶民の小さな幸せを描いていて、良い文章だと思う。

酪農経営の不安定さの中で悩みながら働いている若者たちの生活を逞しく描かれていて骨太の作品だと思います。

 

 

 

 

紙上発言8 柏原

麻雀がわからない。卓を囲む四人の人柄とそのくらしや仕事の様子が麻雀とからみあって表現されているのでしょうが、わからず残念です。

 厳しい冬の北海道で酪農を営む人々、それを補佐する農協や家畜保健組合、酪農ヘルパーなどによって酪農地帯が成り立っているのがよくわかった。そこに、じわじわと格差が広がってきている。人間の社会はどんどん変化していく。それについてゆけないと生きていけないのか?資本主義の論理が大企業や大都会で進んでいるが、そこから遠い畜産農家まで広がってきているのでしょう。

 乳牛の雄雌の産み分けができるようになった。これはすごいことであるが、人間もそのうちオスメスの産みわけがなされ、健康優良児でないと抹殺されるのではないかと心配になった。

いま私たちはコロナ禍で当たり前の生活ができなくなってしまった。これは考えてもみなかったことだ。それは、地球上で心配されている食糧危機を思い起こさせる。気候変動もあり世界中に飢餓が広がりつつある。日本は自給率38%である。世界中に食糧危機が起こったとき輸入に頼っている日本はどうなるのだろうか?戦中戦後を生き抜いてきた親たちの世代は戦争の悲惨さをひもじさでも教えてくれた。それがまさか来ることはないだろう。

私は今、家庭菜園で野菜作りに取り組んでいるが、あと米を作り、鶏を飼ったら自給自足できて生き延びられると自己中心的に考えています(笑)

北海道の厳しい自然の中で、農業を維持し発展させてきた農業人に敬意を表し感謝します。これからもぜひ頑張ってほしい。

 

 

 

 

紙上発言9  北野あかり

 私の冷蔵庫の中には必ずある乳製品。スーパーに行くと乳製品コーナーに並べられている牛乳・ヨーグルト・チーズ、その種類の多さに驚いてしまう。

 今回の作品は、その生産者たちの実態が描かれており、「基盤強化」や「国際競争」と煽られて生乳増産に仕向けられた、雌雄の産み分けやロボット牛舎の存在も知り、「負債は億単位…何かったらバンザイしなければならない」との言葉には何とかしなければならないと思いました。改めて手元の牛乳パックを見て製造者・製造所を探し作品のモデルとなった道東のものを捜したのですが見つかりませんでした。コロナ禍、どうしているか心配になります。

 やねうら部屋での麻雀では、酪農家たち様子がリアルに描かれ、それぞれの人間の捉え方が一面的でなく素晴らしく大事なことだと思いました。

 冒頭の「ツモルたび、あるいは牌を捨てるたび、一人ずつ言葉が漏れる。漏れる?それは思考のリズムであり、駆け引きであり、愉悦なのだろう」を読んだ時、思い浮かんだのが、新聞記者らとの賭け麻雀で辞任した刑事告発され辞職した前東京高検検事長黒川弘務のことです。この人の麻雀がやねうら部屋の酪農家たち麻雀と同じはずがありません。

 その土地に根ざして頑張る若者たちに未来を感じました。

 

 

 

 

紙上発言10 浅野勝圀

 オホーツクからこの国の政治を撃つ

 作品のタイトルから、敗戦の年を舞台にした加藤周一、井上光晴の作品を連想し、その衝撃的な結末を思い出した。

 『コロナ禍前夜』は、作品同様、ぼくらが生きる現在に迫る意欲作だと感じた。それにしても、もうベテランだと思っていた細野さんが、まだ「若い世代」だったのはちょっとした驚きだった。

 

 作品の核にあるのは、四四ページ下段の終り近く(俺は、あの人たちと心通わせることができるだろうか?……何か勘違いをしていないか?)と揺れる語り手の真面目な自身への問いかけである。

 「俺」は(アズマセンセイ)こと家畜人工受精師の(アズマ)圭人であり、「あの人たち」は、三年来圭人とともに徹夜の麻雀を楽しむ四十前後の酪農家達である。

圭人が歩に八千点の満貫を振り込む場面の生き生きした描写からは、圭人が「あの人たちと心通わせているイメージが浮かびあがる。

 熱いたたかいを終え「おつかれさま」と挨拶して散って行く3人の描写も心に残る。部屋を提供した龍平は「そのまま部屋で仮眠して二時間後には給餌と搾乳を始めるだろう」、「歩はこの後三時間も経たぬうちに仕事を始める。両親が揃って病院に通う日で、搾乳の後は牧場の作業の全てを一人でするのだ」、直幸は酪農ヘルパーとして仕事先の牧場へ直行するのだろうか。車の中で少し寝るというのだ」

 点在する対照的な二人の描写も、オホーツクの地の酪農家の現実をよく伝えている。

 スポーツ紙一面の見出し「衝撃予測 コロナ感染場億発が五輪直撃」を引用する幕切れは、現在も有効な政治の告発たりえている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

投稿欄

 

 

 

人との出会い 特別編 (おな)い年⑤ 

                 

泉 脩

 

青春の友ふたたび 

「人との出会い(その一)」で書いた山科俊郎君について、また書きたくなった。私のもっとも古い青春時代の友である。

学校に入ると、同い年ばかりである。東京時代の同窓生とは、まったく交友がなく、疎開した道南の森町の小学校で、四~五年を共に過ごした山科君が親友になった。

共に医師の子供であり、学力も同じ位で趣味も似ていた。

高校一年に再会し三年間同じクラスで過ごし、大学でも私の修士卒業まで同じキャンバスで過ごした。私の家にもよく遊びに来て、徹夜マージャンをした。道内外の二人旅もよくやった。気心を知っているので、楽しく多感な青春時代を共に過ごしたのである。

しかし、彼は工学部、私は文学部と分かれ、彼は学者になり、私は私立高校の教師になった。ただ私の妻春美と彼の妻、紀子夫人は仲が良く、家族ぐるみの付き合いが続いた。

彼は北大の名物教授になった。車のスパイクタイヤによる粉塵公害を告発し、使用反対の大運動を起し、ついにスパイクタイヤを禁止させた。おかげで札幌は街の美しさを取り戻した。

続いて文化都市札幌にふさわしいクラシックホール建設運動に取り掛かり、キタラホールを実現した。今ではオペラホールまで出来ている。彼は北海道と札幌を心から愛していたのである。

二〇〇五年、山科君はガンで亡くなった。七〇代に入ってすぐだった。長身で頑健な彼が、第二の人生を迎えて間もなく急死するとは。私は、ぼう然としてしまった。

荒れた学校で、激しい組合運動、そして政治活動で必死に生きてきた私が、彼より更に十五年も生き延びるとは、人の運命とはわからないものである。

山科君に続いて、片桐・小林と北大教授の友人が次々と逝った。学者とは集中的に努力し、管理

職の苦労が続き、短命なのだろうかと、私はつくづくと考えてしまった。それに引き換え、私が長生きするのはどうしてだろうか。

ともかく山科君とは、よく遊び、よく学び、かけがえのない青春の友として過ごした。何かいさかいをしたという憶えはない。途中からは大人の付き合いになったが、それでも社会的、政治的には同じ方向を向いていたと思う。二人とも戦後の民主教育を受け、平和で文化的で、生きやすい日本を目指すという理想では一致しているのである。

二度と戦争と軍国主義には戻りたくないのである。

昭和十九年十二月、空襲の激しくなった東京から森町に来た時、海産物を始め食べ物が多いことにうれしくなり、学校では山科、松林、中川といった友人ができてうれしかった。そして、近くの山でスキーを楽しみ、夏になると海と川で遊んだ。

戦争が終ると食糧難とインフレ、そしてペストと天然痘の流行に苦しみ、翌年の二月には父を天然痘で失った。

こういった私の人生の激変を、山科君と共に味わったのである。そして札幌での交友―私たちは、かけがえのない友だったのだ。できることならば、静かな老年をゆっくりと二人で味わいたかったと思う。返す返すも残念なことである。

 

 

 

進藤良次

「『変革』へのたたかいの詩(うた)」

       たたかいの生涯を振り返る

 

                 泉 脩

 

年齢八十三歳、日本共産党歴六十二年、わたしのたたかいの手記―という長いサブタイトルの自叙伝である。

 

太平洋に面する幌泉村(現在はえりも町に入っている)で、進藤さんは昭和十二年生れ。父は漁師だった。兄一人と、弟・妹の四人きょうだいで、進藤さんが三歳の時、母が亡くなった。

 昆布採りが中心だったが、村の掟として、片親になると昆布を採る権利が失われる。労働力の不足からである。父はこの後、普通の漁で細々と過ごした。

 進藤さんは中学卒業後に浦河高校に入り、寮生活をした。浜言葉を直したくて弁論部に入った。学校の慣例を破って、一年生の生徒会長を当選させ、自分は副会長になった。三年生になって、また慣例を破って生徒会長を当選させ、自分もまた副会長になった。そして、学校祭をまったく新しくして成功させた。弁論部長としては、進学中心の学校の在り方を批判したりした。

 卒業式の後、父に大学進学を願い出て、二期校の学芸大函館分校を受け、二類(二年制)に合格した。この前後、自宅に戻り、父のホッキ漁を手伝った。小舟で沖に出て、重いマンガンを海に投げ入れ、マンガンに付けた網をロクロで巻き上げ、ホッキを採るのである。

 重労働であり、父一人ではキツイ仕事である。しかし父は、長男を中卒で札幌に就職させ、今度は次男を大学に進学させたのである。進藤さんは別の短篇で、この頃の父の心境を思いやる描写をしている。

 進藤さんは、学芸大学函館分校に入学すると、すぐ自治会の幹事になった。そして、原水爆禁止のデモに出るようになった。先頭で自治会の旗を持つのである。二年からは財政係になって、自治会費の徴収と各クラブの活動費の支出をした。前任が使い込みをしたので、彼が信用されて選ばれたのである。

 一学期が終ると父から手紙が来て、退学するように―と書かれていた。仕送りが難しいらしい。そこで彼は夏休みは帰省せず、アルバイトに打ち込んだ。そして、この後は奨学金とアルバイトですべての学費をまかなった。勉学にも努めたが、英語が苦手で、やっと単位をとった。二年目の最後の三ヶ月、教育実習に出て、子供たちと楽しく過し、好成績を上げることができた。

 就職は日高の静内町立高静小学校で、生徒数一三〇〇人、教員三十五人のマンモス校だった。当時、北海道は社会党道政で、北教組が社会党一党支持を押し付けていた。進藤さんは疑問を持つようになり、共産党員の教師と組んで、活動するようになった。町内のボスが支配するPТAの民主化を進め、新しいPТAは給食実施やプール設置を実現した。地域父母懇談会を実施し、父母の声を聞いた。学級便りと学年便りを全員出すようにして、西洋紙が不足すると、町に予算を三倍化させた。校内で進んだ教育書の輪読会を続けた。

 この中で進藤さんは日本共産党に入り、三人の細胞(支部)を作り、進藤さんは公然と活動した。教師の家庭訪問をして、十名あまりに赤旗日曜版をとってもらった。選挙資金(社会党)の天引に反抗して共感を集めた。日高は社会党が強く、校長が北教組の支部長になり、一党支持をごり押ししていたのである。

 昭和四十一年、二十八歳で結婚した。二歳年上の姉さん女房だった。学校では社会党一党支持の締め付けが厳しく、カンパ、支持拡大から投票まで、北教組の決定が押し付けられた。進藤さんは断固として反対し、時には孤立した。思想信条の自由という、日本国憲法が頼りだった。

 六年間の担任を経て卒業生を出し、一年担任を希望したら六年生担任を頼まれた。五年の担任が自信を失ったためである。生徒の学力が低く、そこで社会科の「世界の国々」で工夫をした。世界白地図を大量に買い、生徒に自由に使わせた。最後にテストをして、国名と首都を一ヶ国書くと、一点を与えた。最高点は一七四点で、最低でも三十点あまりだった。これはすごいことである。

私の経験では、高校生になっても日本しか入らない生徒がいたのだ。せいぜい数ヶ国止まりが多かった。

一教科で自信が付くと他の教科も向上する。このクラスの卒業生から後に北大にストレートで合格した生徒が出たという。

昭和四十二年(二十九歳)に退職し、日本共産党の専従になった。空白の静内町議選への立候補を頼まれたからである。妻には事後報告で反対され、漁師を辞めて札幌に移っていた父には勘当された。「一人くらい変わり者がいてもいいだろう」と叔父一人が許してくれた。

静内町議には上位で当選し、すぐにやったことは学級運営費の新設だった。担任の自腹をさせないためである。町長や町管理職の不正を追及した。

昭和四十六年には町長選に立候補し、過去の千票を四千票以上に伸ばした。この後は共産党専従として、日高・胆振管内で活動した。自動二輪では追い付かなくなると、自動車の免許を取ることにした。父や妹らが十六万円カンパしてくれて、兄が中古の自動車をくれた。

平取と虻田の町議を初当選させ、虻田の火力発電所建設に反対し、忙しくたたかい続けた。そのため慢性肝炎になり半年入院し、苫小牧から静内に戻った。

昭和五十四年(四十二歳)、再び静内町議選に立候補し二位で当選し、今後三十一年間続くのである。共産党町議の人数はやがて二人になり、遂には三人になるが、時には落選した。しかし、進藤さんは一度も落選しなかった。二千回もの生活相談のおかげだろう―と書いている。

町議になった年、進藤さんは党専従を辞め、社会保険労務士と行政書士の試験を受け、四カ月間、毎日十二時間勉強して合格した。そして静内に事務所を開設し、順調に軌道にのった。共産党だから信用できると考えられたのである。

二回目の静内町議三十一年間については、詳しくは書かれていない。ただ、暴力団の親分が静内にホテルを建設する企みを、寸前で阻止したことを書いている。

家庭では三女に恵まれたが、後に夫人に先立たれている。社会保険労務士と行政書士は、六十八歳で辞め、町議も八期三十一年で引退した。

平成八年に日本民主主義文学会に加入し、日高、胆振支部で活動する。全国誌「民主文学」に二年前、短篇小説が載る。

以上がこの本の、おおよその内容である。この本を一貫して貫いているのは、いさぎよいたたかいの精神である。

貧しい漁師の次男として生れ、三歳で母を失い、家業を手伝いながらも向上心に燃えて高校、大学に進み、地元の日高で九年近く小学校の教師を勤めた。教育でも組合でも改革に努め、二十一歳で日本共産党に入党して公然と活動した。そして、要請に応えて静内町議になり、町長選にも出た後は専従となり、やがて町議に戻るのである。

自分を必要とする声に応え、損得を顧みない。多くの難関を突破して、新天地を切り開いていく。

読み進むにつれて、ぐんぐんと惹き付けられる胸が透くような本である。決して流麗な文章ではないが、内容にふさわしいダイナミックな文章である。

私自身の生涯と重なるところが多く、子供の時に片親になり貧しい生活を送り、それでも向上心は失わなかった。大学では奨学金とアルバイトで過ごした。

教師になり組合活動に打ち込んだ。科学的社会主義を信奉して政治活動に取り組んだ。ただ、議員にはならず、教師以外の職業には就かなかった。

なにより嬉しいのは、ほぼ同じ頃に日本民主主義文学会に加わったことである。研究会で何度かお会いし、進藤さんの作品を五~六篇は読ませてもらった。ほとんどが漁業について書いていて、私は初めて漁業について知ることができた。コンブ、ハタハタ、アブラコ、ホッキなどの漁である。

今度の本の最後に、「漁」という短篇が載っていて、中学二年の兄と小学六年の弟が父の小舟に乗って、遥か沖の定置網を引き揚げる物語である。カレイ捕りの網に鮭が三十二匹も掛かって、親子三人で大喜びする。しかし天候が変わって、強風と大波のなか、

かろうじて陸(おか)にたどり着くのである。労働の厳しさと喜びがリアルに生き生きと書かれ、息をのんで読み終えた。おそらく日本中でも珍しい漁業の物語であり書き手である。

進藤さんは現在(二〇二〇年)、八三歳である。私より若いのだから、まだまだ作品を書いてほしい。そして、ぜひとも短編集を出してほしいと思う。

北海道にはすぐれた書き手が多く、年々腕を上げている。それも漁業、酪農など第一次産業をはじめ、多彩な内容であり、とても貴重であり学ぶところが多い。高齢化のため次々と亡くなる方が続いているが、新しい書き手も現れている。

私は評論が中心で、しかも八〇代後半の高齢である。進藤さんが後書きで力強く書いているように、私も日本の変革を目指して最後まで力を尽くしていきたい。共にがんばりましょう。よい本を読ませてもらって心からお礼を述べ、拍手を送りたい。

 

 

 

 

 

 

 

植民地主義の呪縛

後藤守彦

 

 侵略国・敗戦国日本の戦勝国による占領の終結、主権の回復が約束されたのは、今から七〇年前のことであった。沖縄の軍事占領は継続されることになったのだが。その約束が、一九五一(昭和二六)年九月に結ばれたサンフランシスコ平和条約である。アメリカとソ連の対立を基軸とする冷戦構造のもとで、戦争の終結と平和の回復を確認する講和会議が、五二か国の参加によりサンフランシスコで開かれた。日本をパートナーにしようとするアメリカの思惑が働いた講和となった。招かれたが参加しなかったのがインドなど三か国、参加したものの調印しなかったのがソ連など三か国あったが、何よりも問題なのは、日本が侵略した中国・朝鮮が招かれなかったことである。日本政府は朝鮮の参加については強硬に反対した。

 前年六月から朝鮮戦争が始まっていた。研究の進展で現在は、この戦争が北朝鮮軍による韓国への軍事侵攻で開幕したことが明らかになっている。韓国を支援する「国連軍」(国連憲章の定めた国連軍ではなく、一六国からなる多国籍軍でアメリカが中心)、北朝鮮を支援する中国義勇軍も参戦し、一九五三(昭和二八)年七月、停戦協定で休戦となるまで三年間続いた。休戦は準戦時状態で一時的に停戦しているに過ぎない。サンフランシスコ講和会議が開かれている時は、戦線が膠着し、三八度線付近で南北両軍が一進一退の状況であった。一九五一年七月には休戦交渉も始まっていたが、さらに戦闘が二年続いたわけである。

 朝鮮戦争は、「民族の悲劇」といわれる。死者は北朝鮮二五〇万人、韓国一五〇万人、離散家族は一〇〇〇万人となった。南北分断の基底的責任を負うべき、朝鮮を植民地支配した日本の、一五年にわたるアジア・太平洋戦争での戦死者数三一〇万人と較べると愕然とする。広島・長崎に続いて朝鮮半島や中国に原爆が投下される可能性もあった。アメリカ政府は、原爆使用を検討し、嘉手納基地に原爆が用意された。「国連軍」の司令官マッカーサーも原爆使用を政府に上申している。

朝鮮戦争の真実を描いた小説に、韓国の最高の作家といわれる黄晳暎〈ファンソギョン〉の『客人』(岩波書店、二〇〇四年)がある。黄には朝鮮戦争をテーマにした家族史的小説として中編小説『韓氏年代記』があるが、長編の『客人』は聞き取りをした柳牧師を実名で主人公として登場させ、生者のみならず亡者も舞台に立たせて、ある虐殺事件を追っている。舞台は、三八度線のすぐ北にある黄海道の信川〈シンチョン〉。そこには、「米帝良民虐殺記念博物館」があり、黄も訪れている。北朝鮮はアメリカ軍の仕業と説明しているが、親米反共のクリスチャンの青年を中心とする右翼勢力による住民虐殺であった。アメリカ軍による住民虐殺事件は老斥里〈ノグンニ〉事件などがあったが、黄が抉ったのは、朝鮮人が引き起こした惨劇である。黄は「解放後、わが国を舞台として格闘を演じ、我われに大きな傷あとを残したキリスト教とマルクス主義」と明言し、「冷戦時代の傷を負ったまま虚空をさまよっている亡霊たちを慰め、生者と亡者との最終的な和解を夢みながら、私はこの一編の作品を書き上げた」と述懐している。その思いが、一編の詩のみで構成されている最後の第一二章「締めの歌」に凝縮されている。その最終連は「恨みはあろう悲しくもあろう/しかし今はもう/怨みも悲しみもすべて忘れ/安らかに心おきなく/あの世の方へ/去られ給え、旅立ち給え」と謳われている。

朝鮮戦争と日本との関係はどうだったろうか。日本はアメリカ軍の出撃基地となり、横

田・嘉手納基地から飛び立ったB29が北朝鮮を空爆し、板付基地などから戦闘機が飛んで行った。一九七八年まで詳細が秘匿されていたが、海上保安庁が極秘裏に編成した特別掃海部隊が機雷除去などにあたり死者を出している。戦死した日本人がいたのである。「逆コース」といわれる占領政策の転換がすすめられ、日本を「極東の工場・反共の防壁」とする動きが加速し、一九五〇(昭和二五)年には警察予備隊が創設され、再軍備が行われた。同年には、公職追放が解除され、戦犯も釈放された。日本の戦争犯罪を裁いた極東国際軍事裁判では、植民地支配責任は問われていない。

 経済面では特需景気といわれる好景気となった。アメリカ軍の補給基地ともなり、ポツダム宣言で禁止された兵器・弾薬の製造や戦車などの兵器の修理も行われている。戦後の不況から脱出し、一九五一年には、鉱工業生産が戦前水準に回復した。朝鮮民族の苦しみをよそに、吉田首相は、厚顔無恥にも朝鮮戦争は日本にとって「天祐神助」と述べたのである。朝鮮史研究者の和田春樹はいう。

 

朝鮮戦争の過程で、韓国に対しても、朝鮮民族に対しても同情心というものが発揮

されることはなかったことは致命的である。たしかに台湾や韓国に対する同情、連帯を示せば、反共軍事同盟への方向性をもたざるをえなかったことはたしかであり、日本政府と国民にはそこから逃げる気持ちが強かったことはたしかである。しかし、ここから否応なしに、日本国民にとっては、自分たちだけが平和であればよいという意識、地域の運命に対する無関心、地域主義の否定が強まったのである。それは横田基地からB29が飛び立って北朝鮮を最後まで空襲、空爆したことに気づかずに終る精神の構造であった。(『朝鮮戦争全史』岩波書店、二〇〇二年)

 

和田の指摘は現在も生きている。自分だけ、ここだけ、今だけが良ければいいとし、隣国の苦しみを知ろうともしない、そうした姿勢は今も変わらない。日本が朝鮮を植民地支配した事実を忘れ、無かったことにしている。日本近代史の研究者の加藤圭木が、「日本の根本的な問題として天皇制と植民地主義がある」(「問われているのは日本の植民地支配への反省」『日韓の歴史問題をどう読み解くか』、新日本出版社、二〇二〇年)と強調しているように、植民地支配を正当化するイデオロギーとしての植民地主義に依然としてとらわれているのではないか。その核心として、日本の歴史、特に明治以降の近現代史の歩みの中で醸成された、朝鮮への差別・蔑視意識が存在する。

平和憲法といわれる日本国憲法だが、「日本が現行憲法を採択した理由の一つとして植民地主義に対する真摯な反省があったとはいいがたい」(寺田俊郎『どうすれば戦争はなくなるのかーカント「永遠平和のために」を読み直す』現代書館、二〇一九年)し、植民地主義への言及もない。日本の戦後民主主義は植民地主義が清算されないまま成立し、今日に至っているのである。改めて植民地支配責任を問うことの意義を考えてみたい。

 

  植民地支配の記憶こそは、戦争の思い出し方の足場になるに違いない。(中略)植民地支配を思い出し、強制の記憶を呼び覚ますとは、どういう思考の動きだろうか。そのための戦争の思い出し方は、自己中心を脱して、他者を招き寄せねばならない。

友人・親族といった身近な親しい者たちの圏域を抜け出て、見知らぬ社会や世界、歴史と広がっていかなければ、他者には出会えない。(酒井智永『忘却された支配ー日本のな

かの植民地朝鮮』岩波書店、二〇一六年)

 

日本人の反戦意識・人権意識が本物かどうかは、植民地支配責任を認識するかどうかで試される。さらにいうならば、日本人のものの見方・考え方や心が豊かであるかどうかは、隣人を思いやることができるか、他者との間に橋を架けることができるかどうかで試される。

ここで脱稿しようとしたところで、架橋という営みを真摯に続けている人たちを知った。『北海道新聞』四月二五日号の書評欄に、日本軍「慰安婦」の裁判闘争を支援した花房俊雄・恵美子夫妻が上梓した『関釜裁判がめざしたものー韓国のおばあさんたちに寄り添って』(白澤社、二〇二一年)が紹介されていたのである。花房俊雄さんは私が学んだ大学の上級生で、紙上ではあるが、半世紀ぶりの再会となった。セツルメント活動を軸に学生運動に熱心に取り組んでいた。早速購入し読了したが、志を持続させている姿に胸が熱くなった。二八年間、サブタイトルにあるように、年老いた被害者たちに寄り添い続けた。裁判のため来日した被害者たちを福岡の自宅に泊め、家族同様に接する。そして、「被害者たちが一番望んでいるのは、加害者である日本政府が、あるいは日本人が本気に向き合って、自分たちの痛みを理解しようとすることであること」を痛感し、被害者を再び傷つけ、二次被害を加えようとする歴史修正主義者と闘う。そうした花房夫妻の行いは、植民地主義を克服した真摯な実践である。

 

 

札幌民主文学通信

二〇二一年〇四月〇一日 269号

 

 

目次               ページ

四月例会合評報告                1

レポート               豊村一矢 1

   合評で出された感想と意見          2

     追加意見1              泉脩 3

     追加意見2           村瀬喜史 3

     追加意見3             松木新 4

     合評を受けて1            泉脩 5

     合評を受けて2       北野あかり 5

 

投稿欄                         6

私がロクさんに託したもの   高橋篤子 

人との出会い 特別編 同い年⑤  泉脩  7

小川洋子『密やかな結晶』の魅力 松木新 8

『ペトトル川』の作者への手紙 後藤守彦  9

想い出のうた「花」を再び   北野あかり11

書評 進藤良次『リキ」』       泉脩 11

多動性児童との取り組み

 

    

 

四月例会合評告 

 

 

合評作品     

 

筆者     高橋篤子

作品

『ペトトル川

…チマイベツ川支流…』

          「北海道民主文学23号」

 

レポーター 豊村一矢

 

レポート

 

一.読して感じたこと

➀『ガレ場の蝶』に似ている。

➁ 作者の気迫に圧倒される。

 

二.優れた表現力に創作力に感服する。

➀より適切な、用語と文章表現により独特の「高橋篤子の作品世界」を紡いだ。

➁困難や悲しみを抱えながらも、励まし合い支え合いながら進む人間像も「高橋篤子の作品世界」だった。

 

三.充分には納得できなかったところ

※通信259号の『ガレ場の蝶』紙上合評で、作者は、作者に届いた批判意見も紹介してくれた。その中の二点、

   

○見田さん「色々描き過ぎていて振り回

されてテーマにたどり着けない」

 

○京都の友人「真面目すぎて詰まらない。読者はこういう完璧な人間像でなく、弱さや破綻をどう乗り切るか藻掻く人間像にこそ惹きつかられるのではないか。

これらの指摘は本作品でも重要なところで当てはまる。

 

 ※1 かんな「私には父さんが居なかったからロクさんが父さんのような存在だったかな」 晶子「父さんは父さん。……ロクさんはロクさんだよ」

    かんな三歳で、父、死亡。その数年後からロクさんとのつながりが始まる。かんなの思いになんの矛盾もない。ロクさんはロクさんだよ、の方に矛盾がある。

 

※2 ロクさんの祖国・朝鮮への思いはどの程度のものなのか。調理師免許試験のためには家族と離れても朝鮮に還らない程度のものなか。飛び去った凧が祖国に辿り着く、放流した稚魚が祖国を見ただろうか、などの場面、言葉と矛盾しないか。

 

※3 P237 ロクさんは…唐突にも晶子の頬を両手で挟んだ。……やさしい時間が流れて行く。……予想もしなかった悲痛が吹き抜けた。魚影は消えていた。…夫は新しい愛に生きよと晶子を励ました。

…夢の中の夫はいまもその音と臭いの中にいる。 

   「夢の中の夫はいまもその音と臭いの中にいる」に落ち着かせるなら、この一節はない方がいい。これでは作品・小説の説得力、リアリテイが不足する。

 

※4 突然、最後半、核兵器禁止条約や批准をめぐる問題が書かれ、ロクさんが将来への希望を語る。

    この部分は安易に思える。ロクさんがここに至るプロセスが書かれなければ、やはり、説得力に欠ける。

 

※5 最後の一文。  ……ロクさんがオモニと言ったのはこのときだけだった。

    この締めは、どういうことだろう。どういう意味だろう。とても、大事な一文になると思えるが……。

「このとき」とはいつなのか。誤読かもしれないが、この場面を作品の中で見つけられなかったので、詩的な情感に流された表現のようにも思えた。

 

 

 

 

合評で出された感想・意見

 

※例会当日、「民主文学」5月号が届いた。5月号には合評作品「ペトトル川」が掲載されており、合評では「民主文学」で、どのような校正・校閲がなされたかも話題になった。

 

◎レポートにもある豊かな表現力、筆力を評価す

 る感想や意見が多く出された。

◎自然描写に臨場感が漂う。

◎用語も繊細で心理描写だけでなく料理の描写で 

 は臭いや湯気を感じるほどだ。

◎詩人でもある筆者の感性が生きて独特の作品世

界になっている。

◎晶子の視点で書かれている。その晶子の人生とロクさんの人生が絡む創作方法が成功しているか、微妙だ。晶子と作者を区別しないで読んだ瞬間があった。

◎最後半に「核兵器禁止条約」のことが書かれた是非については賛否両論あった。

 ・作者はどうしても書きたかったことなのだ。

 ・この作品の最大の欠点だ。

◎作品の主題が分らなかった。

◎文章の事実認識、歴史認識に、一部、誤りがある。「民主文学」5月号でも正されていない。

 ▽ 本「通信」の「投稿欄」の「『ペトトル川』 

  の作者への手紙」を参照。

 

 

 

 追加意見1

紙上で合評に参加します     泉 脩

 

 高橋篤子さんの「ペトトル川」が何を書こうとしたのか―という疑問に、結論は出ませんでした。そして私なりに考えました。

 

 人にとって、命と愛と志(こころざし)がもっとも大切だと思います。志とは、自分の力・能力・才能を生かし、成長の中で身につけた趣味・信念・信条・思想をもとに、何かを成し遂げることです。男も女も同じです。

 この志は人によって違いますが、時には志が一致して協力して同志になります。男と女の間では、愛と志が一致して生涯の伴侶になれたら良いのですが、中年を過ぎるとなかなかこうは行きません。理性がはたらいて愛の情熱を抑えるからです。

 ロクさんと晶子は一時抱き合い、結ばれ掛けますが思いとどまります。二人は、最初はよき隣人として助け合い、カンナを巣立たせます。その後二人は核兵器禁止条約の成立を目指して力を合せます。

 二人がなぜ核兵器禁止を目指すようになったのか、充分な説明が無かったので説得力に欠けます。これは作者の決意であり、現実に人類の死活の大問題であり、このような飛躍は許されると思います。

 志は人々に有益であれば、それも全人類の生死にかかわる大問題の解決を目指すのであれば、充分に尊重されなければなりません。

 作者はこれまでもすべての作品で、志を目指す人々を書いてきました。これは作者自身の生き方であり、作品の調和・バランスを失っても表現してきたのです。

 この作品は、このような作者の小説作法の集大成のような気がします。それは民主主義文学の典型なのではないでしょうか。

 人は同性であれ異性であれ、相互の理解と信頼と尊敬のもと、大きな志のために協力し合うことは、とても大切なことではないだろうか。

 この作品は、このことを表現していると思います。

   ※この「紙上で合評に参加します」の追加

意見に対し、「ペトトル川」の筆者、高橋篤子さんから、「私がロクさんに託したもの」という文書が寄せられました。本通信の「投稿欄」に掲載します。

(通信担当・記)

 

 

 

 

 追加意見2

 紙上で合評に参加します    村瀬喜史

 

読みやすい、自然とそこに生きる人間の生き方がよく描けている。

「民主文学」誌に十五回連載された、柴垣文子『森の記憶』に通じるところがあり、面白く読めた。

この『森の記憶』の批評を宮本阿伎が「民主文学」4月号の『長編完結作を読む」で書いている。義務教育学校の教員夫妻が、退職後、自然のなかでの生きざまを描いていて読ませた。私の好きな高見順を取り上げているせいかもしれない。

高橋篤子さんの、今回の札幌支部例会への欠席

連絡に「呼吸器疾患のため」とある。白老のウポポイに誰か案内をつけるからと言っていたが、実現しそうにもない。

今回の豊村さんのレポートにつけ加えるつもりはないが、私は「これだけの材料を短編では無理ではないか」と発言した。

五年前の「ウツナイ」の合評のとき、私は近くのスーパーからクレソンを購入して皆さんに試食してもらった。今回は「あまり売れないので」ということで仕入れていなかった。

春の野草・ギョザニンニクは二十束くらい早々に売れるのに。この通信の201号にクレソンの試食が掲載されている。羊蹄山の伏流水の清流で長靴履いてバケツをもって入り、クレソン摘みをやり、百合の根の団子にきざみこんだものを食べたことを忘れない。

サムゲタンは美味しいものらしいが、食べたことがない。近くに朝鮮料理の店がない。スーパーの調理人にたずねたが、スープの素など何で売っている時代だが、プロがさがしてもみあたらなかった。心してさがしてみよう。

 

 

 

 

 追加意見3

「ペトトル川」の世界      松木 新

 

4月3日の支部例会で、サブタイトルの「支流」が話題になりました。作品の描写からすると、これは「源流」ではないかというぼくの意見、いやこのままでいいという意見や、アイヌの考えでは、川の右岸、左岸の意味が、和人とは反対だという指摘もあって、もしかすると、本流、支流もそうではないか、ということになりました。

気になったので、改めて調べてみました。参考資料は、『知里真志保著作集3 生活誌・民族学編』、『4 アイヌ語研究編』です。つぎのことが明らかになりました。

古い時代のアイヌは、川を人間同様に生物と考えていたこと、そして、川は海から陸へ上がって、村のそばを通って、山の奥へ入り込んでいく生物だと言うことです。和人は山奥の一滴の源流が、やがて本流となって海へ向かうと考えています。右岸、左岸の例でいうと、和人は山を背にして、左側を左岸、右側を右岸といっていますが、アイヌは、海を背にして、右側を右岸、左側を左岸というのです。

アイヌの考えでは、川は海から陸地の奥へ向かいますから、本流から支流へとなります。和人の「源流」がアイヌの「支流」の意味になります。このような考えは、アイヌが海岸線に沿ってコタンを作り、内陸の交通が主として川によっていたことの反映です。作品の末尾に、「支流」の大須賀るえ子訳を記したのは、和人とアイヌの文化の相違を、作者は強調したかったのかも知れません。

なお、いろいろ調べてみて、アイヌ語のなかに〈朝鮮語の要素が群をなして見出される〉(知里真志保「ユーカラの人々とその生活――北海道の先史時代の生活に関する文化史的考察――」)という指摘には、驚きました。

〈アイヌ語で川のことを「ペッ」または〈ナイ〉と云いますが、この「ナイ」は朝鮮語であります。崖のことを「ペシ(シは小文字)」または「ピラ」と云いますが、その「ピラ」は朝鮮語であります〉

〈アイヌ語の中に入っている朝鮮語の中には、今のところ日本語にその痕跡が見出されないものも、かなりある〉

〈そのような文化を持った民族が北鮮から北九州或いは出雲あたりへ上陸して日本海沿岸伝いに北上したものか、或いは北鮮から直接に潮流にのって北海道へ上陸したものか、まだよく分かっておりません〉

これらのことから言えることですが、在日朝鮮人であるロクさんという存在には、アイヌと朝鮮人の文化を体現する者という、新たな意味が加重されているのではないかと思われます。

作品世界では、

〈「これはオモニの味だよ」

と言ったのだった。

ロクさんがオモニと言ったのはこのときだけだった〉

という一節が、在日として暮らしたロクさんの心情を見事に表現していると思いました。

サブタイトル「チマイベツ川支流」については、例えば、ロクさんが語る〈「ペトトルの始まり。最初の一滴」〉の次に、川についてのアイヌの考えに軽くふれ、ペトトル川が、〈チマイベツ川支流〉と呼ぶことの意味に触れると、良かったと思いました。

 

 

 

 

合評を受けて1

「人との出会い その3」

                泉 脩

 

 紙上討論は文章による評価なので、とても重い。どの文章も意味深く、心に響いた。それでも好意的な発言がほとんどで、うれしく、ほっとした。

 柏原竜さんの「教師としての生徒との接し方からきている」といった評は、その通りです。荒れた私立高校では、何とか生徒たちの良いところを見つけ出さないと、教育が成り立たないのです。竜さんが、「泉さんの家族は、たいへんだったろう」と書いているのも、その通りです。今になって考えれば、冷や汗が出ます。

 人の何倍もの人生を生きたような気がします。だから罪滅ぼしに、「妻恋」を書いたのです。

 皆さんの温かい言葉に心が休まる思いです。

 ありがとうございます。

 

 

 

 

合評を受けて2

「冷やしソーメンとサラダ」

                北野あかり

 

組合と私ということで、職場の労働実態と組合の取り組みの一端を書き残しておきたいと思って、自らの体験を交えて書いたものです。アンケート結果や、職場集会での発言が、活動報告にならないように気を付けて書いたつもりです。

 タイトルの「冷やしソーメンとサラダ」について、泉恵子さんから、組合事務所を象徴する内容の言葉として選んだのだろうがどうだろうか?との指摘がありました。はじめ「漕ぎだそう!明日に向かって」とつけていたのですが、私の中にいつも、組合事務所はもっと身近なもので、疲れをいやし明日への活力の場でありたいと思う気持ちがあり、暑い日だったので冷やしソーメンを作ったこともあり、そのままタイトルに変えたのです。しかし、泉さんの洞察力は凄いですね「組合事務所を象徴する内容の言葉」と読んで下さったのですから。室崎さんから「冷やしソーメンとサラダについてもう少し触れて欲しかったという」意見は、私も同じ事を考えていたので納得しました。

 また、松木さんからは小説にと提示があり、他の方からも「時の航路」のように書いてみては…との意見も頂き、好きな作家の作品をお手本に、その糸口をつかみたいと思っています。 その他、豊村さん、柏原さん、村瀬さん、森本さん、泉脩さんからの暖かい言葉を頂きありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               投稿欄

 

私がロクさんに託したもの

                 高橋篤子

 

 泉脩さま

 拙作「ペトトル川」評をありがとうございました。

 「在日朝鮮人ロクさんがなぜ、核兵器禁止条約の採決に関心をよせ、その後批准する国が増えるたびに世界地図を広げて確認するのか。唐突過ぎて理解できない。作者の先走りではないか」というご指摘について少し考えてみました。

1、私(作者)は、人並みに核兵器廃絶を願いその運動に参加してきました。が、自分が生きる時代にその可能性が見えるとは思いませんでした。ですからこの作品以前に、2017・7・7国連で核兵器禁止条約が採択されたことについて理解できませんでした。

 《なぜ、こんなことが可能だったのだろうか》

 《その力はなんだろうか》

  ずっとその自問をかかえたままで『ヒバクシャ国際署名』を持って歩く活動に参加してきました。

2、その後50ヵ国批准をめざしてポツ、ポツと批准する国が増えていきます。その度に知らない国が多く世界地図を開いて、国の名を確認し付箋を貼ることになりました。何よりもその国の多くが小さいことに驚きました。

3、平行して全くべっこに『ロクさんの物語』を書き始めていました。そのきっかけは次のようなことでした。

10数年も前から交流があった在日朝鮮人の方が突然死しました。すべてが終ってからの知らせだったので立会うこともなかったのですが、彼が背負って生きた人生の屈折と痛恨の思いを知らされた日本人のひとりとして書かねばならないと思うようになりました。

祖父母の代からの日本の植民地支配に翻弄されて生きてきた理不尽な現実。祖国北朝鮮の救いようのないありさま。その現実を生きる一人の人間の未来にどんな希望を描くことができるのだろうかと。

ふと私のなかであの国連の核兵器禁止条約が採択された2017・7・7の場面が結びつきました。ロクさんの目にあの日国連を動かした核兵器禁止条約採択の場面がどう映っただろうかと……。その源をもっと凝視させ、その描写がなければなりませんでした。

採択した国の多くがかつては他国の植民地であった小さな独立国です。そして粘り強い草の根運動がありました。この発見は私の自問を説きました。この力こそがこれからの国際世論の本流となって人類の希望を拓くはずだという確信を私はロクさんの上に託したかったのです。

描写不足の故に読者に不満と混乱をのこす作品になりましたが新しい挑戦になりました。

     2021・4・20  高橋篤子

 

 

人との出会い 特別編 (おな)い年⑤

              泉 脩

尊敬するいとこ 

いとこの三人目は、帯広に住む森末克彦さんである。一歳年下だが、土岐祥介さんと共に、同じ歳に準じて書いてみたい。

私の父は八人きょうだいで、男四人と女四人が二歳違いで男女交互に生まれた。祖父母は、よほど几帳面な人だったのだろう。

父は三番目の次男で、さよ叔母さんは四女であり克彦さんは、さよ叔母さんの長男である。父が三〇歳近くに十九歳の母と結婚した時、さよ叔母さんはまだ独身だった。

父は当時、北大医学部の助手で祖父のスネをかじっていた。さよ叔母さんと同じ家にいた。だから母は父の弟二人と妹一人と同居したのである。そして、私の二人の姉が生れた。母は控えめで誰とでも仲良くしたらしい。特にさよ叔母さんとは、同じ庁立高女(現 札幌北)だったこともあって、ずっと仲良しだった。いわゆる庁立出の同窓意識は強烈だった。

やがて、父母は東京に移り、さよ叔母さんは北大出の産婦人科医の森末さんと結婚し、帯広で開業し、やがて克彦さんが生れた。

彼は、札幌医大を卒業し整形外科医になり、亡くなった父親の病院を引き継いだ。

学生時代は時々遊びに来て、私たちきょうだいと親しんだ。私は自分が医者にならずに高校の教師になっただけに、克彦さんに一目置いていた。成人してからは親きょうだいの葬儀で会う位になったが、それでも疎遠にはならなかった。さよ叔母さんが、私と同居した母をよく訪ねてきて、何日も泊っていった。札幌にマンションの一室を持っているのに。そして、私たちも帯広に行った。

克彦さんは穏やかな人柄で、有名な医師になっても偉ぶったところがなかった。私よりはるかに高収入になっても、見下すところがなかった。

彼は札医大で修業をしていた時、整形外科の医局で二歳年上の渡辺淳一と親しくなった。渡辺淳一はやがて講師になったが、作家に転身してしまう。日本初の心臓移植の失敗を内部告白する小説を書いたためである。

二人はその後も交友を続け、渡辺淳一は克彦さんを訪ねては小説のネタを求めたという。克彦さんは、この作家のエピソードをよく話してくれた。

私は「阿寒に果つ」の内容に間接的に関わっていたので、興味深かった。

私の父の兄、源吉伯父は外科医で息子の(ちか)()さんも外科医になり、日本の脳外科の草分けになった。私は周雄・克彦の二人のいとこを、心から尊敬した。医者一族の旗頭だからである。

周雄さんが亡くなった時、東京での偲ぶ会に出席すると、克彦さんに会った。彼はインターンの時に周雄さんの世話になり、その後も親交を続けてきたらしい。医師同士の交わりであり、私には羨ましいことだった。

六年前、私の下の姉、圭子姉さんが亡くなった時、克彦さんも葬儀に来てくれて、火葬場にも来てくれた。私は彼の両親と弟の葬儀に出席したが、火葬場に行って骨拾いはしなかった。これは辛いのである。克彦さんは姉の骨を拾いながら、涙を流していた。私はびっくりして「どうして」と尋ねてしまった。

すると克彦さんは、「学生の時、圭ちゃんとよく映画に行ったりした」と言った。札医大と姉が勤めていた住友銀行とは市電で三駅目だった。勤め帰りの姉と遊んだのだろう。

私は初めて聞いた話でびっくりした。しかし、いとこが仲良くなるのは自然であり、まして、母親同士も仲良しなのだ。うれしい話だった。圭子姉さんは、すごい物知りで話しがおもしろいのだ。早くに亡くなった泉保子が生きていれば、私とこんな仲良しになれたことだろう。

克彦さんは私の本をよく読んでくれて、昨年の手紙では、「脩さんは、いとこの中の誇りです」と書いてくれた。私も克彦さんに対して同じ思いだったので、びっくりした。

兄弟ですら疎遠になるのに、いとこからこんな手紙をもらうとは、なんとうれしいことだろう。

彼の二人の息子は、一人は整形外科医に、一人は歯科医になった。私の一人息子は精神科医になった。私の一族は医師一族なのである。私は外れてしまったが。

 

 

 

小川洋子『密やかな結晶』の魅力

                松木 新

 

1994年1月に刊行された小川洋子『密やかな結晶』が、昨年、世界で最も権威ある文学賞のひとつ、イギリスのブッカー賞の翻訳部門にあたるブッカー国際賞の最終候補6作に残りました。未読だったので読んでみると、ニッド・ホジキンソン選考委員長が、「私たちは、みなが経験しているこのデストピア時代に共鳴し、そのさらに先を行く、時を超えた価値を持つ作品に求めてきた。そしてそれは十分に報われた」と説明している(「朝日新聞」2020年9月2日)ことが、よく分かりました。

この物語の舞台は、特殊な閉塞状況にある島です。ひとつずつモノが消え、島民の頭の中がその分空白になっていくという状況が長く続いています。記憶が奪われない者に対しては、〈記憶狩り〉を任務とする秘密警察に狙われます。

物語はバラの消滅から始まり、写真、木の実、カレンダーが消滅、ついには、小説が消滅し焚書がはじまります。やがて左足が消滅し、物語を綴る左手、涙がこぼれる目、それが伝う頬の順番で消滅していき、声だけになり、それも消え失せてしまいます。最後に残ったのは、密かに書き継がれてきた「密やかな結晶」であるひとつの〈物語〉でした。秘密警察による〈記憶狩り〉から逃れ、地下室に隠れ住んでいた男の心の中に、記憶として物語が残るのです。

秘密警察の言い草は、今の時代を反映しているようです。

〈「消滅を滞りなく行き渡らせること、不要になった記憶をすみやかに消し去ること、それが我々の一番の仕事です。いつまでも役立たずの記憶を抱えていたら、ろくなことはありませんよ。そうでしょう? 足に親指が壊死した時、すぐに親指を切り取ってしまわなければならない。いつまでも放っておいたら、足を一本全部失うことになる。それと同じです。ただ問題なのは、記憶にも心にも形がないということです。人間がそれぞれ自分だけの秘密にして、隠し持っておくことができる、ということなんです。目に見えないものを相手にするんですから、我々も神経を使います。大変に繊細な作業なんです。姿のない秘密を取り出し、分析し、選別し、処理するためには、当然こちらも秘密によって自分たちを守らなければならない。まあ、そういうわけです」〉

小説が消滅し、各家庭から公園に持ち込まれた本を燃やす場面は、ナチスの焚書そのものです。

〈バス通りを進み、市場の脇を通り抜け、中央公園までたどり着くと、町は異様な明るさと熱さに満ちていた。公園の真ん中で、積み上げられた本の山が、夜空に火の粉を撒き散らしながら燃えさかっていた。その回りを大勢の人たちが取り囲んでいた。木立の間には秘密警察の姿も見えた。

「これは・・・・・・何とも・・・・・・すごい眺めでございます」

おじいさんは独り言を言った。

炎は巨大な生き物のように、街灯よりも電信柱よりも高く、上へ上へとうねっていた。風が吹くと灰になったページの切れ端が一斉に舞い上がり、宙を漂った。あたりの雪はすっかり溶け、歩くたびに靴がぬかるみに取られた。オレンジ色の光が、滑り台やシーソーやベンチや公衆トイレの壁を照らしていた。炎の勢いに撒き散らされたかのように、月も星も見えなかった。ただ消滅してゆく小説の亡骸だけが、空を焦がしていた。

人々は頬を火照らせ、無口にその風景を見上げていた。火の粉が降り掛かっても払おうとせず、厳かな儀式を見守るようにたたずんでいた〉

島から一つひとつモノが消えていく(あるいは秘密警察によって消されていく)状況は、コロナ禍の今と、妙に重なってきます。そのことは、「通信」262号で紹介した、バリー・ユアグロー『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』の寓話との関連性からもいえます。

〈写真〉の消滅によって思い出が無くなる件は、「ピクニック」と相似しています。

〈毎晩七時ごろ、すすり泣きが始まる〉

どこの家でも、かつての楽しかったピクニックのビデオを見ていたのです。

政府は、強権でビデオ鑑賞を禁止するのでずが、効果はありません〉

本が消滅し、「密やかな結晶」である〈物語〉だけが最後に残る場面は、「書く」とオーバーラップしています。

〈禍々しい突発事態によって、予期せざる期間わがささやかな住まいに閉じ込められたいま、閉じこもりの停滞と不安を打破しようと、この四つの壁の内部の旅行記兼回想録を書こうと私は思い立つ〉

部屋の中にある一つひとつの物にまつわる記憶を辿っていくのですが、いつの間にか、他人の家に入り込んでしまいます。〈この(、、)変質者(、、、)()!〉、〈やめろ! 書くのをやめろ!〉と罵られてしまいます

 

 

『ペトトル川』の作者への手紙

後藤守彦

 

四月三日の札幌支部例会での議論に参加し帰宅したところ、『民主文学』五月号が届いていましたので、早速拝読しました。例会では幾つかの問題点をあげたのですが、『北海道民主文学』掲載稿と変わっていない箇所がありましたので、筆をとった次第です。

例会でレポーターが、「作者の気迫に圧倒される」「優れた表現力と創作力に感服する」と述べたことに共感しました。ロクさんを悼む気持ちがしみじみと伝わってきました。

その上で、私の性格かもしれませんが、細かい所が気になりましたので言及することにします。例えば、例会で表現上の問題として、『北海道民主文学』掲載稿の二三〇ページ上段「その頃の暗いニュースとして思い出すのは団地のスーパーのなかに支店を出していた大手食品店が倒産し社長が自殺した」は、「ことだ」をつけるべきだ、といいました。『民主文学』掲載稿ではなおっていましたので、作者が気づいたか、あるいは編集部のチェックがあったのかも、と思いました。

『民主文学』掲載稿の文章が『北海道民主文学』掲載稿とほぼ同じで、表現上の問題というよりは、事実認識・歴史認識の上で、どうしても指摘せざるを得ない点があります。以前電話で朝鮮関係の歴史などについて訊かれましたが、私の解答が不十分であったのではないか、と悔いています。『民主文学』掲載稿のページで順番に説明していきます。

三二ページ下段、「朴枝明」のルビ。日本式に発音したら、「ボクシメイ」となりますが、

姓を朝鮮語式に「パク」としていますので、「枝」が「チ」、「明」が「ミョン」ですから、「パクチミョン」とすべきです。

三五ページ上段七行目、「三八度線を境に北を朝鮮民主主義人民共和国、南を韓国と呼ぶようになった」。「朝鮮民主主義人民共和国」は正式国名ですが、「韓国」はそうではありません。「大韓民国」とすべきです。なお、日本の植民地になる直前、「大韓帝国」といった時代がありましたが、それも略称で「韓国」となります。

三五ページ上段一四行目、「ついに国交がなくなってしまった」。そもそも朝鮮民主主義人民共和国との国交は最初からありません。一九九一年、南北の国連同時加盟が実現し、朝鮮民主主義人民共和国は国連加盟国となり、国際的にも国家として認められました。日本政府が国連加盟国のなかで唯一国交をもっていないのが朝鮮民主主義人民共和国です。南北分断の苦しみを与えた基底的責任が日本にあるのに、日本政府は朝鮮民主主義人民共和国を今も国家として認めていないのです。

三五ページ下段二行目、「日本軍慰安婦」。『北海道民主文学』掲載稿では「元慰安婦」となっていました。慰安婦にはカギかっこが必要で、正しくは、日本軍「慰安婦」と記すべきです。かつては従軍慰安婦ともいわれていましたが、研究と歴史認識の深化で、正されてきています。カギかっこをつけるのは、実態を隠す用語だからです。国際的には、sexual slavery(性奴隷制度)と表記されています。

三五ページ下段一〇行目、「戸籍に入籍した」。『北海道民主文学』掲載稿で「国籍に入籍した」となっていたのをなおしたようですが、どちらもふさわしくありません。入籍を婚姻の意味で使っていると思いますが、そもそも今の民法では婚姻により夫婦の新戸籍ができますので、入籍にはなりません。ロクさんは「朝鮮籍」と思われますが、これは国籍ではなく、「朝鮮半島出身者とその子孫」を示す一種の記号なのです。朝鮮民主主義人民共和国の国籍でもありません。これを理解するには、日本の植民地支配が終わってからの在日朝鮮人の歴史を丁寧に辿らなければなりません。簡単にいえば、日本国籍から朝鮮籍へ、そして韓国籍・日本籍へ移る人と朝鮮籍のまま残る人にわかれる、となります。また、ロクさんが「韓国籍」であったとしても、外国人、外国籍の人には戸籍がありませんので、入籍ということはありえないのです。

 朝鮮問題に随分こだわっていると思われかもしれませんが、最近あったことをお話しします。二〇一九年三月一〇日、北広島九条の会の例会で、私は講演しました。演題は、「三・一独立運動一〇〇年から考える」です。プロローグで次のように話しました。「日本人の人権意識や戦争が嫌だという厭戦思想や反戦意識が本物かどうか、日本人のものの見方・考え方や心が豊かであるかどうかは、朝鮮に対する認識、姿勢で試されると思います。いつもはリベラルな考え方をする人が、韓国や北朝鮮との間で何か問題が生じると、ナショナリス

トになってしまうのはなぜでしょうか。今日は、日本にとって朝鮮は何であったのか、そして何であるのか、これを常に意識しながら、皆さんと学んでいきたいと思います」。その後もずっと、この「日本にとって朝鮮は何であったのか、そして何であるのか」という問いかけを真摯に受けとめ考え続けている、講演を聴いた方がいることを先日知ったのです。本人が私に語ってくれました。その誠実な姿勢に感激しました。

 作品評から離れてしまいますが、この講演の場に高校時代の恩師が来てくれました。お招きしたわけではありません。老師の前で不肖の弟子が拙い技を披露した、といえるでしょうか。私が歴史を学ぶようになったのは先生のお蔭です。残念なことに二月二四日に八七歳で逝去されましたが、二月二七日付の『北海道新聞』は、「平和の信念貫く」との見出しを掲げて、訃報を伝えていました。二年前の三月一〇日が先生とお会いした最後の機会となりました。ご冥福をお祈りします。

 歴史認識に拘って率直な思いを綴りました。今後ともよろしくお願いします。

 

 

 

想い出のうた「花」を再び

北野あかり

 

二十代の頃に、妹に誘われて初めて海外旅行に行った時のことです。オランダ・ドイツ・スイスの3か国を2週間で回るツアーでした。私はスイスの山とハイジに会えるような気がしてウキウキして参加しました。季節は7月、ヨーロッパは夏季休暇が2か月もありキャンピングカーが何台も通りすぎていくのでビックリでした。

 ドイツはヒットラーのイメージがあって気がすすみませんでしたが、野外でお芝居を観ました。観客席はあるのですが、舞台がありません。客席の前の建物や小路そのものが舞台なのです。白馬に乗った騎士が角から現れたかと思うと、群衆が反対側の小路から現れる…という感じでそのスケールの大きさや野外で観るという初めての体験にすっかり興奮してしまいました。ほとぼりが冷めないまま、帰りに喫茶店に入りました。

 入り口を入ると白いグランドピアノが目に飛び込んできました。店内は明かく素敵な歌ごえが流れていました。お客さんが次々と歌い奥の席にいた太った女性の一団は、曲に合わせて腕を組み、体を左右にゆらして歌っています。そのハーモニーに釣られて歌っていたところ、私たちにも歌えというのです。多少言葉が解る妹が「『花』を歌おう、下を歌うから…」というので、旅の恥はかき捨て…と、度胸を決めて二重唱で歌ったのです。お客さんから大きな拍手をもらった忘れられない曲です。   

その妹が今入院中で回復の目途も見えず、コロナ禍の中面会もできません。再び歌えることを祈る思いで「は~るのうららの~隅田川~」と歌い、エールを送っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

進藤良次「リキ」(「北海道民主文学」23号)  

    多動性児との取組み

泉 脩

 

九年近く小学校の教師を勤めた進藤さんの、見事な教育実践の記録である。日高静内の小学校で、四年生の担任の時に、評判の男子生徒を受け持った。本名の力男ではなく、誰からもリキと呼ばれていた生徒で、授業中じっとしていられないのである。教室中を歩きまわり、奇声をあげ、廊下に飛び出すいわゆる多動性児(ADHD)、学習障がい(LD)である。勉強にまったく手に付かず、三年間持て余されてきた。三年の時は、担任が縄で椅子に縛り付けたという。

 進藤さんは一学期中ずっと観察していたが、思わぬ発見をした。体の大きなリキは、休み時間に校庭に出て、ドッジボールで活躍するのである。授業中、何枚もの紙を与えて自由に書かせると、文字とも絵ともつかない落書きばかりだった。

 クラスの女の子が「クサイ」と言うので、近くで匂いを嗅ぐと小便のにおいがする。そこでクラス便りに不用になった大きめのシャツや服の提出を求めると、次の日から生徒たちが持ってきた。同じクラスのリキの従妹にリキの家に届けさせると、リキは次の日から清潔な服を着てくるようになった。この二人はウタリ(アイヌ)で、「クサイ」というのは差別ではなくて事実だったのである。

 二学期から授業時間の最後の五分間だけリキに算数と国語を教えた。オハジキで一桁の足し算と引き算を教え、一人のできる生徒を付けて練習させた。国語はひらがなで自分の名前を書く練習である。

 リキはあまり動きまわらなくなったが、毎日四時間目の途中に教室から抜け出す。後をつけてみると、リキは桜の木の下で昼寝をするのである。このことを地域の父母懇談会で話すと、一人の父親が手作りのベッドを届けてくれた。

 進藤さんは、このベッドを教室の後ろに置いて、リキに「いつでもこのベッドで眠りなさい」と言った。ところがリキは、このベッドで一度も眠らず、教室から抜け出すこともしなくなった。

リキが授業でただ一つ集中するのは道徳の時で、進藤さんが<日本昔話>などをおもしろくアレンジして話すと、一番前に来てうれしそうに聞いた。

 こうして一年が過ぎ、いつしかリキは席を離れることもしなくなった。進藤さんは教職を離れたので、その後リキがどうなったかは知らないという。ただ進藤さんが「三日でリキをおとなしくさせた」という伝説が残ったという。

 この話は実に多くの大切なことを含んでいる。説教したり、怒ったり、体罰を加えるなど一切しない、進藤さんの教育は実に見事である。どんな生徒でも必ず見どころがある―という進藤さんの信念が表現されている。私も教職にあった者の一人として、胸が熱くなる思いだった。リキほどではないにしても、似たような生徒の多かった私立高校に勤めていたので、今さらながら自分の至らなさを反省させられる。ただ学級通信の発行、父母懇談会の取組みや生徒との対話と、共通のことも多く、よく理解できるのである。

 進藤さんは、教職の後は議員活動に移るのだが、二千人もの人の生活相談を受けるなど、よくがんばり続けた。頭が下がる思いである。

 そして日本民主主義文学会にも加入し、多くの作品を書いてきた。私は最近自伝を読ませていただいたが、短編も秀れているので短篇集も出してもらいたいと願っている。

高校時代まで父親の漁を手伝ってきたので、漁業の体験を書いた作品は、国内でもめずらしい貴重な作品だと思う。そして今回のような教育実践の作品も素晴らしい。議員活動の体験も立派に書けるはずである。 

札幌民主文学通信

二〇二一年〇三月〇一日 268号

 

 

3月例会誌上合評

 

「北海道民主文学」23号

 

エッセイ   泉 脩

         人との出会い、その3

 

筆者より

「人との出会い その3」は一年前に書いた。急に思いついたのである。

 人生とは人との出会いだ―というのが私の持論だが、特にこの十年ばかり、高齢になり障がい者になって尚更である。

 旧友の石田英夫との五〇年振りの再会は、ドラマチックだった。そして一気に友情が高まった。豊村さんにはとても世話になった。私の文学活動は高い次元になった。そして何人かの協力で、次々と本を作ることができた。

 HBCの斉藤こずえさんは、まったく新しいタイプの友人でとても楽しい。そして、二人のヘルパーさんはいい人だ。山岡さんは一度しか会ったことのないめずらしい友人だ。すべて文学が取り持つ縁であり、(ヘルパーさんは違うが)文学を続けてきて本当によかったと思う。人生は楽しいと、つくづく思う。

 

 

 

 森本のりこ

泉さんの文章は淀みなく明快である。

ここら辺で区切って終わりにしようと思っても決局は最後まで読まずにいられない魅力がある。 なぜだろう? 波乱万丈の作品でもないのに作者の文章の力がそうさせるのだと思う。

泉さんは優しくて人を決してけなさず良いアドバイスを与えてくれる。 

目の不自由なハンディを背負いながら十冊もの本を出版している。

本作りは彼に生きる目的を与え、完成させる意志の強さを持っていて尊敬します。

「人との出会い」を大切にの表題通りに人との出会いに恵まれている方だと思いました。  しかしそれは諺にある「類は友を呼ぶ」ように泉さんの周りには善人が集まってくるようです。

どの人とも心を割ってお付き合いしている姿は素晴らしいいと思います。

今の時代福祉予算は削られ老人には冷たい時代だと思います。

そんな中で「私は幸福者だ。人生は楽しい!」と言える人が存在していることは同世代の人たちに勇気とエールを与えているように思います。

もちろん泉さんの今までの築き上げてきた人生経験と努力の賜物の結果だと思いますけれど私は励まされました。

自作の本を初対面の斎藤こづえアナウサーへ堂々と届けに行く箇所は小さい頃の腕白小僧の面影を想像して微笑ましく思いました。

その斎藤こづえさんを本作りの輪の中に巻き込んでしまう包容力もまた素晴らしい。

泉さんのやり遂げる意志の強さの一片を頂いてこれから私の作品作りの参考にしたいと思いました。

健康に気をつけてこれからも書き続けてください。

 

 

 

 室崎和佳子

 泉さんは純粋でひたむきに前進する人である。視力が弱ろうとも、全てのことに前向きで、明るく楽天的である。

 よって、このコロナ禍においても、精神が弱体化することはないのだろうと思う。

 

 泉さんは友だち作りの名人である。

 初めて会った人でも、その人の良い点を即座に見出し、自分の大切な友人にする。

 P249下段1行目から2行目に、石田英夫さんを評して「ともかく誰とでも会い、すぐ友人になる。これは一種の才能だろう。」とあるが、何を隠そう、これは泉脩さんのことをも言っているのだ、と私は確信する。

 でも、意外と自分では気づいていないのかもしれない。

 

 文中に何度も出てくる言い回しがある。

 「人生は楽しい」「私は人との出会いに恵まれている」「あと三年は生きたいと欲が出ている」「イズミ会を作った」「人生とは人との出会いである」等々。

 これらの言葉からも、泉さんの前向きさがよくわかる。泉さんのような人を永遠の青年と言うのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 松木新

登場人物一人ひとりが個性豊かに描かれており、文学と音楽と日ハムで彩られている泉脩ワールドを堪能しました。あらためて、泉さんの多分に〝猪突猛進的〟な行動力には驚かされました。

このエッセイを読んでいると、不思議な縁にビックリしてしまいました。

豊村さん→伊瀬佐知子さん、竹島さん→井上美香さん→アイワード→石田製本→石田英夫さん。

人々は何やら赤い糸で結ばれているのか、と思ってしまうほどでした。

 

 

 

 柏原竜

80歳代後半になろうとする泉さんが、人との出会いを求めて生きる姿に脱帽です。失礼ですがこの年代になると「終活」を考えて友人、知人、親戚など人間関係を整理するという話をよく聞く。奥さんをなくされ目が見えなくなり、とても苦労をしているのにそれを苦にせず前向きに生きていく力はどこから出てくるのでしょう。

 人を見る眼が暖かい。人の性格には長所と短所がありますが、良い面から人を見て接している。これは、教師の生徒に対する接し方がずっと続いているのでしょうか。

 最後に、「私は不器用な上に無鉄砲でいつも自分の目指す道を直進してきた」とあるが、泉さんの経歴を見ると共に生活した家族は大変だったのではないかと勝手に想像しました。

 

 

 

石川節子

泉脩さんの作品の中の人との出会いは、その良好な関係を文章化して発表することにより、更にその関係を深め、しかも、醸成されて旨い味を醸しだしてゆくようです。

豊村さんへのことなども、ただただお世話になるばかりの私などとは大違いで、泉さんは、きちんと文章化して公表することで感謝を表していて、そこに、優れた生き様の所作が滲みでているようで、素晴らしいことであり、見習うべき事だと、しみじみ思い知らされました。

 

 

 

 村瀬喜史

泉さんは沢山、本を出している。その都度。送ってもりい、すぐ読んで感想をハガキで送ってきた。ここで感謝しておきたい。「本つくり』に関連して、女性ライターとかアナウンサーとか、 ビスケットクラブから派遣された人などつき次に仲間にしていく。うらやましい気持ちになる。校正のとき「ザルツブルグ」について、英語読みとドイツ語よみの違いと指摘されたとあるが、私の大学のドイツ語講師はフーべルというドイツ人で「ザクセン」を「シャクセン」と発音し、ドイツでも南と北の方は違うと教えられたのを思いだした。

 泉脩さんとは一つ違いで私が若い。、高齢化をひしひしと感じさせる今日この頃である。互いに元気で長生きしよう。

 

 

 

 豊村一矢

 北海道民主文学23号の作品には、小説であれ、エッセイであれ、ドキュメンタリーであれ、筆者自身のこれまでの生き方を懐古する内容が反映されていることが多く、それが23号の特徴の一つだと思っています。「人の出会い、その3」はその典型です。筆者の前向きで情熱的な活動、生き方の中で出会った人たちの豊かさに圧倒されます。

 その中に私の名があるともちょっと気恥ずかしい。

 

 

 

 泉恵子

「人生とは人との出会い」との信念の中で、「感謝を込めてけんめいに書いてきた」と、「おわりに」に述べている。

 この十年のうちの特に五年間で、十人もの感慨深い人との出会いがあり、そのうち六人が筆者が生活の中心に据えている読み、書き、本づくりをする中で交わった人で、二人は、掃除と、料理を担うヘルパーさんである。他は自著の本を送った縁で五〇年ぶりに友情が復活した旧友。トルコ旅

 

 

行で世話になった女性に本を送ることで交換が続く。と、自著が媒介になっての交わりが多い。目が不自由という一人暮らしの中でも、ポジテェブに人生を営む中から、自ら大切な交わりを創ってきたとも云える。 

 そして、それらの人々を柔らかく見つめる包容力と、寛大さを感ずる。筆者の人としての大きさが生み出した心温まるエッセイと思う。

 十人のうち六人までが女性であることも興味深い。要支援介護ヘルパーの担い手は二人とも女性だが、本づくりの中でもパソコンの打ち込みや、プロの女性ライターの力を借りたり、ヘルパーさんとの話の中からHBC「ファイターズ・DE・ナイト!」のアナウンサーと知り合い、番組に出

 

演したりと、女性との交際の幅も広がってゆく。

 そこには相手の話を引き出す上手さも感じられる。そして、時折おいしい食事を共にするというサービス精神も旺盛である。

 

 上野千鶴子の「おひとり様」シリーズ最新版『在宅一人死のススメ』の一人暮らしを謳歌する生き方に重なってくる。そのための支出を惜しまない。老後の生き方のお手本としたいと思った

 

 

 

エッセイ   平山耕佑

                ゴムの木のこと

 

 筆者より

 この作品は、事実そのままの記述であり、特にコメントすることもつけ加えることもありません。軽く読み流して下さい。

 なお、P264上段、啄木の歌「母の背負いて」→「母を背負いて」、P266下段「北洋高校」→「北陽高校」、以上訂正願います。

 

 

 村瀬喜史

平山さんのサハリン・ドリンクス時代のこと、さきにエッセイを書いていて、その同級生が私の学生寮の一期後輩で探し出して、訪ねたことは、前回「奔流」のあとだったが、そのいきさつは省略して、それにつづく短いエッセイである。

父の臨終のとき、母と枕元にいて、泣き崩れた母を抱き上げた。啄木の歌に「そのあまり軽きに泣いて三歩あゆまず」とおなじで私もその時を思いだす。私の場合、一緒に生活し今月いた自宅の二階で母がたおれ、救急車をよび、抱いて階段をおりたが、太っていたようにおもっていたが、「あまり軽くて」驚きであった。

平山さんは私より一歳若い。お互いに書きつづけよう。

 

 

 

 松木新

戦前、戦後の混乱期を生き抜いた家族の小さな物語が巧みに綴られていて、歴史の実相を肌で感じました。なかでも、母親の姿には生活感が滲みでていて、子どもたちにたいする愛情の深さを実感できました。

「ゴムの木」には、「永遠の幸せ」という花言葉があります。親子三代にわたって引き継がれていく「ゴムの木」が、平山家の「永遠の幸せ」を象徴しているといって良いでしょう。

 

 

 

 森本のりこ

祖父と共に樺太に渡った父、戦争当時巡査部長をしていたが終戦時シベリア送りではなく樺太の地で強制労働させられたのち引きげてきた。 父より遅れて家族は二年後に引き揚げてきて釧路にいる父と集合。その後の作者の歩みと共に母との思い出を綴っている。

七人の子供達に満遍なく手をかけている暇などなかったであろう母の思い出は年を重ねるに従って色濃く思い出されるもであろう。

浜辺でバナナを吐き出した時も何気ない母の手が初めて自分だけに向けられた喜びでもあったのかもしれない。

父の臨終の枕元で倒れた母を抱えた時の軽さに驚くところは、まさに歌の通り母親の頑張ってきた苦労を感じました。 

葬儀代の残りを老人会の会長さんに届けるところはお母さんの正義感のようなものを感じました。

訪ねてきた同級生の女の子を家に上げなかったことはか弱いものにも気をくばる優しさが垣間見られて、ひよっとしたら息子の恋心もかすかに感じていたかもしれないと読みながら想像しました。

母からもらったゴムの木は自分の代で三代目、そのゴムの木とともに歩できた時代を思い浮かべて次の世代にゴムの木を渡す作者の信念が見えました。

読みながら私は自分の母を思い浮かべていました。 そして何度も何度も「そうだ! そうだ! 」と頷きながら読み終えました。

作者の簡潔で明瞭な文章に引き込まれて読み終えました。

 題名の「ゴムの木のこと」にまつわる家族との関係をもっと知りたかったです。

 

 

 

石川節子

昔、「猫は見ていた」とか「家政婦は見ていた」などのドラマがありました。このゴムの木も平和な家庭の歳月の一部始終を見ていたのでしょうね。

釧路から始まり芦別、札幌あいの里、中央区と幾度かの引っ越しにも家族の一員として当然のごとくに行動を共にしたゴムの木は美しい容姿、おとなしくて比較的に手のかからないゴムの木は、とてもいい子です。

敗戦後の樺太から、家族とは別々の引き揚げとなったお父上は、連絡の術も無かった当時の樺太で、自分の身だけでも移動するのに、どれ程の労力を費やしたことでしょうか。

家族は二年後に引き揚げ、函館にいた親戚からの情報で、釧路地方の炭鉱町で、そこの事務所で働いている父と一緒になったのである。

 

自分の家を持ってから二年か三年たった頃だったろうか、風邪をひいたと言って近くの病院へ行きそのまま入院、その何日か後に息を引き取った。肺炎ということだった。』

びっくりしました。とてもびっくりしました。

父と再会できて二~三年後には、亡くなってしまったのかと読み取ったのです。

事務所で働いている父と一緒になったのである。 と 自分の家を持ってから の間に時間的経過を示す記述を入れて下されば読み間違いは起きないと思いました。

女子キャプテンというのは、今の私の妻であり、私が彼女に思いを寄せはじめた直後のことだったのである。勿論そのことはまだ伝えていなかった。だったら尚更、と言われるかもしれない。でもその頃はそんな気持ちになれない、というのが少年の心理としておきたい。 ここは、思春期の面映ゆい気持ちがよく表現されていて何ともほほえましく思い、つい、ニヤッとしてしまいました。

しかし、 今の私の妻 は、良くない。 今は、私の妻 とするべきだと思いました。なぜなら今の妻なら、過去の妻は、別人だったと言っているように、思へるからです。

ゴムの木が「そんなことないよ」と、言っている声が聞こえるようです。

 

 

 

 柏原竜

30年前母親からもらったゴムの木を通して母親の姿が浮かび上がってきた。8人の子を生み、ひとりなくして7人の子を育てた。朝暗いうちから起き出し、夜遅くまで一日中家族のために働いた。明治末期生まれなので、日本の中国侵略から太平洋戦争、敗戦、戦後の極度の窮乏の中優しく賢かった母親が子どものことをよく見て家族を支えて乗り越えてき様子がよくわかった。

 父親が母親のことを「可愛かったんだぞ」と言っていたと二カ所に書いてあるが、子ども心に嬉しかったのでしょう。これを読んで私も子どもの頃の親の姿を思い出しました。私の家は農家なので、朝早くから夕方暗くなるまで両親は働いていた。父はわがままな性格だったが母のことを「あい子あい子」と呼んでいた。母は父を「父ちゃん」と呼ぶのに。ある時父の妹に「あんたの父ちゃんいつもあい子あい子と呼ぶね」と言われたことを思い出した。

 最後に、ゴムの木は子どもたちに引き継がれていくだろうと書いてあるが、いいですね。

 

 

 室崎和佳子

 平山さんは純情・ロマンの人である。

 なぜなら、中学校三年の時に好きになった人と、教員になって三年目に結婚したからである。十年間も思い続けた勘定になる。これを純情・ロマンの人と言わずして何と言おう。

 平山さんの純情・ロマンはお父さん譲りのような気がする。

 お父さんは我が子である平山さんに、お母さんのことを「可愛かったんだぞ」と自慢する。明治生まれの男性にはなかなか言えない台詞ではないだろうか。間違いなく、お父さんはお母さんを愛していたのだ。

 

 そのお母さんの化身のようなゴムの木は、在りし日のお母さんを彷彿とさせるのでしょう。 

 平山さん、どうぞゴムの木を大切に。

 

 

 泉脩

 母の思い出を書いたエッセー。樺太で警察官をしていた父と、七人の子供を育てた母が、敗戦後別々に帰国し道東の炭鉱で再会する。成長した作者は中学の教師になり、結婚し、三人の子供が生まれる。母はゴムの木を育てていて、先端に生えた芽を切って鉢植えにして作者にくれた。作者はそれを大切に育て、母を偲んできた。昨年引越しした時も、ゴムの木は捨てずに狭くなった家に置いている。芽が出てきたので、切って子供の誰かにプレゼントしようと考えている。

 福島の農家に生れ、北海道で結婚して長い生涯、働きづめだった母親を、ゴムの木にたくして書いているのである。四代目になるゴムの木の芽は、これからどうなるのか。

胸にせまる好エッセーである。

 

 

 

 

 

 

豊村一矢

 筆者は私より何歳年上なのだろう。

私は戦時中の1942年生れ。母は2007年に亡くなった。この六十五年の間、私は母と同じ住居で過ごした。幼少期、学生時代、教員時代、自分の家庭を持っても二世帯で暮らした。これは希有なことだと思う。大学、着任校が札幌であったことが奇跡を生んだと思っている。

筆者の戦争時代の経験は私と共通部分がある。私は三歳未満、記憶はおぼろげだ。戦争から帰還した父と二年ぶりに対面したとき、母が私をきつく抱きしめたのを覚えている。我が家にゴムの木はないが、狭い庭は、毎年、母が植えた木々で彩られる。手入れはもっぱら妻の仕事だが。

 

 

 泉恵子

引っ越しと共に運んできたゴムの木をつくづく眺めながら、三〇年前それを持ってきてくれた母のことを思い出すーというしみじみとした読了感

に浸される話。

 上部を切ると、いつまでも長生きするゴムの木は既に三代目だが、この後三人の子供のうちの誰かに引き取られ、そこで生きてゆくだろう。人の一生よりも長く生き続ける植物はその人の傍らにあって、その人生を見続けているという。

 明治末期に生まれ、戦争時代を主婦として一家を支えてきた母。たった二度の叱られた話。「可愛かったんだぞ」という父の言葉や、晩年マリモの様に丸く小さくなってしまった頭。

 八人もの子どもを産み育てるという、当時としては珍しくないのかもしれないが、今では驚異的にも思える一人の女性の姿。

 出来れば小説として読みたい気がした。短い中にたくさんの内容が入っているが、もう少し話を絞った方が更に感慨深いものになったのではないか?

 高齢になると既に他界した両親のことを思い出すことが多くなるのだろうか?

 蛇足かもしれないが、先日のNHK「100分de名著」の「災害を考える」シリーズ第2話で取り上げた柳田国男の「先祖の話」に通ずるものを感じた。常民(庶民)の中には「死者は常に識る(在る)」ということを「常民の常識」という言葉で表していたのが印象に残った。常に心の中に存在し、伴に在るということかと理解し肯(がえん)じたのだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エッセイ    村瀬喜史

         認知症予備軍に編入されたか

 

 

 筆者より

認知症予備軍に編入されたか』が掲載された「道民主文学」は、まだ22冊しか普及していない。いつもより10冊くらい少ない。普及するのに気恥ずかしい気持ちがでてくるのである。脳神経外科の定期健診は年2回、MRIかMRAに入り、その結果で問診がある。一年前は「海馬部分に白い斑点がある」からと脅かされ、前回『その斑点が少し大きくなっている」と心配させながら、今回は「斑点が似なくなっている、どうも心配しなくても」いいのでないか」と前進した。薬も何も治療をしてないのに。なぜだかわからない。

 その問診で、『あなたは認知症にどんな対策をとっていまかすか」と言われ、「わすれものが多くて、探し物に無駄な時間をとりすぎるので、テーブルの上のものの置き場所は一定のところする。手帳にメモする。雪がなくなりスロージョキングを昨年につづいてはじめた・・・」

 医師いわく。「それをつづけなさい。あなたはまだ認知症ではない」とうれしいことを言い、定期健診はつづけ、MRiの次回のドック入りを予約した。

 あいかわらず物忘れはつづいていて、朝、手帖を見ないと年金者組合の執行委員会も欠席したことも起きている。今年の年賀状には、同期生から「私もおなじだ」というのが、二・三みうけられた。年相応の現象らしい。

 この民主文学会に誘った同期の石川弘明は、今、脳内出血で脳神経外科病院に入院している。コロナで見舞にはいけない、ハガキだけてある。わたしの周辺には同じように倒れた人が三人も出ている。

 私のこの文章は、校正ミスも多いが、読解するのに困るものはない。完成させても意味がない。

 

 

 

 室崎和佳子

一読してまずびっくりしたことは、村瀬さんが実に冷静に今後のことを分析し、対策を練っていることである。認知症予備軍に編入されたとはとても思えない。

 P269上段後ろから3行目「まだ、買い物の品名をかくことはしないが、何を買おうとか思って帰ってくると、かならず何か忘れている」とあるが、買い物をする時メモを持参するのは普通のことなので、必ずメモを持って行ったほうがいいと思います。ああ、また忘れた、と悲観することはありませんよ。ちなみに、私は若い頃からいつもメモをして買い物に行きます。

 P269上段12行目、村瀬さんの一大決心を聞いたお父さんは「そうか、お前が決心したのだから、やるんだな、親や妹・弟のことは心配するな。それで食べていけるのか」と言い、広い心で受け止める。

「この情景は忘れることはないだろう」と村瀬さんは何十年経っても覚えている。父と子の深い愛情と信頼が伝わってきて感動する。

 P273下段4行目「本の読みかけが多くなっている。かつてはこんなに残ることはなかった。この分野にも新しく戦略が必要になっている。」のところで、「新しく戦略が必要」と思っている村瀬さんに脱帽した(私には到底できないことなので)

 

 

 

 森本のりこ

村瀬さんの作品の底辺には優しさとユーモアーが感じられます。

今回五節に分かれて書かれており、一節ごとのまとりが読みやすかったです。

私も日常生活で同じ思いを経験しているので身につまされて興味津々で読みました。

村瀬さんは認知症予備軍に編入されても、探究する心は衰えず追い求め続ける姿に村瀬さんらしさを感じ、常に活字の本を側に置いている姿に尊敬します。

支部の困難さも長い人生の歩みの中で鍛えてきた村瀬さんらしい強さで深刻にならずさらりと描かれてました。

党専従になる時父になかなか言えず、グランドを横切りながら話した箇所はホロリとさせられました。

エンデングノートに知り合いの葬儀屋のことを書くにもその葬儀屋も認知症の恐れがあるなんて、村瀬さん流のブラックユーモアーかと思いながら、ふと笑えない現実を感じました。

六冊の本の読書中だとか、どれも村瀬さんにとって大切な(MCI)への治療薬になるのだと理解しました。

私にも良い教訓になるところが多々あって励ましてくれた作品でした。

 

 

 

 泉脩

 八〇代半ばの作者の深刻なエッセー。最近、物忘れがひどく、診察を受けて多くの薬を飲んでいるという。私も同じだが、まだ薬は飲んでいない。私は酒とタバコをたしなまない分だけ健康なのではないかと思っている。

 作者は私とほぼ同年輩だが、作者の活動量の多いのには驚かされてきた。政治的・社会的活動、そして読書と囲碁。視力がひどく低下した私には、うらやましいことである。人の手と器具の力を借りて、私はやっと文章を書いている。

 長い間共産党の専従を努め、今でもがんばっている作者には敬服をしている。囲碁も、ずっと上手である。このまま落ち込まず、ずっとがんばって欲しい。私も必死に毎日を過ごし、文学活動を続けているのだから。

認知症への恐怖は私も同じである。

 

 

 

 松木新

父との思い出が一番印象に残りました。〈小説でも創作でもないが書き残しておく価値は十分にある〉という意見には同感です。

『民主文学』3月号の百合子特集の座談会で、百合子が「書けばこそ、―ルポ一つにしろ、書けばこそ、そのことは、そこに在る、というのに」と強調したことが紹介されていました。

我が家では、「認知症」という言葉を使わず、「ロダン現象」と言っています。ロダンの有名な彫刻「カレーの市民」から連想して、「カレー」と「加齢」を笑点風に言い換えたものです。参考までに。

 

 

 

 豊村一矢

 筆者の用語を模倣させてもらえば、私は認知症軍そのものです。

 まずは「もの忘れ」に始まって、事務能力、計算能力の衰えが酷い。関係者に迷惑をかけるのでないか、何かに取り組もうとすると心配になります。

 このエッセイの文章をそのまま読めば状況は深刻だ。筆者はアルツハイマー病になったと思っている。どう対処しようか、難局いかに乗り切るか、を「囲碁でいえばいかにしのぐ」か、と書いているのが筆者らしい。筆者の、緻密で使命感に溢れる実践と内面の楽天性が滲んでいる。

筆者は「エンデングノート」をゆっくり時間をかけて書くという。過去を思い起こすのは自身の認知症対策だという。私はナンプレに熱中するこくらいしかやっていない。恥ずかしい。

 

 

 

 柏原竜

いつもながら忙しい生活を送っていることに驚いた。検査で脳の中心部海馬に小さな斑点がみつかり、さらに大きくなってきてアルツハイマー型の認知症群になっていた。村瀬さん自身の周りの人々も病気、けがなどで動けなくなっている。日本国中で活動家が少なくなっていることを実感した。

 認知症をわずらって88歳で亡くなったご自身のお父さんの様子とご自身を重ねて見ているが辛いことでしょう。

 お父さんが書いた随筆『長良川の鮎』の一節「大正の末に師範学校を出て昭和のはじめに教員になった。大正デモクラシーが謳歌されていた頃は自由教育が叫ばれ子どもたちも伸び伸びと育っていたように思う。それが第二次世界大戦に向かう中で教育も天皇中心の国家主義に統制されて教師も子どもも命令通りに走らされた」と。そのお父さんが晩年『赤旗』の教育関連の記事を読んでは「俺の言うとおりだ」と言っていたそうだ。納得。

 村瀬さんは病気の進行にともなってエンディングノートのことや読みかけの本など、たくさんの課題を持って生活していることがわかった。この道は、いつか私も歩む道でしょう。

 

 

 

泉恵子

初めに、このタイトルの「軍」にウン?と首を傾げた。「群」ではないのか?と思いつつ読むと、一ページ目の下段に「アルツハイマー型の認知症群」と出てくる。270ページに再び「軍」とある。「軍」は「闘う集団」で、「群」は一般的な「むれ」の意味(「広辞苑」より)。あえて「軍」を使ったのか?どっち?という場面や、他にもハテ?と思うところも少なからずあって、推敲は読者のためにも大切と自戒も込めて再認識。

 「ゴムの木」は、母親の思い出だったが、こちらは父親の回想になっている。亡き父が八五才になった頃認知症の兆候を見せ始めた、その年齢に自分もなったことで惧(おそ)れながら、徘徊などはなく静かに老いていった父のように最期を迎えたいと、エンデェングノート買ったりして、人生の後始末を考えている。

 筆者は以前にも「認知症」について書き、多くの本を読んで勉強をしている。確かにもう数年で高齢者の五人に一人の割合で発症するということで、他人事ではない。「物忘れ」と「認知症」の

違いは、何を食べたか忘れるのと、食べたかどうかを忘れるのとの違いとか?「物忘れ」では、私自身も引けをとらない。が、気分では成り行きに任せているところがある。

 

 先日、上野千鶴子著『在宅一人死のススメ』という本を立ち読みした。「おひとり様」シリーズの最新版で、売れ筋ランク上位とのこと。著者は一貫して「おひとり様」礼賛者で、最期も住慣れた家で迎えたい、そのためにどうしたらよいか、認知症をどう考えるか、独自の考えを述べている。

 きちんと読んでいないので誤解を恐れずに言うと、そういう老人が増えるのだから、施設に行かなくてもいいような、国のケア政策を手厚くするべきと言っているようだ。現行の介護サービスは「被虐者」のごとく悪くなっているが、この制度はもっと充実させてゆくべきと力説している。そのために国任せではなく国民が守ってゆかなくてはならないとも。現在徹底した在宅ケアではお金がかかりすぎる。だから最期は施設に行く(これも格差があるが)。在宅で一人での最期を迎えられるケアの充実をと説く。

 最期をどう迎えるか?どちらも考えさせられる内容だ。

 

 

 

 

ドキュメンタリー   北野あかり

       冷やしラーメンとサラダ

     

 

筆者より

 この作品は、私の所属した組合の今昔物語で、就職した1964年から2020年に焦点をあてたものです。

 この間大学は、国立大学から法人化され、予算・人員が削減され利益優先の経営に変わりました。

 その中で働く労働者の状況と働く者の砦としての組合がどのように活動してきたのか、働き続けられる職場を目指していることや、組合員同士の絆について伝えたいと思い書きました。

 修正箇所

 ※P277中段中味だし 民営化→法人化

 ※P279上段5行目から6行目

→「一週間でやめてしまったそうです」

 タイトルを「冷やしそうめんとサラダ」としたのですが、作品では一箇所しか出てきません。そこの中味だしをタイトルと同じにした方が良かったのか、などと思ったりしています。

 

 

 泉恵子

 筆者北野さんの退職後二〇年間、「組合事務所」を守って闘った内容が活写されている。時折断片的に聞いていたが、とても内容の濃い仕事を続けていたのだと再認識すると同時に、ボランティアとして心を込めたエネルギッシュな活動に感心した。

 

 非正規労働者があらゆる分野で生み出されたのは、小泉内閣の「構造改革」からだったと思うが、医療現場においてもその嵐は吹きまくり、キャリアを積んでも三年、五年で退職や配置換えをさせられる。現場における大事な内容の医療が継続されにくく、人間関係にも支障をきたす。そんな職場にとってマイナスにしか響かない期限付き雇用を、三年から五年へと労働契約を変更させ

た組合活動。更に撤廃を求めた闘いの中で、事務所を訪れる人を励ましたり、アンケート調査をしたり、報告会では軽食を出したりと、あれこれ知恵を絞り骨を折って、組合事務所を守り活動を支援してきた姿に感服。

 いくつかの「小見出し」があって、その一つ一つがどれも

深い内容を持っているし、もっと広げたら更に良いドラマになるのではと思った。

 医療版『時の行路』にも匹敵する内容だと思

う。三〇枚の中に詰め込んでしまうにはもったいない。ドキュメンタリーとしても小説を読むような広がりと深みを持たせることもできると思う。

 タイトル「冷やしラーメンとサラダ」は、組合事務所を象徴する内容の言葉として選んだのだろうが、どうだろうか?

 副題として最期の歌に出てくる「漕ぎだそう!明日に向かって」等付けたらどうだろう?(平凡か?)

 

 

 

 松木新

コロナ禍で奮闘している医療従事者の実際は、テレビや新聞で知る程度でしたが、彼らの置かれている実態をリアルにつかめたことは収穫でした。北海道の基幹病院がこの実態ですから、他は推して知るべしでしょう。大企業優先、福祉切り捨ての新自由主義政策の矛盾が集中的に現れている職場で、ボランティアとして組合事務所の灯を守り続けている活動には頭が下がります。

北野さんを主人公にした小説をぜひ書いて下さい。

 

 

 

 豊村一矢

 二十五年程前、保健所法が地域保健法に変わり、全国の保健所が半減したと聞いています。大阪市などは二十四区全てにあった保健所が今はたった一つとか。このことがどんな結果をもたらすのか、

「冷やしラーメンとサラダ」はこの間の医療現場の実態を明らかにしてくれました。そして医療現場での筆者の仕事と活動も。想像を超える内容でした。

筆者がボランティアとして組合活動の拠点(事務所)をつくったわけで、私もこの事務所の筆者と文学会の用事で連絡をとったことがあり、感動し納得しました。

 

 

 

 室崎和佳子

「これまでお世話になった組合に何らかのお礼がしたいと思い、何か役に立つことはないか」「組合運動にとって働くものの砦となる事務所は大切なのだ」「今一番必要なのは、組合の事務所に、あかりが灯っていなければならないこと」と思い、ボランティアを申し出た北野さんの純な心根が、私を打つ。

 二〇〇〇年の退職以来二〇年以上も続いているのだから、世界広しと言えども、北野さんのような人はそうそういない。

 北野さんにとっては、組合は恋人以上の存在、なのだと思う。生活の一部どころか九割がたを占めるといっても過言ではないだろう。

 一方の見方をすれば、北野さんはとても幸せな人である。退職後の人生を捧げるにたる組合と出会えたのだから。私などは、北教組(ほっきょうそ)という、ろくでもない組合に高い組合費を取り続けられた恨みこそあれ、悲しいことではあるが一片の愛もない。

 題名の『冷やしソーメンとサラダ』についてだが、P279下段の後ろから4行目に「冷やしソーメンとサラダを準備した」と1行あるのみである。北野さんの思惑としては、愛情あふれる手作りの冷やしソーメンとサラダを食しながらの報告会ということで、暖かい組合活動を象徴したかったのだと思うが、もう少し冷やしソーメンとサラダのことにふれてほしかったと思う。

 

 

 

 柏原竜

今医療現場が疲弊しているが、なぜ生き生きと働けないのか憤りを感じる。人間の命を預かる医療現場で疲れきってやめていく様子が残念である。北野さんが定年になってもボランティアとして組合活動を支えている姿に感謝します。。医療現場の複雑な矛盾を、社会全体が理解することの大切さと難しさを痛感する。数ある「医療ド過酷な勤務や不公平な雇用形態、賃金などはほとんど描かれていない。こういうことを「ドラマ」にしてほしい。

 

 

 

 村瀬喜史

このドキュメンタリーを読み返しながら、この本をある人に売ってもらいたいと頼まれていたのを思い出した。今月中に囲碁の例会であう。忘れずに本をもっていこう。

北大病院の労働組組合ものがたりをドキュメントとして記録したものたが、民主文学の先輩たちは、たくさん小説として創作している。北野さんも挑戦しないか。田島会長は「時の行路」とか書いているし、各地で大学紛争もあるし、面白いものができるのでないか。

期待をこめて。

 

 

 

 森本のりこ

ドキュメンタリーという言葉は映画やテレビの紹介場面でしか聞いたことがなく、文書として読

むのは初めてです。

映画でもテレビでも製作の過程で作る人の思いが加味されていると思いますが、そういう意味でこの「ドキュメンタリー 冷やしソーメンとサラダ」も作者の思い入れで作られた作品として読みました。

作者はこのドキュメンタリーを通して何を訴えたかったのかと、想像しそれは職場の過酷さと正規職員になれない労働者の実態を暴きだしたのだと思いました。

専門用語が目立ち関係者には分かりやすいかもしれませんが、無関係の人には理解難しがたいところがあるかと思いました。

しかし働く人々の会話や看護婦の生の会話を通していかに職場が過酷か伝わってきました。

節ごとに分かれて書かれる記録の最後に作者の思いを付け加えてくれたらその事件も理解しやすくなったかなと思いました。

団交の時、管理職の雰囲気と労働者側の雰囲気の違いを作者はどう見てどう感じたのだろうかとフット思いました。

なぜ「冷やしラーメンとサラダ」なのか、このことが文章の中で見つけずらかったです。

組合運動と共に生きる作者の熱情が伝わってくる作品だったと思います。

 

 

 

 泉脩

  北野さんが北大病院のナースを定年退職し、その後ボランティアで組合事務所で働いた経験を書いている。北大が学校法人になり、数人の理事が運営するようになった。その中で、北大病院の職員への締め付けが強まり、非正規雇用が半数を占めるようになる。

 北野さんは、この非正規職員の待遇改善に努力してきたのである。

 私の父も、一人息子も北大病院の医師だったが、父は助手の給料を、無給であった副手の友人と半分分けしたという。息子は三〇歳の時、博士課程に呼び戻されたが、学生の身分なので、学位を取るまで無給医として働かされた。昔から医師も差別をされてきたのである。大学病院はこれが実態であり、多くの人が苦しめられてきたのである。

北野さんは、立派なエッセイストになった。

 

 

 

 

 

合評を受けて

           浅野勝圀

 

 エッセイを書いたことで、ぼくら日本人/日本国が尹東柱に強いた非業の死を共有することができたと思いました。

 尹東柱との出会いは、1975年金時鐘『さらされるものと、さらすもの』、1986年茨木のり子『ハングルへの旅』、1991年伊吹郷『空と風と星と詩』、1996年韓国留学ということになります。ソウル大学の語学研究所へは家内と二人で通いました。

 留学については、北見で担任した「在日朝鮮人」の子弟に学んだことが原動力になりました。

 尹東柱の質については、引用した大村益夫氏の読みに賛成なのですが、金時鐘は「序詩」を引用した上で次のように言います。「『序詩』でうたったなよなよしい詩心が、圧倒する圧政の嵐のなかでかぼそい生身を支えきり奥歯も砕けんばかりの変節の強制を命に代えて拒否しさった意志の核であったとは、息を呑むばかりの叙情の質だ」

「朝鮮の独立に関係したという罪名の実証が、禁じられた言語をもちつづけた詩人の、朝鮮人としての叙情であったことは、悲しくもきびしい栄光です」

 副題に反して作品の読みが不充分でした。後日を期したいと思います。

 岩井さんのおかげで、札幌にも「尹東柱を語る会」があることを知り、2月6日に岩井、後藤、浅野が参加しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 通信担当からのお願い

 四月から通常の集会形式の例会が行われることから、「例会紙上合評」は本号もって終了します。  

そのことにより、

 四月例会以降、「通信」の発行はその月の中旬に

頃になります。「投稿欄」等への原稿の送信は、例会日から一週間~十日以内お願いします。

間に合わなかった場合は次号に回すこともありますのでご了承ください。(豊村記)

 

 

 

 

 

               投稿欄

 

 

人との出会い 特別編 (おな)い年➃ 

泉  脩

 

男のいとこ

 昭和二十一年二月、父の急死で私たちは母の実家を頼って、札幌に移ることになった。敗戦の混乱に、特に食べ物の不足とインフレがひどかった。

母の両親、山内正三と倫はすでに亡くなり、母の年子の妹の孝子(こうこ)叔母さんが実家を守っていた。下に三人の妹がいたが、母と協力して次々と結婚させていた。特に和子叔母と優子叔母は大井町の我が家に手伝いに来て、ドレスメーカーを卒業していた。私がさんざん世話を焼かせた叔母たちだった。孝子叔母は小学校の教師になり、同僚の土岐新一郎さんと結婚していた。男の子が二人いて、次男の祥介が私と同年生だった。私より一年下だが、早生まれなので同学年なのである。

 このいとこと私は仲良くなり、特に遊び友達になって、現在まで続いてきたのである。山鼻小学校六年のクラスメートになり、新制の柏中学に進んだ。中学の二・三年は、私たちが転勤した武雄叔父一家の幌西の留守宅に移ったので、私も啓明中に移った。その後、私たちは山鼻の家に戻り、高校で再び一緒になり大学でも同じになった。クラスメートは小六の一年だけだったが、十数年同じ家で暮らしたのである。兄弟七人の大家族のようなものだった。

 母と孝子叔母が仲良く、二人ともしっかりと協力したので、子供たちも仲良くなり、順調に巣立っていった。最後に一人残った母を七十歳の時に私の家に呼び、十年間一緒に暮らした。

 祥介さんは北大工学部の土木学科で学び、ついには教授になった。たいへんな努力をしたのである。私立高校の教師で終った私には驚きだった。母方の祖父が東大出の技術者だったので、素質を受け継いでいたのだろう。

私たち二人は、ともかくよく遊んだ。野球を始めスポーツは何でもやったし、彼が何処かで覚えてきた囲碁とマージャンを私に教えてくれた。私はすでに将棋は知っていて、かなり強かった。囲碁も私の方が強くなった。マージャンは互角で、二人の兄弟や友人を加えて、よく徹夜で遊んだものだ。これは大学生になっても続いた。

スポーツは彼の方がずっと上手で、私は敵わなかった。しかし、ともかくいつでも遊び相手がいることで、私たちは楽しく過ごしたのである。

勉強は私が少し上で、彼は北大に一年遅れて入学した。私の弟も同じだった。ところが彼は教授になり、弟は医者と教授の両方になった。私は高校の途中から文学に熱中して、学者にも医者にもならなかった。

さらに深刻なのは、二人の思想的対立である。彼は自民党支持、私は共産党支持にまったく分かれてしまった。だから、意見が合わず、日常の付き合いもしなくなってしまった。大人の世界になったのである。

しかし、彼のもっとも良いところは、友人を大切にし、親せき付き合いに律儀なことである。冠婚葬祭はきちんと付き合い、決しておろそかにしなかったことである。彼の父親の人柄を受け継いでいたのだろう。

私と結婚した小畑春美と中学一年の時のクラスメートで、二人は仲良しだった。男子は早飯をして、昼休みに弁当を食べる女子にたかるのである。小畑春美はいつも土岐祥介に弁当を分けたという。だから、高校二年でクラスメートになった私よりも、ずっと早く二人は友人になっていたのである。妻は時々私に、彼のエピソードを話してくれて、彼にはずっと好意をもっていた。だから彼も、私たち夫婦との交際は続け、妻が亡くなった時は、妻の死に目に駆けつけてくれた。そして、葬儀には骨拾いまでしてくれた。だから私は、彼には頭が上がらないのである。

私たちはそれぞれ定年退職をし、彼はその後も私大で働き、公的な仕事にも就いた。そして、八十歳を過ぎて、二人とも引退状態になった。私は文学活動に打ちこみ、次々と本を書いた。彼はなんと、合唱団に入りコーラスに努めるようになった。これは彼を知る人には驚きだった。私はこれまで彼の歌など一度も聴いたことがないのだ。

私は彼の加入した響友会のコンサートを聴きに行き、心から感銘を受けた。彼は私の作った多くの本をすぐ読んでくれた。親せきの家系図を載せた本を作った時には、真っ先に原稿を書き、家族の写真を貸してくれた。

昨年(二〇一九)、彼が言い出した「いとこ会」に私が賛成し二人で呼びかけて、初めて母方のいとこ会を開いた。マタいとこも出席してくれたので、祖父母の出身地にちなんで「鶴岡会」と名付け、八人(男二人、女六人)が出席した。

うれしい一日であり、彼との仲が復活した記念すべき一日になったのである。

 

 

 

三間 浩「続 色鉛筆」

若い女性の心のうち

             泉  脩

 

 彩花(あやか)は高校二年生。親友の瑞穂(みずほ)に誘われて、瑞穂の家の二階に下宿するようになる。瑞穂は川嶋和菓子店の一人娘で、二人は二年生からもクラスメートになり、三年間同じ教室で過ごすことになるのだ。

 彩花は子供の頃に交通事故で両親を失い、伯母夫婦に引き取られた。高校入学後は電車通学になり、なにかと不自由で二年から下宿暮らしになったのである。本屋のアルバイトにも好都合だった。

 彩花はイラストが好きで、授業中もノートの片隅にイラストを描いていた。ある日、藤岡書店の主人の義樹からもらったイラスト集で、イラストライターの高山が私塾を開くと知って、彩花は参加申し込みの手紙を書き、一人で彼の家を訪ねる。ところが、彼は若い女性を騙す詐欺師で、彩花は危うく逃れ、雨の中ずぶ濡れで本屋にたどり着く。義樹と女店員の中田は彩花を介抱し、入院させ危うく助かる。低体温症で命が危うかったのである。

 彩花は自分の間違いを認め、あらためて義樹の愛を受け入れるのである。

 この作品は前作「色鉛筆」のヴァリエーション(変化)である。前作では、彩花は伯母夫婦の家で実子との差別を感じ、自分の居場所が無い―と感じていた。そして、たまたま見つけた本屋のアルバイトに努め、かなり年上だが独身の本屋の主人に恋をして、二人は結婚の約束をするのである。

 この「自分の居場所がない」という思いは、子供には辛いことであり、特に若い娘には、耐えがたい苦しみである。施設に入るよりはましかも知れないが、近い親せきの家でも他人の家であり、苦しむのである。彼女が高校二年から下宿すると言うと、伯母は息子夫婦が戻ってくるので、好都合と認めるのである。幸い親友の家は温かく、二人は仲良く過ごすが、やはり彩花は自分の才能を生かして自立を目指し、失敗するのである。そして、自分と同じように家庭の事情で独身を余儀なくされてきた本屋の主人義樹との愛情を再確認するのである。

 作者の三間さんと私は二年前の研究会で会い、前作の作者が女性でないことを知ってびっくりした。若い女性の揺れ動く心境を巧みに書いているので、てっきり女性の作品だろうと思ったのである。

 それにしても不幸な境遇の中で、苦しみながらも、親友との付き合い、本屋のアルバイトと本屋の主人との恋が、とても上手に書かれていて、心を打たれた。今回は更にイラストへの熱中が書かれていて、この部分が今後どう発展するか楽しみである。

 三間さんは私との会話で、「私は、男は描けません」と話していたが、本屋の主人(のちに夫となる)の義樹や、川嶋和菓子店で働く元ツッパリの佐伯がよく書けていると思う。

この物語が、やはり不幸を抱えたこの二人も交えて、どう発展するか楽しみである。

 世の中、不幸を抱えて生きている人がとても多い。体や心の病気、事故、家族の死、あるいは失業や倒産など、実に不幸は多い。私も小学五年の時に父が亡くなり、貧しい暮らしの中で成長した。そして、学校でも勤めの中でも、多くの失敗をした。それでも多くの人との出会いで助けられた。

 この物語は私にとっては切実な他人事ではない内容であり、心に沁みたのである。

 

 

 

カズオ・イシグロ『クララとお日さま』の魅力

               松木 新

 

3月2日、カズオ・イシグロが長編小説『クララとお日さま』(早川書房)を、世界同日で発表しました。ノーベル文学賞を受賞してから初めての、6年ぶりの新作です。

近未来のアメリカを舞台に、十代の子どもの友人役(AF)として製造された、人工知能(AI)搭載の人型ロボット(アンドロイド)であるクララと、病弱な少女ジョジ―との、出会いと別れを描いています。クララがこの物語の語り手であるところに、この作品の面白さがあります。

「アダム」という名のアンドロイドが登場する小説を、イアン・マキューアンが2019年に発表しています。日本語版『恋するアダム』は、「新潮クレスト・ブックス」として、今年の1月に発売されています。この小説の舞台は近未来社会ではなく、1982年のイギリスですが、フォークランド紛争でイギリスが大敗、ケネディは狙撃されるけれども一命を取り留め、カーターはレーガンを破って二期目の大統領に当選するなど、歴史上の大事件がすべて逆転した世界という設定です。小説の作り方としても面白い試みといえます。

『クララとお日さま』ですが、3月3日の「朝日新聞」インタビューによると、カズオ・イシグロの念頭にあったのは、「クリスパー・キャス9」と呼ばれるゲノム編集技術だといいます。

昨年のノーベル化学賞を受賞したこの技術は、がんや食糧問題の解決に期待が掛かる一方、「デザイナー・ベイビー」の誕生の懸念があります。容姿や知性、運動能力が高い子どもを、遺伝子操作で誕生させてしまう危険性です。〈この技術がメリトクラシー(能力主義)と掛け合わさったときに到来するのは、南アフリカのアパルトヘイトのような、かなり残酷な世界です〉というカズオ・イシグロの危惧は共感できます。

この物語の第一の魅力は、AIが人間の心、魂を認識できるのか、という問題提起です。

クララは、図抜けた観察力と学習意欲を持ち、〈見えるものを吸収し、取り込んでいく能力〉、〈精緻な理解力〉にすぐれています。そのクララが、ジョジ―の心、魂を取り込んで、最終的には、〈ジョジ―を継続〉することが可能かどうか。科学者の見解は次のようなものです。

〈現代の技術を使えば、なんでも取りだし、コピーし、転写できる。人間が何十世紀も愛し合い憎み合ってきたのは、間違った前提の上に暮らしてきたからで、知識が限られていた時代にはやむを得なかったとはいえ、それは一種の迷信だった・・・・・・。〉

第二の魅力は、格差社会への警鐘です。

子どもたちは、「向上措置」(AGE)と呼ばれる遺伝子操作を受けるかどうかで、将来ビジョンがまるで異なってきます。ジョジ―の男友だちリックなど、経済的もしくは他の理由で、「向上措置」を受けられない子どもが数多くいます。彼らに許されている大学受験は一校だけで、合格率は二パーセントです。子どもたちのコミュニティーでは、侮蔑の対象になっています。

大人の社会では、かつて、それぞれの職業でエリートだった白人たちが独自の社会をつくり武装して、よそ者を排除しています。〈ファシスト的〉共同体の誕生です。

第三の魅力は、地球危機への警鐘です。

クララのエネルギー源は太陽光です。それだけに、クララにとって、お日さまは特別な存在です。(イアン・マキューアンのアダムのエネルギー源は電気で、〈毎夜六時間、十三アンペアのコンセントにつながる必要〉があります)。

ジョジ―の病気を治すために、クララはお日さまにお願いをしたいと考え、お日さまが一番いやがっている地球温暖化の原因である大気汚染を無くそうと奮闘します。

大気汚染の原因が、クーティングズ・マシンという三本の煙突から排煙を撒き散らす建設機械にあることを嗅ぎつけたクララは、その機械を壊すために、自分の頭の中にある〈P--G9溶液〉を取り出し、機械に注入し破壊します。そのためにクララの認識機能は低下してしまいます。ジョジ―のために我が身を犠牲にしたのです。〈P--G9〉が「クリスパー・キャス9」からの連想であることはいうまでもありません。

 

この物語は、臓器提供のために、クローン技術で生まれてきた子どもたちの運命を描いた『わたしを離さないで』(早川書房 2006年)に連なる作品です。

カズオ・イシグロは前述したインタビューで、格差社会の現実に厳しい視線を送っています。

〈かつて人々は共産革命を恐れ、格差に対する警戒心を持っていたが、冷戦崩壊以降、持つ者と持たざる者の格差は開き続けている。よくないことと分かっていても実際に正そうという力が存在しない〉

〈実際に正そうという力が存在しない〉というのは悲観的過ぎますが、文学の力で、格差社会に警鐘を鳴らし続けている姿勢には、学ぶべきものがあります。

かつてカズオ・イシグロが、次のように語っていました。

〈私にとっての挑戦は、今までと違うものを書くこと。「あるテーマについて衝撃を受けたいなら、この本を読むべきだ」と言われるような小説を書きたいですね〉(「朝日新聞」2009年7月20日付)

この小説は、AIについて〈衝撃を受けたいなら〉、まさに、〈読むべき〉作品といって良いでしょう。

 

 

 

松本ひろ「海霧の中で」

     酪農にかける若い夫婦

泉   脩

 

道北のオホーツク沿岸の谷間に二軒の酪農家が、がんばっていた。その一軒の大川文信の牧場に、忍が手伝いに来ていた。彼女は京都の高校二年生で、友人から教師の両親の悪い噂を聞かされ登校拒否の引きこもりになり、高校を中退した。北海道の帯広畜産大学で学ぶ姉が心配して、彼女を大川文信の牧場に世話したのである。

大川夫婦は酪農のかたわら、酪農を通じての教育、啓もう活動もしていた。忍はきびしい労働の日々を過ごしながら、自然の移り変わりと、牛などとの接触の中で、次第に心が癒されていった。

酪農の忙しい仕事が詳しく書かれ、自然の美しさと厳しさが見事に書かれている。利尻島から来た三〇人あまりの高校生を相手に、大川夫婦が酪農の仕組みを話し、バターとアイスクリーム作りの体験をさせ、高校生たちを惹きつけた。忍は手伝いながら、高校生が変わっていく様子を見て自分も感銘を受けた。

忍の滞在が一年、二年と経つうちに、彼女はすっかり立ち直り、姉からの手紙で両親への誤解も解消した。

さらに東京から来た(たける)と親しくなった。彼は家庭の事情から、小四から中三までこの地に里子に来た。東京に戻って高校、大学を卒業したが、酪農への関心が強くなり、戻って来たのである。かつての里親の牧場は父親の死去で廃業していたが、武は里親だった母親を助けて再開を目指した。

武と忍は稚内での酪農講習会に通って、酪農の知識を学び、その後恋仲になり、地域の人々の好意と援助のもと、結婚して牧場経営に努める。

物語の最後は、子供を宿した忍と武が、自分たちの牧場で放牧された牛を牛舎に呼び込みながら美しい自然を眺めていると、海から登ってくる海霧に包まれ、その中を生まれたばかりの仔牛を連れて母牛がやってくるのである。なんとも心温まる情景である。

この作品を書いた松本ひろさんは、永らく農協に勤め、農業新聞の記者になり、かたわら小説を書いてきた人である。かつて稚内にいた高橋篤子さんと文学活動で親しくなり、高橋篤子さんが夫の退職で白老に移ると、彼女が中心の日本民主文学胆振・日高支部に属して活動を続けてきた。「北海道民主文学」に投稿し、全道研究会に出席してきた。

私は三年前(二〇一八)に研究会で松本さんと出会い、合宿なので部屋も一緒になった。この時の松本さんの作品は、中学の女教師が、自分のクラスのいざこざに苦労する話だが、考え方が正しくて気持ちの良い作品だった。作者は女教師の夫の農協職員として登場している。女教師がガンで死去する結末は悲しいが、教え子たちとの結びつきに胸を打たれる。さわやかな作品である。

松本さんは二作続けて若い女性を主人公にする小説を書き、教育の世界と酪農の世界をリアルに巧みに書いている。考え方や内容が前向きで読み応えがある。フィクションを上手に使った立派な作品だと思う。

この物語は、食料自給率三七%という日本の現状に触れ、大企業中心で日本人の食料を輸入でまかなおうとする自民党政権を鋭く批判している。そして、日本の食糧基地である北海道の農業・酪農を守ろうとしている。北海道の民主主義文学にふさわしい作品である。道北の気候はきびしく、後継者不足もあって離農が多い。機械化、大規模化で乗り切るという政府の方針もスムースにはいかない。

こういった現実を仕事柄、松本さんはよく理解しているのだろう。細野さんと松本さんのお陰で酪農のことを知り、進藤さんのお陰で漁業のことを知った。

民主主義文学は、よいものである。

 

 

 

思いださせてくれた

奈井江のこと、ゴルフのこと

                       村松 祝子 

 

今回の「北海道民主文学VOL.23」に掲載された豊村さんの作品の「十六番ホールの桜」の中で奈井江という地名が出てきました。

「え、えぇ!‥‥奈井江だって!」と心の中で多少の感慨が動いたのですが、「懐かしいなあ」くらいで読み過ごしていました。

しかし「札幌民主文学通信267号」の2月例会誌上合評で再び豊村さんが「十六番ホールの桜」について書かれている文中で「奈井江カントリークラブは実在し、札幌圏有数のゴルフ場です。住友石炭鉱業が奈井江炭鉱を廃坑にしてゴルフ場を造成したものです。」の項を読むと奈井江という町を応援してくださっているような気持ちになり嬉しくなりました。

実は私が中学一年から高校三年まで青春を過ごした地が奈井江町でした。

それまで札幌に住んでおりましたが、父親が職場で汚職事件を起こし知人を頼って都落ちするような形で奈井江に転居したのです。

さらに父が就職した先がなんと「新奈井江炭鉱」という会社であったと記憶しています。家八人は街の中に住み父の会社がどこにあるかも意識せず新しい中学で初めて英語というものに接し、興味津々でした。はじめのうちは札幌から来たという奇異な目で見られましたが今思えば皆それぞれの苦難を背負っていたのだと思います。       ある友達は戦争で父を亡くし母はその父の弟と結婚させられ新しい父は飲んだくれで母親の稼ぎで家計が成り立っているような家庭でした。

ある男子生徒は白山と言われる炭鉱から通学していたのでしょうか? なぜそんなに荒れるのかわかりませんでしたが弱い女の子ばかりをいじめて彼女が座ろうとする椅子を足を絡ませて椅子をさっと倒したりして、戦後の荒れた世相がこんな小さな田舎町にも満遍なく押し寄せていたのだと思い出されます。 

その彼と「村上國治を救え」と言う集会で偶然会ったのも、奈井江という町に住んでいたからでしょうか。

それでも突然田舎町に引っ越してきた当時の私には刺激の少ない、これといって興味を引くものもなくただ漠然と過ごした六年間だったと思います。

その後札幌に出てきて現在に至るのですが退職後六〇才過ぎた頃から主人に誘われてゴルフを始めました。

その頃「奈井江カントリー」で「日本女子プロゴルフ選手権」が開かれることを耳にしました。

奈井江にそんな立派なゴルフ場があるなんて驚きでしたが、後年車で近くを通って山の中を走っていたとき偶然そのゴル場近くを通ったのです。  

木々の間から垣間見られるバリカンを当てたような芝生の美しさをちらり、ちらりと見せつけられて「ははあ〜ん ここが奈井江カントリーゴルフ場か」と思って通り過ぎた思い出があります。

「十六番ホールの桜」の沙希さんはあの手入れの行き届いたゴルフ場でプレイしたのですね。 その姿が浮かんできます。

私のゴルフの仲間に「佐藤さん」という女性がいました。

ある日、彼女が「村松さん! 九州へゴルフしにいかない?」と言います。  

「なんで九州まで行くの? ここで十分だよ!」        「実はねぇ、大会があって、そこへタイガーが来るんだよ。握手なんか出来るかもしれないよ」とニンマリ笑いながら誘われました。

頭からあほらしい話だと相手にしなかったのですが、テレビでタイガーの顔を見ると、あの時、九州へ行ければよかった、タイガーと握手するチャンスを逃したのだ、と老いらくの恋のように懐かしく思い出だしたものです。

ゴルフの腕前はたいしたことない私が、ある日ニセコのゴルフ場でドライバーで打った球が大空に吸い込まれていったのです。

その球は生き物のようにどんどんと遠くの空に吸い込まれて、ニセコの山を目の前にして自分が鳥になった気分でした。それはまた札幌ドームでいいおばあちゃんがホームランを打った感じと同じかもしれません。

ありえない奇跡がスポーツでは起こるのです。

ゴルフという競技はそれぞれの体力に合わせて楽しめる競技です。

年齢のいった人も長くできるスポーツです。 

十五、六年前、アメリカにいる息子を訪ねてイサカという街へ行きました。 

そこの街に気さくにプレイできる庶民的なゴルフ場がありました。 そこで息子をまじえて三人でゴルフをした時、五六、七才のアメリカ人男性が我々三人に近づいてきて気さくに仲間に入れてくれと声をかけてきたのです。

ゴルフという競技の特殊性かもしれませんが、初対面の、それも彼から見たら外国人である私たちに友達のように声をかけてくる気持ちのおおらかさに驚かされました。

 びっくりした三人は慌てて断ってしまったのですが、それにしても肝のすわってない(うふふ……)三人組でした。

ニュージランドでは農家の人が仕事を早く切り上げて帰りにゴルフ場によってゴルフをして帰るとか……一五、六年前の話ですが現在はコロナでどうなっているのでしょうか。

日本にも安くできる公共のゴルフ場があちこちにあって、小学生から教科の中に組み込まれるならなぁと、未来の豊かな日本を夢想します。

 

 

 

『死を乗り越える読書ガイド』から

後藤守彦

 

先日、母校の文学部同窓会報が届いた。それを開いて、二〇一九年、東北大学の文学研究科に死生学・実践宗教学分野が新設されたことを知った。二万二〇〇〇名以上の犠牲者を出した東日本大震災の際、死者を弔い被災者を精神的に支えた宗教者の活動を契機に、二〇一二年、全国で初めて設けられた臨床宗教師養成講座が母胎となっている。

紹介記事の中にあるグリーフケアやスピリチュアルケアという言葉に興味をもったところで、一条真也の『死を乗り越える読書ガイド』(現代書林、二〇二〇年)に出合った。何とも刺激的なタイトルである。「はじめに」で著者は問いかける。

 

「死」は、わたしたちにとって最重要テーマです。わたしたちは、どこから来て、どこに行くのでしょうか。そして、この世で、わたしたちは、何をなし、どう生きるべきなのでしょうか。

 

死をめぐっては、自分が死ぬことへの恐れと他者の死への悲しみという二つの問題がある。一条は、「死別の悲しみに対処する行為をグリーフケアといいますが、もともと読書という行為そのものにグリーフケアの機能」があると確信している。本書で紹介されているのは五〇冊であり、死後の世界の存在と霊魂の不滅について肯定的な一条の立場が選択に反映しているのだが、小説もかなり含まれている。その中から比較的新しい五作品を選んで一条とともに考えてみたい。テーマによるグルーピングによらず、発行順に進めることにする。すべて二〇〇〇年代のものである。

重松清『その日のまえに』(文藝春秋、二〇〇五年)の、タイトルにある「その日」とは死ぬ日のことで、他者の「その日」と自身の「その日」がある。他者の「その日」を幾つか体験して自身の「その日」を迎えるのが普通の流れだが、幼くして若くして「その日」を迎えるのは、自身にとっても残された人にとってもつらく悲しい。この作品は七編の短編からなるが、後半三編「その日のまえ」「その日」「その日のあとで」は連作となっている。主人公の「僕」は四四歳、同い年の妻和美との間には、中学三年生の健哉と小学六年生の大輔という息子がいる。その和美が末期癌の告知を受ける。僕は静かに死んで行く和美を見つめ、涙を流す息子二人の肩を抱きながら、心の中で叫ぶ。

 

悔しくないか?

 悲しくないか?

 なぜおまえだったんだ?

 健哉が言っていたとおりだ。

世の中にこんなにたくさんのひとがいて、こんなにたくさんの家族があるのに、どうして和美だったんだ? どうして、わが家だったんだ?

悔しい。

悲しい。

 

妻を親身になって世話してくれた山本美代子看護師長が、生前に和美から預かった手紙を届けにくる。山本は、死んで行く人にとっても後に残される人にとっても、生きることの意味と死ぬことの意味を「考えることが答え」だ、と僕に語る。山本にも抱えている死があった。小学六年生の時に、同級生の女子が白血病で入院し、学校に戻ることなく中学一年生の秋に亡くなった。学級を代表して見舞った時に渡した色紙に描いた絵をめぐって、死ぬことの意味がわかっていなかった、と今も悔いている。その小学六年生の時の出来事が、最初の短編「ひこうき雲」に詳しく描かれている。このように、後半の三編と前半の四編は少しずつではあるがつながっている。この短編集は、「死の「おそれ」と「かなしみ」を正面から描き、それらを乗り越える生き方を示してくれる稀有な小説である」と、一条は高く評価している。

静人は、天童荒太『悼む人』(文藝春秋、二〇〇八年)の中で、殺人や事故などで亡くなった人を悼むため、全国各地を旅している。亡くなった地を訪れ、亡き人への想いをはせる儀式をとりおこなう。儀式をとりおこなうに当たっては、亡き人が「誰を愛したか。誰に愛されたか。どんなことで人に感謝されたことがあったか」の三つを訊いて歩く。その三つを知れば、その人のことを心に刻んでおける。冥福を祈るというより、亡き人を忘れずに覚えておこうとする、それが「悼む」ことだと静人は考えている。静人と、癌で死期が迫っている母や父・妹の葛藤や、途中から静人と行動をともにする夫殺しの女性との関係も描かれる。

「悼む人」静人に、亡き妻のことを話したい、悼んでほしいとある男が願った。耳が聞こえない妻は、過積載のトラックの荷台から崩れ落ちた鉄骨の下敷きになって死んだ。男が知ってほしいという、若き日に妻と愛を確認した場面は、実に美しい。

 

妻の細い指が優雅に動くその手話の美しさ。手話で「愛している」と告げられたときの喜び。私が手話で愛を伝え返そうとすると、唇を読むからと、あえて口で「愛している」と言わせたときの彼女のいたずらっぽい瞳の輝き。

 

一条は、この作品には常日頃から考え続けていることが、そのまま書かれている、それは、「死者を忘れてはいけない」ということであると力説している。

宮部みゆきの『小暮写眞館』(講談社、二〇一〇年)は、「死者を必要とする人の物語」だ、と一条はいう。元写真館であった、築三〇年以上の古家を購入し、補修はしたが、写真を飾っていたウィンドウなど店の形を基本的に残したまま花菱一家は居住する。主人公の長男英一は写真館の主であった、亡くなった小暮老人の存在を感じる時がある。花菱一家は両親と英一と光兄弟の四人家族だが、子どもは実はもう一人いた。英一は今高校一年生だが、一〇歳の時に、四歳の妹風子が病死しているのである。風子の幼い死について家族それぞれが罪の意識を持っている。心霊写真が持ち込まれ、英一がその解明に当たるところから話が動いて行くのだが、傷ついた家族の再生に英一が大きな役割を果たす。

一条はまったく言及していないが、英一はもう一つの再生の物語にも関わっている。英一がボンヤリとではあるが、恋心を抱いた、二〇代の垣本順子。花菱一家に古家を斡旋した不動産業者須藤の下で事務員として働いている順子は、親による虐待から逃れて来て、薬物依存症に苦しんでいる。家族の再生のため必死になる英一をみて、順子も親との関係の修復のため走り出す。順子は英一と別れることになるのだが。

読んで引用したいと思った文章が、一条が選択した唯一のものと一致した。それが、順子の雇い主須藤の言葉で、作者の思いが集約されている。

 

生きてる者には、ときどき、死者が必要になることがあるんだ。僕はそれって、すごく大切なことだと思うよ。こういう仕事をしてるとさ、この世でいっちばん怖ろしいのは、現世のことしか考えられない人だって、つくづく思うから。

 

辻村深月は『ツナグ』(新潮社、二〇一〇年)で、生者に一生に一度だけ死者との再会をかなえてくれる、死者と生者をつなぐ使者をツナグと名付けて描いている。死者が断れば、会いたいと生者がいくら切望しても、再会は実現しない。時間は夕方から翌日の夜明けまで、たった一夜である。死者は生前と同じ姿で現れる。幽霊なのだろうか。

 ツナグは高校一年生の男子で、突然死したアイドルとファンのOL、癌で死んだ母と息子、事故死した親友と女子高校生、失踪した婚約者の女性と会社員とを仲介する。この最後の話が実に切ない。大学を卒業し就職してから三年目の年に、会社員の私は、街で家出少女がケガする場面に出合う。私は彼女を助け、病院にも付き添う。二人は愛し合うようになり、私の家で暮らし婚約する。しかし、突然彼女は姿を消す。婚約指輪を持って。私は必死になり、彼女を探し回るが、見つからない。ツナグに頼んだところ、彼女がフェリーの沈没事故で死んだことを知らされる。そして、ツナグの仲介で再会した。彼女は九州の実家に行き、両親に詫び、婚約を知らせるつもりだったのである。

 ツナグの存在は絵空事かもしれないが、心惹かれるものがある。もしも自分が「あなたは誰に会いたい」と訊かれたら、どう答えようか。そもそも会いたいと切に思う死者がいるのだろうか。生きている人間が死んだ人間に縛られるのはおかしいという考えがあるだろうが、一条は「死者を忘れて、生者の幸福などありえません」と断言している。なお、十年ぶりに待望の続編『ツナグ 想い人の心得』(新潮社、二〇一九年)が刊行された。

 最後に取り上げるのは、村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、二〇一三年)である。多作の作家だから、他の作品群との関連や村上ワールドでの意義を検討する必要があるが、村上作品に数多くはふれていないので、あくまでもこの作品に限って考えたい。書き出しに「大学二年の七月から、翌年の一月にかけて、多崎つくるはほとんど死ぬことだけを考えて生きていた」とあるように、主人公のつくるは自死するところまで追い詰められていた。それは、高校時代に形成された、固い絆で結ばれたグループから、何の説明もなく絶交されたからだった。五人とは、つくるのほかに、赤松・青海とあわせて男三名と、白根柚木・黒埜エリの女二名である。大学卒業後、駅の新築・改築を業務とする会社に就職し、夢をかなえたつくるだったが、失ったものを取り戻すため、愛する、二歳年上の沙羅に励まされて、四人に会おうと決めた。先ず、なぜ彼らが自分を拒絶したのかを明らかにしようと思ったのだが、一人には物理的に会えないことを知り、衝撃を受ける。高校時代に心惹かれていた柚木は既に亡くなっていたのである。

 赤松・青海と再会した後、つくるは、フィンランド人と結婚したエリに会うため、ヘルシンキに向かう。フィンランドでの永住を決意しているエリとの対話。話題の中心は死んだ柚木である。エリとの再会が巡礼の旅、再生の旅の総決算となる。タイトルにある「色彩を持たない」は、個性がなく空っぽという意味だが、つくるがそう思いこんでいただけ、とエリにいわれる。エリの家で、リストのピアノ独奏曲集『巡礼の年』のレコードを聞きながらつくるは気づく。

 

人の心と人の心は調和だけで結びついているのではない。それはむしろ傷と傷によって深く結びついているのだ。痛みと痛みによって、脆さと脆さによって繋がっているのだ。悲痛な叫びを含まない静けさはなく、血を地面に流さない赦しはなく、痛切な喪失を通り抜けない受容はない。それが真の調和の根底にあるものなのだ。

 

 

 自然や人物の描き方、特に楽曲や演奏についての解釈と描写は見事だった。まさに色彩感にあふれた作品である。一条の結論、「国民作家によるグリーフケア文学」を付しておく。

札幌民主文学通信

二〇二一年〇二月〇一日 267号

 

 

2月例会誌上合評

 

「北海道民主文学」23号

 

小説『共に生きて』 作・柏原竜

 

 筆者より

作品を書き上げるとほっとして読み返すことがありません。しかし、今回の『共に生きて』は、感想文を書かなくてはならないので、初めて何回も読み返しました。

      読みづらい作品で筋ばかり追いかけてもっと登場人物に寄り添って丁寧に書けばよかった。

      理屈っぽくて疲れる内容だ。作者の思いが読者に通じるように書けたのか不安だ。

      元オリンピック組織委員長の森喜朗氏の「わきまえる」発言が日本国中で批判を巻き起こしている。日本は男女を問わず対人関係で「空気を読め」「時と場所を考えろ」「全体の流れをこわすな」とか個々人の意見を抑え込むことが多い。人の意見を的外れとか、一方的とか決めつけず、もっと尊重すべきだ。

 

 

 泉脩

 九〇歳の母が老人ホームに入ったので、六〇歳の娘が叔父(母の弟)と見舞いに行く話。娘にしても、夫を失い子供は巣立ち、離れた地で暮らしている。

 母は元気で、娘と弟を相手に昔話をする。亡くなった夫(父)と共に、共産党の活動を続けてきた人だ。

自分の車で来た娘は、叔父を旭川市内の叔父のアパートに送る。そのアパートに住む中年の節子を、最近愛し合うようになったトラック運転手が訪ねてきて、娘とあいさつを交わす。

 十年位前から始まった連作の最近作で、主人公の節子は、今回は脇役である。節子は、不倫をした夫と別れ、小さい娘とこのアパートに住み、リストラによる失業、ケガによる入院で苦境に立ったが、地域の共産党員に支えられ元気な娘も高校生になった。

 旭川の下町に住む人々の生活が細やかに書かれ、とても興味深い。身につまされる話が多く、私は旭川版「女はつらいよ」と呼んでいる。今後どう発展するだろうか。

 

 

 石川節子

さりげない日常に空気のごとく自然に馴染み合う「共産党のある生活」の中で、競り合いながら育まれている、お馴染みのメンバー。

しかし、いつもでてくる「岸さん」の名前が、私には苗字なのか下の名なのか、まだ、わからない。また、題名の「共に生きて」の「共に」が、誰と誰の事なのか分かるのに時間を費やした。

私の読解能力が一段と低下したことを、思い知らされました。

 

 

 豊村一矢

 期待通り、岸さん、ヒガちゃん達と再会した。今回はとても懐かしく、作品に没頭できた。シリーズもので作品の世界に馴染んでいるからかも知れないが、『共に生きて』の人々の中に自分も居るような気分になった。

 一方、気になったのは、初めてこのシリーズを読む人には、登場人物の人間関係が解りにくいのではないか、ということでした。

 

 

 松木新

タイトルから推察すると、作者は、肌が合わない黒田と友子の行き方を通して、コロナ禍の下、人はどのような行き方を追求すべきかを、問いかけているようですが、ぼくは黒田の生き方に興味を持ちました。

〈物怖じしないで誰とでも何処ででも、話しかけて行く人だ。だから、友人知人をたくさん持ち、その明るさと人見知りしない性格が、共産党の演説会の呼びかけにも力を注いだり、赤旗の拡大にも大きな力を発揮した〉

このような黒田だが、他方では、生活保護の相談者を〈働きたくないのよ〉と突き放したり登校の子どもで苦しんでいる母親に、〈親が甘やかしているからだ〉という。挙げ句の果てには、〈あの子の親はアイヌだ〉などと言う。

黒田の意識の後進性は、黒田個人の特有のものではなく、むしろ、未だこの社会から払拭されていない一般的な風潮です。歴史的に形成されてきた負の遺産に絡め取られている人々が、その対極にある共産党を支持する平地に立っているところに、転換点にさしかかったこの国の歴史の歯車の音を聞く思いです。

〈共に学び共に成長するという、仲間との連帯感〉を、どのようにして育てていくのかーこの小説を読む者に、問われていると思いました。

【気づいた点】

   岸と久美子を使い分けているはよくない。読む者が混乱します。

   セリフが全体的に硬くぎこちない。セリフだけでもよいので、誰かに声を出して読んでもらい、それを聞くと、セリフの不自然さに気付きます。

   ヒガちゃんと節子は、これまでの柏原作品を読んでいる人には馴染みの人物ですが、はじめてこの小説を読む人にとっては、物語の本筋からそれる不必要な人物です。あえて登場させる必要はなかったのではないでしょうか。

 

 

 室崎和佳子

柏原さんの小説に出てくる人は私の記憶の限りでいうと、岸さん、ヒガちゃん、節子さん、ミキちゃんだが、今回から岸さんの姪の真理とその母(岸の姉)である森友子が登場し、後者三人(含 岸)が主な登場人物である。

 

 森友子が旭川の施設に入ることになり、その娘の真理も旭川に引っ越して来て、岸の真向かいのアパートに住むことになった。つまり、節子さんとミキちゃんが住んでいるアパートである。

 柏原さんは人間の配置が面白い。この小説に限らず、登場人物を互いが可視化できる範囲に存在させている。遠くに離さないで、お互いが近くでじっくり観察しあいたいんだな、などと筆者の好みを思ったりもした。

 真理の住んでいる部屋がアイドルのポスターやグッズでいっぱいだ、というところが、正直言ってびっくりした。真理は確か六十歳近いはずだが。でも、年齢だけで判断するのは差別なのだ、と気付かされた。何歳になってもアイドルを追っかけて何が悪い、誰かを傷つけるわけではないのだから。という声が聞こえてくる。

 恥じ入るばかりである。

 

 真理の人間性がだんだん描かれてきて面白くなってきたなと思った矢先に、突如、小説は終わりを告げる。

 柏原さんに聞きたいのですが、本当はまだまだこの続きを書きたかったのではないですか。どうなのでしょう。

 

 

 森本のりこ

森友子(80代後半)、その妹岸久美子(七十代後半)、友子の娘真里(五〇代後半)、の女三人のこれまでの人生を語り合っている。

各人の生き方を通して最後に「大丈夫、大丈夫、元気に行こう」真里はつぶやきながら、手を大きく振って帰っていった。の終わり方は読む者にも呼びかけていると感じた。

 

岸の語りを中心に進むのかと思ったが真里の語りが中心に語られている。

真里は世間の家庭と違う活動家の家庭環境で育った。

母親は地域の共産党後援会の会長として活躍していた。  そんな母親の姿に抵抗してきた。

しかし今では母親への反発を乗り越えて施設に入った母友子の元へ足繁く通うのだった。

社会に出て母親のしている活動がいかに壮大で

大変なことかを理解する。

美容室で仕入れてきた話だと言いながら「日本の食糧自給率は低くて外国に胃袋捕まえられているらしい」と語る娘に成長している。

後援会の組織の中の人間関係も垣間見られ、いろいろな人間を含めて活動していく難しさも描いている。

人と人とが心を割って話し合いお互いを認め合っていくことは組織の中ばかりでなく日常の生活でも大切なことだと思いながらこの作品のポイントはここなのだと思った。

家庭の中ではかかあ天下の感じの友子も、組織の中では自分の胸中を語ってこなかったのかなと想像しました。

話の内容がわかりやすく時間の経過もわかりやすかった。

会話文の末尾が門切りに感じられたが、普段こいうような会話をしているのかなと思いました。

会話が続く箇所では誰の会話かちょっとわかりづらい部分があったように思います。(ページ一三八の下段の最初の行から六行目 「私達の年代は、共産党と言うと息をひそめられるような時代‥‥」は岸の会話だと思いますが、真里かなとも思ったりしました。

季節の移り変わりがよく表現されていたと思います。

真里の個性がよく描かれその姿も想像されました。

ヒガちゃんがこの物語の中でどう発展していくのか読者として気がかりです。

 

 

 泉恵子

 岸久美子(初めて下の名前を知る)の周りで動く人々の世界を描く「荻生ワールド」が、今回も健在だ。

 ここでは九十才近くになる姉の森友子が、旭川の介護施設に入所することになり、娘の真理と引っ越してきて、岸を交えた三人の世界が展開される。

 岸と姪に当たる真理が、施設の友子を訪ねて行く往復の車の中での会話、施設での三人の会話が生き生きとしていて面白い。(だが、会話の中に「~だが」「しかし」など、地の文の「書き言葉」が散見するのがやはり気になった。「話し言葉」に徹して描くともっとスムーズに読めるだろう)。

 友子は地域の共産党の後援会で長く活動してきた事から、勢いそれに関わる話が多い。どこの地域だったのかが最後まで分からないのは残念だった。それとなくでも、示してほしいと思う。

 見舞いに来た黒田という女性の話ー後援会の役員になりたかったがなれなかったーから、「セールスマン的」な黒田の姿勢を批判する中で、友子の「地域の人を大事にして共に成長してゆこ

う」と活動してきた姿がうかがえる。

 最後に語られる、真理の子どもの時からの両親の話が興味深い。「家にはいつも人々が出入りして」賑やかだった。そんな中で育った真理は「家の内と外」の違いを感じながら、高校生の頃は「政治の話しか出来ないのか」と、母親との確執もあった。家を離れて、会社勤めをする中で、親たちを理解し変わってゆく。ここが説明でなくもっと語られてほしかった。地域での「党生活者」の姿が、子どもを交えたその一端が浮き彫りになっている。「真理ちゃん。私も同じよ。(中略)でも、生き続けてきた」と言う岸の言葉も、そんな多忙な日々だったことを想像させる。そこをもっと掘り下げたら、現代の「党生活者」を描く貴重な作品になると思った。荻生ワールドとは、まさに庶民の生活者の立場からの、現代版「党生活者」の世界だと再認識した。

 

 

 北野あかり  

人は誰でも幾度となく人生の岐路に立たされることがあります。私は今、喜寿をとうに過ぎてその岐路に立っており、自らの終焉をどこでどのように迎えるのか、命尽きるまでどう生きるのかを、突きつけられた思いです。

この作品の中で、共産党の活動をしてきた母親の生き方に対して、「身なりもかまわない」「自分の主張の押し付けにうんざり」という娘さんの指摘に、自分を重ね合わせ、改めなければならない事として自覚を新たにしました。 

また、夫の事故死をうやむやにしようとする会社に対して、事故原因の究明と遺族に対する生活を補償させたこと、その後、家族として娘や孫の支えとなって生きて来たことなど、不条理には屈しない強さだけでなく、家族愛をも忘れない生き方に共感しました。

作品の中で、体力の衰えを自覚した時に、迷惑かけないようにと考え、自ら介護施設の入居を決め実行したことや、環境が変わっても社会や政治の動きに敏感に反応して生きることを貫いている様子が描かれており、一見してベストな生き方と思えました。 

しかし、迷惑をかけないように、すべて自分で考え実行することがいいのだろうか。良かれと思ったとしても、それは自分の主張の押し付けとなり、かえって人と人との絆を弱めることになるのではないだろうかと感じました。

人は強さばかりではなく弱さもあります。迷惑を掛け合いながら共に葛藤し、より良い方向を見出すことが「共に生きる」ということではないかと思うようになりました。

 

 

 村瀬喜史

岸久美子の姉・森友子が同じ旭川の老人施設に入居し,姪も近くに転居して、「龍ワールド」が展開する。しかし、突如「ヒガちゃん」が登場し、「恋人」らしい『節子」も出てくる。この一作だけ読む読者には不親切だ。ヒガちゃんの太い手にだかれたり、ラブホテルから出てきたのを会社の人にみられたりしたこれまでのストーリーを知らない読者には不親切。三十枚のなかに完結させなければ売れないのである。

 

 

 

小説『十六番ホールの桜』 

作・豊村一矢

 

 筆者より

 今回の創作では、二年前の「北海道民主文学」二二号「呼び出し」の不足を補い、主題を深める作品を目指しました。リレー選手交代劇は「呼び出し」でも使っています。

書きたかったのは、親の「愛情」です。そこに社会観、人間観をどう滲ませるか、物語の構成や展開によって主題に迫ることができるか、と欲深(よくぶか)な挑戦でしたが……。

 「選手、一緒だね」と友恵から屈託なく声をかけられ、沙希のプライドが激しく動揺する場面。そこからの沙希と母・郁子の絡みが山場なのですが、やはり今回も物語でなく郁子の説明に頼ってしまいました。

 登場人物に特定のモデルはありません。

 奈井江カントリークラブは実在し、札幌圏有数のゴルフ場です。住友石炭鉱業が奈井江炭鉱を廃坑にしてゴルフ場を造成したものです。

私もここでプレイしたことがあり、作品に反映させました。十六番ホールは作品と同じくショートホールですが桜の木はありません。プレイしながら、札幌民主文学会の先輩で元炭鉱夫の故小縄龍一さんと作品を思い出したのは勿論です。小縄さんも炭鉱夫塵肺症に苦しんでいました。

 民主文学会の会長も務めた稲沢潤子さんの作品『夕張のこころ』に、夕張炭鉱ガス突出・坑内火災事故を取材する稲沢さんと、事故の救出隊に加わった小縄さんが対峙する印象的な場面があります。今回の創作で奈井江カントリークラブは必須の題材でした。

 

 

泉脩

小学校高学年の女の子の、揺れ動く気持ちを巧みに描いている。

 勝気な沙希とおとなしい友恵が、運動会のリレー選手の選出をめぐって、微妙なやり取りをする。手のケガで選手を辞退した沙希は、「ケガが治った」と言って、補欠ながら懸命に練習していた友恵と、選手を替わるのである。ところが本番で、沙希のバトンタッチの失敗でチームが敗れてしまう。五年生の時のことだった。

 六年生になって、今度は最初から二人とも選手になり、友恵は素直に喜ぶが、沙希は五年の時の失敗を引きずっている。

 後半は、沙希が両親との家族ゴルフで、友恵が小さい時に大事にしていた桜の木をめぐって母親と話合い、自分の至らなさを戒められる。

 私は小学生の女の子の気持ちや、ゴルフのことは分らないが、両方ともよく知っている作者は、短篇に上手にまとめている。女の子のそれぞれの家族の違いもよく解る。

見事な作品だと思う。

 

 

石川節子

何処かで読んだような気がして、すぐに思い出しました。以前,豊村さんの作品で、男の子がリレー競技の選手の補欠で、正選手が故障だと言うので、にわか練習、とても良い成果を挙げて自信を取り戻した矢先に、正選手だった子が、「自分が走る」と言いだし、担任が「それは無いだろう」と、その親にも訳を説明して交渉するのだけれど、その最中に、当の補欠の子が、「僕、走らないよ」とすんなり降りてしまう。

そこには、昔から「貧乏人の子は、富める親子への暗黙の服従」を身に付けて育ってしまう「悲しいさが」が暗示されていて、忘れようにも忘れられない、あの名作が、蘇りました。

この作品も同じテーマが流れるものの、明らかに「弱者の勝ち」が明かで痛快です。

私はゴルフと言うものを全くに解らないものですから、「早く咲いている桜を見せて」と、気がもめる。一番、楽しそうに振る舞っているキャディーさんは、きっと、丸顔でピンクのスカーフに違いない。沙希の鼻先はツンととがっていて、一重まぶたに違いないなどと、脳裏に映る画像を楽しんで読む。

それにしても「プレイ中の雑談はマナー違反だ」なんて驚いた。

だって、政治上の密談や、お偉いさん達の商談はゴルフでするんでしょう。無言でするの?

何ヤードだの、何番ホールだの、ちんぷんかんぷん解らないこと言ってないで、早く「友恵の祖父も見たいと言った桜を見せてよ」と、心で喚きながら、まぶたの裏には、もう、満開の桜が私の脳裏に溢れていました。なんともカラフルな作風だと思いました。

 

 

 森本のりこ

六年生になった千成沙希紗(せんなりさき)を主人公に描いている。

沙希は裕福なゴルフ一家に生まれ周りのものよりも優越して当然という気持ちで生きてきた。

五年生の運動会で紗季はリレーのバトンタッチに失敗した。

リレー選手の沢田友恵を退けて出場した結果だった。

その時の心の疼きを持ち続けて六年に進級した。

そんな我が子をじいっと見守り沙希自身が自分の心の棘に気づくようアドバイスする母郁子の理想的な母親像が印象に残ったと同時に郁子の気持ちをもっと詳しく知りたかった。

沢田友恵がなぜ一晩で心変わりをしたのか、彼女の気持ちも覗いてみたい。

沙希が「奈井江カントリークラブ」を指定するほど彼女の心に響いていたのはなんなのか、炭住と言う聞きなれない言葉にどんな興味を持ったのか、見事な桜を見たいのかそれらを含めて沢田友恵に対する自分にないものに対する興味だったのかなどと‥‥考えさせられた。「ママ、あなたは何者なの」 娘千成沙希の言葉に驚いた。成績優秀、スポーツは抜群、ルックスも人目を引き身のこなしがアカ抜けている娘沙希をもつ千成郁子はどんな人なのか。こんな娘を持ったら親は鼻を高くしてそれにつかり浮き足立ってしまうのではないか。しかし、母親は娘の日常生活を見つめ的確な方向をさし示し本人に考えさせる。母親は今生きている社会の中で娘がどんな階層なのかよく見ている。格差社会の荒波は子どもの中にも広がっている。大人ほど気にしていないだろうがジワジワと染みこんでいる。クラスメイト沢田友恵の冷めた目が気になる。これからたくましく生きていってほしい。「学校で成績優秀」が人間の一つの特性でしかなく、人間は他にもたくさんの特性を持っている。それぞれ大事に花開いてほしい。

 教師松井が沙希と友恵のあいだを丁寧に見守っていることが好もしい。現実は、ひとクラスの人数が多くてなかなか難しいのではないだろうか。

 ゴルフをしたことがないので、ゴルフに関する言葉がわからなかった。

 

一、二、三、とそれぞれの区切りに題名がつけられていたがそのことによりスムーズに物語の中に入って行きやすかった。

作者が脚本を書いてきた人だけあって、このまま舞台で上演でされても良いような作品だと思った。

爽やかな青春の一ページのような明るい印象が残りました。

 

 

 室崎和佳子

ゴルフ好きの豊村さんの力が遺憾無く発揮された小説である。

 沙希の成長を描いたゴルフ小説と言えるのではないだろうか。

 

 私はゴルフを知らないのでゴルフ場についての知識も全くないが、炭鉱住宅街がゴルフ場になっているのは事実なのか否か。もし事実ならば、胸が痛む。理屈じゃない痛みである(私個人の勝手な思いなので、豊村さん気にしないでください)

 が、満開の桜で救われる。炭鉱跡は人間の息吹を消しても、老木の桜は見事に自己主張をしているのだから。

 

 いつものことであるが、豊村さんの文章は淀みなく、流れる川のごとくである。

 見事だなぁと思う。

 

 

 

 柏原竜

「ママ、あなたは何者なの」 娘千成沙希の言葉に驚いた。成績優秀、スポーツは抜群、ルックスも人目を引き身のこなしがアカ抜けている娘沙希をもつ千成郁子はどんな人なのか。こんな娘を持ったら親は鼻を高くして、それにつかり浮き足立ってしまうのではないか。しかし、母親は娘の日常生活を見つめ的確な方向をさし示し本人に考えさせる。母親は今生きている社会の中で娘がどんな階層なのかよく見ている。格差社会の荒波は子どもの中にも広がっている。大人ほど気にしていないだろうがジワジワと染みこんでいる。クラスメイト沢田友恵の冷めた目が気になる。これからたくましく生きていってほしい。「学校で成績優秀」が人間の一つの特性でしかなく、人間は他にもたくさんの特性を持っている。それぞれ大事に花開いてほしい。

 教師松井が沙希と友恵のあいだを丁寧に見守っていることが好もしい。現実は、ひとクラスの人数が多くてなかなか難しいのではないだろうか。

 ゴルフをしたことがないので、ゴルフに関する言葉がわからなかった。

 

 

 松木新

力作だと思います。沙希、友恵、沙希の母親像をきちん描き分けているので、リレー選手をめぐるエピソードも説得力を持ってきます。

惜しむらくは、「三 再び、沙希、六年生の春」の「(二)」の描写です。この小説のポイントである〈嫉妬〉と〈憎い〉を、母親の発言で唐突に処理してしまったために、物語の結構が崩れてしまいました。

次の様な構成はどうでしょうか。

十六番ホールの満開の桜を沙希が目にする場面をまず描きます。桜の樹の下には、じん肺で亡くなった炭鉱労働者の哀しみが埋められていることに、沙希が気付きます。祖父の葬儀で見せた友恵の涙の意味を考えるのです。そこから、誇らしげに咲く桜に友恵の姿を重ね合わせて、沙希が友恵との関係を考えはじめます。沙希の普段とは違う様相に気付いて母親が、何気なく問いかけ、そこから〈嫉妬〉と〈憎しみ〉の会話が始まります。

最後を、〈「憎む気持ちがあったらママに言いなさい。お尻をペンペンしてあげるから。嫉妬したらママに言いなさい。頭なぜなぜしてあげるから」〉という秀逸なセリフで締めます

 

 

 泉恵子

主人公の小学六年生千成沙希はゴルフをする少女ーという設定はかなり斬新なのではないか。女子ゴルファーの活躍を見ていると裾野は広いのだろうが、基礎知識のない私は専門用語に戸惑い、イメージできない光景もあった。そして「成績優秀、スポーツ万能、ルックスも人目を惹き、身の熟(こな)しが垢抜けている」と少女マンガの世界を思わせる「鼻持ちならない」?主人公を好きになれるか不安だったが、沙希の悩みに付き合ううちに次第に好感が持.てるようになった。

 「鼻持ちならない」のは父幸三の方で、娘をプロゴルファーに育てたがっている。セレブになることに危惧を抱く良識的な母郁子の存在で救われるが。

 物語の核心は沙希とクラスメート沢田友恵との、一年前の運動会のリレー選手を巡る問題で、作者は以前にもこのテーマに挑んでいる。「指に刺さった小さな棘」という表現で、沙希には無視できない友恵の存在。それはなぜかという疑問を抱かせて、一年前の「あの時のこと」として、過去を振り返り、再び現在に戻るという構成になっている。

 

 ケガで一度は辞退したリレー選手を、治ったから復帰したいというのは、既に補欠選手でかなり良い練習状態になっているこの場合は「身勝手」だろう。担任が一度は申し出を断りながらも、そのことを補欠選手に伝えたのは「いらぬ情報を伝えて」「困らせた」のだ。

「蚊帳の外に置くのは差別と偏見」という思いが勝ったというが、この考えも時と場合による。確かに難しい判断を迫られたわけだが、終了後に伝えると反応はどうなのか等の深い思慮が必要だった。(言葉の遣い方を誤って生徒を困らせた、私自身の苦い経験を思い出した)

 

 ともあれ、伝えてしまったことによる複雑な心理的展開が、この作品の読みどころだ。辞退した友恵の気持ちはあまり描かれていないが、「明るさが消えうせ」「感情が動いていないような」表情になる。

 一方復帰はしたが、最下位に終わったリレー。選手交代劇を「指に刺さった棘」のように感じてきたのは沙希の良心の疼きだろう。翌年は二人ともリレーの選手になるが、練習タイムは常に友恵のほうが良いという事から、昨年の自分は道化を演じたと反省する。そんな沙希のまっとうな葛藤は好感が持てる。いわば担任の失敗からくる生徒の葛藤と成長の物語とも読める。

 友恵の亡き祖父の住んでいた炭住跡地に咲く桜を求めてゆく沙希の姿には、この頃の少女の大きな心の成長を感じさせる。

 

 

 北野あかり

私の過去に、いくつかの悲しい思い出があり、悲しい思いをさせてしまった母のことも思い出しました。

私は、直接向かうというよりは、自分の考えを切り替えることで乗り切ってきていることが多いです。

作品の主人公は、自分が発した言動で相手がどれほど傷ついているのか、どう思っているのかを見極めようとしています。直接本人に向かうのではなく、相手の家族や育ったところを知りながら、本人との距離を徐々に縮めなから成長していく様子が描かれています。タイトルの桜が明るい未来を示唆しているようで安心して読めました。

相手の言動で傷ついたり、傷つけられたりは人生で出会う普遍的な課題であり、この作品は、その対応について描かれていると思いました。

 

 

 

 

 

村瀬喜史

学校教育については、教員の家庭に生まれた私もいろいろな経験をもっており、同居している孫も札幌市の小学校五年生の現役教員である。朝七時、家を出、夜十時にかえってきて、「はたらき方改革」なんてどこやらという生活である。この作品をいつ読めと言っていいやら、機会がない。

 二章の沙希、五年生の春、最後で、『高学年選手リレー」で沙希がバトンを落としてしまい、最下位になるが、そのとき沙希が何を考えていたのか。読み手に想像せよというのでよいのか。もう一つ節を立てたらと思った。

 ゴルフの用語とかマナーとか出てきて、パークゴルフをやっていた私にはわかるが、知らない人にはわからないだろう。十六番ホールの桜が沙希にどんな意味をもったのか、いまひとつ書き込みがたりない。

 

 

 

小説『満州おじちゃん(一)』 

作・森本のりこ

 

 筆者より

最初に文章上の削除部分を報告します。

二百二ページ上段の最初から二行目、 生まれて初めての長旅に三人は一睡もしなかった。 の文章を削除します。

同じく二百二ページ下段、五節の最初から三行目 ‥‥「腰に絡みついて汚損でいる。」を‥‥「腰に絡みついて遊び惚けている。」に訂正します。

二百三ページ下段の最初から十行目、「しかし一ヶ月ほど起きたり寝たりの生活を続けた正五郎の若い体は徐々に回復していった。」の文章を削除します。

他に正五郎の名が正五朗になっていたりで読んでくださる方に迷惑をかけ深く陳謝します。

 

何を書こうかなと悩んでいましたが、親戚の中で起こりえない叔父の自殺未遂事件を中心に書きたいと思いました。

しかし彼の生きた当時の日本の満州進出の時代を描くことは不可能でした。

彼の受けた心の傷は何だったのか想像しましたがあえて具体的に書かずその形を鬱病の形で表現しました。

 子供の頃遊び相手をしてくれた叔父の姿を記憶の底から思いだしながらその後の彼の人生を姉たちに尋ねたりして創作しました。

 読み返して事件の羅列で終わっているなと思います。

 文章も不備な箇所が多々あり提出することのみに気を取られて点検はおろそかになってしまいました。

 

 尻切れとんぼで終わってしまったような感じですので、戦後の正五郎の姿をボケ始めた私の脳と格闘しながら次回に書いてみたいと思っています。   

皆様の批評が楽しみです

 

 柏原竜

 おじちゃんに満州で何があったのだろう?昭和九年、二十歳の彼は嬉々として汽車に乗り生まれて初めて大海原を渡り満州の地を踏んだ。三年後自殺未遂として帰されるとは。戦争中なので人間性を破壊されることがあったのだろう。

 次回へつづくのだろうが、元気に生きていってほしい。

 私は、昭和二四年生まれなので戦争の体験はない。ただ、白い服を着た傷痍軍人の姿を度々見た。また、戦争に行って亡くなった人の話を親たちの会話で聞いていた。それぞれの家の仏間に軍服姿の写真が飾られ天井から見下していた。今戦前戦中を生きてきた人が亡くなり、戦争の悲惨を伝えることが大切だと思った。

 

 

 泉脩

北海道の炭鉱で働く夫婦が、九人の子供をけん命に育て、順々に巣立っていく。真ん中の正五郎は工業学校を卒業し、満州鉄道に就職する。ところが三年後に自殺未遂をして、帰国させられる。実家に戻った正五郎は、甥、姪に「満州おじちゃん」と呼ばれ、遊び相手になり、だんだん立直ってくる。就職、結婚そして敗戦、そして会社の倒産による失業。ここで第一篇が終わる。正五郎がなぜ自殺しようとしたのか、失業後どうなるのかは、続篇で書かれるのだろう。

植民地のひどさ、戦後の日本の苦しさは、知らなければならない。

 

 泉恵子

 姪の立場から、「満州おじちゃん」と呼ばれた一人の叔父を見つめた作品。大正五年生まれで正五朗と名付けられたこの叔父は若いころ自殺未遂をしたという。それはなぜかという謎に迫る形で読者を惹きつける。丁度私たちの親に当たる世代で、嫌でも戦争と向き合わなければならなかった。若い男子は特別な人を除いて戦場へ出向かなければならない。

 この叔父は、いち早く満州へ出かけ、そこから病人となり憔悴しきって帰国する。満州での壮絶な体験が彼の人生を狂わせた。何があったのか?「一切語ることなく」「黒い眼は陰鬱になり」ということで、想像するしかないが、少し知りたい気がする。  誤った国策の犠牲者の一人だ。彼が帰国した時の両親が京都駅で迎えた時の場面は秀逸。出かける前の祝いの席で甥っ子姪っ子たちと戯れる「まんちゅうおじちゃん」の姿や、帰国して暫くの病的な言動などリアルな描写が印象的だ。

 続きは敗戦後の世界になるのだろうか。ぜひおじちゃんの謎に迫って描き切ってほしい。

 

 

 松木新

飾り気のない文体と的確な描写のせいか、一気に読むことができました。

この小説のポイントは、三年間の満鉄生活のなかで、正五朗がどのような体験をしたのかを解き明かすことだと思います。そのことによって、〈満州進出に意欲を秘めた日本軍部〉と結託した満鉄の実体が明らかになってくるのではないでしょうか。次作が待たれます。

【気付いた点】

202頁上段、〈長旅に一睡もせず〉、〈三人は一睡もしなかった〉と、同じ形容を続けていますが、これはよくないです。原稿用紙一枚の中で、同じ単語を複数回使わない、というのがぼくのモットーです。『類語辞典』が参考になります。

 

 

 石川節子

二百一ページ下段、後ろから六行目、就職して三年ほど経ったある日突然「病を得たため帰国させる」と速達が入った。ここから先、読んでいて、息つくのもためらわれる程の緊張感に覆われる。京都駅の改札口の近くで待つ、母親マツは「アッ」と小さな叫び声をあげてその異様な男めがけて小走りに走り寄って……この行はもう、緊張が極まって、肩に力が入ってしまって「、また、異型狭心症の発作が起きたのか」と、思ったほどでした。

しかし、その名場面であるのに、マツが、松になっている変換ミスは、とても勿体ないと思いました。

また、二百三ページ、五 の三行目、 腰に絡みついて汚損でいる  このミスも大きい。

この作品は、おじちゃんの自殺の原因に触れていない。それが、かえって不気味で暗い闇の圧力が大きく動いていた事を暗示させられて、一層、この作品の深みをだしていると思いました。

 

 

豊村一矢

書き出しが上手い。

人生の終末期を迎えた八十路の私が、遙か遠い昔、喜びも悲しみも受け入れて生涯を終えた叔父に思いを馳せる書き出しだ。しかも、戦前、私が子供の頃に聞いた話だと断っている。すぐに「自殺未遂」だとか「満鉄」とかの言葉が出てきて、「満州おじちゃん」の㈠が書かれる。

先を読みたくなる。

 

 

村瀬喜史

あたらしい小説への挑戦である。校正をしっかりやって正五郎なのか、正五朗なのか、工業学校は旭川なのか、滝川なのか、旭川だとすれば私の家に北見から従兄が下宿しており、思い出は多い。主人公がどうして魘されるのか、これから解明されるのだろうが、期待している。長男とともに就職した豊平製鋼は、私が社会でたころ取引しており、戦後、閉鎖されたというのは史実に反する。今も発寒の工業団地に工場がある。歴史的事実はよく調べないと関係者がいるので、せっかくの作品の価値が下がる。

 

 

北野あかり

 新コロナ感染拡大で、往来の自粛や接触を避けなければならない状況下で、私もコロナ鬱状況に陥った妹を抱えることとなりました。

そんな状況の中で、この作品を身近な家族の問題として読みました。特に満州から帰還される正五郎を迎えに行く場面や、彼の健康を取り戻すために質屋に着物を預けてまで用意した一個の卵のことなどがとても印象深く、正五郎を取り巻く家族の愛情の深さが心を打ちました。

私にとってこの作品は、今何を為すべきかを判断する指針となり、上京し健康を取り戻すまで妹に付き添うことを決意しました。

今後、作品🉂がどうなるのか、心待ちにしています。

 

 

 室崎和佳子

満州鉄道で一体何があったのか。

 とんでもないことがあったから、就職して三年で自殺の恐れありとして日本に返されたのだ。読者としてはそれが知りたい。

 当の森本さんが一番知りたかったことだったはずだ。事実関係がはっきりしなかったのだろうと思う。

 かくなるうえは、フィクションで挑戦するしかない。「満州」や「満鉄」に関しては、たくさんの暗黒部分がひしめいているから 書くのには事欠かない。

 

 「正五郎」なのか「正五朗」なのか、どちらが正しいのか。

 母の名は「マツ」なのか「カツ」なのか。

 また、別の部分で、同一記述の繰り返しが何箇所かあった。

 いずれも校正の問題だと思う。

 

 日本に帰ってきた満州おじちゃんは、トラウマを抱えながらも普通の生活ができる人になった。父母兄弟姉妹の愛情の賜物であろう。それが一番良かったと思う。

 

 

エッセイ『尹東柱を尋ねて』

―自筆本『空と風と星と詩』を読むー 

作・浅野勝圀

 

 筆者より

 まとまりに欠けてしまった。多胡吉郎氏の労作によりかかって自分の尹東柱像を一歩進めようともくろんだけれど、そう簡単なことはではなかった。

 収穫だったのは、市立図書館職員のおかげで、読みたかった大村益夫『中国朝鮮韓文学の歴史と展開』を岩手県立図書館から借りていただけたことと、尹東柱との最初の出会いが、金時鐘『さらされるものとさらすもの』(1975年)だったときがついたことのふたつである。

 感想が寄せられたら、さらに考えてみたい。

 

 

 泉脩

朝鮮の国民的詩人の短い生涯を辿っている。満州に生れ、ソウルの大学で学び、日本に留学した。治安維持法違反で捕えられ、一九四五年に投獄死した。この間に作った多くの詩が、日本の警察に没収され失われた。友人に送られたわずか五篇の詩が残され、現在も愛唱されているという。残念ながらどんな詩なのかは、この作品からは分らない。

作者は、退職後にソウル大学に学び、この詩人を研究したという。前作とともに、作者の朝鮮人の文学への関心の高さが、よく分かるエッセイである。

 

 

 豊村一矢

 プロローグの最初の一行目から、「ソウルに住む教え子に誘われるまま、ソウル大学の語学研究所 韓国語過程に願書を提出した。学習の目的欄には尹東柱の詩を原文で読めるようになりたいと書いた」とある。研究への執念、情熱に圧倒される。

 おかげで、尹東柱のことも、尹東柱の詩も知った。感動した。特高など当時への官憲への怒りを新たにした。

 尹東柱が留学のため日本に渡ったのは一九四二年とある。私の生まれた年だ。

 

 

 村瀬喜史

茨木のり子「ハングルへの旅」とか参照した資料を四冊ほどいずれも厚別区の図書館になく、「中央図書館からとりよせないと」と言われて、到底この合評にはまにあわない。かねてから読みたいと頭のすみに残っていたこともあり、待っていただきたい。

茨木のり子の詩集は私の書棚にはない。旭爪あかねさんの今度の詩も茨木さんの詩を参照している。読みたいという意欲が浮かんできた。

 

 

 北野あかり 

治安維持法の元にとらえられ、衰弱状態で獄死した、韓国の詩人尹東柱という人を初めて知りました。

ソウル大学で学びたい理由が、その尹東柱の詩を原文で読めるようになりたいためという作者の思いに驚くと同時に、どんな詩なのだろうと思いながら読みました。

「空と風と星と詩」は、作品の中で“ 死ぬ日まで空を仰ぎ 一点の恥辱(はじ)なきことを…”と紹介されていますが、詩は、その短い言葉の中に、思いが凝縮されて表現されていることを改めて見直しました。  

最近は、詩にも目を止めるようになり、最近「ハッピーエンドのドラマ」という詩が新聞に掲載されており、切り抜いて持ち歩いています。

 

 

 泉恵子

 尹東柱については、名前だけは聞いていた。韓国(朝鮮というべきか)の有名な詩人という。だから昨年の二月十六日ー尹東柱の獄死した命日ーに放映された、NHKEテレ「こころの時代 宗教・人生」という番組が尹東柱を取り上げた時、ビデオに撮ったが、詩集を求めはしなかった。

 今回、浅野さんの文章を読み、改めてビデオを観て、やっと岩波文庫の『空と風と星と詩』を購入した。

 優しく平易な言葉で描かれた抒情的な静謐な世界だが、何を言わんとするか、奥が深そうだ。浅野さんのエッセイ風評論や、岩波文庫の編訳者金時鐘の「解説に変えてー尹東柱・生と詩の光芒」、ビデオの世界の助けを借りて、ほんの少し理解を深めた。だから、浅野さんのエッセイ?(評論ではない?)に対しては教えて頂いた感謝こそすれ、評することなどはでき得べくもない。

(思えば今度の『北海道民主文学』からは、小林勝、「青年の汚名」、尹東柱と知らない世界を啓かせていただいた)

 

 ビデオの世界から、日本の各地で、研究をしたり、尹東柱を読む会を持っている人々がいることを知った。(観た方には恐縮だがその世界を少し述べさせていただくと)尹東柱が絶命した地福岡では、読書会が二十五年続いているという。丁度「懺悔録」を読んでいる時で、「分かりにくい詩」といいながら、言葉の意味をあれこれと話し合っていた。

 聖公会奈良キリスト教会の司祭は、尹東柱を読むために朝鮮語を勉強し、自分で訳した詩「風が吹いて」と原文を朗読していた。この時初めて、朝鮮語の響きの美しさを感じた。「白い影」という詩の一節「夕闇うごめく足音」の「足音」を、大方はそう訳しているが、司祭は原文通り「足跡の音」と訳したい。それなぜかという説明をしていた。

 ことほど左様に尹東柱の詩は一言一言に深い意味が込められている。左程多くはない詩の一遍一遍が、暗喩に包まれ、含蓄に富んでいるから、語って尽きないのだろうと思われた。

 「尹東柱を記念する立教の会」の女性は、立教大学時代の下宿先を尋ねながら、このころ書かれた「いとしい追憶」について語る。京都で研究する京大名誉教授水野氏は、ともに福岡の刑務所で殺されたいとこの宋夢奎との関係や、同志社大学に通っていたころ朝鮮人たちの住む貧しい集合住宅を見ていたろうと語る。

 日帝によって無残にも獄死させられる、それも「光復」の半年前に。その絶命する直前に発したという叫びについても、それぞれが想像して語っていた。

 パルチザンの地北間島という中国領の故郷、日本の植民地としての朝鮮、キリスト教徒など複雑な生を負っていた詩人。そうした背景を見つめながら読み味わう詩を、金時鐘は「静怨としか言いようがない詩情」と述べている。

 獄死(殺?)という(生体実験をされていたという説もあるとか)残酷な最期から小林多喜二に通ずるものを感じた。それにしても、文学の勉強とはいえなぜ日本に来たのか、もっと早く帰国していたらと無念でならない。

 

 

 室崎和佳子

浅野さんが尹東柱の詩を原文で読みたくて韓国で語学を学んだことを知り、感動した。

 本物のロマンチストである。

 

 日本の大学で学び、日本の権力によって命を奪われた詩人の詩を原語で味わうことは、浅野さんにとって大きな喜びだったことでしょう。

  P245上段後ろから8行目「一六日、東柱 死亡 死体取りに来い」

 とは、何という非礼極まりない非人間的な電報であることか。

 

 P244上段14行目、尹東柱が「こおろぎ」という刑事と対座して、朝鮮語で書かれた作品と日記を日本語に翻訳させられている姿を目撃している、という一文により、特高警察のこれでもか、これでもか、という痛めつけの実態がわかる。民族の誇りを根こそぎ奪われることは、肉体への拷問よりも辛いことだと思う。

 

 日本の軍国主義、植民地主義の残酷性と非道を恨む。

 

 

 柏原竜

 いたましくてたまらない。日本はなんとひどいことをしたのだろう。しかし今もって深く反省はしていない。アメリカにはおもねるが、朝鮮にはヘイトスピーチなどをして平気でいる。

 作者が『民文』三月号に書いた『荷馬車は、かたり、ことりと』を読みました。私も若い頃『播州平野』や『風知草』に感銘しました。作中暗く厳しい戦争が終わった後の晴れやかな百合子の姿が嬉しかった。その中で朝鮮人が母国に帰る様子が書かれていたことを思い出した。隣国朝鮮のことは本当に知らなかった。

最後に

 前回、室崎和佳子『接待』の感想文で、「現在も過去も性を買うのは男で従わされるのは女である。女が男を買うことはないでしょう」と書きましたが、新しいオリンピック組織委員長橋本聖子氏のセクハラ事件では、女も権力を持ったら男を買うのだと認識した。そういえばホストクラブも巷でははやっているが、ジェンダーの被害者は女だけではないということだ。

 

松木新

岩波文庫版の『空と風と星と詩』を読んだのは2018年です。『民主文学』6月号に掲載された新人賞佳作の梁正志「(ほし)の夢」のなかに、立教大学に留学した東柱に夢奎が授業の様子を尋ねる場面があります。

〈「うん、配属将校を気にして、先生方が自由に授業されている様子がないなあ」〉

当時、経済学部を中心にリベラルだったと聞いていたので、興味を持ったのがきっかけでしたが、

詩の印象はまるで希薄でした。

浅野さんのエッセイを読み、あらためて「序詩」に目を通して見たのですが、〈今夜も星が 風にかすれて泣いている。〉という叙情性が気になって、〈尹東柱が文字通り国民的詩人であること、韓国の人々の詩が大好きな国民性を実感〉することができませんでした。

アラゴンの詩には、ストレートに感情を移入できるのに、尹東柱の詩にそれができないのはなぜなのか。

オリエンタリズムから依然として脱却できないでいる自分を再発見させてくれるエッセイでした。

 

 「一月誌上合評」に遅れて参加します

                北野あかり

 

田中恭子「二人語り」

喜寿を過ぎた私も、近い将来健康を害し一人暮らしが困難になるであろうことを考え、そのための準備をしなければならないと考えています。

そんな時この作品に出合い、改めて自分がどのような生き方をしてきたのかを振り返り、多くの人と出会い、助け合いながら生きて来たことを思い起こしました。

作品は、脊柱管狭窄症の具体的な苦痛や、自ら病身の身でも半身麻痺の夫を自宅介護しなければならない現実、生活保護を受けていることや弱者に浴びせられるバッシング、加えて疎遠となっている家族の事などが、二人の語らいを通して、生きることの辛さが手に取るようによく描かれています。

それが、清江さんの所にきた、息子と同居している女性からの手紙で一気に生きる希望に変わります。この展開の部分から、二人が寄り添って生きることで、大変だけど頑張って生きていこうとする明るさが伝わってきました。

私も長い人生の中で、友人や家族に救われたことがいくつかあり、出口が見いだせず悶々としている時に、寄り添って生きることがいかに大切かということを改めて知らされました。

これからも周りの人との関りを大切に、感謝の気持ちを忘れないで生きていきたいと思いました。

 

室崎和佳子「接待」

 戦争が引き起こすむごさは、殺し合いのだけでなく、接待と称する性奴隷の実態を、参考文献の「告白 岐阜・栗川 満豪開拓団73の記録」を素材に、証言という形で、本人に代わって訴え、二度とこのようなこことが起きない時代を作らなければならないという、作者のメッセージが伝わって来ました。

作者が最後のところで、「満豪開拓団内部での加害と被害。戦争という非常事態だったから仕方のないことだったのか。否、である。一方が全人格を否定され塗炭の苦しみの中にあって、他方が真逆に位置することがあってはならない。人間の心をもつならば。」と結んでおり、同感です。

しかし、証言が作品の殆どを占めているので、参考文献の紹介のように思ってしまいました。小説とするために73の記録の中から選択し、証言そのそのものを小説化したのでしょうか。  

 

泉恵子曙光さす頃」

この作品の中心舞台となっているのは、イトムカにあった水銀の鉱山です。この作品を通して初めて、戦争のために朝鮮や中国から無理やり連れてこられ、過酷な労働を余儀なくされていた労働者の存在や、戦後、母国への帰還を前に起きた暴動や、安全に帰国できるように企業の職員が身の危険を感じながら対応しなければならなかったという事を初めて知り、このような事実を伝えることは大切なことだと思いました。

暴動が起きた背景について、過酷なという言葉とか、14才の少年の登場だけでなく労働者の生の声などで表現された方が良いと思いました。

 主人公の紀美子さん夫婦の生き方ですが、結婚直後から夫の仕事関係で居住地が変わったり、夫不在の生活を余儀なくされます。身籠った時も紀美子さんは、夫と喜びを共有する術がなかったのか、ひたすら夫と無事と生まれてくる子どものために頑張ろうとしていますが、淡々と描かれているように思えました。

戦のない時代を希求する思いを「曙光さす頃」というタイトルとして読み手に伝えようとしていますので、今後この夫婦が、子供を中に喜びも苦しみも分かち合っていく夫婦として描いて欲しいと思いました。

 

石川節子「歳月」

 激動の時代を逞しく生きて来た主人公ハナさんの人生が、その時代と共にハナさんの肝っ玉ぶりが生き生きと描かれており、痛快で生きる勇気をもらいました。

 特に、16歳に義父の思惑で、本人の意思を無視した政略結婚をさせられるなど許し難い目にあったが、この屈辱的な恨みを、新たな活力を生み出すエネルギーとしていこうと決意した事など、現実に負けない強さに驚いた。そんな夫の良さを認め、仕事が変わろうが、住むところが変わろうが夫と離れることなく、夫や子供が一緒に暮らす事を第1に考え、戦争中も、徴用されている夫を残して、家族がバラバラになるようなことはしたくないと引揚げを断り留まる決意をした。肝っ玉ぶりは、敗戦が色濃くなり、命の危険が迫っても、ニコニコ慌てないことだと腹を決め、鏡に向かって「ニコニコ顔」を作る練習を始めるなどは、読みながら思わず真似をしてみたほどだった。真岡、豊原が爆撃され、社宅も爆撃されて戦火が身近に迫ってきた時に、“どうせ死ぬなら餅を食べて死のう“と、餅つきを始めるところや、そんな時でも家族の安全に気を配ることを忘れないなど、凄いとしか言いようがない。

戦後も子供が高校に行けるように、「頼み込み運動」を繰り広げ、分校しとらせたり、船に乗るのは男だけという常識を跳ね除け、初めて女性が船に乗り安全第一の操業を貫いたりと、高齢になっても逞しさは衰えることなく、夫婦それぞれ92歳で天寿を全うしています。 読んでいて元気になれる作品でした。

 

 

「一月例会誌上合評」を受けての発言

石川節子

 

皆様のご指摘、励ましがありがたくて、とても勉強になります。

室崎さんの感想文の中で 浜中駅は必ず停車する駅でとあり、びっくりしました。と言うことは、茶内駅などは今は止まらない車両もあるのだなと気づき、「私はもう、浦島太郎になってしまったのだ」と思い、改めてその歳月を感じました。

 

豊村さんのご意見、嬉しいけれど透視されているようで少し怖い。

私は六十歳になった時、「何もしないうちに、名前を言っただけで ふふふっ と笑ってもらえるような人になろう」と決心したのです。その理想が今、少し備わってきたのかも知れないと思い、嬉しいのです。

しかし、どこか冗漫だと感じられるのは、「それって本当なのだろう」と理解出来ますが、今の私の実力では仕方がないと思います。

昨年、ある日突然、「民文の編集長の牛久保です」と言う、お電話がありまして、『襟裳岬の夕映え』を見ました。面白いエピソードがいっぱい続いて結局、何を言いたいのか絞れない。と、いうことで民文への掲載は見送りになりました。と言う内容でした。自分としては、「竹子の夫が世間に害を及ぼすのは、『妻がそうさせているからだ』と、世間から攻められることは、理不尽である。夫、本人の素質によるものなのに、妻ばかり攻めたてられるのが納得できない」ということを書いたつもりだったのに、その主題が「面白おかしさ」の強さに負けて、読者には伝わらなかったのだと解った次第です。

しかしまだ、今回の作品、『歳月』の分析は進ん

でおらず、こうして合評を参考にまとまってゆくのだと思いますが、前回の作品より「おかしさ」はないと自負しています。

 

村瀬さんのご意見、神妙に深読みしています。

➀「プラウダの通信基地には、触れるな。門外漢のペーペーには百年早い」と、いうことでしょうか。それとももっと別の、何かの警告でしょうか。プラウダは思い出がいっぱいあって、平成時代になってから、サハリンまで行って、この目で見てきました。

➁百二十六ページ下段8行目『昭和十七年に樺太は内地に編入されていたのだが、今や内地とは完全に隔絶されてしまい、日本の親戚との電話も手紙も一切の、やりとりができなくなっていた』 この部分もいらないとおっしゃいますが、ここは、私にとっては大切な部分の積もりなのですが…。

『新北海道史年表』と関係ありますか。私も同じ年表を、発行するのを待って買い込み、使っています。もう三十二年もなるのですね。

柏原竜さん、ハナと裕次郎の関係は対等で、い

つもハナにリードさせるように仕向けていた、裕次郎のほうが一本上手のようでした。

このあと、裕次郎の人生も書くつもりでいます。

 

 

 

三月例会誌上合評」について

 合評作品

泉脩『人との出会い その3』

   平山耕佑『ゴムの木のこと』

   村瀬喜史『認知症予備軍に編入されたか』

   北野あかり『冷やしラーメンとサラダ』

 

例会誌上合評は支部の基本的な活動、例会に代わるものなので、各自、対象作品について積極的に感想・意見を通信担当にお寄せください。

また、作者は必ず自作品のコメントを書いてください。

原稿は、三月二十五日までに豊村まで送ってください。

 「一月例会誌上合評」「二月例会誌上合評」を受けての発言、再発言を歓迎します。届いた発言は、次号の「作品合評合報告」欄に掲載します。     

通信担当 豊村

              

 

 投稿欄

 

『武漢日記』を読みながら  その二

                         木村 玲子

 

 先日、道新夕刊に「コロナ封鎖一年 中国・武漢ルポ」なる記事が出ており、『武漢日記』の著者方方さんが写真入りで、WHO(世界保健機関)の国際調査団が武漢入りしてから、当局の攻撃が強まったと出ていた。海外メディアの取材に応じないよう釘を刺されているという。まずいことは隠蔽という中国の思想弾圧は本当にひどい。

 それでもコロナ禍での記録は残すべきと、意気軒高だ。『武漢日記』は当局の初動の遅れを痛烈に批判し、その反省を一貫して促しているが、その後の「武漢封鎖」は必要な措置だったとして、突貫工事の病棟建設や中国各省から応援の医師たち医療スタッフが武漢入りするなどの素早い対応があって、感染を鎮静させることができたことは評価している。

 そして、興味深いのはロックダウン中の庶民たちの助け合いだ。食料の共同購入や、それを運ぶボランティアたちの自発的な動きは頼もしい。また、方方に協力し情報を提供する医師たちや、兄弟知人のネットワークも。方方のブログがネトサヨによって消されても、それを他の微信(中国のSNS)で流すという良心的な中国人の逞しさも垣間見える。

 だが、大部分の中国人は政府を信頼して行動しているようだ。武漢近くの黄石市に住む友人の唐元鶴さんは、今年の年賀の挨拶に、中国はコロナは落ち着いた。また、中国に来てほしいとあった。

 様々な顔を持つ中国だが、確かに一党支配の政府が、コロナの正体を知った時から、本気になってコロナ撲滅に動いたことは確かだ。例えば二千万人の北京市民にも一斉にPCR検査を行って、いち早く経済を動かしている。勿論世界中がまだまだ終息にはほど遠い現状の中では、中国といえど警戒は続いているが。問題は、そうした点を強調して、初動の誤りを謝罪しない姿勢だ。

 

 二〇一七年の二回目の武漢滞在の時、同行の皆と夕食の前に武漢で有名という海鮮市場を見物した。あの感染源といわれている「華南海鮮卸売市場」だったかどうかは判然としないのが残念だが、とにかく広い市場で、右側にはいろんな肉の塊がぶら下がった店が続く中、四、五メートル幅の通路の左側では大勢が食事をしていた。あまり衛生的とは言えない環境の中で、彼らは賑やかに談笑しながら口を動かしていた。喧噪渦巻く雰囲気は何かすごいエネルギッシュなものを感じたが、そこで食事したいとは思えなかった。

 中国では早朝から小さな面条店(うどん屋)や食堂に出勤前の、主におじさんの姿が目についたが家族連れもちらほら見えた。早くから共働き家庭が多いことから、そんな習慣があるとか。

 

 話を元に戻し、初めて武漢を訪れた二〇一五年のこと。二日目の見物で、辛亥革命の指導者孫文の銅像がある大きな公園に行った。日中戦争の前に清朝を倒した革命(ブルジョア革命と言われているが)があったこと、その蜂起の中心が武漢だったことを再認識させられた。そこで中華民国が生まれ、国民党が組織されていったという。広大な中国の大きなうねりの中に、そうした力があったことをどう評価したらよいのか、日本とは異なる民族の力のようなものを感じた。そんな大きな中国に戦いを挑んだ日本は、やはり無謀極まるとしか思えない。

 公園の一角にある建物の中で、丁度日中戦争勝利七〇周年の展示が行われていた。謝老師は「私は戦争はイヤ」と言って見学はしたくないという。戦後生まれの残留孤児の一人だが、中国の養父母のもとで幸福な子ども時代を送り、最高学府を出て、中高一貫学校の教師となった謝老師。中国人とばかり思っていた頃、日本は大嫌いな国だったそうだ。生粋の日本人と知ってから苦悩したようだ。養父母が亡くなった後来日して二十数年経つが、半世紀近くを過ごした中国を愛し、毎年のように故郷中国東北部の鶴岡に里帰り?する。胸中は複雑なのだろう。

 私は一人で、建物の中に入り、展示物を見ていった。満州事変以来の日本軍の野蛮な侵略の歴史を見てゆくのは辛いものがある。黙って見学する私の後ろから二人連れの中国人男性が、しきりに「リーベンダ〇〇」「リーベンダ△△」と言いながら見ている。「リーベン・ダ」(日本・的〈の〉)の下は何を言っているのかわからない。その下の言葉が分からないのは救いだったかもしれない。見るにしのびない殺戮の写真が沢山並んでいる。あの戦争では日本軍は一時武漢も占領している。途中から連合軍が入ってきて次第に日本軍が追い詰められてゆく。最後は中国軍の勝利で、笑顔の毛沢東の写真もある。「リーベン・ダ」の下の言葉が憎しみから嘲笑的な響きに変わっていったと思うのは私の僻みだろうか。

 

 建物を出て公園を散策する。大きな水筆で、路面に何やら漢字を書いている老人がいた。その傍らでは小学低学年くらいの少年が、「家」という字を何度も続けて書いていた。老人がアドバイスしているのか、何か声をかけている。

 その奥ではラジカセを鳴らしながら社交ダンスを踊っている男女がいた。練習している様子だが、素敵で思わず見とれてしまった。中国ではこんな風に人前で踊ることにあまり羞恥心がないようだ。

 朝から広場に集まって、太極拳をしたり、ダンス風の体操をしたりという場面に何度か出会った。この日の朝も、ホテルの前の広場に婦人たちが集まって、曲に合わせて体操をしていた。はじめ部屋の窓から眺めていた私も、輪の中に加えてもらって見よう見まねの体操を三十分くらいもすると、しっとり汗ばんできた。

 そういえば、『武漢日記』にも、仮説病棟で、入院中の治癒した人や軽症者がダンスしたり、歌ったりという場面があった。方方もそれを励ましていた。TVでも映していたが、日本人には顔をしかめる人もいそうな映像だったが。何とも大らかと言おうか、大陸的な中国人の楽天的で力強い一面を見たように思う。 2021.2.9記

 

 

人との出会い 特別編 同(おな)い歳➂

                 泉  脩

 

 男のいとこ 

 昭和二十一年二月、父の急死で私たちは母の実家を頼って、札幌に移ることになった。敗戦の混乱に、特に食べ物の不足とインフレがひどかった。

母の両親、山内正三と倫はすでに亡くなり、母の年子の妹の孝子(こうこ)叔母さんが実家を守っていた。下に三人の妹がいたが、母と協力して次々と結婚させていた。特に和子叔母と優子叔母は大井町の我が家に手伝いに来て、ドレスメーカーを卒業していた。私がさんざん世話を焼かせた叔母たちだった。孝子叔母は小学校の教師になり、同僚の土岐新一郎さんと結婚していた。男の子が二人いて、次男の祥介が私と同年生だった。私より一年下だが、早生まれなので同学年なのである。

 このいとこと私は仲良くなり、特に遊び友達になって、現在まで続いてきたのである。山鼻小学校六年のクラスメートになり、新制の柏中学に進んだ。中学の二・三年は、私たちが転勤した武雄叔父一家の幌西の留守宅に移ったので、私も啓明中に移った。その後、私たちは山鼻の家に戻り、高校で再び一緒になり大学でも同じになった。クラスメートは小六の一年だけだったが、十数年同じ家で暮らしたのである。兄弟七人の大家族のようなものだった。

 母と孝子叔母が仲良く、二人ともしっかりと協力したので、子供たちも仲良くなり、順調に巣立っていった。最後に一人残った母を七十歳の時に私の家に呼び、十年間一緒に暮らした。

 祥介さんは北大工学部の土木学科で学び、ついには教授になった。たいへんな努力をしたのである。私立高校の教師で終った私には驚きだった。母方の祖父が東大出の技術者だったので、素質を受け継いでいたのだろう。

私たち二人は、ともかくよく遊んだ。野球を始めスポーツは何でもやったし、彼が何処かで覚えてきた囲碁とマージャンを私に教えてくれた。私はすでに将棋は知っていて、かなり強かった。囲碁も私の方が強くなった。マージャンは互角で、二人の兄弟や友人を加えて、よく徹夜で遊んだものだ。これは大学生になっても続いた。

スポーツは彼の方がずっと上手で、私は敵わなかった。しかし、ともかくいつでも遊び相手がいることで、私たちは楽しく過ごしたのである。

勉強は私が少し上で、彼は北大に一年遅れて入学した。私の弟も同じだった。ところが彼は教授になり、弟は医者と教授の両方になった。私は高校の途中から文学に熱中して、学者にも医者にもならなかった。

さらに深刻なのは、二人の思想的対立である。彼は自民党支持、私は共産党支持にまったく分かれてしまった。だから、意見が合わず、日常の付き合いもしなくなってしまった。大人の世界になったのである。

しかし、彼のもっとも良いところは、友人を大切にし、親せき付き合いに律儀なことである。冠婚葬祭はきちんと付き合い、決しておろそかにしなかったことである。彼の父親の人柄を受け継いでいたのだろう。

私と結婚した小畑春美と中学一年の時のクラスメートで、二人は仲良しだった。男子は早飯をして、昼休みに弁当を食べる女子にたかるのである。小畑春美はいつも土岐祥介に弁当を分けたという。だから、高校二年でクラスメートになった私よりも、ずっと早く二人は友人になっていたのである。妻は時々私に、彼のエピソードを話してくれて、彼にはずっと好意をもっていた。だから彼も、私たち夫婦との交際は続け、妻が亡くなった時は、妻の死に目に駆けつけてくれた。そして、葬儀には骨拾いまでしてくれた。だから私は、彼には頭が上がらないのである。

私たちはそれぞれ定年退職をし、彼はその後も私大で働き、公的な仕事にも就いた。そして、八十歳を過ぎて、二人とも引退状態になった。私は文学活動に打ちこみ、次々と本を書いた。彼はなんと、合唱団に入りコーラスに努めるようになった。これは彼を知る人には驚きだった。私はこれまで彼の歌など一度も聴いたことがないのだ。

私は彼の加入した響友会のコンサートを聴きに行き、心から感銘を受けた。彼は私の作った多くの本をすぐ読んでくれた。親せきの家系図を載せた本を作った時には、真っ先に原稿を書き、家族の写真を貸してくれた。

昨年(二〇一九)、彼が言い出した「いとこ会」に私が賛成し二人で呼びかけて、初めて母方のいとこ会を開いた。マタいとこも出席してくれたので、祖父母の出身地にちなんで「鶴岡会」と名付け、八人(男二人、女六人)が出席した。

うれしい一日であり、彼との仲が復活した記念すべき一日になったのである。

 

 

一九四五年生まれ

                後藤守彦

 

 今年一月二六日、NHKのEテレで松島トモ子の姿を久しぶりに見た。懐かしかった。皺は隠しようもないが、くっきりとした大きな目は相変わらず輝いていた。出演番組は福祉をテーマとする、三〇分間のハートネットTVである。認知症となった九九歳の母親の「想像もしていなかった、壮絶な介護の日々」(『老老介護の幸せ−−母と娘の最後の旅路』飛鳥新社、二〇一九年)を、時には目を潤ませながら淡々と語っていた。聞き手の、両親が認知症になっている劇作家・女優の渡辺えりは涙を流していたが。母の九五歳の誕生日を祝う食事会の最中、祝われる本人が失禁したことが始まり。施設にいれないと決意しての在宅介護は四年半続いている。松島は私たち夫婦と同じく一九四五(昭和二〇)年、大日本帝国が崩壊した敗戦の年に生まれた。この人は私と同い年だ、と最初に意識したタレントである。四歳でデビューしたが、嵐寛寿郎主演の映画『鞍馬天狗』での杉作少年役が記憶に残っている。どれだけ多くの子ども雑誌の表紙を飾っていたことか。可愛い女の子だ、と少年の私は心ときめかせていた。松島の誕生日は七月一一日だから、私より約四カ月前、敗戦の日の少し前に生まれたことになる。

 松島の生誕の地は、「旧満州」の奉天である。だから、松島は引揚者になる。三井物産の社員であった父は、結婚生活半年足らずで現地召集され、敗戦後、シベリアに抑留され亡くなっている。後に判明したことだが、敗戦の年の一〇月のことだった。父を知らない乳飲み子の松島は、母に抱かれて何とか帰国することができた。ハートネットTVを見た日は、たまたまだが、昨年末八二歳で亡くなったなかにし礼の小説『赤い月』(新潮社、二〇〇一年)を読み終えたところだった。なかにしも「旧満州」の出身で、奉天からはるかに北にある牡丹江で生れている。『赤い月』では、自らの体験をベースとした、過酷な逃避行が描かれている。松島のような赤子は、捨てられたり売られたりもしたのであった。松島が在宅介護にこだわったのは、命懸けで自分を守り日本に連れて行ってくれた母への恩返しの気持ちが強かったからである。

 私の父にも「旧満州」との関わりがあった。一九四一(昭和一六)年召集され、通信兵としてソ満国境地帯に赴いたが、病気で帰国し、一九四五年のソ連軍侵攻を体験せずにすんだ。病気療養のため、松島の生地奉天にある陸軍病院に入院していたこともある。これは父から聞いたのではなく、父の死後に軍歴を調べて知ったことである。父は一九八〇年に六三歳で入院先で死亡し、一人暮らしを長く続けた母も、脳幹出血で倒れ、意識が戻らないまま、父の死後二七年経ってから病院で生を終えている。だから、私には松島のような親の介護の体験はない。現在民生委員として、老老介護の夫婦を数組見守っているのだが、松島のケースのように、親子の間にも老老介護がありうることを認識した。

 高校時代に同い年だと意識したのが、清純派女優の代表格であった吉永小百合である。

一七歳の時に早乙女勝元原作の映画『キューポラのある町』で主人公ジュン役をつとめ、橋幸夫とデュエットで『いつでも夢を』歌った。撮影の合間には本を読んで待機している、そんな話を聞き、サユリストというほどではないものの、熱いファンとなった。吉永は、四〇歳になってから、原爆詩の朗読をボランティアで始めた。所蔵しているCD『第二楽章』のジャケットには吉永の小文が載っている。四歳で被爆し白血病で他界した青年と後を追った婚約者を主人公にした、実話に基づく映画『愛と死の記録』の撮影のため初めて広島を訪れ、NHKのTVドラマの『夢千代日記』で胎内被爆した女性を演じたことなどから、「いつしか私の心の中に、核兵器が二度と使用されないようにと、祈る気持ちが生まれました」と述懐している。また、今年まもなく公開される映画『こころの停車場』では、在宅治療に従事する女医の役を演じている。同名の原作は医師でもある作家南杏子が書いたもので、他にも医師の世界を描いた『サイレントブレス』(幻冬舎、二〇一六年)、『ディアペイシェント』(幻冬舎、二〇一八年)などがあり、昨年しみじみと読んだ。タレントで最近同い年だと気づいたのが、タモリで、吉永と同じく早稲田大学第二文学部を卒業している。

作家の池澤夏樹も一九四五年生まれである。父は作家の福永武彦。東京から帯広に疎開していた七月に、池澤が誕生した。池澤が六歳の時両親は離婚し、母と暮らした池澤は、実父が誰であるか、高校時代まで知らなかったという。翻訳まで手がけている池澤の作品世界にすべてふれているわけでないが、二〇〇四年度の親鸞賞を受賞した『静かな大地』(朝日新聞社、二〇〇三年)には、心打たれた。淡路島から北海道に移住し、アイヌ民族の側に立つ道を貫いた宗形兄弟を描いている。池澤は、母方の曾祖父と兄がモデルだと語っているが、私の母方の曾祖父も淡路島からの移住者である。

改めて他に私と生年を同じくする人たちを探してみた。作家には、未婚の母に育てられた落合恵子がいる。落合は児童書専門店クレヨンハウスを開き、NHKラジオ第一の「落合恵子の絵本の時間」で毎週日曜日の朝、国内外の絵本を紹介している。落合の反核・反原発・反戦の姿勢にぶれはない。評論家佐高信もそうである。フリージャーナリストの魚住昭との対談集『だまされる者の責任』(高文研、二〇〇四年)は、今こそ高く評価されるべきだと思う。そこでは、だます者だけで戦争は起こらない、だまされる者がいて可能となる、だからだまされる者にも責任がある、と強調されている。松島も前掲『老老介護の幸せ』で、「戦争はいけない。二度と繰り返してはいけない。偉い人はみなそういう。でも今まで一日だって戦争がなかった日はあったろうか」と投げかけている。朝鮮史の研究者である君島和彦東京学芸大学名誉教授も該当する。家永教科書裁判で原告の家永三郎を支援した。特筆すべきは、韓国側二名、日本側二名からなる編集委員の一人として、一〇年がかりで日韓歴史共通教材を作り上げたことである。それが『日韓交流の歴史−−先史から現代まで』(明石書店、二〇〇七年)で、信頼すべき文献として私も活用している。

 

 

畠山益枝『日記・新大阪一人暮らし』

      「北海道民主文学」23号

 

驚くべき活動力

 

                泉  脩

 

 二〇一三年三月、函館の中学校の養護教諭を退職し、一念発起してシナリオ研究に努めた記録である。退職二年目の十月、関西のシナリオライターの学校に入学したのである。六十二歳だった。

 新幹線の新大阪駅の近くのマンションの一室を借り、歩いて三〇分の学校に、半年間通うのである。毎週一回金曜日に登校し、授業を受けてから次の回までの課題をもらう。

決められたテーマのシナリオを書く。二枚から始まって、毎週一枚ずつ増やしていく。

 きつい仕事だが、畠山さんは何とかこなしていく。

 クラスメートは若者が多く、わざわざ函館から来た六〇代の畠山さんは不思議がられる。娘が京都にいるというと、みんな納得する。

 畠山さんは空いた日に大坂見物をした。食べ物の話が楽しい。さすがに食い倒れの街である。京都の娘を訪ね、行動範囲を拡げて、長野、浜名、伊勢、和歌山、宝塚、鹿児島と旅をする。

 夫は亡くなり、子供たちは成人になり、今は自由な一人暮らしである。大阪を拠点にし、周辺の観光地を歩きまわり、何ともうらやましい話である。ついには海外ツアーに二回参加し、フランスとドイツをまわる。

 日記の形式を使ったエッセーが、簡にして要を得ている。長い困難な教員生活を終え、家族の世話からも解放されて、まったく自由気ままである。私は退職と引き替えに妻の心の病が再発し、看病と介護に追われて、十年を過ごした。合間に地域の活動と小旅行をしたが、妻が長期入院した後に、初めて海外旅行に出掛けた。七十四歳から六年間に十回。世界史の教師だった私には、待望の海外の旅行だった。

 畠山さんは半年のシナリオスクールを終えると、すぐ通信スクールに申し込んだ。何とも旺盛な向学心である。そして、厳しい課題をこなし続けた。

 畠山さんは、日本民主主義文学会の会員だが、函館でただ一人の会員なので、支部を作ることができず、札幌支部の活動に参加してきた。一昨年、「北海道民主文学」(札幌支部が発行する同人誌)に寄稿し、全道研究集会にも参加した。家具がしゃべるという奇抜なシナリオで、軽快で興味深かった。

 合宿なので一日目の夜の懇親会でシナリオ学校の話をし、みんなをびっくりさせた。

 私は初めてお会いして、私よりずっと若い畠山さんに好感を持った。私の本を送ってきたので、読んでくれているようだった。

 先月(九月)、畠山さんからハガキをもらった。発行されたばかりの「北海道民主文学」を読み、私の「人との出会い その3」で山本国光さんの名前を見てびっくりした、という。函館の小学校の教師だった山本さんに会ったことがあるという。学校が違うので、何かの集会でのことだろう。私はびっくりして、このことを山本さんに伝え、畠山さんの作品をすぐ読み(山本さんに読んでもらって)、この評論を書いているのである。

 私がここ数年出してきた本に、「エッセー日記」という章があり、毎月一回、生活と活動をエッセーの形で書いてきた。畠山さんの今回の日記の形のエッセーは、私と似ている。少しは参考になっているだろうか。

 その後の畠山さんの手紙で、仲間と文章教室を開いていて、近く第二文集ができたら送ってくれる、とのことである。

 民主文学会の新しい芽が生まれると知って、とてもうれしかった。

 帯広の秋月礼子さんに続いて、うれしい便りが続いている。

私のような高齢者でも、若い人の役に立っているのである。もう少しがんばろう。

 

 

シェイクスピアを見直した

                松木 新

 

スティーブン・グリーンブラッド『暴君――シェイクスピアの政治学』(岩波新書 2020年9月)は、現在の政治状況とシェイクスピアとを結合させた佳編です。

著者はハーヴァード大学教授でシェイクスピア研究の世界的大家です。『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』でピュリッツァー賞・全米図書賞を受賞、日本語版は2012年12月に柏書房から出版されました。

〈現在の私たちがいる政治世界にシェイクスピアは異様な関係性を持っている〉というだけあって、トランプや安倍、管を頭の隅に置きながら本書を読んでいると、シェイクスピアは彼らのことを描いたのではないか、と錯覚するほどです。著者は、次の20作品を手掛かりに、〈異様な関係性〉を解き明かしていきます。

『アントニーとクレオパトラ』、『ヴィーナスとアドーニス』、『オセロー』、『から騒ぎ』、『コリオレイナス』、『尺には尺を』、『ジュリアス・シーザー』、『シンベリン』、『タイタス・アンドロニカス』、『夏の夜の夢』、『ハムレット』、『冬物語』、『ヘンリー四世』、『ヘンリー五世』、『ヘンリー六世』、『マクベス』、『リア王』、『リチャード二世』、『リチャード三世』、『ルークリースの陵辱』

【ポピュリズム】

〈ポピュリズムは、持たざる者の見方をするように見えるが、実は巧みに民意を利用するものでしかない。無節操なポピュリズムの指導者は、貧民の暮らしをよくしようなどと思ってやしない。生まれたときから巨大な富に囲まれて育った人間は、贅沢な暮らしに慣れ、下層階級の人たちのことなどこれっぽっちも思ってやしないのだ〉

〈人間の性格を見抜く異様に鋭い感覚を持ち、デマゴーグも嫉妬するような言葉を操る技をもって、シェイクスピアは巧みに描いたのである――混乱の時代に頭角を現し、最も卑しい本能に訴え、同時代人の深い不安を利用する人物を。激しく派閥争いをする政党政治に支配された社会は、詐欺的ポピュリズムの餌食になりやすいとシェイクスピアは見ている〉

【忠誠】

〈暴君は、自分の内輪の者たちの忠誠が気になってならないが、仲間から裏切られないという絶対の自信はもてない。暴君に仕えるのは、暴君と同様に自分のことしか考えない悪党だけだ。いずれにせよ、暴君は正直な忠誠だの、冷静で偏見のない判断だのに興味はない。むしろ、追従と確認、そして従順さがほしいのだ〉

〈暴君が求める忠誠とは、暴君の意見を臆面もなく直ちに承認し、暴君の命令を躊躇なく実行することだ。ワンマンの被害妄想の自己愛的な支配者が、公務員と席をともにして忠誠を求めるとき、国家は危険なことになる〉

〈一旦国家が情緒不安定で衝動的で報復的な暴君の手に落ちれば、普通の調整機能はほとんど働かなくなるということである。分別ある忠告は無視され、重要な異議申し立ては払いのけられる。声高に抗議すれば、事態は悪化するばかりだ〉

【心】

〈ひょっとするとリチャードの図式的な言葉は単に心理的に矛盾する気持ち――俺は自分を愛している、自分を嫌っている――を伝えるだけでなく、痛々しい心の空虚さをも伝えているのかもしれない。まるで暴君の心を覗き込んでみると、そこには実は何もなく、成長もしなければ輝くこともない自己の縮こまった痕跡だけがあるかのようである〉

〈シェイクスピア作品を通してずっとそうであるように、暴君の態度は病的なナルシシズムに傾く。ほかの連中の命などどうでもよいのだ。重要なのは、自分が「完全」で「揺るぎない」と感じられることだ。宇宙など粉々になるがいいのだ。そうマクベスは妻に語っていた〉

【没落】

〈暴君は長続きするものではないと、シェイクスピアは考えていた。どんなに狡猾に頭角を現そうと、一旦権力の座に就くと、暴君は驚くほど無能なのだ。統治する国の展望もなく、持続的な支持も得られず、残酷で乱暴であっても抵抗勢力をすっかりつぶすこともできない。その孤立、疑い、怒りは、傲慢な過信と相俟って、その没落に拍車をかける。暴君を描く劇では、少なくとも共同体の再生と正統な秩序の回復を示唆して終わるのが常となっている〉

【再生】

〈最上の希望は、集団生活のまったくの予測不能性にある。誰か一人の命令に無思慮無批判に皆で従わないようにするのだ。数えきれないほどの要素が常に働いていれば、ブルータスのようの理想主義者であろうと、マクベスのような暴君であろうと、先を見通すことはできない〉

〈最も卑しい連中の最も残酷な動機が勝利を収めるように思える時代もある(時に長く続くかもしれない)。しかし、シェイクスピアは、暴君とその手先どもは、結局は倒れると信じている。自分自身の邪悪さゆえに挫折するし、抑圧されても決して消えはしない人々の人間的精神によって倒されるのだ。皆がまともさを回復する最良のチャンスは、普通の市民の政治活動にあると、シェイクスピアは考える。暴君を支持するように叫べと強要されてもじっと黙っている人々や、囚人に拷問を加える邪悪な主人を止めようとする召し使い、経済的な正義を求める飢えた市民をシェイクスピアは見逃さない。

「人民がいなくて、何が街だ? 」〉

本書で初めて知ったのですが、2012年、イングランドのミッドランド地方にあるレスター市の駐車場建設現場から、人間の骸骨を収めた棺が出土しました。遺体はリチャード三世のものであることがわかりました。五百年後に明るみになった証拠のうち、もっとも興味深かったのは、〈背骨が驚くべきS字型に湾曲していたこと〉でした。

〈それは、比較的知られていない史実のリチャードではなく、シェイクスピアが創造してロンドンの舞台に解き放った忘れがたい暴君としてのリチャードだった〉

 

本書がとても面白かったので、『一四一七年、その一冊がすべてを変えた』を読んでみました。1417年、一人の修道僧がある修道院の図書館で、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』を発見します。ルクレティウスの数世紀前に生み出されたエピクロスの哲学を世に広めようとして書かれた詩編です。スティーブン・グリーンブラッドは、『物の本質について』の内容、つまりエピクロス学派の思想を次のようにまとめています。それは一言で言えば唯物論です。

・万物は目に見えない粒子でできている。

物質の基本となる粒子――「事物の種子」――は永遠である。

・基本となる粒子の数は無限であるが、形や大きさには制限がある。

・すべての粒子は無限の真空の中で動いている。

・宇宙には創造者も設計者もいない。

・万物は逸脱の結果として生まれる。

・逸脱は自由意志の源である。

・自然は絶えず実験をくりかえしている。

・宇宙は人間のために、あるいは人間を中心に創造されたのではない。

・人間は唯一無二の特別な存在ではない。

・人間社会は平和で豊かな黄金時代に始まったのではなく、生き残りをかけた原始の戦いの中で始まった。

・霊魂は滅びる。

・死後の世界は存在しない。

・組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である。

・宗教はつねに残酷である。

・天使も、悪魔も、幽霊も存在しない。

・人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである。

・喜びにとって最大の障害は苦しみではなく、妄想である。

・物の本質を理解することは、深い驚きを生み出す。

『物の本質について』は、トマス・モアに読み継がれて『ユートピア』が生まれ、トーマス・ジェファーソンは、五冊の各国語版『物の本質について』を読み込んでアメリカ「独立宣言」を書きました。

トーマス・ジェファーソンの前に、フォイエルバッハとマルクスが、唯物論の発展に大きく貢献していますが、本書ではそれに触れていないのが残念です。

ついでに、『ユートピア』(初版は1516年)を再読してみました。

征服者ユートバス王がアブラクサ島を征服して〈粗野な住民の強化に努力し、その生活様式や文化や市民的教養を現在殆ど世界に類を見ないくらい高度なものに引き上げ〉、〈人生の最高の目標は、喜びを高め、苦しみを減ずることである〉ことをモットーに建国したのがユートピア国です。ちなみに、「ユートピア」はギリシャ語からモアが作った語で、「どこにもない国」の意です。

〈私有財産権が追放されない限り、ものの平等かつ公平な分配は行われがたく、完全な幸福もわれわれの間に確立しがたい〉との信念の下、住民は集団で生活し、一日の労働は6時間。午前中に3時間働き、昼食休憩2時間の後に、午後も3時間働きます。余暇は、〈精神の自由な活動と教養にあてなければならない〉決まりになっています。

平井正穂の「解説」(岩波文庫)によると、カール・カウツキーが、〈モアの理想は依然として苦闘している人類の理想である〉と言ったとのことです。

スティーブン・グリーンブラッドは『ユートピア』について詳細に論じていますが、この国には自由民の他に、奴隷がいることについては、言及を避けています。ユートピア人が獣類を屠殺することは、人間性の最も高尚な感情である〈憐憫の情〉を傷つけるとして禁止されており、それらの仕事を請け負うのが奴隷です。

ユートピア国は、エピクロス学派の思想にもとづいて作られましたが、根本思想である〈霊魂は滅びる。死後の世界は存在しない〉という思想だけは、禁止されています。〈ユートピア人は死後に神のお傍に行けるようにと祈る〉ことが義務づけられています。トマス・モアは、この一点で、キリスト教に妥協しました。

『ユートピア』の次の箇所などは、コロナ禍の今日、改めて光を当ててよいと思いました。

〈しかし何といっても彼らが一番大きな注意を払っているのは、病院に入院している病人である。市のまわりの、城壁から少しはなれたところに四つの病院があるが、これらの病院は、その大きさ、広さ、そのどっしりとかまえている有様はまるで一小都市の観さえあるくらいである。なぜこんなに大きく設計されているかというと、その理由の一つは、病人がどんなに多くてもけっして混み合ったりごたごたしないように、つまり、のびのびと気持よく療養できるようにというわけである。もう一つの理由は、次々と蔓延して止まるところを知らない、例の伝染病(引用者注―十四世紀にはペストが蔓延しました)にかかった病人を他のものから充分に隔離できるようにというためである〉

 

〈健康を人間の主な快楽と考えている人々は非常に多いのである。この点ユートピアは例外なしに、皆これを人間最大の快楽、いや、いわばあらゆる快楽の根源とさえも考えているのである〉

札幌民主文学通信 

二〇二一年〇一月〇一日 266号

 

 

 

 

一月例会誌上合評

 

「北海道民主文学」23号

 

小説『二人語り』 作・田中恭子

 

 筆者より

筆者から自作品についてのコメントは届いていません。筆者はコメントを発信できない状況にあります。その状況については、通信本号の「投稿欄」に昨年十二月十四日付けの『近況報告』があります。

なお、筆者から電話で状況が改善次第、次号とうにコメントを送りたいとの報告がありました。

           (通信担当豊村 記)    

 

 

 

 

 

 

石川節子

この作品を読んでから、いつも見ていた周りの風景の色が、少し変わったように思われます。

特に窓から見える高層マンションの色が、くすんで見えるような気がするのです。前はもっと白く輝いていた気がします。

きっと、自分の「高層マンションへの憧れ」の度合いが下がった為だと思います。いや、マンションでは無く、エレベーターそのものへの思いがそうさせているのだと思います。

私は今、エレベーター無しの五階建て市営住宅の三階に住んでいて、階段上りにとても苦労しているものですから、高層マンションへの憧れが大きいのですが、それ以上に高層マンションは居住費が高くつく。それを考えると、「日当たりの良い小高い丘の上にある家で、坂を登るのだ」思えば気が楽になりました。

生活保護を受けている人に対する一部の人の接し方にも、とても驚かされました。

三年ほど前に「認知症患者の見守り隊に協力を」と言う講演会を聞いたことがあり、聞いていて「もし、自分が認知症になっていることに気付いていない人が、その任務を張り切って遂行したら、ひどい、「有りがた迷惑になるのではないか」と心配したことがありましたが、今まさに、その心配がこの作品の中に出ていて、現実の場面を見ているような切実な思いをいたしました。

何より作品そのものが舞台を想わせ、まるで戯曲を読んでいるような錯覚に誘導されました。

 

 

 

 

 室崎和佳子

「マスク警察」ならぬ「買い物警察」も存在するのかと、暗然たる気持ちになった。と同時にこの「買い物警察」の正体は、案外行政の回し者か、まさか民生委員ではあるまいな、などと思ったり、自治会の高齢者対策部か、と思ったり、ただの意地悪なおじさんかと思ったり……したのでした。

 それにしても、清江さんの死んでしまった連れ合いさんのなんと人間らしいことか。ここにも真人間がいました。モヤシ二袋だけなのに夜遅くラーメン屋に配達する。冷蔵庫にあったステーキ肉三枚を(しかもその肉は連れ合いさんの誕生日のご馳走の肉だったのです)全部食べてしまった息子に対して、食べ盛り育ち盛りなんだもの、栄養になってよかったと思ってやれよ、と笑って妻に言う。そのことを四十歳になっても覚えている息子。そんな大好きな父さんの葬式にも金がないばかりに来られなかった息子。金、金、金、の市場原理の中で生きていかざるをえず、人間性を歪めながらも(カラスだったら子どもなんてつくるな、という暴言をはいたり)ひどいことを言ってしまった、と十年間ずっと後悔している息子。

 息子と同居している女性からの手紙で事実を知る清江母さんの喜び。41ページ下段後ろから3行目から42ページ上段3行目までの清江さんのセリフが素晴らしい。心の広い真人間の清江さんの人間像が表れている。

 清江さんによって元気をもらい立ち直りつつある由紀子を暗示して物語は終わる。

 読後感爽やか。

 庶民はこんなに真人間なんだぞ、どうだ。って、悪い心を持った金持ちどもに見得を切りたい気持ちにさせてくれました。

 あっぱれ。田中恭子さん。

 

泉 脩 

南区のスーパーで出会った二人の女性が、いつしか親しくなり毎日のように語り合う。話の内容は深刻で、八百屋の廃業、夫の死、そして一人息子の消息不明である。

年下の女性は、病身の夫の早期退職と大病、そして自分も病身でマンションのローンが払い切れず不安に駆られている。二人の語りは、身にしみて切ない。格差社会の底辺の苦しみがよく解かる。

 最後に東京から、息子の同棲相手の女性から手紙が来て、二人で必死に生きていることが書かれていて、わずかな花代が添えてあった。老婦人は生気を取り戻し、喜び合う。なんともうれしい結末である。

 田中さんの作品はいつも生活感にあふれていて、しかも前向きに生きる姿が身にしみる。なんとも切ない好短篇である。

 

 

 

村瀬喜史

この批評は十月に室崎さんが書いている。「読後感さわやか。庶民はこんなに真人間なんだぞ、どうだ。って、悪い心を持った金持に,見得を切りたい気持ちにさせてくれました。あっばれ」と。

 中国の超富裕層に読ませたい。その娘が日本の大学院に留学していて、日本人に手がとどかない高級車を購入したいと相談にきて、彼らの高所得とそれ以外の収入の高さに驚いたエピソードを読んだ。格差社会である。

 田中さんはカラスを小道具によくつかうが、私も一つ。

正月の雪の朝、団地の道を歩いているとき、車が何台か渋滞していた。信号もないのに、なにごとか。車道の横の細い歩道をつぼ足で歩いていて、止まっている車の前面をカラスが五・六羽、車にむかっているのを見えた。近くのゴミステーションから、おせち料理の残りをひっばり出してきたのだろうか。歩道の淵は低い潅木で雪がかぶっていて、若いときと違って飛び越えいく力もない。コラッとおこっても何処ふくかぜ。隊列の先頭には艶のいい羽のカラス、さしずめ青年隊長が頭をあげて立っていた。

 そのうち先頭の小型車は、ゆっくりと対抗車線に出ていき、つづいて後ろの車もつづいた。先頭車は小型でマスク姿の女性だった。初めての経験だった。

 

 

 

村松祝子

七十過ぎの女性二人がそれぞれ生きていく上での悩みを抱えながらお互いの身の上話を語り合う物語だが現在の世相が的確に描写されている。

後半清江の息子と同棲しているという女性からのほのぼのした手紙がこの物語の主題だと思われた。

どこにでもある話を暖かく包み、そこに小さな喜びを見出していくこの二人の生き方に「世の中ってまんざら捨てたものでは無いわ! 」と声援を送りたい。 

由紀子の夫に対する負の感情はその立場に立たされたものの共通の思いである。 由紀子はその思いを一人背負っているが、この問題も歳を重ね

ていくに従って大きく肩にかかってくるであろう。

社会保障予算がどんどん削られていく世知辛い世に老人はますます生きづらい風にさらされている。 

それでも小さな希望を失わずこの二人のように爽やかに生きていきたいものだと年齢を重ねた私には勇気を与えてくれる。

明るく 「さようなら、また明日‥‥ 」と去っていく由紀子の心はきっとマンションのドアを開けて「ただいまあ! 」と夫へ暖かく呼びかける声に変わっているだろう。

老人も生きづらくなっていくのと同時に若者も生きづらくなっていく時代である。  

同じ土俵の上で必死に生きている現実を作者は柔らかい描写で見事に表現したと思う。

スーパーの特売の様子、買い物客の様子、パン売り場の前で「明日がもっと安いから明日買ったら‥‥ 」という男の様子の中に現実の生きていく厳しさがさらりと描かれている箇所も印象に残った。

送られてきた女性からの手紙に息子の親に対する切ない思いやすまなさが、三千円という額に表されていた。

三千円は二人の若者にとって大金であったと想像され胸に迫る。

それをさらりと表現し悲壮感なく書かれてあることに感嘆した。

世相を的に描いた素晴らしい作品で感銘させられた。

北海道の方言が書かれているが少し違和感が感じられたが、いかがでしょうか。

 

 

 

 

 

松木新

清江さん、由紀子、カラスが同格の存在として語られていることが、この作品のすぐれた点だと思いました。

この三者に対する作者の距離感が適度に保たれていることが、過酷な現実をどこかユーモラスな雰囲気で包み込んでおり、すぐれた説得力を生み出しています。

すべての生きものは同格であるという思想は、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』の中で、〈人間は唯一無二の特別な存在ではない〉と語られていますし、林京子が「トリニティからトリニティへ」の中で強調した思想でした。

プルトニウム爆弾の最初の爆発実験が行われた爆発点「グランド・ゼロ」に立った林京子は、〈攻撃の姿勢をとる間もなく沈黙を強いられた、荒野のものたち〉に思いを馳せます。

〈大地の底から、赤い山肌をさらした遠い山脈から、褐色の荒野から、ひたひたと無音の波が寄せてきて、私は身を縮めた。どんなにか熱かっただろう――。

「トリニティ・サイト」に立つこの時まで、私は、地上で最初に核の被害を受けたのは、私たち人間だと思っていた。そうではなかった。被爆者の先輩が、ここにいた。泣くことも叫ぶこともできないで、ここにいた〉

林京子は、「長い時間をかけた人間の経験」のなかで、核廃絶に希望を持つS医師の言葉を紹介しています。

〈しかし僕は希望を捨てません、希望は一般の人たちです、庶民が生きのびる知恵と力を得るでしょうね、生物は本能的に、滅びまいとする努力をするものです〉

「二人語り」のなかに、〈生まれたときから嫌われ者〉のカラスが、〈生まれたときから闘って戦って、一生闘い続けて力尽きる〉姿に、清江さんが共感を覚える場面があります。そこに自らの人生を重ね合わせているからに違いありません。清江さんにとって、カラスはすでに仲間なのです。

カラスの姿は、まさに〈生物は本能的に、滅びまいとする努力をする〉姿そのものといってよいでしょう。

清江さんと、由紀子が、〈知恵と力を得〉て、明日に向かって生きていこうとする結末が、とても清々しく感じました。

 

 

 

 豊村一矢

 名作だ。主題が明確であり、構成と文章表現も的確で衒いがなく(衒いが鼻につくと読者の気持ちが作品から離れる)、私を作品世界にのめり込ませてくれた。無駄がない(無駄があると飽きる)。人物像も見事にたちあがっている。

 清々しい感動が残った。

 

 

 

 泉恵子

 田中さんの作品は、いつも社会の片隅で、喘ぎながらも誇りを失わずに努力し 、人生への希望を見出そうと懸命に生きる人々に温かい眼差しを向けている。

 この作品の語りべ渡辺清江(七十四歳)も、山下由紀子(七十歳)も前者は息子との葛藤、後者は病を持つ夫との葛藤を抱えて苦労しながらも、懸命に生きようとする女性たちで、作者は二人の悩みに寄り添って描いている。

 なぜ息子は家に寄り付かないのか、よくわからないながら、最後の手紙で救われる。なぜ、夫は食事を拒否するのか、リハビリしないのか、夫から解放されたい思いを抱きながらも、語ることで相手から活力を貰って、また希望を繋いでいる。語ることは心を解放してゆくばかりでなく、新たな見方も生まれる。この後夫も交えた三人語りになってゆくとしたら、事態が変化する可能性も。

 カラスの描写は作者の真骨頂が発揮されている。

 ただ、二人の語りが時に説明調になってしまっているのはちょっと残念。由紀子の生活だけでももう少し描写を入れられないだろうか。

 作品の背景には、格差を生み出す社会構造が垣間見える。

 

 

 

 柏原竜

 老後の生活不安をまざまざと見せつけられた。他人事ではなかった。一生懸命働いて貯金もして老後はのんびりと暮らせると思っていたのに、70歳山下由紀子の夫は、会社でリストラにあい74歳渡辺清江は大型店の進出により夫婦でやっていた八百屋が廃業に追い込まれた。その二人が偶然スーパーで知り合った。二人とも同じの脊柱管狭窄症ためカートを押しながら公園で今までの苦労を話した。話すことでお互いが親しくなり心が穏やかになってきた。

 清江の東京にいる音信不通だった息子も生活が厳しく喘いでいたのだろうが、パートナーからの手紙が来た。心がホット温まった。

 スーパーで出会った正義漢ぶった見守り隊の男も決して幸せな人ではないだろう。しかし、このような人が世の中には結構いる。

 

 

小説『接待』 作・室崎和佳子

 

 筆者より

これらの事実を知った時から『北海道民主文学』の作品として創作したいという気持ちをおさえることができなかった。つまり、それだけ感情の高ぶりがあり、この怒りをおさえることができなかった、ということ。これが創作の原点~きっかけであるということ。

 

貧しいものたちを傀儡国家の満州によせ集め、ソ連へのタテとして防備の役割をもたせつつ、いつでも捨てられるモノとして扱ったことが許せず、しかし一方では、その開拓団の中で、とんでもない差別がおこなわれていたという事実(〝接待〟に代表される)を知り、文章にしたかった、ということ。

女がモノとして扱われている最も卑近で具体的な例が〝接待〟などという言葉で言われていることであろう。

あまりにも許せない、この非道なる行いよ。それしか方法がなかったとしたら、しかし、その方法が人間として許せないことであったなら、みんなで殺されることの方が、人間としての理性にもとづいていると思うのである。誰かを犠牲にしても、部落みんなで生きて日本に帰ろう、なる思想はどこから来たのか。全体主義にしか私には思えないのである。

 

石川節子

室崎さんの作品には、取り上げた事柄に対する自分の善し悪し感を明確に書き述べるところに、最大の魅力を感じます。以前、何度かNHKの番組でも、満蒙開拓団の敗戦帰国時の悲惨な「接待」を扱った番組を見ましたが、その番組では「被害者は敗戦国日本だというのか、開拓団だというのかその判断は、この番組を見た視聴者がするべきだ」という印象が強調されていて、一番強調されるべき「若い娘、個人の被害状況」が二の次になってしまっていた失望感が今も強く残っていました。

ところが、この室崎さんの作品『接待』には、作者としての自信に満ちた判断が明記されており、実に心地いい。

「あの時、開拓団はどうすればよかったのか」と言う課題は永遠に残るけれども,少なくとも「若い娘、個人を生け贄にしたことは、古代の思想であって、現代人が実行してはいけないことだと私も思います。

 

 

 

泉 脩

旧満州国で敗戦を迎えた開拓団が、中国人の攻撃から守ってもらうために、ソ連軍の接待をする話である。

十代後半の娘たちが開拓団の幹部に頼まれて、我が身を犠牲にするのである。高齢の被害者たちの告白であり、なんともやり切れない。戦後七〇年以上の年月を、悲惨な気持ちで生きてきたことがよくわかる。

それにしても開拓団を置き去りにして逃げた日本軍は卑怯であり、さらにその兵士たちをソ連の強制労働にゆだねて、自分たちの身の安全をはかった関東軍首脳部は、許しがたい。そしてこのような方針をたてた日本政府は、さらに許しがたい。どうして無謀な侵略戦争を始め、そして早期停戦をしなかったのか。トップの責任は計り知れない。

民衆は常に犠牲者になることを、この作品はくっきりと書いている。

 

 

 

 松木新

この小説からは、怒り、恨み、絶望の悲鳴が聞こえてきます。当事者だけではなく、妹や門番、接待係などを登場させたために、全体像を把握することができます。考え抜かれた構成だと思います。

「証言」の記録という体裁を採っているためか、事実の経過報告に重きが置かれていて(もちろん、それ自体は大切なことです)、一人ひとりの人物描写を、もう少し深めて欲しいという気がしました。たとえば、坂下初美の母親の苦悩は、それ自体として一編の小説になると思います。

 

先日、「このミス」第1位の辻真先『たかが殺人じゃないか 昭和24年の推理小説』(東京創元社 2020年5月)を読みました。時代考証にすぐれた作品ですが、その中で、敗戦直後、米軍から〈日本の婦人四〇〇〇万人の貞操を守る〉ために、政府が国営売春を実施したことを知りました。

8月21日、敗戦直後の閣議で、国務大臣の近衛文麿がRAA(国際親善協会Recreation and Amusement Association)の設立を提唱、大蔵省の池田勇人主税局長が五〇〇〇万円を工面しました。

RAAが出した〝新日本女性〟募集の看板には、次の文章が記されていました。

〈国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む〉

〈女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎・被服・食糧など全部支給〉

国営売春計画を黙認した警視庁は、〝新日本女性〟を「特別挺身部隊員」と呼称しました。 

 

この小説に登場する女子高生の姉が、何も知らずに応募しました。

〈「最初の夜に三人の兵士の相手をさせられて、半狂乱になったと聞きました。その次の夜に姉は、料亭の鴨居にかけたしごきで首を吊りました」〉

性病が大流行したために、翌年の春に慰安所はすべてオフリミットになりました。政府の予算五〇〇〇万円は、花柳病蔓延を防ぐため、占領軍はとりあえず慰安婦一五〇人に、当時とても高価だったペニシリンを注射したという記録があるとのことです。

 

作者は、巻末に「参考文献」53冊を掲載しています。その中に、小林大治郞・村瀬明『国家売春命令物語 みんなは知らない』(雄山閣出版)があります。調べてみたら、1971年の出版でした。この本あたりが、典拠になっているのかも知れません。

 

 

 

豊村一矢

 一読して、この小説の構成が気になった。

 全文の中で筆者の言葉は5%に充たない。あとは、「接待」に係わった女性十人の「証言」で占められている。この手法は、端的に主題に迫るのに効果的だったかもしれない…筆者の主張は明快で、「異議なし」である。しかしこの手法で、「真の加害者はだれか」、「他に方法はなかったのか」とかの疑念を払拭して外連味なく作品に共感させてもらえたか……そこまでには至らなかった。

多くの開拓団が、「集団自決」をしている。集団自決と簡単にいうが、老若男女、幼児に至るまで自分の意思で自殺したのか、否、それは実に凄惨なものだった。記録に団長が自分の妻を殺し、次に子供二人を殺して自決し、団がそれに続く、というのがある。

「接待」と「強制自決」のどちらが卑劣なのか、

意味のないこと考えていると、自分が、帰国した開拓団の人々を差別した一部の日本人と同じ立ち位置いる気がしてくる。

 結論。人物を動かして物語を編んで欲しかった。

 

 

 

泉恵子

 満蒙開拓団の引き上げ時の逃避行や、それにまつわる悲惨な話はいくらか耳にしたり、読んだりしてはいた。

 一九四五年八月九日の「日ソ中立条約」を破ったソ連軍の突然の侵攻に、いち早く退散した関東軍。住民を置き去りにした国家の棄民政策には憤りを禁じ得ない。(この時、あの七三一部隊も建物を爆破して早々に退散している)

 その中で娘たちばかりでなく、多くの女性がソ連兵に汚されたという話は聞いていたが、「接待」という制度まで設けていたというのは初めて知った。それも、自分たちの身の安全のために、同胞がそうした制度を作っていたとは。

 こんな理不尽な制度まで作っていたことを、知らしめてくれる貴重な作品と思う。資料を得るために、舞鶴や福岡、長崎まで出かけた作者の気概に拍手したい。

 ただ読みながら不思議な気がした。これは全体が「証言」という形をとった作者の創作である。しかし、「記録文」のように読んでしまった。最後に、作者の言葉が少し述べられていて、創作だと再認識し、どこまでが事実なのかということをつい考えてしまった。

 巻末に掲載されている参考文献に、似たような「記録」があって、そこに作者の脚色が入っているのだろうと考えるのだが、通底している作者の怒りが読者を惹きつけているのかもしれない。

 「事実の重み」とか「事実は小説より奇なり」と言われるが、「記録文」と「創作」の違いを考えさせられた。

 

 

 

村瀬喜史

満蒙開拓団の敗戦後の特に若い女性の悲惨な記録である。占領軍のソ連兵は社会主義とは正反対の軍隊であった。私のソ連社会への認識は、部分的核実験条約のおしつけや金でつった内通者たちの卑劣な行動がくわわって、ソ連崩壊に「両手をあげて」賛成にかわっていった。この作品に中国人からも「橋が爆破されて船賃として女性を要求された」とあるが、どの河であったのか地名を知りたい。敗戦後の旧満州でいろんなことがあったと思うが、八路軍などのモラルは評価すべきものがあったと思っている。

 ハルビン学院出身の隣の男と野菜畠が隣接していて、これらの話を聞いて、文章にしてもらい、今も持っている。その地域を支配していのが、八路軍か国民党軍かによってまったく違うのである。この作品を探し出して日の目にださねばならない。

 民文二月号に「絵を描くハルモニ」が掲載されている。13日の日刊「赤旗」には、藤永壮の「朝鮮人慰安婦の動員は日本植民地支配が可能にした」という記事が掲載それている。この内容に異論があるわけでない。無蓋トラックに荷物どうように運ばれる慰安婦たちがいる。村瀬守保写真集からとあり、同姓なのでいつも気にしているが、いまだに入手していない。

 室崎さんは、これまでも「不法妊娠」を二回わたって書いている。これらについて、共産党のジエンダー平等委員会に読ませたい。過去のことであろうか。

 室崎さんには「チエノブイリよ」というルポがある。原発事故のあと、現地に民宿しながらの記録で、心にいまも残っている。

 

 

 

 村松祝子

読み進みながらこの重い文章を書かねばいられない作者の意図を想像しながら読んでいた。 最後にその思いを読んで安心と納得と重圧をジーンと感じた。

最後の文章を冒頭に持ってきた方が良いかなと一時思ったが、やはり最後に綴った方がより心にのこった。

作者の強い怒りと現実のむごさに向き合わされた思いです。

読後感はとても気持ちが重く、なぜそうなったかの問いを現在の私にも向けられている課題でもあります。

人の尊厳など毛ほども考えず大男のロシア兵に若い娘を差し出して生き延びようとする日本人男性の女性蔑視の考えに旋律を感じる。

そんな現実が私達の歴史であることも直視させられる。

 村の長老たちや政府からお墨付きを貰った役人たちはどんな甘言で開拓団を募集したのだろうか。 また市や町や村はいかほどの特別助成金を受け取って開拓団を送り出したのだろうか。   貧しい村、地方を狙い撃ちしたとも言われるが、政府の嘘の宣伝に踊らせられて満州に渡った開拓団は若い娘の性を餌食にして帰国した事実は汚辱の世界にどっぷりとつかった姿のままの帰国であった。

 開拓団も娘たちも悲劇であった。

特に「開拓団の命を救うために、娘の性を提供すれ」と命令同然のよう言われた娘たちは二重の辛酸を飲まされた。

身をもって娘をかばった親が一人もいなかったのであろうか。

個個人の権利、人権の大切さが理解できなかった当時の日本人であったから仕方がなかったのか。否であると作者は力強く言う。

 

今日自衛隊員を前に首相が演説する場面を新聞紙上で読むことがある。その時の演説に「国民のために日々努力されている皆様方に‥‥」と自衛隊の面前で訓示するその言葉が欺瞞そのものでないだろうか。  「国民のために、国のために‥‥ 」この言葉が出てきたら私達は用心しなければならない。

「生きて日本に帰ることができるかどうかは、お前たちの決意にかかっている。 どうかソ連兵の相手をして開拓団を救ってほしい」と。

この言葉のなんと首相の言葉と重なることか。

一人ひとりの幸せなくして国民の幸せなどありえない。

一人ひとりの人権を考えることの大切さを肝に銘じなければならない。 

私たちはもう満蒙開拓団の時ように騙されてはいけない、時の政府を確りと両眼を見開いて見、確りと両耳で聞いて、熟慮しよう。

中国から引き揚げてきた団長たちの心の中に幾分かの痛みが残っていなかったのだろうか、その心の内を小説として覗いてみたいものである。

戦後政府は引き揚げ者のその後の生活や保障に知らぬ存ぜぬで過ごしてきた。 私たちも彼らの塗炭の苦しさを顧みることはなかった。

戦後七十五年を経て生活している我々と未来を生きる若者達へこの歴史的事実の汚辱を知って忘れてはならないことを作者は書いた。 

過去の歴史を踏まえて現在があり未来がある。 未来は満蒙開拓団の女性達への残酷さをも包んで進んで行くのである。

将来私たちの国はこのような惨事を二度と繰り返してはならないと作者は書いた。

しかし現在、日本科学者会議の六名を会員として承認しないと現政権は発表した。

ロシア兵の前に人身供与された娘達のような悲劇を含む戦争を二度と繰り返えしてはならないと自戒の念を込めて発足した日本科学者会議の六名の会員たちは無用だというのである。 戦争を再び起こさない誓いで発足した日本科学者会議は 不要だと言うのである。

ロシア兵の前に差し出された女性達の塗炭の苦しみなど一顧だにしない、女性の人権などを認めようともしない現政権。

大戦で開拓団を戦場に置き去りにしてきた事実も反省することなく再び過ちを繰り返そうとする政府に驚愕する。

人権の考えが無に等しい政府は女たちの血の滲む叫びなど聞こうともしない。

いつかその人権無視や日本科学者会議無用論が日本全国を覆う前にそれに立ち向かうたくさんの人々と手を組んでこの政府の非を改めさせていきたい。

この願はささやかではあるが彼女たちへの辛酸への小さな報いにつながることでありたいと思う。

 

忘れてはいけない事実を同性として綴る辛さを乗り越え勇気を持ってここまで書かれたことに脱帽します。

過酷な経験をした各人の証言を記録として伝える小説であるが、このような小説の形式もありうるのだと教えられました。  

そしてまた小説とはなんなのだろうかと思い巡らしています。

 

 

 

 柏原竜

満州からの引き揚げ時にソ連兵に貢がれた女性たち、それを押し付ける男たち。受け入れざるを得ない女たち。

 今ジェンダーが問われているが、昔から女性を性としか見ない部分が日本には染みついている。朝鮮の慰安婦の問題をいまだ日本はブツブツ文句を言っているが、はっきり認めて謝罪の気持ちをもつべきだ。接待と言う名で二十歳前の女性の苦悩を想うと、現在も過去も性を買う人は男でそれに従わされるのは女である。女が男を買うことはないでしょう。

 やはり女が立ち上がらないと・・・。室崎さんの怒りがビシビシ伝わってくる。

 

小説『曙光さす頃』 作・泉恵子

 

 筆者より

 はじめ私の関心は、生まれ故郷イトムカの「大町」はいつごろ、どのようにして、造られていったのかということにあった。

 というのも、この数年取り組んでいる、イトムカのおける強制連行・強制労働(以下、強制動員とする)の実態を調べているうちに 分かってきたことがあったからである。

 先に朝鮮人の話は聞いていたが、その宿舎はほとんど「元山」と言われた水銀の発掘場所付近にあったようだ。昭和一四年開山の時はまだ「元山」という武華岳の麓の狭い地域しかなかった。いつ頃からそこから八キロ下った「大町」が造られていったのか、はっきりした記録がない。「創業記録」なるガリ版づくりの冊子は、「元山」に水銀鉱山を開くまでと、開山してから設備を整えて創業するまでの苦労話である。二〇〇一年に刊行された『イトムカ史』に概略は網羅されているが、私の知りたいことが抜けている。

 私が出会った、中国からの強制動員正式導入第一号の「唐燦さん」は、昭和一九年四月からイトムカ大町で、従業員の住宅(長屋)を造るための宅地造成の仕事をさせられている。そこから初めて、家族のための住宅が造られていったということである。そして、私は戦後まもなくその長屋の一角で生まれた。その頃のイトムカを見つめることは、当然戦中戦後間もなくという時代背景は欠かせない。

 

 そんな関心事を小説にするには人物が必要である。考えた末、主人公に私の母をモデルにしたのだが、母についての戦中戦後間もなくの頃のことは、よくわからない。判っているのは釧路空襲に出会ったことと、イトムカに住む所ができるまでは留辺蘂の町中に住んでいたことくらいである。そして、私は留辺蘂町ではなく、イトムカ大町の「一群」で生まれたのだが、物心がついたときは、既に「五群」と言われた職員住宅の二軒長屋に住んでいた。

 母をモデルにするということは、父のことも描くことになる。父のことも私の生まれる前のことはよくわからない。だから当初は予想もしなかった展開になった作品で、自分でも不思議で、どう評価したらよいか分からない作品になった。

 

 釧路空襲のことや、原爆のことなど、戦時中のことを調べたくても、コロナ禍の緊急事態宣言の中、図書館は閉鎖。浅野さんに電話して釧路在住の方に聞いて貰ったりした。その後、原稿の締め切りも近い六月の中旬になって、漸く図書館の閲覧ができるようになったが、新聞は見せてもらえなかった。

 原爆の事も当初「大型爆弾」という報道だったと聞いていたが、一般庶民はいつ頃「原子爆弾」だと認識できたのか、新聞の閲覧ができるようになったのは、締め切りも過ぎた七月に入ってからだった。何とか校正には間に合ったが、戦前から戦後間もなくの期間はマイクロフィルムの中に入っていた。司書の方に教わって、そんなフィルムを見たことも初体験であった。

 また、地名をはっきり出したのは果たしてどうだったのか。前回の作品で「R町」などと書いたのが疑問視されたので、今回明確にしたのだが、果たして内容は正確なのか、 自分では不明瞭なこともある。そんな時はやはり、それらしくぼかした地名で書くことも小説では許されると思った。どこかで「それは違うよ」という声が聞こえてこなければいいのだが。

 更に、戦後生まれの私がなぜ戦中から戦後間もなくのことを書くのか、伝えたいことは何なの か、私を知らない読者にも響くように書かなければならないのだろう。私の中ではいまだ解決されていない強制動員の問題があるのだが、それが伝わるように描かれているとは言えないようだ。

 題名にも悩んだ。戦後の世に希望を託したつもりなのだが。

 

 この度読み返して、いくつか訂正個所を見つけました。大事な個所だけ訂正させていただきます。

〈訂正個所〉

P99  上段L8   右隣左隣

P99  下段L19  艦艇艦底

P111 下段L19  沢田沢村

 

 

 

 村瀬喜史

支部誌・同人誌推薦作品に応募したもの。最終選考に残ってはいるものの、なぜはずれたのか、理由がわからない。五人の選考のだれもが、一言もふれていない。

 長すぎたのかもしれない。

 田島一会長のある発言である。『事実をそのままに書くのでは小説はなりたたないー中略。いろいろな仕掛けも交えて、起伏にとんだストーリーによる人間の織り成すドラマを考え、読み手をひきつける世界を作っていく。これか作家の力の発揮しどころ』という。

 その通りだが、読み人をいかに引きつけるか、それが問題だ。

 

 

 

泉 脩

昭和二〇年(一九四五)の敗戦前後の物語。作者が生れる直前、イトムカ水銀鉱山で働く母は、新設された選鉱場に近い長屋に入る。両隣りの人と仲良くなり、夫()も合流する。妊娠中の妻()は、山の中の慣れない土地に不安を感じながらも、戦地から帰ってきて結婚した夫を頼りに、なんとしても無事に子供を産もうと考える。

八月十五日の敗戦。軍需物資である水銀の先行きの不安。強制労働に駆り出され、帰国が遅れている朝鮮人の不穏な動き。彼等の扱いをめぐる日本人の対立。こういった日々がよく書かれている。若い夫婦は心を痛めながらも、朝鮮人の帰国の引率者になる夫が、責任を果たそうとする。

作者の父親は、大学卒業と就職の直後に召集され,四年後に除隊され結婚した。戦地でもイトムカでも、一貫して人道を守ったのだ。作者の両親への敬愛がうかがわれる作品である。

 

 

 

 

石川節子

道東に住んでいた事もあり、昭和の頃はまだ「留辺蘂・イトムカ」は日常茶飯事に耳にしていた物だけれど、近頃では泉恵子さんの作品でしか触れることが無くなっている。

その中に出てくる「朝鮮人の強制労働者」が日本政府から企業に配給された者だと思って居ましたが,企業自ら釜山まで出向いて連れて来ていた例もあることを知り、今までの認識が一変しました。「会社で連れて来た人達もその下請けの組で連れて来た朝鮮人も、同じ会社で働かされていたのだから、一括、会社で責任を持って、帰国させてあげるのが道理であろうと、ヤキモキしましたが考えて見れば、「暴動が起きたから仕方無く」とはいえ「帰してあげなければ」と行動を興し始めたことは大きな進歩だと安堵した。一方、物語の中の身重の主人公の夫が釜山まで付き添えすることは,物語とはいえ本当に心配であり、その後どうなったか、とても気になる作品です。

 

 

 

豊村一矢

 作者の強い思い入れを感じる作品だ。

 いくつか、用語・場面で理解するのに苦しむ箇所があった。二つ挙げる

➀「曙光」。曙光は、「前途に見えてきた希望」くらいの意味だろう。曙光は「戦争の終結」によってもたらされた。

野村興業株式会社イトムカ鉱業所の社員である正彦と、妻紀美子には、もう空襲もない、戦地に送られることもない「曙光」は「終戦」によってもたらされたように書かれている。

一方、鉱業所に強制連行された中国人や朝鮮人にとって、「曙光」は日本の「敗戦」、祖国の「勝戦」だと書かれなければならないだろう。強制連行の犯罪について責任を追及し賠償を求める立場を得たという意味でもある。

➁「暴動鎮圧に進駐軍出動」。フィクションだとしても、日本の無条件降伏のもと、進駐軍の任務に戦争犯罪を調査もあったのだから、単純に日本の警察力の応援に出動するということには違和感が生じた。説明がほしい。

別件だが、差別用語「ハント人」の使われ方も気になった。

 

 

 

室崎和佳子

一九四五年の敗戦を挟んで、泉さんの心の故郷ともいうべき伊屯武華を舞台にした物語である。

 占領地から非人道的に連れてこられた中国や朝鮮の人々の実態をほとんど知らない新婚の妻紀美子の目から見た混乱した鉱山の実態が分かる。

 会社上層部が帰国の手続きや労働者の当たり前の要求をしっかり聞かないので暴動が起きるが、進駐軍が乗り出してくるところで、一体、進駐軍はどこに駐屯していたのだろう、と考えてしまった。伊屯武華の周囲は山に囲まれており駐屯する場所(都市)などないように思っていたのだが、進駐軍はこの鉱山に中国や朝鮮からたくさんの労務者を連れてきていることを知っていて、田舎でも駐留していたのか。それとも、旭川から来たのか。などなど、どうでもいいことをいろいろ考えてしまった。私は以前住んでいた陸別町が伊屯武華に割と近く、何度かそばを通ったことがあるので、多少土地勘があったのである。

 小説の最後の方で、題名の由来がわかる。戦争で痛めつけられた庶民の全てが望んでいたであろう普通の生活。今後の問題は山積しているが、戦争がないというだけで、曙光がさすのを感じるのである。

 

 村松祝子

新婚の紀美子を主人公に終戦間近から終戦後半年間の大町での生活を描いている。最初話があちらこちらに飛ぶような気がしたが、再度読むうちに理路整然と書かれているなと思った。 

 両隣に住む主婦の会話言葉が生き生きと書かれ二人の性格の違いがよく表現されている。 吉川君の会話言葉も近田さんのご主人の会話にも生活の匂いと共にどんな人か想像された

 作者は会話言葉から性格を表す描写がとて上手だと思う。

それに比べ紀美子とその連れ合いの会話が通り一遍の会話で物足りなかったように思う。 二人の日常生活の匂いや心の通い合いが具体的に書かれてあると紀美子夫婦が現実味を持って読者に迫ってくるかと思われた。 

題名と小説の内容がぴったりと合って読み易い文章だった。

 生まれてくる子供と戦後に向けて夫と歩むこれからの世界への期待を含んだ題名で読む者にも希望をもたせてくれた。

半島人の反乱もアメリカ兵の出動を借りなければならない混乱状態だった当時の様子が印象深い。

会社の規模がどれほど大きかったのか、水銀洗浄池を作るほどの会社であればかなり大きな会社と思われるが、それを想像する場面が欲しかった。例えば水銀採掘とか洗浄する場面とか生産量とか‥‥。

半島人(朝鮮人)の苦しみがいまひとつ伝わってこない気がした。

それは紀美子の目を通して描くからなのか、半島人食事状況はどうだったのだろうかとふと思った。

北海道の山奥の伊屯武漢というところでこんなに大々的に水銀の生産を行っていたことに驚きそれを小説という形で発表したことは貴重な記録でもあると思う。

戦前の政府は大企業と一体になって戦争を敢行してきた事実を改めて教えられる。    

私達の知らない戦争の傷跡が北海道にはまだまだ埋もれているのであろう。

小説として創作したこの作品は、理解しやすく北海道の山奥で埋もれていた戦争の負の遺産の一片を明らかにしてくれた。

 

 なおこの作品は二〇年度「支部誌・同人誌推薦作品」で最終選考に残った作品です。

 作者のこれまでの作品の結実した作になったことでしょう。 

おめでとうございます。 札幌支部員として喜びと祝福を贈ります。 

作者のこれからのさらなる活躍を期待します。

 

 

 

松木新

この小説では、主題の積極性が光っています。敗戦処理の一つである朝鮮人労働者の帰国問題をテーマにした作品は、数少ないと思います。それだけに、伊屯武華鉱山での(作中に数カ所、イトムカ川とは別に、地名としてイトムカと表記されていますが、校正ミスでしょう)、敗戦直後の朝鮮人労働者の動向の描写は貴重ですし、北海道の歴史の再発見につながります。

この小説では、釧路時代などに紙幅が費やされていますが、朝鮮人労働者を引率しようとする正彦と、〈命を脅かされることだけはもうごめんだわ〉と、正彦の行動を不安視する紀美子との葛藤に焦点を絞ったほうが良かったと思います。

正彦はなぜ引率を引き受けたのか、その行動に五年間の中国大陸での体験が影響していないのか。やがて母親になる紀美子の心情に、作者はもう少し、寄り添ってほしかったと思いました。

小説の構成をもう少し考えてほしかったと思いました。「3」「4」はきわめてスムーズに読み進めていけましたが、「1」「2」では、混乱しました。

例えば、99頁下段、「わちもここに来てからまだ二か月たってないんだけど、元山に比べたらずっと住いいよ」のセリフの後に、101頁上段で、元山の解説があるという手法は、読者を混乱させます。

伊屯武華へ向かう導入部から、すぐに大町、元山、鉱山の解説に移って、夫婦の生活の場の概要を、読者に明らかにした方が良かったと思います。

 

 

 

 柏原竜

ずっとイトムカに関連する作品を作ってきた泉さんのイトムカに対する思いの深さを感じた。戦争末期から敗戦にいたる水銀鉱山で働く人びととその家族。そこで無理やり連れてこられ強制労働をさせられていた中国人、朝鮮人。その人たちを気の毒と思ってもどうすることもできなかった。

 敗戦から二か月たっても対応が変わらない会社に対して朝鮮人が暴動を起こした。戦争に負けて立場が変わったことを自覚すべきなのにできない会社の対応が悪い。これは米軍のジープが来ておさまり、朝鮮人を帰国させる手はずがとられた。紀美子の夫正彦が送っていくことになった。

 当時は大変な混乱が日本各地で起こっていたのだと考えさせられた。しかし、紀美子の言うように子ども時代から国は戦争をしていて何か違和感を覚えながらもそれに巻き込まれてしまっていった。これからは、戦のない時代が来ることだけでも曙の空にひそかな陽が差し込むようだ。実感だろう。

 夫の軍の配属地の釧路での空襲の生々しい描写、山奥のイトムカの緑あふれる風景。その中で身重の紀美子の不安はいくばくだったろうと思った。

 「釧路空襲でも生きのびた正彦は、運だけとは言えない自身の身の施し方に機敏なものがあるのではないかと思ったりする」貴美子の夫への信頼感を感じさせた。

 

 

 

小説『歳月』 作・石川節子

 

 筆者より

最初に間違い箇所の訂正です。百二十八ページ下段の三行目、ドボルザークの「我が祖国」は、スメタナの「我が祖国」の間違いです。とても恥ずかしい間違いで、スメタナさまに顔向けができません。

又々、身内のことで、とても小説などとは言えない実話の吐露にすぎず、気が引けるのですが、自分の心に鱗のようにへばりついている「思い出」の泥を、書いて掻いて、剥ぎ取らなければ、美しい肌の作品は出て来ないような気がするものですから、まだ繰り返しているのです。

書き進めている内に、著述に自信の持てない箇所、例えば、ソ連の占領下になってからの、日本人の通貨の事など、いくつかあったのですが、「触れておけば、詳しく知っている人が間違いを明示してくれるだろう」と善意の拡大解釈をして書き表しました。

多くの人達は「樺太の引き揚げ者は四十万島民が全て、生死を懸けた悲惨な経緯をたどって疎開してきたのだ」と思っているようです。

しかし、そうでもない人達も多くいて、引き揚げ者をひとまず受け入れていた函館の子ども達が、学校の窓から「引き揚げ者ヤーイ、もう来るな。もう、来るな」とこだまさせていた、あの情景こそが、受け入れ地、北海道の実情を正直に表していたのだと、私は子ども心にも強烈に受け止めたことを思い出します。

受け入れ地側の人には、客船から下りてくる乗客の身なりで、本能的に、逆にその格差を感じ取ったのだと思います。

 

 

 

松木新

石川版「女の一生」といってよい作品です。〈「恨み」を「新たな活力を産み出すエネルギー」としてゆこう〉と決意したハナの生涯に注がれる作者の視線は、慈愛に満ちています。

この小説で注目したのは、戰後のハナの活躍ぶりです。厚岸高校の分校を霧多布に建てるための 「頼み込み運動」、女性として初めて実現させた沖乗りの昆布採り作業など、新憲法による助成の復権を地で行ったようなハナの言動にこそ、この国の未来が託されているのだと思いました。

126頁下段で、〈日本はおろか、朝鮮にも帰れず、寂しそうな〉平山さん夫婦を登場させたことで、作品世界を大きく広げていることには、感心しました。

注文をいくつか。

   最初のパートにタイトルをつけること(他のパートにはすべてタイトルがついています)

   「養父・源吾」の表現が何度か使われていますが、一回でよいです。

 

 

 

泉 脩

作者の両親を主人公にする、事実に基づく物語。父は釧路から誘拐同様に樺太に連れてこられ、強制労働から逃れ、一人の男に救われる。その男の養女と結婚させられ、労働力として使われる。三年後に自立し、敗戦後北海道の厚岸に住み、昆布採りになり、五人の子供を育てる。無理に結婚させられた母は、それでも主婦としてがんばるようになり、二人は九〇歳まで生きる。

壮大な物語であり、小気味よく書かれている。作者は、この両親を題材に三作品を書いてきたが、どれも力強く読み手を惹きつける。二人がケンカしながら仲良くなっていくのが、おもしろい。そして、道東と樺太の荒々しい自然と歴史がくっきり書かれているので、見事な叙事詩になっている。

特に樺太については、あまり知られていないので貴重である。

 

 

 

泉恵子

壮大な歳月を語る大河小説の趣で読んだ。

 冒頭、父親の陰謀で、突然夫婦にさせられたハナと夫裕次郎。

一六歳のハナの驚きと、憎しみは察して余りあるが、優しい夫と生を共にし、子どもも生まれる中で、生活に張りが出て逞しく成長してゆくハナ。前向きに人生を捕えてゆく中で、前途が開けてゆく。

 樺太が戦火に巻き込まれてゆく直前、疎開を促されても「家族がバラバラになるくらいなら疎開はしない」と言うほどに、絆は深まってゆく。

 ハナの機転の利いた行動は、何度も周りをなごませ、危機を救っている(引き上げ船の中でハマグリに詰め込んできた味噌で味噌汁を作ったり、喘息の発作を起こした桃子にニンニクを擦って飲ませたり)。時には爆撃音の聞こえる中で餅つきをするという奇怪とも思える行動は痛快と言おうか、肝玉の太さに唖然とさせられるくだりだ。

 そうして培われたハナの人間性は、日本に帰ってからの行動にも発揮される。霧多布に厚岸高校の分校を創らせたり、女性としては初めて、周囲の反対を押し切って夫と共に昆布採りの漁に出、「三ちゃん漁業」の始まりをもたらしたりする。

 大河小説の「お登勢」や「石狩平野」の世界を想起させられた。四八枚で収めるには惜しい容。ぜひとも長編に仕上げてほしいと思った。

 

 また樺太でのロシア人との交流生活では、浜練太郎さんを思い出し、遺体を運ぶ樺太医専の学生の中に浜さんもいたのでは?と思い、久しぶりで『サハリン島の群来物語』を繙くと、それらしき場面があった。

 

 蛇足だが、函館にあった「引き揚げ者援護局」からは、イトムカ鉱山にも数人労働者として来ているようだ。私の父もそこまで出かけて就職の斡旋をし、後々まで感謝されてもいる。(編著『思い出のイトムカ』で知った)

 

 松村祝子

主人公ハナの生きた九十二歳の人生を綴った小説である。 

ハナの人生の一つ一つの出来事は一つの物語として成り立つても良いような波乱多き人生であった。

戦前から戦後にかけて生きたハナの人生は精一杯生きた力強さと楽天性が読む者に痛快感と元気と清々しさを与えてくれる。

ハナと同じ時代に生きた人々は戦前と戦後の混乱期を経験しハナと同じに平坦な人生ではなかったであろう。

その中でハナは女としての苦労と屈辱に屈することなくそれを撥ね返して力強く生きてきたところにハナの強い個性と魅力を感じた。

我が子のために通える高校をと地元村長を始め、村のお偉方にかけあうエネルギーに驚嘆する。

其の時のハナはどんな掛け合い方をしたのか、垣間みたいものだ。

大砲の弾が飛んでくる中で餅つきをする度胸は肝っ玉の据わったハナの気持ちがよく表れている。

昆布取りの船は女が乗ってはいけない女人禁止制の船である。 その掟を破り、生活のため自ら乗り込みついに周りの女性たちも自然とみならうようになっていった事件など小気味良い。

一家を食わしていかなければならないし、我が子のためにできることは何でもするという女としての強さが滲み出ている。

真岡において戦後引き揚げるまでの間、地元住民と人間同士の交わりを経験しメーデーや白ロシア、ウクライナの人々の文化も経験した。

そんなハナの心の中に自由に生きる力がさらに生まれてきたのかもしれない

裕次郎もそんな自由な人間参加のメーデーや文化の空気に触れてもう一度そんな真岡の生活を望んでいたに違いない。 

ハナの行動を理解し一緒に人生を生きた男と見える。  

裕次郎の立場からハナはどう映ったのだろうか。 

長い夫婦生活の中で人生の山坂を乗り越えて子供も成長した終焉でこの夫婦はそれなりにお互いに満足し合って人生を終えた余韻が心地よかった。

 

 

 

 室崎和佳子

私は、節子さんの育った浜中町散布にも少々の土地勘がある。

 現在、実母が別海の特養に入っているので、コロナが始まる一年前までは毎月のようにJRで別海を訪れていて、その途中にある浜中駅は必ず停まる駅であった。

 この小説の主人公のハナの生年は大正五年とあるから、節子さんからみれば母親の年代に当たるのかなと思う。

 P125下段に「メーデーも楽しみ、白ロシア、ウクライナなどのひとびとの文化も学んだ」とあるが、庶民の生活は戦争中の敵味方を乗り越え、そういうふうに仲良くなれたのだろう。

 女が乗れない昆布採りの船にハナが乗り続けたことに、気骨のある女だったハナがしのばれる。

 結婚の始まりが「白昼の初夜」だったことは、ハナにとって絶対許されなかったことだった。五人の子供を得ても、「あんた私を手籠めにしたでしょ。忘れてないからね」と晩年になっても言っていたことに、ハナの誇りを奪いとった結婚の形が、一方的で男本位だったことがわかる。

 ハナは一本気で真っ正直な人だったから、自分の意思で結婚したかったのだろうと思う。

 ハナのような女性たちがいたからこそ、徐々にではあるが、世の中が進歩していくのだ。

 

 

 

豊村一矢

 面白く読んだ。

私は石川作品を、場面は深刻なのに面白く読んでしまうことが多い。場面によってはしばしばコメディを観ているような感覚になる。「歳月」でもそうだった。なぜだろう。

多分、筆者の人間観……人間の弱さ・強さ、美しさ・醜さ、賢さ・愚かさ、優しさ・怖さ、悲しさ・誇らしさ、などなどを全部受け入れ、人物が描かれているからではないか。しかも、筆者独特の表現で。

 一方、今回、読み終えて、ふっと「面白いけれど、どこか冗漫だ」という感想が湧いた。

そこで、一年前の「奔流」二七号、『襟裳岬の夕映え』を手に取った。これは三〇枚の作品。『歳月』は四八枚。枚数が問題のはずがない。私の読み方の問題だろう。

 

 

 

村瀬喜史

面白い。新しい作家の登場である。

 『白昼の初夜」とそれから八十年もたった晩年「あんた私を手篭めにしたでしょう、忘れていないからね』言い放つ。戦争に翻弄された生涯の最後まで忘れることのできないあのひとときだった。

 「ちりっぷ」の養父・源吾の家庭はアイヌの家だったが、そのあたりの描写がない。また、敗戦後の「真岡の近く広地にプラウダの通信が作られ・・・以下は必要がない。『昭和十七年に樺太は内地に編入されていたのだか・・・」も必要がない。けずって短くすべきである。私は『新北海道史年表」を常に参照している。「ハル」が「ハナ」になったり、校正もしっかりおこなうべし。夫・弘明に読ませ、校正もさせたらと思う。

 自信をもって書き続け、売れる作家に成長されたい。

 

 

 

 柏原竜

 読んでいておもしろい。石川さんの作品は、いつも痛快でおもしろい。今回の作品もそう思った。戦争を挟んだ辛い時期だったけれども、主人公ハナの性格は前向きで何か起こっても愚痴ったり、泣いたり、へこたれたりせず一歩踏み出す。そして、夫婦の関係は対等平等にみえる。いや、ハナのほうが強いかもしれない。戦争に翻弄された樺太からの引き揚げ者であるが、この夫婦はよく働き家族を大事にして生きてきた。

 夫の裕次郎のことをもっと詳しく書いてほしいとも思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お願い

「二月例会誌上合評」について

   通信265号の関係部分を再録します。

 

➁二月の例会誌上合評作品

 柏原竜『共に生きて』

 豊村一矢『十六番ホールの桜』

 森本のりこ『満州おじちゃん(一)』

 浅野勝圀『尹東柱を尋ねてー自筆本

       「空と風と星と詩」を読む』

➂三月の例会誌上合評作品

   泉脩『人との出会い その3』

   平山耕佑『ゴムの木のこと』

   村瀬喜史『認知症予備軍に編入されたか』

   北野あかり『冷やしラーメンとサラダ』

 

例会誌上合評は支部の基本的な活動、例会に代わるものなので、各自、対象作品について積極的に感想・意見を通信担当にお寄せください。

また、作者は必ず自作品のコメントを書いてください。

それぞれ原稿は、当月(今回は2月)の25日までに通信担当(豊村)へ送ってください。

極力、データ原稿で、メール添付またはUSBメモリーの郵送等でお願いします。

 

 本号「一月例会誌上合評」を受けての発言、再発言を募集します。一月例会合評の延長と位置づける企画です。届いた発言は、次号の「誌上合評」欄に掲載します。     通信担当 豊村

 

               投稿欄

 

 

 

人との出会い 特別編 同(おな)い歳➁

                 泉  脩

 

 憧れのいとこ

昭和十九年(一九四四)の年の暮れ、私たちは父母の故郷、北海道に疎開した。父母は夕張で育ち、父親(祖父)の北炭退職で札幌に移り、成長したのである。父は北大で学び、母は庁立高女で学んだ。

まず札幌に来て、父の上の弟の武雄叔父の家に泊めてもらった。子供(いとこ)が二人いて、上が保子(やすこ)、下が(さとし)だった。

保子ちゃんは私と同い年で、かわいらしいおしゃまな女の子だった。何年か前、父が二人の姉を連れて夏休みに札幌に行き、二人の姉はとても楽しかったらしい。父が撮ってきた写真には、円山・中島・大通公園の美しい風景と、姉やいとこの姿が写っていた。

椅子に座る祖父にしなだれている保子ちゃんが、とてもかわいかった。この頃、周吉祖父は円山の大きな家に住み、武雄叔父一家も一緒だった。祖父はその後伊豆に隠居し、円山の家は売却され、武雄叔父一家は幌西に新築した家に移っていた。

私は家族アルバムにある、この時の写真を繰り返し見た。そして置いてきぼりの悔しさを思い出し、美しい札幌に憧れ、そしてかわいい保子ちゃんに憧れた。

この保子ちゃんに遂に会ったのである。二人は四年生。彼女は優等生、私は劣等生だった。私は半年以上も通学していなかった。二人とも相手を意識していて、時々目が合った。口はきかなかった。何を夕食でご馳走になったのか、どんな部屋で寝たのか―まるで憶えていない。

次の日、私たちは父の下の弟の英雄叔父の家を訪ねた。英雄叔父は上智大学で学び、私たちの家にもよく来たらしい。夜中に来て屋根に上り、二階の窓から入って眠ったという。朝、洗面所で顔を洗っていてびっくりしたと母から聞いたことがある。今では福山味噌醤油会社の娘と結婚し、男の子三人の父親だった。

昌子叔母さんは明るく気さくな人で、私たちを一週間も泊めてくれた。保子、諭姉弟も来て、にぎやかな毎日だった。夜は、子供たちは洋間に雑魚寝で、私は保子ちゃんと隣り合い、手を繋いで眠った。夢のような日々だった。昼は、私はスキーに夢中で、保子ちゃんとは別だった。それでも時々話をした。たどたどしい会話だったが、それでも私には充分だった。

この後、私たちは道南の森町の阿部旅館に移った。英雄叔父の札幌一中からの親友の阿部さんは旅館を休業し、裏の弁当工場で駅弁を作っていた。有名なイカ飯は、ここで生まれたのである。森町での一年余りは、これも夢のような日々だった。

私は四年の三学期から森町小学校に入り、五年生も過ごした。東京には無い自然に囲まれ、スキー、水泳、魚捕り、山菜採りをして過ごした。田舎の子供には負けられないと、さすがの私も勉強した。そして、昭和二十年八月の敗戦をむかえた。東京の医院を空襲で失った父も来て、森町での開業の準備を始めた。ところが親せきの不幸が続出したのである。

伊豆の伊東で祖父が亡くなり、札幌では英雄叔父が胃ガンで、続いてなんと保子ちゃんが疫痢で急死してしまった。ショックだった。仲良くなって一年足らず。これから楽しい交友が始まるはずだったのだ。

そして、昭和二十一年の二月、父が患者からうつった天然痘で亡くなった。四十代の半ばだった。私たちは母の実家を頼り、札幌に移った。そして、七十年が過ぎたのである。

私は苦しい人生の合間に、よく空想をした。

もし、父が生きていたら・・せめて十年でも!そして保子ちゃんが生きていれば。恋人になったり、結婚したりはなかったろうが、かけがえのないいとことして、どんなに楽しい時間を持てた事だろう。八十五歳の高齢になっても、まだ胸がときめく思いなのである。七十五年前の、わずか一週間の接触だったのに―。

くっきりと彼女との出会いを、いまだ憶えている。人生とは、儚いものなのである。

今から十年ほど前、私は武雄叔父一家の墓参りに行くことができた。叔母も諭さんも亡くなり、諭さんの妻の泉敦子さんに案内してもらった。

新宿から電車とバスで二時間もかかったが、墓石の裏には叔父夫婦と二人の子供の名前が刻まれていた。昭和二十年に亡くなった保子ちゃんに、やっと再会できて、私は胸がいっぱいになった。父母が巣立った札幌の象徴のような保子さんに、私は心からの祈りを捧げた。私が人生で最初に意識した女性でもあり、いつまでも心に残っている。

私は、この時から東京に行く度に、泉敦子さんに東京案内を頼んでいる。

 

 

『日没』が明かす思想統制

              松木  新

 

桐野夏生『日没』(岩波書店 2020年9月)は、この国の近未来で横行している思想統制を描いたディストピア小説です。

昨年秋の芸術祭「あいちトリエンナーレ」問題や、現在進行中の学術会議をめぐる任命拒否問題などに如実に表れている思想・表現の自由、学問の自由にたいする弾圧を先取りしており、現実に立ち向かう桐野夏生の作家精神に、敬服しました。

エンタメ作家・マッツ夢井に、ある日、総務省「文化文芸倫理向上委員会」から召喚状が届き、「療養所」に収容されます。マッツの小説が、「ヘイトスピーチ法」に抵触するので、〈更生と矯正〉によって、〈社会に適応した〉作品を書くように求められます。

マッツが召喚されたのは、〈読者から告発〉があったためでした。

「療養所」と〈読者から告発〉で思い出したのが、2015年に刊行された須賀しのぶ『革命前夜』です。ベルリンの壁崩壊前夜の東ドイツを描いたこの小説では、〈この国には矯正施設〉があり、〈シュタージ(密告者)〉が跋扈する様子が描かれていました。

『日没』で注目したのは、総務省役人の、次のような言説です。

〈「表現は自由ですけどね、何もかもが自由というわけじゃありませんでしょう。そうでなければ、社会はすべてが野放しになってしまう。今は犯罪が多発して、性犯罪を増えてます。そして悪質化、低年齢化しています。イジメによる殺人や自殺も増えた。これらの原因は、野放しのマンガや小説ではないか、とも言われているんですよ」〉

〈「一年半前に、ヘイトスピーチ法が成立しましたね。これを機に、ヘイトスピーチだけでなく、あらゆる表現の中に表れる性差別、人種差別なども規制していこうということになったのです。それで、私どもは、まず小説を書いている作家先生にルールを守って貰おう、ということになったのです。それは法的根拠としてありますので、私どもは違法行為をしているわけではない」〉

ディストピアの役人が、ただいま現在の人間として物申していると錯覚してしまいます。

ヘイトスピーチと小説とが、同じレベルで捉えられている事実に愕然としたマッツは反論します。

〈「冗談じゃない。小説は、正しい、正しくないじゃないんです。出来事をそのまま書くだけで、その出来事を審判するものではない。だって、真実は、あなたの言う正しさとは違うところにあるんですよ。それは読者にも伝わるはずです。どうして、あなたがたは最近のハリウッド映画みたいな、コンプラまみれの、真っ当なことを言うんですか。どうしてそんな」〉

マッツの反論は理解できますが、物足りなさも感じました。根本は自由の問題だからです。

『革命前夜』では、自由に真っ正面から向き合っていました。

〈「クリスタ・テートゲスは戦う者です。底辺に落とされてもなお、安全な家畜であることよりも、自由な人間であることを選んだのです。自由とは必ずしも美しいものではありませんし、時に害悪となる代物です。ですが、知っておいていただきたいのです。音楽は自由な魂からしか生まれないということを。家畜となることを選んだ途端、その人間がつくる音楽は、ただの雑音になるのです。そして―」〉

「音楽」を「小説」に置換すると、問題の本質が見えてきます。

『日没』では、「療養所」の任務が、作家の〈奇妙な思考〉を改造すること、すなわち「転向」にあることを、あからさまに語っています。

〈「人には思いもつかない凶悪犯罪への執着や、激しいヴァイオレンス、ペドフィリアなどの異常性癖をテーマに取り上げること、差別の助長、倫理性の欠如、国家への反逆、そして反社会的な思考。これら全部を併せ持って書く人もいます」〉

〈奇妙な思考〉批判が、実は〈国家への反逆〉、〈反社会的な思考〉への弾圧であることを、桐野夏生は声高に主張しているといって良いでしょう。

マッツは、拘束衣を着せられて独房に監禁される苦痛から逃れるために、転向します。〈想像力を勝手に使って作品を書いてはいけない、と言われたことに対して、はい、そうしますから許してください、と屈服〉したのです。

ここから事態は急展開。読む者の予想を裏切る結末へ向けて驀進していきます。桐野夏生の真骨頂を実感できる見事なラストで、堪能できました。

 

 

 

札幌民主文学通信265号

              村瀬喜史

                                                

 

今回の「北海道民主文学23号」の普及は、本日現在21冊。今回はいつもよりすくない。なぜだろうか、分析すれば、私の認知症宣言のようで、売るのに気恥ずかしいこと。それに高齢化、二十年前ころの手帳をみると、買ってくれた人々が亡くなっていることもある。この記録を読み返して、総括すべきであろう。かつては「ポプラ書店」に三冊ほど委託して、販売していたこともある。「ほっかい新報」紙に書評を書いて掲載していた。今年85歳、書評を書くか、書かせるか。そして本を書店までとどけるか、仕事がふえて、私は[面倒くさい」、という気持ちになる。選挙の電話かけを20本でもかけた方がいい。

 本を交換した中に元医師で詩人だけ文彦氏がいる。帯広柏陽高校の同期生で私より二つ年下である。親友の草森紳一と共著の「明日の王〕詩と評論という上製本で数年前、道新に予告記事かべのっていた。週刊新聞「赤旗日曜版」領収書の裏に、「力のある評論だ、次々と読みます」とあった。。この二人と交流のあった砂沢ビッキについての本も一冊いただいた。夫人が近くに住んでいる。別に論じたい。

 それにしてもこの本には評論が最初に載せられている。この様式は「奔流27号」も同じである。この号の田中恭子さんの「二人語り」について室崎さんが見事な書評を書いた。「あっぱれ田中恭子さん」これを読んだら作品を読みたくなる。「あら高橋篤子さんも書いている」と言って買ってくれた。かつて白老にいた人である。

 私が普及した人達は、民主文学誌の拡大対象者になる。

 

松木新の「武漢日記から見えてくるもの」は面白い。私も〔中国は社会主義か」を

読んだ。多分同じ頃、同じ問題意識をいだき、かもがわ出版の広告をみて購入し、よみおえた。

 中国には、4回訪問している。一週間前後の日程である。志位和夫「改定綱領が開いた新たな視野」を読んで、アメリカを越える格差社会になっていることに驚くとともに、私の見聞きしてきた知識を吟味していかねばならないと考えた。

 この本をだれが購入したか教えてほしいとたのんだが、地区の本屋から体よくことわられた。集団学習でもやりたいが、そうもいかない。かつてノーマさんらと一緒に小樽商大の倉田稔の最終講義に出ていた学生が昨年、中国湖南工業大学の日本語講師に派遣されて、習近平一色にあきれ、多喜二の本なんか書店にないとボヤキのハガキがきている。

 民主文学にも、ハルピン東方学院に日本語講師として派遣された経験が「何もないこと、全てがあること」として作品化され、作者と読者の会でとりあげられ、牛久保さんが司会で魅力ある会がひらかれ、新年号に紹介されている。作者も司会も報告者も、現代の中国問題をどう見ているのか、質問してみたい気持ちになった。私の中国訪問や最初のガイドは北京大学2日本語科の学生。二度目はウルムチ大学である。三度目は河北大学てあった多喜二シンポジュウムで、中国の若い青年にかこまれていた。四度目は雲南省のチベット地域である。格差の底辺にある「農民工」などをみてきたが、その底上げが成功しているのは、国際的にも認められている。だからと言って社会主義に向かうのに疑念を抱いている。

 せめて何か意見を言えるように、「中国は社会主義か」の読者し意見交換をしたい。  以上

                                

 

 

 

 

 

 

 

 

まっとうであること

               後藤守彦

 

昨年一一月の『しんぶん赤旗日曜版』に載った対談記事で知り購入したのが、日本語で作品を書いている、台湾生まれの作家温又柔と木村友祐の往復書簡集『私とあなたのあいだいま、この国で生きるということ』(明石書店、二〇二〇年)である。表紙には、愛猫家の木村を物語るように二匹の子猫の写真が使われている。我が飼い猫と同じキジトラだろうか。昨年一二月二七日付の『北海道新聞』書評欄で、文芸評論家の川村湊が「今年の三冊」の一つとしてあげ、「あまりにも〈まっとう〉な考え方の二人は、だからこそ〈今、この国で〉生きることの難しさを感じているのだろう」とコメントしている。

木村を知ったのは、中編小説「猫の香箱を死守する党」(『新潮』二〇一三年七月号)によってである。香箱とは香道で使われる道具を入れる箱のこと。猫のくつろいだ座り方が似ていることから、香箱座りとか香箱を組むという。前足の足首の部分を胸の下にたたみこみ、しっぽを身体に沿わせて胸の方に持ってきて腹部をべったり地面につけるポーズである。この作品は猫好きの猫話ではない。現代社会への危機感を背景に木村の主張が鮮明に込められている。四五歳の主人公は妻が拾ってきた野良猫を溺愛し、クロと名付け夜は一緒に寝る。「仕事なんか行かずにいつまでもクロと眠っていたい」「こんなふうに心の奥のほうから震えるひとときはおれの一日のなかでほかにあるだろうか」、こうした主人公の内面描写から始まるのだが、原発問題や軍事化と改憲を推し進める政党の台頭、過激右翼団体の跋扈などが批判的に綴られていく。

 野良猫の保護活動に取り組んでいる女性は、水俣病は猫が狂ったように死んだことから始まった、「猫が殺される社会はヒトも殺される社会」と断言する。主人公は同じ職場の青年と、「猫の香箱を死守する党」を結成するのだが、その青年は「これまで動こうとしなかった善良なひとたちが、こんな、儲けのためにはひとが死んでもかまわない、マフィアみたいな連中がのさばる世の中にしたんですよ」と告発する。猫を散歩させる軟弱者と罵られ、過激右翼団体の青年たちに襲われたりした主人公は、後ろ向きになろうとする自分を乗り越え、「猫の香箱を死守する党」の党是を明文化して抗する。「わたしたち「猫の香箱を死守する党」は、飼い猫も野良猫もあらゆる猫が日々しあわせな香箱をつくれる社会をめざします」、これが党是の前文である。この作品には、文学は強い者のためにあるのではなく、弱い者のためにあるとの意思がはっきりと表明されているといえよう。

 札幌民主文学会の二〇二〇年七月例会では、中寛信「病院で掃除のアルバイトをするということ」(『民主文学』二〇二〇年六月号)について報告した際、文学の存在意義に係る木村の言葉、「目の前で、または見えないところで悲鳴をあげているだれかに寄り添うことが文学ではないのか」(「生きものとして狂うこと」『新潮』二〇一八年八月号)を紹介した。たまたま購入した、ホームレス支援の雑誌『ビッグイシュー』の二〇二〇年九月一五日号でも、木村の言説に出合った。

 

猫と暮らし始めたこと。これは僕にとって大きな分岐点の一つです。つれあいの会社の敷地に捨てられていた子猫が突然家にやってきました。子猫だから、二時間おきに哺乳瓶で猫用ミルクを飲ませ、お腹を刺激しておしっこを出させて、うんちも出させなければならない。でもそうやって生き物と暮らし始めたことで、自分も生き物だということに気がついたんです。

 

政治的な主張をストレートに書くことは嫌がられるが、「僕はやっぱり、嫌がられても、苦しみ悶えている人を目の前にして見なかったふりをしたくない」と木村は強調している。

そうした木村の思いは、この往復書簡集でも溢れ出ている。帯封にある言葉のように、「この世界、まっとうですか?」と自分にも、私たちにも問いかけている。「まっとう」という言葉を書簡で初めに使ったのは温である。格差と差別の社会への批判を込めて。

 

「持てる者」がほくそ笑み。「持たざる者」が泣き寝入りする・・・・・・そのことに腹を立て、そのことに胸を痛めるというまっとうさを、私も失いたくないと思っています。と同時に、木村さんに倣って自分自身のことも、あらゆる角度から見つめ、点検しなければとも思っています。たとえば、ある部分で「持たざる者」である私が、別のある部分では「持てる者」であるということなどを・・・・・・

 

 温の自己凝視の厳しさが伝わってくる。書簡の「最終便」でも、温は「たったいまも心の底で火の玉のごとく燃え盛るまっとうでありたい」「いつの私も(中略)まっとうな生き方をしているようにと心から願っています」と吐露している。木村は、昨年七月の小池百合子が圧勝した都知事選の結果を受けて、応答している。

 

   まともさ−−。人々が何に困っているのか、現場の声に向き合い、困っている人が救われるような社会をめざすための施策を掲げたまっとうな人の声が届かない。あるいは聞こうとしない。そして、「女性だから安心できる」とか「コロナの感染をよく抑えている」とかの、いずれも根拠のないイメージだけで票を投じる。(中略)生きものとして、人としてまっとうに生きる人々は、勝つためにどんな卑怯な手段でも使う人たちに負け続けるしかないのだろうかと。・・・・・・たとえそうだとしても、まともさを手放すわけにはいかないと腹をくくるしかないのですが。

 

 「まっとうな人」は小池と対峙した宇都宮けんじを指している。「まっとう」という言葉そのものが出てくるのはこの三か所しかないが、往復書簡集全体が、自分は「まっとう」でありたい、人びとが「まっとう」であってほしいという思いで貫かれている。このまっとうであることの前提は、「外部を意識すること」であり、言い換えれば、他者の存在、他者が存在する場所、他者のおかれた状況を意識するということである。

 そして、まっとうであることが、二人の文学観としても明らかにされている。木村はいう。

 

   「おかしい」というところから、物事の思考は出発するべきではないでしょうか。そして、文学はそこから書かれるべきではないでしょうか。自分や他人が「国家」や「国体」の一部として組み込まれたり、逆に排除されたりすることを断固として拒絶する・かわす・

 

 

すり抜ける、そのために文学はあるのではないでしょうか?

温も、「非常に限られた狭い世界の中で繰り広げられる微細 な関係の機微をうまく掬いあげたような」ものこそ文学とする風潮を批判し、「現代社会に対する異議申し立て」を文学の形で表そうとしている木村の姿勢に共鳴している。

最後に、木村の芥川賞候補となった近作『幼な子の聖戦』(集英社、二〇二〇年)にも少しふれておきたい。青森県の小さな村の村長選挙。村議の「おれ」は、若者や女性の支持を集めている同級生を応援しようとした。ところが、日本会議を思わせる「明治に日本を戻す会」とつながる保守系県議の妻との関係が夫に知られたことが弱みとなって、対立候補のために動くことになった。買収活動もしたし、事実無根の下劣な中傷ビラを作るなどの選挙妨害工作もした。「おれ」は同級生を裏切ったのである。印象に残った場面があった。「おれ」は選挙戦のさ中、キジトラ柄の子猫を胸に抱いていた少女に出会う。少女は猫と同じ目をしていた。「おれ」のはまり込んでいる、ドロドロした策謀の世界となどとは無縁な無垢な目。

 

かつて「幼な子のような無垢な心」でいることに心惹かれたおれは、虚をつかれた思いだった。あの子は、何の苦労もなく、すでに無垢の心を持っているというのか?自分の気持ちのまま生きるという意味で無垢といえる動物たちの領域に・・・・・・?

 

 果たして「おれ」は、「幼な子のような無垢な心」を取り戻すことができたのだろうか。

 

 

細野ひとふみ「コロナ禍前夜」

       酪農家とのひととき

                 泉  脩

 

 

 道北のオホーツク沿岸の酪農地帯で、人工授精師の圭人(よしと)が、仕事の合間に麻雀(マージャン)を楽しむ。相手は酪農家の龍平・(あゆむ)・直幸である。

 龍平の家の屋根裏部屋で、四人は仕事で疲れた体なのに朝方まで麻雀に熱中する。いわゆる徹マンである。ムダ口をたたきながら、麻雀の底知れない魅力に浸るのである。

 仕事はきつく、ほとんど休みもなく牛たちを相手に格闘しているので、なおさら刺激的な遊びが必要なのだろう。

 人工受精師とは、牛乳を出す大切なメス牛に、雄牛から集めた精子を種付けする仕事である。仔牛を産ませると共に、搾乳を更に増やすためである。優秀な人工受精師は酪農家には大切な存在であり、この作品の中でもセンセイと呼ばれている。

 圭人はこの辺りで働き始めて三年目、困難な経営に取り組んでいる人々と深く交わり、信頼され、そして誘われるままに麻雀をするようになった。気がとがめながらも、たかが娯楽なのだ―と言い訳しながら、はまり込んでいるのだ。

 夢中で遊びながらも酪農のことを考え、それぞれの経営のやり方を考えている。

歩は堅実で正統的な麻雀を打つのだが酪農経営は大胆で、最近始まったメス牛を確実に産ませる遺伝子工学による受精に努めている。かつては考えられなかったことである。

 この歩が立直(リーチ)をかけ、圭人は自分が良い手のテンパイになると、「エイ」と危ないパイを捨てた。歩は、すかさず「ロン」と言って満貫で上った。こうして圭人の敗北で麻雀は終り、それぞれ帰路につく。数時間後には厳しい仕事が始まるのだ。

 圭人はコンビニに寄ってサンドイッチとコーヒーを買う。夜明け時なのに女店員が応対してくれる。荒れた手をしている。店先のスポーツ新聞の一面トップに、東京五輪が危ない―といった大見出しが踊っている。

 このようにこの作品は、麻雀という遊びを通してだが、最北の地における苛酷な労働の姿を描き、酪農のあり方についても深く観察し描写している。好短篇である。

 私は麻雀を知っているだけに、とてもおもしろく読めた。

 細野さんは自分の仕事を題材にした作品を次々と書き、私たちに北海道の酪農の実態を教えてくれた。

「私たちは、牛をあくまでも経済動物として見ています」と言っていたが、牛を決してペットとして見ないのである。そして外国の激しい輸出攻勢に直面して、規模の小さい日本の酪農の危うさを教えてくれたのである。

胆振・日高支部の進藤さんが漁業をめぐる作品を書き、この二人のおかげで私たちは北海道の第一次産業の実状をいくらかは理解できたと思う。

 今回の細野さんの作品は十八枚と短く、さらりと書かれていて味わいが深い。幾分、物足りない思いもあるが、とても上手に書かれている。

 細野さんは腕を上げたものである。

 私は高校生の時に麻雀を覚えた。一緒に暮らしていた従弟が覚えてきて、私に教えてくれた。貧しい暮らしだったので、ボール紙を切ってパイを作り、トランプのように遊んだのである。しかし他にやる事が多く、麻雀は上達せず四〇過ぎに職場仲間と再開した。職場がやっと平和になったからである。元来、勝負事が好きな私は、しばし熱中した。しかし自分のクラス作りにも打ち込んでいたので、やはり片手間で大して上達はしなかった。

 退職後も思い出したようにやったが、視力が落ちてできなくなった。もっと打ち込み上達した囲碁と共に。

 

 

 

『近況報告』 (2020・11・14 記)

四〇日間の入院生活から解放されました

田中恭子

 

2020年9月25日朝9時、所用で外出する夫と一緒のバスに乗り買い物行こうと、上着と帽子を手に立ちあがった時、首の後ろから突然得体のしれない津波のようなものが頭に押し寄せ、頭痛と吐き気で座り込んだ。すぐに救急車を呼んでもらい、救急隊員が駆け付けてくれたが、私は床に寝転がったまま、うなり、吐き続け、搬送用のストレッチャーに乗ることも無理になっていて、隊員の方の背中にしがみついて、救急車にたどり着いた。脳の病気であろうとのことで、南区の中村記念南病院で受け入れてくれることになり、9時30分過ぎに入院することができた。その頃から私の意識はもうろうとしていて、覚えていることは少ないのだけれど、MRIなどの検査(私は以前からMRIが大嫌いで、工事現場の中に投げ出されて、不愉快で不規則な音を聞き続けていると具合悪くなるのです)を受けたこと、看護師さんに「検査や治療に差し支えるので、着ているものを切ってしまってもいいですか?」と問われたこと、今日は何日ですか?  あなたの名前は? と聞かれ、何でいまさらそんなことに応えなくてはならないんだと思いながら答えた記憶が残っている。結局、午前中で検査結果が出て、午後から、くも膜下出血の手術を受けることになった。手術時間5時間、本人の知らない間に開頭され、術後の出血を抜くための管が埋め込まれ、そのために切ったあちこちを、縫ったり、ホッチキスでとめたりと大事だったらしい。

翌朝、一人部屋のベッドの上で目が覚めたとき、夫の顔がまず目に入り「おはよう」といったらしいが自覚はない。更に看護師さんに呼びかけられ、名前は、此処はどこ、今日は何日、何曜日、矢継ぎ早に問われ、それぞれゆっくり答えると、二人の若い看護師さんが「すごい」と笑顔でグータッチしいるのがわかった。「頭がとっても痛いしなんか吐きそう」、と訴えると、「ちょっと我慢してね、70年以上動かされたことのない脳の中が昨日の手術で動いてまだ混乱しているから具合の悪いことが起きるんだと思うけど、手術は成功したから大丈夫だからね。少しずつ良くなるからね」と優しい。でも頭の痛みと吐き気は治まらない。9時を過ぎて、担当医のN医師が来てくれて、私と夫に状況を説明してくれた。

「検査の結果、頭の中に3か所の動脈瘤が認められ、そのうちのひとつが破裂して、くも膜下出血となり緊急手術をしたこと。幸い、手術は成功し、今現在、意識も正常で会話もでき記憶もしっかりしているので、2週間、術後ケアを続ければ回復できる見通しですので頑張っていきましょう。」

頭の痛みが強くて医師の話を全部詳細に聞き取れたわけではなかったが、『2週間で回復』だけを心に受け止め、私は死なずに済んだのだと少しだけほっとしていた。だが、導尿の管が入り、その上にごわごわとしたおむつが施され、少しでも動くとこみあげてくる吐き気に苦しみ、千個の鐘が鳴り響くような頭痛が続いた3日間ほどは、死んだほうが楽かも、と束の間のまどろみの中で何度も思っていた。

4日目から午前と午後にリハビリが始まった。午前の担当は40代のIさん、午後は30代のOさん、退院してから思い起こすと、このリハビリの2人の女性が現れてから、私の闘病生活は本格的に前向きになった気がする。まず全身を優しい力でマッサージ、その後、痛みを感じた個所を確認、4日間の寝たきり状態で落ちた筋肉量や失われた体力を詳細に説明してくれて、回復するために大切な頑張りどころを教えてくれる。そして、患者の私には関係ないと思われる自分の家族の話や、仕事の話を、1時間のリハビリ中ずっと聞かせてくれる。3人の男の子の母親であるIさんは検査技師である夫と共働きで、音更出身で、仕事面では「現在は、そこそこ主任になれたので、家の用事や子供の用事で土日に休暇をとりやすくなったけど、昔は大変だったこともあったよ」と言い、「そういえば昨日ね、うちのが休みだったものだから、3時ごろ、急に豚汁食べたくなったって電話したら案外おいしい豚汁が夕食に出てきてね、なんか感動したんだから」とも話してくれた。気取らない人柄に親しみを覚え、私も、看護師さんに言うと笑われるだけだと思い話すのをためらっていた。

 

 

 

 

『武漢日記』を読みながら その一

                木村玲子

 

 前々回(十二月初旬に届いた)の通信に、逸早く松木さんがこの本の中心的なテーマに触れている。武漢に行ったことのある私も報道などで関心を持っていたが、こんなに早く翻訳本が手に入るとは思わなかった。

 遅ればせながらひもとき、しきりに武漢に滞在した短い日々のことが思い出された。同時にこんなに辛辣に政府や官僚機構を批判する人もいるということを、改めて認識させられた。体制を批判して牢獄された弁護士やノーベル賞を受賞しながら監禁された作家劉暁波氏のことを思い浮かべて、著者の方方女士は大丈夫だろうかといささか心配にもなった。

 (この後、武漢の実態をSNSで発信していた上海の市民記者が「虚偽報道を流した」として拘束され、懲役四年の実刑判決を受けたという報道が年末にあった。「彼女は事実を報道した」と弁護側は言っている)

 

 初期のころは「ヒトーヒト感染はない」と真実を究明しなかった政府が、コロナの正体が明るみになって慌てて武漢をロックダウンした。その六〇日間の日記を、方方は庶民の一人としての立場からブログに書き綴っていった。当初から新聞よりも「方方の日記を読まなければ寝られない」という人もいるくらい真実に迫る内容に共感が寄せられていたという。

 そのブログは「ネトサヨ」と言われる極左分子によって消されるが「消されても書くことをやめない」という姿勢には、その気概に拍手を送りたい。

 方方は中国湖北省の作家協会の主席にも選ばれたとのことで、二〇〇八年には中国作家代表団の一員として来日し、ペンクラブ主催のシンポジウムにも参加したとのこと。私が唐元鶴さんから頂いた『武漢作家』という雑誌にも「顧問」として名を連ねている。

 

 この本の主たる内容について松木さんが述べているので、二番煎じになることを承知で書いているが、読みながら、出てくる地名や東湖と呼ばれる湖などから、短い滞在でのことを思い浮かべたので、そのことを書かせていただく。

 

 最初は二〇一五年の秋だった。武漢から車で高速道路を一時間位走った東方にある「黄石市」に住む、唐燦さんや唐元鶴さんを訪れたその後の一日半を武漢見物にあてた。二日目は、翌日の上海発千歳行き午前八時の飛行機に乗るため午後から上海に移動し、半日を上海見物とした。

 

 武漢は、当初漢口、武昌、漢陽という都市に分かれていて、今も「武漢三鎮」と呼ばれ交通の要所でもある。三つの市が一つになって人口約一千百万人に近づいているという(『武漢日記』では一千万となっているが)大都市で、長江下りの玄関口でもあるようだ。湖北省の省都となっている。

 滔々と流れる長江を見下ろす漢詩に出てくる「黄鶴楼」はぜひ行ってみたいところだった。私と通訳のために共に来た、中国東北部鶴岡市出身の謝老師(私の中国語の先生)も、武漢は初めてとのことで楽しみにしていた。二人で観光タクシーで巡る予約をしていた。

 武漢見物の一日目の朝、泊まっていた三流ホテルに迎えに来た車を見て驚いた。砂埃で真っ白ならぬ真灰色でおおわれて、地の色は何色なのか分からないほどである。思わず謝老師と顔を見合わせ眉をひそめた。客を迎えるのにこれはないだろう。日本ではあり得ないことだ。不快な気持ちになったが、まさかこのまま一日中走るということはないだろう、言葉のできない私はしぶしぶ後ろ座席に乗った。ガイド嬢は三十才前後と思われる片言日本語のできる聡明な女性である。

 その日は午前中は武漢にある中国四〇〇〇年の歴史を網羅しているという「湖北省博物館」を見学し、その後東湖のほとりを散策して、昼食。午後は「黄鶴楼」見物と、近くの長江大橋を歩きながら雄大な長江の風景を見て夕食という予定である。

 博物館は圧巻であった。中国古代からの発掘された道具類や装飾品、建造物の片鱗などが広い会場いっぱいに並べられている。中国語と英語(もあったと思う)の説明が書かれているが、ほとんど読めないので、ただ形ある陳列品を眺めるだけである。が、中国の長い歴史を追いながら二時間も歩くとぐったり疲れてしまった。近代になると丁度日中戦争勝利七〇年とのことで、それにかかわる展示もあったが、ここは戦争の記念館ではないので、あまり詳しい展示ではなかった。

 

 外に出ると、その間に車は洗車してきたらしく、今度はピカピカに光る紺色の車に変身していてほっとした。

 

 その後、多分『武漢日記』にも出てくる「東湖」と言われる湖(大きな沼?)のほとりを散策した(武漢周辺には沢山の沼湖があるので確かではないが)。そこは公園になっていて、美しい並木道が続く風光明媚な散策路には、三々五々ゆっくりと人々が歩いたりベンチで寛いだりしていた。

 昼食はその対面にあるレストランでということで、再び車で反対側に行くのだが、大きな沼池のような湖を迂回してゆかなければならない。反対側ではあちこちで工事が行われていて、それはこの湖の底に地下道を造って交通の便を図るためだという。私たちは湖の端にかかる美しい橋を渡ってきたのだが、都市の便宜のためにそこまでするのか、と思ったことだ。

 レストランは湖面に突き出た、さわやかに風の吹き込む雰囲気の良いところだった。ガイド嬢、運転手さんも交えてたっぷりと中華料理を味わった。謝老師は中国語で会話が弾んでいたが、私はガイド嬢を介した会話なのであまり進まない。もっぱら聞き役だが、ほとんど聞き取れず、食べることに専念するしかない。

 午後は、待望の「黄鶴楼」見学である。平日であったが大勢の観光客が訪れていた。五階建てで各階の屋根の反りが特徴的な堂々とした鮮やかな茶系の楼閣だ。夜はライトアップされるという。謝老師は上らないというので、通訳嬢と二人で急な階段を上って行った。上るごとに武漢の街並みと長江の流れが少しずつ広がってゆく。最上階には、この楼閣に上って眺めた光景を謳ったと思われる詩人たちの漢詩が壁一面に墨書されていた。

 教科書に載っていて有名な李白の詩「黄鶴楼送孟浩然之広陵」(黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る)が親しげに目に飛び込んできた 。これだけがかろうじて訓読出来る。一緒に上った通訳嬢にその詩を詠んでもらった。彼女は小さい声ながら慣れた口調で、朗々と謳うように詠んでくれた。

 故人西辞黄鶴楼(故人西のかた黄鶴楼を辞し)

 煙花三月下揚州(煙花三月揚州に下る)

 孤帆遠影碧空尽(孤帆の遠影碧空に尽き)

 惟見長江天際流(惟見る長江の天際に流るを)

 

訓読と違って、韻を踏んだ平仄の調べが美しい。

 「中国の若者は皆あなたのように詠めるのか」と聞いたが、ちょっと首を傾げて微笑し答えなかった。

 

 次に行った「長江大橋」は、そこから二〇分程歩いていくところにある。道々、猿に芸をさせて、通行人を楽しませてくれる街道芸人?がいたりして、橋までの距離を感じさせなかった。

 

 「長江大橋」は「黄鶴楼」と並んで、武漢の名所といわれるだけあって、全長一六七〇メートル、幅二二,五メートルもある広く長い橋で、街灯にも趣向を凝らした近代的な見事な橋である。二層になっていて下は列車が走っているという。車道には車の流れが止まらない。橋の上からは少し濁った長江の流れの中に、大型貨物船や漁船がゆっくり滑ってゆく。沿岸付近の古くからの街並みと、背景に林立する高層ビルが眺められる。長江を真ん中に、昔の建物と超高層ビルの立ち並ぶ新旧入り混じった、エネルギーの充満したような武漢の光景は見ていて飽きなかった。

札幌民主文学通信

二〇二〇年十二月一日 265号

 

 

 

 当面の支部活動について

           松木 新

 

支部員のみなさん

 

コロナ禍、支部例会の中止を含め活動の閉塞状態がつづいています。政府の無策もあり、先が見えない状況です。札幌民主文学会としては感染防止策を講じながら、この時期に見合った活動を開始したいと思います。

具体的には、『通信』『支部便り』を有効に使う活動を提案します。

以下、『通信』担当者と話し合いながら計画を立案しました。よろしくお願いします。

 

一 通常の集会型例会は、来年一月~三月の間、引き続き行いません。

 

二 集会型例会は来年四月からを予定します。

 

三 『通信』、『支部便り』を毎月発行します。

『北海道民主文学』23号掲載作品の例会合評を、『通信』誌上で行います。

 

 

一月の例会誌上合評作品

田中恭子『二人語り』

室崎和佳子『接待』

泉恵子『曙光さす頃』

石川節子『歳月』

 

➁二月の例会誌上合評作品

 柏原竜『共に生きて』

 豊村一矢『十六番ホールの桜』

 森本のりこ『満州おじちゃん(一)』

 浅野勝圀『尹東柱を尋ねてー自筆本

       「空と風と星と詩」を読む』

 

➂三月の例会誌上合評作品

   泉脩『人との出会い その3』

   平山耕佑『ゴムの木のこと』

   村瀬喜史『認知症予備軍に編入されたか』

   北野あかり『冷やしラーメンとサラダ』

 

➃ その他、『北海道民主文学23号』の札幌支部以外の方の作品についても投稿してくれれば通信に掲載します。

 

 

四 各月(一月、二月、三月)の誌上合評は支部

の基本的な活動に代わるものなので、各自、対

象作品について積極的に感想・意見を通信担当

にお寄せください。また、作者は必ず自作品の

コメントを書いてください。

それぞれ原稿は、当月の25日までに通信担当(豊村)へ送ってください。

極力、データ原稿で、メール添付またはUSBメモリーの郵送等でお願いします。

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

~ 永遠に生きよ ~   

    西浦妙子さんへの最後の手紙  

            

            室崎和佳子

 

 西浦さんとは十勝文学会での活動で出会いました。

 思えば2004年の北海道民主文学会十勝集会は支部結成まもなくの頃で、亡くなった岡崎さんと西浦さんと私の三人で全道の仲間をお迎えしたのでした。何せ人手不足(三人だけなので)で、講師の旭爪あかねさんを帯広空港に迎えに行ったのは、文学会に関係のない私の夫でした。

 岡崎さんが亡くなった後に、清水町の妻鳥靖子さんが仲間になり、2008年に私が江別に転居するまで いつも三人で新築なった帯広市図書館の一室を借りて、例会をしていましたね。私が陸別町から、西浦さんが大樹町から、妻鳥さんが清水町から、それぞれ帯広に集結して毎月開いていたのでした。私が江別に来てからは、年に二、三回、やはり帯広市図書館の一室に集まっていました。

 その頃だったと思います。

「私、この頃、目の調子が悪くて、運転していると、ぼやけてくるんだよね。どうも、脳にできものができたようなの」

 何ともないことのように言ったのを思い出します。これが後年失明へと繋がったのでしょう。

 大樹町で立ち上げた介護施設の施設長としての重責を全うして美唄市に転居して来た西浦さんは、やっと大仕事から解放されて、自由を満喫できる身分になったのです。

 しかし、病の方は、それと反比例していったように思います。

 一昨年(2018年)、『四季を重ねて』を出版したときは、体力の限りを使い尽くしたようでした。

「すごいね、こんなに厚い本を出して」

「最後の方は焦りすぎて端折っちゃったのが、心残りといえば心残りなんだよね」

 そんな会話を交わしたことが思い出されます。その年の全道研究集会には、厚い『四季を重ねて』を段ボール箱に詰めて美唄から持って来て、満面の笑みで一人一人に配ってくれましたね。とても嬉しそうだった西浦さんの笑顔が浮かんできます。懸案だった家族の物語を作品にできて安堵した西浦さんは心底嬉しそうでした。

 夫の勇さんは見るからに優しそうな方で、大樹町議を7期も務めた妙子さんを根底から支え、彼女のすべてを認め、愛しぬいたのだろうと思います。

 西浦妙子さんは「嫉妬の対象になどならない  稀有な人格者」でした。あの人何でもできてくやしいな、あの人ばかりモテて私はなぜモテないの、などという嫉妬心が起こり得ない人でした。心の底から、人格者だなぁ、と私はいつも思っていました。西浦さんならどんなことでも受け止めてくれる、という安心感がいつもありました。

 そんな西浦さんを失ってとても寂しいです。「私、正真正銘の盲(めしい)の老婆になってしまったの。でもね、思っていることを文字化する器械ができているので、まだ当分は書けそう。だから、心配しないでね」

 携帯電話を通してでしたが、最後に聞いた肉声がこれでした。9月初旬だったと思います。

 命の灯火が消えたのが10月5日。夫の勇さんも予測がつかなかったというほどの急変でした。

 優しい笑顔でいつも包みこんでくれた西浦さんには感謝の言葉しか思いつきません。

 ほんとうにほんとうにありがとうございました。

 そして、さようなら、妙子さん。

 

 

 

まなび座の風景

後藤守彦

 

 「急用ができたので、残念ですが、明日のまなび座を欠席します」と、電話で連絡があった。まなび座とは、北広島九条の会のもとにある学習組織で、二カ月に一回集まりを持ち、一冊の本を、声を出して交代で読みながら、自由に議論している。電話をくれたのは常連で、『北海道新聞』のアメリカ特派員を務めたこともある元新聞記者である。誠実な人で、時々調べたメモを持参して来る。

 平日の午前に開催していたが、現役世代、若い人の出席を期待して、ここ数回は日曜日に実施している。参加者数は一〇名に満たないが、話し合いは活発である。長く、月一回会員に戸別配布している『九条便り』で周知してきたが、何とか参加者を増やそうということで、市の広報紙への掲載を依頼することにした。ところが、こちらの希望通りにはいかなかった。市の広報担当者へメールで申し込む。開催日時・会場は当然のことだが、内容が肝心である。本の題名・出版社名が示されなければ、案内にならない。ところが、本の題名・出版社名を出すのは、特定企業の宣伝になるので駄目。それで、例えば、一昨年読み合わせした、木村草太ほか『「改憲」の論点』(集英社新書、二〇一八年)については、「テキストを読み合わせ、改憲について考える」を原稿としたら、改憲は政治的で、しかも対立があるテーマだから、といった理由で却下された。結局、「テキストを読み合わせ、憲法について考える」となった。九条の会の例会に関しても同様の問題があり、市役所に行き担当課長と交渉したこともある。結局、周辺の市町村の広報では、九条の会については対象外となっているので、載せることに意義があると判断し、内容については妥協している。

昨年、九月と一一月の二回で、吉田裕『日本人の歴史認識と東京裁判』(岩波ブックレット、二〇一九年)を読了したが、広報の案内文は「テキストを読み合わせ、日本人の歴史認識を考える」だった。東京裁判は略称で正式には極東国際軍事裁判というのだが、一九四六(昭和二一)年五月から一九四八年一一月まで開かれた。その結果、元首相の東条英機はじめ七名が絞首刑となった。歴史修正主義者、右派勢力は勝者の裁きだと批判するが、彼らが決して口にはしない、不問にされた諸問題があった。北広島九条の会の例会に二度講師として招いた本庄十喜北海道教育大準教授は、「植民地化下における強制連行や「慰安婦」制度などさまざまな残虐行為、中国各地における七三一部隊による人体実験や細菌戦、毒ガス戦、三光作戦などについて、これらは国際法・国際人道法などに違反する行為であったにもかかわらず、その責任を問われることはありませんでした」と指摘している(『歴史認識の原点・東京裁判』学習の友社、二〇〇八年)

最大の焦点は、天皇の戦争責任であり、そもそも天皇に関しては裁判開廷前からあらかじめ不起訴が決定していた。日米合作で昭和天皇は免罪されたのである。連合国のオーストラリアなどは、天皇を戦争犯罪人として裁判にかけるべきだと主張していたし、アメリカのギャラップの世論調査でも、天皇処刑論が三三%で第一位を占めていたにもかかわらず。参加者の女性の一人が「もし昭和天皇が死刑判決を受け処刑されたら、当時の国民はどう反応しただろうか」と皆に投げかけたが、私はそうした問いの立て方をしたことがなかったので新鮮だった。反発するのではなく、意外とあっさりと受けいれたのではないか、というのが、皆の反応だった。

最近の使用テキストを幾つか紹介しておく。前掲『「改憲」の論点』、長谷部恭男『憲法の良識−−「国のかたち」を壊さない仕組み』(朝日新書、二〇一八年)、山本章子『日米地位協定在日米軍と「同盟」の七〇年』(中公新書、二〇一九年)、長谷川櫂『文学部で読む日本国憲法』(ちくまプリマー新書、二〇一六年)、礒村英司『戦争する国にしないための中立国入門』(平凡社新書、二〇一六年)などで、新書版が多い。長谷川櫂は東海大学で教えている俳人だが、「民主主義も平和主義も表現の自由もすべて言葉の問題に集約されます」と強調している。

 次回は、『北海道新聞』の二〇二〇年一〇月二日号でも大きく紹介された、若手マルクス経済学者斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書、二〇二〇年)に挑戦し、新しい社会主義像について論じ合いたい、と大いに期待している。

 

 

 

人との出会い 特別編 (おな)い歳 ➀ 

              泉   脩

 

(おさな)友達

子供の頃、私は同い年の子供に関心を持った。年上は大人だし、年下は幼く思えた。だから脩、同い年の子供がよかったのである。

東京の品川区大井町で生まれ育った私は、遊び好きで近所の子供たちとよく遊んだ。特に、筋向いの呉服屋の江口英夫と仲が良かった。姉の菊子、兄の生一に続く次男の末っ子だった。私は開業医の息子で、上に姉二人、下に弟がいて、やがて妹が生まれる。

英ちゃんと私は同い年で、とても気が合った。お互いの家を訪ね、外ではあらゆる遊びをした。特にトンボ捕りと蝉捕りが大好きだった。だんだん遠くに行き、迷子になったこともある。二人の親は忙しく、あまり気に留めなかった。

トンボはせいぜい赤トンボであり、もっと大きなトンボが捕れたら大喜びだった。蝉はアブラ蝉で、たまにミンミン蝉が捕れるとうれしかった。透き通った羽の小さめの蝉だった。トンボや蝉を捕まえる道具は手網か、のりもちだった。竹竿の先にモチをつけたものである。

二人は別々の小学校に入り、私は電車を乗り換えて慶応幼稚舎(小学部)に通った。三年生の時、同じ大井町から通学する下級生と近づきになり、家に遊びに行ったことがある。

御屋敷町の立派な家で、広い庭があった。真ん中に噴水の出る池があり、なんとトンボの楽園だった。それも図鑑でしか見たことのない、大型のギンヤンマやオニヤンマがたくさんいるのである。捕る人がいないので、トンボたちは安心して池に群がっているのである。まるで別天地であり、夢を見ているようである。英ちゃんに見せたら、どんなに喜ぶことだろう。しかし、私は話さなかった。戦争が深まってくる中で、この平和な楽園をそっとしておきたかったのである。

私と英ちゃんの遊びも、他の子を加えた戦争ごっこになり、やがて四年生になると小学生の集団疎開で別れてしまった。私は集団疎開には参加せず、郊外の世田谷区に家族だけ移り、十一月まで通学しない、これも夢のような生活が続いた。私は勉強嫌いだったのである。

年末には我が家は、北海道に移り、大井町の

 

 

医院も空襲で焼失し、父も家族と合流し、やがて敗戦を迎えた。

戦後、私は時々東京に行き大井町も見に行った。元の住人が戻っていて、家業を再興していた。

十数年前、思い切って江口呉服店に入ってみた。なんと生一さんが店主になり、私のことも憶えていてくれた。英ちゃんは銀行員になり、もう退職したという。元気で過ごしているとのことで、私は一安心をした。

文通による交友の再開は考えなかった。お互いすっかり変わっているし、考え方、生き方も違っているだろう。過去の楽しい思い出は、大切にそっとしておきたかったのである。

「ひでちゃん」「おさむちゃん」と呼び合い、毎日のように会っていた時期は、遥か昔に終ったのである。今さら昔の夢を壊すことはなかった。

最近、九十歳になる上の姉が、菊子さんの手紙を見せてくれた。二人は同じ小学校に通い、とても仲が良かったらしい。最近になって、やはり生一さんに会い、姉さんの住所を教えてもらい、文通を始めたのである。

私は一昨年(二〇一八)と昨年(二〇一九)に東京に行き、最後の大井町行きをした。ところが、庶民の下町だった大井町がビルの街に変り、迷子になってしまった。もう江口呉服店も無くなり、生一さんも存命かどうか。

私のセンチメンタルジャーニーも終らざるを得なかったのである。

英ちゃん、さようなら

 

 

 

 

 

『鏡影劇場』が面白い

                  松木 新

 

逢坂剛『鏡影劇場』(新潮社 2020年9月)が、途轍もなく面白い小説です。688頁、二段組みの大著ですが、作品世界がミステリアスで、個人的には、本年度の「このミス」第一位に推したいくらいですが、14位でした。帯に、〈予測不能の結末68頁は袋綴じ仕様〉とあるのですが、この宣伝文句が決して誇大でないことも実感できました。

本間鋭太なる人物から、逢坂剛へフロッピーディスクが送られてきます。そこには、本間鋭太作「鏡影劇場」という小説が入力されていました。内容に興味を持った逢坂剛は、新潮社で出版することにします。本書は、本間鋭太の「鏡影劇場」を紹介する、という体裁をとっています。

日本のギタリストがスペインで入手した古書を、小説の作者である本間鋭太が少しずつ解読、その都度、プリントされた翻訳文章を弟子の大学教官に渡し、彼女と友人の家族を巻き込んだストリーが同時進行で展開するという仕掛けになっています。

古書の内容は、ドイツ浪漫主義時代の鬼才といわれるホフマンの後半生を、ヨハネスなる人物がホフマンの妻ミーシャに克明に綴った、ある種の書簡体の報告書です。

複雑な入れ子構造の小説ですが、最後の袋綴じ68頁が明かす〝秘密〟には、正直なところ度肝を抜かれました。山登りではないですが、多くの汗をかいた分だけ、頂上に立った時の気分が爽快であるように、ホフマン部分の冗長な頁を辛抱強く読み切った者だけが、袋綴じ頁の爽快な気分を味わえます。

ホフマンの『牡猫ムルの人生観』は、楽長ヨハネス・クライスラーの伝記が書かれた原稿の裏側に、牡猫ムルが勝手に人生観を書きつづったものを、ごちゃまぜにして印刷してしまった、という設定の小説です。逢坂剛が、この手法を踏襲したことは、想像に難くないです。

1822年(日本では江戸時代後期)、四十六歳で亡くなったホフマンの文学者としての活動は最後の十年間で、それ以前は音楽家としての生活でした。

『牡猫ムルの人生観』を収録した『ホフマン全集7』(創土社)には、ホフマン作曲の自筆の楽譜―当時流行した学究者組合の歌のパロディ「猫学研究者組合の歌」が掲載されています。

古書から浮かび上がってくるホフマンのエピソードを紹介します。

 

【音楽家ホフマン】

「レーゼ・ドラマ」について、ホフマンやゲーテが論じています。「レーゼ・ドラマ」という言葉は、豊村一矢さんの作品で初めて知ったのですが、この時代にすでに市民権を得ていたのです。

ハインリヒ・フォン・クライストの一幕物の戯曲「壊れた甕」について、ホフマンは、〈「上演を目的とするよりも、レーゼ・ドラマ(読む戯曲)として、読まれるべき作品でしょう」〉と語っており、ゲーテも、上演向きではなく、レーゼ・ドラマだと、書簡に書いています。

ホフマンは、ゲヴァントハウス管弦楽団の音楽監督として、「フィガロの結婚」を上演するなど、モーツァルトを最も良く評価していました。モーツァルトの音楽を理解しているのは、この世に二人しかいない、その一人はモーツァルト、もう一人は自分だ、と言い出す始末です。

ナポレオン軍が、プロイセン・ロシア・オーストリア連合軍を迎え撃ち、激戦が繰り広げられていた最中、ホフマンは劇団員を叱咤激励して、モーツァルトの「魔笛」のリハーサル、本番公演を続行します。

第五交響曲をはじめとする、ベートーヴェンの楽曲を高く評価していたホフマンにたいして、ベートーヴェンは次のような礼状を書いています。

〈台下のようにすぐれた才能を持つ、貴紳からのお言葉であっただけに、愚生にとって非常な喜びであったことを、ぜひお伝えしたいと考え、ここに一筆したためた次第であります。

すべて美しく、よきものが台下に恵まれますように。   

台下の忠実なしもべートーヴェン〉

 

ベートーヴェンとヴェーバーの音楽的力量に、とても太刀打ちできないことを悟ったホフマンは、音楽から文学へ方向転換するのです。

 

【作家ホフマン】

森鴎外が初めて訳したドイツ文学が、ゲーテでも、シラーでも、レッシングでもなく、ホフマンでした。

日本でホフマンの影響を受けたと思われる作家が、谷崎潤一郎、夢野久作、日影丈吉、大泉黒石(喜劇役者・大泉滉の父親)、江戸川乱歩、泉鏡花、小栗風葉、岡本綺堂とのことです。何となく作風が似通っているといえます。この流れが、鶴田法男や高橋洋、黒沢清などのJホラーにつながっているのかも知れません。因みに、黒沢清監督の最新作「スパイの妻」は、731部隊を告発した反戦映画の傑作です。

外国の作家では、ドストエフスキー、ゴーゴリ、レールモントフ、レフ・トルストイ、アラン・ポー、ボードレール、ジョルジュ・サンド、アレクサンドル・デュマなどが挙げられています。

ホフマンの影響力が相当大きいにもかかわらず、異端の作家とみなされ、黙殺されていたのは、ゲーテがホフマンの作品をまったく評価しなかったからでした。文豪ゲーテが是としない作家を、研究者は避けて通ったのでした。

ゲーテの人柄を表す挿話として、ベートーヴェンと一緒に歩いていたときの状況が紹介されています。通りかかった政府の役人だか貴族だかに、ゲーテは道を譲りうやうやしく挨拶をしたのですが、ベートーヴェンは堂々としていて、むしろ相手からうやうやしく挨拶されました。〈ゲーテは、上に礼を厚くしたわりに、下にはいばりくさった。ベートーヴェンは、だれに対しても同じように振る舞った〉のでした。

『吾輩は猫である』と『牡猫ムルの人生観』との関連性を論じた箇所が、最も面白いものでした。漱石は、『吾輩』連載の最終回に、『ムル』に言及しています。

〈「自分でも是程の見識家はまたとあるまいと思うて居たが、先達てカーテル・ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大気炎を揚げたので、一寸吃驚した。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、不図した好奇心からわざと幽霊になって吾輩を驚かせる為に、遠い冥土から出張したのだそうだ。牡猫は母と対面をするとき、挨拶のしるしとして、一匹の肴を咥えて出掛けた所、途中でとうとう我慢がし切れなくなって、自分で食って仕舞ったと云う程の不孝ものだけあて、才気も中々人間に負けぬ程で、ある時抔は詩を作って主人を驚かした事もあるそうだ。こんな豪傑が既に一世紀も前に出現して居るなら、吾輩の様な碌でなしはとうに御暇を頂戴して無何有郷に帰臥してもいい筈であった〉

漱石が『ムル』についてこのように書き加えたのは、その三カ月前、大学時代からの親友である藤代素人が、戯文「猫文士気燄禄」に、〈百年も前に吾輩と言ふ大天才が独逸文壇の相場を狂はした事を、おくびにも出さない〉と漱石を批判したからでした。

1956年、板垣直子が『漱石文学の背景』(鱒書房)で、『吾輩』は『ムル』を剽窃したものであると追求し糾弾しましたが、〈『ムル』と『吾輩』は設定こそ似ているものの、まったく別の作品といってよかろう〉というのが結論のようです。

1943年生まれの逢坂剛は、学生時代からホフマンに私淑していたといいますから、50年以上も暖めていたテーマを、一気に書き上げた渾身の大作が本書といってよいでしょう。

余談になりますが、作中、「もち吉」が二度もでてきます。餘程おいしいものらしいので、試しに食べてみました。しょうゆ味とサラダ味でしたが、どちらも評判通りでした。

 

 

 

 在日朝鮮人と共に生きる

 

高橋篤子

「ぺトトル川……チマイベツ川支流……」 

        『北海道民主文学』23号

                

泉  脩

 

 三年前、札幌の娘の家の近くに移ってきた晶子(あきこ)に、朝食後室蘭のサヨから電話がかかってきた。

 ロクさんが亡くなった―という知らせだった。今日十一時から直葬で、焼き場から直接納骨するという。

 晶子はショックを受け、すぐに行くことにした。娘のカンナに知らせると、一緒に行くという。二人はカンナの車で室蘭に向かい、やっと間に合った。ロクさんの遺言により、葬儀をせずに、すぐ市の無縁仏の墓に納骨するのである。ロクさんは在日朝鮮人で、親・きょうだいは朝鮮に帰国し、朝鮮料理の修業中だったロクさんは日本に残ったのである。それ以来、家族との音信が途絶え、ロクさんは一人で死んだのである。

 晶子は帯広に近い牧場を親から受け継いだ夫と結婚し、やがて娘のカンナが生れた。夫は時代の波に乗り、牧場の機械化と大規模化に努めたが、その後経営が破綻して自死した。晶子はカンナを連れて室蘭に移り、近くのサヨとロクさんに助けられて生きてきたのである。

 三歳のカンナはロクさんを父親のように慕い、ロクさんもカンナを可愛がった。しかし、鉄鋼基地の室蘭が斜陽化するにつれて、ロクさんの朝鮮料理店は廃業に追い込まれ、ロクさんは職を転々とし、最後はチマイベツ川のほとりの鮭の孵化場に勤めた。日本人の妻に逃げられ、一人暮らしをしながら晶子親子を支えてくれたのである。

 ロクさんは故国の朝鮮に帰り、家族と再会することを願ったが、遂に果たせなかった。

 彼は毎年、櫻の季節になると、晶子とカンナ、そしてやはり一人暮らしのサヨと共に、室蘭岳から流れ出るペトトル川のほとりに行き、孵化場から持ってきた鮭の稚魚を放流した。そして四年後に北洋から戻ってきた鮭の姿を見つけて、皆で喜ぶのだった。

 カンナが結婚して一人になった晶子が、ロクさんとペトトル川に行った時、ロクさんに抱きしめられたのだった。

 二人は核兵器反対で一致し、ロクさんの死の三年前に、国連で核兵器禁止条約が過半数の国から支持された時、二人は大喜びした。そして各国での批准が進む毎に、地図でその国を探して喜び合った。晶子は札幌に移ってからも時々室蘭にもどり、ロクさんとの交友を続けてきたのである。

 ロクさんの焼き場でのお別れには孵化場の仲間が十人あまり参加し、晶子たちと共にお別れした。ロクさんは自分が帰れなかった朝鮮に、せめて放流した鮭の稚魚が立寄ってくれないか望んでいたという。日本で生れ、日本で亡くなったロクさんが、晶子には哀れでならなかった。

 この作品は、高橋篤子さんの渾身の力作である。ロクさんは実在の人物であり、篤子さんは彼の死を悼み、この作品を書いたのである。ストーリーはほとんどフィクションで、篤子さんは現在も胆振の安平町に住んでいる。帯広に近い音更で生まれ育ち、結婚して稚内で義務制の教員をしていたが、公立高校の教師だった夫が室蘭に強制配転された。篤子さんは室蘭転勤を許されず、しばらく別居の後、ついに教師を辞めたのである。

 そして、夫が定年になると白老に家を建て、五年前に夫が亡くなると、安平町に移った。そして、胆振・日高地区の民主主義文学会の中心として活動している。

 この作品は前作に続く立派な作品である。深刻な在日朝鮮人問題に取組み、同時に核廃絶という人類の命運にかかわる大問題にも取り組み、作者の広い視野が反映した、心を打つ作品である。文章もますます直截簡明になっている。

 私はこの三年あまり、高橋篤子さんとぐんぐん近くなった。二人とも同じ頃に配偶者を失い、その悲しみに耐えて文学活動に打ち込んでいる。私より若い篤子さんは政治的課題にも正面から取り組んでいる。高齢化した上に障がい者になった私は、ただ感心するばかりである。私は創作をしないので尚更である。

今後も更に良い作品を書いて欲しいと思っている。フィクションに現代的課題を盛り込んで見事に小説化することでは、道内で指折りの名手と私は考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

青木資二『オンライン』で思ったこと➂

                豊村一矢

 

 だらだら『オンライン』で思ったことを二回書いたが、要点がはっきりしないという指摘を受けた。その通りだと思った。で、今回は要点を二つに絞りたい。しかも、完結に。

 

作品『オンライン』は、オンライン授業による➀学力差の拡大、➁集団で直接触れ合う学びの場の減少」の二点を不安要因して書いている。例会合評のレーポートでも、意見交換の中でも、そのことは指摘された。

 

 オンライン授業と学力差の拡大

 作品『オンライン』では、自宅にネット環境を作れない女性の一人親が、コロナ禍で小学校(義務教育)でも「オンライン授業」が始まることで、追い込まれていく苦しみが書かれている。作品は、オンライン授業が、家庭の経済力による学力格差をさらに拡大するという考えを根底に持っている。

実際には、公立の小学校で「オンライン」授業が実施されたという話を聞かない。それは……、

少なくても、基本、全ての児童生徒が受業できる条件のもとでないと授業は成立しない、はずだ。

教育基本法第三条「全ての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない……社会的身分、経済的理由に……よって教育上差別されない」。教育基本法第四条「国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う」、が生きているとみるべきか。いやいや、実態は、裕福な家庭の子と貧乏な家庭の子の学力格差は構造的に拡大の一途を辿っている。

富裕層の親たちの多くは、地域の公立小中学校を端から相手にしていない。学力は、有名私立小中学校で、有名塾で、家庭教師でということだ。

 名うての教員養成大学の少なくない教授が教育産業の民間会社に転職しあるいは副業として係わっている。また有名予備校(会社組織)などで指導的な地位を得ている。全国統一テストや学力テストもこのような会社が仕切っているという。

 若干、横道に逸れる。今、町中でコンビニエンスストアよりも多いのは個人経営の歯科医院、民家を改造した学習塾だと聞いた。そんな学習塾の講師は貧乏大学生の場合が多いらしい。

 

 集団で直接触れ合う学びの場の減少

 このことではちょっと視点を変えてみる。

 今年、四月の公立小学校。コロナ禍でいつもの入学式はおろか、学校そのものが休校になった。学校が始まっても、子供同士の接触は極限まで制限された。

 入学式から一ヶ月くらい、新一年生のお世話を六年生がする活動が組み込まれる。

 これは新一年生のための活動計画だと思われがちだが逆である。新六年生のための活動なのだ。

 六年生は「かわいい一年生」ということでペットや人形と遊ぶ感覚でお世話活動を楽しみにしている者もいる。しかし、現実、甘くない。お世話してくれてうれしい一年生ばかりではない。様々なトラブルや失敗に出会うのが普通だ。トイレひとつしても大騒ぎになる場合が多い。新一年生の担任は、一年児童に目配りを切らさないのは当然だが、六年生への配慮も忘れない。

 世話係当番の六年生に「ありがとう。たすかったよ。○○ちゃんも嬉しそうだったね」と声かけができたら、今日は良い日になりそうだと思う。そのような一言で、まだ十一歳の六年生は大きく成長するのだ。

 

 今年の六年生はコロナでこの機会を失った。

 

 別の機会で補えるだろうか。

 今年の六年生はコロナでこの機会を失った。

 別の機会で補えるだろうか。

札幌民主文学通信

二〇二〇年十一月一日 264号

 

にしうら妙子さん追悼

松木 新

 

にしうら妙子さんが、10月5日、急逝しました。77歳でした。7日夜の「偲ぶ会」は、家族葬ということもあって、黙祷と献花だけの簡素なものでした。

式場に向かう途中、岩見沢を過ぎた辺りでにわか雨に遭い、すぐに止んだのですが、その直後、途轍もない大きな虹が、高速道を横切るように架かりました。にしうらさんのあのはじけるような笑顔が、虹の彼方に見えたような気がしました。

帰り際、勇さんに会い、にしうらさんの「作品一覧」(左記)を手渡し、喜んでもらえました。

 

【にしうら妙子 作品】

〔単行本〕

2010年1月 『3才・3才! 孫っちばなし

(文・西浦妙子/絵・梅原麦子)

2016年9月 

『淡雪の解ける頃』(光陽出版)

書評『淡雪の解ける頃』―『民主文学』

2017年3月号(松木)

2018年10月 

『四季を重ねて』(「解説」・松木)

 

〔『民主文学』掲載作品〕

「桐子の門」2012年7月号

「夕映えの街で」2012年9月号

「冬子さんとのこと」2013年1月号

「鳩時計」2015年4月号

絶筆「随想四季 書く人に 髄膜腫にご用心」

2020年11月号

 

〔十勝支部の結成 〕 2002年  

遠藤信房さん・にしうら妙子さん・室崎和佳子さん

 

〔北海道研究集会作品集『北海道民主文学』掲載作品〕

第15回 帯広市 2004年10月

 たえこ N「白い軌跡」

第16回 釧路市 2006年10月

 翠野すみれ「平和への懸け橋」

第17回 旭川市 2008年10月

 シナリオ 翠野すみれ「幼化―大樹昔物語(その一)」

第18回 登別市 2010年10月

 翠野すみれ「ねこやなぎ」

第19回 小樽市 2012年10月

 にしうら妙子「Landing Craft ,Air

Cushioned(エアークッション型揚陸艦)

 

第20回 札幌市 2014年10月

 にしうら妙子「私の人生―正子さんの場合」

第21回 札幌市 2016年10月

 にしうら妙子「エッセイ二篇」

第22回 札幌市 2018年10月

 エッセイ にしうら妙子「長篇『四季を重ねて』を書いて」

 

 

 

お知らせ‼

コロナ禍での、支部活動の

閉塞状況を打破するために

            通信担当

             

コロナ禍、支部としては年内の例会を中止し、来年、(2021年)一月から活動を再開することにしておりますが、この間、様々な声が寄せられ、通信担当のパソコンには多くの投稿原稿がたまっています。

 このような閉塞状況のもと、「札幌民主文学通信」は、これを打破するための新たな編集・発行計画を提案します。

 みなさんの、ご理解とお力添えをお願いします。

  

 

 編集発行方針

 

➀「通信」を皆さんの活動、交流、発表の場に 

する。

 

➁発行回数を多くし日常化する。一定程度(四ページ程度)の原稿が揃えば、すぐ、編集、発行、発送する。

 

➂投稿原稿のジャンルは問わない。『北海道民主文学』作品、『民主文学』作品等の感想、意見。エッセイ。評論。詩、俳句、川柳、短歌。

 その他、文字で書いたものは何でも。

 

➃「通信」への投稿は、この「通信」を目にする方、全道のどなたでも。

 

➄投稿原稿はデータ化してメール添付、またはデータが保存されたフロッピーなどで。

 

➅通信担当のメールアドレス

      toyosan17@gmail.com

 

 

 

十月例会合評報告

 

合評作品

松木新「『青年の汚名』とアイヌ」 

(『北海道民主文学』23号) 

 

報告

「『青年の汚名』とアイヌ」の合評を受けて

              松木  新

 

室崎さんの偶然の奇跡のような話には驚きました。『青年の汚名』発表当時、この作品にたいする評価が芳しくなかっただけに、文壇デビュー間もない大江に注目していた国語教師のするどい感性に、感心しました。

大江のアイヌにかかわる作品は、60年6月に出版された本書の他に、翌年1月の「幸福な若いギリアク人」だけですが、なぜ大江が先住民族に感心をもったのかを、あらためて考えてみました。

礼文島での調査が直接の契機だとは思いますが、大江がこの小説の連載を開始した前年、58年6月に武田泰淳『森と湖のまつり』が出版されています。この作品は、アイヌに関するあらゆる問題を詰め込んだとして、話題になりました。もしかしたら、大江がこの小説を読んで問題意識をもったのではないか。この作品との関係を、少しばかり深めてみても良かったのではないか、とあらためて考えています。

ぼくが最後まで、整理できなかったことが、〝青年の「汚名」は回復したのか〟という点でした。殺害されることを覚悟して、鶴屋老人に立ち向かった荒若青年を、島への〈殉死者〉とすることで、なんとか逃げ切りを図ったのですが、後藤さんに見事に見破られてしまいました。結局の所、青年の「汚名」は回復可能か、という大江の設問自体に、無理があったのかも知れません。

なお、アイヌが「交易の民」であることつかむことが、これからアイヌにかかわっていくうえで大切だと思いますので、上村英明『北の海の交易者たちーアイヌ民族の社会経済史―』(同文館 1990年)をおすすめします。

 

 

合評作品

 後藤守彦「植民者作家小林勝と朝鮮」

(『北海道民主文学』23号)

 

植民地支配責任をめぐって

後藤守彦

                                                                

 戦後七〇年の年も戦後七五年の年も、戦争を描いたTVドラマやドキュメンタリー番組に佳作はありましたが、日本の加害責任を問うたものはほとんどありませんでした。植民地朝鮮に生まれた小林勝は、日本の植民地支配責任を真摯に追及した、稀有な作家です。どうしてそうできたのかを考察してみた、と初めにお話ししました。「小林勝をはじめて知った、作品をよんでみたい」「以前買っていた小林勝の本を本棚から探し出し読んだ」「小林勝の本を読もうと古本屋をまわって入手した」などの声があがり、嬉しく思いました。皆さんの感想・意見をお聞きしながら、あらためて日本人の反戦思想が本物であるかどうかは、対朝鮮認識で試されると思いました。

 例会後の一〇月一〇日、シアターキノで韓国映画の『マルモイ−−−ことばあつめ』を見ました。植民地朝鮮であった、一九四二年の朝鮮語学会事件を描いたものです。朝鮮語を抹殺しようとする日本が、朝鮮語辞典を編集しようとした人々を、独立運動を企てているとして弾圧したのです。ラストシーンでは、この事件による拷問死二名とのテロップが流されていました。日本の植民地支配責任は重いものがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十月例会誌上合評

 

  松木新 「『青年の汚名』とアイヌ」

  後藤守彦「植民者作家小林勝と朝鮮」

  について

               泉  脩

 

 

アイヌへの深い関心

 松木さんは白老で生まれ育ち、アイヌとの共生と交友の中で成長した。それだけにアイヌへの関心が深いようである。

 この作品はフィクションのアイヌ伝説によって書かれた大江健三郎の小説の紹介だが、とても興味深い。礼文島をモデルにした島で、鰊漁をめぐって、年寄と若者が対立するのである。

 かつて石器時代、縄文人が日本列島に分かれ住んでいた。ところが、鉄と稲作を知る弥生人が大陸から渡来し大和政権を作り、縄文人を征服し混血して、日本民族を形成した。縄文人は次第に北方に追いつめられ、最後に北海道のアイヌが征服されたのである。

 北海道も植民地であり、アイヌは先住民なのである。だから多くの作家がしょく罪の意識でアイヌについて書き、この「青年の汚名」もその一つである。他の作品も順次紹介してほしい。

 

 

加害の苦しみと反省

 後藤さんの作品はとても重苦しい。植民地朝鮮で生まれ育った日本人が、加害の意識に苦しみ、つぐないから朝鮮戦争反対の闘争に加わり捕えられ、更に反省を深める話である。

主人公小林勝は日本共産党に加わり、出獄後に作家になり、自分の体験を基に多くの作品を書いたという。日本の戦争で受けた苦しみを表現した芸術作品は多いが、加害の事実と苦しみ・悲しみ・反省を表現した芸術は少ない。それだけに、このような作家がいたことは驚きであり、うれしい。

後藤さんの努力は立派であり、今後ともこのような仕事を続けてほしい。

 

今回、このような立派な二つの評論を合評できてよかった。「創作と評論は車の両輪である」という宮本百合子の言葉をモットーにして、私も評論を書いてきた。どんなに立派な創作をしても、評論による適正な紹介・評価・宣伝がなければ、注目されずに埋もれてしまうかも知れない。だから評論の仕事も大切であり、今回時間を取って議論できてよかったと思う。

私も松木さんと後藤さんから学び、よきライバルとして努力していきたい。二人が私よりずっと若いのは何よりのことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

秋月礼子「虹の見える丘」

さわやかな新婚の物語

泉   脩

 

 短いが、心を打つさわやかな物語である。

 六〇歳に近い広祐と、五〇歳に近い春香が、帯広の市民図書館で出会う。同じテーブルで二人とも神田日勝の画集を開き、春香が話しかける。

 「ファッション関係のかたですか」

 「無職です」

 「私もです」

 同じ本を見ているということと、広祐の身なりがひと際あか抜けしていたので、春香は思わず話しかけたのである。

二人は惹かれ合い、カフェに移って話合い、やがて結婚にすすむのである。

広祐は六〇歳に近く、若い時は釧路のファッションの店で働いていた。彫りの深い美しい顔立ちで、若い女性にもてたという。

 しかし大きな火傷や内臓の疾患で、三〇年間無為に過ごしてきた。生活保護を受けて暮らしてきた。春香も病気で介護難民となり、やはり生活保護を受けている。五〇歳近くになっていた。

 二人は若くはないけれど、似た者同士の一目惚れだった。生活保護同士という面倒な手続きをして、結局月十四万円で生活をすることになった。

 帯広のベッドタウンの町で、家賃月三万円の狭い部屋を見つけ、持ち物をギリギリに減らし、つつましい結婚生活が始まった。

二人の会話が楽しい。広祐のただ一つの趣味のネクタイ集めをめぐって、高いネクタイを買うかどうか。すぐ迫っている広祐の大腸ポリープを取る手術の話。春香は生活を切り詰めてネクタイを買えないかどうか、心を痛める。

翌日の午後、二人は三〇分歩いてスーパーに買い物に行く。食料と花を買った帰り、丘の上の我が家に向かうと、丘の上に美しい虹が見える。しかもその上に、もうひとつ小さな虹が見える。自分たちの部屋に入り、窓から見上げるとやはり虹が見えた。

 

話はここで終るが、なんとも心を打たれるさわやかな物語である。二人はお互いに過去をせん索せず、今を大切に、ささやかな楽しみを大切にする。またとない出会いであり、かけがえのない結婚である。

 作者の秋月礼子さんは、民主主義文学会の仲間である。十年位前、北海道文学創作専科で出会った。各自の作品を持ち寄り、中央から招いた講師の指導を仰ぎ、自由に合評する集まりである。

 秋月さんの作品はクラシックバレエについてのエッセーで、若い感覚でキラキラしていた。同じ十勝支部の西浦妙子さんが連れてきた一番若い出席者だった。私は西浦さんを通じて、私の最初の本「青春の飛翔」を秋月さんにプレゼントした。教育実践記録で、高校生の失敗と成功の物語である。

 翌年の専科で秋月さんの作品を読んでびっくりした。首尾一貫した物語になっていて、家庭教師の若い女性が、わがままな女の子の心の中に入っていく話である。

格段の上達であり、考え方もしっかりしている。「青春の飛翔」の影響がいくつも感じられてうれしかった。

 秋月さんとゆっくり話し合う機会も持てて、私は三〇歳以上も年下の秋月さんと、文学友達になることができた。西浦さんとも親しくなったので、この後、私は新しい本ができると、西浦さんを通じて秋月さんにもプレゼントした。

 一昨年、秋月さんの第三作「雑種天国」が同人誌「北海道民主文学」に載った。

心の病に苦しむ男女各二人の病院友だちの物語である。率直に書かれた胸を打つ物語である。この作品は更に手を入れ、全国誌「民主文学」にも転載された。

 秋月さんは更に腕を上げ、全国レベルに達したのである。

 西浦さんと私は秋月さんを見守りながら、自分の文学創作に努め、西浦さんは素晴らしい短篇集と長篇小説を出版した。私は評論とエッセーの本を六冊作った。

最近の「文学とともに七〇年」を秋月さんに送ると電話が来て、「西浦さんが病気になった」という。「何の恩返しもできなくて」と泣くので、「恩返しをしたければ、よい作品を書くことだ」と励ました。

 最近、結婚の知らせと夫が私の本のファンになったと教えてくれた。

私は心からうれしくて、出たばかりの「北海道民主文学」の秋月さんの作品を読み、彼女が幸せをつかみ、恩返しもしたことを知った。

 西浦さんもうれしいことだろう。

 

 

 

 乃南アサと北海道

               後藤守彦

『群像』二〇一八年一二月号の連載開始から注目していた『チーム・オベリベリ』が完結し、今年八月に単行本となった(講談社、二〇二〇年)。十勝の帯広で開拓と教育にあたったクリスチャンの渡辺カネを主人公とする、六五〇ページを越える大作である。作者は乃南アサ。乃南は、『幸福な朝食』(新潮社、一九八八年)で日本推理サスペンス大賞の優秀作を受賞し、ミステリ作家としてデビューした。一九九六年には、『凍える牙』(新潮社)で直木賞を受賞している。この作品は、女刑事・音道貴子シリーズの第一作に当たるが、復讐殺人に使われた、健気な元警察犬を音道がバイクで追跡する、というよりは伴走するラストシーンは、実に切なかった。

乃南アサのミステリには、ミステリの枠を超えたものが少なくない。例えば、『火のみち』(講談社、二〇〇四年)は、たった一人の妹のために殺人を犯した主人公が、一〇年間刑務所で暮らした後、陶芸家として生きていくといったストーリーだが、陶芸の歴史や陶磁器の制作過程が実に丁寧に描かれている。それだけでなく登場人物の心理描写も細やかである。乃南アサの作品では最も長い一四〇〇ページの『晩鐘』(双葉社、二〇〇三年)もそうである。殺人事件の加害者と被害者の苦しみを描いているのだが、終幕が辛く苦しい。「人殺しの子だから」と自分を責める大輔には救いはないのか、との思いがこみあげてきた。

乃南アサには『チーム・オベリベリ』の前に、北海道を舞台とした二作品があった。初めに読んだのが、『地のはてから』(講談社二〇一〇年)である。これは『ニサッタ、ニサッタ』(新潮社、二〇〇九年)の後に書かれたのだが、『地のはてから』の主人公ふきは、『ニサッタ、ニサッタ』の主人公片貝耕平の祖母にあたる。つまり、この二作は、北海道の知床を舞台にした家族史小説であり、時系列でいうと『地のはてから』が先となる。借金取りから逃げるため、ふきの父と母は幼いふきを連れて、福島から北海道に渡る。それもずっと端の、アイヌ語で「地のはて」と呼ばれた知床で開拓民としての生活を始めた。国の宣伝とは違い、開拓は失敗する。その体験から、ふきの母はそれからずっと「どうだごとあったって、お国の言うごとなんとしんじてぁなんねぁ」と折に触れていうようになった。やがて、ふきは子守奉公のために小樽に行かされるが、奉公先の商家が破産し、知床に戻り、森の中で、かつてふきの一家を助けたアイヌの三吉と再会する。その三吉への恋心を秘めたまま、一八歳で親の決めた相手のもとに嫁いだ。そして、母となり、戦争の時代に必死に子を育てていく。このように展開していくのだが、作品全体を通して、生きることの意味が問い続けられているといえよう。「一体、人というものは何なのだろうか。どうして生きなければならないのだろう」と。ふきは地のはてで、ただひたすら生き続けたのであった。

 『ニサッタ、ニサッタ』のニサッタは、明日を意味するアイヌ語である。大卒一年目の二四歳の耕平は就職して半年にも満たないのに、社長の計画倒産により職を失ってしまう。転落の人生の始まり。最後は新聞販売店の住み込み従業員となるが、そこで沖縄出身の竹田杏菜と出会う。結局、耕平は東京での九年間の生活に見切りをつけ、郷里の斜里に帰る。しかし、働く意欲が薄く、女性に甘い性格もあって、必ずしもうまくいかない。そこに、杏菜が耕平を頼ってやって来る。耕平と杏菜の関係の新しい展開。耕平は、スーパーの正社員の道が開かれる矢先に、酒酔い運転で事故を起こしてしまう。落ち込んで自死まで考えた耕平を救ったのが、祖母の言葉だった。「明日のことなんか、誰のも分かりっこねえもんだ。いっくら考えたって、どうなるもんでもねえ。だからなあ、もうこわくてたまらないと思うときはねえ、まずは今日やることだけ考えてりゃ、いい」。耕平はまた新たなスタート地点に立つ。

そして三作目が前掲『チーム・オベリベリ』である。巻末の注記に「実在の人物、史実を基にしたフィクション」とあるように、歴史小説である。私は小学四年まで帯広で暮らした。校名は帯広市立柏小学校といい、一九二一(大正一〇)年に開校した、帯広で二番目に古い小学校である。学校の近くに柏の林があり、学校からの帰り途ドングルをよく拾った。小学校の郷土学習で学んだことで、今、思い出せるのは、帯広の開拓の偉人が依田勉三であり、バッタによる農作物の被害がひどかったことだけである。

現在人口約一七万の市となっている帯広の地名について、帯広市のホームページでは、「帯広の名の由来は、アイヌ語のオペレペレケプ(川尻がいくつも裂けているところ)がなまってオベリベリ、そして帯広(おびひろ)になったと考えられています」と解説されている。安易に未開の原野という表現が使われるが、オベリベリではアイヌが自然とともに生きており、豊かな文化を展開していた。そこに和人が開拓の名のもとに入り込んできたのである。  

横浜の共立女学校英語科を卒業し、母校の教壇に立っていたキリスト者の渡辺カネが、信仰を同じくする父親長と新婚の夫勝とともに、オベリベリの地を踏んだのは、一八八三(明治一六)年。兄の銃太郎は一年前にオベリベリに行き、厳寒の冬を体験していた。彼らは、依田勉三をリーダーとして晩成社を結成し、オベリベリの開拓をスタートさせた。チーム・オベリベリの誕生である。マラリアの流行、バッタの被害、冷害など、多くの苦難が続く。カネは毎日聖書を開きながら、神に祈り、「この土地は、そう容易くは私たちを受け入れてはくれない」「どんな天候に見舞われても、飢えても、焼かれても、何度でも立ち上がり、ただひたすら日々を過ごさなければならない」と自分に言い聞かせ、歩んでいく。そして、子どもたちに、区別なくアイヌのこどもたちにも、教え続ける。

カネの内面が深く刻まれ、カネの目と心を通して、兄や夫、そして依田勉三が生き生きとした像を結ぶ。面と向かって口には出さないが、狷介な性格の依田勉三に対するカネの批判は鋭い。兄はアイヌの娘コカトアンと結婚するのだが、晩成社の人々、特に兄や勝・カネ夫妻が偏見なくアイヌと交接したことも丁寧に描かれている。『チーム・オベリベリ』は美談の集積ではない。チーム・オベリベリに亀裂が生じ、晩成社としての開拓は必ずしも成功したとはいえない。しかし、彼らの努力は無駄にはならなかった。『チーム・オベリベリ』は、オベリベリの地で、カネが忘れていたと思っていた英語を使う場面で終わるが、このラストシーンが希望を表している。乃南はあとがきで「晩成社の存在を知ったのは、確か二〇〇八年頃、初めて帯広を訪れたときだったと思う」と述べているが、丹念な取材を重ねて、一二年後に結実させたのである。尚、作中人物で私が最も心惹かれた、カネの兄銃太郎の物語を、郷土史家の吉田政勝が最近書き上げている(『オベリベリのほとりで』モレウ書房、二〇一九年)

蛇足ながら、乃南の非ミステリともいえる他の小説にふれておきたい。『水曜日の凱歌』(新潮社、二〇一五年)の描く時代は、戦後初期である。敗戦後、日本はただちにRAA(特殊慰安施設協会)を設立し、占領軍兵士からの性の防波堤として、女性たちを慰安婦として差し出すことを決めた。主人公である一四歳の少女鈴子の母は英語力を生かして、通訳として組織に関わり、やがて米軍中佐と関係を結ぶ。鈴子は母を初めとする女性たちの苛酷な運命を身近なところで見つめていく。重いテーマの作品であるが、母との葛藤を含め鈴子の内面が生き生きと描かれ、鈴子の自立の方向が示唆されている。絶望だけでなく希望もあるのである。一つ気になった記述があった。「中国と戦争をしていたけれど、朝鮮は日本の植民地だっただけで、戦争していたわけではない。それなのに、どうして戦勝国になるのだろう。第一、日本が負けた相手は中国ではなくて、アメリカではないのだろうか」。これは主人公鈴子の思いとして書かれているが、作者の戦争観の反映だろう。日本が加害国としての戦争責任が問われる中国・朝鮮が欠落した、アメリカに負けたという戦争観は、日本人の決定的な弱点であると思う。一九四五(昭和二〇)年九月、ミズーリ号の降伏文書に、アメリカに次いで二番目に署名したのは中国であることをしっかりと認識すべきである。

 『六月の雪』(文藝春秋、二〇一八年)では、主人公未来の七日間にわたる台湾での旅が描かれる。なぜ未来は台湾に出かけたのか。それは、入院している、日本の植民地時代の台湾で生まれた祖母を元気づけるためであった。未来は、祖母が過ごした台南の街や学び舎を訪ね、多くの台湾人と出会い、台湾の苦難の歴史を知る。生き方に迷っていた未来は、中国語を学ぶために留学することを決意する。声優への夢が破れた未来の再生の物語として、評価したいが、やはり歴史の理解の点で引っかかってしまった。苦難の歴史は不幸な歴史と言い換えることができるが、日本の植民地時代のことかと問う未来に対して、台湾人の一人は、「日本時代が終わってからのこと。台湾は長い間、自由がありませんでした」と答える。このように描かれた場面からわかるように、国共内戦後、台湾に侵入した国民党の、二・二八事件に象徴される弾圧と抑圧が一貫して語られている。乃南アサは四〇回以上台湾を訪れたそうだが、日本の植民地支配のとらえ方は甘いと言わざるをえない。さらに、台湾では先住民を原住民というのだが、彼らの問題が欠落している。

 

 

 

『武漢日記』から見えてくるもの

             松木  新

 

武漢在住の女性作家・方方が、武漢封鎖の二日後、一月二十五日(旧暦一月一日)から三月二十四日までの六十日間、日々に感じたことをブログに投稿しました。それをまとめたのが、『武漢日記』(河出書房新社 9月30日)です。一千万の人口を持つ都市が完全封鎖されるのは、歴史上初めてのことでした。

『武漢日記』は当初から日本でも話題になり、次の文章を新聞で目にしたときから、ぼくも注目していました。

〈私は言っておきたい。ある国の文明度を測る基準は、どれほど高いビルがあるか、どれほど速い車があるかではない。どれほど強力な武器があるか、どれほど勇ましい軍隊があるかでもない。どれほど科学技術が発達しているか、どれほど芸術が素晴らしいかでもない。ましてや、どれほど豪華な会議を開き、どれほど絢爛たる花火を上げるかでもなければ、どれほど多くの人が世界各地を豪遊して爆買いするかでもない。ある国の文明度を測る唯一の基準は、弱者に対して国がどういう態度を取るかだ〉

今回、通読してみて、中国の実情に迫る記述が、とても印象に残りました。全篇を通して強調しているのが、無責任な官僚機構への批判です。

年末に新型コロナウイルスが発見されましたが、政府系メディアは「ヒト-ヒト感染はない、予防も制御もできる」と、二十日間を無為無策に過ごした結果が、武漢封鎖でした。公式発表によると、武漢の新型コロナウイルス感染者は5万人あまり、死者は3800人以上とのことです。こうした事態を招来した者たちに対する責任の追及が、本書の大きなテーマになっています。

〈政府が最終的に責任の追及をするかどうか、私にはわからない。しかし、政府がどう考えるにせよ、二か月にわたって家に閉じ込められた武漢市民として、武漢の悲惨な毎日をこの目で見てきた証人として、私には死者たちの無念を晴らす責任と義務がある。誤りを犯した人は自ら責任を負うべきだ。私は言いたい。私たちが責任の追及をあきらめたら、私たちがこの日々を忘れたら、私たちが常凱の絶望さえ忘れてしまう日が来たら、武漢市民が背負うのは災難だけではない。恥辱を背負うことになる。忘れるということの恥辱だ! もし誰かが、この言葉を軽々しく消し去ろうとしても、絶対そんなことはできない。私はその人たちの名前を一文字ずつ「歴史の恥辱の柱」に書き記すだろう〉

方方の厳しい批判に対する反撃が、〈極左分子〉から浴びせられました。

〈中国の極左分子は、基本的に「国家と人民に災いをもたらす」存在だ。彼らは文革の復活を願い、改革開放政策を敵視している。彼らと考えが異なる人は、すべて敵なのだ。彼らに協力しない人に対しては徒党を組み、様々な攻撃をしかける。「社会に向けて恨みをばら撒く」粗暴な言葉を使う。さらに卑劣な手段もあり、その低級さは不思議なほどだ。特にわからないのは、彼らがネット上ででたらめを言っても、彼らの書き込みを誰も削除しないし、彼らの行動を誰も阻止しないということだ。まさか彼らの中にネット検閲官の親戚がいるのではなかろう?〉

訳者である飯塚容の「あとがき」によると、中国の〈極左〉とは次のような者たちのようです。

〈中国では体制寄りの保守派が左翼だから、「ネトウヨ」ならぬ「ネトサヨ」とでも言おうか。日記中にも言及があるように、その背後に誰がいるかは闇である。非常時に政権批判をするのは非国民だという同調圧力がかかるのは、どこの国でも同じようだ〉

2010年にノーベル文学賞を受賞したペルーの作家バルガス=リョサが、〈もしも中国が独裁国家ではなく自由な民主国家だったら、今世界で起きているようなことはどれも起きていなかったかもしれない、とは誰も指摘していないようだ〉と、スペインとペルーの新聞に寄稿しました。

これに対し、在ペルー中国大使館が抗議声明を発表しました。すると中国国内の本屋の棚から、彼の著作がすべて消えてしまいました。方方は、次のように抗議しています。

〈バルガス=リョサの著作すべて、本屋の棚から消えたという、本当にそんなことがあるのか? 私には信じられない。(略)バルガス=リョサがどういう発言をしたにせよ、彼は政治家ではなく作家である。(略)バルガス=リョサはもう八〇を過ぎているだろう。そこまでやる必要があるのか〉

中国社会の貧富の格差を、コロナ禍が炙り出しました。

方方自身は、家政婦を傭っている文化人ですから、経済的には恵まれた階層に属しているようです。彼女が書いているのは、〈今日働かなければ、明日には飢えてしまう〉〈農民工〉の家庭です。

石原亨一『習近平の中国経済』によると、2017年の「農民工」は二億八千六百万人、十三億三千万人を超える人口の2割を越える存在です。そのうち60%が都市で働き、残りは地元で仕事を見つけています。都市の一般住民からは「二等公民」と差別され、その多くは「(クー)(苦しい)、(レイ)(きつい)、(ザン)(きたない)(チャー)(劣悪な)」の中国版4K労働に従事し、低賃金と劣悪な居住環境の下にあります

本書には、「貧困者救済事務局」の「情報」も紹介されています。

〈「感染症が貧困家庭の収入に与えた影響を最低限度に抑えるため、全市の生活保護家庭、低所得家庭に対して、臨時の救済措置を行う。すなわち、これらの家庭の働き手が感染症のため、仕事に出られず収入を得られない場合、現行の都市および農村の生活保障の標準額(都市は月額七八〇元〈約一万千七百円〉、農村は月額六三五元〈約九千五百二十五円〉の四倍を一回に限り支給する」〉

方方は共産党員ではありません。〈入党もしていなし、私はずっと大衆の一人だ〉と書いていることは、意味深長です。共産党員は〈大衆〉ではない、とも読み取れるからです。ちなみに、林望によると、〈十三億人の庶民、八千八百万人の共産党員〉とのことです(『習近平の中国』)。

 

この機会に、方方の作品を読んでみました。

『コレクション中国同時代小説8』(勉誠出版 2010年)に、「待ち伏せ」、「父のなかの祖父」、「落日―とかく家族は」が収録されています。

「待ち伏せ」は映画化され、日本では「張り込み」と題して、1997年に上映されました。

殺人犯を捕らえるために、山腹からアジトを見張る男の物語です。情報が集まり、張り込みを解くことが決まりましたが、男に知らせるの忘れたために、彼は三十六日間も山中に閉じこもるはめになります。ところが、そのことが功を奏して、主犯が逮捕されます。サルトルの「壁」に通じるアイロニーに富んだ作品です。

「父のなかの祖父」は、方方の父と祖父の一生を、記憶と記録に頼りながら語ったものです。

村に侵略してきた日本軍の前に進み出て、〈「中華を犯す戦争は、正義の戦争ではないぞ!」〉と叫んで虐殺された祖父。文革期、〈党に対する忠誠を示すために〉、かつて〈「偉大なるルーズベルト」〉という詩を書いたことを自ら進んで告白し、自己批判書を書き続けた父。歴史に翻弄された中国の知識人の姿が刻印されています。

「落日―とかく家族は」は、自殺を図った祖母を、死んだと見せかけて火葬場に送りこんだものの、祖母が生き返ったために、ドタバタ喜劇が繰り広げられるというものです。人間と人間の関係は、救いようのない残酷な関係だ、というペシミズムが濃厚な作品です。

 

コロナ禍が浮き彫りにした中国の現実を前にして、「中国は社会主義か?」という疑問が生まれてきました。それで、聴濤弘ら研究者五人による共著『中国は社会主義か』(かもがわ出版 2020年6月)を読んでみました。

結論は、〈体制規定をふくめて中国をどう見るかは世界的にも分岐しており、今後とも大問題であり、共通認識は容易に得難いと思われる〉とのことでした。

〈芦田文夫と私(井手啓二―引用者)は、中国は経済社会体制としては社会主義と規定すべきという理解のもとに自説を展開し、大西広は社会主義をめざす私的資本主義説、山本恒人は国家・資本主義説、コーディネーターである聴濤弘は、体制規定は明言されなかったが、市場経済化の深化は資本主義化しかねないとの懸念を示された。(略)体制規定をふくめて中国をどう見るかは世界的にも分岐しており、今後とも大問題であり、共通認識は容易に得難いと思われる。見解不一致の背景には、理論問題および歴史と現実の認識問題の2点の相違があると私は理解している〉

以前、大谷禎之助・大西広・山口正之『ソ連の社会主義とは何だったのか』(大月書店 1996年2月)を読んだとき、ソ連は〈国家資本主義〉であり、「ネップ」時代のレーニンが、〈今日の中国の「改革・開放」政策と本質的に共通した対外政策をとろうとしていたと見てよいだろう〉という指摘が、強く印象に残っていましたので、どちらかというと、山本恒人の〈国家・資本主義説〉に同調したい気分です。

いずれにしても、「中国は社会主義か?」どうかは、〈今後とも大問題〉であることには変わりがないようです。

 

 

 

 私の好きな日本映画⑪ 最終回

「家族はつらいよ3」

      泉   脩

 

主婦の家出をめぐって

 山田洋次監督の最新作。1と2では、老人夫婦の対立と、二組の息子夫婦(次男は婚約中)と娘夫婦のごたごたが描かれている。どこの中流家庭でも起こるエピソードが次々と出てくる。

 定年退職をして間もない平田周造(橋爪功)は、文学好きの妻富子(吉行和子)から離婚を申し出されてショックを受ける。日常生活のだらしなさが理由である。子供たちも、びっくりして母親をなだめる。

 次男で末っ子の庄太(妻夫木聡)はピアノの調律師で、ナースの恋人憲子(蒼井優)がいる。憲子は周造に「妻を愛しているのならば、言葉で言わなければいけない」と諭す。周造が離婚届にサインをして妻に渡し、同時にこれまでの苦労に感謝する。すると富子は、「その言葉を聞けばもういい」と言って、離婚届を破る。

 2では、周造が高血圧で倒れ、居合わせたナースの憲子の好判断で命を取り留める。こうしてわがままな周造も素直になり、妻も周造に反抗しなくなり、子供たちも勝手な振る舞いを慎むようになる。

 今回の3は、長男の幸之助(西村雅彦)の暴言により妻史枝(夏川結衣)が、それまで溜まっていた不満がついに爆発し、家出をした。幸之助と二人の息子は生活がうまくいかず困り果てる。そして、体の具合の悪い富子にかわり、周造が慣れない家事に挑戦するがうまくいくはずがない。主婦の家事労働がいかに大変か、しみじみと語る周造である。

今では結婚している次男の夫婦が解決に乗り出し、庄太は幸之助に無人の実家に戻った史枝を迎えに行くように説得する。幸之助は文句を言いながらも、車で田舎の妻の実家を訪ね、態度を改めて二人は和解する。

 長女夫婦と次男夫婦も駆けつけ、周造夫婦を合わせて四組の夫婦と二人の孫がそろって、富子のおごりでとった鰻重を食べてすべてが解決する。

 この三作のシリーズを通して、男たちの間違った考え方や生活習慣がきびしくとがめられ、主婦の努力と苦労が見直される。無神経な発言を繰り返す男たちと、痛烈に言い返し、あるいは行動で抵抗する妻の様子が、とても興味深く描かれている。愛の初心を忘れた夫婦のシリアスな顛末である。この中で、次男と恋人(のちに妻)が、若いだけに冷静で正しい判断をして、次々とピンチを切り抜ける。なんともさわやかである。

 家族とは何なのか、正しい家族の在り方はどんなものなのか、とても考えさせる映画である。家族を作ることのできない男の物語「男はつらいよ」に続いて、せっかく作った家族をどう維持し続けるのか、山田洋次監督の探求心と映画作りの情熱は、まだまだ衰えないようである。

 今回は、次男の妻になった憲子の妊娠で終るが、新しい命の誕生のもとで物語がさらに続くことを示している。このシリーズは、さらに長く続いてほしいと思う。

 主人公を演じる橋爪功は、とぼけたような演技がとてもいい。新しいコメディアンの出現である。老妻を演じる吉行和子もとてもいい。鍛え抜かれた名女優だと思う。そして、次男夫婦を演じる妻夫木聡と蒼井優もさわやかで、映画を引き締めている。

 主人公のわがままな娘を中島朋子が演じているのにびっくり。「北の国から」のかわいい女の子も成長したものである。

 家族の探求は松竹の伝統であり、山田洋次監督の得意分野である。そして、私自身の大きなテーマでもある。汲めども尽きせぬ、身近で大切な課題である。続篇が待ち遠しい。

 なお山田洋次監督の次作(二〇一九年一二月公開)は、「男はつらいよ」の五〇作目、お帰り寅さんである。しかもシリーズ一作目の公開から五〇周年の節目である。

後藤久美子が出演するというので、これは見逃すわけにはいかない。

古いフィルムを使って渥美清が登場するというのだから、一体どんな映画になるだろう。

それにしても、「男はつらいよ」にかける山田洋次監督の執念はすごいものである。亡くなった主演俳優を蘇らせる映画を作るというのは前代未聞であり、世界でも初めてのことだろう。昔と同じように、封切りの日に見に行かねばなるまい。

 

映画は国民的娯楽

 日本映画については、「山田洋次の世界」「釣りバカ日誌」「私の愛する音楽映画」に、多くのことを書いてきた。私は日本映画も大好きで、高校の頃から熱心に観てきた。

そして、喜び、慰め、励ましを受けてきた。

 映画評論の最後に、十作品を選んで書いた。「七人の侍」「また会う日まで」「東京物語」といった傑作があるが、あまりにも古いので取り上げなかった。八作品は二一世紀の作品で、まだ記憶に生々しい。DVDで借りて楽しんでほしい。

 「典子は今」は衝撃的な作品で、心を揺さぶられた。障がいをもった本人が主演しているので、なんとも生々しい。しかし器用に動く足を使って何でもするので、驚異的である。そして、人間の素晴らしさを、あらためて教えられた。

 「時代屋の女房」は現代の竹取物語である。ただ、こちらのかぐや姫は何度も帰ってきて、最後は落ち着くので安心して観ていられる。(二回目からは)そして、主人公がこのかぐや姫を心から愛し、なんでも受け入れるのでとても気持がいい。こんな大らかな男がいるだろうか、と思ってしまう。

 この他八作品はどれもおもしろく、考えさせる映画である。

 まだ他にも感銘を受けた映画はたくさんあるし、観れなかった映画は更に多いだろう。 映画は国民的娯楽であり、芸術である。これからも優れた映画をどんどん作ってほしい。

 できることならばハッピーエンドの!

 余談ながら、私はこのあと何作かの古い日本映画を観た。どうしても観たくなったのである。そして感銘を受け、評論を書いてしまった。さらに三作観て、やはり評論を書いた。

 今後、四作を観て「私の好きな日本映画その2」を書くつもりである。

 まったく私は懲りない男である。

 

 

 

 

 

 

 

老・病・死

後藤守彦

 

民生委員としての第七年度が間もなく終わる。民生委員の一年度は、一二月から翌年一一月までとなっている。今年は元旦の午後に、私が月一度安否確認のため訪問していた対象者が、入院先の病院で亡くなった。享年九六歳。今まで老老介護を続けてきた八九歳の妻の一人暮らしが始まることになった。一月末日にも自宅で対象者が逝ったが、高齢の妻が残された。その後も対象者の死が続いた。

人間の死と生について思索した釈迦が悟った、四つの真理を四諦というが、その第一は、この世は苦しみに満ちているという意味の苦諦である。苦しみの具体は四苦である。四苦とは何か、瀬戸内寂聴の平易な解説で確認しておこう。

 

人間は生きている以上生老病死の四苦から逃れられません。生まれてくること自体が、すでに苦です。そして、生まれてきてからも老いは避けられません。病に倒れることもあります。そういう苦しみを経て、最後には死が待っているのです。(『寂聴 仏教塾』集英社、二〇〇二年)

 

自分で選んだわけではないが、この世に生まれ齢を重ねてきた私にとって、今切実なのは老・病と、何時になるかわからない死である。先月、北広島九条の会でともに活動してきた、私と同い年の男性が、脳腫瘍で逝去した。生は有限であり、死は必ずやってくる。「生ぜしもひとりなり、死するも独りなり」(『一遍上人語録』)を覚悟して生きて行かなければならない。

最近、フランス文学の研究者で私と同年齢の上村くにこが、『死にぎわに何を思う−−−日本と世界の死生観から』(アートヴィレッジ、二〇二〇年)を上梓した。戦前の日本人の死生観、欧米のデス・スタディ(死学)、ヨーロッパの死生観、戦後の日本人の死生観、安楽死・尊厳死の順に死をめぐる諸問題が掘り下げられている。そこで著者があげた参考文献の幾つかにあたってみた。

最も感銘を受けたのが、岸本英夫の『死を見つめる心』(講談社、一九六四年)である。岸本は、一〇年間癌とたたかって六一歳で亡くなった宗教学者である。岸本はキリスト教徒の家庭で育ったが、神を捨てた。死後の世界を信じることができれば楽だろうが、天国や浄土の存在を信じなかった。それは、岸本が自ら認め誇る「近代的な知性」の所産である。現代人は死の問題について、「現実の人生の中に、その解決を求めなければならない」。では、最上の解決法は何であろうか。それは、「よく生きること」である、と岸本は断言する。「人生の理想を心にもち、その理想に向かって、自分を打ち込んでゆく」ことであり、そして、死の恐怖に堪えるためには、「日々の生活の中で小さな死の別れを繰り返して心の準備をおくことである」と。

 岸本は、一般的には死生観というところを生死観としているが、これは死とは生であるとする岸本の思いの反映だろう。岸本の明晰で無駄な修飾のない、透徹した文章にふれながら、毎日一度は諳んじている、藤沢周平の『三屋清左衛門残日録』(文藝春秋、一九八九年)の一節を思い浮かべた

 

衰えて死がおとずれるそのときは、おのれをそれまで生かしめたすべてのものに感謝をささげて生を終ればよい。しかしいよいよ死ぬるそのときまでは、人間はあたえられた命をいとおしみ、力を尽くして生き抜かねばならぬ。

 

次は、吉田満の『戦中派の死生観』(文藝春秋、二〇一五年)。吉田は、一九四五(昭和二〇)年四月、水上特攻で沖縄に向かった戦艦大和に学徒兵として乗り組んだ。米軍の攻撃で沈められた大和の乗組員三三三二名の九二パーセントが亡くなったが、吉田は生存者二七六名中の一人であった。一九四七年に、その体験を『戦艦大和ノ最期』として綴った。同年、吉田は、ある神父と出会い洗礼を受け、「一日の生が、死への一日の接近であることをしかと受けとり、ますます悔いなからんことに力をつくす」と決意する。一九七八年、五七歳で亡くなるが、その前年にも「死は永遠の時を支配し、しかも人間の思慮をこえて唐突にやってくる。死にたいしては、ただ謙虚におのれを差し出して、一日一日を生きるほかないであろう」と、綴っている。

三冊目として、二〇〇七年に腎臓癌で亡くなった哲学者池田晶子の『死とは何か−−−さて死んだのは誰なのか』(朝日新聞社、二〇〇九年)を開いた。池田の言葉で何度か救われたと振り返る批評家若松英輔は、池田は日常の言葉で哲学を語り、「難しい言葉で語ると、哲学を浮かび上がらせることはできない。むしろ、どんどん隠れていくことに、ある日、彼女は気が付いたんだ」と評価している(『君の悲しみが美しいから僕は手紙を書く』河出書房新社、二〇一四年)。では、池田は、死についてどのように整理しているのだろうか。先ず、死後の世界について。死後の世界を語っているのが、すべて生きている人なのだから、それはおかしいとする。そして、「死が存在するときに私は存在していないし、私が存在するときには死は存在しない」、だから、死は無いのだと主張する。さらに、死に方は選べない、死ななければ生きているのだから、選べるのは生き方であって、「生の側を我々は選んでいく」のだと言い切る。池田の結論、「死とは何かを考え、自覚的に生き死ぬしかないと思う」に共感する。

上村は漫画も検討の対象としていた。それが、大阪大学医学部出身の手塚治虫の『ブラック・ジャック』である。私の持っている秋田文庫版では、二四二話が一六巻にまとめられている。大部な短編小説集ともいえよう。神業的メスさばきで難手術に挑み人の命を救うブラック・ジャック、それに対して安楽死をとげさせようとするキリコが登場する(「ふたりの黒い医者」)。しかし、キリコの出番は必ずしも多くはなく、ブラック・ジャックの救命が目立つ。とはいえ、ブラック・ジャックは時には失敗もし、救けた相手から喜ばれないこともある(「されどいつわりの日々」)。文庫の各巻毎に、巻末に解説が付されているが、作家の宮部みゆきは、「「生」は素晴らしい。「命」は尊いのです。『ブラック・ジャック』の、時に厳しく時に暗くもあるエピソードの底流に力強く流れているのは、ただひとつ、そのことです」と語っている。生きることが素晴らしいのであればこそ、日々刻々を大切に生きなければならないのである。

 上村の本が出た後、コロナ禍の只中で刊行された、前述の若松英輔の『弱さのちから』(亜紀書房、二〇二〇年)にも、死への言及があった。

 

死を考えるということは、自分が何を愛しているのかを改めて考えることにほかならない(中略)人は日々死に近づいています。ただ、そのことを意識しないだけです。私たちに必要なのは、新しい試練ではありません。今をしっかり見つめることです。

 

 この世に生を得た人は、今を生き、誠実に時を編みながら、死に向かっていかなければならない。

 

 

 

青木資二「オンライン」で思ったこと②

               豊村一矢

 

 前号で私は、青木資二「オンライン」の「例会合評」での皆さんの意見に、基本的に共感しつつも、この「投稿欄」に書く段になって現在の小学校の現状に思いが跳んで脱線してしまった。でも、作品「オンライン」についてではなく、作品「オンライン」を読んで連想してしまったことを書くつもりだったので、ご容赦願いたい。

 

 小学校でも文字の筆順を一通り教えるし、「トメ、ハネ、ハライ」なども、特に「書写(習字)」の時間で扱う。身に着くかどうかは、まったく心許ない。

 

最近、私と同年代の元(女)教師、Aさんがスマートフォンを始める決心をした。

高齢者向けのものを購入したが、使い方が解らない。初心者向けの「らくらくスマートンフォン教室」に熱心に通った。二十歳くらいの、スチュワーデスのようなお揃いの制服をきた若い店員が、ほぼマンツーマンで教えてくれる。ところが、話を聞いただけで使い方が解るはずがない。身振り、手振り、紙にメモしながら和やかに教えてくれるのだが、どうも要領を得ない。特に、目の前で、メモしながら説明するとときの、ボールペンの持ち方、筆順のデタラメさ加減のびっくり仰天し、聴く意欲も失せたという。

元教員のボヤキはつづく。「近ごろの若い先生だって、そうだよね。ペンの持ち方なんてホントにヘン。あれじゃ、正しい筆順は無理、美しい字も無理。でも、指先で器用にペンをくるくる回転させるんだよね、よそ見しながら。」などいい「近ごろの学校は……」と嘆くのである。

 

 Aさんの話を待たずとも、文字書きの乱れ(?)は大変な状況だと私も思う。でも、Aさんの次の話になると????である。

Aさん曰く。

この頃、現場で教育大学を出た教師が少なくなっている。一方、私立大学でも教員免許を取れる科目を設定しているとこが多く、教育大学卒でない教師が増えている。教育大学卒は、学校現場がブラックだからと、教師になりたがらない、と言うのだ。そうかもしれない。

だが、これが学校現場の質の低下の原因の一つだとなれば、賛同できない。そもそも、学校現場は質が低下しているのか。文字書きの乱れは確かだが、これを質の低下とだけでみていいのか。

文字書きが乱れるのは当然だ。子どもたちは日常生活で、画(かく)に沿って筆記して字を書く機会が極端に減っている。字を書くのはキーを押したり、なぞったりする作業になっている。楽ちんも好いとこだ。キーを間違えなければ誤字もない。

私は、これを、困った状況だとだけで視るのは間違っていると思う。

「楽ちん」がなぜ悪い。苦役によってではなく、楽にことを成し遂げることは、社会にとって、人類にとって進歩ではないのか。

 

青木資二「オンライン」を読んで連想したことの一つを綴ってみたが、つづきは次号に。

 

             (つづく)

札幌民主文学通信

二〇二〇年月一日 263号

 

 

 

九月例会合評報告

 

合評作品

青木資二「オンライン」 

(『民主文学』九月号)

 

報 告

レポーター   泉 恵子 

 

 レポート

五章からなるあらすじの概要を示しながら、作者の問題としたい(訴えたい?)と思われる言葉(後の*印)を掬ってみた。その中から、全体の要旨として次の様にまとめた。

 

(要旨として)

 格差社会の中で、必死に生きる母子家庭を襲うコロナ禍。理不尽な一斉休校、飲食業のパートの仕事は休業という経済的に逼迫した状況下で、オンライン化を進める政府への疑念。パソコンのない家庭という不公平さの中で、「学力」を心配するとともに、オンライン授業というのは果たして子どもたちにとってどうなのかという漠とした不安を抱く母親(良枝)の思いを描く。

 ―これは作者の問題提起であり、コロナ禍の中の問題を取り上げたという積極性を評価したい。

 *「一人で画面を見て勉強するのって、面白くないんだ。クラスのみんなで言い合いながら授業する方がよっぽどいい」

 *「今の子どもたちは、触れ合い、言葉をかけあうことが少なくなっている」

 *「ゲーム脳や悪質サイトが話題にあがっていても……」などの言葉に、

 学校は、人間関係を通して学習する中で、人として成長するところという作者の思いが伺える。

 

(問題提起として)

〇「ゲーム脳」の問題ー子供の世界に広がる精神病(自閉症等)の深刻さ

 脳科学で「皮ふ感覚を含めた五感にバランスよく刺激を与えなければ、脳も正常に発達しない」「バーチャルな映像を現実と錯覚し、大自然との触れ合いの少ない現代の子どもたちの脳には重大な欠陥が生じている恐れがある」という指摘もある。

〇格差社会における不公平さーネット環境を整えないでオンライン授業を推進する政府ー広がる学力差ー公平なネット環境への対応が求められる

 

 

(合評の中で

 ・コロナ禍という今起こっている問題を丁寧に掬い取っている。

 ・母子家庭(今は一人親家庭というとの指摘も)の実情ー仕事に行けない、学校にいけないーをよく描いていて、子どもの気持ちが伝わり、切ない気持ちになった。

 ・良い作品と思うが、印象が暗い。最後の「胸の裡がざわつき始めていた」という終わり方は如何か。

 ・作品としての輝きを感じない。憂鬱を誘う。

 ・非正規で働く人々の家庭が追い詰められてゆく状況は良く伝わるが、希望を見出すような終わり方をしてほしい。

 ・良い作品とは思わない。報道されている内容の域を出ていない。別れた夫からの養育費を催促することは自尊心が許さないというのはおかしい。

 ・今の時代はIT化がますます進む。オンラインは避けて通れない。それにふさわしい対応が求められる。パソコンやタブレットを公平に配布し、その指導する人員の配置が求められる。(その時に、対面での授業とのバランス、子どもの精神や肉体の発達も考えての対応が求められるだろうレポーター泉)

 

(合評を終えてから

 右の感想や意見が出て、改めて主人公の母親良枝の姿勢を考えさせられた。確かに養育費を催促することは権利であり、当たり前のこととして堂々と要求する女性だったら、このように暗い作品にならなかっただろう。しかし、別れた夫に催促するのは「シャクだ」という気持ちもわかる。

 実際には、離婚後約七割の男性が養育費を払わなくなっているという最近の新聞記事があった。催促しても応じない事が多いという。法的な規制がない中で、泣き寝入りをしている女性が多く、女性のひとり親家庭の貧困は深刻なものになっている。養育費に法的な規制を設けるべきだとの動きもある。

 そうした社会に働きかけてゆく女性として描かれていれば、もっと希望を感じさせる終わり方もでき、小説としての「輝き」も感じられたかも知れない。

 ここでは良枝はごく一般的な(という言い方も問題あるが)女性として描かれていて、誠実だが、どこに怒りをぶつけたらよいかわからなく鬱々としている。政治に対しても不信の念を 持つという気持ちが「ざわつく」という表現になっていると思われ、「暗い」「作品としての輝きを感じない」という感想になるようだ。 

 男性の描く女性で、成功していないという意見もあった。確かにもっと明るく、振舞える女性も、強い女性もいるだろうが、そうではない女性も多いのではないだろうか。私はこの主人公にごく普通の女性像を見て違和感はなかったが、「現実をそのまま描くだけでよいのか」という問題提起も出された。

 

 例会の翌々日(九月七日付)の「道新」に「母子家庭の18・2%食事回数減」「14・8%が一回の食事量を減らしている」「49・9%が炭水化物だけの食事が増えた」という事が、NPO法人「しんぐるまざあず・ふぉーらむ」の調査で分かった、と出ていた。さらに「36・8%がタブレットやパソコンをもっていない」とあった。

 「オンライン」はまさしく現状をよく反映した作品という事が言える。しかし、それを活写しただけでは、作品として感動を与えるとは限らないという事もわかった。主人公良枝は、この後でどう動くのだろうかという問題も提起されているようだ。

 

 

 

 

九月例会誌上合評報告

 

 作品 「オンライン」(青木資二)

           『民主文学』九月号

 

 

発言1            村松祝子

 

昨年の十二月に中国の武漢で発生した新型コロナウイルス菌はたちまち地球全体を駆け巡り現在も収まっていない。 

日本社会でも江戸時代の末期、千八百五十八年安政五年にコレラが流行り十万から二十四万人とも言われる人が死んで直ぐ死ぬので「コロリ」と言われ恐れられたそうです。 

それ以後これほど大きな伝染病に見舞われてこなかった私達は今回の新型コロナウイルスは社会的弱者の上にモロに襲いかかりました。 このような社会現象をいち早く作品に表した作者にエールを送りたいと思います。 

コロナ菌は働いている人々の収入を絶たち今まで見えなかった社会の歪みを顕著にあぶり出している。 

特に不安定な職場で働かせられてきた弱い人たちに降りかかってきている。 

その状況は良枝の職場を通してよく描かれている。

良枝のイライラも共感できるし、ラーメン3個を親子で分け合って食べる日本の現実が見えて来る。 

二人の子供達の上にもこれから使われるかもしれない「オンライ学習」を通して学習の差がつき始めている現実に‥‥良枝の胸の裡がざわつき始めていた。‥‥で終わっているのだが彼女は胸の裡のざわつきにどう決断を出して生きていくのか考えさせられた。 読後感が暗い印象なのですが、彼女の胸の裡のざわつきがどうゆうものになっていくのか自主的に向かうのか、作者の暗示があればと思いました。 

彼女の苦しみに共感しながら一気に読了しました。  

 

 

発言2            泉  脩

 

読んでいてとても切なかった。コロナ流行による休校、失業、母子家庭における母親の焦り。出口がないのである。

 現実のきびしさを見据え、人・社会・歴史をリアルに描くという民主々義文学としては、タイムリーな好短篇だと思う。このような気持ちの親と子供がどれだけ多くいることだろう。日本だけでなく世界中で。

 解決策がないという批判があったが、これは無理な話であり、無いものねだりである。

 日本の底辺に目を据えて、切実な苦しみをよく書いているといえるだろう。

 教育とは、教え育てると書く。子供たちが自立できるよう、知識と技術を教え、同時に教師と生徒同士の接触で人を育てる―ということである。

 機械を相手にした「オンライン」だけでは、子供の教育は達成されない。しかし母親の心配と焦りは理解できる。災い転じて福にするよう、行政は責任をもって対処すべきである。特に教育行政は。そして学校と教師も。

 私はかつて敗戦前年に、十カ月も通学しなかったことがある。小学校の集団疎開に参加しなかったからである。そして、敗戦翌年には父が伝染病で急死し、母子家庭で苦しい生活を余儀なくされたことがある。

 だから、私はこの作品の切迫した内容が実感できて、胸がいっぱいになった。男性の作者(たぶん教師経験者)が、女性の主人公の小説を書いているのはめずらしい。成功しているか、いないか両論があったが、私は違和感がなかった。ただ難しいことで、あまり秀れた作品がないことも事実かも知れない。

世界文学では、トルストイの「アンナ・カレーニナ」や、ロマン・ロランの「魅せられたる魂」があるのだが。日本文学ではなかなか思い浮かばない。

渡辺淳一「阿寒に果つ」などどうだろうか?

 

 

発言3            村瀬喜史

 

「オンライン」について、コロナ下での母子家庭、こども二人と良枝、居酒屋のおかみさん。泉さんの短編でよく描きわけているのに賛成。泉恵子さんのレポートは教育の現場を経験しているのがよくわかり、意見をはちむ余地がない。

私の孫が今年、新卒で、札幌の小学校に勤務することになった。パソコンをやり、いつもノートパソコンを持ち歩いている。彼曰く、札幌では「オンライン授業はまずやれない、なにせパソコンをつかえる家庭は少ないから」という。

日本の財界はやりたいだろう。菅内閣は目玉施策でデジタル庁の創設をやる。その担当大臣はあの電通出身である。経済産業省は早速、税優遇で後押ししている。この方向はかつての「新時代の日本型経営」が使い捨て労働者をうみだしたように、大きく貫いていくだろう。

その意味からも先進諸外国の動向をしりたい。

私はデジタルに弱いと自負しているが、せめて選挙の電話かけくらいはと思って一度講習会をひらいてくれと要望したが、いまだに実現しない。スマホを「あなたがまず買いな」といわれ、近くのAUショップいった。一万五千円くらいから十五万くらい、各種あり、中国のハーウエイ社のも置いてあった。この話を、大学同期の親友に言ったら「やめとけ」といわれた。[それでなくとも、認知症を心配しているのだろう、なんで情報を増やすんだ」

まさに「そのとおり」だ。教育のオンライン導入は先進諸外国ではどうなっているのか。

若ければ、久しくやっていなかった外国旅行をやって、オンライン授業をやっている現場をみたいと考えている。できそうにもないが。

   

 

 

 

投稿欄

   

『いまに生きる宮本百合子』

 あらためて宮本百合子の偉大さを知る

  

               泉  脩

 

この本は、新しい宮本百合子全集が新日本出版社から出版されたことを記念して行われた公開講座の記録です。多喜二・百合子研究会のメンバーと協力者の六人が分担した力のこもった講座で、宮本百合子への理解と敬愛に貫かれている、実に見事な本です。

二〇〇四年に発行され、今読んでも少しも古くありません。

 

伊豆利彦の「人間らしく生きる―『貧しき人々の群』の出発」は、百合子の処女作を解明している。

一九一六年、十七歳の時に「中央公論」に載り、天才少女と讃えられた。お茶の水高女の五年生だった中條百合子は、祖母の住む福島県郡山の農村での体験をもとに、貧しい小作人の悲惨な生活を描いた。

地主の孫娘として表面は敬われながらも、特に子供たちから嫌われた。それでも近づき、はね返された。そして慈善の限界を思い知らされた。

彼女の父方の祖父は福島県安積地方の開拓者で、父親は秀れた建築家として成功した。彼女は活発な才女として成長し、この頃生まれた白樺派の文学に影響され、立派な女性教師に出会い、自分も文学を目指したのである。

「貧しき人々の群」は人道主義に基づいて貧困にあえぐ小作人に手を差し伸べて失敗する話で、自分の限界を思い知らされた。それでも自己変革の決意を表明している。百合子の裏表のない純粋な人柄をよく表している。

 

澤田章子「『伸子』の情熱と知性」

中條百合子は十九歳の時、父親に連れられてアメリカに渡る。「はく」をつけるためと書かれているが、どうだろうか。「貧しき人々の群」刊行後、彼女は北海道に長期滞在し、アイヌ部落を訪ね「風に乗って来るコロポックル」と未完の一作の、二作品を書いた。この二作の中でアイヌ人を同化しようとする政府の民族差別を批判している。

彼女の両親はこの二作の発表をおし留め、娘をアメリカに隔離したのではないだろうか。一九一七年はロシア革命が成功した年。急速に拡がる社会主義・共産主義から娘を遠ざけるためにも。

百合子はコロンビア大学の聴講生となり、十五歳年上の日本人留学生と知り合い、両親に無断で結婚した。そして五年後には離婚した。貧しく人付き合いの悪い男性に、内面性を感じたのだが、帰国後の生活の中で期待が裏切られたのである。

百合子は常に自己変革によって正しい生き方を求めた。澤田さんは「あくなき好奇心」と書いているが、当たってると思う。トルストイ、ロマン・ロランを読み、白樺派の作家達から学んだ。そしてロシア文学研究家の湯浅芳子と出会い、いつまでも自分の殻から抜け出そうとしない夫に飽き足らなくなったに違いない。

彼女はこういった経験を長篇「伸子」に書いた。家父長制が続き、男尊女卑が強い日本で、驚くべき大胆なことだった。彼女の面目躍如ということか。

 

岩渕剛「試練の十二年・『獄中への手紙』が語るもの」

中條百合子は、湯浅芳子のロシア(ソ連)留学に同行し、彼女は世界初の社会主義を目指すロシアを体験した。

一九二七年から三年間のロシア滞在から帰国すると、プロレタリア文学の作家としてスタートする。そして、百合子は日本共産党に入党し、宮本顕治と結婚する。

しかし、治安維持法による弾圧で夫が逮捕され、仲間を次々と失い、十二年の孤立した生活が続くのである。

獄中の宮本顕治と交わした「十二年の手紙」は、手紙文学の傑作である。きびしい検閲をかいくぐって、巧みに情報を交換し、気持ちを交流し、そして未来への希望を語っている。

百合子自身も逮捕と釈放を繰り返し、病気と執筆停止に苦しめられている。しかし、科学的社会主義への確信を強め希望を失わないのである。

 

羽田澄子「人生の転換点に重ねて―『藩州平野』再読」

この章は回想を交えて書かれている。羽田さん自身が敗戦を旧満州の大連でむかえ、苦労して帰国し、そして書かれて間もない「藩州平野」を読んで、わが事のような感銘を受けたという。

この作品は一九四五年八月十五日の敗戦の詔勅を聞いて、百合子自身をモデルとする主人公が落ち着いてこれを受け入れ、夫の出獄の準備をする話である。ぼう然とする人々を観察しながら、この様子を細ごまと書いている。祖国への帰国を急ぐ在日朝鮮人の姿がよく書けている。そして、今さらながら戦争で家族を失った女性の悲しみを察するのである。

羽田さんも少女として同じような体験をして、この作品の素晴らしさに心を打たれたのである。百合子は、まれに見る文学者であり、「播州平野」は秀れた作品である。

 

須沢知花「『道標』から見えるもの」

須沢さんは若い研究者である。一九九〇年代の中頃にロシアに留学し、旧ソ連の崩壊で混乱するロシアの人々に接している。そして宮本百合子のソ連滞在を戦後に書いた「道標」を分析している。

この作品は百合子が一九二七年から三〇年まで滞在したソ連を書いている。当時はまだ科学的社会主義の勉強も不充分で、すべて自分の接した人々から受けた印象に基づいて考えている。革命後の混乱から回復し、第一次五ヶ年計画に取り掛かろうとするソ連の、いわば最も健全で希望に満ちた時期である。

スターリン独裁のゆがみがまだ表面化せず、一方ではアメリカを中心とした資本主義国も、世界恐慌に突入する直前である。

百合子は偏見を持つことなく、ソ連の人々の着実な生き方、生活に接して、矛盾に充ちた日本と比較する。弟の自殺の知らせで大きなショックを受ける。ソ連滞在の長い共産主義者片山潜から、ソ連での文学活動をすすめられて動揺する。しかし自分の生きる道は、日本にしかないと見極めて、困難に充ちた日本への帰国を決意するのである。

自分の正しい生き方を求めて、あえて苦しい道を選択する百合子らしい立派な選択である。そして正しい選択である。

 

辻井喬「戦後の百合子―回想を交えて」

この講座の結びであり、結論である。辻井さん自身が詩人であり、多くの著作を持つ人である。それだけに意味深い表現が多く、理解することがむずかしい。今後何度も読み返す必要があるだろう。興味深いことは、辻井さんが東大生であり、文学運動・平和運動の活動家だった時、宮本百合子に会って協力を求めたという話である。一九五〇年頃、日本の再軍備・戦争協力の動きが強まってきた時である。

二度の世界大戦を経験し身をもって抵抗し、たたかってきた百合子は、敏感に反応し協力してくれた。しかし間もなく亡くなったのである。まだ五十代初めの若さだった。

 

私は高校生の時に「伸子」を読んだ。若い夫婦の結婚生活の困難など理解できるわけがなかった。ただ「正しい生き方」を求める主人公の努力と苦しみは理解できるような気がした。「藩州平野」では、こんな混とんとした時代に、こんな澄んだ目をした日本人がいたことが驚きだった。他の作品も続けて読んだが、日本の他の作家にはない魅力を感じた。この本を読んであらためて宮本百合子の偉大さがわかったような気がするのである。「二つの庭」に触れていないのが残念である。

 

 

 

『オーバーストーリー』が面白い

              松木  新

 

昨年、ピュリッツァー賞を受賞したリチャード・パワーズ『オーバーストーリー』(新潮社 2019年10月)がとても面白く、「訳者あとがき」ではないですが、本書を読んだ後は、〈世界が違って見えて〉きました。

〈「ある本を読んで以来、風景が違って見えてくる」という言い方はやや陳腐な感想のようだが、パワーズの『オーバーストーリー』には間違いなくその影響力がある。普段、私たちが木を生き物として見ることは少ない。新緑が芽吹いたり、花が咲いたり、紅葉したり、葉が落ちたりする時期には、ふと、〝生物としての樹木〟を意識することはあっても、それ以外のときはいわば地形か天気みたいな無機的背景として見えているのではないだろうか。だが、本書を読んだ後はきっと世界が違って見えてくるはずだ〉

リチャード・パワーズについては、二十年ほど前、デビュー作の『舞踏会へ向かう三人の農夫』が印象深かったのですが、それ以来、彼の作品は読んでいませんでした。

この物語は、九人の見知らぬ人々が、木によって召喚され、アメリカ大陸最後の処女林を救うたたかいに終結する寓話です。九人の物語は互いに組み合わさりながら、木を中心に、同心円状に展開します。

九人のうち、聴覚の障がいを持ちながらも、植物に対する愛を父親から受け継ぎ、やがて樹木同士がコミュニケーションしていることを発見する科学者パトリシア・ウェスタ―フォードの物語に魅了されました。

たとえば父と娘の次のような問答。

問1 ブナの木の地上から4フィート(約1・2メートル)に自分の名前を刻んだら、50年後、名前の位置はどうなるか? 

答 名前の位置は地上から4フィートのまま。

問2 大きな鉢に200ポンド(約90キログラム)の土を入れ、ブナの実を植える。10年後に土の重さはどうなっているか?

答 土の重さは変わらない。ブナの木の質量のほとんどすべては、空気から得られたものだ。

「ノアの方舟」は間違っている、という指摘も新鮮です。

『旧約聖書』「創世記」第七章

〈地に洪水ありける時にノア六百歳なりき ノア其子等と其妻および其子等の妻と倶に洪水を避て方舟にいりぬ 潔き獣と潔らざる獣と鳥および地に匍ふ諸の物 牝牡二宛ノアに來りて方舟にいりぬ神のノアに命じたまへるが如し かくて七日の後洪水地に臨めり ノアの歳の六百歳の二月即ち其月の十七日に當り此日に大淵の源皆潰れ天の戸開けて 雨四十夜地に注げり〉

ノアは動物たちを方舟に乗せましたが、植物を乗せませんでした。〈陸上での生活を再建するために必要な物を乗せずに、ただ飯食いの連中を救うことに専念した〉、〈植物なんて生き物(・・・)()()ない(・・)とノアの一族が思い込んでいた〉という批判は、痛烈です。

虫の大群に襲われた樹木間にコミュニケーションがある、という実例も興味深いものでした。

〈攻撃を受けた木は、自分の身を守るため、殺虫成分を分泌するのだ。(略)少し離れたところに生えている木も、隣の木が虫に襲われると、自身が襲われているわけではないのに防御態勢を取る。何かが彼らに警告を与えているのだ。木は災厄の噂を聞きつけ、備えをする。(略)負傷した木は警告を発し、他の木がその匂いを嗅ぎ取っている。カエデは合図を送っている。木は空気を媒介としたネットワークで結ばれ、何エーカーにもわたる森全体が免疫システムを共有している。脳を持たず、動くこともない木々は互いを守り合っている〉 

樹木の生命の源はその根にあります。

〈二本のダグラスモミの水平な根が地中で出会うとき、両者は融合する。仲間同士の瘤状の接ぎ木を通して、二本の木は維管束系をつなぎ合わせ、一体化する。千マイル(約1600キロメートル)に及ぶ生きた糸によって地中で結ばれた(略)木々は、互いに栄養をやり取りし、癒やし合い、子どもを守り、病んだ仲間を支え、自分たちの資源と代謝産物を共同体のために蓄える……〉

〈森は地下の接合部(シナプス)を通じて自らを修復し、成長する。そして森が成長するとき、その内側で森を形作る他の数万の生物をも成長させる。森とは、常に枝や根を広げ続ける巨大な超樹木(スーパーツリー)だと考えるのがよいかもしれない〉

この物語の結論は次の通りです。これをどのように受け止めるか。新たな問を投げかけられているような気がしました。

〈人類は自分たちが万物の霊長だと思っているが、それは間違いだ。他の生き物―もっと大きな生物、もっと小さな生物、もっと速い、もっと年老いた、もっと若い、もっと力強い生物―が采配を振り、空気を作り、日光を食べる。彼らがいなければ、人間なんて()だ〉

本書にも引用されているソローの『森の生活―ウォールデン―』を読んでみました。トルストイやガンジーに影響を与えた名著といわれていますが、これまでふれる機会がありませんでした。

1845年7月4日の独立記念日に、ソローは〈ウォールデンでの実験生活〉を始めます。マサチューセッツ州コンコードにあるウォールデン池畔に小屋を建て、2年余りをそこで暮らします。ソローが28歳の時です。『森の生活』はその時の記録で、1854年に出版されました。

〈漁夫、漁師、樵夫、その他の人々が、それぞれある特別な意味で《自然》の一部である野や森の中で人生を過ごしている。彼らは、ある種の予想をもって《自然》に接している思想家や詩人たちよりも、たとえ仕事の合間だったとしても、もっと素晴らしい雰囲気で《自然》を観察することができるのである。《自然》は漁夫や漁師たちに自らの姿をさらけ出す〉

〈記念すべきことが起きるのは朝、大気に包まれた朝である、と言っておこう。ヴェーダの経典には「すべての知恵は朝に目覚める」とある。詩歌も芸術も、人間の最も美しく、記念すべき活動はこの朝の刻限に始まる〉

ソローが「森の生活」を始めた三年後の1848年に、『共産党宣言』が刊行されました。そのこともあって、本書には貧富の問題や、奴隷制度についての言及が見られます。

実際ソローは、メキシコ戦争と奴隷制度に反対という理由で税金を払わずに逮捕されたり、百万人の奴隷がいるマサチューセッツ州は破廉恥だ、奴隷制度を葬れ、などと講演しています。しかし、貧困の問題については、ソローは社会制度にまで目を向けることができませんでした。

〈自分の生活がどんなにみすぼらしくても、それを正面から受けとめて、生きることだ。その生活から逃げ出したり、激しい非難を浴びせてはならぬ。その生活は君自身ほど悪いものでもない。最も裕福な時に、心は最も貧しく見える。他人の欠点を見つける人間は、自分が天国にいても、同じようにする。貧しいからこそ、君の生活を愛するのだ〉

 

 

 

私が愛する図書館

後藤守彦

 

コロナ対策で座席を一席ずつ空け間隔をとっていたシアターキノで、七月末にアメリカ映画『パブリック 図書館の奇跡』を妻と一緒に見た。場所はアメリカ中西部のオハイオ州シンシナティで、多くはないが雪が降り、一月の最低気温の平均はマイナス五度となる。舞台は公立図書館。その年一番の寒波が襲った翌日、ホームレスたちが閉館になっても出ようとせず、ホームレスたちのまとめ役のジャクソンが、「市のシェルターがどこも満杯だ。我々は今夜は帰らない」と宣言し、図書館を占拠した。彼らは自分たちの厳しい現実を市民に知らせようとして声を上げたのだった。路上生活の経験がある図書館員のスチュアートは、自分が担当するフロアーを開放し、ホームレスたちと行動を共にする。しかし、検察官やメディアによって、利用者を人質に取った立てこもり事件の首謀者にされてしまう。武装警官隊が突入しようとしたが、スチュアートとホームレスたちは、究極の非暴力の姿勢を示すのであった。

立てこもり中、スチュアートが『怒りの葡萄』を手に取り、その一節をTV局のリポーターに向け諳んじる。図書館を舞台にした映画にふさわしいシーンだった。『怒りの葡萄』は一九三九年に出版された長編小説で、作者のスタインベックはノーベル文学賞受賞を受賞している。『北海道新聞』の映画評(二〇二〇年七月二八日号)には、その一節が引用されていた。

 

  ここには告発しても足りぬ罪がある。ここには涙では表しきれぬ悲しみがある。われわれの全ての成功を覆す失敗がある。人々の魂の中に、怒りの葡萄がずっしりと実っていく。収穫を待ちながら。

 

『怒りの葡萄』については、本を読んでから映画を見たのか、それとも逆なのか、判然としないが、いずれにしても五〇年以上前の大学時代のことで、感動したことははっきりと覚えている。

 ところで、私が利用する図書館は五館ある。居住地にある北広島市立図書館は勿論利用するが、よく通うのが、江別市にある北海道立図書館である。最近、改築され、今までなかった自習室もできた。何より、北海道関係の史資料が充実している北方資料室の存在が大きい。雪がない時期は車を利用するが、我家から約三〇分で行くことができる。北大図書館も時々利用する。この三つの図書館では利用者カードを使って本を借り出すことができる。意外と役立っているのが、札幌市立中央図書館である。道立図書館にも北大図書館にもない本を見つける時があるからである。残念ながら、札幌市民でないので、利用者カードを発行してもらえない。だから、本を借り出す出すことができず、館内で閲覧するしかない。閲覧コーナーが充実し、食堂もあるので、長時間の滞在は可能である。

以上四つの図書館のどこにも所蔵されていない本は、国会図書館で探すことになる。ホームページで蔵書目録を見ることができるので、現地に行かず、コピーサービスを受けたりするが、直接訪れることが多い。国会議事堂に隣接しているので、地下鉄の永田町駅の二番出口から図書館の入り口に行くまで、警備車両や警察官の姿が目に入り、あまり気分はよくない。それでも中に入れば、食堂だけでなく喫茶店や売店もあり、快適に本の世界に浸ることができる。無論、閲覧のみで借り出しはできないし、登録し利用証の交付を受けなければならない。全国の出版物はすべて国会図書館に納めることになっているので、拙著も三冊収蔵されている。

 『札幌民主文学通信』にシリーズエッセー「北の国から来た猫」を投稿し続けているが、第七章(二〇一七年八月号)で紹介したのが、「小さな町に奇跡を起こした二匹の物語」とサブタイトルがついた『図書館ねこベイカー&テイラー』(早川書房、二〇一六年)で、司書のジャン・ラウチが書いたエッセーである。子供の頃から活字中毒といっていいほど本好きだったジャンが、心から愛したもう一つが動物である。ジャンが勤めていたアメリカ西部ネヴァダ州ミンデンの小さな図書館に、可愛い折れた耳をもつ二匹のスコティッシュフォールドの猫がやってくる。図書館の利用者から図書館員からも愛された二匹が図書館を変え、ジャンを変えていく。ジャンは思う。「家でも猫がいて、仕事場でも猫たちがいた。どちらの場所でも本に囲まれていた。わたしの考えるまさに天国だ。人生でひさしぶりに悩みがなくなった」と。 

次に、図書館がからんだミステリをのぞいてみよう。森谷明子『れんげ野原のまんなかで』(東京創元社、二〇〇五年)からは、作者の図書館愛と図書館員への敬意が伝わってくる。

「図書館の商売物は一にも二にも本である。であるから図書館員は常に、本の状態を良好に保つべく気を配る」、こんな感じの文章が散りばめられている。秋庭市立秋葉図書館の司書文子は先輩司書の能勢らと、あまり利用者のいない図書館で働いている。ストーリーの中に、図書分類法や学校図書館法など、図書館に関するあれこれが織り込まれている。そこで犯罪とまではいえないが、謎めいた事件がおこり、能勢がその解明にあたる。全五話で構成されているが、第一話は、閉館時間を過ぎた図書館にこっそり居残ろうとした子どもたちの話。冒険したがる子どもたちに能勢は言い聞かせる。

 

図書館には本しかない。でも本だけはある。

お前ら、この中にどれだけの広い世界      がつまっているか、知っているか? 知らないだろう? だったらまず、知ろうとしろよ。こんなものと片付ける前に、まず、試せよ。試してくれよ。書物の旅をしてみてくれよ。

 

緑川聖司『晴れた日は図書館にいこう』(小峰書店、二〇〇三年)も、『れんげ野原のまんなかで』とよく似た作品で、主人公しおりの思いを受け止めてくれる、素敵な女性の司書美弥子が登場する。美弥子は語る、「図書館は、本を読むだけのところじゃないのよ。もちろん、一番多いのは本を借りたり読んだりする人たちだけど、お散歩の途中で休憩してくれてもいいし、友達との待ちあわせに使ってもいいし−−−図書館があってよかった、と思ってもらえるのが、私たちにとっては一番うれしいのよ」と。

海外ミステリからも一つ。ジェフ・アボットの『図書館の死体』(ハヤカワ文庫、一九九七年)を見てみよう。主人公のジョーダン・ポティートは、アルツハイマー型認知症になった母親を世話するため、ボストンにある教科書出版社の編集長の地位を棒に振って、テキサスの田舎町ミラボーに帰郷する。そこで館長を務めている図書館で、バットで撲殺された死体を発見した。容疑が自分にかかるが、ポティートは犯人探しを始める。これはシリーズの第一作で、『図書館の美女』(同、一九九八年)、『図書館の親子』(同一九九八年)、『図書館長の休暇』(同、一九九九年)と続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の好きな日本映画⑩

「海難

       泉  脩

 

日本とトルコの友好のもと

 一八九〇年、和歌山の紀伊半島の小さな島の沖で、暴風によってトルコの軍艦が沈没した。日本への表敬訪問の帰りだった。夜だったが、村人は総出で救出に努め、六九人が命を取り留めた。

 貧しい漁村だったが、乏しい食べ物を出し合い、やがてドイツの軍艦に収容されて引揚げていった。

 映画は、寺に集められた半死半生の乗組員を、一人の医師を中心に看病した。「海で遭難した人を助けなかったら、村の名誉に係わる」「食べ物がなくて困るのは昔からで、今に始まったことではない」という言葉が飛び交った。女は素肌で冷え切った男を温めた。死者は六百人も出た。助かった乗組員がボートで沖のドイツ船に移る時、全員が起立して敬礼し、村人は「ふるさと」を合唱して見送った。

 九五年後の一九八五年、イランとイラクの戦争の時、イラクがイランの首都テヘランをミサイルで攻撃した。テヘラン在住の外国人は、自国の救援機で本国に引揚げたが、日本からは来なかった。日航も自衛隊も理由をつけて渋ったのである。このことを知って、トルコ航空がすぐジャンボ旅客機を派遣してきた。機長も乗務員もすぐに志願して揃ったのである。

トルコでは小学校の教科書にかつての海難の話が載っていて、トルコ国民は誰もが日本人に感謝の念を持っていたのである。

 トルコ機がテヘラン空港に着くと、まだ残っていた多くの国の人々が、われ先に乗ろうとした。すると一人のトルコ人の青年が、みんなを押し留めて事情を話した。すると待合室は静まり返り、道を開いて三百人の日本人を通してくれた。大きな拍手と共に。誰もが、かつての日本の漁民たちの行為に胸を打たれたのである。素晴らしいシーンだった。人々の無私の行為は、時を越えて国を越えて、人々の心を打つのである。

 この日本・トルコ合作の映画は、映画製作者も出演者も、心を込めて作った映画である。観る人も胸がいっぱいになる。

 「杉原千畝」と共に日本人の名誉を救い、人間の素晴らしさを教えてくれる。戦争を推し進める邪悪な人間もいる中、さらに一層人間の善意の素晴らしさを教えてくれる。

私は七九歳の時、最後の海外ツアーに出かけた。トルコツアーだった。広いトルコを長距離バスで移動するというとても疲れるツアーだった。このバスの中で、日本からの添乗員が、この二つのエピソードを話してくれたのである。彼は若い時一人でトルコへ貧乏旅行をした時、トルコの人々にとても親切にしてもらった。そして、この二つの歴史的エピソードをトルコ人から聞いたのだという。長い間、トルコはロシアと対立してきて、その強大なロシア帝国を日本が破ったということも、トルコ人の親日感情を一層強めたという。このことは、ロシアに支配され脅かされたフィンランドやポーランドなど、周辺の小国の人々に共通する国民感情らしい。

 こういった日本が、朝鮮・中国・東南アジアの国々を侵略し暴虐のかぎりをつくしたのだから、歴史の皮肉というべきだろう。

 ともあれ、この二つの映画は感動的であり、日本人の名誉を救い、私たちを力付けてくれるのである。

 どちらの映画も、外国語が入り交じり、眼が悪くて、私には字幕が読めない。それでも私は心から感動したのである。こういった映画がもっとたくさん作られたらいいと思う。日本人は優れた民族であり、人類に貢献した行為もたくさんあったはずなのだ。

 そして、現在の日本の間違い、日本人の間違った考えを改めて、他の国々にもっと親しまれ愛される国になってほしいと願う。

 

 

 

「興味津々な『熱源』」承前

松木  新

 

「札幌民主文学通信」255号(2020年2月1日)に投稿した「興味津々な『熱源』」のなかで、

〈流刑囚であるピウスツキを援助したロシアの民族学者シュテルンベルグの業績をエンゲルスが評価していた〉ということについて、その事実はない、と書きました。

〈エンゲルスの『家族・私有財産および国家の起源』に、シュテルンベルグの論文が収録されたというのは本当か――この際、じっくりと再読してみましたが、この事実はありませんでした。シュテルンベルグが登場していないだけでなく、「ギリヤークの親族組織に関する論文」も見当たりませんでした〉

最近、テッサ・モーリス=鈴木『辺境から眺めるーアイヌが経験する近代』を読んでいたら、次の文章を目にしました。

〈シュテルンベルグの観察は、逆にまたエンゲルスによって、『家族・私有財産・国家の起源』の後の版で、エンゲルス自身の理論の妥当性を証明するものとして引用される〉

彼女までもが、エンゲルスがシュテルンベルグを引用していたといっているのですから、「その事実はない」としたぼくの考えは間違っていたのではないか、と再調査しました。

問題は「『家族・私有財産・国家の起源』の後の版」という指摘です。「後の版」とは何を指しているのか。

調べた結果、「後の版」とは、「新に発見された集団婚の一例」という独立した文章のことでした。この文書は、『家族・私有財産および国家の起源』が収録されている『マルクス・エンゲルス全集』第21巻にはありませんでしたが、 第22巻にありました。1999年に出版され  た新日本出版社版の『家族・私有財産・国家の起源』(土屋保男訳)では、この文章を〔付録〕として収録していました。

〈近ごろ一部の合理主義的な民族誌学者たちのあいだで流行になっている集団婚の否認に対比して、以下に掲げる報告は興味深いものであるので、私はそれをモスクワの『ルースキエ・ヴェードモスチ』、一八九二年旧暦一〇月一四日号から訳出することにする〉

〈「N・Aヤンチュークは、野蛮時代の文化段階にある、ほとんど研究されていないサハリン島の一部族であるギリヤーク族にかんするシュテルンベルク氏の興味深い一報告を朗読した」〉

土屋保男の「注解」によると、〈エンゲルスが本論文の資料として使ったのは(略)ロシアの民族学者レフ・ヤーコヴレヴィッチ・シュテルンベルクの、サハリン(樺太)のギリヤーク族(ニーヴハ族またはニヴーハ族)の生活用様式と社会秩序の研究の結果にかんする報告である。エンゲルスは、この報告を、原文からちょっとはなれたー彼は若干の箇所を正確なものに改めたー以外はほとんど完全に自分の論文にとりいれた〉との、ことです。

『全集』ではなく土屋本を読んでいれば、誤りを避けられたのに、と若干悔しい思いもしていますが、勉強になりました。

 

 

 

 青木資二「オンライン」で思ったこと➀

               豊村一矢

 

 「オンライン」(『民主文学』九月号)には、物足りなさをあったが、例会合評での肯定的な意見にも賛同できた。特に、作者の真摯な創作姿勢に敬服した。

一方、物足りなさ感じた影響だろか、「オンライン」の作品世界から飛躍して、最近漠然と気になっていた様々なことが表面に浮揚した。「オンライン」効果と言っていいだろうか。

それらのことを数回に分けて「投稿欄」で書かせて貰いたい。

 

今回は、「手書き文字」のことである。取敢えず、公立小学校の現場でことから始める。

私は、やく二十年前に公立小学校を定年退職した。以来、学校現場と直接の接触を一度も持っていない。でも、古くからの教師仲間、先輩、後輩、果ては、妻、教職に就いている娘などから、雑多な現場情報が求めなくても入ってくる。

学校現場は、私の退職時と比較して、まったく、様変わりしたようだ。二十年前の公立小学校の職員は、学級数の担任教諭プラス、校長・教頭、担任外教諭、保健・給食・事務・校務職員と単純なものだった。そして、基本、授業は学級児童と担任間で限りなく百パーセント行われていた。いまの学校現場で児童と係わっている職員は、業務・用務の職員を含め、二十年前の2倍ほどの人数になっているのでないだろうか。様々な肩書きで、臨時、期限付、数校の掛け持ち職員、地域からのボランティアなど、仕事の中味は多様なようだ。当然これは、教育内容や授業の形態が複雑になって、学級を一時解体して能力別に組み替えて授業をしたりすることの結果だろう。

 回り道をした。本題の「手書き文字」のことに戻る。

 

一年ほど前の話である。

 元同僚から、スマホで二枚の写真を見せられた。一枚目は、マジックで書(描)かれた線、蛇が頭をもたげているような…。二枚目は、一枚目に、ほぼ中央に縦線を入れたと見える。

「これ何だ?」

「字だよ。れ。ひらがな」

「え! れ?」

「これ、カードを作っているんだ。一学期締めの集会をやるために」

「何年生?」

「一年だよ。俺、これ何て読むのって聞いたさ。そうしたら、あ!と言って線を入れるんだけど、下から上にだぜ」

「……。れ、ねえ……」

この同僚の他にあと二人、同僚がいて、年に一度、「八月会」という飲み会をやるのが慣例になっていた。

四人のうちの一人が、今でも、ある小学校に、補助教員として求めに応じて出かけ行ってのことだった。この二枚の写真、個人情報に気をつけて撮ったのはさすがと妙に感心した。

ショックだったのは、帰宅して妻にこの話をしたら、「そんなこと普通だよ。むしろ、筆順正しく、ひらがなや数字を書ける一年生、何人いるのかしら」と返ってきたことだった。

「今日だって、3を下から、半分で書いて一休みし、残りを付けたしてたわ。数字でそうなのよ。漢字だったら、悲惨だよ。でも、悲惨だと思うのは時代遅れなのかもね」

「そうか…、字を書く作業は、キーボードを叩くか、画面を触ることだもな……」

 

               (つづく)vv

札幌民主文学通信

二〇二〇年月一日 262号

 

 

 

 

 「札幌民主文学通信」の

編集作成方針について

通信担当   豊村一矢

 

 

コロナ禍、「札幌民主文学通信」(以下、「通信」と記す)も影響を受けた。 

「通信」担当として編集作成方針を  確認したい。

 

一 「通信」は、一貫して定期発行で 

はなく、随時発行である。無論、月刊 

紙ではない。  

従って、「通信」タイトルは発行年月日と通算発行の号数を記すのみだ。

 

    二 「通信」の紙面の区分け。支部活 

動の内容・支部員の活動や動向を載せ 

る紙面と個人の自由な投稿を載せる 

「投稿欄」の紙面を区分けする。

 

    三 「例会合評報告」の定式化。支部

活動の大半は作品合評である。従って、

支部の活動を伝える紙面も「例会合評 報告」が大半になる。

例会合評ではレポーターが決められ、   

レポートと合評内容のまとめが定式化されている。

紙面では、「例会合評報告」はレポーターによるレポートと合評のまとめを中心にすることとした。

 

    四 「例会合評紙上報告」

「例会合評紙上報告」を前三号に連続 

させるよう依頼があった。

「例会合評紙上報告」は、コロナ禍、支 

部の活動が低迷するのを防ぐため着想したものであった。低迷化への対抗策としては一定の役割を果たしたという声も聞く。

    しかし、作品合評の方法としては機能 

しなかった。「合評」という限り、感想、意見などを交流しながら作品への評価を深めていく場が出来なければならない。「通信」は「合評」を成立させるために「発言」対する「発言」を促した。合計三回の「紙上報告」にたいして「合評」を成立させる発言は今日までゼロである。

    さらに、最後、六月の『孤高の人』の 

紙上合評では、発言者が四人に激減する。  

「合評紙上報告」は失敗した。

発言は「投稿欄」を使うのが順当だっ

たかもしれない。

    以上の失敗例を教訓として、これから

の「例会合評紙上報告」の紙面づくりを 

研究していきたい。

 

 

 

八月例会合評報告

 

合評作品

田島一『閉ざされた日から』 

(「民主文学」八月号)

 

報 告

レポーター 泉  脩 

 レポート

 新たな決意の表明

 日本民主主義文学会の会長の田島さんが、今年の二月から五月にかけての心境の変化を、短編小説の形で書いている。

 主人公の越智恒平は、最初は中国の新型コロナウィルスにおける都市封鎖や、横浜港におけるクルーズ船ダイアモンド・プリンセス号の感染症発生も、遠い他人事(ひとごと)のように考えていた。それでも大阪における多喜二祭に不安を感じて、何とか終えてほっとした。三月末の常任理事会も終えた後、安倍内閣が移動制限、自粛を宣言し、文学会はすべての取組みを中止せざるを得なくなった。

 越智も茨城県のマンションの自宅にこもるようになった。妻と次男との三人暮しで、長男夫婦が神奈川の川崎にいた。

 昨年産まれた初孫の動画や写真を送ってくるのが楽しかった。机に向かって長篇小説の執筆にとりかかったが、筆が進まなかった。新型コロナウィルスの感染症がどんどん拡がり、気に掛かってならなかった。

 安倍内閣はドサクサの中で、国家公務員の定年延長と、検察官の定年を六三歳から六五歳にする法案を、内閣府委員会で強行採決しようとした。すでに東京検察庁長官は特例で定年延長をしていて、彼を次の検事総長に据えようとするのである。

 彼は安倍内閣の一連の疑惑をすべて握りつぶしてきた張本人であり、今後の安倍内閣の守護神にするためである。

 韓国では二人の大統領が退任後に訴追されていた。安倍首相も自分の退任後の追及を免れようとしたのではないかと、推測されていた。

 猛烈な反対が起こり、インターネットでは多くの著名人を含めて四百万の反対が集中した。元検察総長らも反対した。司法の独立を守るためである。民主主義文学会も反対声明を出した。

 安倍内閣はついに法案を延期した。こういった民主主義を守るたたかいの高まりに励まされて、越智はとりあえず短編小説を書いて、新たなたたかいを始める決意を表明することに したのである。

 田島さんと私との出会いは、リーマンショック(二〇〇八)後のいわゆる「派遣切り」を批判した「時の航路」の記念講演会の時だった。私は田島さんのこの力のこもった本に感銘を受け、講演会とその後の懇親会に出席した。そして、田島さんに紹介者になってもらって日本民主主義文学の会員になった。

 すでに札幌民主文学会へ加入していたが、正式に全国会員になったのである。

 私は田島さんの長篇小説七冊を読み、「田島一の文学」という評論を書いた。そして、私の本をすべて田島さんに送り、的確な感想をいただいた。一昨年の「天国からのメッセージ」については、「民主文学」に立派な書評を書いてもらった。だから私にとって田島さんは私の文学研究の恩人なのである。

 今回の「閉ざされた日々」は、コロナ問題を乗り越えて、日本の新しい地平を開くという決意表明だと思う。日本でただ一つ、五〇年以上も続く文学団体の会長として、小林多喜二と宮本百合子の跡を継ぐ見事な長篇小説の作者として、田島さんの力強い決意表明である。

 私は現在八六歳。今後も民主主義文学の評論を書いて、命の限り努力していくつもりである。

 

 

  合評で出された感想・意見

          (この項の文責 豊村)

 

・小説の面白さがない。

 ・コロナ禍に抗して書き始めること大切さを 

小説でアピールしたのではないか。

 ・文学会の中心になっている人の役割が見え 

  て面白かった。

 ・コロナ禍でのアピールの意図があるのなら 

小説ではなく、アピールに相応しい方法を 

考えるべきでないだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

八月例会誌上合評報告

 

 

発言1             松木 新

 

コロナの時代の証言     

「閉ざされた日から」を読んだとき、よくぞ書いてくれた、と感心しました。2月24日から5月19日までの日々を描いたこの小説は、コロナの時代のとば口の、臨場感あふれる記録です。

イタリアの作家パオロ・ジョルダーノが、2月29日から3月4日までを27編のエッセイにまとめ、『コロナの時代の僕ら』として出版しました。日本版は、4月25日発行です。

 ニューヨーク在住の作家バリー・ユアグローは、4月5日から5月11日にかけて12編の寓話を書き上げ、『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』を出版しました。日本版発行は、5月29日です。

日本でも、作家たちがそれぞれの媒体で発言していますが、まとまった形での作品はまだ目にしていません。それだけに、文学会会長の田島さんが先鞭をつけたことに、プロレタリア文学運動の歴史と伝統を引き継ぐ作家としての覚悟を見て取ることができます。

支部の合評では、〈「飲酒文学」〉というユーモアあふれる表現に拍手が送られる一方、「小説とはいえないのではないか」、「直接、アピールの形で、会員へのメッセージを発した方がよかったのではないか」、「言及されている事項はすべて既読のもので、深みに欠ける」など、貴重な意見もだされました。ぼくも、コロナ禍が如実に示していることは、先進国による自然破壊であり、資源破壊型のグローバル経済の破綻なのに、そのことへの言及がないこと、したがって、この危機を乗り切った後の社会についての展望がないことへの、不満を述べました。しかし、考えてみれば、執筆時間はわずか一ヶ月ですから、安倍内閣の言動に焦点を当てるのが精一杯だったのではないか、とも思います。

それでも、〈人類は幾度となくこうした危機を乗り越え生き抜いてきた。自分らの過去に謙虚な目を向け、新たな社会を創ることに向かっていけば、平穏な日常を必ず取り戻せるに違いない〉など、核心を衝く指摘もあります。

〈自分らの過去に謙虚な目を向け〉ということでは、たとえば、コロナ禍での「自粛警察」や「同調圧力」の動きを、〈自分らの過去〉との関わりで、考えてみる必要があります。

関東大震災のとき、日本人の青年団・在郷軍人会・消防団などは、「自警団」を組織して、無実の朝鮮人を殺害しました。ぼくは、「自粛警察」の活字を目にしたとき、真っ先に、この「自警団」を思い浮かべました。

「同調圧力」についても、すぐに思いついたのが、この国に根強く存在している「集団主義」、「体制順応主義」です。加藤周一が、1987年に出版した『現代日本私注』で、つぎのように言及していました。

集団主義が個人に対して〈安全感〉と〈圧力〉を与えている点に注目した加藤は、〈集団内部の構造は変わっているけれども、集団に対する個人の執着、あるいは集団側が個人に加える圧力、そうして現実の問題として、個人が団体に組み込まれている度合いが高いということ自体、戰後四十年にも大きな変化はない。そのことはただちに、個人の自由の制限ということになる〉こと、〈一九三〇年代に「軍部が国を誤った」というのは、まったく不正確で、「大衆に支持された軍部が国を誤った」のであり、殊に大多数の人々と異なる少数者の意見を、無視し、弾圧し、沈黙させることで国を誤ったのである〉。

一部には、なにも急いで書かなくてもよいのではないか、という意見があります。たしかに東日本大震災のばあい、「震災後文学」という言葉が生まれたように、時間を経ってからいく  

つかの優れた作品が生まれました。しかし、これらの作品をいくつ並べても、震災直後の3月16日から5月25日まで、ツイッターで詩を発信しつづけた和合亮一の『詩の礫』や、3月11日からはじまった混乱と不安の12日間の記録である、長谷川櫂の『震災歌集』の、圧倒的な迫力には及びません。

この小説からは、〈―そうか、俺の仕事は、書くことだった。

コロナに巻き込まれ、凄まじい現実にたじろぐ自分の姿に越智は気付いた。取材はままならないし、小説書きにとって致命的であるけれど、閉ざされた時間の中で、空無のままであってはいけない〉という緊迫感が、ストレートに伝わってきます。そこに、和合亮一や長谷川櫂につながる作家精神を、見る思いがしました。

 

 

 

発言2           南平太郎

 

「閉ざされた日から」について

田島一「閉ざされた日から」の感想について、例会のときの皆さんの発言に異論はない。人類の地球破壊的活動が今回のコロナバンデミックの要因の一つだとか、世界を覆った新自由主義の風潮とか、民主文学会長らしいつっこみがなく、小説としての面白みが薄いという意見に賛成で、私の発言は最後になったので、文学会会長の日常生活がよくわかったといいたかったが、それは省略して一言「会員よ、コロナとの戦いは書くことだというメッセージでないか」と発言した。

 最近、私の発言は別の会議でのことだが、「長すぎる」とよく言われ、これも認知症のあらわれかと思っていて、いるので、みなさんの発言に異論はないので、短くした。

 この作品は、会長の身辺雑記で、施設にいる兄のこと、初孫のかわいいSNS送信のこと、など、三度も読み返すことになったが、七月号の検察幹部の「役職定年・・・」の声明を読む価値は十分にある。まさか小林多喜二がここに出てくるとは、一読に値するから、ぜひ読み返していただきたい。

 安倍首相は隣の韓国の前大統領が退任したあと、訴追されたことを類推して恐れているのでないかという報道もあるが、[森友][加計」[桜をみる会」・・・戦々恐々であろう。安倍政権の「守護神」の定年延長はハッシュヌタグがこの声明を出すときで900万を越えた。最近の集計はみていないが、民主主義の底力を示した。

 この例会のあと、民主文学九月号の文芸時評にこの会長の作品がとりあげられていた。「コロナ禍をどうとらえるのか、わが民主文学の集団が、そのいとなみの中において考えるところに、作者のねらいがある」と。

 私もSNSを購入しようと近く店に出かけて説明を聞いた。価格は15000円から15万円ていど。どれがいいか、親友に意見を聞くと「やめとけ、認知症をすすめるだけだ」といわれた。

 最近、物忘れがおおくなってそれを探す時間がかかりすぎ時間の浪費が多くなっている。例をあげると、カミュの「ペスト」新潮文庫で四月、90刷を平積みから買ってきてよみはじめたが、途中まで読んでどこへいったか、本が行方不明になった。地下鉄の往復でよむことが多いが落とすわけがない。こんなとき、かならず出てくるからとあせらない。しばらくして年金者組合のカバンから出てきた。なぜここに入れたのか記憶に。 

 翻訳者は宮崎嶺雄でこの通信の松木さんの一文によると全集と同じ人。八月号に乙部宗徳が「連帯の力で不条理な現実を変える」という評論を書いている。泉恵子さんも七月号に木村玲子と本名で書いているが、私にはできそうではない。

 

 

発言3            浅野勝圀

 

感想二つ、三つ

『閉ざされた日から』は、ぼくらも現に余儀なくされている「巣ごもりの日々」を、三か月に限って描き出した持ち重りのする好短編である。

 この間における越智恒平の心の動きと生活の報告を、それぞれ説得力充分に語る文章は、長編作家の息遣いのようなものが感じられた。

「現在そのものを描くことに挑まなければという思いが越智の胸奥を占め」「緊急に挑む短編の準備にとりかか」るきっかけが、マーガレットの花が咲いたことを知らせる妻のひと言にあったとは、全篇を通して最も印象に残る場面である。

 「それらは、一つの家族の塊のようであった。―これが日常なのだ」には、ほとんどしびれた。七五歳を目前にした老作家に、より積極的に生きることを促したのは妻の何気ないひと言ことだったのだ。この描写は老年を生きる者にとって示唆に富む。結びの「ため息まじりの妻の声」とともに家族というものがクローズ・アップされるのを感じた。

 小さなことだが、表現について共感を覚えた箇所をひとつあげておきたい。それは「昨年度授かった初孫」の「授かった」である。「生まれた」だと息子夫婦だけのことになるが、「授かった」は息子夫婦と恒平夫婦の両方を包み込んでいる。

 最後に小さなことをもうひとつ。作品の表題「閉ざされた日から」のことだが、「巣ごもりの日々」「コロナに閉ざされた日々」という複数形との使い分けが興味深かかった。ぼくには表題の単数形が、昨日までの「日々」を突き抜けた表現として、作者が再び「最後の長編小説」に向かう姿を感じさせたのだが。

 

 

 

発言4           北野あかり

 

「閉ざされた日から」について

私は、これまでエッセイやドキュメンタリーしか書いていないので、小説を書くにはどうしたら良いかが私の課題です。そんな状況の中でで「閉ざされた日から」を読みました。

(1) 新型コロナウイルスの感染拡大、自己防衛、自粛を余儀なくされる実際に起きたこと。

ウイルスについて、検査問題、医療現場の状況が描かれています。

私も、テレビや新聞の報道で聞いていた内容なので、説明が多いように感じました。

(2) コロナ渦(テレビ漬け、小説書けない、ネガテブ、行動様式にブレーキかかる、)家族の絆(孫の動画、姉からの電話、兄への電話)、仲間との繋がり(パソコン・メール)、文化芸術の火が消える(映画、劇団、ミュージシャン、文学会)の状況が描かれています。

   家族の様子が描かれ、そこが小説らしい。

(3) 文学会の運営・維持、イベントの中止、月刊誌発行継続の苦労など、巣籠もりの中で運動が崩壊するのではないかと弱気に陥る。その時「会員、読者と力を合わせて乗り越えるんだ。君らだけでやるんじゃない」先輩の言葉に背中を押される。

   「国家公務員法改正」と合わせて「検察庁法改正」が審議されることになった(これに先立ち、63才で退官予定だった東京高検検事長の定年延長を「閣議決定」していた。)

これに抗議する、ツイッターで抗議が炎上…集まれない中での新たな抗議行動に触発され、メール交信で抗議文提出を決め、役員会をオンライン会議とする事を決める。

文学会を維持していくために、困難を助け合って乗り切っていく様子なども紹介され、文学を志す者へメッセージを込めていると思いました。

(4) 困難にもめげず、月刊誌を発行、文学会としての声明を出す。

抗議行動も集会から、ツイッターで意思表示する形式に900万件の投稿され、他に直接アピール声明を出す行動が加わって、強行採決阻止に繋がった。

首相の「新たな日常」の押しつけがはじまるが、「現在そのものを描く事に挑まなければならない」と決意する。

「人類は幾度となくこうした危機を乗り越え生き抜いて来た。自分らの過去に謙虚な目を向け、新たな社会を創ることに向かっていけば、平穏な日常を必ず取り戻せるに違いない。」という言葉が、私たちへのメッセージだと思いました。

 

 

 

 

投稿欄

 

 

『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』が面白い

                      松木 新

 

バリー・ユアグロー『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』(2020年5月ignition gallery)は、アメリカの作家バリー・ユアグローが、都市封鎖がつづくニューヨークのクイーンズで、4月5日から5月11日にかけて、〈正気を保つため〉に書いた12本の超短編小説集です。超短編小説というのは、いわゆる掌小説のことで、有名なのはプロレタリア文学時代の壁小説です。

訳者の柴田元幸のもとに送られてきた原稿を、電光石火の力業で翻訳、A6版、44ページのおしゃれな冊子に仕上がっています。

「札幌民主文学通信」259号で紹介した、イタリアの作家パオロ・ジョルダーノ『コロナの時代の僕ら』につづく、この時代の作家の自己主張として貴重です。

3・11では、詩人の和合亮一が、3月16日から5月25日まで、ツイッターで発信しつづけ、『詩の礫』(徳間書店 2011年6月)としてまとめました。〈夜の深さに、闇の広さに、未明の冷たさに耐えていること。私は一生忘れません。明けない夜は無い〉の一節が、心に残っています。

『ボッティチェリ 疫病の時代の寓話』の12の寓話は、それぞれ示唆に富んでいます。寓話のタイトルと最初の一行を紹介します。

 

ボッティチェリ

〈この病のグロテスクな皮肉は、感染した人物が、症状が悪化すればするほど美しくなることだった〉

病を、〈ボッティチェリ〉、〈ラファエロ〉と呼ぶ者もいました。やがて人々は、鏡を見るたびに不安にかられ、すっかりやつれてしまいます。

ちなみにボッティチェリは、1510年に亡くなったイタリア・ルネサンスの代表的な画家です。

 

ピクニック

〈毎晩七時ごろ、すすり泣きが始まる〉

どこの家でも、かつての楽しかったピクニックのビデオを見ていたのです。

政府は、強権でビデオ鑑賞を禁止するのでずが、効果はありません。

 

〈新たな鉛の静けさが街に広がった〉

すべての救急車が汚染され、廃棄されたために、患者の輸送に抜擢されたのが鯨でした。大きな背中に据えた改造ストレッチャーに患った者を乗せて救急病棟に運びます。〈知恵も言葉もない自然が、無責任で無力な、苦しむ人間たちを精いっぱい助けてくれている〉のです。

 

〈とりわけ悲しい眺めは、現在の混迷のなかで影をなくした人の姿だ〉

スモックを着た小さな女の子の影がありません。彼女はひっそりと泣くのですが、そこには無力感と、恐怖と、絶望がこもっています。

 

スプーン

〈まず映画の製作は一時的に中断された。それからプロジェクトが丸ごと破棄された〉

映画の大規模なセットがジャングルのなかに放置され、そこに、地球にやってきたエイリアンが住み着きますが、蚊にたいして免疫を持たなかったために、次々と死んでいきます。銀河間を楽々と行き来するほどの、超先端テクノロジーを有するエイリアンも、蚊には勝てません。

 

猿たち

〈猿たちは檻の中でガラスに変わった〉

動物園に密漁人が一匹の猿を持ってくるのですが、彼の剥き出しの手首も、ガラスになっていました。

 

戸口

〈私たちは都市から脱走したが、川べりの、丘が川のすぐそばまで来ているあたりで、老人が足下をすくわれ、水の流れに運び去られてしまった〉

旅の残りのあいだ、その老人は夢の中で戸口に立っています。

〈廊下の常夜灯に背後から照らされた体は、ヨーロッパの巨匠画家の描いた人物みたいにうっすら光を発して見えた〉のでした。

 

サマーハウス

〈ふたたび命令が下り、今度は彫像が覆われた〉

墓石も、浴室の鏡も、公園の木々も、巨大なカンバス地で覆われていきます。やがて家全体も、覆われてしまいます。

 

風に吹かれて

〈私たちの村は高い丘の上、危害が及ばぬところにある〉

ある晴れた日、災禍に見舞われた都市を見おろしながら、村人は、昔ながらの丘の遊び「雲揚げ」に興じるようになります。

 

岩間の水たまり

〈川底に土塁のように食い込んだ岩が水の上に突き出て、あちこちで岩間に水たまりが出来ている〉

ずっと昔の水たまりで遊ぶ幻の虜になりながら、私たちは来る日も来る日も、水を撥ねながら、とぼとぼと歩き続けます。

 

 

〈私はショートメールを受けとる。「時宜を得たシステム・メインテナンス」により、私は今後一週間、自分の夢にアクセスできなくなるという知らせ〉

夢のない眠り、不毛な畑たる眠り、それは塵芥に近い状態なのです。

 

書く

〈禍々しい突発事態によって、予期せざる期間わがささやかな住まいに閉じ込められたいま、閉じこもりの停滞と不安を打破しようと、この四つの壁の内部の旅行記兼回想録を書こうと私は思い立つ〉

部屋の中にある一つひとつの物にまつわる記憶を辿っていくのですが、いつの間にか、他人の家に入り込んでしまいます。〈この(・・)変質者(・・・)()!〉、〈やめろ! 書くのをやめろ!〉と罵られてしまいます。

 

バリー・ユアグローの作品は、柴田元幸の翻訳で何冊か出版されていますが、一度も読んだことがありませんでした。この機会に、最初の翻訳本である『一人の男が飛行機から飛び降りる』(新潮社 1996年)に目を通して見ました。三百十ページの本に、149本の超短編小説が収録されています。

〈賭けをした男が牛の体内にもぐり込む。もぐり込んでみて、結局そこに居すわることにする〉(牛乳)、〈私は世界で最後の一箱の煙草を持っている。だがマッチがない〉(宿命の女)、〈眠れない。枕の感触が変だ。開けてみると、なかに骨がいっぱい入っている。白い骨で、何か小動物のものと見える〉()、〈一人の男が飛行機から飛び降りる。さめざめと涙を流しながら、男は靴箱いっぱいのラグレターを、風が吹き荒れる空中に投げ捨てる〉(スープの骨)。

もしもこのような夢を見たならば、その日一日は、どのようなものになるでしょうか。想像するだけでも、わくわくしてきます。

 

 

 

山形暁子『軍艦島へ』

力のこもった短編集

               泉 脩               

最最初の「元会長の死んだ夜」が衝撃的である。一九九〇年代の金融再編が進む中、第一勧銀の元会長の鹿島が自殺したのである。永年の総会屋への巨額不正融資が明るみに出て、十人もの逮捕者が出て、元会長にまで捜査の手が伸びようとした時、彼は自殺によってこれ以上の拡大を食い止めたのである。

 物語は、かつて神戸支店で鹿島次長と共に働いていた若い須賀真一の回想で始まる。彼は共産党員であり、定年間近の現在まで、徹底して差別されてきた。神戸から東京に配転になった時、鹿島が送別会を開いてくれて、須賀の信念の固さを褒めて励ましてくれた。その鹿島が会長にまで登りつめ、遂には自殺に追い込まれてしまった。

 この事件の背後にある、政・財・官の銀行リストラ政策、そしてこれを操っているアメリカを須賀が自宅で妻にしみじみと語るのである。

 この作品は都市銀行で働き、あらゆる差別、攻撃とたたかってきた著者ならではの鋭い批判であり、内部告発である。

 続く五篇は、成長した息子と娘、そして孫をめぐる物語と、老後の一人暮らしを送る著者の物語である。どれも切実な内容で、息子は人工透析を受けながらコンビニで働いて自立を目指す。娘は病気がちの二人の子供を育てながら、共稼ぎで必死に働く。そして七〇代になった著者は、共産党員としての活動を続けながら、息子、娘を援助する。

 気になるのは、銀行員として共にたたかってきた夫がどうなったかである。このことが第七作の「別離の後もなお」で、やっと明らかになる。

 著者と等身大の牧村沙絵子が、義理の姉の頼子からの電話を受ける。末期ガンになったので会いたい―とのこと。

 驚いた沙絵子は息子の克己と共に頼子を訪ねる。頼子は二〇年前に離婚した沙絵子の夫・圭介の下の姉で、五年前に圭介が死去した時に沙絵子を呼んで最期の別れをさせてくれた人である。この時から二人は交際を復活させてきた。

 二人は頼子の娘も交えて話合い、この中でかつての大きな出来事を思い返す。

 かつて夫の母が亡くなり、形見分けの時、夫の上の姉、敦子が母と暮らしてきた沙絵子のやり方を非難し、挙句に形見分けの品物をすべて独り占めしてしまった。末っ子の圭介は反発をして、敦子と縁を切る―と宣言する。おとなしい頼子は、何もできなかったのである。

 しかもこの夫の圭介も、沙絵子の退職の日に離婚を申し出てきたのである。理由は書かれていないが、作品解説で「夫の不実」と書かれている。

 敦子も圭介も死去し、残された頼子と沙絵子は、しみじみと過去を思い返すのである。

 頼子は末期ガンであり、沙絵子も八〇歳近い高齢であり、二人はただ感慨にふけるだけである。

 夫婦・きょうだい・身内のいさかいは、人生の付き物である。エゴイズムがむき出しになり、骨肉の争いに発展する。誰しも経験することだろう。

 私の妻は三人きょうだいの末っ子で、両親を永年みてきた。私の母とも同居した。それでいて、いわれのない非難を受け、心身を損なって死去した。何やら沙絵子と似ていて、私はこの物語が胸に迫った

 最後の「軍艦島へ」は、主人公の牧村沙絵子が、長崎のいわゆる軍艦島を観光する話である。気心の知った活動仲間とのツアーだが、このかつての海底炭鉱の廃墟を見るうちに、背後にある重大な問題に気が付いていく。

 それは戦時中の朝鮮人強制労働であり、広島・長崎における朝鮮人の大量被爆と死(全体の六分の一)である。しかも日本政府はこのことを隠し、軍艦島は「日韓併合」(一九一〇)以前の遺跡に限って文化遺産に申請した。

 このようなやり方に反対する韓国や日本人のたたかいも書いている。著者ならではの作品である。

 この本を書いた山形暁子さんは、日本民主主義文学の千葉県下総支部長である。私と著書を交換し、「家族の小路」については書評を書いたことがある。大銀行における女性差別や苛酷な労働を告発し、同時に家庭における困難を描いた、胸にせまる小説だった。

 資本主義の牙城である大企業において、苛酷な労働と思想攻撃、そして女性差別とたたかった作家として、田島一さんと山形暁子さんは双璧だと思う。二人のいわば内部告発ともいうべき多くの作品は、民主主義文学を代表する作品である。

 心から讃辞を送りたい。

 

 

 

私の好きな日本映画⑨

「杉原千畝」

        泉  脩

 

日本人の名誉を救った外交官

 岐阜に生まれ、旧満州国のハルピン学園でロシア語を学んだ杉原千畝(唐沢寿明)は、外務省の外交官になった。昭和十四年リトアニアの領事になり、当時の首都カウナスに領事館を開設した。妻雪子(小雪)と二人の子供と、カウナスで過ごした杉原の任務は、ナチスドイツとソ連が独ソ不可侵条約を結ぶという複雑な国際情勢の元、東ヨーロッパの動向を探ることだった。

 独ソ両国はポーランドを分割し、英仏はドイツに宣戦布告をしたが、冬期間は何の動きもなかった。リトアニアには、ポーランドからのユダヤ人難民が流入し、ソ連のバルト三国併合も迫ってきて、行き場がなくなっていた。

 杉原は領事館に出国ビザを求めるユダヤ人にどう対応するか悩んでいた。シベリア経由で日本に入国し、さらにアメリカを目指すのである。本国に打電すると外務省からは拒否された。

 杉原は妻と相談し、ついにビザ発行を決意し、領事館閉鎖まで二千枚以上のビザを発行した。一家族一枚なので、六千人ものユダヤ人が脱出して命が救われたという。

 ベルリンに移った杉原は、ドイツのソ連攻撃を予知して本国に知らせ、日米開戦に発展しないよう努力した。駐ドイツ日本大使の大島はドイツ支持で日仏伊三国同盟の結成に努め、アメリカとの開戦も止む無しの考えだった。杉原一家はルーマニアに追われ、大戦終結まで活動を禁じられた。

 この映画は、このようなダイナミックな情勢の変化の中、外交官としては異例の努力を描き、彼を支える家族の姿も描いている。杉原の判断は正しく、ドイツが降服し日本も大きな被害を受けて敗北した。

 杉原を理解して協力した人々も出て、特に命を救われたユダヤ人は戦後も杉原を探して助力した。杉原は外務省を追われ、貿易商として生き続け、高齢で死去した後にやっと名誉を回復されている。

 日本は長いアジア・太平洋戦争で他国、特にアジアの人々に大きな被害を与えた。同時に日本も荒廃し、三百万人を超す人々が亡くなった。この中で、杉原千畝の努力は、日本人の名誉を救ったのである。

 映画の終りで、杉原千畝が命を救ったユダヤ人の子孫が、現在では十万人にも達していると述べている。リトアニアとイスラエルには、彼の名をつけた地名が多くあり、記念館も建てられ、彼が発行したビザが大切に展示されている。

 私は彼の妻の思い出の文章を載せた本を読み、心から感動し、救われる思いだった。日本人も捨てたものではないのである。彼の故郷には記念碑が建っているという。

 杉原千畝を演じた唐沢寿明は、彼の真面目な人柄をよく表していると思う。他のいくつかの映画とテレビドラマでも観たことがあるのだが、はっきりと思い出せない。

 妻雪子を演じた小雪は、とても魅力的な女優で「三丁目の夕日」の中で、吉岡秀隆の売れない作家と結婚する酒場の女性で好演していたことを思い出した。

 全体として暗い映画だが、実にしっかりと作られていて、国際色豊かな映画である。世界史 を高校で教えてきて、特に現代史が好きな私に は、何とも興味深い。よく理解できる映画である。

 なお、杉原千畝はスパイだったという理解と批判があるが、外交官は外国の動きを素早くキャッチして本国に知らせるのが、大切な任務なのである。ただ、そのやり方が余りにも、えげつないと国外退去を命じられるのである。東京などは、同盟国日本をしっかりと繋ぎとめようとするアメリカのスパイの巣なのである。

 彼らの一番の仕事は、与党自民党の政治家たちの動きである。少しでも反米的な言動をすると、本国に知らされ報復されてしまう。

 田中角栄首相が、アメリカより先に中国と国交を回復し、日本の利益をはかったために、ひどい仕返しをされて没落した。これは自民党の政治家たちには大きなトラウマになっているのである。

 

 

 

 『北海道民主文学』二十三号の

         編集に係わって㈡

 

              豊村一矢

 

 前号で「高年齢化」状況が気になったことを書いた。今回は「高年齢化」状況についてでも、自分のことを書こうと思う。

 今回の編集の仕事で気力の空回り、記憶力と事務能力の低下が顕著で、そういう自分にイラつくことが多く、妻とこんな会話があった。

私「あのさ、文学会に入らないか?」

  妻「え? どうして?」

  私「この俺の仕事、手伝ってくれ。パソコ

ンだけでいい」

  妻「何言ってんの、このごろヘンだよ」

 

今回の編集での大失敗は、「日本民主主義 『第二三回北海道研究集会』」のページをカットしたことだ。中止が決定したからと、カットしてしまった。間違いだった。なぜなら『北海道民主文学』は、表紙に「日本民主文学会・北海道研究集会作品集」なのである。つまり、日本民主主義文学会が主催する研究集会を成立させるための作品集であり、支部誌・同人誌としてだけでなく、基本の役割をもった冊子だったということだ。

 

第二三回北海道研究集会のページは下書きが私にパソコンに入っていた。日時は一〇月一〇・一一日 会場はいつもの北海道青少年会館コンパス。

会場コンパスとの会場利用契約書もできていた。今年の一月に契約したものである。中止が決まって、コンパスにキャンセルの電話をいれたときの、応対した女性の落胆の声が耳に残っている。コンパスもコロナ禍、厳しい経営を強いられていたのだ。

 

 北海道研究集会のページはカットせず、そのまま載せるべきだった。中止は別ルートで知らせればいい。一年延期の判断も可能だったはず、と今では思っている。

 

 紙幅が尽きた。

札幌民主文学通信

二〇二〇年月一日 261号

 

札幌民主文学会は月一回の例会を中心に活動し、主な内容は「作品合評会」でした。  

ところが新型コロナウルスの感染拡大で、定例の例会は実施不可能になり、三月から四ヶ月、休会となりました。

それでも、「札幌民主文学通信」を毎月発行し、通信紙上で 作品合評を行うなど、 札幌民主文学会の活動を間断なく行ってきました。そして例会は七月から再会されました。 

コロナ禍の経験は今後の支部活動に生かされると確信します。 

 

 

七月例会合評報告

 

合評作品

第十七回民主文学新人賞佳作

中 寛信「病院で掃除のアルバイトをするということ」 (『民主文学』六月号)

 

報告

レポーター 後藤守彦 

 

中寛信「病院で掃除のアルバイトをするということ」(『民主文学』二〇二〇年六月号)について

 

作品に対する皆さんの評価は総じて高かったと思います。構成の面では、描写が印象的な冒頭の地震の場面は生きているのかどうか、議論しました。この緊迫した場面から作品世界にひきこまれていった、との声もあり、生きていたといえましょう。報告者は、この場面がなく

 

とも作品の世界は成立するとも述べたのですが。「役割?自分は一体なにをしたんだ?できたんだ?」と「働くということは、道路上にあいた穴をふさぐことだ」、この二つの言葉の意味についても探りあいました。

 会話の部分・内面描写・地の文が渾然一体となっていることと、です・ます調の二つが作品に優しさ・あたたかさをうみだしている、と報告しましたが、「読みづらかった」という率直な発言もありました。会話の部分はかぎ括弧をつけることが基本ですが、こだわることはない、という意見が大勢を占めました。タイトルの長さの問題についても、同様です。人名のカタカナ表記を含めて、カタカナ用語が多すぎるとの批判は至当でしょう。

 清掃労働を丁寧に描写することと、労働現場での人びととのつながりによる引きこもりからの脱出、という作品のテーマが深く関わっていると思います。清掃労働を詳しく描くことには必然性があります。関連して、ひきこもりで心療内科にも通ったこともある主人公が、病院で働くことの意味を深く理解する必要があるとの指摘がありました。

 報告の「はじめに」で、作家木村友佑の言葉、「目の前で、または見えないところで悲鳴をあげているだれかに寄り添うことが文学ではないのか」(「生きものとして狂うこと」『新潮』二〇一八年八月号)を紹介しましたが、それにあてはまる、いい作品を読むことができました。

                 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

「ペスト」についての藪睨みの感想

              松木  新

 

アルベール・カミュ「ペスト」には、アラブ人(本文ではアラビア人)が一人も登場していません。

書き出しは次の通りです(以下、引用文は新潮社版『世界文学全集』32、宮崎嶺雄訳によります)。

 

〈この記録の主題をなす奇異な事件は、一九四*年、オランに起こった〉

 

オランはアルジェリア第二の美しい海岸都市です。フランスは、1830年以来、132年間、アルジェリアを入植植民地として直接統治していました。フランスをはじめ、スペイン、イタリアなどから白人が移住しました。この結果、オランでは人口の80%をフランス人が占めました。本文では、この時期のオラン〈市は二十万の人口をもっていた〉ので、他にスペイン人の存在を考えると、アラブ人は4万人弱ということになります。

フランス政府は、「原住民身分法」で、移動の自由の制限、無許可の集会の禁止、懲役の拒否を認めないなど、アラブ人を過酷に支配しました。土地の権利の剥奪、イスラム教の文献の没収、図書館や宗教学校を閉鎖して現地の文化を奪い、教育を与えませんでした。アラブ人の識字率は10%と言われています。

アラブ人はフランス人の土地でワインやコルクガシ(コルクの材料)を栽培し、禁酒を戒律とするイスラム教徒であるにもかかわらず、ぶどう酒の製造工場で働かされ、貧しい、惨めな生活を強いられました。

第一次大戦後、フランス工業の需要、荒廃した地方の再建事業のために、アルジェリアからフランスへ大量の移民が向かいました。フランス国家が、植民地労働力の徴募官、輸入業者、周旋人になったのです。

フランスとアルジェリアの関係は、戦前の日本と朝鮮の関係と、本質的には同質でした。それだけに、「ペスト」を読んでいると、この支配・被支配の関係が、どのように作品に反映されているのかが気になります。

以下、本文でアラブ人に関連する箇所を紹介します。

 

☆パリの若い記者レイモン・ランベールが、この作品の語り手であるベルナール・リウーに質問します。

〈パリの大新聞のために、アラビア人の生活条件について回答を求めていて、彼等の衛生状態についてききたいというのである。リウーはそれに対して、その方の状態はよくない、といった〉

 

☆市役所の下級役人ジョセフ・グランが、煙草屋の内儀の話を耳にします。

〈煙草屋の内儀はアルジェで評判になった最近のある逮捕事件について話した。それはある若い商店員が一人のアラビア人を殺した事件であった〉

 

☆リウーとランベールが中央の無料診療所まで一緒に歩いて行きます。

〈二人は黒人街の路地をずっと下って行った〉

 

☆リウーとランベールが小さなバーに行くと、別のテーブルにいた海軍士官がカイロでチフスが流行した時の話をしています。

〈「宿舎があってね」と、彼はいっていた。「つまり土人用の営舎を設けて、患者を収容するテントを作って、そのぐるりにずっと歩哨線を配置してね、家のものがこっそり俗間の薬を持ち込んだりしようとすると、そいつを射撃するんだ。つらい仕事だがね、しかし正しい処置だったよ」〉

 

☆〈これまで、ペストは、町の中心部よりも、人口稠密で住み心地のよくない外部区域の方にずっと多くの犠牲者を出していた〉

 

☆〈しかしながら、時とともに増大する食糧補給の困難の結果として、その他にも種々不安の的となる問題がありえた。投機がその間に介入して来て、通常の市場には欠乏している第一級の必需品などがまるで作り話みたいな値で売られていた。貧しい家庭はそこできわめて苦しい事情に陥っていたが一方富裕な家庭は、ほとんど何ひとつ不自由することはなかった〉

 

オラン市のペストは、一九四*年四月十六日に発生し、翌年の一月二十五日に終息しました。この間、アラブ人がどのような状態にあったのかは、本書では言及されていませんが、引用した文章からは、次のように推測できます。

ペストが誰に対しても〝公平〟であることは、本書でも次のように描かれています。

〈この市の牢獄において、看守たちも囚人に劣らず、病疫に対する年貢を納めたということである。ペストという一段高い見地からすれば、所長から最も軽微な拘禁者に至るまで、すべての者が逃れぬ運命を宣告された人間であり、そして恐らく初めて、完全無欠の正義が牢獄内に行われたのである〉

それだけにペストは、格差社会の暗部を明るみに出しました。

アラブ人は、郊外の黒人街に住んでおり、そこは人口が稠密で、衛生状態も貧弱、貧しい家庭が多く、食糧補給の困難の直撃を受けていました。そのために、白人地域よりも多くの犠牲者をだしました。

今度の新型コロナウイルスでも、人種間の格差が報じられています。

ヨーロッパで最大の死者数を出しているイギリスでは、全国統計局が、黒人は白人に比べて死亡率が1・9倍(バングラデシュ、パキスタン系は1・8倍)に上がるとの数値を発表しました。

このような差別が公然とまかり通っていたのは、アラブ人を〈土人〉と蔑視する植民地史観に、白人たちが根こそぎ絡め取られていたからでしょう。

カミュの父親は、フランスのアルザスから植民地へ出稼ぎにきた農夫でした。いわゆるコロンです。カミュは、アルジェリアのコンスタンチーヌ県モンドビィという小さな農村で、一九一三年に生まれました。「ペスト」は、三十二歳のときの作品です。

アルジェリアでは、1931年以降、対フランス独立闘争がたたかわれました。カミュが「ペスト」を書いた45年には、反フランスデモで、1万5000人が虐殺されました。フランスが派遣した外人部隊を含めた軍隊200万人を相手に、民族解放戦線(FLN)が指導した独立戦争が、54年から8年間にわたってたたかわれ、62年ついに独立を勝ち取りました。

66年に製作されたイタリアとアルジェリアの合作映画《アルジェの戦い》は、ドキュメンタリータッチで独立闘争を描き、ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞しました。このときフランス側は上映中止を要請しました。この映画を観たときの衝撃は、今でも忘れられません。

なお、アルジェリアの独立について、カミュは植民地の現実に同情しつつも、折衷的な立場をとったために、〈裏切り者〉と批判されました。

 

〈彼の失墜を引き起こすのには一つの言葉で十分だった。一九五七年一二月、ノーベル文学賞の受賞の後、ストックホルムで行われた会議で、一アルジェリア人学生がほとんど無理やり引き出したわずか数語であった。「私は正義を信じる。しかし正義以前に私は私の母を守るだろう」。不確実性と困惑に襲われていた一知識人から出た告白に過ぎなかったものが、しばしば歪曲されて左翼の抗議を引き起こした。「裏切り者」カミュは、フランスのアルジェリアを支持する陣営に最終的に与するだろう。彼は再び孤独に陥るだろう。一九六〇年一月四日、彼は交通事故で死去する。カミュに反対して立ち上がったのは、ジャン=ポール・サルトルだった〉(バンジャマン・ストラ『アルジェリアの歴史 フランス植民地支配・独立戦争・脱植民地化』)

 

 

 

 私の好きな日本映画⑦

『沈まぬ太陽』 

              泉  脩

 

日航とたたかう不屈の男

 日航(映画では国民航空)の組合委員、恩地元(おんちはじめ)の不屈のたたかいを、日航ジャンボ機墜落事件と併行して描いている。ほとんど実話に基づいているだけに、とても迫力がある。原作は山崎豊子の大作。

 政府系の国民航空は、労働条件が悪く年末手当などをめぐって大闘争になる。ついに労使交渉は決裂し、組合はストライキを宣言する。総理の帰国の日になるので、会社側は慌てて譲歩し、組合は勝利する。

 恩地(渡辺謙)は報復でパキスタンのカラチに転勤になり、イランのテヘラン、ケニアのナイロビと十年もの間、海外でたらい回しになる。

 経営側は組合分裂をはかり、新組合が過半数を占める。恩地と組んだ副委員長の行天(三浦友和)は抱き込まれ、書記長らはひどい配置転換にあう。

 恩地は妻りつ子(鈴木京香)と二人の子供と共に灼熱のカラチ・テヘランで過ごし、ナイロビには単身赴任する。行天は恩地に詫び証文を書かせようとするが、恩地は拒否し、きびしい日々を耐え抜く。退職をせずに抵抗を続けるのである。

 彼がやっと日本に戻ってきた時、ジャンボ機墜落事件が起き、五百名を超す犠牲者が出る。恩地は遺族の世話係を命じられ、日夜献身的に努力する。行天はこの事件を自分の出世のチャンスと利用して、常務になる。

 総理は国民航空の体質改善のため、関西の企業経営で実績をあげた新会長を任命し、彼は恩地を身近に招いて、次々と改革に乗り出す。私利をむさぼってきた経営者は抵抗するが、旧悪が暴露されていく。

 国会での追及で、総理自身の不正が追及されるに至って、新会長は辞任を迫られ、恩地はふたたびナイロビに追われてしまう。しかし行天も、元書記長の命をかけた告発で逮捕される。

 こうして映画は終るが日航はその後、経営破綻し、かろうじて生き残っている。その中で少数派の第一組合は排除され、恩地も定年退職をナイロビで迎える。

 原作者の山崎豊子は、怒りを込めて不正を告発し、恩地の屈せぬたたかいを称え、日航の行く末を案じている。彼女は日本だけでなく、アメリカ・旧ソ連・中国などの大国の不正をきびしく告発し、もっとも注目すべき作家として生涯を閉じた。根本には、戦争で婚約者を失った悲しみと怒りがあり、戦争には生涯反対した。

 私はこういった山崎豊子が好きで、彼女のほぼ全作品を読んできた。「不毛地帯」「大地の子」そして、この「沈まぬ太陽」は、特にすぐれた作品だと思う。彼女の勇気と努力に心から敬意を表したい。

 実在の人物、恩地は今どうしているだろうか。不屈の恩地を演じた渡辺謙は、はまり役だと思う。夫を信じ愛し抜いた妻を演じる鈴木京香もいい。仲間を裏切って出世の道を選んだ三浦友和は、こんな汚れ役は似合わない。自分の芸域を拡げようとしたのか、それとも原作が気に入って損な役目を引き受けたのか。行天の愛人、美樹を演じた松雪泰子もいい。

 総理の使い走りとして、新会長に働きかけた龍崎は、山崎豊子の作品「不毛地帯」でも壱岐正として登場し、ヒーローだった。軍人時代の人間関係を使って、商社マンとして大成功する男である。シベリア抑留などの苛酷な体験から冷めたところがあって、難局を冷静な判断で切り抜けたのである。

 しかし、今度は私利私欲の塊のような政治家たちに利用される。愚かしい役割である。

事実のようであり、がっかりである。山崎豊子の人を見抜く力は恐ろしい。

 誠実な人間が報われず、しかし私欲に走る人間も没落するという実にシリアス(冷徹)な物語である。

 日航は、放漫経営がたたって財政破綻をした。そして、事実上の国家管理になり救われたのである。

 

 

 

 北の国から来た猫第一〇章

              後藤守彦

 

昨年のビッグニュースから、始めよう。あくまでも、猫好きのわたしにとってであるが。一〇月二五日、現存天守が日本で最も高い位置にある、岡山県高梁市の「天空の要塞」備中松山城で、城主となっているオス猫三十郎に会うことができた。訪れる前は知らなかったが、大変有名な猫だった。茶トラの三十郎は一昨年の西日本豪雨の際、三の丸で保護された。その後、野良猫ではなく、飼い猫だったのがわかったが、城主としてお城で飼うことになった。そうした経緯を、猫を取り囲んで大騒ぎしている集団の一人から聞いて知ったというわけである。私は三十郎を撫でる姿を同行した妻に撮ってもらった。正直嬉しかった。帰宅後、インターネットで調べたら、三十郎の動画まであった。

 次は我が飼い猫ミーコの脱走の話。家の中に閉じ込めてばかりでは可哀想なので、冬季間を除いて、長さ三メートル程のリードに繋ぎ、庭で遊ばせている。しかし、束縛を嫌って、隙をついて脱走する。八時間近く帰ってこなかった時もあった。可哀想に思い、時々態と脱走させもした。うっかりして逃げられてしまったと演技して。しかし、最近は、戻ってこないのではないかというより、戻りたくても戻れなくなるのでないかと、心配し逃げられないよう細心の注意を払っている。なにしろミーコは老いたのだから。

私も老いた。ミーコは一六歳、人間に換算すると八〇歳となり、野良猫と較べるとかなり長い、飼い猫の平均寿命を越えている。民生委員として私が毎月訪問している、猫を複数飼っている女性については、四年前の「北の国から来た猫第六章」で一度ふれているが、サクラが二一歳で亡くなり、今はアンズのみである。時々独身の息子が飼っている猫をあずかり、一時期世話する猫が増える時もあるのだが。このアンズは我が飼い猫と同年齢で、種類も同じキジトラである。アンズもミーコもいつ死を迎えてもおかしくない。

 ところで、ミーコが喜んで抱かれるのは、家族の中で私にだけである。抱かれて気分がよくなり喉を鳴らす。この行動を、作家の沼田まほかるは、作中人物に命名させている。

 

モンはいつも腑抜けた様子でいたが、そのうちに半眼になってグルグルグルと喉を鳴らしはじめた。猫のこういうのを何と言うか知らないが、藤治は勝手に〈猫鳴り〉と呼んでいる。(『猫鳴り』双葉社、二〇〇七年)

 

『猫鳴り』では、二〇歳になった老猫モンの最期が、老いた飼い主藤治の目を通して実に細やかに描かれている。猫の看取りをこれほど丁寧に心をこめて書いている作品を他に知らない。モンは厳かに死を受け入れつつ、精一杯生きようとする。藤治はモンを見守りながら、「こいつはまるで、俺に手本を示しているみたいじゃないか。そう遠くない日に、俺自身が行かなきゃなんない道を、自分が先に楽々と歩いて俺に見せているみたいだ。なるほど、こいつの様子を見ているかぎりでは、死ぬというのもそれほど恐ろしいものではないのかもしれないな」としみじみと思う。

 傷ついた人間に寄り添う猫と猫に癒され生かされる人間を描いた唯川恵の短編集『みちづれの猫』(集英社、二〇一九年)にも、猫の看取りの場面が出てくる。七編の最初の「ミャアの通り道」に。冬の庭先に入り込んできた子猫。飼うのは駄目だ、と言った父親も、泣いて「飼いたい」と懇願する子どもたち三人に負ける。子猫はミャアと言う名を貰い、家族の一員となる。その子どもたちも独立して実家にもなかなか寄り付かない。ミャアが旅立ちそうとの知らせを受け、子どもたち三人は実家に帰り、ミャアとずっと暮らしてきた両親とともに、ミャアを看取る。最後に、父から始まって順に家族一人ひとりを見たミャアの目は、「どこまでも深い海のようでもあった。その時が来た、と誰もが思ったはずである。ミャアは残された力を振り絞って、私たちに別れを告げているのだ」。ミャアは静かに目を閉じる。ミャアが家に来た時は子どもたちが泣いたのに、今度は真っ先に父親が嗚咽したのであった。

 猫の生涯保障事業を始め、多くの猫を看取ってきた南里秀子は、延命治療せず自然死を選ぶ。そして、「猫たちは子猫のときも、成猫のときも、老猫になっても、いつも「今」に生きています。こだわらない、とらわれない、かたよらない。この極意、私たち人間が苦労して学ぶことを彼らはごく自然にやっているのです」と語る(『猫の学校②老猫専科』ポプラ新書、二〇一八年)

 看取りの次は弔いだろう。弔いの場である、猫専門の動物霊園を舞台にしているのが、野中柊『猫をおくる』(新潮社、二〇一九年)である。その動物霊園は、沢山の猫が集まることから猫寺といわれている寺の境内にある。若き住職の真道が開設したのだが、猫だけでなく人も引き寄せられてくる。私立女子高の物理の教師を辞め、亡くなった猫を炉で焼く仕事に就いた藤井、愛猫を看取った後、この動物霊園の事務員となる瑞季など、皆、大切な人との別離という悲しみを抱えている。彼らの孤独に猫が寄り添う。非現実的かもしれないが、死んでからも。登場する猫では、片目で白鯖のヨーヨーがいい。人間だけでなく他の猫との間にも距離をおくヨーヨーが慕う飼い主は、母と暮らす女性で、夫を亡くし子もいない。彼女は入退院を繰り返した末、命を落とす。この六章からなる小説は、猫と一緒に生き、猫に生かされてきた男と女の物語で、読み手を癒してくれる。

『北海道新聞』に載った詩人和合亮一の、「このエッセイ集を読み、物を書くことのとらえがたさとかけがえのなさ、そして様々な猫の姿を思い描いた」と書き始められている書評に触発されて、早速購入したのが、精神科医でもある春日武彦の『猫と偶然』(作品社、二〇一九年)である。帯封に記されているコピーは、「「春日武彦」の姿を借りて、猫が書いたとしか思えません」だったが、正直褒めすぎだと思った。ただ、最初に飼った猫を喪い、今二匹目を飼っている著者が、猫と共にある時をかけがえのないものと思っていることは伝わってきた。また、猫が登場する文学作品の紹介などから、著者の読書量の豊かさを知った。紹介された作品で、読んでみたいと思ったのが、アメリカの作家ハーバート・リーバーマンの『地下道』(角川文庫、一九七四年)である。私が共感した、リーバーマンの言葉を一つ引用する。

 

いささか大げさに述べるなら、猫にはどこかしら永遠性みたいな雰囲気がまとわりついている。猫の尊大さもきまぐれさも、永遠性とペアになっているからこそわたしたちはそれを魅力と感じているのではないだろうか。

 

 「北の国から来た猫第九章」で、愛猫家の作家として取り上げた保坂和志の最新作が『読書実録』(河出書房新社、二〇一九年)である。猫をテーマとした小説ではないが、次のような記述があった。

 

   猫は犬のように働かないが人は猫に見返りを求めず尽くす、仏と同じだ、猫も仏のように御利益がある、それは猫に尽くせばわかる。(中略)人は猫に尽くすうちに良くなる。仏にも人にも尽くすうちに自分が良くなる、それこそが何よりの御利益ではないか。

 

さて、私は御利益を感ずるほど、猫に尽くしているだろうか。

 一〇章をここで閉じようとしたのだが、看取り・弔いの後に始まるかもしれないペットロスに、実際に苦しんでいる横尾忠則の画集『タマ、帰っておいで』(講談社、二〇二〇年)が出たので、それにも一言。捨て猫から飼い猫となったタマとの一五年間は、横尾にとって至福の時であった。今もタマの絵を描き続けている。横尾は述懐する。

 

   猫の自己に忠実なわがままさは芸術家の学ぶべき姿勢だ。ぼくはその猫の姿勢に学んでとうとう猫背と喘息になった。しかし、猫の眠りはおそらく無意識界を意識界より重視しているに違いない。絵こそ描かないが、常に創造の源流を彷徨っていることだけは確かだろう。

 

 毎回エンドレスのように書いてしまうなあ。

 

 

 

後藤守彦「北の国から来た猫」

変幻自在のエッセー集

 

               泉  脩

 

二〇一一年からの十年間に、「札幌民主文学会の通信」(月刊)に載せたエッセー、約百篇の中から三十八篇を選んだ。多種多様な内容で、とてもおもしろい。

まず猫についての八篇、かねてから愛猫家と知っていたが、これ程とは思わなかった。最初は、富良野の知人からもらってきたメス猫の話で、ミーコと名付けた子猫である。ミーコは著者に懐き、著者の妻と娘には懐かない。メス猫だからかな―と書いているが、私は違うと思う。女性は猫の毛が付くのを嫌がって、あまり猫を抱かない。ところが男は猫の毛を気にしないで抱くので、服に匂いが付いて猫は安心して近づくのだと思う。実は私も猫好きで、高校の頃まで猫に懐かれたことがある。いつも抱いていたのだ。

動物は嗅覚が鋭敏で犬などは人間の数百倍も敏感だという。猫もそうなのだ。

著者は本屋に並ぶ猫本について、詳しく紹介している。小説家の大仏次郎や内田百閒など、多くの有名人の熱愛ぶりを紹介していて、実に興味深い。そして、最近、ついに世界の飼い猫の総数が犬を上回ったという。どう調べたのだろうか?

著者は「猫は孤独な自由主義者だ」と主張しているが、確かに犬よりはクールであり、死ぬときは忽然と姿を隠してしまう。

徹底して飼い主に従い、懐き、死ぬときも最後まで世話をしてもらう犬とは大違いである。

私は犬を飼ったことがないが、猫があぐらの中に入ってきたり、ふとんの中に潜りこんでくるので大好きだった。

猫の次は音楽である。クラシックが中心だが、中島みゆきや外国のポピュラー歌手にも話が拡がって、とてもおもしろい。札響の客演指揮者エリシュカ(チェコ)についてのエッセーには全面的に同感である。コマーシャリズムに毒されていない、実に純粋な指揮者である。カラヤンとは大違いである。

マリア・カラスの伝記映画についても、私は見逃していただけに惹き込まれた。

「天から降ってくるような声」とは、まさにピッタリである。私も何度もマリア・カラスについて書いてきたので、よくわかるのである。もっとも、体重が百キロ以上あった彼女が激やせしたのは回虫のせいだ―という夫の証言もあるのだが。

この後、旅・文学・歴史と続くのだが、どれもこれも興味深い。私もまったく同じような探求をしてきた。ただ私とは内容が違っていて、著者の探求の方がずっと深い。特に朝鮮をめぐる探求は足元にも及ばない。著者のこだわりは、おそらく日本では指折りだろう。何度も朝鮮(韓国)に旅行して研究し、朝鮮語をマスターして翻訳までしているのである。著書もある。このような情熱の源は何処にあるのだろうか。

日本の自公政権への批判も鋭く、それも実践的である。北広島九条の会の事務局員として、講演に宣伝・抗議行動に、裁判闘争にまで身を挺してがんばってきた。最近は民生委員を引き受けているので、びっくりする。

私は私学労働運動のリーダーを二〇年続け、退職後は地域の日本共産党後援会のリーダーを十三年引き受けた。そして、これらと併行して文学活動を七十年続けてきた。だから、活動家としては著者より長いかも知れないが、歴史学者としての造詣の深さでは到底及ばない。

二人とも大学の文学部史学科で学び、高校の歴史の教師を勤め、そして、革新運動にも打ち込んできた。猫好き、音楽好きも同じである。文学も。

しかし、後藤守彦さんは私より若い。頼もしい後輩であり、間もなく引退せざるを得ない私の分までがんばってほしい。

 

 

 

 

アイヌの神謡につながる大きな物語

 

              松木 新

 

馳星周『少年と犬』(文藝春秋)が、第163回直木賞を受賞しました。彼の父親とは若い頃一緒に仕事をしていたので、喜びが込み上げてきました。

東日本大震災で生き別れた大好きな光(ひかる)少年を尋ねて、五年の間、釜石から熊本までを歩き続けた、多聞(たもん)という名の犬の物語です。

多聞が出会った人々のなかには、無法者や娼婦などもいますが、彼らを描く作者の筆は、やさしさに包まれています。多聞と過ごしたわずかな日々のなかで、彼らは来し方を振り返り、これまでとは違った生き方を模索します。

無農薬野菜の栽培に従事する女性や、釜石から熊本に移住して自然農法にこだわった米作りをしている光の両親など、作者がこの国の農業のあるべき姿を描いていることにも好感を持つことができました。 

再会した多聞と光が明るさの中心にいるくだりを読んでいると、不覚にも涙がにじんできました。〈人の心を理解し、人に寄り添ってくれる。こんな動物は他にはいない〉という老いた猟師のことばを、しみじみと実感できました。

この小説はまた、アイヌの生活をあたたかく見守るフクロウやオオカミ、カワウソなどの神   を語り伝える神謡に通底する、大きな物語といってよいでしょう。

馳作品については、デビュー作『不夜城』で受けた衝撃に圧倒された思いが強く、『雪炎』にみられる反原発の主張も心に残っています。

それにしても、最近の直木賞には力作が目立ちます。第162回が、樺太アイヌを描いた川越宗一『熱源』、第160回が、瀬長亀次郎を 

〈チェ・ゲバラとマルクスと孫文を足してもその価値を語り切れない〉人物として描いた真藤順丈『宝島』などです。当分の間、直木賞から目を離せません。

(「ほっかい新報」8月2日付)

 

 

 

『北海道民主文学』二十三号の

         編集に係わって

 

              豊村一矢

 

不躾だが、「札幌民主文学通信」121号の記事の転載から始めたい。

 

「抜山蓋世」と揮毫した

佐藤静夫さんの死を悼む  

福山瑛子

 

五月八日の新聞で私は佐藤静夫さんの死を知り、愕然とした。札幌に移り住む三日前に訪ねた時、これが最後になるかもしれないなと思ったが、現実になってしまった。

     佐藤さんのトーマス・マンの話に刺 

激を受け、「魔の山」や「ブッテンブロ 

ーク家の人びと」を読んだのはもう二

十年近く前のことだ。埼玉県西部支部 

で事務局を担当していた私は、一九九

二年に支部誌「さいたま」の再刊一号

出すに当たり、同じ所沢に住む佐藤

さんに原稿をお願いした。佐藤さんは

快諾され、それから八回にわたり「芥

川龍之介論―近代文学の見通しのひ 

とつとして―」を書いてくださった。私は佐藤さんの手書き原稿をワープロで活字にした。原稿は大抵、佐藤さん指定の喫茶店で受け取ったが、ある時、レストラン「花の館」を指定されたことがあった。佐藤さんは店にキープしていたワインをご馳走してくださった。そのとき、私は初恋の人、Kを話題にした。Kは敗戦直後、新日本文学会の事務局で佐藤さんと一緒に働いていたことがあり、旧知の仲だった。佐藤さんは「彼とは一緒に泊りがけで仕事をしたこともあるよ。彼は才能のある男だったが、佐多稲子に傾倒していてねぇ……」と話していた。

     当時、佐藤さんは文学同盟(当時)の副議長だったが、そんな肩書きを感じさせず、支部の例会や忘年会に数回、出席してくださった。忘れられないのは、小手指町公民館の市民講座で「近代文学」について話された時のことだ。佐藤さんは敗戦直後、雑誌「新生」の編集長をしていた時、井伏鱒二、広津和郎、永井荷風らと親しく接していたエピソードをまじえ、彼らの作品や作家の個性に触れる話を展開した。とてもおもしろく、初めて知ることが多かった。私の隣に座った主婦は「こんなに蘊蓄が深い話をなさる文芸評論家が同じ町に住んでいるなんて…」と感激の面持ちで話していた。

     佐藤さんは常日頃、「民主文学だけ

でちいさく固まっていては駄目だ。所 

沢には文化人が多い。彼らとつながっ

ていくように」と言われ、自ら所沢文

化懇話会のような組織をつくろうと 

なさり、準備会を豆腐専門の料理屋で  

開いたことがある。私もその席つらな

ったお陰で彫刻家や劇団員など文学

以外の人々とも知り合えた。

     八十歳を過ぎてからは時々呼び出しがかかった。私は五分とかからず佐藤宅へ自転車を飛ばした。夫人は夫を「モグちゃん」とあだ名で呼んでいた。夫人が羊羹と玉露茶でもてなしてくださったこともある。大抵書庫のある二階の書斎だったが、最後に伺った時はベッドを置いた一階の部屋で話をした。

     夫人からは五月下旬、佐藤さんの最 

期の様子を綴った分厚いお手紙をい  

ただいた。妻の愛に包まれた幸せな最 

期だったことが分かった。通夜には夫

人の計らいでベートーヴェンのピア

ノ協奏曲第五番「皇帝」が、告別式に 

は同「荘厳ミサ曲」とピアノソナタ「熱

情」が流されたそうだ。

     私の手元には、数冊の著書と佐藤さ

ん揮毫の色紙がある。色紙には「抜山

蓋世」とあり、私は「高い気概をもて」

との励ましの言葉と受け取ってきた。

二年前に上梓された「八月からの里程

標」を読み始めると、佐藤さんの声が

聞こえるような気がした。

 

 通信121号は2008年7月5日の発行で、記事は福山さんのこの原稿だけ他はなにもない。そして、私が通信担当になっての第一号でもあった。 

その時は、通信が120号で途絶えて二年、そこへ何も知らない私が支部に入ってきたわけだ。総会で「好きなようにやっていいから」と通信担当をやれというのも無茶だが、引き受けた私も調子に乗りすぎていた。ガリ版で学級通信を出すくらいのイメージだった。

横道に逸れたので話を戻します。

「北海道民主文学」二十三号の編集に係わって、何を思ったか。一口で言えば「高年齢化」ということになると思う。

数字的に解りやすいのは、執筆者数の激減である。私は「北海道民主文学」を十七号からしか持っていないが、前号(二十二号)までの六冊の執筆者数は、基本、常に三十名を超えている。ところが今回の二十三号は語呂合わせではないが二十三名だった。一挙に三割減になってしまった。

 編集過程で作品提出予定者と必要に迫られて連絡を取り合うことが多かったが、「書くのに時間がかかるようになった」「できていたパソコン操作ができなくなった」といった集中力と気力の維持の困難を訴える方が増えた気がする。そんな中での執筆者数減なのだ。

 それから、私を含めてのことだが、これもある意味、「高年齢化」現象でないかと思うものに自作品・創作への個々人の拘りが強くなった気がする。

例えば、「これだけは作品として残しておきたい」とか、「集大成といえる作品を書きたい」「特定の読者を意識した作品」とかである。納得のいく作品になることを願わずにいられなかった。

最後に「北海道研究集会」に触れたい。

「北海道研究集会」は道内文学会支部が輪番で担当してきたものだ。私は、担当支部によって企画された集会としては、いぶり・ひだか支部の虎杖浜大会(二〇一〇年、講師・田島一)と小樽大会(二〇一二年、講師・北村隆志)しか参加していない。その後は、担当支部が単独で北海道研究集会を主催するのは困難な状況になり、実行委員会方式をとり、現在のように札幌の会場で行うようになった。道内のいくつかの文学会支部が事実上活動ゼロになってしまったのも「高年齢化」の影響であることは間違いない。

 

 ここで文章を閉じたら、冒頭の福山さんの記事転載は何だ、と言われかねない。だが申し訳ないが、私は明確な説明ができない。二十三号編集の最終段階で、福山さんの文学会退会を『民主文学』八月号で知った。

そのショックが引き金だろうが、説明出来なくても、無意味な転載でないと思っている。

 

 

 

 

誤記の訂正

               泉  脩

 

 

 「札幌民主文学通信」二六〇号「六月例会合評紙上報告」の記事の中で、「発言1 泉脩」で、「孤高の人」の登場人物及び泉脩の勤務する高校を「市立男子高校」と記述しました。正しくは「私立男子高校」ですので訂正させていただきます。

 

札幌民主文学通信

 

二〇二〇年月一日 260号

 

 

 

 

 

六月例会合評紙上報告

 

 

 

      

 

 合評作品

 

   第十七回 民主文学新人賞受賞作

 

    宮腰信久「孤高の人」

 

(『民主文学』六月号)

 

 

 

 

 

 

 

レポート           

 

豊村一矢

 

 

 

課題の『読書感想文』提出のつもりで

 

 私が元教員でなかったら、余計な思いに囚われず面白く読めたかも知れない。

 

 

 

加納義一郎。信念と情熱をもって生徒と向き合う私立男子高校の教師だが、出席数・成績共に不足の生徒を退学から救えなかった失敗から自己嫌悪に陥り、酒で生活が乱れ、最後は、あるまじき失態により自ら退職する。潔く責任をとり、故郷に戻ってもなお私塾を開いて子供と向き合いつづけ生涯を終える。小気味良い。学校や生徒を取り巻く状況を批判的に達観しつつ我が道を行く。一匹狼の強さと弱さが交差して美しい。

 

 

 

 しかし、私は前述のようには読めなかった。

 

 なぜか。作品では……。

 

加納義一郎は、生徒には慈愛の精神で全身全霊を傾け、教育理念を曲げない孤高の教師である。舞台中央の「孤高の人」をスポットが照らし出している。やや照度は落ちるが、周囲、あるいは背後にいる児童・生徒・子ども、教師、学校関係者、教育関係者、地域の老若男女が光彩を放っている。物語が展開する。直ぐに加納は『孤高の人』ではなく『独り善がりの人』だと見えてくる。

 

私は、加納の言動にほとんど共感できなかった。むしろ怒りを覚えることが多かった。

 

 

 

作品は、加納の「独り善がり」「自己中心」の言動で溢れているが、このレポートでは紙幅の都合もあって致命的なものだけとり挙げる。

 

加納は「今を豊かにするために学ぶ」と生徒を説諭し、受験競争に勝ちぬく・あるいはいい会社に就職するために学ぶことを否定する。

 

だが現実の生徒の目標や夢は多様で、プロのスポーツ選手、アイドル・起業する、有名大学で学ぶ、料理人になることなど様々だ。どれも正当で健康だ。生徒の人生は生徒のものだ。すくなくても進路指導は、これらのことを大前提にすべきだが、加納はそうでない。

 

教師と生徒は指導・被指導の関係だ。いかに慈悲に溢れた物腰であっても、(いかに主観としては子供ためと思っていても)加納の説教は権力行使の性質を多少とも帯びている。自分の信念(独善)だけで説教することは許されない。これは教師の資質・資格の問題だ。

 

 

 

致命的なことをもう一つ。

 

酒に酔って、学習合宿の深夜、就寝中の生徒を起こし説教をたれる場面、その顛末には唖然とした。酔って生徒に説教した時点で、教師として完全にアウトなのだ。

 

それなのに、作品では、同僚たちが加納を弁護をしたり、組合の力で守ろうとする展開になっていく。

 

これは世間の常識とかけ離れた馴れ合いでしかない。この視点が作品にはまったくない。

 

加納の深夜の泥酔説教事件は教師や教育関係者、教職員組合への不信感を増大させるが、作品には、やはりその認識ない。

 

加納義一郎が創作上の人物でよかった。

 

 

 

 

 

 

 

発言1            泉 脩

 

 

 

生徒を長い目で見る

 

主人公横山俊彦が市立男子高校新人教師だった頃、自分のクラスのつっぱり生徒をもてあましていた時、十二歳上の加納が助けてくれた。生徒を長い目で見ることを教えてくれたのである。

 

その加納が十年後、自分のクラスの生徒の琉留級=退学から荒れ出し、酒乱になり、ついに退職する。そして生れ故郷の秋田に帰り、落ちこぼれ生徒を相手にする塾を開き、八十七歳まで続けて死去する。その通知を受けた横山が、過去を振り返る物語である。

 

とてもよく書けていて心から感銘を受けた。市立の三流の男子高校、私が教師として三十五年勤めた札幌第一高校と同じである。もっとも途中から共学になり、今では一流の「進学校」になっているが。

 

 生徒の要求と教師の要求が合致した時、生徒が変わり、クラスも生まれ変わる。これが横山が加納から学んだことである。私も悪戦苦闘の末に、このことを知った。教育の条理である。

 

 ところが加納自身が失敗し、はては酒乱になってしまう。

 

 このいきさつがよく書かれ、説得力がある。私も同じような失敗と成功をしてきただけに、手に取るように理解できる。ただ、私は酒を飲まないので、酒乱になるいきさつが理解できない。私は文学、音楽、囲碁で紛らわしたが、加納の失敗は情けない。

 

「生徒を長い目でみること」、「生徒の要求を理解し、援助の手をのばすこと」、これはすべての教師に必要な真理であると思う。

 

 

 

 加納が生涯、独身だったこともわからない。

 

理由が書かれていないが不自然である。家庭の支えは、やはり教師には必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言2             石川節子

 

 

 

「孤高の人」を読んで

 

理想の教師像の維持を願いながら、展開する先輩後輩の教諭たちの物語は、私の心を熱くさせます。

 

しかし、この作者は「酒」という物に対するものの考え方が「寛容過ぎる」のではないでしょうか。もっと、もっと、酒によって失態を繰り広げてしまう、そのむなしさを大きく獲り扱ってほしかった。

 

「優秀な先輩教師」のはずの、このていたらくに対して、もっと激しい怒りをぶちまけるべきではないのか……。

 

 この小説全体の配分量をもっと「酒をやめさせるための試行錯誤のやりとりに当てて欲しかった。苦労して理想の教師像を得たところで、苦労するから酒で紛らそうものなら、直ちに「ダメ人間に成り下がるのです。所詮「深酒はきちがい水」に過ぎず、良薬には成り得ないのです。

 

結局は、辞めてしまうのですが、組合でかばう事よりも、「依存症治療」のための葛藤の場面を扱って欲しかったと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

発言3           室崎和佳子

 

 

 

 「孤高の人」を読んで

 

  孤高の人(本人も一匹狼だと自覚している)であるがゆえに、自分の悩みを誰かに相談することなく、酒に救いを求めた(酒を飲むしかなかった)のだろうと思われる。それを考えるとやりきれない気持ちになる。

 

  P38下段6行目から12行目のような心境になるほどに悩んだ加納の純粋さに心打たれる。高校は義務教育ではないので、退学、という罰によって断罪する。この断罪によって人生は大きく変わることだろう。人生を左右することが、いとも簡単に行われている(加納流に言うと、いつの間にかそれに痛みを感じなくなってしまう)ことへの教師としての罪の意識が、彼を退職へと向かわせたように思う。

 

  その加納が、退職後、死の間際まで、子供達の教育(成長)に関わる生き方(勉強が楽しく思えるような塾)をしていたことに感動を覚える。(P42下段3行目から7行目)それほどまでに、子供を育てることが好きだったのか、という驚きにも似た感動であった。

 

  卒業した教え子(児島)が訪ねて来た場面が良かった(P40上段8行目からP41上段5行目)。加納がいかに慕われていたかが分かるし、子供を長い目で見ることの大切さがよく分かる。小島との再会は、新卒時代に苦労した横山俊彦にとっても嬉しい再会であったに違いない。

 

  良心的な高校教師の苦悩(加納の苦悩)が随所に表現されている。「どんな子供でも、長い目で見る、というのが僕の信条だったはずだ。それなのに吉川に対しては、僕はいつの間にか、その信条を忘れてしまっていた。その結果、吉川の心の中に、僕に対する恨みを刻み込んでしまったんだ。生徒にそんな思いをさせるなんて、僕は自分で自分が許せないんだよ」「やめさせざるを得なかった生徒たちの顔が、思い出されるんだ。教育というのは残酷だね。たくさんの犠牲者を作り出しながら、平然と毎日が流れて行く。いつの間にか……」など。

 

 

 

 

 

 

 

 発言4            木村玲子

 

 

 

 とても良い作品と思う。安定した内容と構成で、違和感なく惹き付けられて読んだ。私自身の私立高校勤務時代と重なるところも多く、時折胸が痛み、共感させられながら。

 

 人が何と言おうと、信念を曲げない「孤高の人」加納先生を、後輩の横山俊彦の立場から見つめている作品で、教師は体育教師の山田と主に三人に描き分けられ、生徒も児島、吉川、小杉と絞られて展開している。児島、吉川の二人の生徒のタイプは印象深いが、加納が酒におぼれるきっかけになった、救えなかった生徒の小杉についてはやや印象が弱い様に思う。

 

 「どんな生徒でも長い目で見る」という加納先生の人間味あふれる信条は、児島には生かされたが、吉川には生かされなかった。退職するきっかけを作った吉川の裏切りといってもよい行為ー合宿所で夜中に酒に酔って生徒の部屋で語り続ける加納の話をテープに取るというーに対しても、吉川の心に恨みを刻み込んでしまったという自身を許せないと、厳しく律する加納先生。

 

 以前、吉川の弱い者いじめを激しく叱った後、「ああいう奴はいくら言ってもわからない」「どうせ教師なんて、たいした力になりはしない」という加納に、(いつもと違う)(彼の内面で何が進行しているのだろうか)と思う俊彦だが、そのあたりの追及が、結婚をしないのはなぜかという事と合わせて、もっと欲しい気がした。  

 

 一人の生徒(小杉)を救えなかった無念さから、酒量が増し泥酔すると暴力的になるというところに、加納の内面で鬱積してゆく背景をどう考えるか。

 

 「最近のN学園は昔と違って、おおらかじゃなくなった。もっと生徒をゆったりとした目で

 

見てやりたいと思っても、いろいろルールができて窮屈になっちゃった」

 

「日本の教育そのものが、おかしくなってるよね。受験、受験で生徒を追い立てている。そういう中で教師をやっていることが、ひどく虚しいものに思えてきたんだよ」「酒を飲むとやめさせざるを得なかった生徒たちの顔が思い出される」

 

 などという言葉の中にヒントがあるように思う。

 

 しかし、「皆で力を合わせて変えていこう」という俊彦の言葉には、

 

「僕はもう疲れた」「ぼくはやっぱり一匹狼だったよ。教育というものは集団の営みだよね。自分だけ正しいと思って突っ走ってもうまくいかない」「これからはあんた達の時代だ。皆で力を合わせて頑張ってほしい」

 

 と自身の限界を悟っているような言葉を残して去ってゆく加納。

 

 

 

 最初の歌舞伎鑑賞の折、芝居の主人公が酒乱の狂態を演じるという姿が、この作品全体の通低音のように響いてゆくー泥酔した加納が、体格の良い山田につっかかってゆくなどーという設定はうますぎる感もあるが、よく考えられている。

 

「教育は残酷」「たくさんの犠牲者を作り出しながら、平然と毎日が流れていく。いつの間にかそれに痛みを感じなくなってしまうんだよね」の言葉には、私自身も鋭い痛みを感じざるを得なく、身につまされる作品でもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

アルベール・カミュ『ペスト』を読む

 

                木村玲子

 

 

 

 この期、右表題のノーベル賞作家カミュの代表作『ペスト』が、世界中で読まれていて、日本でも増版を繰り返しているという。私も遅まきながらやっと手に入れて読み、今のコロナ現象に余りに良く重なって来るので、驚くとともに深く感ずるものがあった。

 

 

 

 とても思索的な内容で、一度読んだだけでは認識が及ばないところもあったが、もう一度読み直したいと思いつつ、理解不十分なままに感想を書いてみる。

 

 

 

 発表は一九四七年だが、書き始めたのは四一年だそうで、背景にはナチスの台頭や、自身の加わったレジスタンス運動などがあるという。

 

 

 

 当時フランスの植民地だったアルジェリアの小都市オランを舞台にした架空の物語だが、一匹の鼠の死から発したペストは、いつの間にか人に感染して、あっという間に都市は封鎖される。そこに至るまでの状況は今回の新型コロナの場合とよく似ている。

 

 初め鼠の死骸が増えても大したこととは思わずやり過ごしてしまう。一人がリンパ腺腫を発症しても、人々がそれが恐ろしい感染症の始まりと認識できないでいるうちに、また医者たちも「ペスト」と断じることを怖れているうちに死者は増え続け、都市の封鎖を余儀なくされる。後手後手に回ってしまったどこかの国とよく似ている。私自身もどこか楽観視していて、緊張感がなかった。「ペスト」に出てくる多くの市民の反応とよく似ている。

 

 

 

 主人公の良心的で誠実な医師リウーは、昼夜をわかず治療に飛び回るのだが、その周りに様々な人間が登場する。新聞記者、旅人、老官吏、神父、判事、喘息気味の爺さん、リウーの母親などなど。それらの人々が非常時の中で、それぞれに考え行動するのだが、その心理を丁寧に掬い取って思慮深く描かれる。異状の中でどう生きるかが問われているようだ。自分のことで汲々としていた人が、実態を知る中で変わってゆく。

 

 その一人として印象深いのはフランスから来ていた新聞記者のランベールだ。たまたま訪れていたところでこの封鎖に出会い、フランスに残してきた恋人に会いたいばかりに何とか出られないかと密航まで企てたりする。しかし、妻が療養のために離れて暮らしているその中で、リウーが奮闘しているさまを知り、認識を改めてゆく。個人的な願望ではなく、この町の人々のために何かできないかと模索するようになる。

 

 また、ペストに冒された少年の末期の苦しみを見つめ、その厳粛な様相から姿勢を新たにしてゆく人もいる。

 

 ほとんどの人間が変わってゆく中で、変わらない人もいる。その一人はリウーの母親だろうか。妻に会えない中で医師としての務めを誠実にこなし、疲労困憊の息子をいつも慈愛深く迎え、広い心で人々に接している。この作品の中で唯一存在感を持つ女性のように思われる。

 

 全体に女性の影は薄い。リウーの妻は最初の療養に行く場面に姿があるきりで、あとは「思い」の中に出て来るだけだし、逢いたくてたまらないフランスにいるランベールの恋人も実態はない。

 

 

 

 しかし、様々な人間模様は実に感銘深い。無責任な医師や、閉じられた街の中でなおも金儲けにいそしむ密売人など、そこに潜む人間性をあますところなく描き出している。死者との別れの場面も、現在のコロナ現象と同じで、親子と言えども見舞いもできず、臨終にも立ち会えない。家族が指定された時刻は「遺体が清められて墓地へ出発する時刻だった」

 

 

 

 今一時?退潮気味のコロナだが、「ペスト」の中の人々の感情も「ペストの足どりに最期まで付いてゆくことができず」と記され、また退潮現象を、

 

 「しかし、市民たちは、そう慌てて喜ぼうとはしなかった。今日まで過ぎ去った幾月かは、彼らの解放の願いを増大させながらも、一方また用心深さというものを彼らに教え、病疫の近々における終息などますます当てにしないように習慣づけていたのである」

 

 といい、七〇年余り後の今を映しているかのようだ。

 

 

 

 そして最後に、「リウーは知っていた」として、

 

 「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクや反古の中に、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろうことを」

 

 と結んでいる。

 

 コロナもまた、「新型」として繰り返されている。ワクチンの開発などで対応しようとしているが、秋冬の涼しくなった時に再び台頭するかもしれないことを専門家は警告している。今回の教訓を医療体制や、福祉に、地球環境問題に生かすことができるだろうか。

 

 

 

 カミュについては『異邦人』しか読んだことがなかったが、『ペスト』はこの稀有な体験の中での大きな収穫だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の好きな日本映画⑥

 

『舟を編む』

 

              泉  脩

 

 

 

 

 

辞書を作る人々

 

玄武書房という出版社の辞書部門における、気の遠くなるような仕事振りを描いている。

 

 一九九五年、国語学者の元教授、松本(加藤剛)のもと「大渡海」(だいとかい)という辞書作りが始まる。部員はわずか三人。他から引き抜かれてきた馬締光也(松田龍平)は、大学で言語学を学んだ変わり者の青年。そして、やや年上の西岡(オダギリジョー)と、パソコン専門の中年女性佐々木(伊佐山ひろ子)

 

 「大渡海」は、現在使われている言葉、特に若者言葉を集めた辞書で、言葉の収集から始めなければならない。十年は掛かるという気が遠くなるような辞書である。

 

 会社の幹部は辞書作りを嫌って、計画を潰そうとするが反対される。そこで西岡を宣伝部に移動させ、馬締が孤軍奮闘する。彼は、この仕事に打ち込み、名前の通りマジメに努力する。十年来の下宿のおばさんと仲がよく、京都から呼ばれた姪の香具矢(宮崎あおい)と親しくなる。

 

 彼女は和食の料理人で、仕事に打ち込んでいる。馬締は彼女に惚れて、難しいラブレターを渡し、読めないから口で言って欲しいと迫られ、「好きです」と言ってしまう。彼女も「私も」と答えて、二人は結ばれるのである。

 

 十三年後、「大渡海」はやっと完成に近づき、五回目の校正にかかる。学生アルバイトが動員され、十五年目の販売に迫る。しかし監修の松本がガンで死去し、彼の遺影を掲げた完成祝賀会が開かれる。

 

 この間、香具矢の働く料理屋は、辞書部の憩いの場になり、馬締夫婦は、公私に渡って息の合った協力をする。宮崎あおいの健気な働きぶりが好ましい。

 

 「舟」とは言葉の海を渡る舟を意味し、「やばい」「ださい」「きもい」といった若者言葉がどんどん集められ載せられていく。辞書作りの大変さがよくわかる。

 

 辞書は名だたる出版社の顔である。爆発的に売れなくとも末永く確実に売れて、各家庭に一冊は備えられるものである。それだけに長い年月と大きな労力を使って、立派な辞書が作られるのである。しかも言葉は年々変わっていくので、年々改訂版が作られるのである。

 

 この映画は、こういった辞書作りの地道な努力を細やかに描いていて、とても興味深い。松岡や馬締といった、辞書作りに生涯を掛ける人々を実によく描いている。知らなかった世界だけに、とてもよい勉強になった。原作共々、見事な仕事だと思う。

 

 それにしても主人公の名前がマジメというのは、やりすぎのような気もするが。

 

 余談だが、私は子供の時から辞書が好きだった。木へん、魚へん、さんずいなど、特定のへんの文字を覚えた。漢字は実によくできているものだと、つくづく思ったものである。辞書は私の子供時代のおもちゃだった。

 

 息子の剛も私の影響かどうか、小学校に入る前から漢字に興味を持った。「漢字の話」という本を読み、漢字のおもしろさが解ったようである。ひらがなより先に漢字を覚えた、そして、本を読むことも、とても好きになった。いつの間にか、親の本棚にも手を伸ばし、大人の難しい本も読んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

CIAの『ドクトル・ジバゴ』作戦

 

                松木 新

 

 

 

2014年、CIAは機密扱いだった『ドクトル・ジバゴ』作戦に関する覚書と報告書、合計九十九点を公開しました。

 

アメリカの作家ラーラ・プレスコットのデビュー作『あの本は読まれているか』(原題The Secrets We Kept 東京創元社、2020年4月)は、このCIAの『ドクトル・ジバゴ』作戦を主題にしています。

 

1957年10月、ソ連は人工衛星スプートニクの打ち上げに成功し、11月にはスプートニク2号を打ち上げました。アメリカは遅れを取り戻すために、「文学を武器」に巻き返しを図りました。それが、発足間もないCIAが採用したプロパガンダ戦略『ドクトル・ジバゴ』作戦でした。

 

『ドクトル・ジバゴ』作戦とは、ソ連で出版禁止になっている『ドクトル・ジバゴ』を密かにソ連国内に持ち込み、ソ連政府がどれほど非道な言論統制や検閲を行っているかを国民に知らせ、ソ連の政治体制への批判の芽を植え付けようというものです。

 

『ドクトル・ジバゴ』を持ち込む舞台になったのが、1958年にベルギーの首都ブリュッセルで戦後初めて開催された万国博覧会と、その9カ月後にウィーンで開催された世界青年学生祭典でした。

 

〈当時、わたしたちは本が武器になりうると―文学が歴史を変えられると―信じていた〉とは、この作戦に参加したCIAの女性の述懐です。

 

この作戦についてはぼくも初めて耳にするもので、大変に興味深い内容でした。これまで読まずにきた『ドクトル・ジバゴ』を読んだり、映画《ドクトル・ジバゴ》を久しぶりに観たりと、この一週間はドクトル・ジバゴの世界に浸っていました。

 

 

 

『ドクトル・ジバゴ』の関連事項を整理してみました。

 

1956年、ソ連の詩人で小説家のボリス・パステルナークは、十年ほどをかけて書いた小説『ドクトル・ジバゴ』を、文芸雑誌『ノーヴィ・ミール』に持ち込みますが、掲載を拒否され、イタリアの共産党系の出版社フェルトリネリ社と出版契約を結びます。

 

1957年11月、イタリア語版がミラノで出版、つづいてロシア語版も同社から刊行されます。

 

1958年10月23日、パステルナークのノーベル文学賞受賞が発表されます。5日後の28日、ソ連作家同盟は、パステルナークを除名、翌29日、パステルナークはノーベル文学賞辞退をスウェーデン・アカデミーに打電します。

 

10月31日、パステルナークはフルシチョフ首相宛の書簡で、「祖国を離れることは、私にとって死にも等しい。私に対してこのような厳しい措置をとらぬようお願いする」と訴え、国外追放を免れました。  

 

1960年5月30日、心臓病で逝去、享年70歳でした(『ドクトル・ジバゴ』の主人公ジバゴも同じ病気でした)。

 

 

 

『あの本は読まれているか』は、機密文書が明らかにした史実をもとに、作戦にかかわった人々を、フィクションとして描いています。

 

東(ソ連)と西(アメリカ)の世界を交互に描きながら、『ドクトル・ジバゴ』の世界を展開していきます。

 

東の世界では、パステルナークの愛人オリガを主人公に、パステルナークと『ドクトル・ジバゴ』のために奔走するオリガの姿を描いています。

 

西の世界では、CIAでタイピスト職についた二人の女性がスパイの才能を見込まれ、『ドクトル・ジバゴ』作戦の主要な担い手として活躍する姿を描いています。

 

隠れたテーマとして、この時代、CIA内部で横行していた性的マイノリティの人々への迫害が糾弾されています。

 

訳者である吉澤康子が「あとがき」で、〈ドクトル・ジバゴ作戦は、CIAが実際に行った戦略のひとつで、ペンの力、文学の力を信じた人たちの物語であることが、本書の大きな魅力となっています〉ということには、同感できました。

 

 

 

父と戦争

 

            後藤守彦

 

 

 札幌市内の精神科の病院で父が逝ってから、四〇年以上経つ。脳出血で倒れ意識が回復しないまま亡くなった。享年六三歳。早い、孤独な死であった。私と母が死を知らされ病院に遺体を引き取りに行った。葬儀なのに何となく明るい雰囲気が漂っていた。重しがとれたような気分の反映だったのだろう。

 

胃腸だけでなく心も病み、そのせいで出世コースから外れたことを嘆き、母によくあたっていた父。高校時代、精神的な煩悶に一先ず折り合いをつけ、受験勉強に集中していたある夜、「死んでやる」と叫びながら寝巻の紐で首を絞めていた父。青年期の私には、そうした父に対する嫌悪感があった。冷淡だったと悔いているが、父の狂気を帯びた血が自分の体内を巡っているのではないかという恐怖感も正直あった。家を離れた大学時代に拙い詩を作っている。タイトルは「鏡」。「朝/いつものように/剃刀をあてようと/鏡を覗いたら/そこに父がいた/翌日も/父がいた/身体も心も病んだ父がいた/翌々日/おそるおそる鏡を覗いたら/首くくった/父がいた/瞳の中に/父がいた」

 

カナダのノーベル賞作家アリス・マンローの自伝的短編集『林檎の木の下で』(新潮社、二〇〇七年)の前書きに、「わたしにとって幸運なことに、一族にはどうやら世代ごとに、率直で、ときにはけしからぬ手紙や、詳細な回想録を長々と書き綴ることを好む人間がいたらしい」とあった。私の一族はそうではなかった。父も母も日記や記録的なものを残していない。母は年老いてから自分史のようなものを書いていたらしいが、札幌のマンションでひとり暮らししていた母の遺品を整理した際、見つけることはできなかった。だから、父の過去を知る手がかりとしては、日々薄くなっていく、私の記憶しかない。

 

父よりも生きた年数が長くなっていくにつれて、父の人生について考えるようになった。特に、戦争体験について。父から聴いたことは断片的なことである。ソ満(ソ連・満州国)国境の地下壕で通信兵としてソ連の無線を傍受していた、国境近くを飛ぶソ連機を見た、その後病気で軍の病院に入院、除隊後、旭川で通信検閲官補として電話の盗聴にあたっていた、それだけである。父は通信の技術をどこで取得したのだろうか。逓信講習所なるものを出たことは承知していた。郵便と通信を管轄する逓信省のもと、札幌を含め七逓信局があり、一九二一(大正一〇)年、逓信局ごとに逓信講習所が設置されている。無線通信科があるので、そこで学んだと思われる。

 

 ソ満国境のどこか、そもそもいつのことなのかも全くわからない。私の居住する北広島に、一九四四(昭和一九)年、札幌に司令部があった旧陸軍第五方面軍特種情報部の通信所がおかれた。通信所の任務は、ソ連・アメリカの通信を傍受し、暗号後解読・翻訳することだった。北広島が本部となり、択捉島、ホロムシロ島、サハリンに支部があった(『忘れ得ぬ戦禍』北海道新聞社、二〇一五年)ソ満国境にも同様な施設があったに違いない。そこに父がいたのだろうか。旭川には、一八九六(明治二九)年に、陸軍の第七師団がおかれた。父は、戦後も勤務していた電報電話局で、軍の指示を受けながら反戦的な言動をチェックしていたのだろうか。

 

 そうした疑問を抱えながら、調べることもなく時が経ってしまった。そこで出合ったのが、村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋、二〇二〇年)である。猫好きの私だからメインタイトルを見て飛び付いたのだが、サブタイトルも気になり早速購入した。村上の作品は、デビュー作『風の歌を聴け』(講談社、一九七九年)と谷崎潤一郎賞を受賞した『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(新潮社、一九八五年)くらいしか読んでいない。なぜか関心がなかった。

 

 自分のルーツをまとめたともいえる、『猫を棄てる』のあとがきで、村上は、戦争が一人の人間の生き方や精神を大きく変えてしまえるか、それを書きたかったと述べている。一人の人間とは、具体的には父のことである。村上の父は一九一七(大正六)年一二月、私の父は一年前の同月に生まれている。だから同時代を生きたといえる。村上は、敗戦の年に生まれた私より四年遅れてはいるが、ともに戦争を知らない第一世代に属するといっていい。

 

村上の父が最初に入営したのは一九三八(昭和一三)年、日中戦争が始まった翌年のことである。その後、一九四一年、一九四五年とあわせて三度召集される。村上が小学校低学年の時に、中国戦線で自分の所属部隊が捕虜を殺した、と父は打ち明け、「中国兵は自分が殺されるとわかっていても、騒ぎもせず、恐がりもせず、ただじっと目を閉じて静かにそこに座っていた。そして斬首された。じつに見上げた態度だった」と処刑の様子を語った。父は死ぬまでその中国兵に対する敬意を抱き続けていた、と村上は推測する。父は毎朝、菩薩像をおさめたガラスケースの前で、お経を唱えていた。理由を尋ねた村上に、父は、戦争で亡くなった仲間と敵であった中国兵のために唱えている、と答えている。父から聞いた捕虜処刑の事実を受けとめて、村上はいう。

 

 

 

  いずれにせよその父の回想は、軍刀で人の首がはねられる残忍な光景は、言うまでもなく幼い僕の心に強烈にやきつけられることになった。ひとつの情景として、更に言うならひとつの疑似体験として。言い換えれば、父の心に長いあいだ重くのしかかってきたものを−−−現代の用語を借りればトラウマを−−−息子である僕が部分的に継承したということになるだろう。人の心の繋がりというのはそういうものだし、また歴史というのもそういうものなのだ。その本質は〈引き継ぎ〉という行為、あるいは儀式の中にある。その内容がどのように不快な、目を背けたくなるようなことであれ、人はそれを自らの一部として引き受けなくてはならない。もしそうでなければ、歴史というものの意味がどこにあるだろう?

 

 

 

村上は、あとがきでも、我々は膨大な雨粒の一滴に過ぎないが、「その一滴の雨水には、一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり、それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある」と強調している。

 

 『猫を棄てる』には、村上の父の軍歴が詳しく紹介されているが、虐殺のあった南京攻略戦に参加したのではないかという疑念があって、生前父に戦場体験を訊くことはなかった。村上は父の死後、丁寧に調べたのである。父の入営は南京大虐殺の翌年のことであり、疑念は晴れたのだが。前述したように、村上の作品にはほとんどふれていないので、村上ワールドと父親との関連について、私は論じることはできない。

 

 私も村上に倣って、父の軍歴を追うことにした。ホームページから、申請用紙をダウンロードし、兵籍簿を所蔵している北海道保健福祉部福祉局地域福祉課援護係に調査を依頼した。除隊した後帰還した地を問い合わせる電話がきたので、父の生誕地である十勝の芽室村と勤務地の旭川をあげた。間もなく回答が届いた。さらに、特攻隊に関して調べた際(『特攻隊と北海道』溶明社、一九九四年)や北広島陸軍通信所の実像を探った時に利用した防衛研究所史料閲覧室に照会し、父の兵士としての足跡を知ることができた。

 

 父は、アジア・太平洋戦争開始四カ月半前の一九四一(昭和一六)年七月一八日、臨時召集により二四歳で青森の電信第四連隊第一中隊に編入された。連隊は陸軍の作戦単位で、一〇〇〇人から三〇〇〇人で構成される。電信連隊は第一から第五六まであった。八月一六日、大阪港を出港し、同月二〇日、朝鮮の釜山の西にある馬山〈マサン〉港に上陸している。同月二七日に任地である満州国東安省鶏西〈チーシー〉に到着。鶏西はロシアの沿海州と接し、中心部は国境から約三〇キロの位置にある。父の語った通り、ソ満国境地帯である。鶏西は、現在人口七五万の市となっており、日本の高校で使用する地図帳にも地名が載っている。

 

ところが、父は一週間後、急性腸炎で鶏西の西にある林口の陸軍病院に入院したのであった。その後、牡丹江・奉天・遼陽・大連の陸軍病院を経て、翌年の八月三日には、帰国し大阪陸軍病院に転院している。さらに、金沢陸軍病院・青森陸軍病院と移り、一九四三(昭和一八)年五月一五日に、退院除隊となった。一年八カ月もの長期入院の原因となった病気とは何だったのだろうか。精神的なものがあったのかもしれない。長期の入院生活をおくったとはいえ、軍務に一週間しかつかず帰国できた父は運がよかったといえよう。通信兵であったこともあり、父が戦争で誰かを殺している可能性はゼロに近い。それは父にとってよかったことであり、確認できた私も安堵した。

 

 父の離脱後、電信第四連隊はどうなったのだろうか。一九四五(昭和二〇)年八月九日、ソ連軍の攻撃が始まった。東安省一帯は「沿海州に集結したソ連の有力な第一極東方面軍が国境線の全面にわたって一挙に、津波となってなだれうったところ」(半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』文藝春秋、一九九九年)だった。しかし、防衛研究所所蔵の部隊略歴によれば、同年五月三日に朝鮮の大田〈テジョン〉に移動した。だから、ソ連軍の攻撃を免れているのである。

 

高校時代に父と口論したことがある。日本史担当教師の影響で歴史に興味を持ちだした頃である。「喜んで戦争にいったのか」と訊いた私に、「そうではない」と答えた父を、「嫌だったらなぜ拒否しなかったのか。なぜ戦争に反対しなかったのか」と、私は性急に責めた。父は「そんなことができる時代じゃなかった」と興奮気味に反駁した。短い言葉のやりとりで終わり、話は深まらなかった。その後、大学で歴史を学んだが、ずっと戦争の問題を意識していたと思う。

 

人を、人の命を翻弄する戦争はなぜ起こるのか、いや自然現象でないのだから、人はなぜ戦争するのか、が正しい。この問いに、一つの答を示したのが、アインシュタインとフロイトの往復書簡である(『ひとはなぜ戦争をするのか』講談社文庫、二〇一六年)。第一次世界大戦が終わった一九一八年から、第二次世界大戦がはじまる一九三九年までの間、両大戦間の一九三二年にこの書簡は交わされている。ユダヤ人であるアインシュタインが居住していたドイツでは、この年にヒトラー率いるナチスが第一党になっている。国際連盟が、アインシュタインに、今最も大事だと考えている問題について一番意見交換したい相手と手紙を交わし、それを公開してほしい、と依頼した。アインシュタインが選んだテーマは、「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」、意見交換の相手はフロイト。

 

アインシュタインは国際平和を実現する上での、強力な国際機関設置の意義を認めつつ、フロイトに「人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!」とぶつける。フロイトは、アインシュタインのいう「本能的な欲求」を、「死の欲動(破壊欲動)」であるとして存在を認める。それとともに、人間には身体や命を保持したいという「生の欲動」が備わっていると述べる。フロイトは「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と書簡を締めくくっているが、それはどんな意味であろうか。文化の発展が「人間の知性を強め」「力が増した知性は欲動をコントロールしはじめ」、戦争への「拒絶反応は体と心の奥底からわき上がってくるはず」で、これが真の平和主義である。これが広がれば戦争はなくなるというわけである。

 

 精神科医の斎藤環は、同書巻末の解説を次のように結んでいる。

 

 

 

   こうした意味での平和主義が日本に広がるには、まだしばらく時間はかかりそうです。しかし嘆く必要はありません。私たちは世界史レベルで見ても最高度に文化的な平和憲法を戴いているからです。そこにはフロイトすら思いもよらなかった戦争解決の手段、すなわち「戦争放棄」の文言が燦然と輝いています。この美しい憲法において先取りされた文化レベルにゆっくりと追いついていくことが、これからも私たちの課題であり続けるでしょう。

 

 

 

齢七十半ばになろうとする今、つくづくありがたかったと思っている。徴兵体験のなかったこと、戦場に行かなければならないとの恐怖に慄くことがなかったこと、銃を持ち人を殺すことがなかったことを。それは、平和憲法、九条によって守られたからである。近現代日本の戦争と平和の歴史について講演する機会が幾度かあった。その際、韓国の歴史研究者の言葉を必ずレジュメに引用した。

 

 

 

「平和憲法」には日本を戦争国家から切り離そうとしたアメリカの意向が強く働いていたが、そこには戦争に反対する日本の民衆とともに、日本の破滅的な侵略戦争によって甚大な被害を受けた東アジアの民衆たちの平和に対する願いも含み込まれていた。(ユン・ヘドン「日本の解釈改憲、平和憲法、東アジア」(『思想』二〇一五年七月号)

 

 

 

 九条は、一九二八年の不戦条約を先例とする戦争違法化体制の流れを受けたものであるが、何よりもアジアとの関係で九条を見ることを大切にしている。九条は日本人だけのものではなく、アジアの宝であり、アジアに対する平和の誓いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

澤田章子「一葉伝 樋口夏子の生涯」

 

  人間の平等を主張

 

泉  脩

 

 

 

 一八九六(明治二九)年に、二四歳で亡くなった樋口一葉の生涯を、渾身の力で書いた伝記である。

 

 農民出身の父、樋口則義は幕末に江戸に出て御家人株を得て、直参の幕臣になった。しかし明治維新で地位を失い、首都東京府の下級官吏になった。そして事業に失敗して借財を残して死去した。次女夏子(一葉)は一〇代半ばの若さで戸主になり、母と妹を抱えて苦労が始まるのである。和歌の道に入っていた夏子は、小説を書いて収入を得ようと考えた。

 

十九歳で新聞小説を書く半井桃水(なからいとうすい)に弟子入りし、作品を発表するようになる。そして、親切で妻を失っていた桃水に恋をするようになった。しかし、読者におもねる新聞小説に飽き足らず、桃水と絶交してしまう。

 

その後、同人誌「文学界」を発行した若手文学者たちが、夏子に接するようになる。特に評論家の北村透谷の力強い主張が夏子の心を揺さぶるようになる。

 

夏子は新しい作品に取り掛かるが一向に筆が進まず、生活が困窮する。そこで、吉原遊郭近くに荒物と駄菓子を売る雑貨屋を開く。貧しい人々の住む地域で細々と商売をしながら、下町の人情を知るようになる。

 

この生活も一年余りで店を引き払い、転居して本格的な小説執筆を始める。文学界のメンバーとの交わりも密接になり、すぐれた人々から強い刺激を受ける。

 

二十二歳で「文学界」に「大つごもり」を発表し、その後一年余りのうちに、「たけくらべ」を発表し、「にごりえ」「十三夜」といった傑作を次々と発表する。他の雑誌・新聞にも作品が載って、女流作家の第一人者になった。

 

しかし肺結核にかかり、二十四歳の若さでこの世を去ってしまう。

 

樋口一葉は、かつての王朝文学や江戸文学を受け継ぎ、近代文学の隆盛をもたらす中興の祖である。やがて与謝野晶子、宮本百合子らを経て、現代の女流文学の興隆をもたらした大作家である。

 

この本の著者は、樋口一葉の残した手紙、和歌(二千首!)、そして特に膨大な日記を引用して見事な伝記を書いた。同じ女性として、貧困に苦しみ、ひどい女性差別とたたかい、真実の文学を目指す樋口一葉に全面的に共感している。

 

女性もまた自分の力・能力・才能を生かして芸術創造に参加することを、樋口一葉を通じて力強く宣言しているのである。

 

日記の中に、根強い階級差別への批判、女性蔑視への批判、貧しい人々への共感、新しい文学を目指す若者たちへの親近感が多く書かれている。これらが小説の中に盛り込まれているのである。

 

 人間の平等の主張こそ、樋口一葉の文学の中心なのではないだろうか。

 

 

 

樋口一葉と私

 

ここで私と樋口一葉との関わりについて書いてみたい。私は高校生の頃に文学に目覚め、夏目漱石から太宰治に至る多くの小説を読んだ。受験勉強に打ち込んでエリートコースを目指す道を断念したのである。

 

樋口一葉は知っていたが、作品は読まなかった。読みづらい文語調が苦手だったのである。古典の授業で触れた「源氏物語」などと同じに、自分には縁がないように思えた。ところが、上の姉が札幌の放送局(NHK)に勤めて、「大つごもり」を朗読することになり、毎日練習を始めたのである。読みづらい文語調が、耳で聞くととても心地よいのである。

 

そして、内容もとても心に迫ってきた。貧しさゆえの盗みをした女中をかばって、たまたま家に帰ってきた放とう息子が罪を被るのである。じいんと胸に迫るものがあった。そして、樋口一葉との次の出会いは、数十年後のことだった。職場における読書会を、メンバー全員の退職後に市民サークルに改変した時のことである。「たけくらべ」を取り上げることになり、私はけん命に勉強した。そして、この傑作の真価が解ってきたのである。

 

私は、私が発行する読書会ニュースに「自我に目覚める人間の姿を見事に表現した」と書いた。樋口一葉の小説は、いわば青春小説であり、同時に遊郭に寄生する大人たちの姿をリアルに書いているのである。

 

「にごりえ」における遊女の無力の嘆きの姿も迫力があった。自分もどん底の生活に苦しんできた作者ならではの表現である。

 

私は日本文学における女性作家の大きな力量がよくわかり、他の女流作家の作品もたくさん読んだのである。宮本百合子は若い時からだが、芝木好子、山崎豊子、有吉佐和子、宮部みゆき・・である。

 

 

 

おわりに

 

十年以上前、私は東京の台東区図書館で樋口一葉の特別室を見たことがある。彼女の生の原稿を見てびっくりした。句読点と段落がなく、ただひたすら書き下ろされていた。

 

明治の中頃で、江戸文学の名残りが強く、文体も書き方も古めかしいのである。しかし、その中で人間性を掘り下げ、人間の平等を主張する、見事な文学を作り出したのである。

 

先駆的文芸思想家の北村透谷は自殺していたとはいえ、若き島崎藤村、森鴎外、幸田露伴らが、彼女の文学に影響を受けたのである。そして、彼女のあまりにも早い死を悲しみ、あとを 受け継いで明治文学を確立していくのである。

 

この評伝の著者である澤田章子さんは、東京の日本民主主義文学会員である。私立女子高校の教師を経て、評論家として講座や研究会などで活躍し、著書を出している。この本は、新日本出版社から出された。他に「今に生きる宮本百合子」(共著)などがある。

 

澤田さんには以前から私の本を読んでいただき、文通をしてきた。今回このご著書をいただき、読んでみてびっくりした。実に詳しく書かれた研究書であり、樋口一葉への長年の研究がうかがわれた。特に日記を通じて一葉の心の移り変わりには、女性同士の深い理解が感じられた。男である私にはとても及ばない世界だと思った。文語文が苦手な私は、引用することができなかった。

 

樋口一葉が十代半ばで戸主になり、母と妹との三人家族で借金にまみれながら、やりくりした苦労はよく解かった。私も子供の時に父に死なれ、母と五人きょうだいで貧困生活を送ったのである。

 

そして、人間の平等を求める主張もよく解かった。絶対的天皇制のもとで、どんなに大変なことだったことだろう。日清戦争の勝利に少しも浮かれていないところも気持がいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

泉脩著『文学とともに七十年』

 

             木村玲子

 

 

 

 中央区に住む著者の十一冊目の本。ご自身でも「とても力が入った」と述べているように、とても伸びやかで生き生きした文章で惹き付けられた。

 

 私立高校教師時代に上梓した『青春の飛翔』から三十五年間に念願の十冊を上回る著書を出版したエネルギーに感服。

 

 七十年の中で読み書いた様々な評論は、文学作品はもとより、日本や韓国の映画やTVドラマについても幅広く、奥深い。日々の生活の中でのエッセーは旅あり、友との交流あり、家族の思い出等々に温かい気持ちにさせられ、趣味のクラシック音楽や野球観戦についても造詣の深さを物語っている。長く続いている読書会「リラ文学会」や、ここ十年余りの「民主主義文学会」での蓄積が全開した本である。

 

 これは『中央区民報』(共産党札幌中央地区委員会発行)に載せたコラムです。三百字以内という制限の中で、言い尽くせないことも多く不充分ですが転載させていただきます。

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇二〇年月一日 259号

 

 

 

五月例会合評紙上報告

 

 

 

 

 

 

 

       「四月例会合評紙上報告」に引き続いての紙上報告です。今回は作者、高橋篤子さんも文書参加してくれました。ありがとうございました。

 

       前号でも、呼びかけましたが、この紙上報告を受けての感想や意見などを本通信に投稿して頂ければと考えています。(編集担当)

 

 

 

 

 

 合評作品

 

  高橋篤子「ガレ場の蝶」

 

       (『民主文学』五月号)

 

 

 

 

 

レポート          泉 脩

 

 

 

ガンとたたかう教師と教え子

 

二〇一八年の秋、勇人(ゆうと)が札幌のがんセンターを退院する。元小学校教師で、二回目の退院である。五年前に片方の腎臓をとり今度は、ぼうこうのガンを放射能で攻め尽した。四十日ぶりの退院である。

 

彼は胆振の安平町早来に住んでいて、胆振東部大地震の十日後に入院したのである。妻を八年前に失って、犬のリンタと暮らしてきた。

 

ところが二年前、憲法九条を守る署名活動をしていた時、かつての教え子の茨木しずくに、再会した。三十二歳になっていたしずくは、彼を訪ねてきて、夫の浮気で別れてから、一人暮らしの兄の家に来て、ひっそりと過ごしているとのことだった。

 

かつては活発だったしずくが落ち込んでいるので、勇人はリンタの散歩に連れだし、憲法を守る会に誘い、そして働くことを勧めた。

 

元気になったしずくは、憲法の守る会の有志の樽前山登山に、スーパーで働く仲間のすみれも連れてくる。高校を卒業したばかりのすみれは、まったくの軽装で退職者の多い守る会のメンバーをびっくりさせる。

 

外輪山で昼食をとった時、若い二人は一匹の蝶がもがいているのを見つけ、動かなくなった蝶を大事に持ち帰る。

 

まもなくしずくが子宮がんとわかり、手術を受けたが転移がわかる。退院した翌日、勇人は三人の仲間としずくを訪ね、預けていたリンタとも再会する。

 

病み衰えたしずくは、十一月の署名活動に車椅子で参加し、自らマイクをにぎる。

 

憲法がいかに大切か、日本の宝である九条をどうしても守らなければならないと、自分の目覚めと共に語る。スーパーで働きながらこのスピーチを聞いたすみれが、感動して差し入れをしてくれる。

 

この後しずくは、自宅でモルヒネを投与されるようになり、物語は終る。

 

実によく書けた胸を打つ物語である。胆振東部地震もからめ、作者自身の活躍も交えて、ぐんぐんと惹き込まれる。なによりも元教師と教え子の心の結び付きが感動的である。二人ともガンとたたかいながら、真実をつかむのである。

 

勇人の最後の見舞いの時、しずくが樽前山で見つけた蝶の死体を勇人に渡して、元の場所に返してほしいと頼む。人生を失った自分と同じに見えて、麓のお花畑に捨てることができなかったと言うのである。

 

作者の高橋篤子さんは、私より若いが、民主主義文学会ではずっと先輩で、多くの作品を『民主文学』に載せ、長篇の連載もしている。道内有数の書き手の一人である。

 

胆振東部地震の震源地に近い早来に住み、私と同じ頃に配偶者を失い、それでも民主文学会いぶり・ひだか支部の中心として活躍している。

 

小説をすべてフィクションで書き、その中に自分の考えを込めている。

 

ところが前二作には自身が登場し、夫のことも書き、亡くなった夫を記念して書いたという。特に前作で、夫の親友夫妻を訪ねて、しみじみと語り合うシーンはとても美しい。高橋篤子さんは詩人でもあり、しばしば美しい意味深い表現をするのである。

 

今回は私の最後の本に合わせて、この心を打つ作品を書いてくださった。心からお礼をしたい。

 

なお、この作品では十歳の老犬リンタが、大切な働きをする。愛犬家でなければ書けない表現が数多く書かれている。札幌で暮らしている娘と孫が、親に運動をさせようとして子犬を連れてきたとある。これは実話なのだろうか。山で蝶を見つけるところは、実話とのことだが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

著者発言           高橋篤子

 

 

 

   拙作「ガレ場の蝶」を札幌支部五月例会の「札幌民主文学通信紙上合評」作品としていただき、ありがとうございます。私も合評に参加させてください。

 

 

 

 この作品は泉脩さんのお言葉に応えて書くことになった。泉さんは昨年春に八十五歳という高齢で十冊目の自費出版を準備していた。あなたの作品について評論を予定しているので作品がほしいと言われた。秋に発行される『奔流』(札幌支部誌)に投稿できないだろうかということだった。〆切りが六月だという。筆の遅い私にはとても間に合わない。採用されるかどうか解らないけれど『民主文学』に投稿しますと安易なことを約束してしまったのであった。「採用する」という編集長の電話を受けたのは昨年九月だった。泉さんは『民主文学』掲載まで待つという。泉さんには『民主文学』への投稿原稿のコピーを送った。結果的には今年の五月号掲載となり約束を果たすことができた。

 

 この三月には十冊目の本が届くことを心待ちしていたのだが、豊村支部通信担当からの情報で、泉脩さんは骨折で入院中だという。そして泉さんは治療中の身で五月の支部通信紙上合評のレポーターをされるという。

 

 昨年の今頃、私が受け取った泉さんのお便りは眼が不自由ななかでの直筆だった。大きな原稿用紙の升目に弱い視力で文字を追いながらの筆跡、筆運びに胸が熱くなってしまった。イヤと言わせない不思議な説得力を持っている手紙だった。

 

 

 

 この作品をめぐって沢山の感想をいただいた。

 

 児童文学作家の加藤多一さんから「~勇人がしずくに対して、一瞬の恋情の如きものがあったはず~」との感想をいただいた。前作『ピンネ山麓』のときにも同じような感想が加藤さんからあった。向き合う男女の心の機微を丁寧に描く力をもちなさい、それができなければ人間を描く文学としては限界だと……。この感想について『ピンネ山麓』では頷けるが、『ガレ場の蝶』では、まったく的外れだと思っている。

 

釧路支部の見田千恵子さんからは、色々と描きすぎていて読み手は振り回され、テーマに辿り着くことができず迷ってしまったと言われた。

 

京都の友人からは、真面目すぎてつまらない。読者としては、こういう完璧な人間像ではなく、誰もが経験するだろう弱さや破綻をどう乗り切って生きようと藻掻く、そのような人間像にこそ惹き付けられるのではないかという指摘があった。

 

 『民主文学』五月号、宮本阿伎さんの『評論を書きたい人のために』を読んで初心にかえった。

 

 『小説の鑑賞』というところで吉海那津子「谷間の家」に触れて、短編小説としての要件を満たしているという。「谷間の家」を読んでみた。本当にそうだと思った。

 

 みなさんからの助言と感想に深く感謝し、「谷間の家」を心に置きながら、これからも書き続けていけたらと思う。

 

 

 

 

 

 

 

発言1            石川節子

 

 

 

読後感想

 

 いつも感心させられる「安定した文章」は、読み手の私を安心させて読み続けさせてくれます。

 

 でも、一カ所。 六十ページ、上段の後ろから四行目、 蝶の学名 と在りますが、この場合は、蝶の和名 とするのが正しいのではないでしょうか。そうでなければラテン語の表記をしなければならなくなると思います。

 

 私も以前(平成三年)、ミヤマカラスアゲハが、ガレ場で長いこと、じっとしている姿を観察したことがあります。

 

 それは、阿寒国立公園の白頭山中腹のガレ場で、地熱のある地下水の滲み出るところで、十二頭もが、同じ方向に向いて、じっとしてゆっくり羽を閉じたり開いたりしているのです。

 

近寄っても飛び立つようすもなく、よく見ると、しめった地面に、蝶は吸い口を差し込んで、水分を吸い取っているようでした。

 

いつまで経っても飛び去らないので、私が、歩き去るより仕方なかったのですが、いつまでも心に残る幻想的な情景でした。

 

この作品は、その、想い出を彷彿とさせ、「心の中の画嚢」の、映像テープを巻き戻して鮮明な画像を再生してくれたのです。この強烈な回想画面は、作品のストーリーを吟味する思考回路を切断してしまったらしく、内容についての批評が言葉に出てきません。

 

 

 

 

 

 

 

発言2            松木 新

 

 

 

若い人たちへの応援歌

 

「文芸時評」(『民主文学』6月号)で、この作品を次のように評価しました。

 

 

 

高橋篤子「ガレ場の蝶」(同)は、若い人たちへの応援歌である。

 

二〇一八年九月六日、北海道胆振東部地震が起きた。雪虫が飛び始めたその年の十一月、被災地早来(はやきた)の「九条の会」のメンバーが、スーパーの前で署名活動に取り組む。そこには、末期がんで終末医療を自宅で続けている、車椅子に座った三十三歳のしずくの姿があった。マイクをにぎったしずくが、憲法を初めて読んだときの感動を語り始める。

 

〈「生きなければ、生きなければというその頃の国民一人ひとりの一生懸命な想いが伝わってきて胸が一杯になります」〉

 

聞いていたかつての同僚すみれが、〈「後で、みんなで食べて!」〉と、しずくの膝の上に包みを置く。包装紙の裏には、太いマジックの文字が不揃いに並んでいた。

 

〈しずくちゃん。/スピーチ感動。/ボクチンも/ケンポウ/読んでみるかな。〉

 

「ガレ場の蝶」の主題が、この場面に収斂している。

 

「九条の会」の人たちにしずくやすみれが加わった、二年前の夏の樽前山登山が、物語の伏線として生きている。

 

しずくは、ガレ場で採集したミヤマカラスアゲハ蝶をひそかに持ち帰っていたが、元の場所へ戻して欲しいと、かつての担任だった勇人に頼む。離婚して亡き母の実家へ戻ってきた自分は、この地で生きる実感をつかみ取り、泥沼から飛び立つことが出来た。蝶もガレ場で飛び立とうとしていたのではないかという思いが、その願いに込められていた。

 

ヘソ出しスタイルで外輪山に立ったすみれに、年配者たちは啞然とする。すみれは一見、奔放な生き方をしているようだが、夏場の樽前はファミリー登山のメッカだから、登山靴と虫除けスプレーの装備だけで十分という冷静な判断がそこにはあった。

 

しずくの病状を危惧する勇人は、〈こんな現実ってあるものか。癌は俺だけでいいではないか。せめてしずくは放免してほしい〉と、宮本百合子の言葉に思いを馳せる。

 

百合子は、一九五〇年三月、色紙に次の言葉を記した。

 

「けふも明日も地球はまはつてゐる そして歴史は進みつゝある 抑へがたい事実の上に」

 

それは、しずくやすみれ、胆振東部地震の被災者たち、「九条の会」のメンバーに送られたエールといってよいだろう。

 

 

 

紙幅の関係で書けなかったことが二点あります。

 

第一、愛犬リンタが物語のなかで大切な役割を果たしていることです。しずくの心を氷解させていく役割をリンタに託したことは、よく考え抜かれた手法だと思いました。

 

第二、東部地震の実際を文章で説明するのではなく、ネズミの登場で描写していることは、読者の想像力を信頼したものだと思いました。この作品では、この箇所が一番リアルでした。

 

 

 

 

 

 

 

発言3            泉 恵子

 

                                  

 

 「ガレ場の蝶」を読んで

 

 昨年の晩秋頃だったか、作者の篤子さんから電話があった。

 

 宮本百合子の作品の中に「今日も地球は廻っている。自転しながら公転しながら」という言葉があったと思うが、何処にあったか知らないか、という問い合せだった。わたしは百合子の色紙の中に「今日も……」の前半の言葉は思いついたが、「自転しながら……」の後半について覚えがなかったので、その旨伝え、百合子の読書会のWさんを紹介したが、彼女も判らないと答えたらしい。その後他にも尋ねたらしいが、文中に「宮本百合子だっただろうか」(P61)とある所を見ると、確たることは言えなかったのか。

 

 この文言は、作品の基調をなす言葉として、三回使われている。

 

 百合子の色紙には、

 

 「けふも明日も地球はまはってゐる  そして歴史は進みつつある 抑へがたい事実の上に。     一九五〇年三月 百合子」

 

 とあり、百合子の死の前年、三年がかりの「道標」を執筆しながら、当時の運動の様々な波乱の中で、しかし、「歴史は進む」という確信の下に書かれたものと思われる。

 

 

 

 この作品は、元小学校教員の勇人と、教え子の茨木しずくとの再会と交流を中心に展開する。胆振東部地震の二年前、地震の震源地に近い北海道安平町を舞台に、「九条の会」を通して再会した二人。

 

 勇人の定年前、五、六年と受け持ったクラスの中にいたしずく、とあるから年の差は四七、八もあり、再会した時にしずくは三二歳なので、勇人は八〇歳に近い。冒頭は、二年後の地震からまもなく、勇人が二度目の癌の手術を終えて町に戻る所から始まっている。

 

 九条改憲の企みを語り署名を集めているときに出会ったしずくは、離婚して失意の中にあった。そんな彼女を励まし、「九条の会」の仲間に誘う勇人。次第に元気を取り戻してゆくしずくだが、程なく子宮癌と分かり、みるみる衰弱してゆく。と、二人とも病魔に襲われている設定である。

 

 病気の進行の早いしずくの覚悟は、その年の最後の街頭署名で、車椅子の上から語る「これからの人生をかけてこれ(日本国憲法)を守らなければならない」との訴えのなかに凝縮されている。

 

 それを聞いていたしずくの仕事仲間で、高校を卒業したばかりの「キャピキャピ娘」すみれが、差し入れとともに「しずくちゃん。スピーチ感動。ボクチンもケンポウ読んでみるかな」との言葉を包装紙の裏に書いてよこした。

 

 

 

 そうした展開の中で、勇人は冒頭に書いた「今日も地球は廻っている……」の言葉を想起する。病魔に侵された命はやがて尽きてゆくだろうが、新しい命とともに「九条の会」の理念も受け継がれてゆくだろうとの思いを託したものだろう。(「輪廻転生」とか「生々流転」という言葉が浮かんだが、少しニュアンスが違うような?こちらには「歴史の進歩」といった意味合いが希薄)

 

 

 

 しずくが元気な時に登った樽前山のガレ場で捕まえ、持ってきたミヤマカラスアゲハ蝶。「気が遠くなるような地球の歴史のスパンの中で、進化し適応して生き延びた命の繰り返し」にしずくは自分の生を重ねて、そこから飛び立とうとしていた蝶をガレ場に戻してほしいという。

 

 

 

 すみれという存在があって、「九条の会」の理念は受け継がれてゆくだろうという展望を期待させるが、若いしずくの命は風前の灯火。「九条の会」のメンバーも勇人とあまり年齢が違わないようで、高齢者によって支えられている組織の前途多難をも思わせる。

 

 

 

 約二年間という推移の中で、話の振幅があり、端的な表現力の魅力に惹き付けられて読んだ。作者の独特な表現が光っている。

 

 「頭の中が騒がしく波立った」「顔がほっとゆるんで笑った」(P55)「奇妙な解放感と疲労感が背中いっぱいに降ってくる」(P64)「吐く息が白く飛んだ」「泣き面が弾けた」「不安そうな目が泳いだ」(P57)などの詩的な表現。

 

 「なんという話だろう」(P66)「何ということだろう」(P72)という言葉が二回。

 

 「……紺碧の空は恐ろしいほどに深く澄み切っている」(P72)「新しい生に目覚めて彗星のように鮮やかだ」(P73)などの比喩。

 

 

 

 つくづく作家というのは「濃厚接触者」だなと感じ入った。

 

 

 

 

 

 

 

発言4            田中恭子

 

 

 

「ガレ場の蝶」を読んで

 

一読したとき、茨木しずくという三十三歳の女性が、自分の深刻な病に向き合いつつも、苦しさも辛さも嘆きも悲しみも吐露せず、地域の九条の会の街頭署名行動で

 

 「……二度もの原爆投下と敗戦のなかから希望を見つめることができたこの国の人々に感動します。私もこれからの人生かけてこれを護らなければならないと思うようになりました」

 

 と、涙声にもなりながら淡々とマイクで言い終えた姿が、強く胸に刺さり、印象に残った。

 

 

 

 その後、どのような人と関わり合いがあり、どのような営みの中で茨木しずくという女性が、人の胸にしみわたり心を揺さぶる気高い発言をするに至ったのか知りたくて、時系列にメモをとりながら読み直してみた。

 

 二〇一七年一月

 

初詣の鳥居の前で、勇人としずくが二十年の時を経て再会。定年退職した小学校の最後に受け持ったクラスにしずくは居た。しずくは三十二歳、勇人は八十歳。

 

 二〇一七年 夏

 

 「九条の会」有志、樽前山登山。ガレ場でクロアゲハ蝶を見つけ、しずく、弁当箱に保護して持ち帰る。

 

 二〇一七年 晩秋

 

 町の検診で、しずく、子宮癌とわかり、緊急入院し摘出手術後、ほかの臓器にも転移していることが判明、抗癌剤投与と放射線治療続く。

 

 二〇一八年一月

 

 しずく、医師から、これ以上癌をやっつける手立てはないと宣告され、緩和ケア病棟に移される。同じ頃、勇人(五年前腎臓癌の手術を受け腎臓を摘出している)の体に新しい病影がみつかる。

 

 二〇一八年八月

 

 勇人、膀胱癌と判明。入院治療の準備に入る。

 

 二〇一八年九月六日 午前時八分 胆振東部地震発生。

 

 震災直後に、しずくは、終末医療を自宅で受けるという選択をし、勇人は九月十六日札幌の癌センターに入院、膀胱癌の治療を始める。

 

 二〇一八年一〇月二十六日

 

 勇人、四〇日間の治療を終えて退院。早来の自宅に帰ってくる。

 

 

 

 作品『ガレ場の蝶』は、この勇人の退院の日の始まり、二〇一八年十一月、九条の会の街頭に車いすに乗って参加したしずくの心揺さぶる発言を経て、しずくの病が深くなり、食べるものも受け付けなくなり、憔悴し弱っている様子と、散歩の途中寄っているというさりげなさで毎日見舞いに訪れている勇人の描写となる。その日、しずくから、樽前山のガレ場から連れてきてしまったクロアゲハ蝶の、死してなお鋭い光沢を放つ姿を見せられて感動する勇人。そしてひとしきり、アサギマダラという悠久の世界に生命をつなぎ今も生き延びている蝶の話をし、

 

「あの場所に帰して上げたい」

 

 というしずくの願いを受け止めて、帰路につくところで、『ガレ場の蝶』は終わる。

 

 

 

 改めて書き出してみると、二年に満たない月日なのに、病魔ばかりが勇人としずくに襲い掛かっているのがわかる。しかし、五〇歳近い年齢差があるのに、二人とも、いらいらしたり、おろおろしたり、じたばたしたり、悶々としたり、不安だけに苛まれたり、苦しいとか痛いとか、直接的な嘆き悲しみを多くは言っていない。特にしずくの場合は、医療費を支払い続けることさえ困難ではなかったろうか。長距離運転の仕事をしてしずくの生活を支えてくれている兄・和也への思いはどうであったのだろう。勇人もまた札幌に住む娘さんに心配をかけているだろうし、八〇歳を超えていることを考えれば、一人暮らしをやめて一緒にと言われているのではないだろうか。でも、でも、二人は愚痴ることもない。

 

 更に、九月六日の大震災から二ケ月後の町で暮らしている二人は、多くの命を奪われ、家を失い、店を失い、畑を失い、仕事もなく、隣の厚真町や日高管内の町も含め、早来でも復興とは程遠い実情があったのではないかと想像すると、そんな中でも九条の会の行動で、「憲法を守ろう」と切実な響きを持って呼びかけることができていることにも驚きを覚えた。

 

(私事であるが、長年パニック障害とうつ病に悩まされてきた夫は、大震災の折、ブラックアウトによる停電と断水、その後五日ほどの買い物難民になった程度の被害で済んだのに、テレビの被害状況を伝える映像を見ることができなくなり、しばらくは一言も言葉を発せず、人と顔を合わせるのがそれまで以上に困難になり、毎日私をハラハラさせていた。東日本大震災の時もそうであったので、病を持つ人にとって災害は相当のダメージをもたらすのだという認識から逃れられないでいる)

 

 しずくは九条の会の仲間に入れてもらって自分は変わったと言う。

 

 「…こんな私でも他人や世の中の役に立てる生き方があるんだなと判ったの。そしたら全く別の生き方が見えてきたの。……本当に」

 

 そう言い切ることのできたしずくを本当に素晴らしい女性だなあと思うのに、終末医療の状況にあってそう言えるのは何故? と聞いてみたい、私の読み取り力不足故の疑問は残ったままだった。勇人の入院の時、しずくが

 

 「先生、私がいるうちに、……必ず退院して」

 

 と、それ以上の弱音をはかずにメールを送ってきたとき、勇人は、〈しずくは一体何処で支えられているんだろう、と思う。〉と記されているが、その思いが終章になっても私の中には残ってしまったことになる。

 

 そして、ごちゃごちゃ言わずに、先入観を持たずにもう一度『ガレ場の蝶』を読んでみようよ、と自分に言い聞かせて三度目に臨んだ。

 

 読後、文中で二度引用されている宮本百合子の言葉が迫ってきた。

 

 「……この瞬間にも地球は廻っている。自転しながら公転しながら」

 

 「……きょうも地球は廻っている。自転しながら公転しながら。俺もしずくも廻っている」

 

 宮本百合子の本は一応読んでいたつもりだが、私の中に残っていない言葉だった。壮大な宇宙規模の歴史のうねりの中に自分の人生そのものを寄り添わせ、蝶としずくと勇人と、三つの命の繋がりを思うなんて、理解力の乏しい私には生まれようもない発想だという気がした。

 

 もしかすると、何故? 何故? と問うばかりではなく、何故から生まれたあれこれの疑問や知り得た感動を、読む人一人一人が、自分のこれから先の人生に向けて想像力を働かせて具体的な実践に生かしてみたらと言われている気もした.四度目の読み込みが必要なのかもしれ

 

ない。(終)

 

 

 

『蛇足ですが、勇人さんとすみれさん へ』

 

勇人さんへ…ヤマボウシの木は私の住む札幌市南区にもあります。日刊紙の配達で回る十五キロ圏内だけの確認ですが点在する三軒の家の庭にありました。忍者の手裏剣のような四弁の花(実は花ではなく苞なのですが)に興味惹かれ、白い花の木とピンクの花の木があるのも見つけました。五月から六月はヤマボウシノの花を見るのも配達時の楽しみです。きっと早来でも街路樹以外にもどこかあるのではないでしょうか。 病状が回復の方向に向いていますように。

 

 

 

すみれさんへ…今もスーパーで頑張っていますか。もう二十年も前のことですが私の関わったスーパーでは、髪の毛の染め色は濃い茶色までで、接客ではない事務職やバックヤードで働く人も明るすぎる色は注意を受けました。爪に関しては男性も女性も常に手のチェックがあり、爪が延びていないかを点検され、派手なマニュキュアは禁止でした。そんな制限のないスーパーに採用されたのはきっとラッキーなことだった気がします。しずくさんに会えたのも九条の会の大人たちに会えたのも、垣根を作らず、でも自分らしく、素直な澄んだ目で物事に接してきたからこそのラッキーですよね。すみれさんは今年二十一歳でしょうか。思い通りにはいかないことは多いでしょうが、スーパーの仲間と地域の大人の人々とそして何よりも家族と一緒に進んでください。そしてあなたの澄んだ目で、良いものは良い、悪いものは悪いと判断し、自分の意見を声に出して言う大人になってほしいと期待しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言5           北野あかり

 

 

 

「ガレ場の蝶」を読んで

 

この作品は、2018年9月6日に起きた、胆振東部地震で被害を受けた街の「9条の会」に集う人たちの活動や平和な社会を求めて、癌と闘いながらも、死の瞬間まで闘い続けている様子を描いています。

 

 

 

「9条の会」の活動に集う人たちについて

 

とりわけ2918年の安保法制を数の力で強行したことに対して、憲法に根ざして、平和な社会を求める懸命さや、集う人たちの支えあう暖かさが素晴らしい。

 

特に厳寒の北海道で、初詣にもかかわらず署名活動を行っていたことに頭の下がる思いがしました。

 

また、政治的なことになると、ともすれば精鋭中心で強いリーダーにお任せしてしまいがちとなるが、一人一人が持っている可能性を大切にする気風。人だけでなく、愛犬やガレ場の蝶にも生きる価値と役割があることを伝えており、とても素晴らしいと思いました。

 

 

 

作品の内容について

 

主人公の勇人は、20年前定年退職した元教師で80才。妻に先立たれ、娘も自立し一人暮らしをしている。5年前に腎臓癌で片方の腎臓を摘出し、今また膀胱癌で放射線治療をうけ退院したばかり。胆振東部地震で被害を受けた街の「9条の会」の中心メンバーとして活動している。生きる望みをなくし故郷に帰ってきた教え子のしずくを支え続けている。

 

しずくは32才、高校生の時母を交通事故で亡くし、高卒後働きながら経理学校で学び、建設会社に就職し結婚したが、夫が別の女性と暮らすようになり離婚。恨み憎んで、自己嫌悪に陥り、生きる望みを失っていたのを、兄が故郷に呼び戻し二人で暮らしている。

 

初詣に、日本国憲法の「9条をまもる3000万署名」を行っていた小学校卒業時の担任、勇人と再会する。過去の暮らしや苦悩に真摯に耳を傾けてくれる勇人に信頼感を持ち、長い引き籠りから脱していく。勇人からプレゼントされた「あたらしい憲法のはなし」を読み、憲法について考えるようになり、9条の会の個別訪問活動に参加する中で、会の仲間にも心を開き、働く喜びを見いだすようにもなった。

 

仲間との登山には、職場の若い同僚を誘って参加するようになり、本来の自分を取り戻していった。

 

ところが、子宮癌が見つかり摘出術を受けるも転移しており、放射線療法と抗癌剤治療を受けたが効はなく、本人の強い希望でケア病棟での入院治療を断り、自宅で終末医療を受けることを選択した。

 

徐々に体力が失われていく中でも、自宅で行う9条の会の打合せに休むことなく参加、憲法を巡る新聞記事を切り抜き、スクラップするなどの役割を担い、国会の動きにもアンテナを張り、タイムリーに行動提起するなど、病床で出来ることを積極的に行った。

 

そして癌の末期になってもなお、車椅子に乗せてもらい街頭署名に参加し、日本国憲法は、凄惨な犠牲の中から辿り着くことのできた戦争の放棄を明記しており、生きる願いのつまったものであることを紹介したあと「人生をかけてこれを護らなければならない」

 

の訴えは、聴く人の心を打ち拍手に包まれる。

 

死を間近にしても尚、伝えなければならない言葉として胸に迫ってきました。

 

 

 

タイトルの「ガレ場の蝶」は、この作品のポイントとなることだと思います。

 

この蝶は、「9条の会」のメンバーと樽前山登山の際、山頂のガレ場で見つけた「ミヤマカラスアゲハ」という蝶で、光沢に輝く青紫色をしており、翅を開閉すると濃紺に変化する宝石のような蝶です。飛び立とうとするが、間もなく翅を閉じて動かなくなってしまう。

 

草や花のある所に移してあげたいと思い、翅が損傷しないように採取用のパラフィンの三角紙に保護してもらったのだが、しずくは持ち帰り、自分の枕元に置き大事に保存していた。

 

死を悟った時、蝶を「あの場に帰してやって欲しい」と勇人に依頼する。その際「この蝶私と似ているみたいで、置いて帰れなかったのかもしれない」「私の人生って、この蝶に似ていると思ったのかなあ」「蝶がそこから飛び立とうしているかのように思えた」「だからこの蝶はあの場所に帰してあげたい」と語ったしずくの言葉から、必死に飛び立とうとしていた蝶と、体力が衰えていく中でも自分の出来ることを精一杯やり遂げようとするしずくがリンクして、生きることの意味を再認識しました。

 

 

 

新型コロナ感染渦の中で、命と生活が脅かされる不安にさらされ、2月から長期に及ぶ自粛生活の中で、孤立し思考能力も萎え、自己防衛が優先して孤立してきました。陽性者や医療者を非難し本来持っていた寛容さを失っている状況が顕著になっていることも感じます。

 

そんな時期に、この作品を読み、勇人やしずくが癌に犯され乍らも、一日一日を大切に、今日自分が出来ることを見つめ懸命に生き抜いている姿は、萎えた足腰や背中をポン!と押してくれました。

 

 

 

 

 

発言6           室崎和佳子

 

 

 

 「ガレ場の蝶」を読んで 

 

 しずくは樽前山のガレ場で見つけた瀕死の蝶に自分自身を重ね、生きるよすがにしていたのだと思う。しかし、しずくは癌に侵され、余命いくばくもない身の上となった。

 

「先生、お願いがあるの。このクロアゲハ蝶を、あの場所に返してやってほしいんだ」

 

「あの場所からこの蝶は、飛び立とうとしていたと思うの」

 

「だから私。この蝶はあの場所に帰してあげたいと思うようになったの」

 

 必死に勇人に頼むしずくに胸を打たれた。

 

 

 

 相手の裏切りによって離婚せざるを得なかったしずくは、小学校時代の恩師である勇人と再会して、新しい生き方を見つける。

 

 怨みだけの人生から、そうでない人生へと転換した矢先に、癌に見舞われる。読者としては、そんなしずくを死なせたくない、というのが勝手なそして正直な気持ちである。

 

 しずくの思いを、すみれが受け止めてくれるだろう。と期待させるところがいい。

 

 

 

 勇人にとっても、しずくの存在はありがたかったと思う。しずくがいることで、病み上がりの体と心が、どんなに勇人を支えてくれたか計り知れない。しずくのためにも強く生きなければならない、と自らを奮い立たせることにより、免疫力もアップするのである。 

 

 

 

 愛犬リンタも存在感がある。

 

 勇人にとってもリンタは必要だが、しずくにとってもリンタは必要なのである。

 

〈リンタが一緒だから作って食べて目が覚める〉(69上段後ろから7行目) 

 

〈リンタはしずくの言葉を待つように見上げている〉(72上段11行目) 

 

〈リンタはじっと二つの瞳でしずくを見ている〉(72上段後ろから6行目)

 

〈リンタが居てくれて救われる〉(73下段後ろから5行目)

 

等の表現を集約すると

 

〈この瞳はヒトを超えるのかもしれない〉(65上段後ろから3行目)

 

ということになるのであろう。

 

 信頼している人間をヒタと見つめるあの瞳のひたむきさは、とっくに人間を超えている。見つめて見つめて見つめ続けるのである。

 

 

 

 死を予感するしずくは、生あるうちに一度でも多く署名活動をしたいと願う。

 

「今度の署名、いつごろ」「私も出たいんだ」「雪虫が翔んでるよ。雪くるよ」「先生、雪が降らないうちに。やろうよ」

 

 そんなことを連発して、勇人や俊二や良子や朗に行動を促す。自身の体は弱り切っているのに。

 

 車椅子に乗って参加し、マイクを握って訴えるしずくに感銘して、串団子とタイヤキを差し入れるすみれ。

 

〈しずくちゃん。スピーチ感動。ボクチンもケンポウ読んでみるかな。〉

 

 差し入れの包装紙に書いてあったすみれのメッセージが抜群にいい。 

 

発言7            村瀬喜史                 

 

 

 

さすがに読ませる作品

 

勇人とかつての教え子・茨木しずくとの憲法九条をまもる運動と癌患者同志の交流をえがいたもので、私の文学上の大先輩ともいうべき存在の高橋さんで、批評はおこがましいが、まず読ませる作品である。

 

 国立癌センターが十階建とはしらなかった。母をここで亡くし、最近はここでのコロナのクラスター院内感染の発表がつづくが、その前日、わたしの地域党支部の支部長が退院したばかりで、なにかと注目していた。いま連載中の「森の記憶」と癌・九条・自然など状況があって似ている。樽前山は初心者にも手ごろな山で私もフップシ(風不死岳)をふくめて数回のぼっている。登山の好きな高橋さんらしい描写である。白老にいたとき、ホロホロ岳にのぼりたいとお話していたことを思いだす。もちろん実現しなかった。

 

 出だしから4行目「何を喰ってもいい」という。二行目に「食べ終えて」とあるから、言い換えて「喰って」にしたのだろうが、「食べて」のほうがいい。登山での「さあ小便,大便はすんだか、出発進行」が時間を厳守する朗が気合をいれるが、こんな言葉はつかわない。朗が国鉄マンだったとはあとでわかる。私のときは「トイレタイム」と言っていた。

 

 ネズミの話、通り道の穴をふさいでもダメ、昨年は十一月十二日にわが家で十二匹目を、捕獲した。仕掛けは網製の篭であり、店頭には出ていない。量販店で倉庫から探しだしてもらい購入した。餌さは一口チーズ、雪がなくなると出てきていたが、今年はまだだ。

 

札幌市の分譲住宅で三百戸もあったのが、今は百戸を割っている。戸建から4~16世帯のアパートなどの改築のとき、道を越えてネズミがわが家にくる。捕獲後の後始末は簡単、水死させ燃えるゴミである。

 

 近所から頼まれて捕獲したこともある。どこの道を通るのかをしらべ,知恵比べでもある。

 

 

 

 多喜二の東倶知安行に演説会場として出でくる光寿寺の住職・松長正憲さんがなくなった。なんと遠くノーマさんから松木新経由で知った。すぐ訃報欄でたしかめ、ちょうど手元にあった大月源二の絵葉書「告別」で松木ハガキと同じ書き方でお悔やみを送った。通夜の日で、まにあったかどうか。このあたりのことは、『奔流』1920号に「多喜二を語る」で書いた。20号には住職と語り合っている写真も掲載している。享年91歳で、一度小樽多喜二祭であいさつしてもらいたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言8             豊村一矢

 

 

 読者に徹すること

 

 民主文学会に入って以来、「これは事実か? 作者の体験か?」にこだわるのは、文学作品の読み方として正しくないと何度も教えられ、今では私の中でも常識になっている。

 

 本作品では、私は作者と日頃から交流があり、作品誕生の経緯を知り得る立場にあったものだから、読む前から作品のイメージができていて、先入観が邪魔しないか心配だった。

 

だが、『民主文学』5月号で「ガレ場の蝶」全文と初めて手にすると、心配がウソみたいに集中して読み進められた。始めは話が行ったり戻ったりして戸惑ったが、すぐに主題が明確になり、あとは「体験か否か」はもとより、先入観にも囚われることなく作品に没頭できた。

 

 

 

中心人物は勇人としずくがセットで、主題は(宮本百合子の言葉)「……この瞬間にも地球は廻っている。自転しながら公転しながら」に集約されていると理解した。

 

このときの勇人はしずくと関わって勇人であり得たし、しずくは勇人の励ましの中でしずくになり得た。

 

子宮癌を患い余命幾許もないしずく、新しい病影と向き合う勇人。やり場の無い苦しみのなかで、ふうっと過ぎる「言葉の端くれ」として、「……自転しながら公転しながら」が描かれた。この言葉は、二度目、三度目がある。

 

 二度目は、「……きょうも地球は廻っている……。自転しながら公転しながら。俺も一緒に廻っている。

 

 三度目は、「……きょうも地球は廻っている。自転しながら公転しながら。俺もしずくも廻っている。」となり、勇人は、クロアゲハ(ミヤマカラスアゲハ)蝶をあの場所に戻して欲しいというしずくの願いを引き受ける。

 

 作品は、この後、8行で閉じられる。

 

 読後感は爽快だった。たぶん「善人ばかり出てくる、自己変革・成長のきっかけや動機がストレートすぎる」とし、それを弱点と評価する読者も多いと思う。それは理解できるが私と同じではない。

 

勇人としずくは、生きるのに致命的とも言える困難と苦しみを抱えている。だから、きっかけや動機がストレートだからこそ私に切実感が伝わり、読後感が爽快だったのだと思う。

 

 

 

 私に不満や疑問がなかったわけではない。

 

 言葉の「端くれ」のところは、もっと広げて書いてほしかった。自転・公転……、文字面だけ読めば天文の常識のフレーズだ。「歌声よ、おこれ」の百合子だから検討は付くが、当時の百合子の活動を添えて描かれれば、理解がさらに深まったのは間違いないと思う。

 

 もう一つ。私の曖昧な知識のままで、失礼な口出しになるのを承知の上で書く。ミヤマカラスアゲハ蝶のことだ。記憶違いでなければ、ミヤマカラスアゲハ蝶は自らを進化させながら絶滅の危機をのりこえ、天敵が殆どいないガレ場のような厳しい環境でも生きる能力を身につけた。勇人が話して聞かせたアサギマダラ蝶と同じような進化を遂げたものだが、そうであればガレ場の蝶は哀れな状況でなく、逞しい存在として観ることができる。しずくが死を迎えるミヤマカラスアゲハに自分を重ねるとき、作品の最終段落でこの観点が出てくるが、勇人の内心に留まっていて不満だ。しずくの自覚になっているかどうかが曖昧で、勇人の「…自転、公転……」のフレーズに吸収されてしまっている。

 

 始めガレ場で見つけたとき、この蝶をしずくはクロアゲハと言う。勇人はミヤマカラスアゲハと解るが、その後、最後までしずくがクロアゲハと言うのを黙認している。なぜか? 

 

 

 

柴犬リンタが生き生きと描かれている。もはや無くてはならない登場人物だ。樽前登山も臨場感が溢れている。私はペットと暮らしたことがなく登山といえる経験も殆ど無い。作者の筆力、表現力にはいつもながら感服する。

 

作品は、胆振東部地震はもとより三〇年以上前の国鉄分割民営化反対闘争にまで視野に入れている。かつて私は追分機関区で決行された全動労のストライキを応援するため追分に駆けつけたことがある。そのときの高揚感を思い出させてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

発言9            村松祝子    

 

 

 

「ガレ場の蝶」を読んで

 

小学校の教員を定年退職して80歳になる勇人を主人公に、彼を中心とした「9条の会」の仲間の中で起きた出来事を描いている。

 

勇人を始め仲間四人、しずく、良子(亡妻の友人)、朗(国鉄職員)、俊二(塗装業)の性格もきちんと書き分けられ理解しやすかった。

 

彼等年配者たちにインパクトを与えた、しずくやすみれの若者のらしいい服装の表現や行動

 

も違和感なく日常生活でよく目にする場面であり頷きながら読んだ。

 

朗が語る配転後の職場環境の劣悪さは初めて知った。新聞紙上で次々と起きるJR事故は本当に起こるべくして起きているのだと深く頷ける。

 

死を目前にして訴えるししずくの街頭演説とその演説に感動して差し入れをするすみれの心遣いも心に残る文章だった。

 

しずくの人生、しずくを取り巻く人々の人生、この地球上で生命をどう繋いで次の世代へ連結していくのか。個々人はどう歩んでいって、どこへ行くのか。

 

死に行くしずくとミヤマカラスアゲハを通して勇人はそれに続いていく己の生命をこの地球上で感じ取った。

 

しずくの生きる価値を見出した素晴らしい生き方がこの作品の主題なのだと思う。何億年も続いてきた人間の歴史で憲法はしずくの生き方を変え、しずくの人生の羅針盤となった。そしてしずくは勇人たち憲法仲間に勇気と気迫を与えて、この地球上で生きてきた。

 

生き延びて樽前山の頂上の岩に止まったミヤマカラスアゲハは、しずくに捕まえられて一生を終えたかったのかもしれないと夢想した。

 

私は今一人の叔父の生きてきた道を綴っている。叔父は世の中の出来事の中でどう生きてきたのだろうかとふり返えさせられる。

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

再び『安曇野』を読む

 

後藤守彦

 

 

 

今、アナキズムが再び注目されている。ポスト・コロナ、いやコロナと歩む社会が正しいだろう、それを考える上での判断材料を提供しているかもしれない。社会学者の酒井敦史はいう。

 

 

 

反グローバリゼーションや国際的反戦運動のなかで、世界の民衆運動が主要にとるイデオロギーがマルキシズムからアナキズムに移行したといわれて、かなり長い時間がたった。その現場にいあわせるなら、アッセンブリーの形成(ダイレクトデモクラシー)、異質な主義主張を前提とした合意形成への細心な注意(自由連合)、運動空間を何らかのかたちで生活と交錯させること(相互扶助)、セクト主義的ヒエラルキーの拒絶(自己組織化)、政党や政治からの自律(反議会主義)など、これまでアナキズムに属するとされてきた基本原理がそこここにみられることがわかるだろう」(「赤いローザと黒いローザ」『思想』二〇一九年一二月号)

 

 

 

 また、酒井は「いまだに比類なき資本主義の分析装置としてのマルキシズムと主要には行動にかかわる原則としてのアナキズムとの「分業」がなんとなく成立している」とも述べている。だが、マルキシズムに倫理的側面はないのであろうか。マルクスは「自由・自己決定・自己発展といった偉大な革命的価値の勇敢な擁護者だった」(テリー・イーグルトン『なぜマルクスは正しかったか』河出書房新社、二〇一一年)のである。 

 

ところで、日本のアナキストといえば、先ず幸徳秋水や大杉栄の名が浮かんでくる。拙著『只、意志あらば植民地朝鮮と連帯した日本人』(日本経済評論社、二〇一〇年)でその思想形成過程を探った金子文子も含めていい。もう一人、気になっていたのが、秋水と平民社でともに活動し、戦後日本も生きた石川三四郎である。

 

稲田敦子『共生思想の先駆的系譜−−−石川三四郎とエドワード・カーペンター』(木魂社、二〇〇〇年)は、英文の文献も活用した本格的な研究書である。巻末の参考文献の「石川研究文献」の欄に臼井吉見の『安曇野』(筑摩書房、一九六五~一九七四年)が載っている。こうした研究書で、参考文献として小説を上げるのは珍しい。それだけ評価が高いのだろう。『共生思想の先駆的系譜』では、何百人ともいわれている登場人物のうちで、最も敬愛するのは誰かと訊かれた臼井が、石川三四郎と答えた、と紹介している。その理由は、『安曇野』第四巻中の記述で示されている。「人間は社会と戦うと同時に、内なる自己と闘わなくてはならぬ、人間存在の本質はそこにある、というのが三四郎の根本思想であるらしかった」からである。社会変革と自己変革の結合、三四郎はそれを誠実に追求したのである。三四郎の自己を見つめる眼差しは実に厳しく、三四郎は内なる無明と徹底的に闘った。

 

 

 

水車小屋のわきの榛〈はんのき〉林を終日さわがしていた風のほかに、もの音といえば、鶫〈つぐみ〉撃ちの猟銃が朝から一度だけ。にわかに暗くなってきた軒さきに、白いものがちらつき出した。

 

 

 

こうした書き出しで全五巻の大河小説『安曇野』は始まる。一八九八(明治三一)年のクリスマスの日。信州安曇野の穂高村で、相馬愛蔵の妻となった良(黒光)は、クリスマスツリーの飾りつけをしていた。これが、作品の時の起点である。穂高村は臼井の生まれ故郷でもある。その後、相馬夫妻は東京でパン屋の中村屋を開業する。主人公の相馬夫妻がセッティングした、長野と東京の舞台に数多の人物が立った。穂高村出身の荻原守衛と信州松本生まれの木下尚江、さらに石川三四郎が主役級だが、守衛以外の彫刻家として北海道出身の中原悌二郎などが登場する、まさに群像劇である。足尾鉱毒事件、大逆事件などの諸事件や人物の行動や思想をもとに、一九七三(昭和四八)年までの、日本の近現代史が描かれており、小説ではあるが、優れた歴史叙述といってもいい。

 

 『安曇野』第一巻のカバー装画は、安野光雅の「碌山美術館」である。キリスト教の教会を思わせる煉瓦造りの建物には、荻原守衛の最後の作品である「女」などが展示されている。守衛の没後、碌山美術館の開設にあわせて石膏像をブロンズ化したのだが。二度訪れているが、やはり「女」は印象的であった。身体の後ろで腕を組み、跪いている裸の女性。立ち上がろうとしているのだろうか。天を見上げ胸を突き出している。その姿に苦悩を見るといったとらえ方もあるようだが、壁を突き破ろうとする強烈な意志を感じた。「女」には、守衛が恋慕した相馬黒光のイメージが投影されているといわれている。第二巻で逝く守衛の享年は三〇歳。実に若い死である。巻末に必ず用意されている、後書きともいえる「作者敬白」で、臼井は「せめて碌山の死まで書きたい、との思いせつなるものがあった」と述懐している。第一巻上梓の後、臼井は大病を患っているのである。

 

木下尚江には一時興味を持ち、『火の柱』『良人の自白』など、著作を読み漁った。しかし、後退ともいえる思想的変容を理解できず、書きまとめることはしなかった。臼井は、相馬黒光に、尚江は「本音ははじめから小胆で弱いところのある人」「小胆だからそれに負けないように大胆に出る。それも弁舌の上で強いことを言い、不正をやっつけるだけのこと」といわせている。実に手厳しい。韓国併合や三・一独立運動一〇〇周年に際して講演する機会があったが、レジュメには、尚江の論稿「敬愛する朝鮮」(『平民新聞』、一九〇四年六月一九日号)の一節を必ず載せた。

 

 

 

朝鮮は曽て支及び印度の学芸技術道徳宗教を日本に取り次ぎたる最古の大恩人なり。然れども日本が之に酬いたる所の者は古来只「侵略」の一ありしのみ、朝鮮人の眼を以てすれば、支那と露西亜と日本と、其の侵略者たるに於て何等相違するところあらず。

 

 

 

 一九〇四(明治三七)年二月には、日本による朝鮮植民地化の端緒となった日韓議定書が結ばれている。日露開戦という状況を考えれば、それこそ「敬愛」に値する主張である。

 

 臼井は、一〇年の歳月をかけて『安曇野』を書き上げた。臼井は五千六〇〇枚の大作で何を追究したのだろうか。文芸評論家の久保田正文は、「天皇の問題こそ、『安曇野』最大の、そして一貫するテーマであるだろう」と述べている(「巨大な問題提起」『群像』一九七四年八月号)。一九三八(昭和一三)年二月に、三カ月前に死去した木下尚江を偲ぶ会が開かれた。参会者の一人である神崎清の発言、「木下老は社会主義者といっても、ありきたりのそれとちがい、天皇制の憎悪否定で貫かれていたのが特色で、これは晩年まで変りはなかった」が、『安曇野』第四巻で引用されている。確かに、天皇制を抜きにして日本近現代史は語れない。『安曇野』のラストでは、作者自ら舞台におどり出て、天皇の問題について多弁を費やしている。昭和天皇は受け身の存在と思っていたが、それは誤りで戦争計画や軍事作戦を十分承知していた、天皇には戦争責任があり退位すべきだ、と戦争体験者として臼井は言い切っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『コロナの時代の僕ら』は何をなすべきか

 

               松木 新

 

 

 

イタリアの作家パオロ・ジョルダーノが、新型コロナ危機が深刻化するローマで、二月二十九日から三月四日までの日々の記録を、二十七本のエッセイとしてまとめたのが『コロナの時代の僕ら』(早川書房 二〇二〇年四月)です。

 

二月二十五日付「コリエーレ」紙に寄稿したエッセイ「混乱の中で僕らを助けてくれる感染症の数学」が話題を呼び、ウエブ版のシェア回数は実に四百万回を超えたといいます。この記事の内容を発展させたのが本書です。二十七カ国で緊急刊行され、日本語版は四月二十五日に出版されました。翻訳本にしては異例の早さです。以下、エッセイのタイトルと印象に残った文章を紹介します。

 

 

 

「このまともじゃない非線形の世界で」

 

 

 

現実には、そもそも自然の構造が線形ではないのだ。自然は目まぐるしいほどの増加(指数関数的変化)か、ずっと穏やかな増加(対数関数的変化)のどちらかを好むようにできている。自然はうまれつき非線形なのだ。

 

感染症の流行も例外ではない。とはいえ科学者であれば驚かないような現象が、それ以外の人々を軒並み怖がらせてしまうことはある。こうして感染者数の増加は「爆発的」とされ、本当は予測可能な現象にすぎないのに、新聞記事のタイトルは「懸念すべき」「劇的な」状況だと(うた)うようになる。まさにこの手の「何が普通か」という基準の歪曲が恐怖を生むのだ。

 

 

 

「最善を望む」

 

 

 

でも、感染症の流行に際しては、何を希望することが許され、何は許されないかを把握すべきだ。なぜなら、最善を望むことが必ずしも正しい希望の持ち方とは限らないからだ。不可能なこと、または実現性の低い未来を待ち望めば、ひとは度重なる失望を味わう羽目になる。希望的観測が問題なのは、この種の危機の場合、それがまやかしであるためというより、僕らをまっすぐ不安へと導いてしまうためなのだ。

 

 

 

「運命論への反論」

 

 

 

「多は()なり」だ。物理学者のフィリップ・ウォーレン・アンダーソンがこの言葉を記した時、その頭にあったのは電子と分子の話だったが、これは僕らについて述べた言葉でもある。ひとりひとりの行動の積み重ねが全体に与える効果は、ばらばらな効果の単なる合計とは別物だということだ。アクションを起こす僕らが大勢ならば、各自のふるまいは、理解の難しい抽象的な結果を地球規模でいくつも生む。感染症流行時に助け合いの精神がない者には、何よりもまず想像力が欠けているのだ。

 

 

 

「誰もひとつの島ではない」

 

 

 

数学のグラフ理論的な表現をすれば、僕らが生きているこの世界は、きわめて多くのつながりを持つひとつのグラフなのだ。ウイルスはペンの引いた線に沿って走り、どこにでも到達する。

 

詩人ジョン・ダンの瞑想録に由来する「誰もひとつの島ではない」という使い古された文句があるが、感染症においてはその言葉が、これまでにない、暗い意味を獲得する。

 

 

 

「引っ越し」

 

 

 

環境に対する人間の攻撃的な態度のせいで、今度のような新しい病原体と接触する可能性は高まる一方となっている。病原体にしてみれば、ほんの少し前まで本来の生息地でのんびりやっていただけなのだが。

 

森林破壊は、元々人間なんていなかった環境に僕らを近付けた。とどまることを知らない都市化も同じだ。

 

多くの動物がどんどん絶滅していくため、その腸に棲息していた細菌は別のどこかへ引っ越しを余儀なくされている。

 

家畜の過密飼育は図らずも培養の適地となり、そこでは文字通りありとあらゆる微生物が増殖している。

 

 

 

「パラドックス」

 

 

 

感染症の流行は考えてみることを僕らに勧めている。隔離の時間はそのよい機会だ。何を考えろって? 僕たちが属しているのが人類という共同体だけではないことについて、そして自分たちが、ひとつの壊れやすくも見事な生態系における、もっとも侵略的な種であることについて、だ。

 

 

 

「専門家」

 

 

 

「科学における聖なるものは真理である」(『シモーヌ・ヴェイス選集Ⅲ』冨原真弓訳、みすず書房)哲学者のシモーヌ・ヴェィユはかつてそう書いた。しかし、複数の科学者が同じデータを分析し、同じモデルを共有し、正反対の結論に達する時、そのどれが真理だと言うのだろう?

 

今回の流行で僕たちは科学に失望した。確かな答えがほしかったのに、複雑な意見しか見つからなかったからだ。ただ僕らは忘れているが、実は科学とは昔からそういうものだ。いやむしろ、科学とはそれ以外の形ではありえないもので、疑問は科学にとって真理にまして聖なるものなのだ。

 

 

 

「パン神」

 

 

 

行政は専門家を信頼するが、僕ら市民を信じようとしない。市民はすぐに興奮するとして、不信感を持っているからだ。専門家にしても市民をろくに信用していないため、いつもあまりに単純な説明しかせず、それが今度は僕らの不信を呼ぶ。僕たちのほうも行政には以前から不信感を抱いており、これはこの先もけっして変わらないだろう。(略)

 

新型ウイルスはそんな悪循環を明るみに出した。科学が人々の日常に接近するたび、毎度のように生じる不信の悪循環だ。パニックはこの手の悪循環から発生する。発表された数字が原因ではない。

 

そもそもパニック(panic)とは、ギリシャ神話のパン神(Pan)のいわば自己循環的発明だ。この神には時おり物凄い叫び声を上げる癖があり、その凄まじさときたら、本人まで自分の声に驚き、震え上がって逃げだすほどだったという、そんな神話に由来する言葉なのだ。

 

 

 

「日々を数える」

 

 

 

今度の流行に意義を与えるべく、努力してみることだってできる。この時間を有効活用して、いつも日常に邪魔されてなかなか考えられない、次のような問いかけを自分にしてみてはどうだろうか。僕らはどうしてこんな状況におちいってしまったのか、このあとどんな風にやり直したい?

 

日々を数え、知恵の心を得よう。この大きな苦しみが無意味に過ぎ去ることを許してはいけない。

 

 

 

「コロナウイルスが過ぎたあとも、僕が忘れたくないこと」

 

 

 

コロナウイルスの「過ぎたあと」、そのうち復興が始まるだろう。だから僕らは、今からもう、よく考えておくべきだ。いったい何に元どおりになってほしくないのかを。

 

このところ、「戦争」という言葉がますます頻繁に用いられるようになってきた。(略)今度の緊急事態は戦争と同じくらい劇的だが、戦争とは本質的に異なっており、あくまで別物として対処すべき危機だ。

 

今、戦争を語るのは、言ってみれば恣意的な言葉選びを利用した詐欺だ。少なくとも僕らにとっては完全に新しい事態を、そう言われれば、こちらもよく知っているような気になってしまうほかのもののせいにして誤魔化そうとする詐欺の、新たな手口なのだ。(略)

 

すべてが終わった時、本当に僕たちは以前とまったく同じ世界を再現したいのだろうか。(略)

 

支配階級は肩を叩きあって、互いの見事な対応ぶり、真面目な働きぶり、犠牲的行動を褒め讃えるだろう。自分が批判の的になりそうな危機が訪れると、権力者という(やから)はにわかに団結し、チームワークに目覚めるものだ。一方、僕らはきっとぼんやりとしてしまって、とにかく一切をなかったことにしたがるに違いない。到来するのは闇夜のようでもあり、また忘却の始まりでもある。(略)

 

僕には、どうしたらこの非人道的な資本主義をもう少し人間に優しいシステムにできるかも、経済システムがどうすれば変化するのかも、人間が環境とのつきあい方をどう変えるべきなのかもわからない。実のところ、自分の行動を変える自信すらない。でも、これだけは断言出来る。まずは進んで考えてみなければ、そうした物事はひとつとして実現できない。

 

     ☆

 

『コロナの時代の僕ら』に刺激されて、パオロ・ジョルダーノのデビュー作『素数たちの孤独』(早川文庫)を読んでみました。素粒子物理学の研究者で二十六歳のジョルダーノのこの長編小説は、人口六千万人のイタリアでは異例の二百万部を超えるベストセラーを記録したそうです。

 

【双子素数】があります。ある数とその数に2を加えた数が、ともに素数であるような対の数字です。例えば、3と5、5と7、1113などです。

 

マッティアとアリーチェは、それぞれが「過去の亡霊」のもたらす「結果の重み」に苦しんでいる、「素数の孤独」のような存在です。幼少期から青年時代までの彼らの足跡は、あたかも、「双子素数」のような関係として描かれています。

 

ハッピーエンドとはいかない、救いのない物語のようですが、二人の生き悩む姿勢には、共感出来るものがあります。

 

 

 

 私の好きな日本映画⑤

 

おくりびと』

 

        泉  脩

 

 

 

亡き人をおくる姿

 

東京のオーケストラの解散で失業したチェロリストの小林大悟(本木雅弘)が、妻の美香(広末涼子)と共に、故郷の山形に帰る。二年前に亡くなった母親が残した家である。

 

そして、新聞広告で見つけた仕事が、なんと納棺師だった。社長(山崎努)はすぐ彼を採用し、次々と仕事が入る。訳も分からず働くうちに、死者を美しく装い、死出の旅路に送り出す仕事の大切さが解ってくる。対立し、いがみ合っていた家族が、美しくなった亡き人の前で和解するのである。

 

この仕事を嫌って実家に戻った妻も妊娠と知って戻り、馴染みになった風呂屋の女主人の葬儀に参列する中で、夫の仕事をやっと理解するのである。

 

ひさしぶりに見る広末涼子は、やはり可憐で美しく、アイドルを卒業して立派な女優になっている。夫の本木雅弘とピッタリと合った名演技を見せている。

 

山形の鶴岡を舞台にしたドラマは、私にとっては何とも懐かしい。母方の祖父母が生れ育った町であり、つい最近も友人と旅をしてきた町である。子供の時から六回目の旅だった。古い城下町であり、幾つかの川が流れ、白鳥が飛来する土地である。

 

この映画の主人公の元チェロリストは、六歳の時に父が自分のカフェで働く女給と駆け落ちをし、母がスナックをしてやっと彼を育ててくれた。その母も一人で亡くなり、自分は音楽家から納棺師への劇的な転職を余儀なくされたのである。

 

そして、仕事にも慣れ、誇りすら持つようになり、妻もやっと理解してくれたのである。そして、失踪した父の死が知らされる。家族を捨てた父を許せない彼を、妻や仕事先の人々になだめられ、やっと父のもとに車を走らせる。

 

父は早くに一人になり、近くの漁港で働き、番屋で亡くなっていた。大悟は父の顔がわからず、立ち尽くすだけだった。やがて葬儀屋が来て納棺しようとすると、大悟は死化粧に取り掛かる。びっくりした葬儀屋に、妻は「私の夫は納棺師です」と、毅然として言う。

 

大悟が父の着替えをしようとすると、父が小石を握っていることに気付く。子供の時に父と交換した碑(いしぶみ)である。まだ文字がない時代、気持を込めて石を交換したのである。大悟も父からもらった大きめの石を、まだ持っていたのだ。

 

大悟は初めて「お父さん」と呼びかけ、涙を流す。二人の気持が通じたのである。彼は父が握っていた小石を、妻のお腹に押し当て、やがて生まれてくる子供()に伝えたのである。

 

映画はここで終るが、胸が締め付けられるシーンだった。

 

父と息子はそれぞれ勝手な生き方をするので、容易には理解できないものだ。しかし心の中では、相手を偲び続けているのである。母と子のような直接的な激しい愛ではないのだが。

 

この映画は、いかにも日本的な古めかしい映画である。それなのに内外で広く理解され支持された。やはり人間の心、肉親の愛は時代を超え世界共通なのだろう。今度もまた私は胸を締め付けられ、涙が流れた。

 

素晴らしい映画である。

 

四年前、私の妻が亡くなった時、やはり死化粧された。十年も入院して、やつれた妻の顔がすっかり美しくなった。妻の顔を見た人の誰もが若々しいと、褒めてくれた。

 

私の姉は「春美さんはこんなに綺麗だったろうか」と言った。私もまた、妻の若き日を思い出し、胸を打たれたのである。納棺師というのは大切な仕事であるというのが、改めてわかったのである。

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇二〇年月一日 258号

 

 

 

 

 

四月例会合評紙上報告

 

 

 

 

 

      

 

支部例会は、月一回、特に議題がある例会以外、作品合評を行ってきました。しかし、新型コロナウイルスの感染拡大が深刻になり、会議室での例会は避けなければならない状況になりました。

 

      思案の結果、「札幌民主文学通信」紙上で合評することにしました。

 

      従来の通信への合評報告は、終了した合評の内容をレポーター担当がまとめたものでしたが、本号は、レポーター報告、紙上合評参加者の発言、の構成になっています。

 

次号から、紙上発言を受けての発言、支部会員の追加発言、再発言の欄を設けますので、奮って「発言原稿」をお寄せください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  合評作品

 

  空猫時也「光射す海域へ」

 

(『民主文学』三月号)

 

 

 

 

 

 

 

  レポート     北野 あかり

 

 

 

 この作品は、長期間引き籠もり状態だった青年が主人公で、彼の特異的な性向や、心の葛藤について、生育歴に沿って描き、彼が再生するために、どのような関わりが必要だったのかを描いています。

 

私は、この作品を読んで、若い青年が、人間として生き抜こうとする切実さと葛藤が、とても良く伝わってきました。そして、「わたしは、深海から、光射す海域へと命を賭して渡ることが叶った。この世界の何と暖かなことだろう」との結びの言葉に安堵し、思わず拍手をしてしまいました。 

 

 

 

主人公は、幼少時から並み外れた集中力と記憶力を持ち、日常使わない難しい単語も記憶できる。それに加え興味のあることへの極端なこだわりや、人との関わりが苦手という性向があった。

 

小学校時代は虫取りとその飼育、中学校時代は、3年間でA4ノート6冊にもなる長編漫画の創作を書き上げ、その偉業は周囲から一目おかれたのだが、他人と異なるロシア語の単語を使うなどに固執しているため孤立していた。

 

中学校時代から抱くようになった、コミュニケーションの苦手意識が、高校生になって、教育に持ち込まれた勝ち組と負け組という組み分けがストレスとなり、ますます孤立し、引き籠もり状態に陥ってしまった。

 

地獄の苦しみと焦燥感から脱したいと思い、かつて小学校時代に虫取りに行った山に登ったが、そこで小学校時代にタイムスリップし、高所から飛び降りてしまい両足の踵骨を粉砕骨折してしまった。

 

医師から元のように歩けるようになるか確約できないと告げられ、痛みを伴う過酷なリハビリと将来への展望も打ち砕かれてしまい心まで病んでしまう。

 

「暗い深海の底を這いずる一匹の盲目の魚に成りはてた」と思うような状況の中で、生きるよすがは唯一、小学校と中学校で共に過ごした友との思い出だけだった。

 

退院後も、生きる居場所を見つけられず、何とかして出口をみつけようともがき続け、眉間に深い皺を刻み、自室で突っ伏して過ごす……そんな自閉状態が数年も続いていた。

 

そんな彼に生きる気力を取り戻す機会が訪れたのは、二〇代半ばだった。

 

両親が薦めてくれたロシア語講座の案内を目にした時、中学生の時に自分が格好の良い言葉を捜して見つけたロシア語だったことや、創作活動に夢中になっていた頃の自分の姿にタイムスリップし、受講することを決意した。

 

そして、ロシア語講座でのタチアナ先生との出会いが、長い間引き籠もり状態だった彼を救いだし、社会人として自立していく要因となった。

 

タチアナ先生については、初対面での柔和な笑顔とハスキーな声の響きに心がときめき、真っすぐ見つめ「ようこそ、ロシア語の世界へ、あなたに会えてとても嬉しいです」との言葉に、そのままの自分を包み込むようなオーラが、彼の心に光を灯したのだと思います。

 

教え方についても、ロシア語の文法や発音など初歩から教えるだけでなく、文化や庶民の暮らしについてもエピソードを交えての語りに「狭い教室から広いユーラシア大陸へ続く大きな橋のように感じた」……と、描いており、彼が深い眠りから目覚めて、生きる光を見だした喜びが伝わるようでした。

 

その後、ロシア語の翻訳を生業とする迄には、様々な困難があったと思いますが、彼は自分を見守ってくれる先生や家族の存在を信じ、彼が持っている特性を活かして、乗り越えていったのだと思います。

 

この作品の最後は、彼を引き籠もりから救い出してくれた人たちへの感謝の気持で終えており、作者の優しい人柄が感じられるよい作品でした。

 

また作者は、どんな人間にも素晴らしい価値があり、お互いが理解し合い支えあって生きる社会を目指して欲しいというメッセージをこの作品に込めたのだと思いました。

 

 

 

私も、異常なこだわりと感情コントロールの困難な子供と暮らし、関わり方の難しさにぶつかる中で、改めて自閉症について調べてみました。私の場合、違和感を感じる特異な性向を持つ人を、自分の価値観で判断したり、排除している自分を発見し愕然としました。幸い介護専門員との関わりを通して、子供が自立できました。そのことを通して、人間として認め合うことや、支え合って生きることについて、個人で学ぶことも必要ですが、相談できる専門員や社会資源の活用も必要だと思います。

 

 知的障害者施設「津久井やまゆり園」の入所者四十五人を殺傷した植松聖被告の「障害者は、不幸を生む不要な存在、生産性のない生きる価値のない人間」という考えに、身震いする程の憤りを覚えました。

 

一方「誰もが生まれながらにして持っている人格発達の権利を徹底して保障する」と訴えた、障害者福祉の父と言われた糸賀一雄さんのメッセージもあり、多くの人が障害を持つ人を理解し、共に生きる社会を構築しなければならないと感じています。

 

 

 

 

 

 

 

 発言1          松木 新

 

 

 

「光射す海域へ」の感想

 

ロシア語が、〈深海魚だったわたし〉に〈再生する機会を与えてくれた語学〉であったことを描いた小説。「ロシア語の世界」ではなく、「ロシア文学の世界」ならば、ドストエフスキーの作品を例にとるまでもなく、多くが語られてきました。「ロシア語の世界」については、ほとんどないと思います。その意味でも、この作品は貴重です。

 

この作品の魅力の一つに、文体があります。〈その笑顔は、まるで太陽のきらめく青空であるかのように爽やかですらあった〉など、もう少し表現を考慮した方が良い箇所もありますが、作者と〈わたし〉との距離感が適切で、〈世界の峻厳の一部〉、〈涙色に染まった〉など、本質を衝いた表現が、随所で光っていて、落ち着いた文体と馴染んでいます。

 

凪子と竜一をめぐるエピソードは、それ自体、独立した短編の世界としても成立するほどに豊かな内容です。凪子との経験で、〈わたし〉は、〈世界の峻厳の一部を理解し〉、竜一とのエピソードでは、竜一が、〈無垢な精神を愛国心でいっぱいにし〉て変貌する不条理に戸惑います。

 

〈わたし〉が体験した〈世界の峻厳〉と人間の不条理。〈はるか彼方の光に憧れ〉ながらも、世界の現実が内包する得体の知れない不安に苛まれる〈わたし〉の遠因がどこにあるのかを、このエピソードが物語っています。

 

この二つのエピソードによって、タチアナの手紙の一節、〈あなたの人生は、とても美しいのですよ〉によって、〈盲目の魚は変容を遂げ、光射す方向へ泳ごうとしている〉ことが、説得力を持ってくるのだと思いました。

 

日本ユーラシア協会の会長である北大名誉教授の竹田正直先生とは、三十年来の付き合いですが、この小説をもう少し早く読んでいたら、ロシア語を勉強したのに、と惜しまれてなりません。学生時代、ロシア語は、「ミール」と「タワーリシチ」さえ覚えておけば良いと、先輩から言われたことを、真に受けていたのが悔やまれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言2           村松祝子

 

 

 

「光射す海域へ」を読む

 

ロシア語(キリル文字)の翻訳を生業とする、主人公の、今日までの成長の物語である。 一つのことに異常にこだわる自閉症の特性を持った、主人公の個性を認め、その特性を伸ばし励ましてくれる両親に育てられた。小学校時代は同級生の森凪子と昆虫に夢中になり、中学時代は自分の書いた漫画「ジェンド・ラスカート」を、高く評価してくれる竜一とよく語り合った。しかし高校時代は周囲とのコミュニケーションの違いを感じるようになり、差別社会の現実が教育の場にも入り込んできた。それらに耐えられなくなって、ある日凪子と虫をとった思い出深い海月山に登った。夢中でバッタを追いかけているうちに高所から飛び降り足の踵を骨折する。両足の手術を何度も繰り返しながら二十代中頃まで家の中で悶々とした生活を送っていた。そのうち両親の勧めで「ロシア語講座」の門を叩く。そこで出会ったタチアナ先生によって主人公は人生の深海で、のたうち回っていた状態から未来に羽ばたく世界へと飛び出していくのであった。 

 

読後感は爽やかな明るい気持ちにさせてくれた。登場人物も全て善人で特に理解ある両親に恵まれていたし、友人二人、凪子も竜一も理想的な人物である。ロシア語教師「タチアナ」との出会いは、生き生きと描かれていた。タチアナの紹介するロシア文化の紹介も人生の処し方も、主人公の心に浸み込んでいく様子が読み手に伝わり、引き込まれる文章だった。この部分がこの作品の主題だと思う。 欲を言えば宮沢賢治の思想に興味を示し将来は日本の食糧作りをすると語り、チェ・ゲバラの名前さえ知っている竜一がなぜ自衛隊に就職したのか、特攻隊の映画に感涙しただけでは読者には理解できないと思う。この部分が何かの事情を匂わす表現があったら物語は深まったのではないかと思う。また理解してくれる両親ではあるが、日常の生活の場で親としての悩みもあっただろうと思ったが、そのあたりの記述があればより現実に近い物語になったと思う。高校時代の日々の生活の焦燥感が増長し、その苦しい学生生活の実例が書かれていると、もっと現実みが読み手に迫ってくると思った。全体を通して優しさに包まれた物語であったが、現実は果たしてこうなのだろうかとふと疑問に思う。しかし作者がまだ三十二歳で広い世界に向かって書き続けていく姿にエールを送りたい。 若い方々が登場してくることは、この年寄りの私にも明るい希望を与えてくれた作品だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言3           豊村一矢

 

 

 

 感想 主題だけでは感銘は受けない

 

 タイトル『光射す海域へ』と冒頭三行の隠喩を意識して読み始めた。「深海魚に至る経緯、己のいる場所の水圧が変動すれば死ぬかも分らぬという当たり前で残酷な不変なる真実」がどのように描かれるのか……。

 

 

 

 

 読みづらい作品だった。つっかえ、立ち止まり、何度か後戻りしながら読んだ。

 

 

それでいて、一方的な感覚だが、〈創作塾で習得した理論と方法を忠実かつ真面目に作品にしようとした小説〉という印象をもった。

 

なぜ、私には読みづらかったのか。原因は、「用語、文章の不具合やぎこちなさ」と「時間軸を伴って動く書き手の視点」だと思う。そのことをつらつらと書いてみたい。

 

 

 

まず、「用語・文章の問題」で事例を二件ほど挙げる。

 

●P7下段六行~一〇行 「唯一、両親が……集中力に…親は驚いていた」の「唯一」。 この場合、親の心配事が「たった一つ」は不自然。 「集中力」は直前の文に親が留意しているのは「性格」とあるのだから、「集中癖」くらいじゃないだろうか? 

 

●P7下段2行~4行〈…兄弟はなかったが、…幸せを享受した〉の「兄弟はなかったが」と、P8下段9行目の〈…、貧しい言葉を連呼する教師の罵声…〉の「貧しい」の挿入。筆者の考え方を読者にサラリと無理強いしている。

 

 その他、文語調の言い回しや日常あまり接しない漢字二字熟語などが散見され、仰々しく大袈裟で引いてしまうことしばしば。でもこれは私の好みのよることかもしれない。

 

自分で修正しながら読み進めた。

 

 

 

「視点が時間軸を伴って動く問題」の影響は大きい。作品の骨格に関わってくるからだ。

 

作品のあらすじは、物心ついたときから〈深海魚に成り果てる〉まで~〈光射す海域に渡るのが叶う〉までなのだが、核心部分がぼやけ、ときには欠落している。

 

何が深海魚に成り果てさせたか、それを成育歴に求め、ページに沿って拾っていくと……

 

幼少期→関心事の偏り 小学校→人との関わりに苦手感 思春期?→周囲から浮いている感 中学校→記述なし 高校3年前半→生徒のどの派閥にも与せないで苦しむ。 高校3年後半→虫捕りで跳躍し両足踵粉砕骨折、療養生活八ヶ月。両親以外見舞いに来る者なし。 大学→大学時代があったのかも含め記述なく、欠落。

 

成育歴に沿って拾ったものの、幼少・少年期は「誰にでもあること」が並んだ。深海魚に成り果てるのは高校3年後半。しかし高校3年前半で、すでに地獄の劫火に身を置いている。「劫火」は仏教用語で世界を焼滅させる火のことで、深海魚より苦しく絶望的だったはずだが……。

 

読解に難儀するなか、筆者が立ちあげる人物像がぶれて、両親の実像が現れた。両親は裕福な上流階級、親バカで一人っ子の「わたし」を愛し、将来にかける期待も大きい。そんな実像だ。

 

 

 

 更にページを進める。視点は、時間を戻して小学校時代に。凪子が登場。共通の趣味「昆虫飼育」で友情が深まる。異性を意識した「わたし」も書き込まれる。「昆虫について雑学を披露する凪子は太陽がきらめく青空のように爽やか」と思うまでになる。ここは「光射す海域へ」の準備の段落で、中学時代の友、竜一が登場する次の段落に連続し地続きになっている。

 

 しかし、この凪子との段落でも破綻がある。カマキリの共食いに二人はショックを受けるが、二人がこの習性を知らなかったと記述したのはミステイクだ。二人の昆虫豆博士ぶりは既に書かれている。

 

ついでだから、もう一つ。「頭部だけを残した残骸になって……」とあるが、あり得ない。

 

カマキリは交尾中にだけ雌が雄を食べる。雌の口の前にあるのは雄の頭だ。頭から食べ始め腹部に至る。頭だけ残るはずがない。カマキリの交尾は、雄の精子が雌の生殖器内の卵に達するのに数日かかる。その間、雌は自らの生命維持と卵に栄養を送り続けるために食事とることがある。それがカマキリの共食いだ。

 

半知半解の小学生に「わたしと凪子は世界の峻厳の一部を理解した」と唄い上げられても困るのだ。

 

ページは進む。視点は小学校から中学校時代に。前ページでは素通りした中学校生活に視点が移った。凪子との小学校時代と連続するのだけれど、状況は一変し、「わたし」の青少年時代の絶頂期が描かれている。「創作」能力が開花し、中学三年間で長編漫画をA四ノート計六冊にまとめ、回りの生徒たちにも注目され、教師たちは才能を伸ばそうとして「面白い」と褒めてくれるし、「わたし」の居るところは学校の娯楽空間となる。「わたし」の人物像と環境は一変するが、これにはクラスメイト竜一の役割が大きい。竜一とは長編漫画だけでなく、文化論、人生論でも交流し信頼関係ができる。この作品のキーワード「君しか出来ないことを、僕にしかできないことを」は竜一の言葉だ。

 

だがこの段落にも重大な破綻があった。宮沢賢治の影響を受けて農業を目指していた竜一が

 

「特攻隊の諸行を美化する小説、映画、ドラマ」に心酔し、農業を捨てて軍人志望に転身する。この顛末の描き方は余りにもお粗末だ。

 

転身騒ぎは高校受験の頃(中3)のことだから、クラスメイトで親友の「わたし」と会話・激論が無いはずがない。作品ではその部分が完全に欠落している。このミステイクは腹立たしい。このままでは、「わたし」が、三年後に「一匹の盲目の深海魚に成り果てた」とき、「凪子、竜一との思い出を生き得る縁(よすが)とした」不思議が解決しない。

 

蛇足だけど……

 

タチアナ先生との最終章では『ああ無情』のジャンヴァルジャンとミリエル司教の名場面が浮かんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

発言4           石川節子

 

 

 

「光射す海域へ」の読後感想

 

 始めの一行で私は絵を描いていた頃の、自分でも生涯、「傑作だった」と、想える一枚の風景画を想い興しました。

 

その絵はホルベインの水彩ゑの具とガッシュを部分的に混合した透明描法の水彩画で、自分としては、深海から光り射す浅海への希望を現すような色彩で、大樹の葉色を表現できたことに、われながら満足していたものです。

 

今、また、「光射す海域」の文字が躍るこの作品に、かつて、色で表現した我が作品を、文字で、文学として表現するとしたら、どうゆう言葉になり、どのような文字が並ぶのかという、「参考」としての期待と興味が、抑えられない程の衝動となって、押し寄せて来ました。

 

しかし、結果として、物語の内容が、私の期待していた、深海魚の名前が皆無で、生態もほとんど扱っていないため、余りヒントを得ることは出来ませんでした。

 

しかし、作者が訴えたかったであろう、「孤独との戦い」は見事に表現されていて感心しました。どの、言葉をもってして、これほど明快に表現されているのか、不思議です。

 

希望も充分に伝わっていると思います。生活苦の無い、金持ちのお坊ちゃまを、絵に描いたような豊かさが滲みでる作品だと思います。

 

 

 

発言5          村瀬喜史

 

 

 

 閉塞感からの脱出を手助けする両親

 

空猫時也「光射す海域へ」は、深海魚のようにはるか彼方の光にあこがれていた若者が、ロシア語の学校へいき、光射す海域へ顔をだすまでを描いたもので、読みやすく、感銘はうけになかったが、心地の良い作品である。

 

 空猫というのはペンネームだろう。私の長い人生でこの名前を聞いたことがない。手元にある地域の電話帳にもない。まだ三十二・三歳 こんなに若い仲間をむかえるとはうらやましい気持ちになる。どうして誘えたのか、名古屋支部に聞きたいものだ。いい両親だなと思っていたら、全国研究集会の岩淵報告のなかに、この作品が明るくみえるのは、「閉塞感からの脱出を手助けする両親は、かれを擁護するものとして位置づけられている」と指摘している。共感するとともに何か私の父親に似ているようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発言6          浅野勝圀

 

 

 

 古風な感性の魅力

 

 最初に読んだときに若山牧水の一首を思い出した。「海底(うみぞこ)に 眼のなき魚の 棲むといふ 眼の無き魚の 恋しかりけり」。この作品の冒頭と結びの部分、とりわけ「深海の底を這いずっていた盲目の魚」のどからの連想だったのだろう。

 

 二ヶ月余り経って久しぶりに読み返してみた。わかりやすく、短い段落での場面転換、読者を引きつける表現の工夫など、作者の年齢もあいまって、「若い世代特集」にふさわしい初々しさにあふれる作品だと思った。

 

 四月号の「文芸時評」でも乙部宗徳さんが、「深海魚だったわたし」を支え「光射す海域へ」押し出してくれた人々―両親、凪子、竜一、そしてタチアナ先生―が「丁寧に描かれている」と指摘されたことにも同意できる。

 

 明治の末に発表されたやや古風な牧水の一首は、百年余を隔てて登場したこの作品に案外似合っているような気がする。「光射す海域へ」に流れる「丁寧」な描写は、作者のやや古風な感性と表裏一体のもののように思われる。作者のやや古風な感性の根は、恐らく、作者の生い立ちとその後の歩みの中に求められるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発言7           泉 恵子

 

 

 

「光射す海域へ」の感想

 

この作品の主人公「わたし」は、かつて深海魚のように暗い海の底にうずくまり「何物をも見ないように小さく縮こまっていた」時期があった。が、今はそこから「光射す海域へ」と脱し、ロシア語の翻訳を少しずつ生業としている。

 

 そんな私の成育歴を振り返り、深海魚になるまでの自身と、そこからの脱皮を回想的に語った作品で、いわばサンドイッチ型の構成になっている。

 

 わたしは、とても恵まれた環境で育っている。四歳くらいの時には家族揃って図書館に行くのが恒例という、文化的で知的な両親の元で、並外れた暗記力や集中力で恐竜や飛行機の図鑑に没入していた。「レインマン」みたいと父親は心配したが。―子どもの時のこうした好きなことに没頭する集中力はよくある話のように見えるが。

 

 しかし、思春期には周囲の同級生達の話題についてゆけず、疎外感を味わい、コミュニケーション苦手感を意識するようになった。―という話もよく聞く。

 

 とはいえ、小学校の時は虫取りや飼育で共通の友森凪子という活発な女の子との交友があったーこの場面はとても生き生きと描かれている。

 

 中学時代には周囲から離れて一人絵物語(長編漫画)創作をし続け、三年間でA四ノート六冊にも描き上げるという才能を発揮して級友たちが周りを取り囲むようになるのだから、自分が思うほど浮いていたわけではないようだ。

 

 また、竜一という優秀で聡明な友もいて共に図書館通いをしたり、談笑したりもしていて、決して虐められていたわけでもないし、孤立していたわけでもないように思う。

 

と、いわば「自分史」のように生い立ちを辿ると、わたしの転機はどうやらスパルタ式の進路指導にストレスを抱えた高校時代にあるようだ。凪子との思い出の詰まった「海月山」に登り、無謀にも高所から跳躍をして、両足の踵の骨を粉骨骨折し、八か月もの療養生活をする中で、心も病んでしまった。病気は時として人生の転機になると思われる。この時、見舞いに来る友達がいなかったということも心の病を深くした要因かもしれない。

 

 出遅れてしまった感は、わたしを深海の底を這いずる一匹の盲目の魚になぞらえる。そんな中で生きるよすがとなったのは凪子と竜一との思い出だった。苛酷なリハビリの末、歩けるようになったが、杖を突きながらの生活になったようだ。軽い障碍を持つようになったのは大きな人生のダメージだろう。

 

 この深海魚のような時期がどれほど続いたのかはよくわからない。

 

 だが、わたしにはユーラシア協会のロシア語講座を薦めてくれた両親が居り、そこで出会ったタチアナ先生という優れた女教師がいた。タチアナ先生との出会いは、「社会に出遅れたことに囚われて」「小さく縮こまっていたわたし」にかすかな光を与えてくれた。わたしは「清水が岩を穿つがごとく学習の日々を重ね」、数年後の今、ユーラシア協会のスタッフとして採用され、翻訳も依頼されるようになっている。

 

 「深海の底を這いずっていた盲目の魚は、今や変容を遂げ」「光射す海域へと命を賭して渡ることが叶った」。やっと人生に光を見出し、自分の足で歩いて行けているわたしは慈愛深い両親や素敵なタチアナ先生という師に囲まれ、恵まれた一人だと思う。

 

 

 

 この作品に登場する人は皆いい人たちで、悪人はいない。だが、八か月もの入院生活の中で、友人の見舞いはないということ、過去に親しかった凪子と竜一のことを懐かしく思うわたしは、人との関りがどんなに大事かを語っているのか。やはりコミュニケーション苦手感が、立ち直りを遅くしてしまったかもしれない。

 

 若い時のつまずきは大なり小なり誰にでもあると思うが、回り道をしながらも、人生に希望を見出すまでの葛藤を描いた若々しい作品と思う。

 

 

 

 映画「子供たちをよろしく」を観て

 

 新型コロナ感染の影響で、映画館も休業に入るらしいと聞いて、休む直前のシアターキノに駆け込んだ。観客は七、八人。密閉、密集、密接の「三密」ではなかった。

 

 

 

 この映画を見た後で小説「光射す海域へ」を読み返すと、小説の主人公の恵まれた環境が更に際立ってしまった。

 

 元文部官僚の寺脇研と、元文科省事務次官の前川喜平が二年間の構想の末に映画化したという。とても重たい内容で、これでもかという負の連鎖が子供たちを追い詰めてゆく。希望が見えないこの映画の狙いを考えさせられた。

 

 

 

 この映画は二人の中学生の男の子(稔と洋一)と、一人の少女(優樹菜)を中心に展開されているが、この三人を取り巻く大人たちの誰もがまともではない。

 

 父の連れ子稔と母の連れ子優樹菜は義姉、義弟の関係にある四人家族。父はアルコール依存で、呑むと娘に性的虐待を強いている。

 

 優樹菜はそんな自分を汚れた存在と思い、風俗産業に身を沈めている。男に依存して生きてきた母は見て見ぬふり。そんな義姉の仕事に疑問を抱く稔は、洋一を虐めるグループに加わっている。洋一の父は、優樹菜を客のところに送る運転手の仕事をし、極度のギャンブル依存症だ。借金を繰り返してパチンコにのめり込んでいる。妻はそんな夫に愛想をつかして洋一を置いて逃げた。「いつかきっと迎えに来るから」の置手紙を残して。父親の仕事を揶揄される洋一は稔たちのグループから壮絶ないじめを受けている。いつか母が迎えに来てくれることだけが心の支えだが、母は還らず、父は洋一をほったらかしだ。修学旅行の費用として借りた金までもパチンコにつぎ込んで、帰宅はいつも深夜。

 

 子供たちを取り囲む大人たちの環境は荒れている。歪んでいる。誰一人として救いの手を差しのべる大人は出てこない。これでもかと容赦のない悲惨な仕打ちが子どもたちを襲い、とうとう洋一は橋の上から身を投げて自死してしまう。そして、優樹菜は義父とともに家を出てゆく。稔に「強く生きて」と書置きをして。最後に優樹菜のとった行動は、母親に対する復讐なのか?

 

 

 

 いじめによる自殺の報道が絶えない。その裏にこうした現実=大人社会の歪みと、その反映としての子供社会があることを訴えて、敢えて希望を語らないのかも知れない。虐めに加わった子どもたちが皆「知りません」と否定する中で、稔だけが「虐めていました」と告白するのが微かな救いなのか。

 

 タイトル「子どもたちをよろしく」には大人への、社会への強烈なメッセージが込められている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 発言8          室崎和佳子

 

 

 

「光射す海域へ」を読んで  

 

 思いつくままに(つまり順不同に)書いてみたいと思う。

 

  8ページ下段は世界のトヨタが君臨する豊田市の高校の様子が描かれているが、総括的な言葉(「教師におもねって必死で内申点をあげようとする派閥」「戦線離脱して自堕落に過ごす派閥」などのような)ではなくて、具体的な描写で書いて欲しかった。このような表現は随所に見受けられた。

 

  主人公の「わたし」は、父母の愛を十分自覚していたからこそ深海魚から脱することができた、と思うのだが、12ページ上段10行目から17行目を読むと、「両親の主義」のせいで、同級生から疎外されたように読めてしまう。このどちらもが事実であり、真実ということなのか。ということであれば、文中全体に流れる「わたし」のしっかりした考え方も解せるのである。たとえ同級生たちの話題についていけずクラスで疎外されていたとしても、「わたし」は両親を恨んでいない、ということでしょうね。

 

  凪子と竜一だけが、小中学校時代の「わたし」と親しく関わったただ二人の人間なのだが、現在は没交渉である。「わたし」が尊崇していた竜一(宮沢賢治に憧れ、自身も農業を目指していた)は農業の道を捨て、航空自衛隊員となったようで、「わたし」の落胆ぶりは計り知れない。そのことは、二十代の中頃まで心を閉ざしていた大きな要因となったことであろう。

 

  それにしても、「わたし」はシアワセなやつである。14ページ下段から15ページ上段にかけての記述でよくわかるのだが、両親の言うことを実に素直に聞いている。まず、そのことにびっくり。内心、こうは簡単にいかないぞ、とひとりごちている私がいることも事実だが。両親への絶大な信頼と愛がこの青年を救った。

 

  ユーラシア協会で、ウクライナ出身のタチアナ先生からロシア語を習うことで、「わたし」は解放されていく。よかったね、と心の底から思った。

 

  人間(ひと)は人間(ひと)によって成長させられるものなのだ、ということを、改めてしみじみ感じさせられた小説でした。

 

  最後のページの下段6行目から7行目の「少し背丈が小さくなったタチアナ先生は折に触れ、わたしを気に掛けてくれる。」の部分は、ぜひ具体的な会話などで描写して欲しかった。「わたし」の人生を変えたタチアナ先生なのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

 

 

『大地よ』が問いかけるもの

 

松木 新

 

 

 

宇梶静江『大地よ! アイヌの母神、宇梶静江自伝』(藤原書店 20年3月)は、八十六歳を過ぎた宇梶さんの〈人生記録〉です。

 

昨日の「北海道新聞」(3月28日付)が、紋別アイヌ協会会長畠山敏氏の「先住民族としての権利を求める行動に賛同し協力」するために発足した「アイヌ(人)の権利をめざす会」の記者会見の様子を、写真入りで報道、宇梶さんが元気な姿を見せていました。

 

東日本大震災から一週間も経っていない大阪で、宇梶さんは詩を書きました。この本のタイトルはこの詩によるものです。

 

〝 大地よ

 

  重たかったか

 

  痛かったか 〟

 

1933年(昭和8年)、浦河の浜荻伏で生まれた宇梶さんは、二十歳のときに、札幌の北斗学園中等科に入学します。二十三歳で卒業し上京、その後、「東京ウタリ会(東京アイヌウタリ会)」を結成、〈人間が生きるための言語の否定は、アイヌの魂の否定〉という信念のもと、アイヌの権利回復をめざして、国内外で活動をつづけています。

 

宇梶さんのたたかいの第一歩は、72年2月8日付「朝日新聞」家庭欄「ひととき」への、「ウタリたちよ、手をつなごう」と題した投稿でした。翌年に「東京ウタリ会」が結成されます。その翌年、『文化評論』74年4月号に掲載した「アイヌウタリたちよ手をつなごう」が、この運動に込めた思いを伝えています。

 

かくいう私自身も、かつてはその屈辱にたえかねて逃避した一人です。ではなぜ今日、自らアイヌを名のり、ウタリに向かって自覚を求めているのかといえば、私自身のなかに、アイヌ民族独自の生活に育ったことの思い出を通してみて、かれが決して逃れたり、屈辱のなかで耐えしのんで生きなければならないような人々ではないとおぼえるものが、かず限りなくあるからです。

 

(略)私は、そうして生き続けてきた人びとこそ真のアイヌであるということを、自分の身近な体験からうけとり、同胞をさけることなくともに向きあい、私たちは、ほろびたものでもなくほろぶものでもない、したがって屈辱を受けるべくして受けなければならない人びとではない、いまも生き、これからも生き続けるのだということを、はっきりと自覚し、人間の復権をさけぶことによってこそ、はじめて自覚や誇りがよみがえるのではないかと思うようになったのです〉

 

宇梶さんの運動の特徴は、六十二歳から習ったアイヌの刺繍をベースに、古布絵でユーカラの世界を描き、これがアイヌ文化だと発信していることです。この本の巻頭に、シマフクロウをメインにした古布絵が、カラーのグラビア8ページで掲載されています。

 

2011年4月に、吉川英治文化賞を受賞しますが、受賞の「ことば」で、〈叙事詩を〝布絵〟によって表現する、そう思ったとき体中が火になったようでした〉と、語っています。

 

改めて教えられたことですが、アイヌ文化は生活を基盤にしているという事実から目を逸らしてはいけないということです。

 

〈すべて文化というものは日々の暮らしから生まれます。とりわけ、先住民族の文化はそうです。自然やカムイが身近に感じられる暮らしから切り離されたアイヌの文化には力強さがありません。(略)夜を徹して語り、歌い、踊ります。その踊りのダイナミックなこと、いまのアイヌの踊りとは全然違います。体からほとばしるエネルギーから生まれる踊りです。まさに生きた踊りです。暮らしのなかにある踊りです。

 

しかし、アイヌ文化は、暮らしから切り離されて、博物館に飾られるものになってしまいました。(略)アイヌがアイヌとして生きるすべを手に入れたときにはじめて、アイヌ文化が生きたものとなるのです。(略)もし、政府がアイヌの文化を推進したいと思うのなら、その文化を支えるアイヌとしての暮らしも保障されなければなりません〉

 

 

 

いくつかのエピソードを紹介します。

 

【宇野重吉】

 

北斗中学校を卒業した宇梶さんの望みは、女優になることでした。ようやく会えた宇野重吉に、〈「何をしたいのか」〉と尋ねられ、咄嗟に、〈「演出をやりたい」〉と答えてしまいます。自分の気持ちを偽ってしまったために、二度と訪ねることができませんでした。

 

長男が俳優の宇梶剛士ですから、親子の血は争えないナーと感心しました。

 

【北斗学園】

 

北斗学園中学部は寄宿舎生活でした。東京でアイヌの集まりがあったとき、差別されたでしょうと聞かれ、〈「北斗学園では差別されたことがなくて、すごく楽しかった」〉というと、〈「うそでしょう、うそでしょう」〉と、すごく怒られたとのことです。

 

【知里真志保】

 

中学時代に、北大で開催された人類学会の手伝いをしたときに、知里真志保と知り合いになります。授業料を三ヵ月滞納したために、学校を辞めさせられる、と悩んでいたときに、知里真志保が学費をだしてくれ、無事に卒業することができました。

 

【壺井繁治】

 

宇梶さんは、三十代の頃、詩を書いていました。浦川恵麻のペンネームで、「わたしたちの知らない人たちが…」が『詩人会議』に掲載されます。この詩について、壺井繁治が『文化評論』66年7月号で、〈書かずにはいられず詩を書いたのである。(略)そこには今までの詩の性格を根本的に変えてゆく芽生えが潜んでいる〉と激賞しました。

 

ただし、この詩には、本当に書きたかった「アイヌ」の問題が伏せられていました。〈壺井さんにもそこまでは読み解いて頂けなかった〉と、残念がっています。

 

【宇梶剛士】

 

長男で俳優の宇梶剛士については、次のように簡単にふれています。

 

〈息子剛士の身に、あるでき事が起きます。彼が高校二年の時でした。息子の野球チームの仲間が、ある事件で退学という事態に追い込まれました。その後、彼は自ら暴走族となり、そこで起こしたトラブルで、少年院を経て、定時制高校へ入りました〉

 

四十一歳の宇梶剛士がアイヌであることをカミングアウトした、と話題になった本が『不良品 オレは既製品じゃない!』(SB文庫 2005年2月)です。〈頭がよく、行動力があり、ソフィア・ローレンとあだ名されるほどの美貌の持ち主だった母〉との日々が紡がれています。宇梶さんが女優をめざして上京したのもうなずけます。

 

「あとがき」の言葉にはしんみりとしてしまいました。

 

〈振り返ってみると、母から受け継いできたことの多さにあらためて気づかされる。そんな母を悲しませ、傷つけてきたことを、(あやま)りたい。

 

現在、母はアイヌの民話をもとにした古布(こふ)()を精力的に制作している。若いころから自分の道を捜し続けた母の背中を、これからは静かな気持ちで見ていきたい〉

 

【津島佑子】

 

宇梶さんが、津島佑子と共著で、童話『トーキナ・ト』を2008年に出版していることを、この本で初めて知り、早速、購入しました。

 

津島佑子は、ユーカラのフランス語訳をフランスで刊行するほどに、アイヌの世界を我がことにしている作家です。『「私」』(新潮社 1999年3月)に収録されている、「月の満足」と「鳥の涙」は、ユーカラを素材にした優れた短編です。

 

『トーキナ・ト』は、若者のスーパーヒーローであるアイヌラックルを主人公にした英雄叙事詩を、津島佑子が子ども向けの絵本の文章にし、絵は宇梶さんの古布絵です。原典は、久保寺逸彦編著『アイヌ叙事詩 神謡・聖伝の研究』に収録されている「神謡59 村主の梟神の妹神の自叙」で、640行という長いものです。「トーキナ・ト」は、ユーカラで語られる「サケヘ(繰り返し)」で、意味は不明です。

 

 

 

宇梶さんは、〈私は今、吠えなきゃいけないのです。今は滅ばされたけど、オオカミになりたいのです。吠えるだけ吠えて、アイヌはこうなのだ、と言いたいのです〉と書き、〈アイヌよ、今こそ立ち上がる時だ〉と呼びかけています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 私の好きな日本映画④

 

「ブタがいた教室」

 

            泉  脩

 

 

 

民主主義の原点を観る

 

都会の小学校の始業式の日、六年の担任になった新卒の教師、星(妻夫木聡)が教室にくる。なんと子ブタを抱えてきて、児童たちに「一年間育てて、卒業式の日にみんなで食べる」と宣言する。

 

児童たちは大騒ぎして、それでも担任の考えを支持する。そして校庭の隅にブタ小屋を作り、残飯を集めて食べさせ、当番を作って世話をする。子ブタは、みるみる大きくなっていく。

 

女性の校長は担任のやり方を認め、父母の苦情も説得してくれる。子供たちは生き物を育てる中で、命と触れ合う。そして日増しに可愛くなり、Pちゃんと名付けてクラスの一員にしてしまう。ところが半年も経つと、卒業したらどうしようと話し合うようになる。誰一人、殺して食べるとは言わない。

 

「下級生のクラスに引き継いでもらおう」という意見と、「自分たちの責任なのだから、食肉センターに渡そう」という意見に分かれる。クラスの討論は白熱し、次々と考えさせる意見が出る。この部分はシナリオがなく、子供たちは真剣に自分の意見を言う。まさに民主主義の原点を観る思いである。

 

担任は意見を言わず、毎日解決策を考える。校長は「最後は担任の責任で解決しなさい」と言う。三年一組が引き継ぎを買って出る。しかし大きくなったブタは、小さい下級生には無理である。

 

何回目かの討議の時、泣き出す者が出てくる。一人の女の子は「私はPちゃんを一分でも一秒でも長く生かせたい」と発言し、みんなは黙ってしまう。

 

卒業式が一週間後に迫った日、もう意見が出尽くし、最終的に三年生にやり方を教えて引き継ぎするか、食肉センターに送るかの二択に絞られた。投票用紙を読み上げると、13対13の同数になる。「先生もクラスの一員なのだから、先生も意見を言ってください」との発言があり、星はうなずく。

 

次の日、星はブタ小屋の前に全員を集め、「食肉センターにおくる」と発言する。その後、全員で三年一組を訪ねて、せっかくの申し出を受け入れないことを謝る。

 

食肉センターのトラックが来て、ブタが載せられると全員で好物のトマトを食べさせ、トラックをいつまでも追いかける。悲しい別れだが、さわやかである。一年間、みんなで協力して育て、充分に可愛がったからだろう。貴重な、かけがえのない体験だったに違いない。

 

この物語は実話である。若い教師だから思いついた、素晴らしい教育実践である。出演した児童たちはすっかり話しに同化し、自然体で演技している。そして、担任を演じた妻夫木聡が実に良い味を出している。

 

かつて札幌の市会議員の一人の女性が「この映画をDVDで観て、同じ六年の息子と重なって涙が出た」と私に話してくれた。この映画について書いた私のコラムを思い出して、自分も観たという。

 

シナリオなしで白熱して話し合う児童たちの姿の中に、忘れてはならない民主主義の真の姿があると、私は今回観なおして、あらためて実感した。

 

醜い駆け引きの横行する日本の議会の姿を見るにつけても、真の民主主義とは何かを考えさせる、素晴らしい映画だと思う。

 

テレビドラマ「金八先生」のクラス討議のシーンと並ぶ傑作である。金八先生を個人プレーとして非難する教師が多いが、これはひがみだと思う。

 

生徒を信じ、生徒に問題をぶつけ、生徒と共に考え悩む教師が、日本にはどんなに必要なことだろう。

 

そして、生徒たちが自発的に動き出した時どんなに力を出すことだろう。

 

 

 

 

 

 

 

大平まゆみとフレディ

 

               後藤守彦

 

 

長く札幌交響楽団の定期会員として演奏会に通い続けているが、二人の団員に注目してきた。一人は、クラリネット首席の男性団員である。ある高校で彼に日本史を教えたのだが、彼は吹奏楽部の部長だった。東京の武蔵野音楽大学に進んだ後、ドイツに留学している。彼の父親は、私と同じ職場の同僚でもあった。

 

もう一人が、日本ではまだ数が少ない女性コンサートマスターだった大平まゆみである。札響ともコンチェルトのソロを数回弾いているが、シベリウスのバイオリン協奏曲の演奏には感動した。二〇〇二年一〇月のことである。今年生誕二五〇年のベートーヴェンやブラームス同様、シベリウスのバイオリン協奏曲は一曲しかないが、私が最も好きなバイオリン協奏曲である。大平は高度な技巧が求められる曲を難なくこなし、澄み切った、透明感のある、空を漂うというよりどこまでも高く貫いていくような音色を出していた。

 

一昨年七月にクリスチャンセンターであった、聖歌隊の合唱などが織り込まれていた音楽会には、ゲストとして呼ばれていた。東日本大震災の時、仙台に住む母親と連絡が取れず不安な日々を過ごしたが、無事が確認できるまでの間、母親が昔よく口ずさんでいた「ユーモレスク」が頭の中を流れていたと語り、ドヴォルザークの、もともとはピアノ曲だった小品を奏でた。

 

大平が仙台生まれなのは承知していたが、父親が仙台市内にある、私の学んだ大学の農学部で教えていたことを、大平のエッセイ集『一〇〇歳まで弾くからね!』(北海道新聞社、二〇一四年)で初めて知った。大平との距離がさらに短くなった。

 

だから、昨年一一月の記者会見での病の公表はとてもショックだった。大平は、二一年半務めたコンサートマスターを辞めることと、その理由が筋萎縮性側索硬化症(ALS)と診断されたからであることを明らかにしたのであった。

 

 前掲のエッセイ集で大平は、ロックグループのクイーンが好きで、なかでもボーカルのフレディ・マーキュリーの個性的で「破滅的ともいえるエネルギー」に惹かれると述べている。大平も紹介しているのだが、フレディは「クラシック音楽にも造詣が深く、ピアノの才能にも長けている」。フレディはオペラの舞台を見て、スペインのソプラノ歌手モンセラ・カバリエの美声のとりこになった。フレディの作曲した歌をカバリエと一緒に歌う、テノールのフレディとソプラノ歌手の競演が実現した。それが一九八八年の『バルセロナ』の録音だった。カバリエの天から降って来るような声とフレディの魂のこもった、迫力ある声が見事に共鳴している。所蔵している、オーケストラバージョンのアルバムにおさめられている九曲中気に入っているのは、切れ目なく演奏されている「GUIDE ME HOME(僕の家に連れてって)」、と「HOW CAN I GO ON(どうしていけばいい)」である。残念ながら、フレディはこの録音から三年後に亡くなった。享年四五歳。

 

大平のブログでは、ALS公表後も活動し続けていることを、動画も用いて伝えている。今年一月には、中標津の広陵中学校で道徳の出前授業を行っている。話せないのでアシスタントの女性が代読しているのだが。現在は新型コロナの感染拡大で公演がストップ。進行を遅らせる点滴治療とリハビリの受ける日々を過ごしている。自宅では指のリハビリのためピアノを弾いているそうだ。

 

これからも、本人が言うように「自分の身体、生命力を信じて、強気で、前向きに」進んで行ってほしい、と心から願う。

 

 

 

 

 

 

 

映画「新聞記者」を見る。

 

               村松祝子

 

 

 

この映画は一度友人に誘われて一年ほど前に観た。 誘ってくれた友人はこれで二度目の鑑賞だという言葉に少々驚いたが、観終わって改めて今の世の中はこれでいいのだろうかと考えさせられた。 頭の回転が鈍くなってきている私には話の展開が少々早すぎて二度見た友人にも刺激されてもう一度ゆっくり観たいと思っていた。この映画が第43回日本アカデミー賞最優秀作品賞を受賞、しかも最優秀主演男優賞と最優秀主演女優賞も獲得したことは、すでに見ていた私には自分のことように嬉しかった。その嬉しさに駆られて去る3月29日コロナウイルスの危険を感じながら映画館に行った。 ウイルス感染の危険性もあり館内はやはり、まばらであったが映画の内容は前回見た以上に、心に響いた。この映画は 東京新聞の記者望月衣塑子氏の原作を土台に新たな脚本にして撮っている。映画の内容は政府がいったん廃案とした新設大学の案件を、極秘に地方に新設する計画が進められている。その事実を突き止めた新聞記者吉岡エリカはさらに探り続けると内閣情報調査局にいる杉原という将来のエリート官僚に突き当たった。杉原の上司はこの大学新設に絡んで自殺していた。自殺した後に残された妻の思いがスクリーン上に映し出されると、現実に森友問題で自殺した近畿財務局職員の遺書の思いと重なり、涙腺の枯れたはずの私の目頭が熱くなり鼻の奥からもじくじくと流れ落ちる物を感じた。お悔やみに来た後輩の官僚杉原に、なぜ夫は死ななければならなかったのかと詰め寄る妻の姿は現実に森友問題で自殺し、残された遺族の姿といやが上にもダブラされてくる。 映画を見ながら現在の森友問題の疑問点が刃のように放たれてくる。現になぜ死ななければならなかったのかそれに対する調査は何一つされていない。問題の張本人、安倍晋三首相は森友問題の遺書について、事実関係は明らかになっているので再調査は行わないと涼しい顔で言う。 現在遺族は自ら立ち上がり遺書を公開し裁判に訴えた。死をかけて不正を訴えても世の中は変わらないじゃないかという人がいる。しかしこのまま何事もなかったかのように過ごすことは、時の政府に私たちは捨てられたのも同然だと思う。かつて太平洋戦争で、中国大陸に置き去りにされた開拓民となんら変わらない扱いだと思う。これから長く続く裁判に、私も目を離さず、しつこく追い続けて真実を明らかにしていかなければならない。そんな思いを抱かせて硬直した足腰をゆっくり動かし明るくなった館内の座席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日 250号

 

 

 

 

 

 

 

八月例会合評報告

 

 

 

 

 

合評作品  

 

 篠田佳希作「彩子の朝」

 

 民主文学八月号 

 

 

 

レポータ    村松祝子

 

 

 

 物語は介護現場で働く五十四歳の山本彩子が主人公である。いろいろな職業を転々としてきたが、六〇歳までは働き続けたいとその思いがかなえられそうな介護職の職場に飛び込んだ。 だが無資格の彩子には月十五万の安月給しかもらえず、これでは生活が成り立たず社会保険の加入も放棄せざるを得なかった。 なんとか生活できる給料を願って介護職員の資格を取りたっかた。そのためデイサービス「ひだまり」の職場から有料老人ホーム「サンシャイン烏山」に移り働きながら休日返上で資格取得の講習会に通った結果ついに「介護職員初任者研修」の終了証書を獲得したのだった。介護現場で彩子を必要としてくれる介護者や先輩の由貴の励ましも受け介護現場での事故を乗り越えこの職業で生きていこうと決意するのだった。

 

 

 

 山本彩子の介護現場で生きていく過程が淡々と五節に分かれて書かれている。

 

 この作品の主題が最後の五節で語られる主任の山岸由貴の言葉に集約されていると思った。 三八ページ七行目「人が亡くなる事ってことは本当に怖い。」 から三十八ページ下段の七行目「‥‥辛い過去を乗り越えてきた由貴は真剣そのものだ。驕りのない謙虚な姿勢にもうたれた。‥‥」 この部分は読み手の心に響いた。

 

 介護現場の忙しさ、資格を取るための高額な額、資格が取れても五〇歳代の人は契約社員で正社員位なれない矛盾など若い人たちの働く現場の困難さが垣間見られる。

 

 物語としてはもう少し起伏のある箇所があればと希望するが理路整然とよどみなく構成されていて、退屈させずに一気に読んだ。 新しい作家の登場にどんな世界が描かれているのか期待して読んだ。 これからどんな作品が生まれててくるか楽しみです。

 

 

 

合評での意見等

 

  • 先月は介護される主人公、今回は介護現場で働く主人公の作品であった。 この問題が日常生活の中でいかに多いかの現れでありもっといろいろな角度から描かれてもいいのではないかとの意見も出された。

  • 作者が男か女かの疑問が出されたが、介護現場の細やかな描写から女性だろうと言う意見と義母を介護施設で看取った人からはその時の義母を世話してくれたのは男性介護職員であった。 その男性は細やかで義母の下の世話も心置きなく世話してくれた。故に作者が男性であってもおかしくない。

    介護現場での忙しさを目の当たりにして頭の下がる思いであった。忙しさに見合う賃金が出されるべきだし、介護者に寄り添っていく尊い仕事であると思う。

  • 介護する現場に無資格者でも働けることに矛盾を感じる。

  • 無資格者であっても、資格ある人以上に仕事をする人が多々いる。教員の現場でも教師免許を持たないサポーター的な仕事をする人が多く入ってきている。でもこの人たちが意外と生徒の気持ちを良く把握している場合があるのである。

  • 先月号の「まんまんちゃん」と今月号の「彩子の朝」と未熟な人が立ち治る。

 

  作品が続いた。また同じ介護現場という共通の部分であった。

 

  知識や経験も大切だけれどそれ以上に大切なものがある。先生は生徒から

 

  学び、医療も患者から学ぶそう言う謙虚さが必要だ。相手から学ぶ重要性を指摘したい。

 

○ この人は心底この仕事が好きなのだと思う。

 

○ 今私のところにヘルパーさんが来ている。好感を持って接している。最後はどうやって看取っていくか、生きること死ぬこと、この問題は今日では重要なーマだと思う。

 

  • 「サンシャイン烏山」がどう言う組織規模で従業員がどの位いてどんな経営をしているのかが書かれていると一人一人の給与体系化がわかってくるが。

  • 最近「介護付き有料老人ホーム」を見学した。夫婦二人で三部屋の素晴らしい部屋だった。だが入居に一千万円、月二八万円で現在の家を処分して入るとしたら大騒動(哄笑)が持ち上がりそうだ。

  • 最後に笹川フミが出てくるのは、笹川フミとの交流がオムツ交換の中で苦労し未確認の気持ちがあったのではないか? 思いがけずに包み込んだ手に返された力強い反応笹川フミの生きようとする素晴らしい描写だと思う。ここに笹川フミが途上する意味が十分頷ける。

  • 介護現場は年齢の制限がなく、三〇代でも五〇代でも働く意思があれば誰でも受け入れてくれる職場である。そ言う意味では開かれた職種であるのかもしれない。

     

 

 討論の場で介護現場の様子や課題がより深まったような気がします。十分汲み取れず漏れた意見も多々あったと思いますが了解ください。

 

 

 

 

 

 追加意見

 

 

 

「学ぶと言うこと」  泉 脩

 

 

 

 8月例会でとりあげた篠田佳希『彩子の朝』考えさせられる優れた作品だった。

 

 折角のレポートも読めず、報告も聞き取れず、最後にやっと意見を述べた。発言の追加をしたい。

 

 最近とりあげた『キングゴリラ』『まんまんちゃん』、そしてこの『彩子の朝』は、どの作品の主人公も未熟で資格を持たない。そのためミスが多く、落ち込んでいる。学校の「フリースペース」「病院」「介護施設」などで、人の一生にかかわり、あるいは人生の最期を人間らしく締めくくることができない。だから、専門の知識・技術・経験が大切であり、その資格も必要である。しかし、さらにもう一つ、子供・患者・老人から学ぶという謙虚な姿勢が必要である。これがなければ心が通じないし、相手の要求が解らないだろう。そして、自分の成長も望めない。

 

 三つの作品の三人の主人公は、この姿勢を持ち、相手から学び、自分を取り戻す。そして自分に足りないものを補い、何とか仕事を続けようと決意するのである。

 

 私自身は、八十五歳の老境にあり、目と耳に障害を持っている。どの作品も他人事でなく、身につまされる思いである。

 

 

 

    250の「投稿欄」の執筆者とタイトル

 

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

  後藤守彦 

                    平和の棚の会のこと

 

 

 

  泉   脩

 

 

 

私の愛する音楽映画①

 

  心に残るテレビドラマ①

       「黄昏の赫いきらめき」 十八年ぶりの娘との再会

 

 

 

 松木 新 

リチャード・フラナガン

 

『奥のほそ道』と俳句

 

 

  

村瀬喜史

  

 佐々木宣太郎について

 

       

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日 249号

 

 

 

 

 

 

 

七月例会合評報告

 

 

 

 

 

 合評作品

 

倉園沙樹子作「絹子の行方」

 

    『民主文学』七月号

 

 

 

 

 

合評報告

 

合評の記録   石川節子

 

 

 

札幌民主文学では、七月例会で「絹子の行方」を合評しました。今回は私、石川が最初に読後感をレポートで発言しました。

 

 

 

1、作品の全体像 前作の「巨艦の幻影」の鋭さに比べてやわらかい、しかし、じんわりと重みのあるパステル画を思い起こされた。テーマに合わせて使い分けているらしく作者の力量の大きさがうかがえる。

 

 

 

2、ストリーは主人公の松原絹子八十八歳が、それなりの人生を謳歌してきたが、腰を痛めて難儀していた。しかし、リモコンで操作できる介護ベッドを利用できたことによって快適な日常を送れるようになり、デイサービスで「お仲間」も出来て元気になった。

 

しかし元気になったことにより「要介護1から要支援2に機能改善されたので」と、介護保険サービスから「卒業」させられてしまう。レンタルのベッドもヘルパーの派遣も打ち切られて、腰の痛みも再発して自活が危うくなり、長男宅に同居する。そうなると自分の思い通りにはゆかず、ボケが進み、奇妙な行動が増えるのではないかと、自分自身に不安を持ち背筋が寒くなる。やがて鮮明であった夢も想い出さえも、綿埃を被ったようにぼやけてきた。ああ、この自分の行方はどうなるのだろうか。という、他人事ではない、身に迫るテーマである。

 

 

 

3、せめて自まえの電動ベッドを持てたら、自活を維持できたのかもしれない。

 

しかし。それには大金が必要だ。

 

 

 

4、現実と回想と幻想が混沌として、一回目に読んだ時は疲れた。しかし、そこがこの作品の持ち味であるのだと理解できる。

 

 

 

5、字数配分  二十二ページ上段から下段にかけての、トメさん節はもう少し要約して、短くしたほうが解りやすいと思った。又二十五ページ上段の、若いときの職場の回想は、少し長すぎて作者が酔いしれているように感じた。

 

6、二十三ページは、台詞まわしがトメさんと絹子の区別が不明瞭に感じ、「を付けてくれた方が良かったと思う。

 

7、「?」と思った箇所  十六ページ上段の8行目、「青い塗料で絵付け」は、「青い顔料で絵付け」と違うのかな?  二十五ページ下段、十五行目「そやで、生きて帰ってきたで」の台詞は聡が合わせてくれた実際の音声だったのだろうか、それとも絹子の幻聴だったのだろうか。

 

8、私(石川)の願望は7ページ上段、十行目、「自転車で横切った」を「自転車で滑るように近づいてくる」として欲しい。

 

9、読み終えて「自分の未来の姿を描き出された」ようで、正視出来ないような、しかし「逃げてはいけない」と襟首を捕まれたような緊迫感に駆られた。

 

 

 

 

 

❤ 以上のレポーを持参して合評会に望んだ。今回は、たまたま松木支部長が欠席で、豊村さんの司会で合評が進行され、支部会員のご意見は、活発で鋭いものが多く、自分の「介護に関する認識不足」は想像していた以上のものであったことに驚かされた。

 

「介護保険法はどんどん改悪されている」らし

 

い。回復すると要介護の再査定で「卒業させられてサービスが受けられなくなる」というのは知らなかった。驚いた。

 

 

 

「作品に介護保険法の改悪の状況をもっと取り上げるべきだった」「絹子夫婦がお互いに、さんづけで呼び合っていることに違和感を持った」

 

 

 

「いや、夫婦間の様相が垣間見える羨ましい情景だと思った」

 

「近頃は老・衰・死のテーマの作品が多くて、またかと思った」「作者の年齢が想像できない」「物語の最後が、主人公が徘徊して、とんでもないところで亡くなることにしたらもっと劇的だ」

 

「いや、このタイプの老女は、大きな徘徊はできない」など、話がつづき、時間切れとなった。

 

 

 

全体に作品に対する賛美が多く、嫌悪を感じたような意見はほとんど無く「作者に会いたい」と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

 

 

工藤 威「遙かサハリン島」

 

       悲惨な引揚げの回想

 

泉 脩

 

 

 

 主人公の和田紘士は三八歳、東京に近い区役所に勤めている。区民部農産係長で、区民のふれあい農地の管理などを受け持っている。妻幸子と共稼ぎで、小学校四年の一也がいる。

 

 三人は高層団地の14階に住み、つつましく暮らしている。紘士はカラフトからの引揚げ者の五人の子供の末っ子で、三人の兄と一人の姉がいる。父は北海道の開拓農になり、五〇代で亡くなり、母は娘と東北に住んでいる。

 

 物語は、戦前秋田の山師の娘として生まれた母が、小作農の長男の父と結婚した頃の話である。二人が苦しい生活から抜け出すためにカラフトに渡り、ソ連との国境に近いエストリで働き六人の子供が生まれる。敗戦直前に父が召集され、敗戦と共に母が五人の子供(一人は死亡)を連れて南に逃げる。末っ子の紘士は著者自身であり、記憶はまったくない。

 

 母が語る引揚げの苦難が、この本の中心であり、日本が降伏したのにソ連が、空と海と陸から容赦なく攻撃したのである。老人・女・子供の避難民が次々と殺され、母は幼い紘士を背負い、四人の子供を帯で繋いで必死に歩いて、大泊に近い落合に辿り着く。

 

 ところが当てにしていた鉄道が不通で、日本の敗北も知って、やむなくエストリに引き返した。そして一年以上もソ連軍の占領下で細々と暮らす。十五歳位になっていた長男と長女が働き、母は畑仕事をして食べ物を手に入れた。やっと日本からの船で内地に帰り、先に帰っていた父と再会し、北海道の占冠(シムカップ)の開拓農になるのである。

 

 やがて、まず次男が家を出て、幾寅で働きながら定時制高校に通う。父と苦しい開拓をしてきた長男も、二十三歳で次男と同じ道をたどり、やがては末っ子の紘士も続くのである。子供たちは農業に未来は無いと見切りをつけ、父と母を見捨てたのである。

 

 三十八歳になった紘士は、これらを回想し、自分はまったく知らないカラフト引揚げの苦難を、母の思い出話から知ったのである。

 

 和田紘士一家の現在の生活も、こまごまと途中で語られ、過去と現在が交錯して進む。

 

紘士は現状に満足せず、家庭における苦しみ悩みを見つめる。妻幸子が子宮外妊娠で手術を受け、第二子誕生を諦める。息子の一也の学習塾通いで幸子と対立する。そして、一也が中学生に脅されて万引きをして捕まる。職場では平凡な仕事ばかりで向上心が湧かない・・・である。

 

 ところがこの頃、中国残留孤児の肉身探しが始まり、自分と同じ年頃の孤児たちが必死に肉身を探す姿をテレビで見て衝撃を受ける。自分も、もしかしたらカラフトで、同じことになったのかも知れないのである。やっと三十六年ぶりに親に再会し、涙ながらに抱き合う姿を見て紘士は思わず涙を流し、妻と子も心を打たれる。

 

物語は主人公の紘士が衝動的に孤児たちの宿舎を訪ね、言葉を交わそうとするところで終る。

 

 この本の内容は小説の形を取りながらも、多くが事実なのだと思う。特にカラフトでの悲惨な出来事は、実に生々しく身に迫ってくる。立派なドキュメント風の小説である。

 

 こういった歴史物語はたくさん書かれるべきだと思う。一九九五年頃、新聞「赤旗」に連載され、十年後に出版された本である。

 

 私が民主主義文学関係の人々に贈った自分の本に、返礼として贈っていただいた本であり、とても勉強になった。

 

 私は戦争中に東京から北海道に疎開してきた家族の一員であり、直後に父の死で貧しい子供時代を過した。著者ほどの苛酷な体験はないが、よく理解できるのである。

 

 びっくりしたのは、視力のほとんどない私のために、本を読んでくれる山本さんが、著者とほとんど同年代で、しかも同じ頃カラフトから引揚げてきたことである。

 

 山本さんの父親は税関勤務で、戦争末期に家族で大泊にいたそうである。やがて船で内地に引揚げてきたが、その三隻中二隻が留萌沖で潜水艦に撃沈され、山本さんが乗っていた船だけが助かったという。お母さんの話では、沈められた二隻は、船首の大砲で浮上してきた潜水艦に抵抗したので魚雷攻撃を受け、山本さんの乗った船は抵抗しなかったので助かったのだという。私には初耳だったので、びっくりした。

 

 山本さんと私は、日本政府が敗戦時のソ連軍の数々の非道(シベリア抑留も含めて)に、なぜ抗議しないのかと話合った。およそ社会主義国とはいえないのである。

 

 日本も、中国・朝鮮・東南アジアで、早くから無数の非道な行為をしたために、とても抗議できないのだろうという結論だった。東京・広島・長崎などで民間人を無数に殺したアメリカに対しても同じなのである。

 

 被害者としての苦しみを訴えても、加害者としても責任を、ほほかむりすることは許されないのである。そして、戦争そのものが恐ろしい犯罪なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今更ながらの『羊をめぐる冒険』

 

              松木 新

 

 

 

「北海道新聞」夕刊(二〇一九年五月二十日~二十七日)が、「村上春樹さん特別インタビュー 小説家40年と『騎士団長殺し』」を掲載しました。

 

『騎士団長殺し』については、ナチス・ドイツによるオーストリア併合と南京大虐殺を取り上げていることに着目して、この作品を「文芸時評」(『民主文学』二〇一七年五月号)で評価しました。『騎士団長殺し』が刊行された当時、斎藤美奈子が「朝日新聞」の「書評」で、ナチス・ドイツや南京大虐殺にまったくふれずに論を展開しているのを読んで、啞然としたのを覚えています。あまりにも、政治的に臆病すぎると思いました。彼女だけでなく、当時の批評のほとんどが、似たようなものでした。「しんぶん赤旗」の「朝の風」に、ぼくと同じ論調を見つけたときは、我が意を得たり、と喜んだくらいです。

 

二年前の文学会大会では、青木陽子さんが、「松木さんが評価していたので買って読んだが、がっかりした」と、『騎士団長殺し』批判を展開し、牛久保建男さんが反論に立ち、議長席のぼくがそれをニヤニヤしながら聞いていたことを、懐かしく思い出しました。

 

このインタビューで、歴史と向き合う姿勢として大切だと思ったことを紹介します。

 

「僕らは歴史というものを背負って生きていて、それはどれだけ隠しても必ず外に出てくる。歴史は、自分たちが背負うべき集合的な記憶なのだと、僕は考えています」

 

「戦争が今も絵空事ではないという意識は強くあります。僕らが固い地面だと思っているのは、実は軟らかな泥にすぎないのかもしれないです」

 

「心の底の闇の世界に潜む暴力性のしるしのようなものを、日常的なものごとの中に感じないわけにはいかないのです。過去から、そんなものがよみがえってくるような恐ろしさを感じることがあります」

 

 

 

普通、村上春樹の転換点は、八作目の長編『ねじまき鳥クロニクル』であるといわれています。「根源的な悪」との対決が主要なテーマになっているからです。この作品から離れていったハルキストも多いようですが、ぼくはこの作品の前の『アンダーグラウンド』から村上春樹を読み始めたので、ハルキストの気持ちがなんとなく分かるような気もします。

 

「根源的な悪」との対決が、実は初期の作品である『羊をめぐる冒険』からであったことを、再読して気づきました。

 

背中にくっきりと星形の斑紋が入った羊は、騎士団長と同じように「イデア」つまり「観念」と見做せます。一九三六年、羊が「先生」の中に入り込み、以来四十年以上、住みついていました。

 

北海道に生まれた先生は右翼の大物で、戦前、満州に渡り、関東軍と結びついた謀略関係の組織をつくり、ソ連の参戦直前に、多くの貴金属を抱え込んで帰国します。戦後はその資金で、保守党の半分と広告業界を買い取り、影のフィクサーとして、この国を牛耳ります。

 

「先生は国家という巨大な船の船底を一人で支配しているわけさ。彼が栓をぬけば、船は沈む。乗客はきっと何が起こったかわからないうちに海に放り出されるだろうね」

 

先生が死に、先生の身体から遊離した羊が、行方不明になります。

 

星形の斑紋が背中に入った羊が写っている写真を、親友の鼠が「僕」に送ってきたことから、僕は鼠を探しに道北の十二滝町の丘の上にある別荘へ向かいます。そこで僕は、羊の皮を被った身長百五十センチほどの羊男と出会います。戦争に行きたくないために、羊のままでいること、今、町は兵隊でいっぱいだから、町には下りて行けない、と僕に語ります。

 

とうとう僕は鼠と再会します。そのとき鼠はすでに、自ら生命を絶っていました。鼠は、僕が探していた羊が、自分の中に住みついたことを語ります。

 

〈「簡単に言うと、俺は羊を呑み込んだまま死んだんだ」と鼠は言った。「羊がぐっすりと寝込むのを待ってから台所のはりにロープを結んで首を吊ったんだ。奴には逃げ出す暇もなかった」

 

「本当にそうしなきゃならなかったのか? 」

 

「本当にそうしなきゃならなかったんだよ。もう少し遅かったら羊は完全に俺を支配していただろうからね。最後のチャンスだったんだ」〉

 

鼠の死体をはりから降ろし、ガレージのわきに埋めたのが羊男でした。

 

この作品では、星形の斑紋が入った羊が「根源的な悪」を象徴しています。この「根源的な悪」を封じ込めるために、鼠は生命を賭けたのでした。それはあたかも、騎士団長が主人公の出刃包丁で刺殺される場面とオーバーラップしています。

 

このように、「根源的な悪」との対決というモチーフを、村上春樹は初期の作品から追求していた、というのがぼくの結論です。しかし、この説には難点があります。

 

「根源的な悪」との対決が村上作品のモチーフであるならば、『羊をめぐる冒険』から『ねじまき鳥クロニクル』までの間に書かれた小説に、そのモチーフはどのような形で表現されているのか。このことの検討が必要なのですが、残念ながらぼくは読んでいませんし、これからも読むつもりはありません。したがってぼくの結論は、あくまでも推論の域を出ない、というわけです。

 

余談になりますが、いま上映中の映画「新聞記者」に、羊のイラストが登場します。東都新聞社会部記者の吉岡エリカのもとに、「医療系大学の新設」に関する極秘文書が、匿名ファクスで届きます。その文章の表紙が羊のイラストでした。

 

胴長で顔を正面に向けた羊ですが、なんとサングラスをかけているのです。どこかで見た覚えがあるナ―と思って、帰宅して調べてみたら、『羊をめぐる冒険』の「羊男」のイラストと、雰囲気がそっくりなのです。

 

「羊男」のイラストは、ソファーに腰掛けた正面を向いたものですが、鼻からおでこまでが真っ黒に塗りつぶされ、目だけが白で、黒目が異様な輝きで読者をにらみつけています。

 

撮影当時三十二歳の藤井道人監督がハルキストだとは思えませんが、こんな偶然があるのかと、驚いています。

 

ともあれ村上春樹は、これからも目を離せない作家のひとりであることは間違いありません。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北の国から来た猫第九章

 

後藤守彦

 

 

 

 猫探しが旅の主目的ではなかったが、六月に道外二か所で猫たちと出会うことができた。地域猫が沢山いる、猫の街として知られる谷中では、小路まで覗き込んだものの、残念ながら、谷中霊園の入り口にある古刹天王寺の境内で三匹を見つけただけだった。同行した猫好きの知人も落胆していた。もう一か所の、TV番組で知った、千葉県匝瑳市にある松本庭園美術館では、猫との嬉しいふれあいがあった。成猫は美しかったし、丸い籠の中に輪のようになって寝ていた子猫四匹が何とも愛くるしかった。生後一か月とのことだった。輪に入らずに活発に動いていた子猫を抱かせてもらう。ふわふわした綿のような浮遊感。軽くて重さが感じられない。直前に訪問客に引き取られた子猫もいたそうだが、住むところが近ければ私もそうしたかった。

 

 猫を愛した作家については、シリーズエッセイ「北の国から来た猫」で内田百閒を初めとして何度も取り上げてきた。猫と作家との関係をテーマにした本も少なくない。最近もそうした本が出たので、すぐに飛びついた。それが『もの書く人のかたわらには、いつも猫がいた』(河出書房新社、二〇一九年)である。NHKのドキュメンタリー番組「ネコメンタリー 猫も、杓子も」がもとになっており、六人の愛猫家が登場する。その六人とは、角田光代・吉田修一・村山由佳・柚月裕子・保坂和志・養老猛司である。

 

TVでは、五匹の猫を飼っている村山由佳が出演する番組を見ただけで、他の五人と愛猫との日常は紙上で知ったことになる。この六人に共通するのは、猫はそこにいるだけでいい、存在するだけでいいという思いである。愛猫の中で最も印象的だったのが、一九九五年に『この人の閾』で芥川賞を受賞した保坂和志が飼うシロである。彼の言葉を紹介しよう。「猫とちゃんと付き合って、心平らかにして損得勘定抜きに考えると、とにかく一緒にいられるだけでいいって気付く」

 

その保坂和志の近刊『ハレルヤ』(新潮社、二〇一八年)に登場するのは三毛猫。一九九九年五月、谷中霊園にある義母の墓参りに行く途中に野良の子猫に出会う。左目がないのがわかったが、花ちゃんと名づけ、一八年八カ月をともに過ごす。保坂は言う、「人生というものが自分だけのものだったしたら無意味だと思う。人間が猫にかかりきりになるというのを、人間を絶対だと思っている人は無駄と思うかもしれないが、私はそう思っていない」「自分以外のものに時間を使うことの貴重さを実感した」。

 

昨年の「北の国から来た猫第八章」でもそうだったが、猫の魅力は孤独な自由主義者であることに尽きる、と繰り返し述べてきた。しかし、幼いころから猫と暮らしてきた、イギリスのレイチェル・ウェルズは、『通い猫アルフィーの奇跡』(ハーパーコリンズ・ジャパン、二〇一五年)で、主人公のアルフィーに語らせる。「人間は、猫は自分勝手で我儘だと非難するけれど、事実とは程遠いことが多い。ぼくは助けを求めている相手の力になりたいタイプの猫だ。人間を助けるという、とっておきの新たな使命を帯びた、思いやりのある愛情深い猫なのだ」と。実際に、飼い主を喪ったアルフィーは、過酷な野良猫生活を経て通い猫となり、それぞれ問題を抱える、四つの家族を幸せにするのである。アルフィーのシリーズは四作出ている。

 

愛猫家であるイギリスの作家セリア・ハドンによる『猫はあきらめる時を知っているー賢く生きる一〇〇の知恵』(ダイアモンド社、二〇一八年)は、猫に仮託して、人間の処世訓を列記したものといえる。最初が「猫は個性豊かである。ルールや慣習にとらわれない。そして、他人の評価も気にしない。ただ、自分のなすべきことを淡々とこなす。世界を見渡しても類を見ない成功者である」で始まる。そして、一〇〇番目が「人の希望や夢を踏みにじるのではなく、人々の心にそっと優しい足跡を残そう。あなたの猫のように」と結ばれる。

 

 アトランダムにこの間に読んだ猫本について述べたが、まだまだ在庫がある。なかなか一掃できずに、第九章まで来てしまった。第十章はどうなることやら。

 

 最後に、我が飼猫の情報を少し。ミーコはついに私の年齢を超える歳になった。腎不全になってから一年半ほど経つ。今も一日二粒の薬を服用し続けている。固形の餌の中に薬を埋め込んで飲ませようとしているのだが、夜になっても薬が残っていることがある。その場合は、TVでも盛んに宣伝されているチュールというジェル状の餌に、薬を粉状して混ぜ込む。そうすると確実に猫の体内に入ることにはなる。最近の検査で数値が悪くなってはいないことがわかったが、餌を食べる量は確実に減っている。猫にも人工透析のような処置があるようだが、無理な延命治療は考えていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私の好きなテレビドラマ(時代劇)③

 

                泉  脩

 

「鬼平犯科帳」トップの力

 

 池波正太郎原作、DVD六十枚を超す大作である。毎回完結で、江戸を中心に当時の風俗がよく描かれている。江戸時代後半の寛政年間、首席老中松平越中守が治めた時期である。

 

 「剣客商売」が、首席老中田沼意次が治めた田沼時代の物語ならば、この物語は次の時代の出来事である。田沼時代は商業が発達して、町人が豊かになり、文化が栄えた。米価は下落し、米の生産に頼る農民と、米に頼る武士が苦しくなった。そこで松平越中守は商業への規制を強め、ぜいたくを取締り、武士の力を強めようとした。いわゆる寛政の改革である。

 

 窮乏した民衆が盗賊になり、豊かな商家を襲って残酷な急ぎ働きをするようになる。そこで幕府は特別警察「火付盗賊あらため方」をつくり、独自の機動性を与えて、盗賊たちをおさえようとしたのである。

 

 この火付盗賊あらため方の長官に任命された長谷川平蔵は、旗本の庶子として生まれ、若くして剣道の修業に努めた。同時に遊興にふけり、ケンカ三昧の日々を送った。ところが思いがけず父の跡を継いで旗本になり、やがて武勇をかわれて火付盗賊あらため方の長官になったのである。

 

 私は今回三度目の観賞をし、改めて感銘を受けた。語り口のうまさ、人情のきびをつかむ上手さ、盗賊の世界のめずらしさなど、とてもおもしろかった。そしてなによりも、鬼平こと長谷川平蔵の人間像が魅力だった。中村吉右衛門の見事な演技によって、組織におけるトップの力が、いかに大切かがよくわかる。冷酷に人命を奪う盗賊への怒り、苦しい生活にあえぐ庶民への共感、命をかけて働く部下や密偵たちへの配慮、どれをとっても、鬼平の人間的魅力を充分に伝えている。このドラマが広く愛されたのは、こういった鬼平の中に、理想の上司、理想の政治家を見い出したからだろう。

 

 困難に直面すると自分が先頭に立ってたたかい、部下や民衆をかばい、すべての責任は自分がとる-こういった上司や政治家がいたらどんなにうれしいだろう。この逆に、自分の利益、自分の出世ばかりを願う男たちがどんなに多いことか。

 

 原作者はフェミニストらしく、美しい心をもった女性を多く描いている。恋人や夫、そして家族を愛し、時には自分を犠牲にする女性たち。男たちが、見栄や義理で生きる時、女性は命を守り育てることに努めるのだ。

 

 原作者は食道楽で、おいしい料理の話がよく出てくる。しゃも鍋、鯉の洗い、うなぎのかば焼き、鮎飯、そば、芋酒、・・・あげていけばきりがない。もっと人生を楽しもうという、原作者のメッセージが伝わってくる。

 

 鬼平=原作者の人間観も興味深い。人間は良いことをしながら悪いことをする、悪いことをしながら良いことをする-というのである。鬼平も原作者も、若い時は無頼の生活をした。人生が思うようにいかない時、思いのままに荒れたのである。だから人を見る目がやさしく、人間を一面的に見ない。ふところが深いのである。

 

 だから捕えた盗賊にも情をかけて、人柄のよい者には更生する道を与える。まちがいを犯した部下をかばい、罰しながらも救いの道を与える。このため、ドラマを観ている人々も、自分をかえりみて一息つくことになる。人間にはいろんな面があって、善悪が入り交じっていて、単純ではないのである。過去の自分の誤りを考えると、恥じて生きていけなくなってしまう。

 

 このドラマは、殺し、処刑、拷問など、残酷なシーンがたくさんある。観るのがつらいドラマである。悲恋、不倫、うらぎり、病気、貧困、なども多く描かれている。

 

 それにもかかわらず次々と観るのは、原作者の人間観が豊かなせいだと思う。救いがあり、希望があるのだ。苦しみ、楽しみながらも、多くを教えられるからだと思う。そして急ぎ働き-殺し、犯し、貧しき者から奪う-を断じて許さないことが、とても気持ちがいい。やはり正義は守らなければならない。

 

 

 

 「蝉しぐれ」「剣客商売」「鬼平犯科帳」の大長篇テレビドラマについて書いてきた。NHKの大河小説を別にすれば、私のもっとも好きな長篇時代劇である。

 

 この三作に共通していることは、主人公がいずれも強いことである。剣道の名手であり、精神力もとても強い。同時に、人間的にとても優しい。「強くなければ優しくなれない」「優しくなければ強くなれない」という言葉どおり、強さと優しさを兼ね備えているのである。両方なければ、真に強くなれず、真に優しくなれないのである。

 

 これがヒーローの条件だろう。この三つのドラマは、この真のヒーローが活躍する、胸のすくようなドラマといえるだろう。どの作品も三~四回くり返し観てきたが、飽きずに、いつも胸を打たれてきた。時代劇の代表作だと思う。

 

 現代物では、前に書いた「おしん」「北の国から」「金八先生」が、私にとっては代表的テレビドラマである。どれもこれもとても長いが、それだけ人々に愛され観続けられてきたからにちがいない。

 

 映画では山田洋次、黒澤明、今井正など、すぐれた監督がいる。クラシック音楽では、朝比奈隆、小澤征爾、佐渡裕(さどゆたか)の三人の指揮者が好きである。こういった秀れた日本人芸術家の作品を楽しんで来られて、私はとても幸せだったと、つくづく思っている。

 

 自分も及ばずながら文章を書き、本を作って、日本の文化に加わっていきたい。

 

 

 

時代劇は娯楽の王様

 

 かつて私は、海音寺潮五郎(かいおんじちょうごろう)原作の「父子鷹」というテレビドラマを、とてもおもしろく観たことがある。幕末の英傑の一人勝海舟の父親小吉の生涯を描いたドラマだった。江戸に住む貧しい御家人で剣の達人の主人公で、庶民の一人として正義を守って大活躍する。

 

 息子の海舟が文武に秀で、父親の期待どおり出世して明治維新の立役者の一人になるのである。この父にして、この子ありである。

 

 二回目の長篇シリーズを、夫婦で楽しんだ思い出がある。この後、同時代の時代小説作家の山本周五郎、司馬遼太郎のドラマもおもしろかった。NHKの大河ドラマもよかった。そして、池波正太郎と藤沢周平である。日本の時代小説家は本当に秀れていて、そのテレビドラマは娯楽の王様だと思う。DVD化された作品は、ほとんどくり返し観て、心から楽しむことができた。

 

 これまでとりあげた三作を、私は四~五回は観たと思う。定年退職をし、妻が長期入院してからは、時間があるのでたっぷり楽しんだのである。つくづく自分は遊び好きだと思う。最近は韓国の歴史ドラマに、はまってしまった。ともかく長く、波乱に富み、純愛がつらぬかれていて気持がいい。

 

 この先、日本の時代小説と時代劇ドラマはどうなるか、とても心配である。現代ドラマともども、衰退に向かっているのではないかと思えて仕方がない今日このごろである。

 

 スケールの大きい、彫りの深い作風の作家が再び現れないかと心から願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

森良玄について

 

             村瀬喜史

 

 

 

この通信の247号で、名寄集産党事件の石井長治さんのことを書いたなかで、何人かについて書き残しておきたいといった。

 

 今回は森良玄についてである。厚別の歴史を地域新聞に連載していたころ、荒井英二宅で一服して、話を聞いた。西田信春碑建立 のきっかけなど、紹介こしたいことは沢山ある。

 

六十五、六年ころの夏、荒井さんから指示されて、森良玄をたずねた。「カンパをもらってこい」ということで、陸橋 を北大の方におりた左手にあった「建設情報社」にいった。会社に勤めてこともあり、はじめての会社訪問はなれていた。当時の額で五千円くらいだったが、私にはこんな高額のカンパは初めて、官庁の初任給の半分くらいであろう。目がおおきく、眉毛も太く、頭は坊主の写真が残っているが、豪放磊落、やさしい男であった。 荒井さんがなくなり、千代夫人が、賀状も止めますと施設にはいつたとき、私あてに、「あなたが保管するべき」と「文芸北見」の「小林多喜二との思い出」と題した森良玄の講演記録が渡された。ぬき刷りのように綴じ込みからはずし、厚紙の表紙をつけたものである。

 

この抜き刷りに小池喜孝オホーツク民衆史講座の短い前文がのっている。そこに「この講演後、三年後に、死の病床に臥したとき、復党したという」とあり、私の書き入れに荒井英二工作と記録している。多分、荒井さんから聞いたのだろう。

 

手塚英孝の〔小林多喜二伝」は1957年から三回出版されており、その都度,慎重に訂正されている。「党生活者」のモデル工場などであるが著者が健在であった最後の2008年新日本出版版によろう。

 

多喜二と森は、古川宅とか拓銀地下室とかでひらかけていた社会科学研究会に出会い、そこで小樽の労働組合、全協準備会のメンバーが一緒に参加したことによる。この年1928年の二月下旬、多喜二の親友の島田正策が森良玄の推薦で入党したことを、多喜二が知り、自身も入党を希望した。しかし、作家としての仕事を考え,承認されなかった。(155ページ)

 

このあたりを詳しく書いているのが、荒井さんが残してくれたこの「文芸北見」のぬき刷りである。

 

同じころ、倉田稔小樽商大名誉教授が「小林多喜二伝〕を出版している。これには一文がよみこまれ、取り入れられている。分厚いものだが、私のところに「索引が送られていて便利である。森の名は実に16ヶ所もある。

 

私の要約は、

 

1 

 

1928.6月下旬、色内大通りで多喜二から声をかけられたこと、ここで同行していた鈴木源重が多喜二に「鈴木さん、源重さん」と声をかけられたとき、源重は中央の方針を持って応援にきた」とあたかも党員であるかのごとき紹介をした。                

 

多喜二は靴のカカトを直立不動の姿勢で頭を下げた。

 

 

翌日,森は源重案内で古川友一の家を訪ねる。3・15のあとで、バラバラになった小樽合同労組の新組合の綱領起草をたのみにいった。ところが古川は罵倒した。日本共産党は弾圧されるから悪いんだ。森は怒ってかえった。多喜二はその仲間と誤解した。其れを正したのは風間六三だった。森が、多喜二が「戦旗」配布の分局をやっていると聞いて、「分かった、万歳だ」と誤解をただした。

 

 

翌日,伊藤信二にもあい、多喜二の生活、人柄を聞き、信頼をふかめた。特に、労災の補償に五百円をとった話に「よかったなぁ」と多喜二がよろこんだことは四十年も耳の底に残っている。

 

 

この数日前、森は中央からきたオルグの推薦で入党して共産党員になっていた。その後、海員クラブで新聞づくりにきていた小林とあったとき、たばこのバットをくれた。森良玄がタバコをのまないのを知っていたから、何かの連絡だろうとすぐわかった。バットうち箱にかいてあった日時にしたがって拓銀小樽支店の通用口からはいった。そして「赤旗」を渡した。多喜二は入党の承認がされるのだろうと期待していたのだろうが、「あなたは私らにとっても大切な人なのだから、小樽のような陣地が狭く、敵前にバクロされているような組織に属し、体を粗末にしてはいけない。中央委員会直属ノメンバーとして、文学活動の全国的な指導にあたるのが適切だと説得した。多喜二はなかなか納得しない。

 

この話は手塚や島田正策の記録と多少ちがっていて、この講演で初めて語ったという。

 

 

 

古川友一について、現在の評価は違っている。藤田広登著「小林多喜二とその盟友たち」に詳しい。

 

森良玄について、道党の再建準備会が木田弁護士宅で開かれたが、その七人のメンバーに加わっているが、その後の文献には名前がでてこない。

 

この講演のなかで「・・・50年の秋、除名になりました。数年間は、同志だった人々の激しい敵意に包まれ、迫害的な仕打ちを受けました。そして二十余年のつらい年月を過ごしてきましたが、幸いに最近は党と私の間に相互和解もすすみ、党員同様、暖かく扱ってくれるようになりました。しかし、心の傷は深くまだ党に復帰する決意がつかないでいます。」(一部略)共産党の戦後50年問題は全国的には解明されているが、北海道ではまだ、書かれていないことがある。 

 

民主文学支部の先輩でもある荒井さんに期待していたが、私が自宅を訪問したころは、体調を崩していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日 248号 

 

 

六月例会合評報告

 

 

 

 合評作品

 

秋吉知弘「まんまんちゃん」

 

  第十六回民主文学新人賞受賞作

 

(「民主文学」6月号) 

 

 

 

 

 

 

 

例会合評会へのレポート

 

             泉  脩

 

 

 

主人公の南優志は三〇代後半。大学を出てやっと就職した食品会社を三〇歳で辞め、次々と職を変えて、今は大阪の病院の介護を手伝っている。不慣れな上、人との会話が苦手で苦しんでいる。

 

 東北大震災の後、ボランティアで妻となる美樹と知り合い結婚し、三歳の男の子拓(ひらく)がいる。美樹はナースで忙しい毎日を送り、拓の保育園通いや家事を二人で分担してやっている。

 

 南は仕事がうまくいかず、妻ともしっくりいかず悩んでいる。しかし拓は可愛く、家事も真面目に引受けている。

 

ある日病院で、八〇代の橋本さんという頑固な老人を怒らせてしまう。彼は誰とも口をきかず、南にも素っ気ない。彼は怒りのあまり大声で話し出す。自分は長崎で原爆に遭い、家の下敷きになった祖母を見捨てて逃げたこと、母も兄も亡くなって孤児になり、大阪に来て働いたが、体調が悪くぶらぶら病といわれてきたこと……。

 

 ホールにいた老人たちは、この話に聞き入り、口々に自分の体験を話し出した。

 

 南は看護師長に、橋本さんを怒らせたことを謝るが、かえってよかったと言われる。そして、貴重な戦争体験を聞く会を開こうと言われる。南が橋本さんに謝りに行くと、かえって感謝される。長い間、胸の中に閉まっていたことを話せたからである。

 

 家に帰り、夕食の時に妻に話すと、妻も真剣に聞いてくれた。そして、二度と戦争を起こさないために、自分たちもできることをしよう、という。拓のためにも、戦争や核原発の事故は絶対にあってはならないのだ。

 

 まもなく橋本さんが亡くなるが、入院患者たちは動揺せず、くったくなく生きていこうとする。看護師長は院長に話し、戦争の話を聞く会を行うことにする。南も辞意をひるがえし、がんばっていこうと決める。 

 

 この物語は、老人病院において、自分の生き方に悩み迷う青年が、一人の老人の必死の生き方にふれて、自分も生きる決意をする話である。話の流れが自然で無理がない。

 

 次々と勤務員が辞め、残ったメンバーは忙しくなる一方である。介護を受ける老人たちには希望がなく、やがて亡くなっていく。こんな中でも生きがいを見つけ、努力していく人々の姿をくっきりと描いている。

 

 胸を打つ作品である。私は二時間、息をのんで朗読を聴き入り、読み手も共感しながら読んでくれた。

 

 戦争反対、原爆と原発反対の強いメッセージが書かれているが、物語の展開と解けあっていて、決して不都合がない。

 

 主人公、南の家族の姿がきちんと書かれていて、ゆとりと奥行きをあたえている。子供の存在が何よりもうれしい。父と子の散歩のシーンがとてもいい。家に帰ると、妻が夕食の鍋の用意をして楽しく親子三人で食事をする。何ともうれしいシーンだ。

 

 作者は並々ならぬ力量の持ち主だと思う。考えもしっかりしていて、揺るぎがない。立派な作品である。

 

 なお、タイトルの「まんまんちゃん」は「南無阿弥陀仏」の幼児語である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合評報告

 

              泉 脩

 

 

 

 

 

昨年に続いて新人賞作品のレポートを引き受け、若い作者の作品を読むことができた。

 

 討議では作品への賛否が分かれたが、とても考えさせられた。

 

 支持する意見は、「よく書けている」「家族の描写がいい」「戦争否定の表現がよく書けている」などである。

 

 反対意見は、「主人公の考え方が間違っている」「主人公はいい加減だ」などで、病気の老人の介護という大切な仕事を作者がいい加減に考えている、という人もいた。

 

主人公の南優志は大学卒業後、仕事を転々と変え、現在の介護の仕事も、さしたる考えもなく、適当にやっている。そのためミスもし、落ち込むことが多く、辞職を考えている。しかし、家族に支えられ、優れた看護師長に支えられ、何とか続けている。そして長崎で被爆した橋本との衝突と彼の死を切っ掛けに、仕事を続ける意思を固めるのである。

 

 私たち昭和一桁生れの世代は、敗戦後の日本で生涯雇用、年功序列賃金、同一労働同一賃金、そして高度成長のもとで働いてきた。日本は世界第二位の国民総生産国になり、ともかく今は年金生活に入っている。

 

 ところがバブル崩壊後、長く不況が続き、政府財界は労働政策を大転換してしまった。労働者を守っていた原則はことごとく廃止され、リストラ、不安定雇用、社会保障制度の後退など労働者を苦しめることばかりである。特に若者の多くは夢や希望を持てない状況に追い込まれている。

 

 この作品の主人公が、それでも働きつづけ、結婚し、夫婦が助け合って育児と家事に健気に励む姿は立派である。鬱病にはなったが引き困らず、自殺もせず、健気に生きている。

 

 高齢者世代が、こういった若者たちの苦境を理解しなければ、高齢者と若者の溝が深まるばかりだろう。しかも高齢者・若者問題は、長期に改善されることなく、むしろ深刻になり「8050」問題にまでなっている。

 

 他、「作中の登場人物の思いや主張を作者自身の主張と間違えて、作者批判をするのはまちがいだ」と指摘する意見があった。

 

 私は討議の最後に討議の最後に、自分の共感にもとづく評論について述べ、文学作品、特に民主文学会や支部の作品の討議には、リスペクト(尊敬・敬意)が必要であると主張した。

 

 そうでなければ、作品の理解が深まらないだけでなく、民主主義文学の発展はあり得なく、むしろ崩壊に向かうのではないかと思ったからである。

 

 合評に提供した私のレポートと、この「合評報告」を読んで頂いて、多くの人に考えてもらいたいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

投稿欄

 

 

 

 

 

 

 

イ・ジョンミョン『星をかすめる風』を読む

 

               後藤守彦

 

 

 

詩が盛んな隣国で最も愛されている詩人の名として、誰しもがあげるのは尹東柱〈ユン・ドンジュ〉である。植民地朝鮮の時代、日本に留学し立教大学・同志社大学で学んだが、同志社大学在学中に独立運動に加わったとして治安維持法違反の罪に問われ、一九四五年二月に福岡刑務所で獄死した。二七歳の若さで、大日本帝国が崩壊する半年前に強いられた死であった。

 

 最近、韓国の作家イ・ジョンミョンによって、尹東柱を主人公とした小説『星をかすめる風』(論創社、二〇一八年)が書かれた。史実とフィクションを織り交ぜた、この作品の狂言回しを演じているのが、BC級戦犯として収監されている、看守兵だった渡辺優一である。彼は学徒兵で実家は京都の古書店だった。だから彼は小さい頃から本の中で暮らしてきた。その彼が「人間の魂を滅ぼす戦争と、罪のない人が死んでゆく残酷な話」を語り始める。

 

殺人事件が発生し、犯人が追及されるというミステリーの側面ももったストーリーが、アジア・太平洋戦争末期の福岡刑務所を舞台に展開される。舞台の中央に立っているのは、残忍な看守として恐れられた検閲官杉山道造と、平沼東柱の名で収監されている尹東柱。

 

尋問という形式での二人の対話が重ねられるうちに、尹東柱の文章と詩が杉山の心を包み込んでいく。

 

 

 

死ぬ日まで空を仰ぎ

 

一点の恥辱〈はじ〉なきことを、

 

葉あいにそよぐ風にも

 

わたしはこころ痛んだ。

 

星をうたう心で

 

生きとし生けるものをいとおしまねば

 

そしてわたしに与えられた道を

 

歩みゆかねば。

 

今宵も星が風にふきさらされる。

 

 

 

 『星をかすめる風』には、この「序詞」と題されている詩をはじめ、「懺悔録」「自画像」「たやすく書かれた詩」「帰って見る夜」「また別の故郷」「悲しい一族」「少年」「雪降る地図」「星を数える夜」「十字架」「肝」「八福」の一三編が引用されている。「星を数える夜」は二度も。

 

 そして、言葉、文章、本に寄せる作者の熱い思いが随所に湧出している。「言葉は私にとって魂の内面を見せてくれる窓であり、私は文章を通して人生の悲哀を理解した」「一行の文章を、一編の詩を読むということは、ひとりの人間を、またはその世界を読む行為だ」「一行の文章が人々を変え、ひとつの単語が世の中を変えるのだ」「ある本を読んだ人は、その本を読む前の人ではない」「単語や句読点が集まった一冊の本は、誰かに読まれる瞬間に根を下ろし生きることを始める。本は手から手に伝えられ、古本屋や図書館へと長い旅をする。(中略)そしてある日、埃と暗闇の中で息を引き取るが、その魂は私たちの胸の中に生き残る。したがって本は死なない」。

 

尹東柱研究の課題の一つが彼の死因である。『星をかすめる風』では、彼の死はどう描かれているだろうか。九州大学医学部の医師が新薬開発のために注射を使って人体実験したのが直接的な死因だ、と作者は断言している。しかし、人体実験は推定できるが、残念ながら史料では確認できていない。なぜなら、尹東柱の生涯と文学を描出した作品として韓国で評価の高い『尹東柱評伝』(藤原書店、二〇〇九年)の著者宋友恵が言う通り、「極悪な犯罪に加担した関連者たちに、その証拠を今まで保存しておいたりあるいは自らその事実を明らかにするよう望むのは、とてもむつかしいことだからである」。許せないことに、敗戦時に文書焼却などの証拠隠滅工作が各組織で大規模に行われたのであった。

 

 ソウルにある、尹東柱の母校延世大学の構内に立つ、弟の尹一柱〈ユン・イルジュ〉が設計した詩碑には、尹東柱の筆跡を拡大した「序詩」が縦書きで刻まれている。二〇〇七年春、現在もキリスト教系の名門私大として評価の高い延世大学の正門を通り、五分ほど歩いて詩碑と対面した時の感動は今も忘れられない。現在私は、「序詩」を毎日一度諳んじているのだが、この詩は高潔さと清澄さで、いつも懶惰な私を激しく打つ。

 

 

 

 

 

 私の好きなテレビドラマ(時代劇) ➁

 

               泉  脩

 

「剣客商売」

 

人情味あふれた親子の剣客の物語

 

 

 

池波正太郎原作の、連続ドラマ。DVD二十六枚(スペシャルも含む)の大作である。

 

一話完結なので、次々と惹き込まれて観てしまう。

 

 江戸時代中頃、十代将軍の治世に、首席老中として腕をふるった田沼意次(たぬまおきつぐ)が中心人物の一人である。彼は小身の旗本上がりで、ねたみ・そねみを受けるが、商品経済をおし進める政治を推進した。剣道を愛して、江戸に集まる剣客たちをひ護した。

 

 作品の主人公は、この剣客の一人で六十歳をむかえて一人息子に道場をゆずり、川沿いの農家を手に入れて、隠居の身だった。秋山小兵衛(こへい)と大治郎である。

 

小兵衛を演じる藤田まことは、江戸一番の名人をひょうひょうと演じていて、実に味わい深い。

 

 もともと悪役や刑事を演じてきたが、年齢とともに味わい深い名優になったと思う。

 

 彼は百姓娘の下女お春(小林綾子)に手をつけ、妻にむかえた。四十歳も年の離れた夫婦で、この二人のやりとりが実におもしろい。さすがの名人も、明朗快活なお春をもてあまし、子供が欲しいと迫られて、逃げ腰の毎日である。

 

 小林綾子は名作「おしん」の子供時代の役でデビューし、日本ばかりでなく世界中の人々に愛された。貧しい小作農の娘として生まれ、七歳から子守奉公に出され、辛苦の中で成長する役である。そのけなげさで、観る人々の胸をうち、涙をさそった。この作品では、すっかり成長して、天真らんまん女性になり、藤田まことと対等にやりあうのである。

 

 物語は、主人公秋山小兵衛が、江戸市中で一人の娘を助けるところから始まる。彼女は、佐々木三冬(みふゆ)といい、老中田沼意次(平幹二朗)の庶子である。奥女中に生ませ、すぐ母親に死なれ、人に預けられて育った。淋しい境遇を剣道に打ち込んで過ごし、有力な道場の四天王の一人にまでになった。ところが油断から危機に陥る。そして通りかかった小兵衛に助けられる。

 

 彼女は小兵衛を慕って彼の家に通うが、お春がいて思うにまかせない。

 

 秋山大治郎(渡部篤郎)は、やはり子供の時に母に死なれ、小兵衛に育てられ、剣道を仕込まれる。

 

十五歳の時から剣術修業に出かけ、すっかり腕を上げて江戸にもどる。そして父の道場をゆずられるが、弟子が一人もできない。しかし田沼老中の前での剣道試合で七人抜きをして剣名を上げ、他の道場での代稽古をして生活をしていく。

 

 この秋山父子が、江戸市中で起る難事件を次々と解決し、二人の剣名はますます高まる。三冬も二人を助けて活躍し、ついに大治郎と結ばれ、やがて小太郎が生まれて、すべては順調にすすむのである。

 

 この全五十話もの連続ドラマは、次々とおこる事件を秋山父子が解決していく、いわばスリラーである。しかし、二組の夫婦のやり合い、この二組をかこむ江戸庶民の応援がなんともおもしろく、いわば人情ドラマになっている。

 

 原作者の池波正太郎は、山本周五郎・藤沢周平と並ぶ、歴史小説、時代小説の大家で、生粋の江戸っ子なので、江戸を舞台にした作品が多い。テレビドラマでは、「鬼平犯科帳」も名高く、「剣客商売」と双璧である。真田一族の運命をえがいた「真田太平記」も傑作で、これは一貫したストーリーをもち、NHKの大河ドラマになった。

 

 私はこの三大ドラマが大好きで、くり返し観てきた。「真田太平記」が一番と思うが、他の二作もすばらしい。何回観ても惹き込まれてしまう。まさに時代劇の名人芸である。どの話も勧善ちょう悪であるが、人間には善悪二面があるとして、単純な物語にしないところがいい。「剣客商売」の田沼老中にしても、歴史的には悪人とされてきたが、この作品で新しい照明が当てられている。秋山小兵衛にしても、年老いるとともに、剣術よりも酒と女のほうがよくなったと言って、楽隠居を決め込もうとしている。ただ周囲が彼を放っておかず、彼自身も好奇心をおさえきれず、事件に首をつっ込むのである。

 

 大治郎と三冬は途中で俳優が代わったようだが、三冬を最初に演じた女優(大路恵美)が魅力的だった。男装をし、大小二本差しで歩きまわる姿は、とてもおもしろい。

 

そして秋山親子に出会って、女性的に変わっていくところがよいのである。大治郎と結ばれ、小太郎が生まれ、二人の祖父がメロメロになるところもおもしろい。孫のいない私にも、わかるような気がする。子供は希望なのである。

 

 ひさしぶりに「剣客商売」を楽しんだが、こうなると「鬼平犯科帳」も観ないわけにはいかない。もっと長いのだが。

 

 

 

 

 

 

 

古本好きにはたまらない

 

『漱石全集を買った日』

 

           松木 新

 

 

銀閣寺の近くにある「古書善行堂」店主と、〝古本病〟に罹って数年の客である青年との対談『漱石全集を買った日』(二〇一九年四月 夏葉社)は、古本好き向けの貴重なブック-ガイドといってよく、言及されている本はすべて買いたくなってしまうような刺激的な内容です。

 

何気なく古本屋をのぞいて手にした一冊から、やがて『漱石全集』の購入をきっかけに文学の世界へのめり込んでいく青年の思いが、縦横に語られていきます。

 

対話のなかでふれられている主な作品は、次のようなものです。

 

河上肇『自叙伝』、三木成夫『生命のリズム』、関口良雄『昔日の客』、佐藤泰志『海炭市叙景』、柴田元幸『翻訳教室』、漱石『三四郎』、志賀直哉『暗夜行路』、井伏鱒二『荻窪風土記』、津田青楓『漱石と十弟子』、柴田翔『されどわれらが日々―』、マラマッド『レンブラントの帽子』、上林暁『星を撒いた街』、木山捷平『耳学問・尋三の春』、伊藤整『近代日本の文学史』、チェーホフ『かわいい女・犬を連れた奥さん』、寺田寅彦「団欒」、松本清張『或る「小倉日記」伝』、吉屋信子『底のぬけた柄杓』、野見山暁治『四百字のデッサン』、武田百合子『犬が星見た ロシア旅行』、山田稔『天野さんの傘』、アンダスン『ワインズバーグ・オハイオ』、ジェーン・オースティン『自負と偏見』、ギャスケル『女だけの町』、尾崎俊介『S先生のこと』、サマセット・モーム『月と六ペンス』。

 

以下は詩集ですが、参考までに紹介します。

 

内堀弘『ボン書店の幻』、山下春彦『誰もいない』、季村敏夫『山上の蜘蛛』、足立巻一『親友記』、西荻生『ハイカラ神戸幻視行』、亜騎保『動物の舌』。

 

「古本ソムリエ」と呼ばれている年配の古書店主の発言が、とくに精彩を放っています。該博な知識の持ち主であるだけでなく、この国の歴史と向きあう姿勢に、凛とした佇まいを感じました。

 

河上肇について、店主は青年に語ります。

 

「たとえば河上肇っていう思想家がいて、治安維持法で捕まった人なんやけど、その人の自叙伝を若いころに読んで、思想的にどうのこうのというよりも、生き方として感銘を受けた覚えがある。見事な生き様というか、この人は信用できるな、という風に思ったことを今ゆずぽん(青年のニックネーム=引用者)と話してて思い出したなぁ」

 

詩人の亜騎保が話題になったときには、脚注で次のようにコメントしています。ちなみに、本書の脚注は非常に参考になりました。

 

「古本屋に通い出してまだ三、四年だというのに、亜騎保にたどり着くとは、足立巻一の『親友記』に亜騎のことが出てきたのを、ちゃんと読み、覚えていたということ。季村さんのエッセイも読み、さらにまた数々の詩人たちが、ゆずぽんの頭の中に入っていくのだろう。神戸詩人事件や京大俳句事件へと興味が広がり深まっていけばいい」

 

「ウキペディア」によると、「神戸詩人事件」は一九四〇年に発生。詩の同人誌『神戸詩人』に投稿していた県内の詩人たちが、治安維持法によって逮捕され、長期間、拘留と取り調べを受けました。

 

「京大俳句事件」は一九四〇年二~八月、俳誌『京大俳句』の主要会員十五人が、治安維持法違反で逮捕されました。『京大俳句』は三三年に創刊され、新興俳句運動の中心となりましたが、事件で廃刊に追い込まれました。

 

「物語っていうのは架空の話であっても、自分がそれを読むことによって、感動したり、心を動かされたとしたら、それはなんら現実にあってもおかしくない話で、自分にとっては大切な場所の一つになるからね。物語の素晴らしさを知る、というのは、本を読む中で醍醐味の一つやもんな」などの発言は、本と向き合う姿勢として、大切にしていきたいものです。

 

先日、村上春樹が、「言葉を通して、何かを実際あった出来事のように人に体験させるのは、小説にしかできないことです。そういう物語を経験するかしないかで、人の考え方や、世界の見え方は違ってくるはずです。生身の人間を通過させる物語を書きたい。小説が持つ、その力に本当に期待しています」(「小説家40年と『騎士団長殺し』」――「北海道新聞」夕刊 二〇一九年五月二十三日付)とインタビューに答えていましたが、物語の力への信頼が、二人には共通していると思いました。

 

本書には、「古書善行堂」以外にも、関西地方や東京、さらにはヘルシンキの「ハーゲルスタム古書店」など、ユニークで魅力的な古本屋が数多く登場します。その一つに、東京の大田区にあった古書店「山王書房」があります。

 

店主である関口良雄のエッセー集『昔日の客』についての二人の会話がとてもユニークなので、さっそく購入して読んでみました。一九七八年に刊行されましたが絶版になり、二〇一一年に復刊されました。

 

関口と交流のあった主な作家は次の通りです。

 

正宗白鳥・尾崎士郎・上林暁・三島由紀夫・川端康成・浅見淵・尾崎一雄・野呂邦暢・小田切進。

 

昭和三十六年の文化の日、関口は初めて上林暁宅を訪問します。古びた二軒長屋に昭和十年頃から住んでいる上林に、上林の旧著「ちちははの記」への署名をお願いすると、「本を愛する人に悪人はない」と書いてくれます。

 

「瞬間私は、こりゃあ悪人にはなれないぞと思った。

 

私は先生にお別れして帰る途すがら、ほんとうの文学者に会ったという感動で胸が一杯になり、何回も何回も署名本に見入った」

 

三島由紀夫が山王書房の近くに越してきて、顔を見せるようになり、「花ざかりの森」に進んで署名をしてくれますが、有名になると店には来なくなります。

 

三島の父親が「一度、駅前の新本屋で自分の倅の本『潮騒』を買っているのを見かけてことがあった。そのとき、本屋のおばあさんが、誰にともなく、わたしゃあ、三島さんのお父さんの顔を見るとかわいそうでならない、と涙声でいったのを耳にしたことがある」

 

エッセー集の表題になっている「昔日の客」は、野呂邦暢の思い出です。

 

長野県の諫早高校を卒業すると、野呂は上京して山王書房の近くに部屋を借り、上野のガソリンスタンドに勤めました。本好きの野呂は良く本を買いに来ます。ある日、家の事情で勤めを辞めて故郷へ帰ることになった野呂が来店して、千五百円の「ブルデルの彫刻集」を購入しようとしますが、千円くらいしか都合がつきません。関口は即座に、千円で結構ですといいます。

 

それから十数年後、野呂の『草のつるぎ』が芥川賞を受賞します。授賞式のために上京した野呂夫妻が、お土産を持って山王書房を訪れます。

 

「僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんに贈りたいと言って、作品集『海辺の広い庭』を下さった。

 

その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。

 

『昔日の客より感謝をもって』 野呂邦暢」

 

 

 

札幌の人間として、魅力的な古本屋のひとつに、「サッポロ堂書店」をぜひ取り上げて欲しかったと思いました。今では、古本は「アマゾン」や「日本の古本屋」の利用がほとんどですが、学生時代は、神田や池袋の古本屋を歩き回りました。大半は掘出し物が目当てでしたが、『伽倻子のために』のなかで、相俊が全集を風呂敷に包んで、「伽倻ちゃん、これは今晩のデート代だよ」といって、古本屋へ向かったのと同じように、たまには蔵書を売って生活費の足しにしていたことが、懐かしく思い出されました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日 247号 

 

 五月例会合評報告

 

   合評作品

 

田本真啓「キングゴリラ」

 

(「民主文学」5月号) 

 

 

 報告者   北野あかり

 

 

 

 

 

1,作品の感想

 

書き出しのところで「田口くそしね」と書かれた絵が出てきます。人生には思いがけないことが起こるもので、自分の身に起きたこととも重なり親近感を持って一気に読みました。

 

というのは、同居している家族から突然、

 

「……! ……! しね!」と、激しい言葉を浴びせられ、この作品の田口と同じように、対話も途絶え、関わりもギクシャクして、私のいる場所ではないと思うようになりました。 

 

ところが、自分がアキレス腱断裂で入院・手術をすることになった時、すぐに病院に行かなかったことについて周囲から叱責され、情けないほど傷つき落ち込んでしまいました。

 

その時、同室の方から「怒ってくれる人も居なかったらどうするの! 有り難いと思いなさい!」とビシッと云われ、背筋がシャキッとなったのです。この時から、激しい言葉しか発することしかできない家族の心情に思いを馳せるようになり、私の中の何かが変わりはじめました。

 

この作品を読んで、共に生きることの難しさと共に、それが喜びに変わるきっかけがあることも共有でき、とてもいい作品に出会えたと思いした。

 

 

 

2,タイトルについて

 

はじめ、タイトルを「キングゴリラ」としたことが読み取れず、ゴリラよりキングゴリラの方が、リズム感があって云いやすいから? そうではない筈だと気になっていました。

 

何度も読み返し、最後の場面で、傷心を抱えたまま別れの日が訪れ、遼一にかけた言葉も無視され、なすすべもなかった時、「悔しかったらお前もゴリラになってみろよ」という峰岸の言葉を思い出し、着ていたシャツを脱ぎ捨て、ジャングルジムの頂上目がけて登り始める。登りながら自分がゴリラに変貌し、わだかまりから解き放たれていくのを体感し、遼一を心から抱きしめる事ができるようになります。

 

頂上で肩車した遼一と田口、グランドに投影されたその影は、何をも恐れないキングゴリラであり、「此処があなたたちのための居場所」と云ういずみの言葉が、今後の田口の生き方を示唆していると思われ、一番感動したところで、作者が一番云いたかったことをタイトルにしたのだと思いました。

 

 

 

3,表現方法について

 

田口や遼一、峰岸、いずみさんの言動や、場面についてイメージができるように、田口の心情で描かれています。その心情を表す言葉が障害者や女性蔑視だったりして、受け入れ難いものでしたが、最後まで読んでいくと、田口の成長過程の中で変わっていったことが読み取れました。心情を書き込むことも場面をイメージする上で効果的な方法だと思いました。

 

 

 

4,合評の中で出された意見など

 

  1. 面白かった。文章にリズム感がある。峰岸さん、いずみさんの個性も出ている。

  2. 変だと思った所

    ・テストが平均点以下はバケツに捨てられ、

    殴られた。戦時中ならともかくこんなことがあるのか。

    ・学力テストで競争を煽られている現在、あり得ることかも。

  3.  複線を先に書く手法について

 

・p38 算数のテストであるようだった、で終わっている。その内容がp45から始まっているが続けた方が解りやすい。

 

・伏線を先に書く手法は大事なことと思うが、この作品では成功していない。

 

  1. 聞き捨てならない田口の言葉「どうしてそんな簡単なことが、遼一君に解らないのか」「一人で何にもできないくせに……」などについて

    ・それがゴリラのまねをしただけで抱きしめられる?問題解決しないでしょう。

    ・田口の内面を描いている、自分の姿か?

    ・おかしな社会感をあえて登場させ、どう変化するのかを書こうとしているが、そこが描かれていない。

 

  1. 遼一への暴力について

    ・読んでショックを受けた。同じ体験をした。進級が危うい生徒と面談中、反抗的に無視され殴った。

    自分のかけた、悪意ない言葉に傷ついていたのだった。その生徒とは後に仲人することになった。

    ・ある本に、どんな子供でも「存在を認めて貰いたい」「交わりたい」という要求がある。その要求に基づいて教師は努力すべきだ。この小説でも子供からすれば先生が好きで認めて欲しい、そのことが解る。

     

     

 

247の「投稿欄」の執筆者とタイトル

 

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

 

 後藤守彦 

 

   読みの深浅

 

 

 

泉   脩

 

     私の好きなテレビドラマ(時代劇)➀

 

    田本真啓「キングゴリラ」 生徒に学ぶ教師

 

 

 

松木 新 

 

   第28回大会参加記

 

   目から鱗の『万葉集の発明』

 

 

 

村瀬喜史

 

   『札幌民主文学通信』御中

 

       

 

豊村一矢

 

    エッセイ 幼年期に見た世界4 3  (最終)

 

   6、7歳の頃に見た世界

     

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日   246号 

 

 

 

 四月例会合評報告

 

 

 

 

 

         ※四月例会では、二作品の作品合評を行いました。札幌支部員の自身の作品合評の場合はレポータ、レポートなしで合評を進めることにしています。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品

 

  評 にしうら妙子『四季を重ねて』

 

      泉 脩「 民主文学」三月号

 

 

 『たてがみ』

 

 石川節子「民主文学」四月号

 

 

 

 

 

 

 

合評をうけて

 

泉 脩

 

 

 

 私の作品はわずか三枚書評だが、にしうら妙子さんの『四季を重ねて』への感想が多く出された。

 

こちらは四百ページを越す長篇なので、とても読み応えがあり、だれしも感心していた。

 

 私は、「命を生み育てる女性のつよさ」を強調したが、だれ一人異論はなかった。「男たちの影がうすい」という意見もあった。家族の中心は母親なのである。子供のためならば、どんな苦労もいとわないのである。

 

 時代背景がよく書かれている、と私は書いたが「不充分なところもある」という意見が出た。ABC包囲陣という言葉は、日本政府による宣伝なのである。

 

 私は書き足りない部分を追加して、通信三月号に載せたが、それについても意見が出た。「家族小説はだれもが書けるはずだ」というのである。しかし、だれからも自分が書くという声はなかった。

 

難しいのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

改稿「たてがみ」の合評を受けて

 

石川節子

 

 

 

四、五箇所の単語や句読点などを入れ替えた「改稿」で投稿した「たてがみ」が、『民主文学』4月号に掲載されて、「おめでとう」なんて言われたりしてチョッピリ自信が持てたような気になりました。

 

宮本編集長からお電話を戴いて、校閲中の会話の中で驚くほど「読み取れる事柄」が有り、大変な量の勉強になりました。

 

たとえば五十五頁の下段、後ろから十一行目、私は、「一年下級生の春男くんでした」と表現していたのですが、「これはおかしいのでは、ありませんか」と言われてびっくり・・・。

 

「一年下級の春男くん・・・と続くのではありませんか」と言われて「ふうん、そう言うものかなあ」と不思議を感じたものです。

 

でも今はもう、「編集長の言うことが正しかった」と、納得がいきました。

 

「やちぼうず」は、知っていても「やちまなこ」は、知らない人が多く「未知」と「既知」の常識が、地方によってかなりの差があることを改めて認識させられました。

 

六十二頁、下段四行目、虻に追われて逃げ出すシーン。

 

 

 

鯨目が足早になった。

 

走り出した。

 

走る。走る。

 

モモの心臓も走り出す。

 

猛スピードとなって風を切って走る。

 

 

 

の部分を、統一されたデスマス調に合わせて、改稿した結果、なんだか、スピード感とパニック感がかなり落ち臨場感が薄れたような気がします。しかし合評会の席での発言でも、改稿された

 

 

 

鯨目が足早になりました。

 

走り出しました。

 

走る。走る。

 

桃子の心臓も走りだします。

 

猛スピードとなって風を切って走ります。

 

の方が「文法綴りも正しく、感じが良い」と言うひともいて、賛否両論ありました。

 

ここにも「文学の持つ深み」の一角に触れたよう感じがしました。

 

だんだん、「文学にはまり込んでゆくような自分」を不思議な物を見ているような、もう一人の自分が居て、合評会の楽しさを心底、味わっている今日この頃です。

 

 

 

 

 

 246の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    金石範・九三歳

 

   泉 脩    

     石川節子「たてがみ」

          人と馬の結びつき 

     

     私の好きなラブストーリー⑤

 

 

  豊村一矢

         エッセイ   幼年期に見た世界  3

                    番外編           

    

  松木 新

        馬物語

 

 

  泉 恵子

      「宮本百合子を読む集い」でのこと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

 

二〇一九年月一日 245号 

 

 

 

三月例会合評報告

 

 

 

 合評作品

 

秋月礼子「樹々のそよぎ」

 

(「民主文学」二月号) 

 

「北海道民主文学」22号より転載)

 

       報告者   豊村一矢

 

 

 

 レジュメを用意して合評の討議の柱を立て感想、意見を出し合った。

 

 

 

  1. レジュメの概要

 

タイトル

 

「北海道民主文学」の『雑種天国』を「民主文学」では『樹々のそよぎ』に改題しているが、それをどうみるか。

 

七つの章からなる作品の、Ⅲのタイトルが「そよぎ」で統合失調症の美貴が登場し、「無邪気な笑顔」「少女のような透明感」「妖精のよう」などの言葉が並ぶ。Ⅵ「ハミング」で美貴は寛解期までに改善しており展望が開けている。「私」を刹那的な永遠を手に入れた気分にさせている。

 

Ⅵ「ハミング」で美貴は「寛解期」にまで改善している。「私(今日子)」を「刹那的な永遠を、手にいれた気分」にさせている。

 

 一方、他の章では、民生、昇の登場で重症の統合失調症に追い詰められる姿が書かれている。

 

(2)「樹々」も「雑種」も「今日子(私)」「美貴」「民生」「昇」。他、統合失調症に苦しむ人々、が書かれる。

 

改題の意図は作品のなかの「希望、前進、友情」など、プラス志向の強調だと思える。

 

 『雑種天国』は、この作品が含む「棘」「毒」「怒り」「皮肉」「悲しみ」などの批判的感情を開き直ってタイトルにした、と言えないか。

 

主題

 

主題はⅦ章の喫茶店のマスターの言葉に集約される。

 

・発達障碍なんて言っても、世の中に、個性的でない人なんているかい

 

・僕が、お客さんの話を聞くのが好きなのは、ひとりひとりの人生が、素晴らしいドラマか映画みたいに感じられるからなんだ

 

・書くことが、今日子ちゃんの生きていることだよ。生きていることに自信を持つんだよ

 

構成・人物像

 

・主な登場人物が統合失調症で、しかも中心人物「私」の視点で作品が書かれ展開する。このような作品は貴重だし、作者の挑戦に拍手。

 

 民主文学の中では、『稲の旋律』旭爪あかね、 

 

『校庭に東風吹いて』柴垣文子、『バードウオッチング』田本真啓、などがある。

 

・章立ては意図的である。どの章も「私(今日子)」が登場し他者と関わって作品を動かすのだが、中心人物はⅠ「民生」、Ⅱ「昇」、Ⅲ「美貴」、Ⅳ「深刻になった民生」、Ⅴ「深刻になった昇」、Ⅵ「寛解期の美貴」、Ⅶ「寛解期の私」と各章の役割がはっきりしていて、必然的に人物像が類型化している。それをどう評価するか。

 

・Ⅶ『ペンと紙』は予定調和の典型的な章。マスターの登場と説明で一気に主題に到達する。 

 

これは安易と言わざるを得ない。

 

 表現法・文体

 

・作品『樹々のそよぎ』で最も注目したのは表現法・文体である。「短い文章」「省略形の多用」「体言止め」「会話文と地の文の一体化」「多義的な言葉の差し込み」などの手法は臨場感をもたらし読者を登場人物に同化させる力がある。天性の才能を感じる。

 

・「短い文章、省略形の多用、体言止め、会話文と地の文の一体化、多義的言葉」は常に説明不足を生むから、読者が誤読したり、前後の文章の整合性に矛盾が生じたりする。部分的に時系列が乱れている箇所がある。また、一見、自然な装いで置かれている言葉に作者の憑依を感じたりする。例えば、書き出しに部分の「喫煙可。」などだ。作者はなぜ言葉を入れたのか。作者のこだわりがあったと思える。そのこだわりが読者に伝わるか、も気になる。

 

これらは短所だろうか。魅力だろうか。

 

・『樹々のそよぎ』の表現法・文体について、評価は人によって異なるだろう。

 

作品世界を人物の内に深く立ち入って描き出す手法として成功している。

 

 

 

  1. 主な感想・意見

 

 改題について

 

・改題については、良とするものと、改題前の「雑種天国」の方が作品の個性・特徴・「らしさ」が出ていてよいとする意見など賛否両論があった。

 

 テーマについて

 

・テーマはⅦ章の喫茶店のマスターの言葉に集約さている。予定調和の書き方で一般的には拙いとされるが、マスターの言葉が読者の思いを代弁しているようにも思える。

 

構成・人物について

 

・章立ては、意図的に計算された構成で人物の立ち上げも類型化が著しいという点ではレジュメの指摘を裏付ける意見が多かったが、その良し悪しについては評価が分かれた。

 

 表現法・文体について

 

・レジュメで提起した「特色ある表現法・文体は作品世界と人物の内面を深く描き出すのに有効な手段となっている」を裏付ける意見が多く出された。一方、体言止めや省略形の多用は、日本語を乱暴に扱うようで肯定出来ないとの意見があった。

 

作者の挑戦について

 

・統合失調症に苦しむ主人公「私」が作者という形で書かれた作品であり、書くことが障碍を克服し自分らしく生きるための営みとなっている。書くことは障碍、ストレスと向き合いながらの挑戦だと思う。激励の声が多数出た。

 

 

 

 

    245の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    講演「3.1独立運動100年から考える」プロローグ

 

   泉 脩    

     石川節子「たてがみ」

          人と馬の結びつき 

     

     私の好きなラブストーリー⑤

 

 

  豊村一矢

         エッセイ   幼年期に見た世界  2

                    三歳・五歳のときに見た世界           

    

  松木 新

       平野啓一郎を見直した

 

 

  福山瑛子

      「宮本百合子全集」を前にして思うこと

 

  

  村瀬喜史

      4月例会合評への文書発言を兼ねて 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

二〇一九年月一日  244号 

 

 

 二月例会合評報告

 

 

 

「札幌民主文学通信」の例会合評報告は、支部誌「奔流」と北海道研究集会作品集「北海道民主文学」掲載の作品の場合、作者が報告します。 

 

二月例会では「北海道民主文学」二十二号から三作合評し、昨年十一月から行ってきた二十二号の合評は完了した。          編集部          

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『山田洋次の世界』

 

 『山田洋次の世界』の合評を受けて

 

                泉  脩

 

 

 

 インフルエンザで合宿を休み、一ヶ月遅れで合評を受けた。おおむね好評でほっとした。ほとんどの人が「男はつらいよ」が好きで、かなり見てきたようだ。現在NHKのBSで再放送していて、多くの人がみているようである。

 

 「山田洋次は夢と希望を与える映画を作っている」という私の主張にみなさん同意されてうれしかった。人間は捨てたものじゃない。この世には夢や希望があるという山田洋次の主張は、日本中の多くの人の共感を得ているのだろう。

 

 寅次郎は故郷と家族を愛し、困っている人を放ってはおけない。特に女性には親切で、マドンナ達は寅次郎の恋は受け入れられないが、人間として心から感謝している。

 

 討議はそれぞれの「寅さん体験」になり、とても楽しかった。人間の善意を信じる仲間なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『悠久への旅立ち』

 

 『悠久への旅立ち』の合評をめぐって

 

                福山瑛子

 

 

 

二月例会で出された意見を紹介します。先ず批判的意見を-----

 

*吾郎のことをもっと書いて欲しかった。

 

*死生観がまとまっていない。諦観めいたものを感じた。

 

*人間を書いて欲しい。もの足りない。

 

*生身の人間の感情を出さねば。

 

*独立した作品として見ると、もう少し内面描写を深めてもらわないと。批判を通して書く。今後、どうやって書いていくか、課題と思う。

 

*もうちょっとサビが欲しい。

 

*さらさら読めるが、読む人間に残らない。

 

肯定的意見は次の通りです。             

 

*何時も感じるのは、筆者と世界が違うということ。羨ましい。自立した女性の自由で闊達な人生。思い通りに恋をし、別れる人生を活写している。

 

*自分に素直で自己肯定的。自分に自信をもっている。

 

*さらさら読める。福山さんらしい作品だな、と思った。

 

*淡々とした表現がいい。麻川は、以前に福山さんが出した「キューバにかかる虹」に出てきますね。

 

 

 

皆さんのご意見を聞いた後で、私は「自分のことを書くことがほとんどで、フィクションで書くことが少ない」と思いました。

 

しかし、後で考えると、「悠久への旅立ち」の中で、レストランで食事をしながら、語り合う場面はフィクションなのです。事実は地下鉄の駅で偶然浅井(本名)氏と出会った時、立ち話をしたのです。それをふくらませる必要を感じ、レストランでの食事の場面を創作したのでした。私小説といえども、フィクションが加わることがあるのではないでしょうか?

 

 私は自分には神経質な面があるのに、最近は自己肯定的になっているのを感じています。それは老化現象なのかも知れません。

 

 例会の翌日、大阪の吾郎に電話しました。すると、「最近、食事をつくる元気がなくなり、昼と夕食を弁当屋から届けてもらっている」と言うのです。私と七つ違いで九十三歳になる彼ですが、耳が遠くなっているらしく、私に何度も聞き返すので、「そのうち、何か送ってあげるわ」と大声で言って電話を切りました。それで今週のコープの「トドック注文用紙」に彼の好物を幾品か書き込みました。これから時々、彼に食料品を送ってあげたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『海峡』

 

「海峡」について

 

                 菊地大

 

 

 

 多喜二祭の前日、室崎さん、浅野さん、泉恵子さんが余市の農場まで来てくれました。例会にも参加できずにいるぼくを激励に来てくれたのですが、「海峡」合評で出された皆さんの意見を聞かせてもらいました。

 

「海峡」は、歴史的な朝鮮半島の南北首脳会談が行われ、あるいは米朝首脳会談も・・・という時に書いたもので、弁解になりますが、少し興奮していて物語の筋立てが不十分だったり、演説調になったりしています。興奮したまま書くと物語に作者が裸で入り込むのです。

 

尹がナホトカ経由で来日したことは事実ですが、帰途に韓国入りを図ったというのはフィクションです。外国人に対する海外線の立ち入り制限は新聞報道などで知らされていましたが、その時、入国管理事務所から注意を受けたという事実はありません。尹はソ連邦の教育功労賞を受け、その葬儀にはロシア人も多数参加したそうですが、儀仗兵の号砲は、ぼくの想像です。

 

ぼくの朝鮮問題への関わりは、全て戦前・戦後の樺太での体験から出発しますので、暗夜の朝鮮人に対する暴行事件は何度も書いています。ユン・スグンがそこにいたわけではないのですが、当時の日本人と朝鮮人の関係がそこに集約されていたと考えるのです。日本人の中には未だに民族差別(とりわけ朝鮮人に対して)が残っていますが、これは政治と教育の問題です。歴史の事実を「なかったこと」にしようとする時には、それと闘わなければなりません。(ノーマさんも言ってます)その場合、文学は有効な手段です。

 

「海峡」の中の朝鮮人に対する暴行事件は、03年5月号の「民主文学」誌で取り上げていただいた「赤いフレップ」という作品にも出てきます。その時の「民主文学」の編集長は稲沢潤子さんでした。「赤いフレップ」は、山の文学学校に持って行った作品で、ぼくが小説というものを書き始めた頃の作品です。そこでの合評を受けて改稿し、短編特集に応募しました。稲沢さんはそれを覚えていてくれて、「取り上げたエピソードが主人公の意識に影響を与えていない」と指摘されています。ぼくにはそれがよく理解できます。稲沢さんがそれを、「自分の問題でもあるが・・・」と言っているところを浅野さんが読み取ってくれていました。

 

「海峡」という題は書きながら生まれました。日本を間にサハリンと朝鮮半島、それぞれの間の海峡は、広くはないが近くて遠い国の間の複雑な海峡です。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさんのお嬢さんからの手紙

 

  

 

通信243号を田中まゆみさんの御霊前とお嬢さんにお送りしたところ、お手紙が届きましたので紹介します。(編集部)

 

 

 

    豊村一矢様

 

    このたびは札幌民主文学通信を贈っていただきありがとうございました。

 

    「田中まゆみを偲ぶ」という思いがけない特集に胸がいっぱいになりました。

 

    皆様によろしくお伝えください。

 

                田中早苗

 

 

 

 

 

掲示板

 

 

 

通信243号を読んだノーマさんから

 

「田中まゆみさんには例会にせいぜい三回お会いしたでしょうか。でも、強い印象が残っています。寂しいです。精一杯生きられた、ということが伝わってきます」

 

 「北海道民主文学」22号がほしい 

 

 「民主文学」一月号文学ニュース欄を読んだ群馬県利根郡昭和村の準会員さんから二十二号を送ってほしいとのお話がありました。道外からの要請は初めてです。

 

 

 

 

  244の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    スウェーデンミステリあれこれ(その二)

 

    泉 脩    

     にしうら妙子「四季を重ねて」

          命を生み育てる女性の靭(つよ)さ

  

   豊村一矢

         エッセイ   幼年期に見た世界

                    〈一〉三歳のときに見た世界           

    松木 新

 

 

 

     『宝島HEROs ISLAND』がすごい!

 

 

  

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一九年〇二月一日  243号 

 

 

 

 

 

特集

 

田中まゆみさん(筆名 大橋あゆむ) を偲ぶ

 

 

 

 

 

 

 

 田中まゆみさんのこと

 

「たとえ機械につながれていても」

 

              木村玲子

 

                                  

 

 私とまゆみさんとの出会いは、当時小さいビルの三階にあった「フリースクール札幌自由が丘学園」の一室でした。一九九〇年代の半ば過ぎのことです。

 

 フリースクールとして立ち上がって間もなくの頃で、代表のKさんの高校の教え子だったまゆみさんは、画家として「新道展」の会員として脂の乗った時期にあり、学園での活躍は目を見張るものがありました。

 

 定年を待たずに私立高校の専任を降りた私は、ここで「文学へのいざない」というメニューで週一回の子ども達との時間を過ごすことで、心の空白を埋めていたのですが、まゆみさんは「ここは私の生き甲斐」と全身全霊で子どもたちと向き合っていました。

 

 「どんな子供たちもたくさんの可能性を秘めている」と、「不登校」という負い目を背負った子ども達に、アートで自信を持たせようと、校外での展示会を企画し、最初は喫茶店や銀行のロビーを借りて、そのうち「札幌市資料館」の一室での展覧会を開催しました。そのために遅くまで子供たちと製作に励んでいました。何人かの子供たちは大作にも挑み、そのうちの数点を「有島絵画展」に出品し、毎年必ず受賞者がいました。そんな一人に浜地彩ちゃんがいます。彼女は卒園して百号の作品を「新道展」に出品し見事新人賞をとり、今は最高の賞も受賞し、個展も開く画家に成長しています。

 

 

 

 自らのアートの世界でも大活躍で、インスタレーションという造形美術の分野での新しい試みを毎年発表していました。何時の頃からか「メメント・モリ(死を想え)」のタイトルで連作を追求していましたが、ここには自らの思いを投影していたでしょう。二〇代の終わりころに重い腎臓病を患ったということで、その頃から週三回の透析に通う日々。初めの頃失意の中で、ある医師から「たとえ身体は機械につながれていても心は自由」の言葉をかけられ、美術の世界に奮起したとのこと。透析の日は朝から病院に出かけ、治療をしている四~五時間は読書の時間だったそう。医学書から、漫画まで「あらゆる本を読んだ」と言う読書家でした。

 

 私と知り合ったころは、まだ松葉杖もつかず、多少不自由な歩き方で、アメリカ西海岸での絵画展のイベントにも出かけていきました。現地で透析をするために、必要な英語を学んで病院を探したりと苦労をしているのを見た人などから、「あまり無理をしないで」と言われるのをとても嫌っていました。「無理をしないでは何事も成し得ない」というのが信条でした。身体を気遣っているようで、挑戦を押さえつけるこの言葉。私などもついこの言葉が出かかっては、ハッとして呑み込むことが何度かあり、そのバイタリティに圧倒される思いでした。

 

 

 

 出会ったころに開催された、今は無くなった「時計台美術館」での個展に行った時の事。何気なく部屋に入ろうとすると「あ、待って。この部屋全体が作品だから」と言われて、薄暗い部屋全体に張り巡らされた造形を、蠢く映像等を不思議な思いで眺めたことを思い出します。この後も海岸での焚火の燃え上がる炎の写真をアートの世界に仕立てたりなど、あちこち動き廻って様々な試みをしていました。

 

 畳二畳ほどのベニヤ板に、子供たちと大きな樹の張り紙アートを「希望の樹」として製作し、私がそれに寄せる詩を書いて、学園の象徴として発表したこと等懐かしい思い出です。そこから学園の通信名「希望の樹」が生まれました。

 

 

 

 長年透析を受けている人は、何らかの副作用があるとのことで、まゆみさんの場合は骨が脆くなるということらしく、次第に松葉杖の助けを借り、手首の力の衰えをカバーする装具をつけるようになり、やがて車椅子の生活になってゆきました。そんなまゆみさんを送り迎えする男性の姿もチラチラ(恋人だったのかな)。自慢の息子さんにユメちゃんという赤ちゃんが生まれた時「孫の顔を見られるとは思わなかった」と言って喜び、娘さんは時折アートのモデルになっていたよう。

 

 障碍者としてヘルパーさんのサポートを受ける生活の中でも、いつも精力的で明るく、学園の子供たちやスタッフとの交流にも独特の存在感を持っていました。

 

 

 

 私が、『奔流』や『北海道民主文学』に書いた作品を見せると、民主文学会にとても興味を持ち、自分にも書きたいことがあること、身体が次第に思うようにならなくなり、造形美術の分野で製作することには限界がくるであろうということもあって、文章を書いてゆきたいと札幌支部に入り、準会員になりました。支部の面々との交流も嬉しかったようで、電動車椅子を操りながら地下鉄を乗り継いで出席する姿は、支部の面々の目に焼き付いていることでしょう。まゆみさん流の美意識を湛えた表現力で、書くことにも精力的に取り組み、その苦労を楽しんでいるかのようにも見えました。

 

 子供時代に親から離れて生活した経験もあるそうで、活動家だった父の事、育ての母の事等複雑な生い立ちを、きちんと見つめたいという思いを持ち続けていたようでしたが・・・・・・。

 

 そんな幼少期の辛い体験を潜り抜けた後の、人を見る目の確かさを感じさせるエッセイは、ユーモアとウィットに富んでいていいなあと感じます。

 

 

 

 フリースクールの子供たちにとって、車椅子のまゆみさんは、生きた教材でもありました。まゆみさんが来ると、玄関からの階段や段差を子どもたちが手を携えてサポートします。器用に電動車椅子を操りながら子供たちの作品を指導するまゆみさんから、その生きる姿勢を学んでいったことでしょう。どこまでも子供たちと共にアートの世界を追求したいという情熱に燃えていましたが、体力の限界から退職せざるを得なくなったことは、とても残念そうでした。

 

 

 

 何度かの手や足の手術の他にも、乳癌をも患い、入院を繰り返しては不死鳥のように蘇る、そんなまゆみさんでした。障碍者保険が介護保険に切り替わり、施設に入っても、そこから垣間見る世界を温かい眼差しでエッセイに綴り、また創作の世界も豊かに広がり、いつも傍らに書きかけの原稿用紙が置かれていたとのこと。自身で予言したとおり、身体は不自由でも、心は自由の精神で精一杯のコミットをしていました。

 

 

 

 毎月の『民主文学通信』に必ず掲載されていたエッセイを楽しみにしていましたが、今年(2018年)の夏頃から「載ってないなー」と思いつつも、また、最新号の『北海道民主文学』にも新たな作品がないのを、深刻には考えませんでした。調子が悪いのかしらと思いつつも、どこかで不死鳥のようなまゆみさんを思い描いていた、おめでたい私でした。

 

 訃報の連絡をいただいた時には、既に数週間も前に亡くなっていたことを知らされ、愕然としました。まゆみさんが施設に入ってからは、電話で二、三度話したきりで、それも取次だったので遠慮の気分が働き、後は手紙のやり取りだけになっていました。一度訪ねようと思いつつも、日常に追われて、訪ねないままになってしまったことは、返す返すも口惜しく心残りです。

 

 しばらく会っていなかったこともあって、まだ、夢を見ているようでもありますが、これからはあの個性的な文章に出会えないのかと思うと寂しいです。まだ、何時でもあの明るい声が聞こえてくるような気がしてなりません。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさん、さようなら                  

 

福山瑛子

 

 

 

 田中まゆみさんが、最後に民文例会に出席されたのは何時だったか? 物忘れがすすんでいてる私は記憶が曖昧で何年か前の夏、としかいえません。電動車椅子で来られた彼女と一緒に、例会後、高教祖センターから車椅子を押して駅まで行き、エレベーターを二回乗り継いで、ホームで「さよなら」をしたのが最後だったように思います。

 

 田中さんのことで忘れられないのは、彼女が作った陶器の作品「メメント・モリ」を市民センターで開かれた新道展で見たことです。当時、私は「メメント・モリ」の意味を知らずに見ていました。でも、その作品が発する不思議な力に惹きつけられました。

 

二〇〇八年発行の「北海道民主文学」に田中さんは「メメント・モリ」と題する二十四枚の作品を載せています。主人公由美が闘病中の美術仲間、中山義幸のお姉さんからの電話で、彼の病状が思わしくないことを知り、見舞いに出かける話です。義幸は声が出ないので、筆談で会話しますが、その三日後に彼は亡くなります。

 

この作品の中で、田中さんは次のように書いています。

 

「由美は現代美術の映像によるインスタレーション(架設)展示を個展や美術展などで発表している。テーマは生と死。メメント・モリ(ラテン語で死を想えの意)と題して生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ。というコンセプトで、長年このテーマで取り組んでいる」

 

由美は田中さん自身であり、上記の取り組みは彼女の取り組みなのです。「メメント・モリ」の中で、彼女は昨年(二〇〇七年)、由美が「右乳がんの全摘手術をした」ことや帯状疱疹にかかったことを書いています。私は彼女と同じように、右乳がんの全摘手術を受けていますが、手術したのは七年前の二〇一二年でした。私も帯状疱疹にかかったことがありますが、それは三十年前のことです。でも、共通の病気にかかったことで語り合ったことはありませんでした。

 

彼女はフリー・スクールの先生をし、生徒に美術の指導をしていたのを、様々な作品から知ることができます。

 

田中さんは、「奔流」と「北海道民主文学」が発行される度に必ず作品を載せており、二〇一二年九月発行の号には、「弘美の日常」を書いています。ここでは、恋人らしい雄一郎を登場させ、弘美の朝から夜までの変わった生活ぶりを書き、翌二〇一三年、二月の「民文通信」{一七一号}に、「二十年目の『ぶち切れ』」と題してエッセーを書いています。「弘美の日常」の初稿ゲラの校正をしている時に電話が鳴り、二十年の付き合いがある人工透析の仲間とわかります。校正中であることを話しても、彼が喋り続けるので、ぶち切れるというストーリーでした。

 

 田中さんは昨年九月に亡くなりましたが、八月発行の「北海道民主文学」に「まっ、いいか」の表題で、「民文通信」に載せた四つの通信を掲載しています。最後まで紙面に登場した田中さんの意欲に敬意を表したいと思います。

 

私事になりますが、一月九日、八十九歳の姉が老人ホームで老衰で亡くなり、私は急に自分の死を考えるようになりました。でも、田中さんには申し訳ないのですが、最近の私は姉のように、「出来たら八十九まで生きたいな」と思っているのです。

 

私は今、田中さんが例会だけでなく、その後の飲み会でも朗らかに元気な声で話していたのを懐かしく思い出しています。

 

 

 

 

 

 

 

「メメント・モリ」に寄せて

 

  死を想え、生をも想え田中まゆみ

 

               浅野勝圀

 

 

 

 田中さんのことを考えているうちに二〇代のころ観た映画の一シーンが浮かんだ。志村喬扮する主人公が、小雪のちらつく公園でブランコに揺られながら低唱する『ゴンドラの歌』―などである『黒澤明の傑作『生きる』の名場面である。それにしても、どうして「生きる」だったのだろう。

 

 

 

 田中さんのことですぐに思い出せるのは泉恵子さんに伴われて支部の例会に現れた初対面の日のこと、市民ギャラリーの美術展でインスタレーション「メメント・モリ」を観た日のこと、フリースクールの美術講師藤田由美が語り手の三部作ー『白杖の調べ』『メメント・モリ』『輝ける子どもたち』―などである。

 

 支部の例会では、身体の不自由なことよりも、強い向日性の方が印象に残った。

 

 

 

 ぼくが見たインスタレーションは、化け物のように巨大な卵と百個は優にありそうな並み卵の広がりとで構成され、一様に銀色に塗られていた。面白いなとは思ったものの作者の意図が推測しきれず少々困惑したことを覚えている。

 

 

 

 「北海道民主文学」十七号に発表された同名の創作『メメント・モリ』には語り手の由美が真情を吐露し作品のテーマが明らかにされる場面がある。

 

  由美は現代美術の映像によるインスタレーション(架設展示)を個展や美術展で発表している。テーマは生と死。MENTOMORI(ラテン語で死を想えの意)と題して、生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ。というコンセプトで長年このテーマで取り組んでいる。

 

 三部作の語り手が作者の分身であり、そのしなやかな強靱さの由縁がここには語られている。

 

 三部作などで創作をはじめ、支部の「通信」に掲載されたエッセイの数々に至るまで、(美術作品も含めて)田中さんが遺した作品に一貫するテーマは「生きる」だった。

 

 そう納得すると、映画『生きる』のシーンが浮かんだこともインスタレーションから受けた困惑も、きれいに氷解するような気がする。

 

 

 

 田中まゆみさん。「メメント・モリ」のバトンをぼくも引き継いで行こうと思います。

 

 ゆっくりお休みください。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさんを偲んで

 

室崎和佳子

 

 

 

 私と田中さんとの接点は、月一回の例会とその後の居酒屋行きの時に限られていました。その時交わした会話などを、今、思い出しています。

 

 彼女は必要以上の手助けを拒み、ほとんどのことを自分一人の力でやり遂げていました。車椅子で地下鉄を乗降するのはもとより、居酒屋での立ち居振る舞いに、それが感じられました。

 

 潔い人だなぁ、この人とはなんの遠慮(会話を交わす時、返答するのに言葉を選ばなければならない人もいる。この人にはそんな遠慮はいらない。直球で返せばいい。そうすれば、直球で返ってくる)もいらず、対等に付き合える、と直感したものです。多分、年齢も同じだったように思うので、その点でも会話がはずんだように思います。

 

 彼女がいつから車椅子の生活になったのかとか、夫はいるのか、などの個人情報(?)は知らずじまいで、それでも会話が楽しいという人間関係がとても楽しかった。特に、愛とか性に関する感覚が、私ととても似ていた。だから対等に感じたのだろう、とたった今、この文章を書きながら突然のように思ってしまいました。だから、居酒屋だけでなく明るい場所で、愛や性を語りたかったなぁ、とこれもまた痛切に感じているところです。

 

 ここ何年か彼女を見ないなぁ、つまり例会に出てこないなぁ、とは感じていたのですが、何せ例会と居酒屋だけの付き合いだったので、悲しいかな、彼女の顔を見にいくなどの行動を起こさなかった。今思えば、悔いになります。

 

 いずれにせよ、月並みな言葉ですが、彼女は力一杯生き抜いた。これがダメなら、あれがある。あれがダメなら、こういう方法がある。私に不可能はないさ。

 

 生き絶える間際まで力を振りしぼって生き抜いた田中まゆみさんに乾杯。

 

 

 

 

 

 

 

恐いお姉さん

 

泉  脩

 

 

 

大橋あゆみさんが亡くなった。

 

私が札幌民主文学会に入会してまもなく、例会で私は、「子供を愛さない母親などいない」と発言すると、大橋さんにきびしく批判された。「泉さんは幸せな家庭で育ったので、そんなことが言えるのだ」と。

 

大橋さんは子供の時、父親がレッドパージで失業し、母親が働きに出たので、充分に親の愛を受けられなかったという。私は大橋さんの鋭い批判にびっくりし、後日自己批判の手紙を書いた。坊ちゃん育ちの私は、未だ甘いところが残っているのである。

 

そのころ大橋さんは車椅子で例会に出席し、二次会にも車椅子で参加した。私はお詫びの気持ちで、車椅子を押すように努めた。私にとって大橋さんは、年下なのに恐いお姉さんなのである。

 

大橋さんは美術の教師だった。一度合同展を観に行ったが、どこにも大橋さんの絵が見当たらず、係りの人に尋ねると造形の作品だった。なんでもできるのだ。

 

文学では、小説もエッセーも上手だった。美術の教師として生徒と熱く交わった作品が多く、同じ教師出身として胸が熱くなった。恋愛小説もあり、不倫でもお構いなかった。自由自在だった。

 

エッセーでは「イケメン物」がおもしろかった。あけっぴろげに書くので、こちらが恥ずかしくなるくらいだった。まったく自由自在だった。最近は身近な思い出をしみじみと書くエッセーが多く、大橋さんも年を取ったのだなと思った。

 

私の贈る本をよく読んでくれたようである。病気とたたかいながら読んでくださり、好意的な感想を書いてくださり、とてもうれしかった。

 

もっとゆっくりと話し合えばよかったと、後悔している。さようなら。

 

 

 

 

 

 

 

MEMENTO・MORIの文学

 

               松木 新

 

                         

 

大橋あゆむさんの最初の小説は、2006年の「越えられない壁」(『北海道民主文学』16号)です。以来、2017年の「春のワルツ」(『奔流』26号)まで、全11作品を発表しています。

 

最初の5作品(「越えられない壁」、「白杖の調べ」、「メメント・モリ」、「二枚の卒業証書―旅立ち」、「輝け子どもたち」)は、作者と等身大の藤田由美が主人公、つづく4作品(「弘美の日常」、「『わたしのせいじゃない』」、「雨よ、雨」、「さらさらと」)は、小田弘美が主人公です。彼女には、作者の美意識が濃厚に投影されていますから、藤田由美と表裏一体の関係にあると捉えても良いでしょう。最後の2作品(「わたしの中の私」、「春のワルツ」)は、取材にもとづいた作品のようで、それぞれ主人公は違っています。

 

あらためて全作品を通読して、「MEMENTO・MORI」がモチーフだということに気づきました。

 

「メメント-モリ」について、『広辞苑』には次のように書かれています。

 

「メメント-モリ【memento mori (ラテン)】

 

『死を忘れるな』という意味の警句。古代ローマでは『今を楽しめ』という意味で言われたが、キリスト教では、現世のはかなさを覚え、来世の救いに思いをはせるように勤める言葉となった」

 

ホイジンガ『中世の秋』では、次のようです。

 

「十五世紀という時代におけるほど、人びとの心に死の思想が重くのしかぶさり、強烈な印象を与え続けた時代はなかった。『死を想え』(メメント・モリ)の叫びが、生のあらゆる局面に、とぎれることなくひびきわたっていた」

 

大橋さんはこれを、「生と死は表裏一体である。死を想え、生をも想え。そして、しっかり生きよ」(「メメント・モリ」)としています。古代ローマ時代の意味を現代に再生したようにも思いますが、「生をも想え。そして、しっかり生きよ」という主張は、いかにも大橋さんらしい、すぐれた着想だと感心しました。

 

胆管閉塞で緊急入院、右乳癌の全摘出手術、電動車椅子生活―死の不安がつねに大橋さんにつきまとっていたといってもよいでしょう。そして実際、大橋さんは、親しいひとが突然に亡くなる話を、「メメント・モリ」や「二枚の卒業証書―旅立ち」で描いています。その彼女が、「生をも想え。そして、しっかり生きよ」と叱咤激励したのが、これらの作品群でした。その特徴は三つあります。

 

第一、不条理にたいする抵抗です。最初の作品「越えられない壁」では、自動車事故の賠償金の全額返還を要求された由美が、生活保護受給者には慰謝料も認められないのか、と不服審査請求をして、勝利する話です。10作目の「わたしの中の私」は、家庭内DVを認めず、夫を刑事告訴して自立する女性の話です。

 

第二、向かい風に凜として立ちつづける女性たちへの讃歌です。「白杖の調べ」では、光に懐かれて、白い杖をついて、凛として、前を向いて歩いていく里沙を描いています。「さらさら」では、優柔不断な恋人玉木との別れを自分で決める、弘美を描いています。

 

第三、「今を楽しめ」というローマ時代の教えを、忠実に実行していることです。モーツアルトのピアノソナタをBGMに、レーズン入りの蒸しパンを作ったり(「白杖の調べ」)、ヤナーチェクのシンホニエッタの第一楽章を聴きながら、村上春樹の『1Q84』を読んだりします(「輝け子どもたち」)。

 

息子の詔太とは真剣に向き合うものの、どこかそれを楽しんでいるような風情があります。高校受験を相談する詔太に、「あなたの人生なのだから、あなたが決めなさい」と一般論を言うと、家計が大変なことを分かっているから、公立高校受験のために頑張っているのに、「思ってもいないことを、言うな!」とどやされる始末です(「二枚の卒業証書―旅立ち」)。

 

この場面を読んでいると、『ライ麦畑でつかまえて』を思い出しました。相手にプラスになるような言葉をかけているのですが、その言葉に自分の真意以上の効果を含ませている、大人の偽善にたいする反発です。そのことを由美はきちんと理解しているのです。

 

弘美を主人公にした作品世界は、どこか耽美主義的な雰囲気を醸し出しています。大橋さんの美意識が、どこか人を惹きつける妖しい魅力に満ちているのは、このためかも知れません。

 

インスタレーション(仮設構築物)を制作するために、相棒を八剣山の頂に立たせたり、小樽駅前の歩道橋に立たせるなどして撮影した画像を、すべてモノクロに拡大して、180㎝四方の箱の内側の壁に貼り付け、その中から外界を眺める弘美です。

 

電動車椅子の望に恋したものの、望の彼女が別れを拒絶して手首を切ります。彼女は両松葉杖で右足は義足でした。望を諦めた弘美は、展示会にインスタレーションを出品します。望の半袖のTシャツが赤色だったことを意識して、タイトルを「赤の記憶」とした弘美でした。

 

あらためて考えてみると、大橋さんのなかには、小説家と美術家がつねに同居していた、ということを実感します。なお、ペンネーム「大橋あゆむ」の由来は、東区選出の共産党の道会議員だった大橋晃さんから借用したもので、その名に恥じないように歩み続けるというものでした。

 

ぼくが例会に持参している黒のカバンに、電動車椅子のタイヤがこすった跡があります。例会の後の二次会へ向かうときに、雪道で難儀していた大橋さんを助けたときについたものです。今では、それが懐かしい思い出になっています。

 

 

 

 

 

 

 

田中まゆみさんの印象   

 

石川節子

 

 

 

田中さんにはあまりお会いしたことが無かったのですが、強烈で懐かしい想い出があります。  

 

それは、私がまだ釧路に住んでいたころのことで、もう、昔のことです。あるとき美術の全道展移動展が釧路にやって来ました。勿論、覧に行ったわけですが、その直前に妹から電話がきて「お祭りの縁日で飼ってきたひよこの中にめんどりがいたらしく、子ども達のペットになっていて、そろそろ卵を生むそぶりを見せていて、巣箱に閉じこもって居るので排卵誘導玉子を今でもまだ持っていたら貸してほしい」というのです。排卵誘導玉子というのは、昔どこの家でも鶏を飼っていた頃、新子のめんどりに抱かせて、排卵を促すために使っていた石膏で作られた偽物の「生ませ玉子」のことです。

 

もう、とっくに無用の長物なのですがなぜか捨てられずに、ガラクタ箱にしまいこんであるのを探し出してハンドバッグに入れて、展覧会を見終わったら帰りに妹の家に寄ろうと思い出かけました。

 

勿論、移動展はだいたい顔見知りの地元の人の作品が多く展示されていて、全道展らしい自由闊達な画風が満開しておりました。そんな中に一段と大きな存在感を示している「知らない人」の作品があり、そこに釘付けになりました。

 

題名が「メメント・モリ」という彫塑部門の作品で、巨大な玉子が見上げるばかりの大きさで立っているのです。コロンブスから玉子の立て方を享受されたのか、揺れることも無く敢然としてそびえ立っているのです。

 

思わず今、持ってきた「生ませ玉子」をバックから取り出して、手のひらで撫で回してその大きさの違いに恐れ入っていました。回しているうちになぜか、芥川の「蜘蛛の糸」の陀多がまぶたに浮かんで、身震いがおきました。「死をおもえ」。

 

すっかり無口になってしまって妹宅を訪れて、妹に「なにか怒っているの」と云われてびっくりして我に返りました。

 

それが田中さんの作品であったことを想い出したのは,私が札幌に転居して、民文に入会してから、全道展の本展を見たときのことです。一目で分かりました。

 

そこには、巨大なコロンブスの玉子が時空を越えて健在していたからなのです

 

それなのに、今はその制作者の田中さんご自身がいらっしゃらない。とても残念なことです。

 

惜しみながらご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

まゆみさんとMEMENT・MORI

 

村瀬喜史

 

 

 

「民主文学」十月号、文芸時評に「メメント・モリ」が出ていた。そのとき田中まゆみさんを思いだしていた。「札幌民主文学会便り」173号をみて訃報を知り、早速残されている賀状から二年分のまゆみさんの賀状をさがしだしてきた。二枚とも新道展出品のインスタレーションの写真が載っていて「今年も文学と美術にがんばります」と添え書きがあった。今年の写真の副題は「八月の視線」であった。

 

 わたしは二年前のこの「民文通信」の紙上に彼女の作品の合評に「これらの作品について解説を聞きたい」と書いた。「八月の視線」は東京空襲か原爆のあとの廃墟のようなイメージで、生は血管のような赤い紐であらわしたのか。

 

 東京でピカソの展覧会を見たとき、耳に解説の入った説明を借りて聞きながら鑑賞し、圧倒された。シャガールなどの作品も私には解説が必要である。まゆみさんのインスタレーションの解説を生の声で聞きたかった。

 

 早過ぎた死を悼む。人工透析は体にダメージを与え、耐久力をそぎ、早く亡くなる。友人二人にその例をみている。創作は詩的な文体で、もっと書いてもらいたかった。

 

 もう一〇年も前になるが、「北海道民主文学」VoL17に、彼女の「メメント・モリ」という作品があり、そこに次のように解説がある、「現代美術の映像によるインスタレーション(架設展示)を個展や美術展などに発表している。テーマはメメントモリ(ラテン語で死を想え)と題していて、生と死は表裏一体である。死を想え、生を想え。そして、しっかり生きよ。」と。

 

 私は、彼女に父のことを書けと言って嫌われたことがある。私は、彼女の父がレツドパージで職場を追われ、北海道機関紙印刷所で働いていた当時を覚えている。メーデーに夫婦で天理教の半天をはおって参加していた。気風のいい面白い男だった。

 

それで井伊大に電話した。彼女の死をおどろいていたが、上条順ももどっていることだし、と考えて民文に復帰を誘った。彼は彼女の父と機関紙印刷所時代一緒だったことがあり、誰か続いて声を掛けてくれないか。彼とは、石川弘明が「少年の戦争」で書いたその現地、中国東北三省を三人で碁盤をもってビール片手に打ち合ったこともあった。井伊大なら書けるだろう。それが何よりの供養になる。

 

 

 

 

 

 

 

大橋あゆむと作品

 

               菊地 大

 

 

 

 大橋あゆむ(田中まゆみ)さんが民文に参加したのは、ぼくと同じ頃か、ぼくより少し後だと思う。だから同期生のような親近感があった。ぼくも一生けんめい例会に出ていたし、彼女も元気に車椅子を操って、高教組の4階まで通って来ていた。2次会にもいっしょに参加した。ぼくの作品が民主文学誌に載った時、彼女からお酒が届いた。

 

 大橋さんの作品には3つのキーワ ードがあったと思う。フリースクール、美術、身体的障がい。そして敢えて言えば、それを包括するように愛。男女の愛も含めて、彼女には独特な世界があった。

 

 フリースクールは彼女の職場だったし、美術はライフワークだった.「二枚の卒業証書―旅立ち」(「奔流」22号、2009年)は、まさにそのものずばりの印象深い作品だった。

 

「いじめ」を引きずったままの加奈と、作者でもある由美の卒業式当日のやりとりと、それを包み込む友人・父母達・教職員の姿が感動的に描かれていた。

 

 彼女の抽象的造形は独特のものだったが、ときに文章表現にも、激しく大胆に共通する世界が持ち込まれることもあった。病気とのたたかいが、彼女の表現の全てに反映していたのだろう。

 

彼女は、今でも安らかに眠ってなどいないのではないか。もっと生き永らえて創造活動を続けてほしかったと、つくづく思う。

 

 

 

 

 

 

 

 大橋あゆむ原稿のデータ化を通して

 

                豊村一矢

 

 

 

大橋さんと私は、2006年に数ヶ月の違いで文学会に加入した。

 

彼女は初めから作品発表に意欲的だった。

 

2007年発行の「奔流」21号以来、毎年、「奔流」と「北海道民主文学」に計十二冊、支部誌・同人誌に欠かさず発表し続けた。

 

さらに、私は2008年から「札幌民主文学通信」を担当しているが、大橋さんは「通信」にも積極的だった。「通信」が、事実上、月刊紙となった頃からは(体調が執筆を許さない場合を除いて)ほぼ毎号作品を寄せている。

 

「通信」が充実し、しばしば20,000字を超える号も出始め、私の作業量が増え、私は手書き原稿でなくデータ投稿をお願いすることにした。大橋さんは身体的にパソコンを使えないので、従来通り、紙原稿を最後までデータ化させてもらった。

 

それは作品を書き写すことでもあり、そこから私はかけがえのないものを得たのである。

 

大橋さんの作品世界、生き方、メメント・モリ……などで大橋さんと同じ空間に佇んだ体験といっていいだろうか。心に残っている投稿作品を三篇再録する。「(略)」があったり段落を詰めてたりしてある。読みづらいのはご容赦。

 

 

 

「白い細い指」の行方(一三〇号

 

  死と隣り合わせの究極のエクスタシーを追い求める『クラッシュ』(衝突)という、R指定の映画を一人で観ていた時のことだ。クライマックスのところで、スクリーンをうっとりと視つめていると、左太腿に波間に漂う心地良さを感じた。(中略)ふと、太腿の感触が、 わずかに変わった瞬間、何か、微妙な違和感に気がつこうとしていた。気がつこうとしている感覚が、自分の太腿に目を向けさせた。あれ?何で手が、と、じっと手を見る。そのうちに、その手がはっきりと見えてきた。白い細い指。爪は短く切り揃えてあり、優しげな風情で(イヤ、そう思うのは、心地良さが続いているからかもしれない)乗せてある。その優しげな風情の「白い細い指」をたどって行く。色白な手首、まっ白いワイシャツの袖口、上品な紺色の背広の袖口、さらにたどって行くと、「紺色の背広」の先が、きりっとした端正な顔立ちをして、優しげな眼をして、わたしを見ていた。わたしのたどりつくのを静かに待っていた眼と合わさった。その眼を見て、わたしは、とうとう「行きつく先」にたどりついたという妙な達成感を味わった。何をするんですか、とも、やめてくださいとも言わなかった。何事もなかったかのように、「白い細い指」の手の上に、わたしの手を重ねた。身動きもせずされるがままになっているその手を取って(中略)揃えてある膝の上に戻した。そして、わたしは静かに椅子から立ち上がった。左太腿の、心地良い感触を残したままで…。

 

「偶然」が呼んでいる(一五三号

 

(略)ひょっとして父よ、あなたがわたしに気づかせようとしているのですか? この間、あなたのことを書き始めてから、2年もたっていると思いながら原稿を読み返していました。そしたら、支部の例会後の居酒屋で、偶然、あなたをよく知る村瀬さんに、「お父さんのこと書いているかい?」と訊かれました。その次の日の日曜日に、また偶然にも新十津川町の藤原忠雄さんと、ばったりと出会いました。そして開口一番に「お父さんの小説は進んでいるかい?」と言うではありませんか。2年前にあなたのことで取材に行っていたからです。そもそも、あなたのことを書こうとした、きっかけだって、偶然だったのかもしれません。わたしが高校生だった頃、あなたの書籍棚から見つけて読んでいた「民主文学」の40周年記念の年に勧められて、「日本民主主義文学会」の札幌支部に所属して小説やエッセイや詩などを書くようになりました。そして、あなたのことを書き残そうとしているのです。それは、あなたのことを知るいろいろな立場の方々に、あなたのことについて言われれば言われるほど、わたしにとっては、あなたに対してのよい印象などありませんから、そこのところのギャップというか、わたしなりに書き連ねようとしているのです。そうしなければ、わたしの中で今もまだ、あなたへのこだわりが消えそうにありませんから。(中略)だから、書き始めた頃に、偶然、あなたの勤めていた北海道機関紙印刷所の増山取締役さんが、あなたの書いた「20年社史」の後の「40年社史」を書くために、遺族の方々に取材をしているとの事で、わたしのところへもみえたのです。ところが、わたしは「父とは6年間くらいしか一緒にいなかったから話すことはありません」とそっけない態度でした。(中略)

 

 でも、あなたのことを小説に書いていると知り増山さんは、新十津川町の藤原さんのところまで、わたしの取材に連れて行ってくれたのです。「偶然」が重なったことで、あなたのことを書いた原稿を、また読み返してみました。こんなふうに書いていいのだろうかと、迷って、迷って、消したままの原稿用紙。すると、「とことん気の済むまで書いてみなさい。書くことによって、見えないものが見えてくる」と、あなたの声が聴こえたようなきがしました。

 

「またかい!と言われて」(一五四号

 

ロシア文学の講座で、ある作家は、小説を書くと異年齢の子供や大人の聴衆を前にして読み聞かせ、感想を訊いて何度も書き直すという。その話にならって、わたしは、小説やエッセイや詩などを周りの人たちに読んでもらっている。それで、最初に「お願いします」と原稿を見せるのは娘だ。「またかいめんどくせェ」と言いながらも読んでくれる。いきなり「おもしろくない」とか、「何これ、枝葉が多すぎてわけわかんない」とか、「インパクトがない。表現が大げさすぎる。普通に書けないの?」と、さんざん言われる。その後、「あー、いいんじゃない」とOKが出ると、「ありがとうございました」と両手を合わせて頭を下げるのだ。息子の場合は、「テーマは何だ。何を言おうとしているのか。文章にリズム感がない。題名がいまいちだ。結びに切れ味がない」とまるで、文芸評論家の松木新氏に言われているような気がして、直した原稿を見てもらう時は、とても緊張する。助動詞の使い方とか、段落の取り方や送りがなの付け方まで、一字、一字、丁寧に見てくれる。「さすが」と拍手をしてほっと安心するのだ。次にフリースクールの中学生やボランティアの大学生や職員たちにも読んでもらう。その中で「左手で書いた彼の名前」という突然女の家へ乗り込んでゆくエッセイを読んだある女性は、「あらっ、私とバージョン違いだ。妻に乗り込まれてさ。それも2回とも」とさりげなく言うから、「エー」とのけぞってしまった。わたしはすぐさま「それで、どうしたの?」と訊いたら、両手をバツの印にして「話はここまで。私のこと 書こうとしてるでしょ」だって。惜しいことをした。まっ、こういう展開もあるから恥を忍んで、読んでもらうのも悪くない。娘に「またかい」と言われながら、今日も、せっせと書いているのであった。

 

 

 

 私は「札幌民主文学通信」の121号(2008年7月)から担当させて貰っているが、大橋さんが初めて登場したのは128号(2009年7月)である。最後の投稿は233号(2018年4月)。234,235,236,237号と投稿がなく、九月の始め、娘さんから九月一日に亡くなったとの知らせを受けた。

 

 通信初登場から最後の投稿までに、大橋さんは六十三回作品を出している。投稿できなかったのは四十七回。

 

不投稿は、156号(2011年2月)から195号(2015年2月)の間に集中していて、40回中36回投稿していない。大橋さんはこの四年間、病と厳しい闘いをしていたのだろう。途中、169号から172号だけ、連続四回原稿が届いた。病が一時小康状態になったときだったのか。

 

いずれにしても、この病を経て大橋さんはフリースクールの教師を退職し、施設(住宅型有料老人ホーム)に住居を移した。それ以来、大橋さんの手書き原稿はファックスで届くようになった。196号(2015年3月)から連続投稿が再開され、最後の233号まで三十五回投稿し休んだのは四回である。美術、フリースクールの題材は少なくなり、日常の人とふれ合いからモチーフ得たもの、家族のこと、意外と多かったのが「思い出」。私はファックスで届いた手書き原稿をパソコンでデータ化しながら、いつしか、作品世界に引き込まれていった。

 

 振り返ってみると、私が大橋さんと直接話したことは少ない。電話がほとんどで、それも長話ではなく原稿や投稿についての打ち合わせ、確認だった。それなのに田中まゆみを間近に感じていた。彼女の原稿を書写する作業を通し人間田中まゆみに触れたからだろう。

 

 

 

 大橋さんとの最後の電話は七月の末で、「北海道民主文学」二十二号の著者受取り分五冊のほかに五冊を追加してほしいということであった。私は了解し冊子が納品されしだい、十冊まとめて送ると答えた。次に「掲載料と追加五冊分合わせて一万五千円を払いたいが方法は?」というので「ゆうちょ銀行に専用の口座を作ったのでATMを利用するのが一番簡単……」と勧めたが、大橋さんは経験のない送金方法で不安らしい。私は娘さんに送金を頼むのを知っていたから、「娘さんにそんなこと言ったら、バカにするんでない! って怒られるよ」ととがめた。するとちょっと間があって、大橋さんの「ふふふ」と、それはそれは嬉しそうな笑い声が受話器から聞こえてきた。それが最後の声だった。

 

八月三十日、「北海道民主文学」二十二号発送。翌三十一日、受取人入院不在の施設に配達されたという。九月一日、ご逝去。

 

 

 

大橋さん

 

追加の五冊を購入され、まだまだ頑張ろうとしていたんですね。

 

 私は、大橋さんからたくさん学びました。刺激をもらいました。

 

本当にありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

とにかく書きなさいよ

 

               北野あかり 

 

 

 

大橋さんとは、例会の時は隣の席でしたので、「とにかく書きなさいよ」と、いつも明るく話かけてくださいました。

 

また、帰りも地下鉄の改札口まで一緒になることが多く、車椅子に乗った大橋さんは改札口に来ると、あとは一人で行くから…と、エレベーターに向かって頼もしく去って行きました。そんな姿が忘れられない事として心に残っています。

 

大橋さんの作品は、小話のようでユーモアがあって面白く痛快です。身の回りの出来事が題材なので、読んでいると私にも書けそうだという思いに駆られます。いま改めて「北海道民主文学」に掲載された「まっ、いいか」を読み返していますが、その中の「千代紙」に、「……小学校2年生の時、突然、継母の実家に小間使いとして貰われていき、また突然、中学一年生の時、実家に戻された。わたしは突然の出来事の怒りを抑えるために、常に何かに夢中になっていなければならなかった」を読み、大橋さんの生い立ちを知ることができました。その後、車椅子生活を余儀なくされても、なお力一杯生きてきた大橋さんに魂を揺さぶられます。

 

先日、札幌支部の村松祝子さんから次の創作について「あなたはどんな題材を考えているの?」とメールをもらい、私は「今年はやはり選挙でないかと思うんだけど……、でも四月のコンサートで唱う『襟裳の森の物語』は、土砂の投入で生物が死に絶えた襟裳の海を、山に一本一本木を植えることで蘇みがえさせたという、襟裳の人たちの長い闘いの実話を基に作られた合唱組曲で、沖縄の闘いと重なり、唱っていても身体の底からエネルギーが湧いてきます。それも書きたいし……、私の入院初体験、我が家の出来事……息子が旅立つ前に……とか、いろいろあります。」などと返事を送ってしまいました。

 

大橋さんの「とにかく書きなさいよ」の声を忘れず、身の回りの出来事を題材にして、書きつづけたいと思っています。

 

 

 

 

 

一月例会(合宿研修)

作品合評報告

 

   

 

一月例会合評は合宿研修会として行い、

 

「北海道民主文学」二十二号から9作品

 

を合評しました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『黒猫が走る』

 

「黒猫が走る」の合評を受けて 

 

 柏原

 

 

 

  会話が多く、会話でそれぞれの事情が説明されすぎて、小説的膨らみがないと指摘されたが、作品を作りながら自分でも何となく気がついていた。しかし、どう展開したらいいか解らなく、締め切りも近づいてきたので、そのまま提出した。作品を書き始めるのを早くすればいいのだが、なかなか取り掛かれない。こんなことを書きたい、あんなことを書きたいと思うのだが、勝手に頭のなかで動き始めグルグル回り収拾つかなくなる。そのような時期を越えて何となく形になっていって、作品になる。早く始めればいいのだが。しかし、書き始めたら、自分は楽しいみたいだ。ああしよう、こうしようと考えたり、創造したりする事が好きなのだろう。

 

 日常生活には、考える事や書いてみたいことが沢山あって楽しい。

 

今、畑は雪の下だが今年はどうするか、窓から外を見て思いを巡らしている。去年は、芋、人参、大豆は沢山取れたが、トマト、キュウリ、トウキビは天候不順で不作だった。しかし、ビニールハウスを使って育てている友人のトマトやキュウリは大きく育って、おいしかった。ビニールハウスが欲しい。

 

今、着物の着付けを習っている。結婚した時、母が沢山の着物を縫って持たせてくれた。その着物を一緒に住んでいた夫の母が、ちゃっちゃっと着せてくれた。踊りを習っていたので着付けが上手で、自分は、ただ黙って立っているだけでよかった。今は、母も、夫の母も亡くなってしまい、着物だけが残っている。生前、眼鏡を掛けて前屈みになって着物を縫っている母に「着物を縫うのは肩が凝って疲れるだろう」と言った事があった。母は顔を上げ、手を休めて、「楽しくて、どんな風に出来あがるか見たくて」と言った。そのような母は父の運転する車で、何度か旭川に遊びに来た時も、反物を幾つか買って帰り、それを縫って送ってくれた。箪笥の中で眠っている着物を何とかして着たいと思う。でも、大変だ。何とか着物は着られても帯が結べない。自分で着物を着て外出するのが夢だ。でも、外を歩いていたら、だんだん着物が緩んできて引きずるようになってしまったらどうしよう。

 

 黒猫が小説の中で、充分生かされてないと指摘されたが、本当だと気が付きました。書いているうちに、アパートの住人水沢と大家、節子とヒガちゃんをどう関連させていくかで、黒猫のことに目がいかなかった。指摘されて、初めて黒猫のポジションに気がついた。 

 

今、あの黒猫が物置に来ている。ジブリの映画「魔女の宅急便」の黒猫のキキのようにスタイルは良くない。大きくてがっちりした胴体と頭、そしてギョロッとした眼があり、凄みのある風貌だ。以前は出会うと、サーと走って逃げていったが、今は向き合っても逃げない。それで、「よし、よし。いいこだね」と、言いながら一歩踏み出すとやはり逃げていく。この黒猫は、何処かの家の飼い猫だと思う。毛並みも良く、太って頑強だ。これから、この黒猫とのつきあいが楽しみだ。

 

 次回の作品はどうしようか。毎年正月を過ぎると考えはじめる。考える事は楽しいが、その先になかなか進まない。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『たてがみ』

 

 『たてがみ』の合評を受けて

 

石川節子

 

 

 

昨日のことは全て忘れてしまい、子どもの頃のことばかりが鮮明に蘇ってくる日々です。この小説『たてがみ』は、昭和二十二年に樺太から引き揚げて来て、道東の漁村で過ごしていた小学校五年生の時の、ひと夏の思い出を再現したものです。

 

書きながら常にいくつかの疑問を持ち続けました。その疑問は合評会のとき見事に皆さんからの発言の中にでてきて、やっぱり留意点は皆同じなのだと知り、安心しました。

 

一番悩んだ「前書き・後書きを付けるか付けないか」。

 

まよいにまよって結局、付けませんでした。それについてみなさんのご意見は相半ばして、「永久の課題な」と受け止めました。

 

これからも迷いに迷い、揺れながら書いてゆくのだろうその自画像が鮮明に浮かび、我が画嚢にしっかりと納めました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『槇村浩断章』

 

 合評が教えてくれたこと

 

                浅野勝圀

 

 

 

 合評の冒頭、小文中に盛り込めなかった、槇村浩の徹底した天皇制批判と人道主義への拘りについて補足した。この二つは彼の思想を理解する上で不可欠の要件だと考えていながら、執筆時には適切に取り上げることが出来なかったからだ。また、彼の字の前年に「土佐脳病院に入院」したことについては、「警察権力から逃れる手段として彼の母親が選択した」という叔母の証言があることも紹介した。

 

 当日寄せられた皆さんの声を質問と感想に分けて自分の考えや感想を述べてみたい。

 

 

 

 〈質問〉

 

  1. 「間島」の読み方は?

 

日本語では「かんとう」だが、朝鮮語では「かんど」になる。質問者のおかげで、当時の満州国(現在吉林省)に属する間島地方がかつては朝鮮民族を中心とした抗日闘争の拠点であり、キリスト教のしんこうに支えられた地でもあったことが明らかにされた。

 

  1. 「リアリズムの深化」とあるが?

 

プロレタリア文学運動を代表するひとり森山啓の指摘に基づくこの仮説は、「当たらずとも遠からず」とひそかに自負しているところ。きちんとした検証が今後の課題ではあるが。

 

「生ける銃架」と「間島パルチザンの歌」は満州事変の直後、ほとんど時を置かずに構想・執筆・発表されたモチーフとテーマを共有する作品だが、両者の間には大きな隔たりがある。そのことを「リアリズムの深化」という視点で考えてみようとした。

 

  1. 「槇村浩と尹東柱の間に一種血縁のようなものを直観していた」とは?

 

二人の詩人との出会いには多少の時間差があるものの、衝撃の大きさはまったく同じであった。

 

二人は共に戦争への道を狂奔する天皇制ファシズムの時代を生き、槇村浩は燃えるような反戦平和の思想と行動を、尹東柱は潜熱のような祖国愛同胞愛を、それぞれに妥協なく貫いた。

 

時間をかけて「直観」を裏付ける論理の構築に取り組むことで、二人の詩人との出会いを真に意味あるものにできればと思う。

 

 

 

〈感想〉

 

  1. 貴司山治ってすごいことをしたんだね!

 

ぼくらがいま槇村浩の作品を手にすることができるのは、彼の三〇年に及ぶ献身的な同志愛と歴史的な責任の自覚のおかげ。

 

彼はまた、虐殺された小林多喜二の遺体を家族や同志たちが沈痛な面持ちで囲んでいる―あの歴史的な写真を守り抜き後世に伝えた人でもあったはず。本当にすごい人だ。

 

  1. 小熊秀雄にも「間島パルチザンの歌」を

 

思わせる作品があったなあ。

 

小熊の長編叙事詩集『飛ぶ橇』(一九三五年)に収められた『長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)』―朝鮮語で長い長い秋の夜という意味―の殊だと思う。

 

「朝鮮よ、泣くな」と歌い出され、「すべての朝鮮が泣いてゐる」と結ばれる二七〇行を数えるこの作品は、日本による残酷非道な植民地支配を告発し、民衆の悲しみとの連帯を歌い上げている。

 

 小熊秀雄と槇村浩と、この二人のプロレタリア詩人の血縁関係をぼくらは容易に見出すことができるだろう。

 

  1. 「間島パルチザンの歌」を感動した。金達寿が「この作者は朝鮮人ではないか」と考えたのも無理はない。

 

最初に読んだ時ぼくもまったく同じ感想だったことを思い出します。深い海の底から迫り上がってくるうねりのような語り口/文体に引き込まれ、槇村浩のことをもっと知りたい/知らねばと思ったものだ。

 

 ぼくらのこうした素朴な感想の中にこそ、槇村の目指したリアリズムの深まりが反映されているのではないだろうか。槇村浩の詩集がもっと多くの人々の手に届くようにならないかと思う。

 

 

 

 昨年十月の北海道研究集会には、個人的な事情もあって、短時間のあわただしい参加に終ってしまい、肝心の講師牛久保さんの発言さえ記憶に留めることができなかった。

 

 唯一印象に残っているのは、十二月号のルポ「激震地から」に報告された大変な状況の中から駆けつけた高橋さんが、司会の席で「私も読んでいるよ」と言うように、新日本文庫版の『間島パルチザンの歌』を高く掲げてくれたことだった。

 

 牛久保建男さんにはお詫びを高橋篤子さんには感謝をあらためて申し上げたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品『兄の死』

 

若者にもわかることばで 

 

                平山耕佑

 

 

 

「予科練ということばは若い人にはわからないはずだ。若者にも読んでもらいたいと思うならここは説明が必要だ」

 

 そんな指摘があった。全くその通りである。二年ほど前の高齢者大会の分科会で、戦争中の話をしたとき、「小学校三年になった日、ゲートルを巻いて学校へ行ったら先生にえらく褒められた」と言ったら、高齢者大会には珍しく若い人が一人来ていて、その人から「ゲートルって何ですか?」と聞かれた。そういう経験がありながら何の説明もなしに予科練ということばを使ったのは確かに私の落ち度である。

 

 で、この機会だから私にも詳しくは分からなかった「予科練」を百科事典を参考にして紹介しておく。それによれば旧日本海軍の航空機搭乗員の養成制度で、「海軍飛行予科練習生」の略。中学校四年一学期修了程度の甲種、高等小学校卒業程度の乙種、海軍兵から採用する丙種に分かれる。私の兄は農業学校二年のときだから乙種ということになるのだろう。昭和五年にできた制度だというが昭和一九年ころは片道燃料で飛び立ち、敵の戦艦に体当たりするいわゆる「特攻機」に乗って、体当たりできればまだいい方、多くはその前に撃ち落されたはずだ。そして兄が入った終戦間際は、その飛行機さえなくなっていたに違いない。だから

 

「穴掘りばっかりだった」ということばになる。穴掘りというのは多分空襲に備えての防空壕作りだと思う。

 

 いずれにしてもこのエッセイは死んだ兄の追悼の気持ちで書いたものだからこうした長い説明は不要である。私はもともと作品の中で注や説明を書き入れるのは不得手な人間である。ではどうすればいいのか、私にはわからない。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品『木古内の女 垣内ツヤさん』

 

木古内の女・垣内ツヤさん

 

                石川弘明

 

 

 

作者の試みである鉄道とそれに縋って生きようとする庶民の暮らしとの結びつきは描ききることができていなかった。

 

 今頃は鉄道の存在意義を認める人はいなくなっている。突き詰めると「鉄道を守れと言うだけでいいのか?となる。マイカー族にとっては、インフラの意味すらも無視してしまう。 

 

 ツヤのような生き方をする人を無視してしまっているのが現代的と言えるのであろうか?貧しい中に、子育てに励む女を見殺しにせよと言うのか?           

 

 

 

 身体に器具をつけても生きている人は多い。器具が動く限りは生きようと考える人も多い。それが、新幹線という新メデイアに取り替えようというのでは、新しいものができれば、古いものは滅びてしまってもいいというエゴだけの文化文明になってしまう。

 

 国鉄の経営者や、時の政治家の言い分は正しかったのか?現代のJRの経営陣の言い分は正しいのだろうか?

 

 人々の生活を繋ぐインフラは必要がないのか?

 

 線路が開通する度に旗を振っていた庶民が愚か過ぎたのか?

 

 ツヤさんの食堂「急行」に後継者がいないのだから、潰れてしまっても仕方がないと言うのか?  

 

 

 

 時代錯誤に近いJRという表現は誤りであった。

 

 一九八七年に旧国鉄は民営化されて、JRに代わっている。それ以前は国鉄と呼ぶのが正しい。

 

 最初の「登場人物表」をなくして、初めからの二十五行を書き換えるつもりである。

 

 そうして最後の二十八行の、視点を変えた表現を訂正するつもりである。

 

 

 

「訂正本文」

 

 書きやすい地図というものは少ないが、北海道の西南部にある渡島半島もそうである。いわゆる北海道を道央、道北、道東と区域分割をした残りの四分の一に当たる残りの西南の半島部分である。

 

大雑把に例えると、あたかも魚の尾びれのような形をしている半島で、図には画きにくい。

 

 その西南部の最北部に小樽市を中心とする後志地方がある。古くから開けた土地である。そこに鉄道が敷かれたのは、明治十三年の手宮駅であり、

 

札幌駅も同時に建築されている。南小樽、銭箱、手稲、琴似駅も揃って明治十三年である。明治三十五、六年には、余市、二木、蘭島、塩屋まで線路は伸びて、産物と人々は交流した。翌三十七年には、小沢、倶知安、ニセコ、長万部、八雲まで鉄路は繋がっている。岩内線は大正一年から二年の間に繋がり、胆振線は伊達市上長和から、壮瞥、北湯沢、新大滝、喜茂別、京極、倶知安市六郷までを大正八年から昭和十五年までの間に、開通している。瀬棚線は瀬棚、北檜山、今金、茶屋川を昭和四年から昭和七年の間に結び付けた。それらは今はない。廃線されてしまったのである。

 

 更に江差線は大正十五年から作り始め、松前線昭和十二年に着手している。瀬棚線は昭和四年の着手である。

 

 それらの線には始発駅と、終着駅があった。

 

 港町から魚が運び出され、内陸の平坦地は拓かれて産物を港へと運んだ。

 

 

 

 函館を中心とする道南部は、北海道としては、比較的早くから拓けていた。和人の移住もアイヌとの交流も早くから行われていた。松前藩の存在もあって、曲がりなりにも江戸幕府の傘下にあったのは間違いない。函館市は戊辰戦争の時には、五稜郭が戦いの主戦場となり、東軍の幕府軍と薩摩長州が官軍と自称した西軍との最激戦地となった。

 

              (1・18)

 

 現代の交通事情では、函館と小樽間は二三四キロで,JRで言うと更に三十三キロで札幌に到達する。長い間この二百六十七キロが北海道の鉄道の屋台骨である。

 

 もっとも現在は苫小牧から千歳線経由となっていて、函館札幌間は、三一八.七キロである。

 

(これには先行した函館本線が、雪深い日本海側に施設され、海岸沿いの狭い土地しか確保することができぬままに苦闘した歴史がある。)

 

 

 

 この旧函館本線は、倶知安のあたりで名峰羊蹄山をま近に見上げることができるので、観光旅行のお勧めのコースである。しかし、旅行時間の短縮の利便性のみを追求するあまりに,JRは函館本線をローカル化してしまった。

 

 当初は石炭、木材、玉ねぎ、馬鈴薯、ニシンその他の貨物を運ぶための鉄路は、道民の経済を支える

 

ためのものであった。

 

 

 

 一九六八年(昭和四三年)の六月、函館本線を走る列車の中に、垣内ツヤは四人の子供を連れて乗っていた。

 

(本文一三六頁の三行目から一四八頁の十二行目まではそのまま残す)

 

 

 

 木古内駅に物珍しさから旅行客が降りるようになって、休日を利用して本州からくる客が多くなってきたので、「急行」も土日は休まないという方針を決めてからまだ三月も経っていない。

 

 五月の休日には普段の二、三倍の約五十人の来客があって、キミさんが喜んでいたところだったのに、キミさんの人工弁による心臓が停ってしまったのである。

 

 僻地は暮しにくくなり、行政は田舎を見棄てて、都会にばかり目を向けている。新幹線が札幌まで通じるようになったら、やがては倶知安から札幌までの函館本線は廃線となるであろう。

 

 野垂れ死にすべきは、国鉄時代に国鉄民営化を推進した政治屋どもであり、JRの経営者たちの無力さ、愚かさである。

 

 それなのに鉄路を見守り、鉄路と共に生きてきた人たちは老いて死んでいく。

 

 これを世の無情と言うべきか?

 

 政治の過ちと非難すべきなのか?

 

 

 

 

 

 

 

合評作品「呼び出し」

 

  書きたいこと

 

                豊村一矢

 

 

 

 最近、「何で自分は小説を書き始めたのか」という原点に思いが行く。

 

 私はずうっと公立小学校の教員だったが、四十歳代の半ばころが旬だったように思う。年度始めの家庭訪問のとき、保護者の都合で自宅ではなく自営するラーメン食堂の方に行ったことがあった。暖簾はかかっていたが客はおらず、母親が中ほどのテーブルに座って、わら半紙を4~五枚広げ鉛筆で書きものをしながら私を待っていた。初対面だった。

 

彼女は小説を書いていたのである。その時の会話がきっかけで、一ヶ月後に私も彼女が所属する児童文学同人に加入した。創作活動が教育実践になると思ったからである。結果、文学が教師の仕事の一部になり熱中した。その中で「読者は王様」が信条になった。

 

 退職して数年後に民主文学会に加入し、書いたり読んだりして、はじめは「文学は教師の仕事の一部」「読者は王様」をあまり意識しなかったのだが、それでも文学だけを抽出して純粋培養する気にもなれないでいた。そうしているうちに、書き始めた頃の原点回帰が鮮明になった。これは信念というより習性に近い。

 

 

 

今回、「北海道民主文学」二二号への最初の構想を途中で断念し、ほぼ同じ主題で書いた古い作品を多少改作したのが『呼び出し』だった。

 

 学校教育とその周辺を題材に書くといっても、自分自身が納得できる作品に仕上がらない。迷路に入った感覚になることもあった。

 

 

 

 場面や時間転換が入り組んで繰返され、登場人物は多数多様で複雑だし立場や役割もいろいろ、複数の小物語を分散させておいて結合するそんな作品を一〇〇枚くらいで書きたいが見通しが立たない。戯曲の形式を取り入れたこともあったが、評価は今ひとつだった。

 

 合評では、時間の転換が複雑で混乱した、人物像の立ち上げが不十分、との指摘があった。もっともだと思う。合評で、始めに私が書くときの苦労話や挫折を喋ってしまったものだから、意見を出し難くくさせてしまったのではないかと反省している。

 

 体力も気力も知力も衰える一方だ。

 

だが、かわりに開き直る力がついてくれば、まだ頑張れると思っている。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品『軍靴の足音』

 

書いて良かった

 

               北野あかり

 

 

 

この作品を書こうと思ったのは、戦争への道をひた走る安倍政権を許してはならない、平和憲法を絶対変えさせてはならないと痛切に感じたからです。五才で終戦を迎えた私は、これまで一度も人前で戦争体験を語ることはしてきませんでした。戦争体験を語れる最後の年代であり、これではいけないと思いました。

 

合評会では、私の他にも樺太からの引き揚げ者がおり、「空襲で焼け野原になった中をトラックで逃げた」「娘狩りもあった」「私の所は男狩りだった」「引き揚げ後、行き先のない家族は、無縁故者扱いとなり、未開の土地を指定され、木を切り倒し笹で屋根を葺いた家を建て、笹と格闘しながら畑を耕すという過酷な生活を余儀なくされたた人たちもいた」「残留孤児や強制連行された人は無国籍となった」「引き揚げ者は悲惨な人ばかりではなかった。国が用意した客船に乗り、引き揚げ後も職場が確保され困る事はなかった」など体験が語られました。また、戦争体験のない方からは「この作品を通して戦争の悲惨さを感じた。でも北方領土問題が何故大きな運動とならないのか」と問題提起も出されました。

 

その他「中見出しがあるのはいい」「歴史を調べて正確を大切に」「小説にしてはどうか」などの意見を頂きました。

 

これまで戦争体験を語らなかったのは、頑なに過去に封印してきたわけではありません。聞かれれば話す話題は山ほどあるのですが、自らその場を作って来なかったからなのです。

 

それが今回「民主文学会北海道研究集会作品集」に掲載することで戦争体験を紹介する機会を得ました。

 

身近な人と、戦争について話すミニ対話で、読みたいという方も増えました。書くことは大事ですね。書いて本当に良かったと思います。

 

 

 

 

 

 

  243の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

   音楽映画に酔った一日

 

    泉 脩    

    私の好きなラブストーリー ④

  

   豊村一矢

         エッセイ   北の勝

 

   松木 新

      『凍てつく太陽』が面白い

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

       二〇一九年月一日  242号 

 

 

 十二月例会合評報告

 

 

 

「札幌民主文学通信」の例会合評報告は、支部誌「奔流」と北海道研究集会作品集「北海道民主文学」掲載の作品の場合、作者が報告します。 

 

十二月例会では、「北海道民主文学」二十二号から三作、合評しました。       

                               編集部          

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  創作 泉恵子『無加川ラプソディ』

 

 

 

「無加川ラプソディ」の合評を受けて

 

               泉 恵子

 

                             

 

 作品化に当たって、やはり現在の私が携わっていて、その中での最大の関心事でもあり問題でもあるところを掘り下げてみようとした。

 

 ドキュメンタリーとするより、「創作」化して書く方が膨らみが出るだろうという思いで、最初からフィクションを交えて描きだした。が、なかなか深まってゆかないもどかしさを感じていた。

 

 本が出来上がってから、後藤さんの評論「記憶と忘却」に教えられることが多かった。こちらの合評で、「個人が集団の記憶を受け止めることの難しさ」という言葉に考えさせられた。

 

 例えば戦争(第二次大戦)の記憶では、直接体験者からの話はどんどん聞けなくなっている。それでも父母の世代から受け継ぐことのできる我々世代は「親たちと同じ過ちを繰り返すまい」と追体験できるが、我々の子供や孫の世代は更に難しくなるだろう。

 

 そこに直接携わっていなくても、多少なりとも関係がある時、その度合いによって関心の深さは異なってくるだろう。どれだけ客観化して自分の問題とするか。人間力が試されているのだろうか。

 

 今話題の「徴用工」の問題も然りで、遠い記憶の人もいようが、私にとっては身近な記憶の一つである。生まれ育った故郷の土地のあちこちに、その痕跡がある。直接見聞きした事ではないが、幼いころに聞いた話は強烈で、胸の奥深くにしまい込まれていたものが、あるきっかけで急に頭をもたげてきたのだ。

 

 私の中の「イトムカ」はそういう記憶の問題なのだと教えられた。それは未だ解決されていない。謝罪も賠償もない。犠牲者の遺骨も全部は還っていない。慰霊碑もない。戦争の傷跡は清算されてはいないのだ。

 

 なぜだろうと考えた時、地域の特殊性や、その背景にある政治の貧困ともいえる誤った認識と、そこから来る社会性が垣間見えてくる。

 

 そこをどう作品化するか、人物の形象が弱いと指摘された事と相まって、これからも課題なのだろうが・・・・・・。

 

 今回ドキュメンタリー的な要素が強いなかで、地名を「R町」「I町」とすることへの疑問が出された。描き方に不統一なところがあったせいと思うが、悩ましい問題だ。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  小説 田中恭子「希望を抱いて」

 

 

 

合評を受けて

 

田中恭子

 

 

 

支部長の松木さんから「お母さんのことをちゃんと書いてみたら」と言われたのは一年程前だったろうか。亡くなってから二十五年にもなるのに、客観的に、一人の人間・女性の一生として見ることができなくて、無理だなあと思っていた時、埼玉の大宮の火事の報道があった。まざまざと、夏だというのにひやりと震えるような印象だった小父さんの顔や、やせた腕に精いっぱいの力を込めて四年生の私を抱き寄せてくれたシズさんの顔、そして母の涙が蘇った。

 

 従軍慰安婦問題での数々の隠ぺいや暴言に、私はじりじりする怒りと悔しさと、女性蔑視と差別をひどいことと認識することさえできない議員や識者の感覚に、あきれ果ててもいた。

 

「あの人(朝鮮人女性)たちは、それでお金を稼いでいたんですよ。仕事です。無理やりやらされた人ばかりじゃないんです」

 

マイクに向かって言っている議員の映像が流れ、私は議員の名前を確かめる前に思わずチャンネルを変えてしまっていた。そんな想いがずっと私の胸底に停滞していて、一直線に母を描くはずの作品の冒頭が、シズさんのこととなった。

 

 シズさんのことを書くにあたって、実際には私は夏のあの日一時間ほどしか一緒にいなかったわけで、まずは公娼制度の成り立ちから調べることとなった。そして函館の街の歴史や、共産党の党史、旭川や函館の女性誌研究会の会誌など、手元に重ねて積み上げた。その中の一冊が民主文学同盟札幌支部に所属していたことがある谷川美都枝さんの『ものいわぬ娼妓たち』であり、民主文学会奈良支部に所属していた小阿彌(こあみ)義春さんが贈って下さった『一億人の昭和史』十六冊である。

 

 

 

合評で、読みづらい、説明に終わっている、と指摘されたことは、書いた本人が、書いている最中から自覚していたことで、あれもこれもとにかく書いておかなければで、三十九枚になってしまって、文学的な素養の足りなさ、研鑽を怠ってきた自分の姿勢を思い知らされながら、書き直す気力も時間もなくて提出してしまった。以前、札幌支部の仲間・小縄さんの炭鉱の歴史を題材にした作品に対して、私は、読みづらい、説明が多すぎると言った覚えがある。その時小縄さんは、図書館に何度も足を運び、書籍を買い、人にも会い、手元の資料を精査したら、書いておかなくてはならないことばかりだったので、筆を走らせ続けたと、断固たる口調で、おっしゃっていた。小縄さんの長時間多岐にわたる調査及び精査努力とは比べることはできないし、テーマと向き合う迫力は小縄さんの足元にも及ばない私だが、ほんの少しの資料調べと、新たに知ったことも含め、母の生涯に沿って事実を並べ、これは書いておかなくては、あれも入れておかなくては、と、書き手の思い込みが先行してしまった結果かもしれない。

 

もう一つ、朝鮮人娼婦の入浴場面のことについては、何故一緒に闘おうとしなかったのかと悔いていると記述にあるように、母は闘士ではなかった。ただただ、姉妹を思い、職場の仲間を思い、世の中を良くしたいと思い、裏切りはその大切な人々の心をずたずたに引き裂いてしまうことだと深く思い知って、取り調べとはいえない拷問にも、刑務所での生活にも屈服せずに頑張っていた二十四歳の女性である。理論的な勉強をする機会もなく、軍国主義的教育を受け、電話局の就職試験では、「女ながらもお国の役に立ちたい」と書いて採用された経緯を見ても、母の中に巣くっていたであろう朝鮮人への差別意識が払拭されていたとは思われない。でもあえて『交換台』という手記の中に項目を立てて、明治時代から繰り返されてきた朝鮮侵略の歴史を記した上で、刑務所での体験を明らかにしたのは、七十五歳までの生き方の中で獲得した朝鮮の人々への謝罪と連帯の意識の表れだと思っている。更に、この手記の中にシズさんのことは一行も書かれておらず、あたかも三人姉妹であったかのような記述しかない。シズさんのことを書くには、相当の原稿枚数を要するので書けず、十六歳で娼妓とされ、闘う気持ちも奪われて遊郭の中で亡くなった姉への想いも込めて、『朝鮮婦人がつぎつぎ投獄』と項目を立てて書いたのではないかと私は思っている。

 

 

 

六十七歳で現役を引退した次の日、母に「お疲れ様のプレゼントは何がいいの?」と聞いた。「なんでもいいから、音の出るものがあったら嬉しい。ピアノでもハーモニカでもなんでも」と答えた。いろいろな人に相談の結果、母の友人の土井道子さん(土井さんは母を短歌の世界にも誘ってくれ、母は亡くなるまで《歌群》の同人だった)が、娘さんが昔使っていたオルガンを物置の奥から引っ張り出して、届けてくれた。早速オルガンの前に立った母は、親指と人差し指だけで鍵盤のあれこれを押していたが、やっと椅子に腰を下ろし右手だけでメロディーを奏で、歌い始めた。「シロジニアカクヒノマルソメテ」。そこまで歌って母はハッとしたように立ち上がり「私ったらまったくもう」とオルガンの蓋をパタッと閉めてしまった。あんなにほしかった音の出るもので、最初に奏でることができたのは『日の丸』だけだったことに母はかなりショックを受け、オルガンは部屋の隅に飾り置かれるままとなった。

 

もうひとつ私の中で忘れられない母の一言がある。一九八〇年代のある年の大晦日、例年と同じく、お正月に食べる煮しめやお雑煮の汁の下ごしらえをしながら、卓袱台の前に陣取ってテレビに向き合っている父の背中越しに、紅白歌合戦を垣間見ていた。沢田研二さんが画面に登場していた時、「この人は変な衣装だけど、随分と歌の上手な人だねえ、歌に力があるねえ」と、まな板の上の手を止めて感心した風に言った。父は振り返ってびっくりと言う顔で母を見つめ、母の横にいた私は、良いものを良いと見抜く澄んだ目を母は持っていると感心した。

 

数々のエピソードを織り交ぜて、展望を抱き、どんな困難や苦しみや悲しみに会おうとも

 

見失わず手放さず、その展望を次の世代に繋いだ人物像を描くことがで

 

 

 

きたらよかったのかもしれない。

 

 

 

この作品を取り上げてくれた札幌支部の合評会に、事情があって私は出席できなかった。

 

でも貴重な例会の時間を費やして作品の合評をしてくださった事、感謝しています。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  評論 後藤守彦『記憶と忘却』

 

 

 

記憶の問題の重さ

 

                後藤守彦

 

                          

 

   評論には、意識しているわけではありませんが、私の体験と思いを織り込んでしまいます。客観性に徹するべきとの考えもあるでしょうが、生き生きと評論にするにはそれでいいと思っています。この作品でも、言葉の暴力による私の加害と自責に言及しました。これについては大いに共感するとの発言がありました。

 

これは個人の記憶の領域のことでしたが、評論の後半で論じた集団的記憶との関連が十分深められていませんでした。この点では批判がありました。日本人の忘却性についても議論になりましたが、加藤周一が探求した「今=ここ主義」の問題を、さらに考えつづけていきたいと思います。

 

休憩時間に、松木さんのご母堂が九四歳で、拙稿でとりあげた『火山島』を読了されたと聞き、感激しました。作者の金石範は今九二歳ですが、続編を雑誌『世界』で書き続けています。 

 

その姿勢から学びたいと思います。

 

 

 

 

  

 

 

  242の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

   伝統の創造

 

    泉 脩    

    私の好きなラブストーリー ③

  

   豊村一矢

     連続エッセイ  床屋談議 20 (最終)

 

   松木 新

      『このミス』第一位

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

   二〇一八年十二月一日  241号 

 

 

 

 

 

   十一月例会合評報告

 

 

 

「札幌民主文学通信」の例会合評報告は、支部誌「奔流」と北海道研究集会作品集「北海道民主文学」掲載の作品の場合、作者が報告します。                                   

                            編集部

 

     

 

 

 

 

 

合評作品

 

進藤良次「海と父と」(『民主文学』十月号)

 

 

 

報告者   松木新

 

 

 

作者を迎えての合評だけに盛り上がった。

 

海に生きる父親の凡庸な生き方を、きらきらと光らせて描いた作品、父親と作者の距離感が適切、簡略な叙事文体で海に生きる父親像が生き生きと動いている、アブラコのハエ縄釣りや飯寿司づくりの描写に臨場感がある、などを報告した。

 

「文芸時評」での北村さんの批評については、バルザックの人物造形をドストエフスキーが深化させたことにふれながら、北村批評はバルザックの域に留まっていると指摘しておいた。

 

日高を舞台にした作品なのに、なぜ、アイヌが登場しないのか、という疑問も提起した。

 

討論のなかでは、海を主題にした作品が『民主文学』に掲載されたことの意義が強調された。同誌上では、このところ一次産業を主題にした作品がほとんどないことが危惧された。

 

最初の四行と最後の六行の文体が別人のようだと指摘された。作者が種明かしをして、一同は納得した。このようなサンドイッチ方式をあえて採る必要がなかったのではないか、という意見もだされた。

 

起伏がないので面白くないという意見もだされたが、タイトルに象徴されているように、「海」を全面にだすことで、この作品が広がりをもち、読む人に感動を与えているという指摘はそのとおりだろう。

 

漁業の体験者が、自分の世界を描いた作品だ、と全面的に受け入れたが、漁業の未経験者がその細部にまで想像力を働かせることは、至難の業のようだ。あらためて、体験の相違が、読解力を大きく左右していることについて、考えさせられた。

 

かけがえのない尊い人間を、今、書き留めておかなければならないことを、この作品から学んだという意見には、皆、同調した。

 

北村さんの「文芸時評」については、こういうことをいわれると作品世界が分裂してしまう、稚拙な作品で読者に媚びる方法では、この作品の良さが死んでしまうなど、不評だった。

 

アイヌがなぜ登場しないのかについて、作者が、日高では「えりも」と「奥日高」にだけアイヌが生活していないからだ、その理由は、「百人浜」の由来にある、と磯谷則吉の『蝦夷道中記』を紹介しながら説明した。初めて聞いた人も多く、勉強になった。

 

 

 

補遺 〈百人浜〉

 

磯谷則吉『享和元年歳次辛酉 蝦夷道中記』に、次の記述がある。

 

「二里計も登り左の方東海の濱エリモ岬百人濱 百人濱と唱ふ事は寛文年中の頃かと シャムシャインと云蝦長津軽の金堀庄太夫といへるものを婿として黨を結ひ辻頭蝦地オシャンベまてもおそひ来りしか此事公に聞へ南部津軽の両家へ台命ありて松前と共に是を討せしめ候ふて黨主百人を此濱におゐて誅せられしより百人濱と名付しよし也」(太字は引用者)

 

この書籍の末尾に、「京和元年秋七月於箱館旅宿記 磯谷則吉」とある。「京和」は、原本を現代語に訳した際の、「享和」の誤植だろう(ちなみに、現代語訳に当たったのが誰かは不明だが、釧路の研究団体のようだ)。

 

関根達人「アイヌの宝物とツクナイ」によると、享和元年(一八〇一)に、蝦夷地御用掛の松平忠明に随行した磯谷則吉が、『蝦夷道中記』を記した、とある。

 

平成十三年(二〇〇一)三月三十一日に発行された『増補 えりも町史』は、次の様に記述している。

 

「『百人浜』という地名は古く、すでに二〇〇年以上前の寛政三年(一七九一)の『東蝦夷地道中記』にその名が記されている。その名の由来については、『南部藩の御用船が難破し、百人余がこの浜で絶命』『シャクシャインの乱後に、それに組みした金掘り一〇〇人余人と、かくまったアイヌを虐殺』『十勝アイヌと幌泉アイヌの古戦場』などの諸説がある。既刊『えりも町史』には、その説と一石一字塔碑文の読み下しが記されている」

 

榎森進『アイヌ民族の歴史』(二〇〇七年、草風館)の第五章「シャクシャインの戦い」には、「百人浜」にかかわる記述はないが、気になる箇所がある。

 

「松前軍は、(中略)一六七一(寛文一一)年春、『シラオイ(現白老町)』に出陣して日高の『シベチャリ』より『奥七ケ村』の仕置を行った(『寛文拾年犾蜂起書』)。ここにいたって、シャクシャインの戦いは、最終的にアイヌ民族側の敗北として終結するのである。事件発生後、ほぼ一年九ヶ月目のことであった」

 

右の引用文のうち、「日高の『シベチャリ』より『奥七ケ村』の仕置を行った」ということのうちに、百人浜で「誅せられし」事件が含まれているのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  評論 野上彌生子『迷路』の世界

 

 

 

合評を受けて     松木 新

 

 

 

「野上彌生子『迷路』の世界」の合評を受けて、何よりも嬉しかったのは、何人かの人たちがこの評論をきっかけに、『迷路』を読み始めたり、読んでみたいと言ってくれたことでした。

 

文学会に加入したての頃、大会で有名な作家に会い、何かのはずみで『迷路』を読んでいないことを知り、ショックを受けた記憶が今でも鮮明です。

 

誰もが知っている名作だけれども、じっくりと読んだことがない小説は、ぼくも結構あります。『源氏物語』や『ドン・キホーテ』、『ユリシーズ』などはその最たるものですが、さすがに、『フィネガンズ・ウェイク』だけは、Ⅰ~Ⅳまでが手元にあるものの、絶対に読み終えることなど出来ないだろう、と「確信」しています。

 

浅野さんから、渡辺澄子と平野謙との師弟関係を教えてもらいました。彼女の論調に、何となくざらざらした肌触りを感じていたので、納得できました。ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 合評作品(「北海道民主文学」二十二号)

 

  旅行記  沖縄の少年

 

 

 

「沖縄の少年」について   村松祝子

 

 

 

この1年近く「札幌民主文学」の例会に参加するようになって、何か書かなければならない責任を?感じていました。しかし何を書くか定まらない中で以前沖縄旅行した時、印象に残った少年の模型姿が浮かんできました。ある日の合評会で「沖縄のことでも書こうかな?」と言ったら遠くの席の松木さんが「そりゃいいですね、ぜひ書いてくださいよ。」と細い目が喜んでいるようで、その嬉しそうな顔に答えねばならないと、当時のメモ帳を探しましたが、およそ10年前の資料もパンフも棄捨した後で、頼りにするのは空想の世界と平和記念館で求めた3冊の本でした。 まずは作文的に書き始めイメージの浮かぶまま書いているうちに何を書こうとしているのか、どう書いたら良いのかの壁にぶつかり、1ヶ月近くも休んだり、近づく締切日に追いかけられるような気持ちにもなり、悪戦苦闘しながら仕上げました。書き終えて沖縄に関する事件やニュースに敏感になり沖縄は私にとってすぐ隣に存在する感じです。合評会では泉恵子さんから定年退職から換算して第二次世界大戦を経験した年齢が合わないと指摘され、大雑把な書き方を反省しました。時代の大切さをしっかりと確かめなければと肝に銘じた次第です。また夜光虫という表現もこれは海の生き物であり決して空中を飛ぶ生き物ではないと指摘されました。確かに自分のイメージは夜に飛ぶ蝶々か蛾のイメージで書いたので、ここも不確実な表現でした。石川弘明さんからは全般の旅行記を切って少年を幽霊に仕立ててシナリオ風に書いたらとのアドバイスも頂きました。しかしそれは新たな世界のような気がします。

 

どう書いていいか苦しんで自然に出てきた文章に、自分の心の片がそれもほんのチョピリ、表わせられた箇所は読み手の心にも感じるのだと思いました。

 

事実の羅列の奥にある真実を書くことだとも言われました。哲学的表現で頭を悩まさられます。

 

「民主文学」仲間の中に入って勉強させていただきながら、いつかは書きたいと思っていた沖縄の少年を「北海道民主文学」に載せていただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

  241の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    「最大遺物」を受け継ぐ

 

    泉 脩    

    秋月礼子「雑種天国」   心の病とたたかう人々

 

    私の好きなラブストーリー ➁

  

   

   豊村一矢

     (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方  5 (最終)

 

   松木 新

      『暗幕のゲルニカ』が面白い

 

   村松 祝子

      小誌 エルサレムのアイヒマン 悪は「陳腐」である

 

  

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

 二〇一八年十一月一日  240号 

 

  支部例会報告にかえて

 

 

「北海道研究集会」参加報告

 

  民主文学会札幌支部は月一回の例会を原則にしていますが、「北海道研究集会」が開催される場合は、そこへの参加を例会に換えることにしています。

 

今年十月十三・十四日、「第二十二回北海道研究集会」が札幌市で開かれました。本号の支部例会報告は、札幌支部会員が第二十二回北海道研究集会と作品集『北海道民主文学』二十二号にどのように関わったかについてまとめます。

 

「北海道研究集会」は隔年で開催されてきました。『北海道民主文学』は研究集会のための作品集ですから、冊子の編集・発行も隔年です。

 

札幌支部からの参加者は(全体参加者二十六名中)十三名でした。初参加は一名。前回の二十一回の集会(二年前)は十四名でした。前回の参加者で今回出席できなかった人は二名、病気療養などが理由です。

 

 『北海道民主文学』二十二号に三十作品が掲載されました。うち、札幌支部会員は十五作品の掲載です。

 

 数字を比較すると、札幌支部は全体のほぼ半数ですが、各支部がある市町村の人口比から見ると札幌支部の割合は十分とはいえません。

 

札幌支部は、集会の開催地が札幌ということもあって、会運営では、会場設営、司会進行担当等々で、札幌支部のメンバーが協力しました。

 

 前回からの課題の一つに『北海道民主文学』への原稿提出が、経費削減のため、ワードで作成したデータでなければならないことでした。前回はパソコンの苦手な人が多く大変でしたが、札幌支部に関しては格段に進歩しました。その結果、著者校正を含め四校出来たことは、まだ不十分なところもありますが、成果です。

 

二十二号に掲載された十五作品には力作が多く、北海道研究集会での合評に加えて、さらに十一月例会から十二月例会、一月合宿例会と作品研究を継続していきます。

 

そして、合評を受けての筆者の思いを全員分、本「通信」で特集を組んで掲載する予定です。    (豊村一矢)

 

 

 

 240の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    再び鎮魂の歌を聴く

   

   泉  脩    

     私の好きなラブストーリー ①

        

   豊村 一矢

     (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方  4

 

     

   福山 瑛子

        民主文学に関わっての六十年余を振り返る(十)

              

   松木 新

      「政治少年」とスタヴローギン

 

   村松 祝子

      小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 3

 

   村瀬喜史

      まゆみさんとMEMENT・MORI 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

        二〇一八年一〇月一日  239号 

 

 

  

九月例会合評報告

 

 

 

 合評作品

 

宍戸ひろゆき「階段で」(「民主文学」九月号)

 

 

 

レポーター報告   馬場雅史

 

 

 

 文部官僚の腐敗と無能力、不道徳なふるまいを糊塗するかのように、学校現場にはきわめて管理主義的な政策・制度が押し付けられている。この作品は、小学校三年生を担任するベテラン教師である「私」が、強い上昇志向を持つ新任教頭の管理主義的な企図をやり過ごしながら教育実践をすすめた経験を描いたものである。権力的な統制に抗する視点からあるべき教育の姿を示唆する作品となっている。子どもの成長を願い、保護者との協力をすすめようとする「私」の想いや実践は、こころに染み入るものである。

 

 しかし、元教師であったぼくにはどうしても気になることがある。一つは、「私」があまりに孤独だということである。仲間がいない。管理職も組合員も同僚ですら仲間ではない。孤高であることを誇っているように見えるが、それでは教育は成り立たない。教育は個人プレーではない。二つ目は、「私」が肝腎な時に言葉を失う、あるいは言葉を飲み込むことである。「週案」の提出を求める野口にも、教務主任になることを勧める組合幹部にも、「経験にもとづいたずさんな指導」と「私」の実践を侮辱する新教頭にも「私」は反論しない。「してもしょうがない」という諦めがあるのか? だが、そんな諦めは傲慢に近い。誠実に心を込めて反論すべきである。三つ目は母親の描き方についてである。母親は「教育熱心な母親」「賢く毅然とした意志を持った女性」「身体能力への自信」「他の子の気持ちまで考えられる、いいお母さん」とされている。それは事実であろう。しかし描くべきはそうした母親の内面にある「苦悩」であり「困難」であるはずだ。何が、母親をして「賢く毅然とした意志を持つ女性」にしているのか、そこへの社会的視点と個人的共感がない。おそらくこの作品の文学としての価値の源泉はそのあたりにあったはずだ。

 

 例会参加者の感想・評価も分かれた。第一は「素直で読みやすい」「子どもに寄り添った教師の姿が良い」というというものだ。第二は「経験だけに頼る『私』に疑問を感じる」「なぜ『計画―実践―反省―実践』ということや『指導案の作成』に反発するのか理解しにくい」というのものだ。これらの感想には「現実の学校現場の厳しさと作品の世界にはズレがある」「こうした実践では若い教師の共感を得られない」「独りよがりで自己中心的な実践・作品であり好感を持てなかった」など厳しい意見が伴った。

 

 議論を通していくつかの課題も明らかにされた。一つは、文学に表れた教師像について整理検討する必要があるということだ。「金八先生」幻想がいまだに教師経験者の中にあるということになどにもかかわってである。二つ目は「好き・嫌い」という視点からの作品評価はいかがなものかということに関してである。引き続き議論する必要を感じた。

 

 

 239の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    とにかく前へとにかく空へ

   

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る⑦

        医学と私

     山形暁子「家族の小径」

        銀行でたたかう共産党員夫妻

 

    豊村 一矢

     連続エッセイ    床屋談議19

    (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方3 

     

   福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(九)

              

   松木 新

      山本有三「女の一生」三第噺

 

   村松 祝子

      小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む 2

 

   村瀬喜史

      多喜二とロマン・ロラン 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

                 二〇一八年月一日  238号 

 

 8月例会合評報告

 

8月例会合評報告は、「レポーター報告」と合評に釧路から参加してくれた合評作品の著者、増田さんの投稿を記載します。編集部

 

  

 

 合評作品

 

増田竹雄 『二年目の春』

 

          (「民主文学」8月号)

 

 

 

レポーター報告

 

村瀬喜史、

 

合評作品、民文八月号,増田竹雄「二年目の春」。作者本人が釧路から遠路かけつけ、参加した。私がさそった動機は、詳細なことは本人でしかわからないことがあること、もうひとつは、東京で行われている「作者と読者の会」を北海道でもやろうと思ったこと。釧路の見田さんや松木さんに事前に電話の了解をえていた。

 

私のレポートは、この作品は民主文学誌に初登場、力作で70枚。当時の国鉄労働者の戦いが、よくわかるもので、

 

  1. 4・17スト、共産党入党、65春闘の拠点スト。貨物列車の最初の乗務で投身事故。

  2. 「4・8声明」と反ストのビラまき。釧路車掌区分会の教宣部長の野原進の参加。などストーリーにそって6点と私の感想を最後に、A4レジュメ一枚に圧縮して報告した。時間不足で半分しか話せなかった。

 

続いて,増田さんが、

 

  1. モチーフ 労働組合の組織率の低下で18%になっている現状を憂いて、いろいろ提案している。

  2. 4・17ストと組合の査問などを真正面から書いた。作品にはふれていない狩勝トンネルの難所と歴史的闘争にもふれた。これは一昨年に書いたもの。

 

 

 

参加者の意見・感想。

 

 

 

◎すごいエネルギーだ。迫力がある。野原進の一時代,教養小説のようだ。 

 

◎真正面から労働運動を書いている。

 

◎今の若い労働者にはうけない。

 

◎階級敵への批判が浅い。 

 

◎女性を描くのが、いまひとつ。夫人のたたかいも描く。「屋台」のところもふくらませたい。

 

◎飛び込み自殺のところ踏み込みが浅い。

 

◎文学的香りがない不足。

 

以上

 

 

 

札幌支部の例会に参加して

 

釧路支部 増田竹雄

 

 

 

報告者の村瀬さんから「二年目の春」を七項目にまとめた資料が配布されました。

 

資料㈠「落合まで行き引き返すとすれば……」「魔の狩勝トンネル……」に触れられていない。

 

ご指摘の通りです。魔の狩勝トンネルは急勾配、千分の二十五で戦後の復興を急ぐ政府と国鉄当局は、輸送量の増加の問題を労働者と労働組合に押し付け、その結果、悲惨な事件が発生したこと、新得機関区の職場離脱が誰の計画で行われたのかということ、これらを野原進の見聞だけでは書けなかった。

 

主題(何を)モチーフ(書くべく意図)題材(何について書くか)はっきりしていなくて曖昧だったと思っています。

 

資料の六項目「女性の描写を」と指摘しています。「屋台風の焼き肉店」での出来事をリアルな描写が必要であったと思いました。

 

進と斉藤との関係について……斎藤の弁解をするつもりはないのですが、斉藤が党員でもなく進に無理矢理、四・一七スト反対に協力させ、ストは間違いだったと頭を下げるが、反省が不十分なまま進に「入党」を薦める斎藤の矛盾が指摘されました。

 

斉藤は、進が国鉄に就職以来の友人であり、二人三脚で苦楽をともにした唯一の人でした。一九六四年の時代背景として、党の分裂から七回大会で自主独立の党として統一を回復し、安保闘争と統一戦線の構築、三井三池闘争で闘争方針を前面に掲げて闘ったこと、党の八回大会で大衆闘争と党勢の倍加運動に成功を納めたことなど……当時の事が蘇って来ます 党の労働組合に対する基本路線が確立されても、それを指導する地区党の指導体制に弱点があったように思います

 

四・一七スト問題で斉藤を余り𠮟責できなかった。むしろ前衛党が地区党に弱点があって良いのかとさえ思った程です。

 

これも一九四九年七月行政機関職員定員法反対の闘いで党を知り共産青年同盟(民青)に加盟を勧められた経緯もあり党に対する同情があったように思います。 以上。

 

 

 

 

 

 

 

  238の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

  『羊と鋼の森』から「砂漠の花」へ

   

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る⑥

        風のガーデン

 

    豊村 一矢

     連続エッセイ    床屋談議18

    (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方2 

     

   福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(八)

              

   松木 新

      パンジ『告発』が描いた北朝鮮

 

   村松 祝子

      小誌 ハンナ・アーレント「全体主義の起源」を読む

 

   村瀬喜史

      松木新「北海道の米騒動」(「札幌民主文学通信」237号)

           に関わって

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

     二〇一八年月一日  237号 

 

 

   7月例会合評報告

 

 

   合評作品

 

  キム・ビョラ著・後藤守彦訳

 

 『常磐の木 金子文子と朴烈の愛

 

             (同時代社刊)

 

    編集部より

 

    本号の例会合評報告は、浅野勝圀さんの「民主文学」七月号『書評』と合評作品についての感想(報告)を中心に構成します。

 

    作品合評で出された支部例会出席者からの感想・意見については、編集部が取りまとめました。

 

    なお、浅野さんの報告にある、「札幌民主文学通信」での泉脩さんの文章は、235号にあり、札幌支部のホームページで閲覧できます。

 

 

 

 「常磐の木―金子文子と朴烈の愛」を読む

 

               浅野勝圀

 

 

 

 札幌支部七月例会会合評報告のレポータだったのですが、当日、補聴器を家に置き忘れたために、例会の出席者の声に耳を傾けることができませんでした。「民主文学」七月号に載ったぼくの『書評』と作品にかぎって感想を述べることにします。

 

 

 

1『書評』のこと

 

後藤さんが韓国の現代小説の翻訳に取り組んでいることを知ったのは、かなり以前のことでした。訳者(後藤)のあとがきから推し量ると、苦闘は九年間にも及んだようです。その一言を知っただけでも頭が下がります。

 

 上梓直後に謹呈として贈っていただき、あゝ良かったと喜びを共有したのもつかのま、『書評』をということになりました。後藤さんとは、北見―児玉健次さん―朝鮮語学習という赤い糸のつながりがあり、お断りするという選択肢はありませんでした。

 

 松木さんから声をかけられ、宮本編集長から正式の依頼があった四月中旬から五月初旬にかけての体験は、忘れがたいものになりました。

 

 数回の電話のやりとりとファックスの往復を通して作業は進みましたが、宮本さんの丁寧な読み込みとお人柄に助けられました。

 

 最初は進行中だった南北首脳会談と米朝首脳会談から書き起こそうとしたのですが、とても制限字数(一一五〇字)の枠に収まりそうもなく諦めました。

 

 何とかまとめてファックスすると、宮本さんは「最後の段落の一つ手前で終ってもいいようですね。字数に余裕があれば最後の段落を生かしましょう」とのことでした。

 

 最後のゲラでは、表題が「常磐の木」だけでサブタイトルが省略されていたので、少々、強く意義を唱え復活してもらいました。

 

 もうひとつこだわったのは「朴烈」の読み方です。文子の短歌などではかれの頭文字がBだったりPだったりしています。Bは「ボク」という日本語読み、Pは「パク」という朝鮮語読みでしょう。彼女が少なくとも朴烈の朝鮮語読みを理解していたらしいと知り、ぼくは自信を持って(パニョル)と朝鮮語読みにより近い表記にしました。しかし、(パク ヨル)に改められました。編集部スタッフからの指摘だったようです。この一点だけは今も釈然としないものがくすぶっています。

 

 

 

  2 作品のこと

 

 一連の歴史小説の成功で作家としての確固たる地歩を占めただけあって、作者の二人をめぐる客観的な事実への周到な目配り、歴史的な背景の提示、読者を魅了する構成力と圧倒的な描写力などに非凡なものを感じました。

 

 吉井盛一氏の「歴史小説の流行」は、この作品を理解する上で不可欠の視点を教えてくれます。

 

 主題については『書評』一段目中頃の数行を取り上げて例会で報告しました。その関連では、作品の表題(「熱愛」から「常磐の木―金子文子と朴烈の愛」へ)に示された後藤さんの読み(作品論)に耳を傾けたかったと思っています。

 

「札幌民主文学通信」での文章を使わせてもらった泉脩さん、声をかけてくれた松木さん、終始丁寧に対応してもらった宮本さん、そして何よりも、この熱い作品を初めて翻訳紹介してくれた後藤さん、ありがとうございました。

 

 

 

 

 

    合評で出された感想・意見等(編集部)

 

  1. 翻訳という仕事をやり遂げた後藤さんを賞賛したい。ありがちな翻訳臭さをまったく感じさせず読むことができた。

  2. 文章が素晴らしく巧みな構成により金子文子と朴列の出会いと愛、各場面で作品に引き込まれた。

  3. 金子文子の生い立ちから歩んだ人生があまりにも悲惨で、読み続けるのが辛かった。(かなり多い感想)

  4. キム・ビョラはどういう作家なのか。文子死後の朴烈の生き方は、二人の愛と真逆に思える。そこを無視できない。

 

 

 237の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

    北の国から猫第八章

   

 

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る⑤

        ドクターX

    

    青木陽子『日曜日の空』(2005年新日本出版社刊)

          女性の生き方を求めて     

      

     豊村 一矢

     連続エッセイ    床屋談議17

    (新)連続エッセイ  金子文子の描かれ方1 

     

              

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(七)

              

      

    松木 新

      北海道の米騒動

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

二〇一八年月一日  236号 

 

   六月例会合評報告

 

 

  合評作品

 

 新人賞受賞作

 

 田本真啓「バードウオッチング」

 

        (「民主文学」六月号)

 

 

 

 

 

レポーター報告

 

         泉  脩

 

 

 

 レジュメ

 

 作品のあらすじを要点的に押さえつつ、登場人物個々の人物像と人間関係を場面の展開に即して明らかにした。

 

・一誠(主人公)は、父の自死により母(清美)が生活のため働き、母方の祖母に育てられることになる。祖母に父方の姓の田中から母方の姓、及川に帰られる。しかし、一誠は成長すると祖母を嫌い、母ともすれ違いの生活になる。アイデンティティが絡むもめ事ことを予感させる展開。

 

祖母が病床に着き認知症になるが、一誠は面倒を見ないし意に介さない。祖母の長女(恵子)から、祖母をここまでにしたのは清美と一誠の虐待が原因だと批判され、一誠が親を捨てて何十年も帰らなかった恵子に批判する資格はないと言い返す場面。介護を巡る肉親同士のいがみ合いが始まる展開。

 

・一誠が働くダイニングバーの経営者「ヤマネコさん」とのやりとりや、バーの入口の上の燕の巣の顛末や、「ピーターパン」の物語・カント哲学にある「キリスト教の愛」など巡る会話がくり返される場面。作品の主題に迫る展開。

 

 

 

 討議の柱

 

 合評の進行を務める松木さんが、あらかじめ、次のように討議の柱を提起してくれた。

 

 作者の企みをジェームズ・バリー『ピーター・パン』、『ピーターとウエンディ』に仮託して自己の存在意義を模索しようとするものと捉え、それが成功しているかを問う。

 

  1. 両義性の問題

    ピーター 鳥と人間の両義性

    一誠   田中姓と及川姓の両義性

  2. 代理母の問題

    ピーター 亡くなった子どもの霊魂である ツバメ、代理母を求めるピーター

 

  一誠   疎ましい祖母が代理母

 

  1. 祖母のしあわせ

 

祖母はだれと共に生きるのがしあわせなのか、僕ら(一誠、恵子、清美)が真剣に考える

 

 

 

 合評参加者の感想例

 

  1. 一読したとき、「何がなんだか分らない作品だった」という感想が多かった。

  2. 自己のアイデンティティーを追求する作品だと読めたが、認知症の介護問題と咬み合っているか疑問。

  3. 選者の「教雑物が多すぎる」「言葉遊びの空回り」「観念的な思索に流れている」等の評については同感。作品を理解し受け入れるのを邪魔している。

  4. 作者は深い作意を持って書いている。ピーター・パン、カント、キリスト教の愛、など。その創作姿勢に好感。将来性を感じる。

  5. 平板でなく奥行きを感じさせる作品だが、読者が深読みしなければ主題にたどり着けないとすれば、完成度が低いということだろう。

  6. 現実の介護問題について問題提起する作品になっているとは思えないが、もともと、それは意識されていないのか。

  7. 作者自身、父親の自殺を体験していると言う。その体験がこの作品に結晶しているとしたら、その観点で読み直してみたい。

 

 

 

 

  236の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

     金子兜太を悼む

   

 

   泉  脩    

     医者ものドラマを観る④

         白い影     

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義16 

     

              

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(六)

              

      

    松木 新

       スペインの無政府主義

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

二〇一八年月一日  235号 

 

  五月例会合評報告

 

 

 合評作品

 

 稲沢潤子「別離」(「民主文学」五月号)

 

 

レポーター報告

 

              泉 恵子

 

 

 

(一)レポートの概略

 

① 37枚の短編。なめらかな筆致に熟練を感じさせる。

 

 ② テーマ 被爆者である義弟との永遠の別れ(別離)に際し、義姉である修子の過去のわだかまりに対する寛恕(広い心で許す)気持ちを描く。

 

 起承転結 

 

起=主人公修子は妹美月を早死にさせた夫(義弟朋幸)に対して、長い間 受け止めてきたろうか」と自問し、わだかまりを解いておきたいと思っている。

 

   承=朋幸、美月の出会いと結婚。美月の死。息子の直樹の事

 

   転=原発建設の凍結を求める裁判の原告として傍聴する修子。

 

   結=葬儀場で朋幸の微笑んでいる写真に虚を突かれる修子。「根はやさしい人」の思いから、わだかまりを解いてゆく。

 

④ 感想など

 

   ・最後にしみじみとした感慨はあり、上手な良い作品とは思うが、今一つ物足りないのはなぜか。

 

   ・被爆者である義弟とのわだかまりを解きたいと思いながら、心を閉ざした人を生きている間に開くことはできなかった。心を開くとはどういうことか?本当に開くために努力したか?

 

   ・「根はやさしい人」と何回も出てくるが、この言葉は曖昧。

 

   (広辞苑より=「やさ・し」は動詞「痩す」の形容詞形。1身も痩せるように感じる。恥ずかしい 2控え目である、つつましい 3穏やか、素直であるなど様々な意味があるが)「思いやりがある」という意味としたら、朋幸は「やさしい人」と言えるのか?自己の病の不安と恐怖を身近な人にぶつける弱さを持つ人。

 

   ・「やさしい人」の象徴として、対極に美月の目指した「雨ニモ負ケズ」の世界があるのでは?

 

 

 

(二)参加者の発言から

 

   様々な発言を区分することは難しいが、大まかに分けて列挙してみます。

 

  (発言者の真意を汲み取れていない点は、ご容赦ください)

 

 文章について

 

    読みやすい、なめらかでわかりやすい安定した文体というのは大方の一致した意見。比喩表現はほとんどないが、伝える力があり、すぐれた筆力を感じさせる。さすがだナ。

 

 義弟である被爆者朋幸についてと主人公修子の思い

 

   ・被爆者だけがこのような苦しみを抱いているわけではない。また、共通した体験でも個別性がある。

 

   ・自分の病気を連れ合いに対して攻撃的にぶつけるのは、一人よがりで自分を抑えられない、配慮のいかない弱点を持っている。

 

   ・被爆者の従妹がいるが、絶えず何かの疾患を抱えていた。身近にも病人がいたので、その心理はわかるように思う。被害妄想に駆られて、やり場のない気持ちを周囲にぶつけてゆく。わがままである。当てられた方はたまったものではない。言ってもわからない場合は、耐えてゆくしかない。

 

   ・自分をわかってほしいの気持ちが、攻撃的になるのか。自分の体験とも重ねて涙が出た。本人にも自分がわかっていない。「 根はやさしい人」とあるが、こう思うことで、理解しようとしている。

 

   ・周囲がもう少し対応してやれなかったのか。寄り添って一緒に考えると同時に、本人に自覚してもらうように働きかけられなかったのか。

 

   ・「終活」という言葉があるが、過去のわだかまりを解いておきたいという思いは共感できる。

 

   ・高齢者が他者へ思いを馳せるとき、恋愛にも似た感情を抱くものなのかもしれない。惚けた人に対して「私のこと、わかるかな」と。

 

   ・「別離」という題名のせいか、主人公は被爆者に対して理知的で冷たいものを感じた。被爆者の心の苦しみが描かれていない。

 

   ・心を閉ざしてしまった朋幸だが、修子もまた「許せない」の気持ちから心を開いていない。直樹に対しては自分の子供のような愛情を感じるが、ここをもっと丁寧に描くと良かったのでは?

 

 原爆と原発を切り結んだこと

 

   ・とても新鮮に感じた。原爆の被害者の苦しみと重ねて、原発の被害者の苦しみを告発する意味がある。

 

   ・国会周辺の風景に昔の記憶を映し出す、朋幸の写真に昔の記憶を呼び起こすという所に、記憶の奥深さというものを感じた。

 

   ・傍聴者が少なくなって「まじめな心配」という表現など、運動の細かい点にも気配りしている。

 

   ・この裁判の場面はわかりにくかった。もっとわかるように書いてほしい。

 

   ・この部分は本文とは合わない、不必要ではないか。

 

   ・この場面があって被爆者と、原発の被害者を視野に入れた、「低線量内部被爆」の問題にも敷衍できる奥深さが出ている。この場面がないと単なる家族の話になってしまう。第三者である体験していない人間が、内部被爆の不安を抱えている人を理解することは可能かということがモチーフになっている。

 

 テーマに関して

 

・報告のテーマのほかに、「ひとが成長してゆくきっかけは何だろう」という箇所から「直樹の成長」という視点で捉えるのはどうか?

 

    直樹には、朋幸、美月、修子の思いがかぶさっている。「直樹は自分で自分を閉じ込める男になってはいけない」の修子の思いが直樹にも伝わり、「自分を閉じ込めない」「人並みの男」として成長する。そこに希望を感じさせる。

 

    ・翌日A氏から、「やさし」の言葉から『万葉集』より「貧窮問答歌」の反歌「世の中を憂しとやさしと思えども飛び立ちかねつ鳥にし思えば」(山上憶良)の歌にある「やさし」が、この作品のテーマとして考えられないかという意見が寄せられました。

 

 その他

 

   ・人間関係が複雑な話で、37枚の短編にしては、登場人物が多すぎないか?誰に焦点が当たっているのか、定まらないものを感じた。

 

   ・皆の話を聞いていて、原爆、原発というテーマは、日本人みんなが持つ必要があるのではないか、と思った。良いモチーフ、テーマを持った作品と思う。

 

  • 235の「投稿欄」の執筆者とタイトル

       (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

     

       後藤守彦 

      伊藤光悦の震災絵画

               

        

     泉  脩 

       キム・ビヨラ著 後藤守彦訳

     「常磐の木―金子文子と朴烈パク・ヨル)の愛」

        国境を超えた永遠の愛

 

      医者ものドラマを観る③

     「ドクターコトー診療所」

                  

      

 

  福山 瑛子

  民主文学に関わって六十余年を振り返る(五)

 

  

  豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義15

 

           

 

  松木 新

  第25回全国研究集会に参加して

 

      

  •  

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

二〇一八年月一日  234号 

 

 

 四月例会合評報告

 

  合評作品

 

  岩崎明日香「れんげ畑と時計台」

 

         「民主文学」4月号

  

 レポーター報告

 

「れんげ畑と時計台」の合評を終えて 

 

北野 あかり

 

 

 

この作品は、貧困家庭の子どもには、高等教育を受ける権利が保障されていないということを告発し、教育制度を変えなければ…と模索する様子を、緋沙子の体験を通して描いています。

 

 

 

1、教育を受ける権利が保障されていない実態については、高校の授業料、大学の入学金と奨学金制度の運用上の欠陥が描かれています。

 

 ○県立高校の授業料免除制度について、非課税家庭であっても対象が狭いことが紹介され、なぜか予想に反して緋沙子の家庭が免除されたとなっています。

 

しかし、現在の高校の授業料免除制度では非課税家庭は全て対象となっており、更に授業料以外に必要な教材費や学用品代などについても、都道府県が支給する「奨学給付金」を返済不要で受けられることになっています。対象は生徒個人であり、全世帯ということはなので、この部分は正確でないと思います。

 

○大学に関して、「どうしても、払えないんでしょうか?」ではじまる書き出しは、東大に合格しても入学金を払わなければ「入学出来ない」ということに直面し、パニック状態に陥る緋沙子の状況がリアルに描かれており、引き込まれるように読みました。

 

しかし、「母はすぐに入学金を準備すると言い、中央労働金庫の教育ローンから用だてた。あっけなく解決されて拍子ぬけしたが、それでも緋沙子の心は晴れなかった」「合格の喜びは早くも吹き飛んでしまっていた」と結んでいます。即決した母親は、ローンの支払いより緋沙子のこと(家族)を思う母なのか?入学金が用立てられた時、緋沙子は手を合わすほど嬉しかったとか、母の顔が浮かんだとか、心情が描かれていないため人柄が見えてきません。

 

○奨学金制度については、「せっかく予約奨学生になっても、肝心の給付が、入学金の納入にも新生活の準備にも間に合わないなら、結局教育の機会均等など絵に描いた餅だと解った」と、奨学金制度の欠陥について紹介し、「そのためにはやはり、文部省に入職し出世するという道しかないように思えた」「大学の授業料も払えない緋沙子には、在学しつつ国家一種試験の予備校に通うことなど論外だった」「志では負けてなくても、出遅れている」と、そこにも経済的に実現困難な壁が立ちはだかっていることを描いていますが、奨学金の返済について社会問題となっているにも関わらず、一言も触れていないので物足りない感じがしました。

 

 

 

2、大学入学の初日と翌日の様子を描いています。ここにタイトルとなった「時計台」が、大学を象徴する言葉として出てきます。

 

正門を入ってすぐ、正面に時計台が見えたが「駒場版の安田講堂みたいなもんだな」と冷めた表現。そこには、苦労して入学出来た喜びや苦学した結果の達成感や感動も描かれていません。入学手続きをするのに、下向きで声を掛けられるのを避け、必要以外無言を貫く姿は暗い。先輩たちの勧誘にも、興味のある平和問題、お金のかからない集まりには心が動くが、それ以外は排除している緋沙子。

 

逆にクラスメートのさくらは、積極的にオリエンテーションなどに参加して多くの大学生の状況を把握していきいきしています。サークル勧誘に必死になっている学生や、パンフレット作成に費やしている学生も描かれています。緋沙子を、思慮深い学生として描こうとしたのかも…と考えましたが、教育制度を変えるのだという気概が伝わってきません。未来を切り開こうとしている緋沙子の積極面も描いて欲しかったです。

 

 

 

3、緋沙子の生い立ちについて「父の自営業が成りたたなくなり、借金取りから追われ各地を転々とした、車で寝泊まりしたこともあった」。そのような逃げ回る状況の中で、突然両親がいなくなる。そのあと子供たち4人だけで幼い頃育った家や、れんげ畑を転げ回ってはしゃいだことの想い出の場所を尋ねる。「何とかするけん、あんたたちは心配せんで大丈夫」と言った姉の決意などは衝撃的でした。

 

そんな生い立ちの中で、「れんげ畑」はタイトルにもなっているので、緋沙子の生き方を決定づける特別の場所だったのではないかと思いました。しかし、その「れんげ畑」が「ささくれだった緋沙子の気持が少しずつ落ち着いてきた」と、癒しとなっているだけであり、生きるステップとはなっていないので、タイトルとしてのインパクトがなく物足りない気がしました。

 

また、借金に追われる生活は、母と姉のパート代のみでのやりくりしているのだから、家族6人の生活を支えるのがやっとではなかったのか。どんな節約生活をしていたのか、姉は緋沙子を大学に行かせるために貯金もしているが、下の子供たちはどうしていたのかなど生活が一言も描かれていません。

 

そんな中で、緋沙子は就職もせず大学に進学する。母や姉、緋沙子がなぜそうまでして大学進学に拘っているのかも理解出来ません。

 

父親についても「自営業が立ち行かなくなり…」としか描かれていない。働く父の姿やなぜそうなったのかにも触れ、貧困を生み出す社会の仕組みについて、もっと掘り下げて欲しかった。

 

 

 

4、緋沙子が大学で何を学ぼうとしているかを描こうとしています。新入生向けのパンフレットにも納得出来るものがなく、出合う大学生の明るさにも溶け込めない。唯一心が動いたのは、受験の時に「お金の心配なく学べる社会を目指して、学生の力でそれができる」と声を掛けられた人に再度出合ったことで、民青同盟の人ということで官僚を目指す上で支障がでるのではないかと懸念しつつ、「引くに引けない、勢いに吊られて、足を踏み出した。」で終わっており、あっけない感じがしました。

 

緋沙子が「教育を変えるのだ」という志しに向かって、この大学で学んで行くんだ!という気概が、もっと伝わるように描かれるべきだと思いました。

 

 

 

5、タイトルの「レンゲ畑と時計台」について

 

「レンゲ畑は」緋沙子の貧困生活の中で唯一癒された想い出の場所、「時計台」は大学を象徴するものとして使われていますが、どちらの言葉も何処に書かれていたのか、読み直してやっと見つけました。

 

タイトルは、作品のテーマなので、もう少しインパクトがあるように表現して欲しいと感じました。

 

 

 

6、「子どもが6人…」→「きょうだい4人…」。6人は間違いだと思います。

 

 

 

 

 

 例会参加者は十三名、レポート報告のあと参加者全員から意見が述べられました。その内容を紹介します。

 

 

 

  • 作者はこれまでに四作品を発表されており、緋沙子シリーズとして三作目、続きとしてすんなり読んだ。十三才の姉の言葉にインパクトがあり感動した。れんげ畑は姉のことだと思う。

  • レポートの中で唯一異論があるのは「必要以外無言を貫く姿は暗い」ところ。極貧の生活や、姉から貰った二十万円以外無いのだからそうなる気持は解る。

  • 六十年前、奨学金で大学に行った、苦学生だった。支払いに四十年かかった。作品はあっけない感じ、短編では無理なのか。本人が稼いで学校に行こうとしていない。もっと汗して切り開いていく生き方をすべき。

    ○「れんげ畑」。れんげは一面に咲いているも

    のと思っていたので「畑」なのか疑問。

    昭和十六年生まれで高校に行く人は僅かだった。作品は雲の上の人たちのあれこれだな、全般に浮かれた楽な人たちの話なのだと思った。

  • レポートは批判的に書いているが、批判だけでは勿体ないと思った。タイトル「○と○」という付け方は足踏みしているようで物足りない。れんげ畑は幸代子、時計台は木下のことではないか。

  • 余り面白みがない。何をテーマに書いたのか。

  • 貧しい家庭、大学は奨学金など、自分と共通していて考えさせられた。返済に苦労した。私学の教師になった、貧しい生徒が多く、授業料の補助を出せと運動した。直接請求もした。署名四十三万筆集めた。大闘争の中心で頑張った。

  • 作品について、高く評価している。貧困の質が違う(車を持っている。小学生がスマホ持っているなど)これからのプロレタリア文学は、その視点を持っているという可能性を感じさせる。

    タイトルはテーマではない、ポイントになることをタイトルにした。れんげ畑の姉のイメージが強烈、柱になる人物。レポートで「子供6人は間違い」とあるが、その後生まれたのではないか。         

  • 作品に苦しさを感じた。貧困をどうとらえるか、東大生というだけで銀行はお金を貸してくれる、当座は間に合う、作られた貧困を感じた。民青は奨学金問題について取り組んできた、それも見えて来ず、魅力的に描かれていない。父親について一切触れていない。

  • 印象「何これ?」という感じ。こういう心情、そうだその通りと思うが物足りない。東大に入って民青に…それが何よ。良かったと思ったのは会話が非常に自然体。大学職員の対応やさやかさんとの会話、十八才の会話らしく上手だと思った。

  • 面白く一気に読んだ。続くと思ったらあっけなく終わった。授業料が高い、バイト料の差など大学生が大変なことを知った。父の様子が書かれていない。

  • 姉のセリフで成功していると思った。短編小説はここぞと思う事を一つ重視することが大事。「姉のような人たちによってこの銀杏並木の景色は支えられている」というところは重い課題。「角煮とマルクス」など、これまでの作品は緋沙子をモデルとしているが、幸代子を主人公とした作品も書いてほしい。

 

 

  • 234の「投稿欄」の執筆者とタイトル

       (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

     

       後藤守彦 

        講演『「明治150年」を考える』

               第二回プロローグ

        

     泉  脩     

       なかむらみのる『信濃川』

             生活相談5千件の共産党市議会議員

     

       宮本百合子没後六十五周年記念

         「宮本百合子とともに」(宮本百合子を読む会)

     

     

      大橋 あゆむ

          エッセイ  ここほれわんわん

          

       豊村 一矢

          連続エッセイ  床屋談義14 

                      

      泉  恵子

           中国の旅から  その6 

     

      松木 新

           「文体」について  ―承前

       

     

     

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

        2018年4月1日  233号

 

 

 

三月例会合評報告

 

 

 

合評作品

 

54回文藝賞受賞作・第158回芥川賞受賞作

 

若竹千佐子

 

「おらおらでひとりいぐも」

 

 

 

 

 

 報告

 

「おらおらでひとりいぐも」の合評を終えて  

 

村松祝子

 

 

 

作者若竹知佐子さんは現在63歳、10年前から小説を書きたいと言う希望を持ってこられた方でその執念に敬服します。

 

高齢者を主人公にした小説はめずらしく、芥川賞まで受賞するとは私の関心を引きました。 

 

物語は75歳の桃子さんの体の中で語られる種々雑多な討論である。 それは東北弁で語られ歯に衣を着せず単刀直入に語られ優しく響いてくる。

 

最初東北弁で読みづらかったが、読み進むうちに慣れてきて雑多な会話群の中に入って頷いている雰囲気になった。 1から5までに分かれており1では昔の女の忙しさが語られる部分に共鳴し2では二人の子の子育ての悩みが描かれ(私にも息子と娘がおり似た状況に一瞬ぎょっとなり)3では日常生活の中で説明のつかない不安と孤独感が語られこの部分は年配者の共感するところであろうかと思う。また社会が求める女の枠に収まり旦那に尽くしてきた生活は現在も女性に覆いかぶさる問題でもあると思う。4では自然のカラスウリの赤に感動する自分の生命力に気づく。5では孫娘の訪問に心の穏やかさを見せて終わる。

 

5の終わり読んで、ちょっと気が抜けた。 やはり孫の訪問は万人向けの結末かと?

 

しかし全体を読んで楽しく面白く読んだ。 作者若竹知佐子さんのこれからの生き方を描いているし「たのしいよ、これから」と高齢者にエールを呼びかけている小説だと思う。

 

 

 

参加者9名で感想を語り合った。 記録もれもあるかと思いますが様々な感想が語られ物語をより深く理解することにつながったと思います。

 

◎物語の筋があっちへ飛んだりこっちへ飛んだり、現実かと思えば回想したりで読むのに苦労した。 孫の最後の言葉「春の匂いがする」に舞台を想像した。この孫は未来に続く案内ではないか。

 

◎「いやぁ! 面白かった」方言は東北でも地域によっていろいろ異なる。

 

◎文章にリズムがある。

 

◎面白くない。起承転結が計算された小説。 よくある話を意味付けさせた。

 

 白秋小説かな?

 

◎自問自答しながら考えさせられるものがある。 孫が出てきてなぁんだと思った。 夫恋の小説かな。

 

◎表現、言葉に感心したが2回読むとたいしたことはないと思えた。筋がないし終点がない。 方言は権力から対立して離れている言葉であり、話し言葉でもある。

 

◎夫周造の魅力が感じられない。 東北の震災に触れていない、千葉で生活していて東北を考えなかったのか。

 

◎頭の中で考えた事ばかり書いている。 日本の小説でこう言う少説は少ない。

 

◎東北弁の温かいリズムがある。3回読んで最後は声を出して読んでみた。

 

ひとりになって老いるということの共通性が多々あった。

 

◎1945年生まれの(74歳)戦後の女性を取り上げたかも。

 

 総じて男性陣からの評価はあまり高くなかったが年配者の女性には共感するものが多々ある小説だと思う。 しかし桃子さんクラスの年金で暮らしていける人々にはこの小説の応援メッセージは届くかもしれないが、過日札幌で起きた年配の人たちが多く暮らしていたアパートの全焼事件を思い、経済的不安を抱えた年配者に「がんばろうよ、楽しいよ」のメッセージは届きづらい。 そこにまで目を向けた小説が生まれるよう努力したいものです。

 

 

 

 

 

  233の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

    講演『「明治150年」を考える』

      第一回プロローグ

    

   泉  脩     

    『戦争とわたし』

         胸をうつ戦争体験の記録

 

    医者ものドラマを観る②

         医  龍   

  

   石川弘明

     シナリオについて

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  三月のカレーライス

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義13 

     

     「文体」のこと  ―馬場さんの問題提起に応えて

             

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(四)

              

    泉  恵子

       中国の旅から  その5 

 

   

    松木 新

       「文体」について  ―ジョージ・オーウェルの提言

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

        2018年3月1日  232号

 

 

  支部誌『奔流』26号 合評報告⑤

 

 

 

★『逆転』            石川弘明

 

   ★『三六〇度の空の下で』  菊地 大

 

 

 

 

 

「逆転」について

 

                        石川弘明

 

 

 

 作品が終了すると制作記録、後記、梗概、推敲のための思い込み書いておくのが習慣である。

 

 「逆転」のそれは初稿二〇一二年八月〇一日

 

  二九枚 に始まり(中略)

 

 第四稿  二〇一三年九月二三日

 

  八四枚     (中略)

 

 第六稿  二〇一四年八月一一日

 

  一二〇枚 で終了している。

 

 おそらくはシノプシスの大略が定まった時なのであろう。

 

 その一二〇枚が一九〇枚になったのは、エピソードを拾い集めて、ギャグを並べて、日本百景をけなし、癌消滅後の医療チームの騒動、パーテーでの若宮女医の饒舌、出陣学徒の思い出話、研究成果に対する先輩たちの後輩虐め、盗作事件、遺言状の執行義務、または無視の如何、表彰式での役員二人の手違い等々、書き加えが増えたためであろう。

 

 二〇一六年六月に短縮に取りかかったのだが、短縮する度毎にストーリーの進展に関係のないユーモア、老人夫婦のあせり、相互の思いやり、ペーソス、長寿の嘆きなどが薄れてしまって遊びを消すことになった。遊びがなくなってしまうと、それを手探りにして綱目を辿ることもできなくなった。改変、短縮の失敗例となった。

 

 

 

 

 

 

 

三六〇度の空の下で」の

 

合評を受けて

 

                    菊地 大

 

 

 

三六〇度を見渡せる空の下で暮らしていながら、二〇年もそれが当たり前のように思って過ごしてきた。しかし、それは普通ではないと思ったとき、これまでと違った見方で世界が広がったような気がした。

 

 慌ただしく書きあげてみれば、3つのことが書かれていた。本人にとってはそれが当然に繋がっているつもりだが、読者には必然性がない。浦さんも、まして「元祖矢臼別(川瀬さん)」も知らない人の方がずっと多いのは、皆さんに言われるまでもないことだった。村上国治の詩ひとつ引用する前に、必要な記述があった。とんでもない思い上がりの文章だった。

 

「時に訪れる孤独感」や、「トマトハウスの中で声を出して手紙を読む」など、ぼくの中にいくらか残っている感性の部分を褒めてくれた人がいて少し救われたが、「時間がないからエッセイ」などと考えるのは、エッセイに対してたいへん失礼なことは分かっている。

 

 ぼくは年一回発行の地元の文芸誌にエッセイ―を書くことになっているが、毎年十一月は、六枚のエッセイのためにぐじゃぐじゃ考えている。エッセイにだって主題があるし起承転結がある。たかがエッセイ、されどエッセイだ。

 

 合評を受けてから、未だに納得できないことが一つある。ぼくは別海町を「はるか西の空の下」と書いたが、「東だろう」と言われて、「とんでもない間違いをした」と気づくと同時に、地図上の方位と地理的な方角は違う場合もあるかもしれないとも思った。

 

確かに別海町は地図上では余市の真東の方向になる。しかし、ぼくの所では、朝日は小樽寄りの日本海の方から昇って、反対側の山に沈む。「あの山どこか?」と考えたことは何度もあるが、それを地図上で確かめることはしていなかった。ぼくらの農場から見る夕陽は実に見事で、農場自慢のトマトジュースは「夕日の丘」である。その夕陽が沈む方が西、そこは隣町の仁木・赤井川で、その先はどう考えても内浦湾寄りの太平洋。

 

 三六〇度の空の下に居ながら、やっぱりぼくは、狭い世界しか見ていないようだ。

 

 

 

 

 

   二月例会合評報告

 

 

 

合評作品

 

 馬場雅史「多喜二を繋ぐ」

 

(「民主文学」3月号)

 

 

 

合評を受けて

 

「文体」ということ      

 

馬場雅史

 

 

 

「文体」ということを意識するとき、ぼくは二つのことを思い浮かべる。

 

 一つは、フランスの哲学者アランの「文体」に関する考え方だ。「文体」は英語で「スタイル」である。この「スタイル」の語源は「スティル」だという。「スティル」とは石に文字を刻む時に使う鑿のようなもので、その後「鉄筆」を意味する言葉となった。つまり、「文体」というのは、文章の雰囲気とか趣向とかいうものではないというのがアランの考えだ。石や金属といったものに文字を刻み込むという苦行、格闘を経て、初めて得ることができるのが文体であり、「スタイル(文体)」ということばの奥底にそれが刻印されている、そうアランは言う(「芸術論集」)。

 

 もう一つは、井上ひさしの有名な言葉だ。高校教師だったぼくは、授業を創るとき常にこの言葉を意識し、目当てにした。「むずかしいことをやさしく。やさしいことをふかく。ふかいことをおもしろく。おもしろいことをまじめに。まじめなことをゆかいに。そして、ゆかいなことをあくまでゆかいに」(「the座」こまつ座)

 

 この言葉は直接、文体を論じたものではない。しかし、ことばをもって何かを人に伝えようとするとき求められることを、これほど的確に表した言葉は見つからない。そして、文体ということとも深くかかわることばだと思う。

 

 「多喜二を繋ぐ」(『民主文学』一八年三月号)を二月例会で批評していただいた。意外に思われるかもしれないが、この文章には多くの時間と体力を要した。祖父・祖母、父・母、自分・友人・同時代の人々、子ども・孫という個人的な系譜と多喜二との繋がりを表現しようというのだから、当然なのだろう。書かなければならないことは多様かつ膨大だった。それをごく限られた量の言葉によって表現しなければならない。だから無駄な言葉はいらない。ことば一つひとつにしっかりとした役割と意味を持たせなければならないと意識した。詩を書くような気持ちで臨んだ。つまり、文体ということを意識しないわけにはいかなかった。

 

ぼくのその意識とそれに基づいた努力は、少しは功を奏したようだ。例会の合評でも文章について好意的な感想をいただいた。『民主文学』の読者の方々からも、これまで以上の感想をいただいた。その多くが文章・文体について言及するものだった。

 

うれしいと思った。しかし、その反面、どうにも釈然としない気持ちが残った。「多喜二を繋ぐ」を書くために、多喜二の作品をこの間、読み返した。『民主文学』三月号の掲載論文やエッセイを読んだ。多喜二祭の時期であった。小森陽一さんや荻野富士夫さんの講演を聴いた。こうした経験は、あらためてぼくを「文体」について考えることへと誘った。

 

はたして、文体についての冒頭に挙げた二つの視点でいいのか?たとえば、ぼくが思想と呼んできたものや、ぼくがぼくの文章によって誰のどの部分に向かって言葉を発しているのかということを、文体との関係でどうとらえるべきなのか。冒頭の二つの観点が不十分だというのでは必ずしもない。むしろ、ぼくが、ぼくなりの文体を獲得するために、必要な事柄について考えなければならないと、切に思ったのである。考え、書き続けたい。

 

 

 

この点について、みなさんは、どうお考えですか?ご教示をお願いします。

 

例会での、みなさんの丁寧な読みと批評・批判に感謝します。どの意見・感想も心に響きました。とりわけ報告して下さった後藤さんにはほんとうに感謝したいと感じています。後藤さんの批評は、文章の意図、形式、構造、内容、表現など多くの領域にわたり、それらが相まって、ぼくの感情や社会的な意識にまで踏み込むものでした。「批評する」あるいは「他人の文章を読む」ということの何たるかを教わりました。今日も、ぼくの机の前には、当日配布して下さったレジュメが貼ってあります。それを見ながら、次の作品を構想しています。

 

 

 

 

 

 

   232の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

   後藤守彦 

     ショパンを聴く

   

   泉  脩

     書評「兄は沖縄で死んだ」(加藤多一著)

         沖縄に戦後はない

 

     医者ものドラマを観る

          救命病棟24時間   

  

   石川弘明

     シナリオについて

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  おひなさま

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義12

             

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(三)

              

    泉  恵子

       中国の旅から  その4 

 

   

    松木 新

       『スターリン秘史』と『誰がために鐘は鳴る』―承前

 

 

 

 

 

  

 

 

札幌民主文学通信

 

二〇一八年月一日  231号 

 

 

 

支部誌『奔流』26

 

合評報告④

 

一月合宿研修会で合評した作品

 

★『あかるいほうへ(改稿) 』 細野ひとふみ

 

★『春のワルツ』 大橋あゆむ

 

★『リスペクト』  柏原 竜

 

★『生活綴り方事件と共謀罪』 村瀬喜史

 

★『一輪の花のように』 北野あかり

 

★『逆転』 石川弘明

 

『北都市緑野町界隈でのこと』 豊村一矢

 

★『戦争と私』 泉  脩

 

 

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて

 

細野ひとふみ

 

 

 

【札幌まで出かけて二日酔いで帰って来るとは、無さそうで有る。起こりうる出来事として、予定から逸脱した物語と回顧している。】

 

交流会後の218号室には、馬場さん、泉さん、石川さん、平山さんと一緒だった訳だけど、主に細野・馬場・石川の3氏がしゃべって、時どき泉・平山の2氏が冷静なコメントを発して下さった。皆、表現するものであるがゆえに、厳しい批評眼を持ち備え、民主文学会の現状には、全く満足していないことが良く分かった。石川氏は(これは合評会でも述べられていたが)、「お互い褒め合って、皆で沈むのは避けたいんだよ。少し厳しいことを言ってごめんね。」と声を掛けてくれた。僕は合評会での「あかるいほうへ」についての石川氏の評言「題材が安易な、手身近なものになっていませんか? 年齢と生活状況によって感性が鈍ってしまうのが残念だ」を大変うれしく聴いていたのだ。馬場氏も、「いや、それはうれしいことだよ」と全く同じ反応だった。

 

【気が付けば、部屋に持ち込んだ焼酎パックのキャップが失せていて、さあこの中身をどうしたものかと思案した辺りから妖しかったことになる。】

 

 いま、手元にある合評会でのメモを見直すと15名の方が、作品への批評と感想を述べて下さった。中でも、8名の方が係長Pについて触れている。「何故いじめるのか?」「彼の資質なのか?」「Pの形象が浮かび上がらない」「ぶん殴りたくなった」「名前などいらない」等々。ここには、現実と虚構を行き来するモデルなるものが存在している。合評会では、馬場氏が「実は同じもの(Pの性格と共鳴するもの!?)を感じる」的な発言をしていて、僕の受け取りが一人合点や誤解の類いでなければ、細野と馬場氏は似通った問題意識を抱えたということになる。他でもない僕自身が、あの消し去りたい、貶めたいほどの係長Pのモデルに、自分と同じ匂い、同じ雰囲気を感じとる瞬間が複数回あったからだ。浅はかさといい、下品さといい、ある種の傲慢さといい。

 

【だから、僕はいま読みかけの小説、ドストエフスキーの『悪霊』について何かを喋りかけようとした。で、いよいよ妖しくなって、その後の記憶がぶっ飛んでいる。】

 

 読みかけと言っても、もう2カ月以上経って第一分冊の第2章までなのだが、ニコライ・スタヴローギンが諸々の事件を起こして、スイスに旅立ち、そして帰って来たところ。あらすじは亀山郁夫氏の講演をラジオで聴いて知っている。100年以上前のロシアが舞台のお話なのに、毎日、見聞きしている世界と変わらない気がしている。スタヴローギンは、係長Pと重なり合う部分があり、ヴェルホベンスキー氏は管理職と重なり合う部分がある。

 

 作品評に立ち返るなら、泉恵子さんの「周囲の人物の不甲斐なさ」、田中さんの「管理職の傍観者ぶり」「作品も観察と描写に終始している」といった観点にも、根深い問題が横たわっている。

 

【二日目、ロビーのソファーで苦しんでいた僕は、前夜あの焼酎パックを空にしたような気がしていた。そして朝、横になったままの空パックが無性に恨めしかった。】

 

 泉脩さんは、合評会の冒頭で短編小説について次のように語っている。

 

「短編小説は人生の断片、ストーリーはいらないとも言われております」と。

 

 飲み掛けの焼酎パックにキャップが無いならば、空のペットボトル五〇〇ccを見つけ出して来て、そこに分注するだけの知恵を働かせるべきだった。これは明らかな反省材料だが、根本的な、失せ物であるところのキャップを探求することは止めない。

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて

 

              大橋あゆむ

 

 

 

「春のワルツ」を合評していただき、とてもうれしく思います。何度も何度も読みました。

 

 合評の報告は泉恵子さんからお手紙でいただき、励ましの言葉と一緒にキューバのしおりが添えてありました。

 

 豊村さんからはお電話で原稿の締め切りのご配慮をいただきました。「合評を受けて」と投稿のエッセイの文章を見直すことができました。

 

「春のワルツ」を書くきっかけになったのは、正高伸男「天才脳は『発達障害』から生まれる」(PHP新書)。読んでいる時に、これだ! とひらめいた。

 

 キレやすく、執拗だった織田信長。段取りあとかたづけができなかった葛飾北斎。異常なまでにものを書きまくった南方熊楠。お金にだらしなかった野口英世。際限のない欲望に駆られ働き続けたスーパーダイエーの中内功など。おもしろくて一気読み。

 

 あと読んだ本は、ウエンディ・ローソン「私の障害、私の個性」(花風社)。わたしは難病の障害者なので、つい「障害」という文字に引き寄せられる。リン・ワイス「片づかない! 見つからない! 間に合わない!」(WAVE出版)。片づかない! なんてわたしのことを言っているのかと、ドキッとした。注意欠陥障害(ADD)の話だった。ドナ・ウイリアム「自閉症だったわたしへ」(新潮社)。マンガ「ブラックジャックによろしく」(大人のADHD編)は、注意欠陥、多動性障害を特徴とする発達障害の話。

 

 こうして、ひらめきからだんだんと迷路にさまよい、さまよいながら、わたしは、わたし流の「春のワルツ」という物語を紡ぎ出した。

 

 たくさんの励ましやご助言をいただきましてありがとうございました。また、新たに挑戦する勇気もいただきました。がんばりたいと思います!

 

 

 

 

 

 

 

「リスペクト」の合評をうけて  

 

                柏原 竜

 

 

 

 題名「リスペクト」と、作品の内容が噛み合わないと指摘されましたがその通りだと思いました。思いを書ききれなかった。自分の力量がないと思った。リスペクトという言葉が、ここ数年、野党共闘を進めていく中で言われ続けたが、その言葉に、新鮮な驚きを感じた。「リスペクト」‐尊敬‐それを、自分の生活と関連させて作品の構想を考えた。自分と思いが、相反する人、気持ちが何となく分かる人、風のように通り過ぎていく人、様々な人と繋がって生きているが、そんな人達との葛藤を書きたかった。自分の考えも大事にして、相手の考えも尊重していく。なかなか、出来そうで出来ないものだ。生きていく上で、いろんな人と接していく時にリスペクトは大変大事な事だと思った。それを描きたかったが、自分の文章力ではむつかしかった。人間をもっと深くかけたらいいな。これからの課題かな……。

 

 登場人物が多すぎて、名前が解らなくなってしまう。短編なのに盛りだくさんになり過ぎている。読者のことを考えながら書く「力量」がないので、自分ひとりの世界にはまり込んでいるのでしょう。

 

 今回の作品では、岸の心の動きをもっと丁寧に、特に、池田の送別会に行くまでの心の変化を、わかり易く書けば良かった。作品を作るということは大変です。書いている時は気がつきません。

 

  

 

 もうひとつ大事なことは、パソコンを充分に使いこなせないことです。日常生活で、パソコンは使ってないので、作品を書き始めるためにセットしますが、通常に使えるようにするために時間がかかり、苦労します。そして、書いていて、何処か押し間違えたか文章が消えてしまったり飛んで行ったりします。この頃少し慣れてきましたが、自分は機械が苦手です。テレビもやっとビデオが取れるようになりました。スマホを持っていますが、もっぱらお話の通話だけです。今年の課題はスマホを使いこなすことです。 

 

 

 

 

 

『生活綴り方事件と共謀罪』 

 

合評をうけて

 

村瀬喜史

 

 

 

 「生活綴り方事件と共謀罪」を書き終えたとき、共謀罪の国会審議が最終盤をむかえていた。すでに30枚になっており、つめこもうとしたため最後は省略しすぎてわかりにくいところがあった。「一般の人が読みきれるだろうか」という批評もあったが、確かめなければならない。    

 

 合評会を終えて、地元の後援会新春の集いに駆けつけた。137人の参加者で区民ホールは満員、まわりに恒例の作品展示があり、いつものように私は民主文学の宣伝と「奔流」などの販売をやった。そこでかねて関心があると聞いていた女性に38冊目を販売した。千円でもお金をだして購入した人の方が読むというのが、これまでの経験。「再生産のため

 

」というのがセールスポイント、さて読まれるか。別の女性、普通、新聞記事は高校出の主婦を対象にするので、それにあった女性に聞いてみたところ、面白いし最後まで読んだという。私は多喜二の不在地主のように「荒木叉衛門を読むように」と大衆小説のことは念頭になかった。

 

 このエッセイの一章の最後に私の「学び直し」と書き、このあとも本を読んだり、取材をしたりしてきた。まず、高田富与の「なぎさのあしあと」彼の歩いてきた道と「生活綴り方事件」これは釧路の裁判の弁護の記録。締め切りに間に合わなかったのは、図書館からの貸し出しであったから。その内容のいったんは合評の最初の私の発言で紹介した。この弁護記録の最後に弁護側証人として叔父坂口勉の名がある。このあと高田富与が市長になりレッドパージをはねのけ、衆院議員にもなる。蓑輪登が元防衛長官でありながらイラク自衛隊派遣の違憲訴訟の原告になっているが、今年の小樽多喜二祭の市民劇に登場することも紹介した。

 

 学んだ本では昨年暮れ発行の「治安維持法と凶暴罪」(岩波新書)内田博文著をすすめた。

 

他に、「共暴罪」というパンフレット(新聞労連、憲法会議、国民救援会など共同発行)がわかりやすい。 

 

 つぎに話したのは佐竹直子の講演会、(九月三十日、札幌市教育研究会主催)に出席したときのこと。大きな会議室に満員、若い教師に混じって私と同年代の白髪の人達もたくさん参加していた。そのなかに上田文雄元市長の顔もみえた。演題は「作文教育がなぜ罪に~獄中メモを追って~で、ほぼ道新選書の内容であった。彼女の講演のあと。上田文雄と彼女が長い立ち話になり、私は「奔流」に名詞をはさんで渡すのみであった。彼女に聞きたかったのは、坂口勉を取材に協力してくれた人たちのなかに上げているが、彼女が動きはじめたときもう亡くなっていたのでないかということ、それを確かめたかった。

 

 次に紹介したのは石川弘明らと同じ中富良野で5年近く生活したとき、同期だった長谷川佳代子の話、かつてのマドンナは「奔流」を読み電話をくれた「私、土橋明次をしっている」。土橋は三浦綾子の「銃口」のモデルの一人で裁判の被告第一号であり東旭川の教師をやっていて逮捕され、苦難の生涯であった。家族のために退職金のためか「依願退職」にされ、佐竹著書にはその道庁の罷免通知が掲載され、一家で映した写真もある。入学前の長女と生後4ケ月の次女の指で指し、写真の姉妹も知っているという。「明次兄ちゃんは真面目で、中学へ汽車通でなかったか」それなら師範へは二部へいったのであろう。明次夫人はその後、隣村の東中の小学校に勤めた。土橋の家の地図を描いて説明してくれたが、82才のデイトでは、互いに耳が遠く、大きな声になり、帰るとき付近の客に「声が大きくて」とおわびをする始末であった。

 

 合評でだされた「これまでの作品とともに本にしてのこせ」はかつても言われたが、財政的に無理。「北海道の特殊な事件か」そうではない。世界恐慌と未曾有の凶作のなかで「教員赤化事件」は全国でおきている。それは平沢書の第二章にまとめてあるが、簡単に記述はできない。「綴り方での教育効果は」坂本亮の教育実践にあざやかにあらわれている。教え子たちの署名活動とそれをもって札幌の弁護士への依頼などは当時では聞いたことがない。これらも簡単にまとめられない。

 

 いずれにしても批評は参考になり、感謝をこめて、これからに生かしていく。

 

 

 

 

 

 

 

「一輪の花のように」―全盲の子と生きるー

 

   批評、感想をいただいて

 

北野あかり

 

 

 

合評会では、批評として「句読点や改行」など、基本的な間違いを指摘されました。また、会話のところで、全盲の子の発する「話を聞いてよ!」の一言に注目されて、そこから彼の内面を洞察された意見などを頂き、驚きました。

 

何気ない言葉やしぐさなどは、人を描く上で重要なポイントなのだと、改めて気付かされ、目からうろこが落ちる思いをしました。

 

感想では、障害者と共に生きて来られた方の、体験を通しての教訓や、今後の生き方についても、沢山の言葉を頂き、とても嬉しく元気を頂きました。

 

特に、「誰と生きていくのが、彼にとって幸せなのか…の面から考えてみてはどうか」の言葉が心に残り、作品を改めて読み返してみました。

 

そこには、彼の辛かったことに焦点が当てられており、私の知らない彼の過去には、楽しかったこと、嬉しかったことがあったはずなのに、何も書かれていないのです。それは、私自身が把握していない、聞こうとしていないことだったのだと改めて気付き、愕然とました。

 

 書くことは、気付くことなのだと思います。合評の場があることはそれがもっと深く、拡がり、先が見えてきます。それなら、その都度書いていけばいいと思うのですが、それがなかなか億劫で、出来ていないのが現状なのです。

 

しかし、年に一度の発表の場があることは幸せなことです。機会が与えられれば頑張る、というレベルですが、良き先輩の皆さんを目標に、これからも、発表していきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

『北都市緑野町界隈でのこと』

 

合評・読者からの感想を受けて

 

                豊村一矢

 

 

 

 今回は、いつになく書き始める前の構想にかなりの時間をかけ、熟慮を重ねた。最近、気力・体力・記憶力が衰え「今後、何作書けるか」と不安になっていた。それが熟慮を重ねることになった遠因だ。

 

「あと何作書けるか」は、「今度の次は無いかもしれない」につながる。そして、(児童文学の創作の時期も含めて)そもそも何のために文学に足を踏み入れたのかの原点に戻ることになり、結果、「奔流」26号への作品の題材は「学校現場」になった。

 

学校現場の何をどう書くか。

 

モチーフとテーマに照らして「学校現場を教職員が働く場」としてよりも、「子供(特に小学校低学年)が学ぶ場と」して書くことにした。どう書くかの難しさは経験上わかっていた。一番の難題は、子供が学ぶ場なのだから、中心人物に子供を設定するのが普通だが、六歳児の一般的な認識力、思考力、言語能力からいってテーマに迫る役割を担わせることはできない。少なくても私の筆力ではできない。

 

そこで、かねてから関心をもっていた戯曲の表現形式で書くことを思い立った。戯曲の勉強も不十分で確かな見通しもなく乱暴な出だしだった。

 

「奔流」26号の原稿締切日から一週間ほど過ぎ、編集責任者の特権も期限切れとなり脱稿とした次第だ。いつもと同じで自分での評価は不満だらけだけど、構想をある程度は形にできた自負もあるので、(合評を含め)読者がどんな感想を持ち評価してくれるか、どんな批評、批判、助言を出るか、不安もあり楽しみでもあった。

 

 貰った感想、意見の主なものを5項目にした。

 

 ※戯曲のジャンルで書いたことの是非&戯曲文学は読みづらくないか

 

 ※自分の小学校現場のイメージと作品(今)の現場の落差

 

※職場の管理体制の徹底ぶりが印象的

 

※専門用語など理解できない言葉

 

※人物像の典型化、類型化

 

 

 

 戯曲形式で書いたことに、最初に意見を言ってくれたのは田島一さんで、一〇月十四・十五日に札幌で行われた「ミニ創作専科」の時だった。ミニ創作専科の私の専科作品は「奔流」の『北都市……』ではなく別の掌編だったし、「奔流」を発行して一ヶ月ちょっとしか経っていなかったのに創作専科に出てきてびっくりした。専科に提出した作品がレーゼドラマ、本作品がレーゼシナリオだったので戯曲形式の文学について論じてくれたのだろう。

 

田島さんは「多様な創作方法を受容し、新たな世界を切り拓くチャレンジを歓迎」しつつ「レーゼドラマ(シナリオ)で、いかに生きるかを語り、人間の内面にまで及んだ世界を構築することができるか、そこが課題」と問題提起され、さらに、「いわゆる『読み物』の域を超える」という言葉をいただいた。私は「『読み物』の域を超える」を「小説では十分表現できない世界を戯曲によって表現する」という意味に解釈した。 

 

ミニ専科を離れた交流会で、田島さんから小説で書くことを強く勧められた。人間の内面にまで及んだ世界を十分には構築できていない、という田島さんの評価が前提にあるのかなと思った。

 

 

 

合評会で感想や意見を貰い、戯曲の勉強不足を意識し過ぎて縮こまっていたことに改めて気付いた。「レーゼシナリオ」というジャンル名を、言い訳がましく、タイトルの頭にぶら下げてしまったことなどだ。不甲斐ない。

 

今回戯曲形式を選択したことに後悔はない。「人間の内面にまで及んだ世界の構築」も作品が求められる程度に踏みこもうとした。一~二人の中心人物が引っ張る作品でないし、「もののあわれ」や「心の襞」の表現に深入りするつもりはなかったから予定通りではあるのだが、達成感がない。「読み物」の域をこえる表現になっていない。筆力不足に加えて戯曲への萎縮が原因だと思った。

 

「孤独のグルメ」という松重豊主演のテレビドラマがある。飲食店で松重豊演ずるサラリーマンがウエイターにオーダーするシーンでは顔・口の動きとともに音声が入るけれど、料理が並べられ食べるシーンでは、料理へ高まる期待や食べた時の感動を表情や仕草(発声動作はない)で演じつつ、期待と感動が独白調の話し言葉でスピーカーから発せられる。私は、シナリオでは、こんな場面をどう書いているのか気になった。

 

 石川さんから、『北都市…』の作品の「セリフ」ところで(内言)という言葉を頭に付けて内心表現であることを説明しているが、これは不適切で、カッコで括るるのがいいと指摘があった。なるほどと思った。

 

窮屈に考える必要はない。戯曲は、「セリフ」と「ト書き」と「登場人物表」の区別を明確にするくらいで、あとは何の制約も意識せず、読者ファーストの精神で書けばいいと結論し、(独り善がりだが)すっきりした。

 

 

 

現在の学校現場の現実に驚いたという感想が多く出た。学校現場の現実は作品の題材そのものだから「我が意を得たり」ではあった。

 

だが、現実の何をどう切り取るか。「学級崩壊」「家庭崩壊」「強まる管理体制」「人生観・価値観・適性・能力が多様化する教職員」「教育行政(文科省・都道府県・市町村)の政策のパフォーマンス化と学校の混乱・疲弊」……、選択したこれらをどう切り取るか。学級崩壊、家庭崩壊もその中身はいろいろだ。作品での崩壊学級は興味本位・自己中心で行動する(複数)児童の影響で授業不成立が日常化している状況、崩壊家庭は養育放棄・虐待までには至っていない状況と設定した。設定はしたが、構想通りに書き切れたかと言えば、大アマの自己採点で50点くらいか。

 

「作品中、意味の分からない言葉が出てくる」という感想が出された。分からないという言葉が専門用語だったり、特定のエリアで使われる言葉の場合、例外もあるが、私は作品の欠点だと思わない。一般論だけど、分からないと言っても前後関係から言葉の意味の雰囲気は感じ取れるように書かれているのが普通だ。言葉の意味を理解して貰うために説明の言葉を書き足したら猥雑な文章で、おもしろくない作品になると思う。

 

しかし、「北都市…」について言えば、「学級崩壊」という言葉に込めた筆者の意味づけを理解して貰えるように、辞書的にではなく、展開の中でもっと書き込むべきだったと思う。テーマに接続する重要な言葉として、校長と再任用教諭との会話の中で「憲法二十六条」や「子供が教育を受ける権利」だとかを使ってみたが、芯を喰ってない気がしている。

 

 授業が成立しない学級に再任用教師が入って授業すると短時間で授業が成立する場面と何の事前連絡もなく転校手続きに来てそのまま転校してしまう場面について、不自然だという意見が出された。立て直し教師も今回の転校場面も特異なこととして書いていないつもりだった。  

 

これらことは特別に珍しいことではい。しかし、いくつかの条件が重なってのことだから、それを書き切っていなかったと反省する。

 

どういうことかというと、指導が稚拙なために生活指導や授業が成立しないという一般的なタイプの「学級崩壊」であれば、子供たちに課題を理解させ、きめ細かく援助し、良いところを褒めて達成感を経験させる教師にかかれば短時間で学級は立ち直る。普通、学校にはそれができる熟練の教師が一人や二人はいる。「学級崩壊」に至った要因、未熟・熟練が入り混じった教師の姿をもっとポイントを押さえて書くべきだった。

 

 学校教育法で小学校に、保護者は子供を就学させる義務を課している。公(おおやけ)は子供を無学籍にしておくことができない立場にある。転校場面の不自然さの背景には法律がある。私が「北海道民主文学」二十一号に書いた『おれと私』のように、転校手続きなど一切せずに転校を繰返すことも、この法律を背景に可能になっている。作中の転校手続きをする保護者を社会認識に不足はなく、冷静かつ強い意志で行動していると書いたつもり。

 

だが、やはり書き切れていないかもしれない。筆者の経験からの先入観は横に置き、白紙の読者のつもりで読んでみて、そう思った。読者にこの親子を応援する気持ちになってくれれば…と願っていた場面なので後悔が残る。

 

 書き切れなかったのは戯曲形式にしたからだとは思いたくない。

 

 

 

私は、今回の作品に取りかかった時から、六年前の「合評会」(札幌支部例会)のことを時々思い出す。合評作品は、(「民主文学」2012年6月号)風見梢太郎『線量計』で合評会のレポーターは私だった。

 

 風見さんは、同年「民主文学」4月号で、「……原発を扱った最近の小説に寓話的なものが多いのも、ルポや記録に太刀打ちする本格的小説をまだ書けないことの反映であるような気もする。多くの作家が書けるところから始めることが大切だと思う。…………1月号に書いた『週休日変更』は原発に関わる小説を書こうとしている私の出発点である……」と書き、『線量計』はその二作目だと言った。風見梢太郎は「原発を描く」を自らの使命とし、ルポ、記録、映像の得意な領域で太刀打ちする小説を書くことを宣言しての二作目だった。(※「札幌民主文学通信」164号を参照)

 

 「ルポ、記録に太刀打ちする本格的小説に挑戦」と「戯曲の表現法に挑戦」とではレベルも内容も違っているが、風見氏がルポ、記録に太刀打ちする小説が書けたか……他人事に思えないでいる。

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて

 

泉  脩

 

 

 

「戦争と私」は、どうしても書いておきたい文章だった。一人の男の子が、戦争に巻き込まれ、苦しめられ、人生が大きく変わった。

 

戦争さえなければ、戦後すぐに父が死ななければ、と、どれほど考えたことだろう。命があっただけマシだが、ひどい苦労を強いられ、心がゆがみ、生き方が変えられた。

 

それでも何とかがんばって、人生をまっとうできたことが、我ながら不思議に思っている。

 

勉強になったとの意見があり、自分の体験を考えさせられた、といった声があった。いくらかでも役に立ったのならば良かったと思う。ささやかな貢献である。

 

それにしても侵略戦争を支持し、勝利を願ったという責任は認める。その後の生き方で少しでも、つぐなうことができただろうか?

 

 

 

 

 

 

    231の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤守彦 

     歌詠み二人

   

   泉  脩

     稲沢潤子・三浦協子

     「大間・新原発を止めろ」―核燃料サイクルのための専用炉

   

   石川節子

     ウミホタル

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  おつまみにはまる

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義11

             

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る(二)

              

    泉  恵子

       中国の旅から  その3 

 

   

   

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

       二〇一八年一月一日 230 

 

 

 

  謹   

 

             札幌民主文学会

 

 

 

   支部誌『奔流』26

 

    合評報告③

 

  十二月例会で合評した作品

 

    ★『山間に響く木霊』 福山瑛子

 

    ★『嵐』 平山耕佑

 

    ★『再会ラプソディ』 泉  恵子

 

 

 

 

 

 

寄せられた感想や意見……                  

 

福山 瑛子

 

 

 

「山間に響く木霊」をめぐって、数々の感想が寄せられた。例えば、「昔語りのような気がする」、「岡野家八人の急ぎ足の物語だ」、「弘の生き方、羨ましい」など。批判的意見として「小説の盛り上がりがない」、「完成度が高くない」「弟の視点で書いた経過報告で終わっている」、「小説というより自分史、おもしろくない」など。ただ一人、松木新さんが、「僕はおもしろかった」と言ってくださった。

 

 どの意見も、私には頷けた。すごいスピードで書いた作品だったし、推敲した作品ではなかったからだ。それに、「子ども時代の記憶に残っていることを書いて」と数年前に弟にたのみ、彼が送ってきた印刷済みメールを見つけ、使っていなかった部分が多かったので、それを参考にしてこの作品を書き始めたのだった。

 

 構想を練り、虚構で書くのが、小説である。その初歩に立ち返って、次作にかかろうと思っている。

 

 

 

 

 

 

「嵐」の批評を受けて

 

            平山耕佑

 

 

 

合評会の最初に言ったように、この拙作の舞台となった高校にはモデルがあるが、ストーリーは全くのフィクションである。ところが驚いたことは、海に落ちた子供を助けて自分が死んだ人を知っている、という人が二人もいたことである。現実にありうることなのだと改めて知った。

 

 批評全体としては誉め言葉が半分、その反対が半分というところか。起承転結がはっきりしていてよい、という批評は、そのことを強く意識して書いたので嬉しかった。フィクションの強みだろうか。

 

 教師のことばが演説口調という批評があった。でも卒業を控えた生徒に担任が進路のこと、選挙権のことを話すとすれば(そして話さなければならないこと)、私ならこういう言い方をする以外にない。小説に演説が入るのは私も好きでないが、まあ、私の能力の限界なのだろう。

 

  アイヌ、自衛隊、このことをもう少し深めた話にすればよかった、という意見があった。

 

でも三〇枚の短編でそれは無理という気もする。テーマはあくまでも「弱い高校生の成長物語」なのだ。戦時のことで事実との違いを指摘された。これには反論の余地などない。

 

 最後に、松木さんが「嵐」の楽譜と歌詞全部を印刷して持ってきてくれた。そしてさらに北野あかりさんが自分が所属するサークルの歌だと言って最後にきれいな声で歌ってくれた。感謝!   

 

 

 

 

 

 

 

「再会ラプソディ」の合評を受けて

 

               泉 恵子

 

 

 

 自分の作品に対して、いろいろ言っていただけるというのは有難いことだと改めて噛みしめています。

 

 今、自分の中での一番の関心事であり、今回の場合は悩みでもあるテーマについて、どのような形で書くか。カズオ・イシグロ流にメタファ(隠喩)を用いて書けたらと思うが、そうした力量の無い現状では、あのようなドキュメンタリーに、フィクションを交えた形でしか書けなかった。だから「小説」といっていいものかどうか悩んだ末、「創作」という多少漠としたジャンルで出させて頂いた。

 

 そんな事もあって、自分でもどう評価していいのか判らなかったが、皆さんの話から自分なりに問題点を絞ってみた。

 

 一つは、事情の知らない人に対しても、判ってもらえる作品になっているかどうかということ。それは、最初から多少意識していたことで、そのため前半がくどくなったかもしれないと思う。

 

 しかし、それでも主人公洋子の思いが、伝わって来ない嫌いがあったようで、「仲間内」以外の人にはどう読まれるのだろうか、という疑問は残った。事情を知っている「仲間」の方々よりも厳しいのではないかという予感がある。

 

 もう一つは、タイトルがテーマを薄めてしまっているかもしれないということについて。

 

 「親たちの世代のことだからと言って、関係ないとは言えない」「積み残していったものは引き継いでゆかなくてはならないのではないか」という、記憶の忘却との闘いという重いテーマを内包しながら、再会の思い出話の中に組み込まれてしまっていることは、話しが二つになってしまい、テーマが曖昧になっているのではないかということについて考えさせられた。

 

 題がなかなか決まらず、「ラプソディ」という音楽用語を思いついて、調べると、「自由な形式で、民族的、叙事的内容を表現した楽曲」とあって、自分としては「再会」の中で繰り広げられるテーマという意味で結構気に入ったのだが、安易だったのか?

 

 前作「望郷のトロッコ」の時も、本誌の「支部誌・同人誌評」の中で、久野道広さんから、「(つつじ山花見に)地域の人たちと『トロッコ』に乗ってゆく場面がはじめと結びにあり、間に戦時中の体験が入っている。このようにすると、戦時中の体験が軽くなり、隆司のノスタルジーになってしまったうらみが残る」と指摘されていた。この時の例会でもどちらか一つに絞った方がよいのでは?という似た発言があったと思う。同じ轍を踏んでしまったのだろうか。

 

 まだよく消化していないというのが本音なのだが。

 

 短編で書く場合と、長編で書く場合は異なり、前者の場合は、もっとシンプルに絞ることを心掛けるべきという基本を実践することは、なかなか難しい。

 

 

     230の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤守彦 

     『死ぬ』で始まる二つの読書論

   

   泉  脩

     NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち(終)

       「心の軸」と「志」

   松木 新

     『スターリン秘史』と『誰がために鐘は鳴る』

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  「シワシワネーム」

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義10

             女(男)心と秋の空

     

     生駒たづ子

             謡曲の舞台   紀行文

 

     福山 瑛子

          民主文学に関わっての六十年余を振り返る

              

   泉  恵子

       中国の旅から  その2 

 

   田中 恭子

       『民主文学』に作品が掲載されて

   

 

  

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

二〇一七年十二月一日  229号 

 

  支部誌『奔流』26

 

    合評報告②

 

 

 

十一月例会で合評した作品

 

★『チェルノブイリ・フクシマ 』 室崎和佳子

 

★『ポパイがいた』 馬場雅史

 

★『怨念の黒い船』  石川節子

 

 

 

 

 合評会は最高に楽しい

            石川節子

 

  吹雪となってしまった十一月の合評会は自分の作品「怨念の黒い船」も合評されることになっていたので、ことさら楽しみは倍増した。

 

皆さん率直にご意見を指摘してくださるので本当に有りがたい。

 

「読む前から読者に憂鬱を暗示させてしまうような、このような題名は避けたほうがよい」というベテランさんの指摘には、これぞまさしく「目から鱗」がハラリと落ちた。

 

つぎに私は「作品とは、安定した和音で終わるべきか。不協和音を残して永く読者の心に記憶させることは「文学における道徳」に反するものか。俳句で言う『字余り』も、よくないのか」など作品の閉じ方、終わり方のスタイルの有り様に傾注していった。

 

今回の「怨念の黒い船」は、発刊されて間もなくから「最後のところに問題があるね」と皆さんから指摘されており、また、『民主文学』十二月号で、橘あおい先生からのご指摘もあったので、「怨念の黒い」一〇七ページ最終部分の段落四行を改稿してみていた。

 

 

 

―裕次郞はすっかり精気を取り戻していつしか、裕次郞本来の温厚な面立ちにもどっていた。

 

同時にハルには、「男同士が結託してのこの仕業、生涯、恨み続けて生き延びてやる」という取り返しのつかない強い遺恨を抱かせてしまったことを重くうけとめ、大きな「罪過の念」を背負い、この埋め合わせは生涯を通して尽くしてゆくしか無いことを肝に命じるのであった。

 

こうして、この「怨念の再生」は凝縮されて静かに折りたたまれていった。

 

 

 

この改稿を試みた紙片を合評の席で配り、「このように試みてみたけれども自分ではまだ満足ができていない」ことを申し添えて皆さんのご意見を仰いだ。

 

「前よりずっと良くなった」という声や、「それならいっそのこと一〇六ページ下段、後ろから五行目の、『結局、旅費には手を付けず、源吾に返す事になった』、ここで終わりにするようにまとめたほうが、衝撃的な違和感を回避できてよいのではないだろうか」と言う具体的なアドバイスなども頂いた。

 

「嗚呼、今、私は皆さんに抱かれて育てられている」という幸せ一杯の気持ちに満たされました。

 

皆さん、ありがとうございます。

 

 

 長篇への想い

          馬場雅史

 

  例会で「ポパイがいた」を合評していただいた。重い指摘を二ついただいた。一つは「短篇として成立していない」「言いたいことを盛り込みすぎている」というものだ。その通りだと思う。自分でもそう感じていた。

 

 二つ目は「主人公」あるいは「語り手」にかかわる問題である。「ぼく」あるいはそれを言い換えただけの、例えば「山本」を語り手に据えなければ、ぼくは書けない。自分の作品を読むと、作品が「自分」に縛られていること気が付く。「オレオレ」主義ではないが、それが作品世界を狭めている。視点も歴史も感性も、そこから形成される思想も、それによって限定されている。その克服が課題であることは自分でも、気づいていた。

 

 ならば、短篇を捨てて長篇に向かい、「ぼく」という語り手を捨てて主人公に語らせれば良いではないか? できることならそうしたいとも思ってきた。

 

 こんなふうに書けば、つまり、合評会で指摘されたことは、何か想定済みの、分かっていたことを追認するだけのものだったのか? そう思われるかもしれない。しかし、そうではない。ぼく自身の作品はもとより、会員の多くの作品についての批評の蓄積が、今回の「ポパイがいた」についての批評を正当な指摘として受け止め得る何かを、ぼくの中に形成してくれていたのだと思う。引き続き、厳しい批評をお願いしたい。

 

その経験を熟成させつつ、長編への想いを培っていきたい。

 

 

 合評を受けて

          室崎和佳子

 

  原発事故が人間の生活に及ぼす影響を考えるとき、それまで築き上げてきた個々の人生のほとんど全てを失うという慄然とした事実にぶつかります。

 

 放射能という目に見えない化け物が、チェルノブイリの人を、福島の人を、奈落の底に突き落としていることは、説明するまでもありません。

 

 全世界に展開されている原発が、あちこちで事故を起こしたとしたら、人類の叡智が成し遂げてきた芸術、文化、スポーツを初め、人間生活の全てが失われてしまいます。

 

 原発で儲けようとしている心卑しい人たちは、なぜそんな簡単なことが分からないのか。

 

 金儲けを優先させるあまり、普通の人間としての感覚、感受性を失っているのでしょう。まるで「出来損ないのロボット」です。こんなことを言うと、優秀なロボットに叱られるかもしれません。

 

「私たちは優秀な人工知能を身につけていますから、人間の気持ちが十分にわかっています。ですから、そのような愚かなことはいたしません」と。

 

 

 

 辺りに放射能が漂っている限り、人間として当たり前の生活ができなくなるわけですから、何にも増して、このこと(原発・原子力問題)が大切だと思うのです。

 

 それが、原発・放射能問題にこだわって書いている理由です。

 

 今回の作品で、初めて「福島」の問題に取り組みました。今までも、「福島」を書かなければ、と何度も思いながら、どうしても書くことができなかったのです。

 

 

 

 この作品を執筆後、九月にチェルノブイリ、十月に福島へ行ってきました。

 

 驚くことに、私はそのどちらでも体調が悪くなったのです。チェルノブイリでは事故炉直下付近で、咽が急激に腫れて水も飲めないような状態になりました。福島では、いわき市へ入った時、頭痛と吐き気がありました。須賀川市、郡山市では感じなかった体調の変化でした。いわき市は「浜通り」と言われる地域で、事故原発に近い場所でした。

 

 私は甲状腺機能減退症(橋本病)という病気をもっており、普段は無症状なのですが、放射能を敏感にキャッチしたようです。

 

 そのような地域で生活しなければならない人々に思いを馳せ、これからも書き続けようと思っています。

 

 

 

 

    229号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤守彦 

     南京事件を考える

   

   泉  脩

     NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち⑤

        『獅子の時代」―自由・平等・博愛を

   松木 新

     「蟹工船」観劇余話

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  まっ、いいか

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談議⑨

             女(男)心と秋の空

     

      村松 祝子

          「五十鈴川の鴨」 竹西寛子著を読んで

 

      福山 瑛子

          新船海三郎著『戦争は殺すことから始まった』を読んで

              

    泉  恵子

       中国の旅から  その1 

 

   

 

  

 

 札幌民主文学通信  二〇一七年十一月一日  228号 

 

 

  十月の支部例会は、開始時間を一時間早めて、支部誌『奔流』二十六号の中 

 の三作品について合評しました。十一月例会、十二月例会でも三作品を合評 

 し、新年一月には一泊二日の合宿 合評会で『奔流』二十六号全作品の合評を

 終える予定です。札幌民主文学通信は、合評を受けた筆者のコメントを連載し

 ていきます。   《編集部》

 

   支部誌『奔流』26

 

合評報告①

 

十月例会で合評した作品

 

  ★評論 アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』 を読む(草稿)     

                                     松木 新

 

  ★評論 加藤周一『日本文学史序説』を読む

 

                                     後藤守彦

 

  ★「小説 『こむニャンコ』       田中恭子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  合評を受けて    

 

松木 新

 

 

 

「アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』を読む(草稿)」は、このまま眠らせておくのは惜しいと思って『奔流』に発表したのですが、みなさんの意見を聞いていて、発表が正解だったと実感しました。『選集』「序文」の翻訳と、『選集』全体についての評論をセットで把握し、プロレタリア文学の研究に貢献したという評価は、大変嬉しいものでした。

 

この『選集』が、これまで日本で刊行されてきた類書と大した相違がないのであれば、こんなに情熱を傾けることはなかったと思います。それだけユニークに感じたということは、プロレタリア文学に長い間かかわってきたぼくの頭の中が、固定観念の蜘蛛の糸でぐちゃぐちゃになっていたためだと、あらためて実感させられた四ヶ月間でした。

 

不破さんが『スターリン秘史』で、現代史におけるスターリン主義の意味を問いかけましたが、文学の世界でも、今、その作業が待たれているのではないかと考えています。このアメリカ版『選集』が、そのための第一歩になるような気がしています。

 

 

  「知らないこと」の多さ

 

              後藤守彦

 

                                                                

 

 先ず、お詫びから。拙稿について「やっつけ仕事」と述べたのは、不遜でした。提出期限に間に合わせようとして急いで書いたため、テーマを十分深めないまま終わってしまった、それが正直な思いでしたので、生意気な言い方をしてしまいました。合評会に参加された皆さんを含め、読んでくれた方の指摘で、これからも考えなければならない課題を見出しました。ご批評ありがとうございました。

 

 「本を読めば読むほど人生の真実に近づく、とは決して思っていない」と拙稿で書きましたが、読めば読むほど、知らなかったことに気付く、というのも私の実感です。そこから、また新たな人生の真実への探求が始まると言えます。それにしても、加藤周一の豊かな読みと知的探究心には圧倒されます。

 

そして、加藤が探求した「今=ここ主義」の問題を、私なりに考えつづけていきたいと思います。

 

 

 

 

  合評をしていただいて

 

  田中 恭子

 

 

 

十月例会に出席する日の朝、まずは自分がゆらゆら揺れていないか、十分程立って動いても吐き気に襲われないかを確認し、今日は大丈夫そうだと一安心して、外出のための準備に取り掛かった。脊柱管狭窄症による足の痛みやしびれに、昨年の秋から、自律神経が自立していない(?)ことによる障害で、めまいや吐き気になやまされる日々が加わり、処方された薬は、車の運転を禁止されるほど眠気に襲われるもので、日常生活を営むために必要な、買い物とか食事作りとか、週二回の新聞の早朝配達、シルバー人材センターの依頼で一回二時間半、月に五日間の保育園の掃除の仕事(整形外科の医師に足が痛くてもしびれても、我慢してとにかく動けるうちは運動しなさい。動けなくなったら手術を考えます、と言われて、運動をしなくてはと思い始めた仕事)など維持実行するのに妨げにならない範囲で間引き服用している。

 

雪がまだ残っている三月中旬から、とにかく毎日パソコンの前に座ることを自分に命じて、「こむニャンコ」の作成を始めた。体調と相談しながらのことで、時には三、四行でパソコンを閉じてしまったり、人物の名前が母親と娘が同じ名前になっていたり、時間の流れを忘れてどの時点を描いていたのかと戻ってみたり、右往左往の日々を重ねて書きつないだ。

 

出来上がったのは締め切りの二日前、読み直してみると誤字・脱字・変換ミスがはなはだしく、作品全体を見渡して点検、検証しようにも、まず細かところに気をとられ、時間切れで見切り発車となった。まな板の上にあまり元気のない鯉を載せてしまった感があった。

 

合評の場では、日ごろ辛口の批評をすると思われる仲間が、とても好意的に作品を読んでくださったと感じた。特に、松木さんの評論、アメリカ版『日本プロレタリア文学選集』を読む(草稿)の中にあった、個人的なことは政治的なこと に当てはめて感想を言っていただけたのが嬉しかった。作品の質は低いものばかりで大きな事は言えないのだけれど、創作を始めた三十代のころから、自分が文章にしなければ、一生懸命生きているその人のことは社会の中で知られることなく過ぎてしまう、どうしても書いておきたい。そして、その人を描くことで社会の状況が透けて見える作品を書きたいと思ってきた。個人的なことは政治的なことに当てはめて深読みしてくださった事に感謝する所以である。

 

厳しい批評がなかったのは、まな板の上の鯉が元気がなく弱りきっていたせいかもしれない、と思っている。自分自身も、身の回りにも、病を持ち、闘いあぐねている高齢者ばかりという環境だから、これからは、そこをどう突き抜けて、悟りではなく日々模索、昔ではなく明日を見つめる「バーバ」のような人物をもっと色濃く作り、悔いの残らぬ作品にしたい。

 

ただ、合評の場を終えて、気持ちは少し軽くなり、沢山の人に読んでいただけたということが実感できてとてもありがたく、書いてよかったと思うことしきりの帰途でした。

 

 

 

 

      228号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤守彦 

     戦争と野球

   

   泉  脩

     NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち④

        龍馬伝

  

   大橋 あゆむ

      エッセイ   よだれが出る 

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義8

   

               

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信  二〇一七年一〇月一日  227号 

 

 

 

   9月例会合評報告

 

 

 

合評作品

 

 応募短編小説特集

 

『廃坑のカナリアよ』(馬場雅史)「民主文学」9月号

 

 

 

   報告者 浅野勝圀

 

 

 

 9月例会合評は、報告の不備、不足を補ってあまりある、多様な発言によって深められた。

 

 翌朝、NHKのテレビ番組「日曜美術館」は、開催中の「ゴッホ展」を特集していた。ゲストの一人が、「ゴッホの『星月夜』は言葉を吸い寄せる」と語っているのを聞き、「廃坑のカナリアよ」にもあてはまるのではと思った。

 

 

 

 例会での多様な発言の主なところを作者の言葉も含めて報告したい。

 

 

 

  1. 評価する意見

 

・素晴らしい作品だった。タイトルをはじめ印象深い表現がいっぱい。93~94

 

ページでは小縄さんが懐かしかった。

 

 ・無駄がなくて文章がいい。

 

 ・新夕張鉱の事故で人命軽視の注水を強行した北炭への怒りが甦った。

 

 ・高校教師山本が語り手の作品に共通する俳句の連帯止め、体言止めを生かした簡

 

潔な表現が流れていた。

 

 ・北炭の事故は忘れられない。自分もいつかこういう作品を書きたい。

 

 ・担任としての手探りの努力や、人権を無視される在日朝鮮人のことは共感でき    

  た。

  ・オッ君が抱く恨みは簡単には分からない。

 

 ・感動を受ける場面があちこちにある。読ませる力がある。

 

 ・山本とオッ君両者の関係にリアリテイを感じた。山本の教師としての実践と力量

 

はすごい。

 

 ・小縄さんがいたらなんというかなあ。

 

・存在しなかった「昭和六十四年三月」閉校という設定がうまい。比喩がうまい。

  ・レモンがすごくいい。作者に梶井作品のイメージがあったのでは。

 

 

 

  1. 疑問や批判の意見

 

 ・レモンがなんで電話の傍にあるのかな。

 

 ・クラスの中でオッ君への差別や偏見はなかったのか。触れてもらえたらリアリテ

 

イを感じられたと思う。

 

 ・悌二郎の「若きカフカス人」を思わせる厳しい風貌という形容では読者にイメー

 

ジがわかないのではないか。

 

 ・最後の方のオッ君の語りが、作者または山本のものになっている。主人公は山本

 

なのかオッ君なのか判然としないことも含め、作品にリアリテイ不足を感じる。

 

 ・歴史修正主義者の策動を許さないために

 

も、北海道に連行された朝鮮人の数はきちんと確かめてほしい。

 

 ・隣町の町議越前屋が登場する必然性がない。北風さんとの対話の中で同じ内容が

 

表現できたのでは。

 

 ・台詞で何かを解決してしまうのは作品を狭くする。

 

 ・最後の「廃坑のカナリアよ」は、誰が誰に向かって呼びかけているのかがわかり

 

にくく混乱した。

 

 ・作者も主人公のしぼり方があいまいだったのではないか。

 

 

 

  1. 作者から

 

・短編らしい短編を書きたいと思った。

 

 ・言葉ひとつひとつに気を遣った。

 

 ・書くことの裾野をひろげたかった。

 

 ・生徒の力を借りないと書けない。

 

 ・オッ君は自分の分身(自分の出自ともかかわっている)。リアリテイの無さにも      

  つながっている。

 

 ・レモンは作り話。

 

 ・クラスの中での差別や偏見に触れなかったことは、他支部でも指摘された。

 

                 以上

 

 

 

 

 

 

  

    227号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

 

   後藤守彦 

     音楽ミステリの愉楽(その三)

   

   泉  脩

     NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち③

        『真田太平記」―心を打つ兄弟愛

   松木 新

     閑話二題―「恨」、「社会主義リアリズム」

 

   大橋 あゆむ

      エッセイ  千代紙 

      

     豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談議7

   

              

     

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信 二〇一七年月一日  226号 

 

 

  八月例会合評報告

 

評作品 

  『巨艦の幻影』倉園沙樹子  「民主文学」8月号

 

          報告者  平山耕佑

 

 レジュメ

 

  1. 題名について

 

 あの戦争中、巨艦「壱号艦」の完成まで仕事に従事し、当時の典型的な「大和民族」の心(信念)を持つ峰山清吉が主人公。作者は「壱号艦」が「幻影」であったことを、その題名から書き出している。不沈戦艦と言われた「大和」(?)がまさに幻影であったことは歴史的事実。同時に作者は、清吉が持っていた「国家主義的信念」が実は「幻想」であったことをも伝えている。

 

  1. 一の章

 

 書き出しの2ページは圧倒的な迫力。「男性的」とも言える。だがそんな中にも、今後の成り行きを予感させる表現が出てくる。p8上「後輩たちが清吉を追い抜いて出世した」、同下段「次男の顔が」浮かんで「腹立たしい思いに駆られた、等。「佐原村」とはどの地方? 「中学生らしいにせんか」「ほうか」「いいんさった」「なして」等の方言はどの地方のものか。次男、勇の反抗的精神。進水式が秘密のうちに行われたことに対する失望。そしてその様子を勇だけが隠れて見ていたことへの驚き。

 

  1. 二の章

 

 一の章から一年半後。長男武が「壱号艦」の乗組員に抜擢される。そして太平洋戦争が始まる。「昭和十七年の元旦を、清吉はこれまでにない高揚した気分で迎えた」。弟浩二の息子卓也のこと。卓也を武よりも勇」と比較する清吉。「明るい瞳、明快な受け答えは爽やかだが」「魅力に欠けた」(p19上)勇に対する親としての愛情。武が年始の挨拶に出かけようとするとき、原口卓也を訪問することを禁ずる清吉。両親を失った卓也を十七歳まで養育し、今年二十一歳の卓也、これまで二度警察に検挙される。予想以上に卓也のことを知っている勇とのやり取り。アカ、危険思想、国体、警察に竹刀

 

で殴られた卓也、等々。

 

 双六遊びの中での勇のことば「俺はどこかのジャングルへでも行って、猿のように生きたいもんじゃ」(p23上)これはちょっと飛躍している感じ。

 

「俺は海軍には志願せん。砲弾が飛んでいく先には人間がおるけえ」(p24下)「おれは軍艦には乗らん。ジャングルで猿になって生きる」(p25上)

 

  1. 三の章

 

 勇に「父さん」と呼ばれて「次男への愛情をかき立てる」清吉。「一生のお願いがある」とさらに言われ「眼前の光景輝き渡った」清吉。(ちょっと大袈裟)卓也を引き取ってほしいと願う勇。アカを引き取るわけにはいかないという清吉。妻の計らいで卓也に生活費を援助することにし、そのため卓也を訪れる。p28下最後の卓也のことばは「裏の事実」。さらにp29上最後はヤマの一つ。その後、清吉と原口の論争。清吉はアタマにきて原口に掴みかかるが原口の体が思いのほか軽いことに、「親心にも似た情愛が一筋さした」(p31下)。清吉は思い直して用意してきた封筒を畳の上に置く。入れ違いに二人の男が階段を上がって行く。原口が拘留されたことを知った勇のあからさまな反抗。

 

  1. 四の章

 

 「壱号艦」が日本を離れ太平洋のかなたに消えていったその日、特高警察が来て勇の部屋を調べ、「改造」を手にする。帰ってきた勇を説諭する妙子。「変な説教だ、違う、違う」と思う清吉。スタンダールの『赤と黒』を持って行ったことを知った勇は大笑い。娘の百合子が帰ってきて「従軍看護婦になってお国のために働く」と言う。その後の約2ページの勇を交えた親子のやり取り。ここで百合子は、この作品の中で非常に重要な役割を果たしている。さらに原口が殺されたことを知った清吉の苦悩。さらに特高は勇を逮捕に。

 

 そして最後、勇を追って地面に腹ばいになった清吉の耳に軍艦マーチと「万歳」の声。「おうい、騙されちゃいけん」と叫ぶ清吉。

 

  1. 結論

 

 迫力ある描写を別にして、平易でわかりやすい表現、登場人物が少ないこと。描写がほぼときの流れに沿っていること、等が、読みやすく、よくわかる作品にしている。戦前の国家主義的思想が間違いだったことは誰でも知っているし、今そんなことを思っている日本人は誰一人としていない。(ホントにいないかな?)にもかかわらず、こうした作品を書いた動機はなにか。

 

 p21上下からp22にかけての記述は、今まさに問題になっている「共謀法」を意識しての「警告」ではないだろうか。

 

 

 

 合評での主な意見・感想

 

  1. 冒頭の文章が力強い

 

 ・男性的な文章だ。

 

 ・リアルで力強く印象深い表現で、導入とし 

 

ては効果的だが、作品全体の内容とのずれがないか。

 

  1. 登場人物が少ない。

 

 ・軍港「呉」を連想させる出だし部分の印  象に比して物語は峰山清吉、その家族が主な登場人物という少人数で展開される。

 

 ・少人数の登場人物に絞り込むことは筆者の作意であり、作品の主題を明確にする点で成功 しているのではないか。

 

 ・家族間で国家主義、軍国主義、戦争や国への態度がまったく異なり、深刻な亀裂や対立が繰返される。同時に家族間の信頼、愛情、苦悩の表現には説得力がある。

 

  1. 地名や巨艦名、年月日なども意図して曖昧にしていると感じられる。

 

・これも②同様、主題を明確にするための作意なのか。

 

  1. 安倍政権が進める憲法破壊、戦争する国作り、戦争法、共謀罪強行採決などへの怒り、厳しい批判の意思が明確である。

  2. それにしても、最後の、清吉が、

    「おうい、騙されちゃあいけん」

    と、自分でも驚くほどの大声を張り上げる場面は飛躍が過ぎるのではないか。

    清吉の信念が崩れ、打ちのめされるくらいの方が説得力があるのではないか。

 

   

    226号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

     解説の解説を書く

   

   泉  脩

     NHK大河ドラマ 動乱を生きた男たち②

          「徳川家康」平和への意志

   松木 新

     明けない夜はない―和合亮一/村山ひで/シェイクスピア

 

   大橋 あゆむ

      まちがいさがし 

 

   生駒多津子

       女性の嫉妬の犠牲となった佳人夕顔

        

      福山瑛子

      コスタリカやキューバの今を伝える

        伊藤千尋著「凜とした小国」を読む

 

    豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談義6 

 

   吉田たかし

      植民地南樺太のこと

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信  二〇一七年月一日  225号 

 

 

 

  七月例会合評報告     

 

 

  「崖の上の家」

 

(風見梢太郎 『民主文学』七月号)

 

                 松木  新

 

 

 

今度の大会で短編小説について論議されたこともあって、この例会では短編小説そのものについての理解を深める意味から、阿部昭『短編小説礼賛』(岩波新書一九八六年)を素材にして、「崖の上の家」を分析することにし、以下の報告をした。なお、資料として、『短編小説礼賛』から該当する箇所をプリントした。

 

【報告】

     ①一度読んだら忘れられない「話」

  物語は真下の書庫の整理→後輩からの電話→街への買い出し帰宅という時間の中で片倉との思い出、片倉の死、後輩の来訪が語られている。

 ②書き出しの一行

  最初の三行は、この物語を豊かにしており、平易な言葉で書かれているにもかかわらず、文体に緊張感がある。

 ③「生きたイメージ」に語らせる風景描写のイメージは良い→冒頭の場面、家の周囲の光景(11ページ上段)甥の夫人の描写が良い(13ページ上段)(13ページ下段)

 ④会話も描写である。

  「叔父の世話は、いっさいこちらでやらせでやらせていただきます」(13ページ下段)が良い。

 ⑤読者が自由に考えるに任せる。

  真下と笠谷が連れてくる加藤との対話、合唱する若者たちと真下との今後の交流などに、読者が想像できる場面だ。

 ⑥小説は終わってもまだその先に別の新しい物語ある。

  上記⑤とも関係するが、若者たちとの新しい世界の構築が「新しい物語」である。

 ⑦すべての人間が各々の物語の主人公である。スーパーの店長、書店の店主の描写に心配りが見受けられる。

 ⑧「これが人生というものか」

  本来なら片倉の人生が、「これが人生というものか」と読者に示さなければならないのだが、連作完結というこの作品の性格から、不十分に終わっている。

 ⑨結末の一行こそは二十世紀の文学が新たに付け加えたものである。

  結末の、「明日この部屋でかわされるはずの会話を想像して胸を轟かせた」という描写は、読者の想像にまかせるほうが良い。

 

【論議】

  文体についての好意的な意見が多かった。文章がなめらかで読みやすい、比喩を用いず平易な言葉で作品世界を描出している力量は、三六年に及ぶ書き手としての修業のたまものだろう。

  人物描写では、甥の夫人の形象の評価が高かった。彼女が登場する場面、セリフなどは心憎いほどだ。ぼくはモーパッサンの「脂肪の塊」を思いだした。

  真下がたたかいつづけることができたエネルギーの根源は、特別の感情ではなく、ごく普通のことに満足するところからきているという指摘は重要だと思った。彼はスーパーマンだったからではなく、片倉など集団の援助があったからたたかいつづけてきのだろう。

  このことは、そうした援助の機会がなくて、不本意ながらたたかいの戦列から離れていった人々とどう向き合ったら良いか、という事への回答にもなっている。離れていった彼らを切り捨てるのではなく、初心に立ち返って、新しい可能性をさぐることが求められているのだと思った。

  たたかいの形象を描いていることも注目された。崖の上の「家」が、生きていく上での「砦」になっている。この作品は、目次では「シリーズ完結」となっているが、「家」を主人公と考えると、真下と合唱する若者たちとの「家」を舞台にした交流など、続編が期待できるのではないかという意見は貴重だと思った。

  蛇足ながら、作品冒頭のカットは、内容にそぐわないものだった。

 

 

 

 

    225号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

     北国から来た猫第七章

   

   泉  脩

     吉田たかし

     海峡の少年1945年・真岡・ホムルスク

   松木 新

     ゴーリキー『母』と音楽

 

   大橋 あゆむ

      早送りの達人 

 

            福山瑛子

     「文章を磨くとは?』『小説の知恵とは?』

      と考え込む今日この頃

 

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談義5 

 

 

 

  

 

 

   札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  224号 

 

 

   六月例会合評報告

 

 

 

第十四回民主文学新人賞佳作

 

「譲葉の顔」

 

(杉山まさし「民主文学」六月号)

 

未知なるものへの挑戦 

 

            石川弘明

 

 一九三五年(昭和十年)生まれのわたしは、

 

アバンゲールではない。かと言ってわたしは、

 

アプレゲールと言われるのも中途半端である。

 

昭和十年が昭和一桁なのか、二桁なのかで悩んでいるのが1935年生まれなのである。昭和一桁生まれ、主として昭和二年~六年生まれの先輩たちのように、徴用、援農、軍需工の臨時工の経験もない。教育勅語とか軍人勅諭、百二十四代の天皇名を暗誦させられることもなく育ち、軍事教錬を受けたこともない。国際連盟脱退の真相も知らず、八紘一宇の精神も不明のままだ。

 

 私自身は、一九四五年八月九日満州国北部三江省鶴立街から避難疎開を始めて、放浪の末、九月新京に辿り着き、翌年一月母と父を、相次いで共に病で失い、孤児となり妹弟を現地人に養子として渡し、自身も日本人に連れられて帰国した。

 

 歴史の教科書に自らの筆と墨で文字を塗り潰して、習っていた教科書の嘘を知った。そういう幼かった時代のことを創作のネタにはできない。涙なしに書くことはできないし、心が痛むからである。唯一エッセイ「少年の戦争」(奔流VOL22)の一作だけ残している。

 

「譲葉の顔」の作者は、一九六五年生まれという若さでありながら、自らの知らない時代、世界を描くことに挑戦した。試みとしては画期的である。それでありながら、読者の多くが熟知している被爆、空襲,津波を、登場人物の三田村と両親の似顔絵を依頼に来た兄妹の幼い頃の体験談で語らせて、それで読者に伝えようというのでは、創作としては甘すぎる。リアリテイが薄いし,メッセージ性に頼りすぎて作為ばかりとなりがちになる。実感とか体験の重みに欠けると言えようか。その上に作者の悪癖というべき、自己主張の強い悪文の多さが目につく。

 

テレビ画面で見た津波に、

 

「荒涼とした大地に残る生活の痕跡は、人々の胸裏にえも言われぬ無力感を生じさせた」

 

「数多く溢れる情報が、あらゆる媒体を通じて発信され、短時間のうちに、一緒くたになって私たちの意識に流れ込んで来た。認識し、思考し、取捨選択し、整理する暇もなく、ランダムに構成された画像の一群となって、その都度私の人生に刻み込まれていった」

 

 こういう悪文は私の心には響かない。その上に勝手な「絵画論」を押しつけてくる。死者が枕元に立つという主張も我論であろう。

 

 私には、絵画や文学、音楽など芸術の持つ創造と想像の二つの力が必要だと感覚的に見抜いている三田村の「妻論」など共感はしにくい。最後には「ヒロシマとフクシマは同じなんだ、フクシマの子供たちは私たちなのだ」と結論を押し付けてくる。

 

 会話による伝聞だけで物語を進めていき、己の主義の主張だけを綴るというのでは、それは文学以前のものとなってしまう。作者のさらなる真実への追求と学習を望みたい。

 

      

 

 

 

 

 

 「譲葉の顔」合評への追加意見

 

              泉   脩

 

 

 

 例会での合評で意見がまとまらず発言ができなかったので追加意見を書きます。

 

 私は一読して感銘を受けました。主人公の老画家と、彼に亡き両親の肖像画を依頼する老年の兄妹に、敗戦後に父を失った私が共感したのです。老画家は三月一〇日の大空襲で、兄妹は広島原爆で共に両親を失いました。私は戦後流行した天然痘で父を失いました。

 

 この偶然の一致が私の心を揺さぶりました。しかも写真を見ながらも、兄の語る父親の想い出を聞きながら、二人の両親の肖像を描くことに、私は教師としての自分を思い出しました。

 

 五六歳の時、私は私立高校の新一年生の担任になりました。同期採用で校長になったMさんに特に頼んだのです。

 

 三年間全力をつくし、卒業後に私も定年退職しようと決心したのです。自分のクラスが決まると、四〇人あまりの生徒を少しでも早く理解しようと考えました。入学志願票の写真を見ながら、名前をフルネームで覚えました。中学校からの内申書にも丹念に目を通しました。

 

 次に学級通信を四枚書きました。生徒全員の名前、出身中学、特技などを一枚にまとめました。次に私の自己紹介を詳しく書きました。どんな担任かは、生徒と保護者の最大の関心だと考えたからです。

 

 そして三・四枚目には担任としての私の方針を書きました。日刊の学級通信を発行すること、学級PTAをつくり、学級父母懇談会を行うこと……です。

 

 そしてクラスの目標として、欠席、遅刻、早退をしないことを掲げました。かつて、遅刻、怠学で欠課オーバー→留年→退学をたくさん出したことを反省したのです。

 

 この学級通信四枚を全家庭に送ると早速家庭訪問を始めました。まず私の家の近くから電話をかけて訪ね始めました。学級通信が着いたころなので、どの親も受け入れてくれました。

 

 どの家でも話がはずみました。母親と本人が中心でしたが、時には父親や祖父母にも会いました。こうして、入学式前に四分の一の家庭を訪ね、五月頃に全部終えました。地方からの生徒の親には入学式の後に残ってもらい、話し合いました。

 

 なぜこんなに急いだのか。それは親の話を聞いて生徒のイメージを作りたかったからです。入学式に生徒と初対面し、HRや授業で接していくのが普通ですが、これでは生徒を理解し働きかけるのが遅れるのです。平面的な理解から、立体的な理解にするには早い方がいいのです。

 

 これからの三年間は、やはり悪戦苦闘の連続でした。しかし以前とは違って、停学、怠学が出ず、いろいろな新しい取り組みができました。組合運動に二〇年も取り組んだため、教師としての成熟がおくれた私にとっては、貴重な体験をすることができました。

 

「譲葉の顔」の主人公が、依頼者に両親の思い出を話してもらいながら、両親のイメージを作り肖像を描いて行く方法は、かつての私の生徒のイメージ作りと同じでした。対象の内面的な心を知ることが、とても大切なのです。そのためには対話が必要なのです。コンピューターのデータではダメなのです。

 

 文学作品の理解は、作品への共感が土台になると思います。少しの共感もなければ、自分とは無縁の作品です。理解も評価もあきらめるしかありません。私はそのように考えて多くの文学作品に接してきました。

 

「自分の背丈に合わせて作品を切り取っている」と言われたことがありましたが、その通りでした。大切なことは多くの体験をして共感する力を増すことでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 「譲葉の顔」合評と自己反省

 

                豊村一矢

 

 

 

 六月号が届いてその日のうちに「譲葉の顔」を読んだ。一読してひどい小説だと思った。出だしの「つかみ」の部分、「三・一一」の書き方からして仰々しく陳腐な言葉が並ぶ。戦争体験としては広島原爆投下と三月十日の東京大空襲が書かれているが、借り物の言葉、どこかで見聞きした事の描写が並び、私は白けてしまった。

 

 例会合評当日、レポーターは、冒頭からこの作品を憤りながら厳しく批判した。批判の内容には同感できたが、冷静さを欠くほどの厳しさを感じて私は驚いた。「譲葉の顔」の作者は、レポーターのような戦争体験者に最も共感してほしいと願っていたのではないだろうか。

 

 私は討論で、分別臭く、「レポーターと同じに否定的な感想を持ったが、怒りを覚えるほどの反感ではなかった」と言い、「戦争体験者でなければ書けないとすれば、先の戦争を書く人はまもなくいなくなる」と当たり前の詰らないことを言った。

 

しかし一方で、分別臭いことを言いながらも、レポーターが、かつて『奔流』に発表した作品「少年の戦争」(満州からの引揚げ体験記)のことを考えていた。そしてそれは、レポーターが「譲葉の顔」で傷ついたのではないかとの思いに連動した。

 

私にとって「少年の戦争」の衝撃は大きい。当時、「少年の戦争」の外に、児童文学で付合いのあった人たちの引揚げ体験記を私家版でいくつか読んでいた。いずれも筆者が十歳前後の体験記で悲惨極まりなく、私は深く影響を受けた。以来、自身の創作テーマに『棄民』が根付いたくらいだ。

 

 民主文学会に加入した節目で、これからの創作の題材やテーマを絞った。「格差社会」、「アイヌ」など…そして「三・一一」も加わった。

 

実際、『北海道民主文学』や『奔流』に作品を書いたが、意気込んだわりには、今なお、道半ばである。

 

例えば「アイヌ」にしても、読者に、共感であれ反感であれ、響く作品が書けていないと思っている。アイヌが、取るに足らないと無視する、冷笑する、慢罵する……そんこともあり得るし、未熟さの結果だと受け入れなければ進歩はないとも思っていた。

 

今回の例会合評で、そのことを改めて感じた。

 

 

 

(補足)

 

この一文を書いたところで、恒例により、レポーターだった石川さんから本号トップの原稿が届きました。私の文とかぶるところがあって自分の文を載せるか、ボツにするか迷いました。  

 

結論は推敲せず載せることにしました。

 

 なお、本号の石川さんの原稿は「エッセイ『少年の戦争』」となっていますが、「奔流」二十二号では「自伝『少年の戦争』」です。

 

                                      

 

 

 

    224号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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   後藤守彦 

     ただ今翻訳に挑戦中

   

   泉  脩

     NHK大河ラマ

         動乱の世を生きた男たち①

   松木 新

     『稲の旋律』の面白さ

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談義④

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  223号 

 

 

 五月例会合評報告

 

             泉  

 

 

 

合評作品  田島 一『争議生活者』

 

(『民主文学』4・5月号)

 

 

 

  力作に感銘

 

 

 

 田島一『争議生活者』をめぐって、充実した討議が行われました。私のレポートの後、全員が発言しましたが、「読むのがつらかった」という感想は、内容の深刻さから出されたものでしょう。八年間も争議を続けて結局は職場復帰を実現できなかったのです。何人かの女性が「すらすらと読めた」と発言しましたが、この作品が主人公の家族の苦しみと協力を中心に書いているので、女性にはわかりやすかったのだと思います。

 

 大企業の理不尽な千四百人ものハケン切りに対し、十二人が組合に加入してたたかった物語の最終編なので、力のこもった力作であり、誰しも胸を打たれたようです。討論の中で、現在ますます広がっている非正規雇用の実態について多くの実例が出されました。病院・学校・郵便局など、驚くような話でした。安上がり、使い捨て、そして労働者分断の非正規雇用は、今や花盛りといった有様です。不況脱出とも、経営者(資本家)のあくなき利益追求ともいえるこの現象は、格差と貧困をますます増大させ、結婚難・少子化・犯罪増加を生み出し、日本の未来を危うくするものです。

 

 田島さんの『時の行路』から、この作品に至る、ハケン切りとの闘いの作品は、社会のカナリアとしての作家の役割を充分に果たしています。そして小林多喜二の後を継ぐ立派な業績と言えると思います。新しい参加者を迎えて意義のある例会でした。

 

 

 

 

 

 

 

小説の知恵大会発言に関連して 

 

            松木 

 

 

 

 二日間の大会は、出席代議員75名、委任状169名、合計244名(定数342名)で無事に成功しました。会長、副会長、事務局長、『民主文学』編集長は現体制でいくことになりました。カンパをありがとうございました。

 

馬場雅史さんの発言「支部はつらいよ」が大好評でデビュー戦は勝利でした。

 

 ぼくは「争議生活者」について発言しました。五味洋介がたたかいきれたのは、人間の尊厳をないがしろにする者たちへの怒りであること、人間の尊厳は「小説の精神」であることにも言及しました。

 

 この文章では、発言の根拠になっていることについて、まとめてみました。

 

 

 

不破哲三『文化と政治を結んで』に、「文学についての発言から」が収録されています。その中で、バルザックとトルストイ、ゴーリキーを例に、世界観とリアリズムの反映について論じています。

 

 マルクスやエンゲルスが、バルザックの作品に、「彼が生きた世界の『社会的存在』を正確かつ深刻に反映したリアリストとして、たいへん高い評価をあたえ」た、と紹介した後、エンゲルスのマーガレット・ハークネスへの手紙を論拠に、「エンゲルスが、バルザックがその芸術的活動において世界観に反して行動していたことを強調しているのは、たいへん重要だと思います。これは、現実の事情の深い把握を、自分の階級的心情に優先させた『偉大なリアリスト』にしてはじめてできたことでした」と、指摘しています。

 

 トルストイについては、レーニンの「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」などにもとづいて、「ロシアの生活の比類ない画像」(レーニン)という積極面を描いた作家だが、同時に、「トルストイ主義」という言葉に表現されているような「宗教的反動と結びついた否定面」もあったこと、これは当時のロシアの「農民の気分の表現」だというものです。

 

 トルストイ主義については、光文社古典新訳版『アンナ・カレーニナ』の訳者である望月哲男が、農民を理想化せず、労働を通した農民との共同体験に感動する地主貴族リョーヴィンを例にとりながら、「トルストイ主義は十九世紀後半のロシア社会が直面した諸矛盾の表現そのものであるというレーニンの表現(「ロシア革命の鏡としてのレフ・トルストイ」一九〇八年)が想起されますが、リョーヴィンを小説の動力としているのは、まさに簡単にイデオロギーに回収できない、矛盾を含んだ情動の主体としてのあり方でしょう」と述べていることも、参考になります。

 

 「バルザックは政治上正統王朝派的な見解にたちながら、未来をになう革命勢力についても、その世界観に逆らってしかるべくえがきだすことができましたが、トルストイは、その農民的世界観に支配されて、農奴制的圧迫や資本主義的搾取を糾弾する告発者としては『驚くべき力』(レーニン)を発揮し(略)、革命的闘争の問題については、『家父長制的な、素朴な農民にだけ特有の無理解』(レーニン)から最後までぬけだしえませんでした」といっています。

 

 不破さんは、この二つの例から、作家の世界観が「社会的存在」の「反映」の仕方をどのように制約するかは一様でないこと、「リアリズムと一口にいっても、バルザックの反映の仕方、トルストイの反映の仕方、それぞれ非常に個性的な独自のものがある」と述べています。

 

 ゴーリキーについては、レーニンがゴーリキーの政治的弱点を指摘したのは、「彼の芸術的活動への指導的助言としても、文学における反映論の問題としても非常に考えさせられる」と指摘しています。

 

「『社会的存在』を正確に認識し、作品に反映するということは、実にたいへんな仕事だということです。社会科学の理論がそのための重要な武器となることはいうまでもありませんが、この武器をもたないものは正確な反映はできないのかというと、ことはそんな単純なものではありません。 バルザックは、資本主義社会の経済学に通じていたわけではけっしてありませんでしたが、マルクスが『およそ現実の事情の深い把握によってきわだっている』と評した観察力で、科学的な武器の不足を補い、あれだけの仕事をした」のです。

 

 世界観と反映の関係は、作家それぞれにとって「個性的」で「独自」であり、「観察力」が大きな比重を占めていることが、この場合、大切な点だと思います。

 

 ところで、先日、大江健三郎の『人生の習慣』を再読していて、世界観と反映について、違った要素が存在することに気がつきました。それは、「小説の知恵」です。

 

大江はミラン・クンデラの「エルサレム講演―小説とヨーロッパ」(『小説の精神』所収)を論拠にして、次のように述べています。

 

 トルストイは、アンナ・カレーニナのように、姦通する人間はよくない、糾弾しなければいけないということを、道徳的に確信していた。レーニンが言うところの「家父長制的な、素朴な農民にだけ特有の無理解」からして当然の確信です。トルストイが「最初の草稿を書いたとき、アンナはきわめて反感をそそる女性でしたし、彼女の悲劇的な死は当然の報い」(クンデラ)でした。しかし小説の決定稿では、アンナ・カレーニナは本当に魅力的な女性に変身しています。

 

この変化に注目した大江は、トルストイには「道徳的な確信があるんだけれども、作家自身のそれをどんどん裏切っていって、非常に美しいものを作り出す力というものが、小説にあるんだと。それが小説の知恵だという。作家の知恵というよりは小説の知恵だとクンデラはいっているわけなんです」と、述べています。

 

 クンデラは、近代ヨーロッパの誕生と同時に小説が生まれた。あわせて、近代ヨーロッパを代表して「ヨーロッパ精神」が生まれた。それは、「寛容の精神」だと言っています。大江は、この「寛容の精神」を、「小説の知恵」と捉えているのです。

 

 大江が、近代ヨーロッパの誕生とともに生まれた小説は、「寛容の想像の王国」であり、「小説の想像の世界とは何かというと、個人が尊重される世界」だと断言しています。

 

 小説の世界=「個人が尊重される世界」では、「寛容の精神」が、そこに生きる人々の生活原理になっています。アンナ・カレーニナが、作者の道徳観に反して、魅力的な美しい女性として描かれる所以です。

 

 バルザックは、世界観に反しながらも、すぐれた観察力にもとづいて、現実を描き、トルストイは世界観にしばられて、その枠の中で現実を描きました。しかし、道徳観に反して「アンナ・カレーニナ」を書いたのは、「小説の知恵」によるためでした。

 

 世界観とリアリズムの反映の関係を考える場合に、小説に本来的に内在している「小説の知恵」についても、考慮しなければならないという気がするのです。

 

 参考までに、小説についての大江のコメントを紹介します。

 

 「ところが、よく考え抜いたことを書くというのは、つまり最初に最後までよくわかっていることを書くということは、小説を書く上ではあまりいい方法じゃない。小説というものは、頭で考えてもわからないような、本当の人間の不思議ということを書く。少なくともその方が小説としてうまくいくものです。いわゆる純文学の上等なものになる確率が高いといってもいい」

 

 

 

短篇小説について

 

 (大会で、宮本編集長が短篇小説について発言していました。その中で、引用されていた文章が参考になりましたので、紹介します。出典は、講談社文芸文庫編『戦後短篇小説再発見 4』「序」です)

 

 

 

 日本近代文学のなかで、短篇小説は特別な位置を保ってきた。それは短いだけの「小説」ということではなかった。人生を切り口鮮やかに一瞬のうちに示してみせる言葉の技術。一人の人間のその複雑な内的世界を丸ごと描いてみせる文章の技量。日本の短篇小説の作家たちは、人間や社会や歴史を、そのままの全体として描き出すのではなく、鏡に映った小さな宇宙として描き出したのである。

 

 しかし、それは単に小さなものへの偏愛や、短いものへの愛好だけではなかった。言葉の世界が持つ可能性としてのミクロコスモス、小さな言葉の奥にある無限大の広がりへの信頼が、短歌や俳句の文学的伝統を持つ日本の文学者(小説家)たちに、強固に保持されていたからである。

 

 

 

 

 

 

 

(第二七回大会感想)

 

新しい時代に向かう想像力のかたち

 

馬場雅史

 

レーニンが「ロシア語の純化について」を書いたのは百年前のことである。誤解を恐れずに言えば、レーニンの苛立ちに共感している自分を、ぼくは幾度か経験してきた。レーニンは、会議における発言や演説での半可通の誤った外来語の使用について「文筆家にはそれは許されない」とした。ぼくはもう少し曖昧な意味で、つまり、大会における発言での、意味のない繰り返し、発言時間の終了を告げるベルが鳴ってから延々と語ることを当然とする態度、あるいは、いかにも大家然とした発言を苦々しく感じたことがあったのである。

 

 初めて日本民主主義文学会の大会に参加した。大会期間中やはり何度か「ロシア語の純化について」を想起した。しかし、それはこれまでとは逆の意味においてである。大会で行われたあいさつ、報告、発言、特別決議それぞれが、文学を志し、言葉と格闘する人間の言葉だったのである。そして、それらの言葉は、幹事会報告が強調した「激動の時代にふさわしい言葉」に接近しようとする意志に満ちたものだった。このことが、大会に初めて参加してのまずもっての感想である。

 

 いくつかの論点について、深く考えさせられた。

 

 宮本阿伎さんは「短編小説の作り方を研究しよう」と呼びかけた。「日本文学のなかで、短編小説は特別な位置を保ってきた。それは短いだけの『小説』ということではなかった。人生を切り口鮮やかに一瞬のうちに示してみせる言葉の技術。一人の人間のその複雑な内的世界を丸ごと描いてみせる文章の技量。日本の短編小説の作家たちは、人間や社会の歴史を、そのまま全体として描き出すのではなく、鏡に映った小さな世界として描き出したのである。」「戦後短編小説再発見」(講談社文芸文庫)の「序」を引用しての呼びかけであった。ぼくは率直に不意を突かれた気がした。いつか長編小説を書いてみたい、小説を書き始めた時からそう思ってきた。だから短編小説はそのための習作だと考えてはいなかったか。あるいは連作の一部とだけ想定してはいなかったか。引用された言説は宮本さんの発言のすべてでも、結論でもない。幹事会報告にいう「民主主義文学の到達を踏まえて文学はどうあるべきかを問い、激動の時代にふさわしい言葉をどう生み出し、意欲的な創造、批評活動を繰り広げていく課題」の一環としての提起であった。プロレタリア文学以来の創作の鉱脈の中から、自らの短編小説観を見出し、創作を通して提起に応えたいと思った。

 

 大田努さんは、昨年五月に行われた「百合子の文学を語るつどい」での不破哲三さんの提起、つまり「時代を描く」ということの意味を問い、深化させた。不破哲三さんは講演の中で、松本清張の「プロレタリア文学は支配者階級を書かなかった」という批評を、「傾聴すべき言葉だ」と述べた。ぼくはこの提起を一般的にしか捉えていなかった。民主文学が総体として時代の全体像を描くことを課題にしているならば、支配者階級を描きうる誰かが書くことには意味がある。その程度にしか考えていなかった。しかし、太田努さんは、この提起が、幹事会報告もいう「新しい時代」に即応した提起であること、そして「支配者階級とは、我々の運動、認識に応じて見えてくるものである」とした。その瞬間、もはや、誰かの課題ではなくなった。ぼく自身にも課せられた課題であると思った。支配者階級を今すぐ書くことはできないにしても、それと政治的に対峙する市民を、自ら一人の市民としてどう描くかということに直結する課題だった。その発言の鋭さにぼくは身の引き締まる思いだった。「市民とは誰なのか、そしてそれはいかに形成されるのか」という自らの課題を、大田努さんの提起に応えて探求したい。

 

 しかし、もっと議論すべきではなかったかという論点もあった。それは「主題―モチーフ―題材」をめぐる論点である。この論点についての提起は、それぞれの概念の辞書的な意味を示し、それをもとにそれら概念の関係性を明らかにするという方法によってなされた。はたして、こうした形式的な整理でいいのかというのが、第一点である。さらに、幹事会報告では、この整理を「身の回りに材を得た作品」に限定して、「凡庸さ」から逃れる作法との関係で提起されている。こういう限定の必然性がどこにあるのか、わからないというのが第二点である。少なくとも、日本文学の作品群から内発的に生起する創造的概念として、捉えられるべきではないか。「社会主義リアリズム」を批判的に乗り越え「リアリズムの今日的探究」が課題となり、あらたな地平を切り拓こうとしている。こうした課題と統一的に捉える視点と方法が求められていると思う。

 

 大会の最後に、宮本阿伎さんは「寝食を忘れて書きましょう」と訴えた。一瞬、会場は共感的な笑いに包まれた。しかし、宮本さんの目は笑っていなかったし、大会参加者の目も笑っていなかった。ぼくだけ笑っていたことを次の瞬間、後悔した。そして心から書きたいと思った。そういう大会であった。

 

 いま、自分の部屋に戻って、大会を振り返っている。右側にある書架には、入会して以来二年分の「民主文学」が置いてある。これまでは活字でしかなかった背表紙の名前や作品名が、表情をもってぼくに語りかけてくる。それはやさしさや誠実さや、探究者としての厳しさという表情である。しかしそれだけではない。幹事会報告を媒介として、これら背表紙の奥に、「新しい時代に向かう想像力のかたち」を見せてくれている。そのことが、うれしい。

 

 

 

  

 

 

 

 

    223号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     音楽ミステリの愉楽(その2)

 

   村瀬 喜史 

    「恩田の人々」を読む

   

   泉  脩

     NHKテレビドラマで描かれた女性たち④

         女性は偉大なり

   松木 新

     「土人」の使用例

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ 床屋談議3

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  札幌民主文学通信

 

二〇一七年月一日  222号 

 

 

 

   四月例会合評報告

 

               松木 新

 

    

 

合評作品 『民主文学』4月号  

 

風見梢太郎「予感」 

 

 

 

【評価された点】

 

 筆力があり、密度の高い構成力が緊張感をはらんだ作品に仕上げている。

 

肉親ではない認知症患者の介護が、お互いの信頼を土台にして成立するという、介護への新しいアプローチだ。

 

 片倉の幻覚の内容が前向きなものとして描かれていることによって、彼がすばらしい活動家であったことがわかる仕組みはうまい。

 

【論議になった点】

 

 例会参加者の何人かが、レビー小体型認知症をふくめた患者とのつきあいがあったために、その体験の違いによって、この作品の理解の度合いに差が出た。「認知症」という単語自体への違和感もだされた。作中に使用されている「幻覚」は「幻視」の方が適切ではないかという指摘もあった。

 

裕造が片倉に批判されて、「私のせいだと思っているのが悲しかった」(76ページ)とか、「私は暗い気持ちになった」(80ぺーじ)と書かれているが、これは認知症患者と向き合う裕造の姿勢が不十分であることを示している。なぜなら、無条件に相手を受け入れることが、患者と向き合う場合の大前提だからだ。

 

「ピカソの絵」の描写については、評価が分かれた。なぜ、この場面に必要なのか、説得力に乏しいという評価にたいして、病んだ片倉の内面にある理解しがたいものの暗喩で、効果的だという意見がだされた。

 

タイトルの「予感」が何を意味するのかについては、いくつかの意見が出された。

 

  1. 片倉が死ぬのではないかという予感

  2. 認知症でさえ侵すことができない人間の尊厳と信頼にもとづく二人の関係のほころび、最期の嵐がそれを示唆している

  3. 裕造の妻の発言にあるように、片倉を施設に入所させなければならないのではないかという予感

  4. 裕造が、介護疲れで倒れるのではないかという不安

 

いずれにしてもタイトルの含意が鮮明でないということは、この作品のテーマの不明確さに通じている。少数ではあったが、これまでの風見作品の内では良いできではないという意見などとも、密接に関連していると思えた。

 

 

 

    222号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     加藤虎之助を知る

 

   大橋 あゆむ

     エッセイ  さりげなく

   

   泉  脩

     評論 

     田島一『争議生活者』 (「民主文学」4・5月号)

         ―ハケン切りとのたたかい

   松木 新

      「壁小説」の活用方法

    豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談義⓶

 

 

 

 

 

 

 札幌民主文学通信   二〇一七年月一日  221号 

 

 

 三月例会合評報告

 

                福山瑛子

 

 

 

合評作品  「民主文学」2月号

 

橘あおい「ミシンを踏む音」

 

        

 

 私は最初に作品のストーリーを紹介し、読後感として「最初に読んだ時、物足りなさと感じたが、二度、三度と読むうちに、構成や人物描写の的確さに感嘆した」と述べ、「作品分析と作品評価」として、次のように話した。

 

「書き出しがいい。内職でミシンを踏みジャケットを縫う母の姿が描かれ、家族構成(小四の遼子、印刷会社勤めの父、五歳年下の弟達也)が紹介される。一家は東京東部の二間の借家から埼玉県K市の一戸建ての家に引っ越したばかり。遼子と達也には二階の部屋が与えられている。転校後、口の重い遼子にはなかなか友だちができない。ある日、母はミシンを踏みながら、自分の子ども時代の話(五歳の時、父親が戦死し、母親が再婚。叔父夫婦の許に預けられ、叔父の子らと差別され続けた)をし、『父が戦争で死んだりしなければ……戦争さえなかったら』と話す。

 

級友の真由美の誕生会に招かれた遼子は、プレゼントを用意し、それに付けたカードに『また、一緒に遊ぼうね』と書き、『文字にすれば、思いを伝えられる』ことを知る。真由美が誕生会で遼子の服をけなし、友だちが嘲笑したため、腹痛がすると嘘をついて、直ぐに家に帰ると、母はミシンを踏んでいた」

 

 私は、この作品を作者の少女時代を描いたものと想定して読んだが、四年生の時「文字にすれば、思いを伝えられる」と悟ったことが、その後、作者を現在に至る作家へと導いたのだと思った。

 

橘さんの他の作品、「黒いぶち猫の絵」(五〇周年記念臨時増刊号所収)を読むと、主人公、佐山恭子が看護師として活躍しており、その姿に作者の成長ぶりを見た思いがし、現在、積極的に生きる作者が反映されていると思ったことも付け加えた。

 

 また、「民主文学」読者の友人に、メールでこの作品への感想を求めたところ、「テーマがはっきりしない作品でインパクトに欠け、批評する気になれない」と返信があったことを紹介した。

 

 合評の後、予定通り「差別用語」について、岩井さん、木村さん、豊村さん(いずれも文書を提出、豊村さんは欠席)の三人の意見を参考にして話し合った。

 

 

 

作品合評で出された主な意見

 

〇 いい小説だと思った。書き出しがいい。

 

〇 真由美が悪餓鬼に描かれてないか?

 

〇 書き出しが小説の手本みたいで素晴らしい。「日の丸弁当」が出てくるが、今の子どもには「梅干弁当」としないと、分からないのでは。インパクトが弱い面があるが、ブレないで的確に書いている、と思った。

 

〇 母からの昨年の誕生祝いのプレゼントの服を真由美の誕生会に着て行くが、成長している遼子にちいさくなっていないか?

 

〇 ミシンの音が、遼子に子守唄になっている。彼女にミシンの音が力を与えている。

 

〇 橘さんを大先生と思ったが、この作品を読み近づきになれそうに思った。

 

〇 九歳~十歳は敏感な年頃で大事な時期、育ち合うのがよく分かる。

 

  • 当時は激動の時期だった。戦争について、もっと書くべきだったのでは。

  • インパクトがない作品だと思った。作者はまだ新人の部類に属する作家だと思う。

     

     

     

    北海道研究集会実行委員会の報告

              (文責) 豊村一矢

     

    過日案内の通りに、三月一八日、北海道高等学校教職員センターにおいて北海道研究集会実行委員会を行いましたので報告します。参加者は、十勝支部二名、小樽支部二名、いぶりひだか支部三名、札幌支部三名でした。ほかに、個人ではありますが、メール等で実行委員会に連絡をくれた支部は函館支部、旭川支部です。

    これは、昨年、文学会の強い要請もあって開いた同趣旨の会議への参加の二倍の対応で、議題を消化するだけの消極的な会議を脱したした、充実の内容だったと思います。

    会議で確認されたことを中心に報告しますが、出された意見や議論の内容なども紹介します。

    説明ために会議の場では出されなかった資料的なものも加えます。そのため文責者豊村一矢で報告します。

     

     第二十二回北海道研究集会の予定

      日時 二〇一八年(平成三〇年)

           十月十三()・十四()

    会場 北海道青少年会館コンパス

              (札幌市)

     

     会場の「北海道青少年会館コンパス」は一年前でないと予約を受け付けません。予約受付開始日に必要施設が確保できた時点で正式決定することを確認しました。

     二日間日程・タイムテーブルは、二十一回の方法と主旨を基本に編成することを考えますが、参加予定者の希望や意見を聞いて変更・改善の工夫の努力を続けます。

     提案文書での開催日時の誤記について

     提案文書では開催日が十月十六・十七日になっていました。前記のように十三日()・十四日()が正しい日時でした。暦を見間違えるという単純ミスです。お詫びします。正しい日時については、「実行委員会ニュース」を全員に届け、周知します。

     

     北海道民主文学二十二号編集計画

      原稿〆切 二〇一八年七月十五日

          ・データ原稿で提出、厳守

      発行日  二〇一八年九月〇一日

      校正  ・著者校正を最低一回は行う。

    ・大幅改稿、文章入替・挿入は不可。

      作品掲載料・枚数制限等の規定は二十一   

      号の基準を堅持の予定

     

      要望意見について

     

    要望意見➀ 札幌開催の恒常化を決めたのか。他の地域での開催も追及してほしい。それを札幌支部が支援して欲しい。

    要望意見②分科会に分かれていて他分科会の作品検討には参加できない仕組みになっている。全体で作品検討、創作研究を取り組む場・時間が欲しい。

     

     要望意見をどう取り入れるか

     二〇一四年の二十回研究集会(札幌)は最後の支部輪番制で企画運営された集会でした。次期集会の当番支部を確定できなかったからです。順番になっていた支部にその体制が整っていなかったのが理由です。

    次期集会の企画推進母体が確定できなければ札幌支部の任務完了という訳にはいかず、札幌支部の声掛けで文学会組織部地方担当部員が中核となって検討を重ね、今日の実行委員会方式、作品集発行、研究集会のタイムテーブルの基本形を練り上げてきました。

    それは、➀衰退著しい支部がある、②「作品を書く、作品集に載る、集会で合評して貰う」ことが文学会での活動の拠り所になっている、という北海道民主文学の際立った特徴を踏まえてのことでした。

    この骨格を基本しながら、要望意見も含め様々な声を反映させていくのを基本姿勢にしなければならないと思いました。

     

 

     221号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

   (投稿作品には左「札幌民主文学会」下の筆者名をクリックしてお入りください

 

    後藤 守彦

     二人の宗教者が語ったこと

 

   大橋 あゆむ

     意外なものみーつけた

   

   泉  脩

     1. NHKドラマで描かれた女性たち③

           「あさがきた」

     2. 浜比寸志「彼岸花」

           ―悪性リンパ腫とたたかいながら

   生駒多津子

      錦木(にしきぎ)伝説

 

   松木 新

      『騎士団長殺し』余話

 

   豊村 一矢

      連続エッセイ  床屋談議➀

 

 

 

 

 

 

 

 

   札幌民主文学通信  二〇一七年月一日  220号 

 

 

 

 「合評を受けて特集

                   その4)

 

 

  合評の力    菊地大

 

合評の中で、「主任闘争って何だか分からない」という人が何人か居て、「はっ!」と思った。文学は特定の人を対象に書くものではない、勿論、自分のために書くものでもない、という当たり前のことを……。そして、「主任闘争とは一体なんだったんだ」と、改めて考えた。

 ぼくが小説を書き始めたときに、ある先輩が次の言葉で励ましてくれた。

 

「小説はモチーフの重さ深さで、その達成の高さが決定する。書こうとする素材及び主題への繰り返しての反芻と検討の中に、作品を高いレベルに引きあげる力がある。その繰り返しの精神作業の中に、モチーフが鍛えられ、テーマが明確になっていく。創作は「完」と書いて、いくら(なんぼ)の世界である。未完は無であり、完は存在である。書き始めたら終わらせること。その文学世界を完結させることが大切である。そして、最後の詰めの努力を忘れない。一字一句、ゆるがせにしない推敲の努力が大切である。平瀬誠一」

 

あの日、帰りの電車の中であれこれ考えているうちに、それを思い出した。ぼくは先輩のその手紙を、目の前の机の上に張ってある。家に着くなり、コートも脱がずにそれを見た。何時も見ているのだが、改めて「そうだ」と思ったが、ひとつの作品を十数年も完結できずにいる俺に、小説を書く資格があるのかとも考えた。

 

 

 

「主任闘争」は、単に手当てを貰うか貰わないかという組合の闘争戦術の問題ではなく、教育のあり方、教職員組合運動の存在意義を問われる闘いだった。毎日毎日がドラマだった。そこで多くの教師達は成長した。それは、教育運動史として残しておくという整理の仕方ではなく、これからも続くであろう教師のたたかいは、小説という手段で残すのが最も適切だと考えた。それに揺るぎがないかと、例会は考えさせてくれた。

 

やっぱり、ひとりで考えていてはだめだ。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

八〇年代初頭、主任制度化撤廃を目指して闘う日教組と文部省の間で板挟みになり自死した校長と、日教組の人権侵害に苦悩する教師が描かれる。「教師にとって大事なことは子どもと学び合う喜びを共有すること」という言葉が胸を打つ。作品の感性が待ち望まれる。

 

 

 

 

 

 

 

 言い残したことなど

 

               浅野勝圀

 

 

 

 今回取り上げられた作品のうち、菊地さん・松木さんのものは初読時からぼくに深い感銘を残していました。

 

 「ある校長の死」については、その内容を多少は伝えられたように思いますが、「ジャッカ・ドフニ」の方はかなり不充分だったと思い返しています。

 

 映画「沈黙」に描かれた凄まじいキリシタン迫害シーンに、松木さんの紹介する同じ場面がそっくりオーバーラップしたこと、「ジャッカ・ドフニ」の結びに重ねて「ぼくらの課題」を提示する結論の一文に、ほとんど美しいと形容したいほどの感銘を受けたことなどは、きちんと伝えるべきでした。

 

 

 

 さて、自分の作品のことですが、前号二〇号の合評で、「作品紹介をもっと丁寧に、わかりやすく」「第二弾を書け」(青木陽子)、「もういっぺん書け」(浜比寸志)などと指摘されたことが、今回の執筆にあたって大きな推進力になっていたと思います。

 

 今回の合評では、好意的・肯定的な指摘として、次の3点が印象に残りました。

 

 1.「ケストナーはよく知らなかったので、おもしろかった」「はじめてケストナーを読んだ。いい作品だ」「ワーズワースの(おさな子は大人の父だ)を印象深く読んだ」など、作品や作者への興味、共感を寄せる指摘。

 

 2.「自分史の部分がおもしろかった」「発想の根がわかった」など、執筆の動機にかかわる指摘。

 

 3.「小説的評論。精神の発展を跡づけながらおもしろかった」「子どもの可能性を肯定している」「読みやすかった」など、全体についての指摘。

 

ほめられるのはうれしいのですが、それは不安や居心地の悪さとも背中合わせになっています。

 

「むずかしい。こういう文章はすごく苦手」という、頂門の一針と言うべき指摘がありました。

 

当日も話しましたが、ぼくは自分の書くものが私性(わたくし・せい)を深めていることを自覚し、これが評論と言えるだろうかと自問自答を繰り返しています。しかしこんなものしか書けない、こんな書き方しかできない自分を肯定し、自分史や創作(物語)との隙間(虚実皮膜の間?)を進んでみたいと思います。

 

合評に参加された皆さんの率直な指摘にあらためて感謝します。

 

ありがとうございました。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 作者が敗戦後の歴史の転換期に読んだケストナー「飛ぶ教室」を紐解く。ナチスに反対の立場を表明していたケストナーが同時代へのメッセージをこめて書き上げた作品。作品によって閉ざされた感性が開放されていくのか。ぜひ、「飛ぶ教室」を読んでみたい。

 

 

 

 

 

 

 

合評を受けて   

 

松木 新

 

 

 

津島佑子は好きな作家の一人です。今度の『ジャッカ・ドフニ』を読んで、一番関心を持ったのが、作中で使用されているユーカラでした。出典さがしに随分と時間がかかった気がします。すべてのユーカラの出典が明らかになり、その意味が明解になった段階で、正直、もう終ったという気分でした。そのために、作品全体の構造分析は後回しになったようです。馬場さんから、「母語の身体性」について論及することの必要性を指摘されましたが、納得のいくものでした。

 

例会の翌日、今月の『新潮』に掲載されている、野田秀樹「足跡姫 時代錯誤冬幽霊(ときあやまってふゆのゆうれい)」を読みました。十八代目中村勘三郎へ捧げるオマージュです。この中に、「母語の身体性」に関わる箇所があり、とても興味深いものでした。出雲阿国とその弟サルワカとの対話です。

 

サルワカ 母の音は、最後になんて言った?

 

出雲阿国 い、い、あ、い。

 

サルワカ い、い、あ、い?

 

出雲阿国 その母の音は子供の耳に入ると、子供の音、子音になって聞こえた。

 

サルワカ 姉さんの耳には、母の音は、どんな子供の音になって聞こえたんだ?

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は、『死、に、た、い』そう聞こえた。幽霊病になって声を失くした踊り子の最後の音だよ。

 

  (略)

 

サルワカ 僕の耳には、その母の音は、こんな子供の音になって聞こえる。

 

出雲阿国 『い、い、あ、い』は?

 

サルワカ 『生、き、た、い』さ。

 

出雲阿国 え?

 

サルワカ 生、き、た、い。

 

出雲阿国 そうか。「死、に、た、い」も「生、き、た、い」もどちらも「い、い、あ、い」だ。だから姉さんは、あんたが好きだよ。ずっとずっとつらく思っていた、母さんが『死にたい』と思って死んでいったんじゃないか、私は何もしてあげることができなかったのじゃないか。でも違うのね、『生きたい』って言ったんだ。

 

サルワカ それも姉ちゃん、ただ生きていたいの『生きたい』じゃない、お城に『行きたい』だったかもしれない。

 

  註1 河原ものとさげすまれていた出雲の阿国の母は、城に行き、殿様の前で踊るのが夢だった。

 

註2 キャストに、出雲阿国:宮沢りえ、サルワカ:妻夫木聡で、東京芸術劇場で上演中)

 

映画「中村勘三郎」で、「型破り」と「形なし」について語っていたことが、今でも思い出されます。歌舞伎では徹底した修業によって基本の型を修得し守っていくことが基本になります。その基礎の上に独創性が加味されたときが「型破り」で、基礎ができていない人間がそれをやると「形無し」になる、というものでした。文学の世界にも通用するような気がしています。

 

 

 

 〈橘あおいさんから〉

 

 津島が『ジャッカ・ドニフ』の作品を通して、読者に訴えたかったテーマがあらすじと共にわかりやすく提示されている。「死者との共生」、アイヌとキリスト殉教者を重ねて「差別に抗する」姿を描いた。残念ながらまだ読んではいないが、奥深いテーマに挑んだ作品だとわかる。

 

 

 220号の「投稿欄」の執筆者とタイトル

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    後藤 守彦

     いつまでも中島みゆき

 

   大橋 あゆむ

     小銭持ち

   

   泉  脩

     1. NHKドラマで描かれた女性たち⓶

           「八重の桜」

     2. にしうら妙子「淡雪の解ける頃」

           抒情性と強い意志

 

    福山 瑛子

      童話作家の本で米軍下の沖縄の実態を知る

       

      

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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